越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎の略譜 【25】

2012-09-29 17:52:00 | 上杉輝虎の年代記

永禄7年(1564)11月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼) 【35歳】

尾州織田信長(尾張守)の申し入れにより、盟約を結んで連携関係を進展させると、7日、織田信長から、取次の直江大和守政綱(大身の旗本衆。越後国山東(西古志)郡の与板城主)へ宛てて返書が発せられ、このたび使者をもって連携を申し入れたところ、とりもなおさず御同意してもらえたばかりか、様々な御厚情をかけてもらったおかげで、すこぶる本懐を遂げられたこと、従って、大鷹を五連も贈ってもらったこと、未だかつてないほどに過分極まりないこと、格別に(鷹を)こよなく寵愛していること、以上の趣旨の御取り成しを願うところであること、これらを恐れ謹んで伝えられている。さらに別紙の追伸として、もとより御誓談の条々については、感謝にたえないこと、取り分け 御養子として愚息を迎え入れてもらえるのは、誠にこのうえない栄誉であること、通過国との調整が付いたならば、いつでも送り出すこと、今後とも 御指南にあずかり、ますます連携を図っていきたいこと、以上の趣旨を御披露してもらえれば、本望であること、これらを恐れ謹んでを伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』441号「直江大和守殿」宛織田「信長」書状、442号「直江大和守殿」宛織田「信長」書状 封紙ウハ書「直江大和守殿 信長」)。

結局のところ、この養子縁組は実現しなかった。


この年の7月に没落した太田三楽斎道誉(俗名は資正)が味方中の宇都宮弥三郎広綱(下野国宇都宮城主)の許へ身を寄せていることから、その在所へ使者を派遣すると、27日、太田美濃入道道誉から、取次の河田豊前守長親(「河田豊前守殿(大身の旗本衆。上野国沼田城代)」)へ宛てて返書が発せられ、御書札を拝読したこと、仰せの通り、思い掛けない境遇によって、今は宮(宇都宮城)に滞在していること、これにより、御両使を寄越されて一々を尋ねて下さり、誠に過分の極みであること、一、賄い料として黄金百両を供与されたので、ひたすら恐悦していること、一、こうした境遇ならびに愚息の源太(梶原政景)の思い掛けない事情によって当口へ罷り移った意趣と、御味方中の様子を、先頃に両使に託した書付を進上させてもらったところ、御返書がこなかったこと、どうにも不安を感じていたこと、一、これまでに拙夫(太田道誉)が励んできた忠功を忘れずに評価されているそうであり、誠に過分の極みであること、こうなったからには、源太(梶原政景)を御引き立て願いたいこと、某(太田道誉)については、老齢であり、閑居の身になるほかないと決意していること、詳細は河田豊前守方(実名は長親)が申し上げられること、以上の趣旨を御披露に預かりたいこと、これらを恐れ謹んで伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』442号「河田豊前守殿」宛「太田美濃入道 道誉」書状)。

28日、梶原源太政景から、越府の年寄中へ宛てて返書が発せられ、御貴札を拝読し、恐れ多い思いであること、思いも寄らない巡り合わせにより、当口(宇都宮)へ移らされた事情について、使者をもって申し達したところ、御返札はこなかったので、心許ない思いをしていたところ、このたび御両使をもって一々を仰せ越せられたので、面目も冥利も尽くされたので、恐悦の極みであること、取り分け青大鷹一連を贈ってもらったこと、その御厚情は計り知れないこと、なお、詳述は御両使に頼んだので、書面を略したこと、これらを恐れ謹んで伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』444号「越府 人々御中」宛「梶原源太 政景」書状写)。

※ 2013年に発刊された黒田基樹氏の編著である『岩付太田氏 論集戦国大名と国衆12』(岩田書院)の「総論 岩付太田氏の系譜と動向」によると、この太田道誉・梶原政景それぞれの書状は永禄8年の発給文書である可能性が高いとされている。永禄7年7月23日に太田美濃守資正と次男の梶原源太政景は、相州北条家に内通した資正嫡男の太田源五郎氏資によって岩付城から追放されると、娘婿である武州忍の成田左衛門次郎氏長を頼り、岩付城奪還の機会を窺った。翌8年5月には、上州新田の横瀬雅楽助成繁の支援と岩付城衆に内応者を得て、岩付近郊の渋江宿まで迫ったが、内応者の一部が裏切り、作戦は失敗に終わってしまい、太田下野守・小宮山某をはじめとする城を出た内応者たちを引き連れて忍城へ後退すると、下総国栗橋の野田右馬助景範の許へと逃れ、9月には成田氏や上州館林の足利長尾但馬守景長の許を転々としたのち、冬には下野国宇都宮の宇都宮弥三郎広綱を許へ身を寄せた。そしてついには、永禄9年2月に常州太田の佐竹次郎義重の許に落ち着いた、という流れが考えられるとのこと。



永禄7年(1564)12月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼) 【35歳】

19日、越後奥郡国衆の色部修理進勝長(越後国瀬波(岩船)郡の平林城主)の嫡男である色部弥三郎顕長に一字状を与え、山内上杉家に縁のある「顕」(初代の上杉憲顕に由来する)の一字を付与して顕長と名乗らせた(『上越市史 上杉氏文書集一』445号「色部弥三郎殿」宛上杉「輝虎」名字書出【花押a3型とe1型が合わさったもの】)。


この夏から秋にかけて飛州姉小路三木良頼(中納言)に反抗するも、輝虎の支援を受けた良頼とその支持者である江馬四郎輝盛に敗れ、輝虎に誓詞を差し出して恭順した江馬左馬助時盛の許へ使者の草間出羽守(旗本衆。信濃衆高梨氏の旧臣)を派遣し、改めて誓約の趣旨を示すと、23日、江馬時盛から、山内(越後国)上杉家の年寄中へ宛てて返書が発せられ、貴札を拝読し、本懐極まりないこと、仰せの通り、去秋に誓詞をもって恭順を申し入れたのに伴い、ただ今、御使者に預かり、分けても黒毛馬を贈ってもらったこと、ひたすら恐悦していること、従って、仰せを受けた条々の旨に、いささかも異心のないこと、その趣旨に従って血判起請文を差し出すこと、今後は格別な御厚誼を結んでもらえれば、満足であること、なお、草間出羽守が帰路の折、申し上げてくれるので、要略したこと、これらを恐れ畏んで伝えられている(『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』446号「山内殿 人々御中 貴報」宛江馬「時盛」書状写)。



永禄8年(1565)正月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼) 【36歳】

28日、関東味方中の富岡主税助(上野国小泉城主)へ宛てて返書を発し、新年の祝儀として太刀一腰と鳥目(銭)百疋を到来し、稀有にめでたく快悦の至りであること、これらを謹んで伝えた。さらに追伸として、判形(花押型)を変更することと、今後はこれ以外は用いないので、不審に思わないでほしいことを伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』378号「富岡主税助殿」宛上杉「輝虎」書状【花押e2とあるがe1の誤記である】)。


※『上越市史』などは378号文書を永禄7年に仮定しているが、黒田基樹氏の論集である『戦国大名と外様国衆』(文献出版)の「第十章 富岡氏の研究」に従い、永禄8年の発給文書として引用した。



永禄8年(1565)2月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼) 【36歳】

18日、関東味方中の酒井中務丞胤治(上総国衆の土気酒井氏。上総国土気城主)から、取次の河田長親へ宛てて返書が発せられ、旧冬は北村内記助をもって当国の状況を申し上げたところ、御丁寧に御披露してもらえたので、ひたすら恐悦していること、去る12日に氏政(相州北条氏政)が当城(土気城)に攻め寄せてきたこと、先陣として宿城に攻め込んできた臼井衆(相州北条氏に他国衆として属する上総国臼井城主の原胤貞)の原弥太郎・渡辺孫八郎・大網半九郎・大厩藤太郎・鈴木など五十余名を討ち取ったこと、翌13日には東金衆(相州北条氏に他国衆として属する上総国東金城主の酒井左衛門尉政辰。土気酒井氏とは同根である)が金谷口から攻め掛けてきたので、愚息の左衛門次郎(政茂)が人衆を引き連れて迎え撃ち、河嶋新左衛門尉・市藤弥八郎・早野某・宮田など百余名を討ち取ったこと、同日に善勝寺口においても打って出て十余名を討ち取ったこと、連戦連勝していること、御安心してもらいたいこと、こうしたなかで取り分け、房州(里見家)は御手並みが難儀であるゆえに、当城へ一騎の援軍も寄越さないこと、拙者(酒井胤治)の敗亡は義堯(岱叟院正五)・義広(里見太郎義弘)の御進退に直結すること、爰元(土気城)は長期戦の様相を呈しており、一刻も早く当方面へ御進発されるように、(輝虎へ)御進言してもらいたいこと、これまで我等(酒井胤治)は氏康・氏政父子の許で、ひたむきに奮闘を続け、永禄3年の御越山(関東遠征)による氏康・氏政父子の苦境に際しても、両総で忠信を励んだにもかかわらず、昨年における国府台(下総国葛飾郡)合戦の間際、不忠の人物に肩入れし、忠信者の某(酒井胤治)を蔑ろにしたのは、全く我慢がならなかったので、彼の興亡の一戦を前に相州北条陣営から離脱して引き籠ったこと、房州の一味である太美(太田資正)が国府台合戦で滅亡の危機にさらされたのを助けて岩付(武蔵国埼玉郡の岩付城)へ送り届けた事実でも分かるように、たとえ関東中の諸士が氏康・氏政父子に降っても、拙者(酒井胤治)だけは義堯父子(里見義堯・義弘)の前衛を務める決意を、弓矢と護国の神名に掛けて誓うこと、我等家中(土気酒井氏)は、氏康父子の傘下に入るまで、十年以上も大乱の渦中にあったがゆえに疲弊困憊しており、(輝虎においては)早々に金(下総国葛飾郡風早荘の小金城)へ御馬を寄せられ、相州北条方の圧迫を取り払ってもらいたく、頼み入るばかりであること、貴面(河田長親)をもって万事を承るのを念願していること、これらを恐れ謹んで伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』451号「河田殿 参御宿所」宛「酒井中務丞胤治」書状)。

23日、関東味方中の横瀬雅楽助成繁(上野国金山城主)が上野国堀口(那波郡)へ出陣し、同国三宮(群馬郡)に布陣して惣社城を窺う甲州武田軍を牽制している(『群馬県史 資料編5』)。


本来であれば、この上旬に越前国朝倉義景(左衛門督)との盟約に基づいて加賀国へ出馬するはずであったが、関東味方中からの出馬要請が相次ぎ、やむを得ず関東出馬に予定を変更し、24日に出府することを決めた。

24日、関東味方中の成田左衛門次郎氏長(武蔵国衆。武蔵忍城主)や小山下野守高朝(号明察。下野国衆。下野国榎本城主)へ宛てた書状を使者の山岸隼人佑(実名は光重か。譜代衆)と草間出羽守(旗本衆)に託し、取り急ぎ両使をもって申し届けること、繰り返し伝わっているであろうこと、越前国(朝倉家)とは長年にわたって連携を図ってきた間柄であり、昨年に否応なく当方(越後国上杉家)まで証人を寄越されたこと、朝倉左衛門督(実名は義景)は賀州へ出張すると、すでに輝虎自身が出馬してくるのを今か今かと心待ちにされていたこと、盟約の成り行き上、やむを得ないので、国境の積雪といい、その国(加賀国)の寒風の季節といい、ようやく時宜を得たので、今月上旬に賀州へ向かって進発する計画であったところ、早々に武・上(武蔵国・上野国)戦線の防備に手立てを講じるべきとの緊急要請が方々から寄せられたので、これまで積み重ねてきた功績を捨て去るわけにはいかないので、北陸の万事をなげうち、関東越山する結論に達したこと、今24日に出府するので、ここまできたからには、こちらが越山以前に厩橋(上野国群馬郡)の地へ速やかに着陣され、結束して戦略を練り上げ、関東平定の達成に専心するべきこと、それぞれが長年の遺恨などを持ち出したりすれば、御着陣が遅れてしまうこと、これまでの御忠信を貶めてはつまらないこと、委細は山岸隼人佑・草間出羽守が口上すること、これらを恐れ謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』452号「成田左衛門次郎殿」宛上杉「輝虎」書状写、453号「小山下野守殿」宛上杉「輝虎」書状写)。



この間、甲州武田信玄(徳栄軒)は、7日、上野国へ出陣するにあたり、信濃国諏訪上宮大明神と同新海大明神に願文を納め、十日を経ずしての上野国箕輪城(群馬郡)の攻略と、同じく惣社(同)・白井(同)・嶽山(吾妻郡)・尻高(群馬郡)の四ヶ所の制圧を希求している(『戦国遺文 武田氏編二』928号 武田信玄願文、929号 武田信玄願文写)。

それから間もなく出陣した甲州武田軍は、上州北部を脅かしたあと、20日前後に三宮(群馬郡)へ布陣して惣社城に圧力を加えている。

25日、三宮陣を引き払って惣社口へと進んだが、末日の前後には引き上げている。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』
◆『戦国遺文 武田氏編 第二巻』
◆『群馬県史 資料編5 中世一』【記録】長楽寺永禄日記

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越後国上杉輝虎の略譜 【24】

2012-09-26 19:18:52 | 上杉輝虎の年代記

永禄7年(1564)9月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼) 【35歳】

信濃国川中嶋陣(更級郡)から後退して同飯山(水内郡)の地に本陣を移すと、5日、前線の陣城で甲州武田軍の動向を注視させている旗本衆の堀江駿河守(実名は宗親か)と岩船藤左衛門尉(実名は忠秀か)から脚力をもって、二度目の状況報告を受けると、本陣に詰める直江大和守政綱(大身の旗本衆)が、堀江駿河守・岩船藤左衛門尉へ宛てて返書を発し、このたび目付を駆使されて入手した情報を、またもや御注進に及ばれたので、こうして返事を申し上げること、なおいっそう御油断なく目付を駆使して敵筋の様子を探られ、その変化を逃さず御報告されるべきこと、また、彼の脚力の口才によれば、その地の総勢をもって、敵軍の前線拠点である小玉坂(水内郡太田荘)に攻撃を繰り返しているそうであるが、万が一にも敵軍の反撃によって陣城が突破された場合、御当陣(輝虎の本陣)まで危険に曝されるため、連日の総勢をもっての攻撃を止め、目付嚊(忍衆か)を初更に展開し、戦機を見極めた上での大規模な夜襲に戦術を変更されるべきこと、その際には、陣城の防備を十分に固め、足軽部隊のみで夜襲を仕掛けられるべきこと、敵軍がもととり山(髻山。水内郡若槻荘)に小旗五本の小部隊を派遣し、哨戒活動を繰り返している事実については、その実態の把握に努められ、監視の目をかいくぐって物見衆を旭山口(水内郡)へ潜行させ、晴信(甲州武田信玄)の本営を探り出されるべきこと、その物見が帰還したあかつきには、爰元(飯山陣)へ寄越して直に御報告すれば、御感心されるは間違いないとの仰せであること、これらを恐れ謹んで伝えている。さらに追伸として、堀駿(堀江駿河守)へ申すこと、昼夜を分かたぬ辛労をかけてしまっているとの仰せであること、ますます御奮励されるのが肝心であること、以上を取り立てて伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』433号「堀駿・岩藤 御報」宛「直大 政綱」書状写)。

6日、関東味方中の足利(館林)長尾但馬守景長(上野国館林城主)から、取次の河田豊前守長親(大身の旗本衆。同沼田城代)へ宛てて返書が発せられ、取り急ぎ申し上げること、もとより信州へ御進発されて以来、御勝利を挙げ続けているとの知らせが届き、めでたく意義深いこと、このたびの戦陣で御本意を遂げられるのは間違いないであろうこと、其国(越後国上杉家)の戦略の御一環として北条丹後守(実名は高広。譜代衆。同厩橋城代)が西上州へ出向かれるのに伴い、愚拙(長尾景長)も出陣して奮闘するつもりで準備を整えていたところ、にわかに東口(東関東)の情勢が悪化したので、自身は出陣を見合わせ、同名(長尾)隼人佑・大屋右馬允を陣代に定め、自分が率いるはずであった軍勢を任せて参陣させたこと、そうしたところに、突如として氏康(相州北条軍)が関宿(下総国葛飾郡下河辺荘)に攻め寄せると、関宿の城衆に内通者が出て城内に火を放つも、兼ねてより警戒を強めていた城主の簗田中務太輔(実名は晴助)は騒ぎを鎮めて要害を堅守したばかりか、攻城軍を迎撃して数多の将兵を討ち取られたこと、氏康は関宿からの撤退を余儀なくされると、今度は成田筋(武蔵国衆の成田氏領))へ鉾先を変え、昨日からは忍と久下の間の清水(いずれも埼西郡)に陣取ったこと、これについて、別働隊を彼の地へ向かわせる一方、(長尾景長)自身は南河辺(武・総国境付近あるいは埼玉郡南河原のことか)へ軍勢を出して、繰り返し牽制を試みていること、こちらの状況の全てを詳しく丹後守(北条高広)が御注進したこと、以上の趣旨をよろしく御披露してもらいたいこと、これらを恐れ謹んで伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』434号「河田豊前守殿」宛「長尾但馬守景長」書状)。


この間、甲州武田信玄は、西上野先方衆の岩下斎藤弥三郎(上野国岩下城主)へ宛てて書状を発し、わざわざ飛脚を寄越され、めでたく喜ばしいこと、来意の通り、越後衆が当国(信濃国)まで出張してきたので、去年の仕返しのために戦陣を催したのであろうから、まっしぐらに攻め掛けてくるものと思っていたところ、信玄自身が小諸(佐久郡)へ移陣し、先衆(前衛軍)は岡村(小県郡)へと着城させると、こちらの小旗などを視認した越後衆は後退して犀川を渡り、翌日には小荷駄の過半を捨てて逃げ去ったので、大望を達したこと、しかしながら、一戦を遂げられなかったのは無念であること、よって、沼田(上野国沼田城衆)の計略に乗り、その(斎藤)家中のうちで数人が敵に内通し、陰謀を画策しているとの噂が事実であれば、直ちに処断するべきこと、なお、帰府した折に音信を期すること、これらを恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文 武田氏編二』 912号「斎藤弥三郎殿」宛武田「信玄」書状写)。


※ この文書の日付は朔日であるが、『戦国遺文 武田氏編二』では11日の可能性が示されている。



永禄7年(1564)10月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼) 【35歳】

朔日、信濃国飯山城(水内郡)の改修を終えて帰国の途に就いた。

2日、前線の陣城に残る堀江駿河守・岩船藤左衛門尉へ宛てて書状を発し、飯山城の改修を完了させたので、昨日、馬を納めこと、これについて、敵陣(甲州武田軍)の動向が気掛かりなので、速やかに目付を遣わして張り付かせ、敵はこのまま退陣するのか、それとも犀川を越えて中野(信濃国高井郡)辺りまで押し下ってくるのか、その見極めが付いたら詳細を注進するべきこと、これらを謹んで伝えた。さらに追伸として、目付からの情報を確認次第、岩船が帰府して報告するように指示を加えた(『上越市史 上杉氏文書集一』436号「堀江駿河守殿・岩船藤左衛門尉殿」宛上杉「輝虎」書状写)。

4日、飛騨国の味方中である江馬四郎輝盛(飛州姉小路三木良頼の重臣。飛騨国高原諏訪城主)の側近を務める河上式部丞へ宛てて初信となる書状を発し、このたび(江馬)輝盛から書中ならびに祝儀として太刀一腰と鉄砲一挺を贈られたこと、めでたく喜ばしいこと、今後ますます厚誼を深めたいとの申し出にも、ひたすら歓喜していること、何かにつけ其方(河上式部丞)を通じるので、そのつど取り成しに奔走してほしいこと、とにかくこちらから申し遣わすこと、また、(江馬家中衆が)其許(江馬家)にあっても当方に忠信を励むとの意思を示したので、こうして家中衆へはじめて一翰に及んだわけであり、その趣旨をしっかりと心得てほしいこと、これらを恐れ謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』437号「河上式部少輔(ママ)殿」宛上杉「輝虎」書状写)。

これから間もなく、関東へ出馬しようとしたが、従軍将兵の参集が芳しくないために遅延していたところ、甲州武田軍が上野国西郡へ進陣したとの情報に接し、やむを得ずに手元の将兵を率いて出馬し、半途(越後国魚沼郡上田荘)まで進んだところ、程なく武田軍は帰陣してしまったので、その場で人馬を休める。

14日、江馬四郎輝盛の重臣である河上左衛門尉へ宛てて自筆の初信となる書状を発し、これまで書通に及んでいなかったところ、其元(河上左衛門尉)が当方(越後国上杉家」のために奔走してくれるそうなので、一筆申し上げること、ますます(江馬)輝盛と厚誼を深められるように、色々と適切に口添えしてくれれば、めでたく喜ばしいこと、なお、詳細は河上式部丞が演説するべきこと、これらを恐れ謹んで伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』438号「河上左衛門尉殿」宛上杉「輝虎」書状写)。

16日、関東味方中の富岡主税助(上野国小泉城主)へ宛てた自筆の書状を飛脚に託し、当秋に先年のような大規模の戦陣を催すため、力を尽くして準備を急ぐも、爰元(輝虎の許)に軍勢が集まらないので、もたついていたところ、晴信(甲州武田信玄)が上州へ出張したとの急報に接し、あらかじめ申し遣わしていた通り、このたびこそ(武田信玄と)決着をつける覚悟であったので、取る物も取り敢えず出馬して半途まで進むも、程なく凶徒は退散してしまったこと、方々からも同様の情報が寄せられたので、さしあたって人馬を休息させたこと、しかしながら、北条丹後守(実名は高広。上野国厩橋城代)から、諸方面の事態が切迫しているため、ともかく至急に手立てを講じるべきとの要請が繰り返し寄せられたこと、もはや猶予はないので、来る20日に必ず(上田を)出庄して進軍を再開すること、当軍が其元(上野国)に着陣するまでの間、相州北条方の攻勢を抑えるべきこと、心得てもらうために、まず筆を馳せたこと、これらを謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』355号「富岡主税助殿」宛上杉「輝虎」書状【花押a3】)。

20日、河上式部丞へ宛てて返書を発し、寄せられた切紙を披読し、めでたく喜ばしいこと、このたびの時盛(江馬左馬助。飛州姉小路三木氏の重臣。もとの高原諏訪城主)が甲州武田信玄に一味して起こした再乱は、はなはだ遺憾であること、しかし、先忠を違わずに輝盛(江馬四郎)を守って越中国境へ抜け出されたのは、実に奇特な忠功であること、これにより、姉小路良頼(三木氏。中納言)と(江馬)輝盛が高原(江馬時盛が拠る飛騨国荒城郡の高原諏訪城)に反撃するに当たって支援を求められたので、とりもなおさず越中衆を飛州へ派遣した直接支援に加え、それだけでは心許ないので、自分が信州河中島(信濃国更級郡)へ出馬して7月から六十日もの間、甲州武田軍の本隊を引き付けた間接支援により、武田軍の支援を満足に受けられなかった(江馬)時盛が和睦を申し入れてきたわけであり、まずここは聞き入れるべきであること、今後ますます(江馬)輝盛へ適切な意見を加えられるのが、尤も重要であること、詳細は村上義清(兵部少輔。客分の信濃衆。もとは信濃国坂木(更級郡)の領主。姉小路三木氏と江馬氏とのつてがあったと思われる)が伝説すること、これらを恐れ謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』439号「河上式部丞殿」宛上杉「輝虎」書状【花押e1】)。

同日、側近の河田長親(豊前守。上野国沼田城代でもある)が、江馬方の取次である河上中務丞富信へ宛てて返書を発し、そちらから寄せられた翰札を披読し、めでたく喜ばしい限りであること、よって、このたび(江馬)時盛が再び国方(飛州姉小路三木家)に逆らい、晴信(甲州武田信玄)に御一味して再乱を企てたのは、はなはだ遺憾であること、そうしたところに、其方(河上富信)が筋目に従って輝盛と御内談して越中国境に抜け出されたのは、極めて殊勝な忠功であること、(三木)良頼と(江馬)輝盛が高原(江馬時盛)に反撃するため、当方へ支援を求められたので、越中衆へ飛州への加勢を申し付け、それだけでは心許ないので、自らは信州へ出馬して河中島に至り、7月から六十日もの間、旗を立て、甲州武田軍を押さえ込んだゆえ、(江馬)時盛は許しを請われて証人を差し出す旨を申し入れてきたわけであり、ここは御一和を受け入れて、(江馬)輝盛は本意を遂げられるべきであること、今後ますます(輝盛へ)適切な御意見を加えられるべきであること、詳細は(輝虎が)御直書で申されるので、要略したこと、これらを恐れ謹んで伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』440号「河上中務丞殿」宛「河田長親」書状写)。

このあと結局、国境を越えることなく越府に引き返し、今次の関東遠征を取り止めた。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』
◆『戦国遺文 武田氏編 第二巻』

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越後国上杉輝虎の略譜 【23】

2012-09-24 20:23:16 | 上杉輝虎の年代記

永禄7年(1564)7月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼) 【35歳】

2日、関東味方中の佐竹源真(右京大夫義昭。常陸国太田城主)から、越後国上杉家の取次である北条丹後守高広(譜代衆。上野国厩橋城代)へ宛てた書状が使者に託され、去春に輝虎が催された小田口(常陸国筑波郡)への戦陣について、(北条高広が)実現に努められたのは本望であること、これにより、沼崎郷・前野郷・佐村・山木の地(旧小田領)を進ずるので、速やかに知行するのが尤もであること、詳細については馬見塚大炊介が口上するので、繰り返しの説明は避けること、これらを恐れ謹んで伝えられている。さらに追伸として、彼の者(馬見塚)が当口(常陸国)の模様についても詳述するので、この書面を略したことを伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』419号「北条丹後守殿」宛佐竹「源真」書状写)。

5日、姉婿の上田長尾越前守政景(譜代衆。越後国坂戸城主)が急逝する。これにより、来る8日に予定していた信州出馬の日程変更を余儀なくされた。


※ 長尾政景の死去については、永禄4年以降の上杉輝虎の権威上昇に伴う組織の再編により、上田長尾氏の与力に配されたであろう越後国魚沼郡妻有地域(妻有・波多岐荘)の国衆である下平修理亮(実名は吉長か。波多岐荘の千手城主)との確執が刃傷沙汰に発展して共倒れとなったようである(『越後入廣瀬村編年史 中世編』)。

※ こうした組織の再編では、大身者に吸収される中小の国衆が多数に上り、下平修理亮と同じく妻有地域の国衆であった中条玄蕃允(波多岐荘の大井田城主か)などは、上田長尾氏の被官化している(『上越市史 上杉氏文書集一』389号)。


6日、北条丹後守高広が、関東味方中の佐竹氏の宿老中へ宛てた書状を使僧に託し、改めて申し達すること、よって、(輝虎は)当月中に関東へ進発される予定であったが、なかなか人衆が集まらず、ままならなかったところに、思いがけずも信州口で好機を得たので、来る8日に彼の口への出馬を決定されたこと、これにより、事情を詳しく説明するため、(佐竹義昭へ)使者をもって申し入れること、されば、(輝虎の信州在陣中に)氏康(相州北条氏康)が隙を突いて当陣営の領域に侵攻してくるのは必至であり、御自身(佐竹入道源真)が上州まで御出陣を遂げられて、南方衆(相州北条軍)の侵攻を抑止してもらいたいとの(輝虎の)仰せであること、御苦労であっても、早々に御出陣されるのが御肝要であること、詳細は(輝虎が)直達されるので、要略したこと、詳細は拙者(北条高広)の使僧が口上によって申し達するので、御理解を得たいこと、これらを恐れ謹んで伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』421号「当(常ヵ)府江 参人々御中」宛「北条丹後守高広」書状写)。


この中旬から下旬にかけて、飛州姉小路三木良頼(中納言を私称する)の重臣である江馬左馬助時盛(飛騨国高原諏訪城主)が甲州武田信玄に一味して再乱を起こし、敗れた三木良頼と、その支持者である江馬四郎輝盛(系図類は時盛の子と伝えているが、疑わしいようである)は、やむなく越中国境まで後退すると、そこから態勢を整えて高原(荒城郡)への反転攻勢を企図し、輝虎に支援を求めてきたことから、まずは援軍として越中衆を派遣した(『上越市史 上杉氏文書集一』439号 上杉輝虎書状、440号 河田長親書状写)。


※ 江馬時盛・同輝盛の関係については、岡村守彦氏の著書である『飛騨史考 中世編』の「三  武田・上杉の干渉【江馬系図の問題】」による。


23日、関東味方中の富岡主税助(上野国小泉城主)へ宛てて書状を発し、取り急ぎ申し遣わすこと、明日の24日には信州へ必ず乱入し、即時に彼の国の上郡へ押し進むこと、あらかじめ何度も申し伝えている通り、厩橋(上野国群馬郡の厩橋城)へ急行し、北条丹後守(高広)や西上州の味方中と協力して小幡谷(同国甘楽郡額部荘)・安中口(碓氷郡)の奥深くまで進撃するのが肝心であること、彼の筋の人衆(甲州武田家の先方衆の小幡・安中)は悉く信州へ向かうはずなので、諸要害が手薄であるのは間違いなく、このたびの敵城攻略の務めに専心するべきこと、今こそ何時もながらの奮戦をするべきであること、これらを謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』423号「富岡主税助殿」宛上杉「輝虎」書状【花押a3】)。

24日、出府する最中か進軍中に、越府代官の蔵田五郎左衛門尉(実名は秀家か)へ宛てて書状を発し、このたび越中(越中味方中であろう)へ文などを差し越すので、早々に同名兵部左衛門尉(旗本衆の蔵田氏)の所へ届けるべきこと(兵部左衛門尉はすでに越中国へ向かっているか)、越中国からやって来る人数(軍勢)は寺家(越中・越後国境の越後国頸城郡西浜地域)の周辺に着陣させるように先導してくるべき旨を、(兵部左衛門尉へ)しっかりと申し伝えるべきこと、これらを謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』997号「蔵田五郎左衛門尉殿」宛上杉「輝虎」書状写【花押e1影】)。

29日、富岡主税助へ宛てて再便を発し、このたび岩付(武蔵国衆の岩付太田美濃守資正)が見舞われた災難(相州北条氏に内通した長男の太田源五郎氏資(号道也。大膳大夫)によって放逐された)について、北条丹後守(高広)の所から注進状が到来したので披読したこと、彼の所行は言語道断のほどであること、しかしながら、美濃守(太田資正)の身柄は無事であり、取り分け彼の書中の意趣によれば、これまで以上に(輝虎へ)忠誠を尽くす覚悟を示していること、当口については、今29日に信州国河中島(更級郡)の地まで進陣すること、彼の口の状況次第によって、すぐに臼井(碓氷)峠から、その口(上野国西郡)へ打ち通りたいこと、武州味方中と協力して陣容を整えておくように、奔走するのが肝心であること、なお、詳細は河田豊前守(実名は長親。上野国沼田城代)が書面で伝えること、これらを謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』426号「富岡主税助殿」宛上杉「輝虎」書状写【花押a影】、429号 上杉輝虎書状写)。



永禄7年(1564)8月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼) 【35歳】

朔日、信州更級八幡宮に願文を納め、甲州武田信玄の非道を訴えるとともに、甲州武田軍を打倒して小笠原・村上・井上・高梨・須田・嶋津ら信濃衆を故国に還住させる決意を表し、さらには、武運長久と子孫繁栄、朝廷・幕府への覚えもめでたい功績を挙げられるように祈願した(『上越市史 上杉氏文書集一』427号「藤原輝虎」願文写)。

3日、犀川を渡って信州川中嶋の地に着陣する。

将軍足利義輝から、相州北条氏康との和睦を勧告する御内書が届いたのを受け、4日、将軍家の奉公衆である大館陸奥守晴光へ宛てて返書(謹上書)を発し、北条左京大夫氏康との和睦について、  御内書を謹んで頂戴したこと、誠にもって過分極まりないこと、おおよそ、東国は元より坂の東は、  古河様(鎌倉公方)に御統治が委ねられ、それから(上杉が)東副将(関東管領)を仰せ付けられたこと、取り分け上杉は、  宝筐院殿様(第二代将軍足利義詮)から稀有の、  御感を得て一紙五ヶ国の御判形を拝領したこと、これによって当家が御歴代に対し奉り、都鄙において御忠節を違わなかったところ、彼の左京大夫(北条氏康)が関左で傍若無人に振舞い、つまりは憲政(山内上杉光徹。輝虎の養父)の旗本に策謀を弄して家中を引き裂き、当家が立ち行かなくなったこと、ひとまず(憲政は)越国(越後国)に移られたので、関・越については、歴代の厚誼が深く、また、憲政を見捨てるわけにはいかず、先年に国境を越えて上州へ進撃し、那波要害(那波郡)を初めとする要所を攻め落として筋目を示したところ、かつての味方中も再起を遂げ、先忠に復してきたので、その諸軍勢を引き連れて相へ押し寄せたこと、百年ほど無事に過ごしてきた小田原(東郡)の地や各所の家屋を焼き払い、敵の根城を攻略するつもりでいたところ、佐竹(号源真。右京大夫義昭。常陸太田城主)・小田(中務少輔氏治。常陸国小田城主)・宇都宮(弥三郎広綱。下野国宇都宮城主)を初めとする味方中から、ここで凱旋するべきとの意見が繰り返し寄せられたので、その総意に従ったこと、公私共に本来であれば鎌倉に出入りするべきではないところ、恐れながら我等は余勢をもって(上杉)憲政と共に鶴岡八幡宮に社参し、長々と鎌倉に滞在するなか、数百里内外の旧跡を巡見して瞠目したこと、されども(上杉)憲政は病身であるため、代わって愚拙(長尾景虎)が名代職(管領職)を相続するように、諸家一揆が同心して、しきりに受諾を請うてきたこと、しかしながら、身分不相応であり、若輩であり、取り分け、  上意(足利義輝)の御信任を得ておらず、自分勝手に納得するわけにはいかないこと、この旨を数日にわたって説明するも、八幡宮の神前に寄り合った各々から、この重要な戦陣の最中、無為に時日を送り、もし仮に横槍でも入れば、無益に終わってしまうなどと、様々に談じ込まれたので、深く名跡について斟酌したところ、いずれにしても関東で奮闘するからには、(上杉)憲政が本復するまでの間、御旗を預かるとの妥協案で納得してもらい、昨年以来の諸家の労兵に休息を与えなければならず、要地の防備を十分に整えた上で、取り敢えず凱旋したこと、こうして関東の過半を静謐へと導いたところ、左京大夫(北条氏康)は正攻法では勢力を維持できなくなり、例によって策略を弄し、弱者共を引き抜いたので、関東の端々で見苦しい状況に陥っていること、常州の内の小田氏治については、先年に北条の攻勢によって本拠から追いやられると、憲政が支援のための戦陣を催し、彼の者が十余年も牢籠した間に、二度も在所に還住させたこと、その厚恩を未来永劫に亘って忘れない旨を誓い、数通の血判起請文を差し出したにもかかわらず、あっさりと(北条)氏康に与同して、彼の周辺の味方中に乱行を繰り返すため、遠境ながらも、当春に小田の地へ長駆して、彼の要害旧地を取り囲んだこと、彼の地は年月を掛けて要害に強化を施しているため、各々からは、慎重に攻めるべきとの提言が寄せられるも省みず、ひたすら強攻すると、二千余名の主だった者を討ち取り、一気に決着がついたこと、また、残党は堀溝で溺死するか焼死するかして、その数を把握できないほどであり、小田与党の三十余ヶ所は、その日のうちに証人を差し出して降伏したこと、野州の内の佐野小太郎(昌綱。下野国唐沢山城主)については、一旦は味方に復していたが、あっさりと北条に寝返ったので、小田からの帰途に立ち寄ったこと、佐野の地は険難の要害ではあったが、様々な工夫を凝らして攻めかかり、外郭を押し破ったところ、(佐野昌綱が)降伏を嘆願してきたので、主要な証人を数多く差し出させ、(昌綱の)処断は容赦したこと、さては氏康については、すでに、 晴氏様・藤氏様御父子を豆州奥郡に押し籠めたばかりか、御生害に及んだこと、不義を恥ともしない言語道断の輩なので、およそ和談するなどとは、思いも寄らない題目ではあるところ、御下知に背くわけにはいかず、 上意に応ずるべく御請状を捧げること、このたび上使が御下向され、速やかに関東味方中は(北条)氏康と停戦するようにと、きつく申し付けられたので、皆々が緊張を解いたところ、一体どのように(北条)氏康へ御下知されたものか、先月23日に南方(相州北条方)が武州の太田美濃守(太田資正)の居城を乗っ取ったばかりか、日増しに様々な乱行を募らせており、はなはだ口惜しい思いをしていること、それでも、 上意を無視するわけにはいかず、このうえは使者を上洛させること、御上使の大館兵部少輔方(藤安。奉公衆)に愚意を余す所なく申し伝えたこと、決して上意を軽んじない旨を、詳しく上奏に達するので、よろしく御披露願いたいこと、これらを恐れ謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』429号「謹上 大館陸奥守殿」宛「藤原輝虎」書状写)。


同日、関東味方中の佐竹右京大夫義昭(号源真)へ宛てて書状を発し、取り急ぎ申し伝えること、昨3日に信州犀川を渡って河中嶋の地に馬を立てたこと、武田大膳大夫(信玄)と対向したならば、一戦するつもりであり、色々と(信玄を)引き摺りだすために策を講じているが、未だに(甲州武田軍の)本営の所在地すら不明であること、たとえ(信玄が)当国(信濃国)のいずれの地に陣城を構えて堅く守ったとしても、強攻して興亡の一戦を遂げるつもりであること、それでもなお(信玄が)一戦を避けるのであれば、佐久郡へ進出して国中から武田方を一掃する覚悟であること、あらかじめ約束していたように、速やかに御自身(佐竹義昭)が武・上国境に陣取られて、甲州武田軍と連動する南方(相州北条軍)の抑止に努められるべきこと、この時宜に例の如く御油断されては、悔やんでも悔やみきれないこと、なお、詳細は北条丹後守(高広)の所へ申し遣わしたこと、これらを恐れ謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』428号「佐竹右京大夫殿」宛上杉「輝虎」書状【花押e1】)。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』
◆『越後入廣瀬村編年史 中世編』

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越後国上杉輝虎の略譜 【22】

2012-09-23 00:23:05 | 上杉輝虎の年代記

永禄7年(1564)5月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼) 【35歳】

13日、越後国柏崎(刈羽郡比角荘)の飯塚八幡宮の別当職である極楽寺に願文を納め、このたびの五壇護摩執行の意趣は、一、越後国における豊饒と安寧が永続すること、同じく分国の味方中が輝虎に対して変節しないこと、いよいよ本意が達せられるように祈念するべきこと、一、甲州武田晴信(信玄)を退治して、当秋中には甲府に旗を立て、晴信(武田信玄)の分国を悉く輝虎が占有できるように祈念するべきこと、一、輝虎が催す戦陣において思うがままに力を振えること、生涯にわたって慈悲心を失わないこと、忠臣が健勝であること、そして、輝虎に所縁のある者共の所願が成就するように祈念するべきこと、これによって皆々が満足を得られれば、従来からの一万刈分に加えて千刈分の地を寄進することを申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』405号 上杉輝虎願文【署名はなく、朱印(印文「円量」)のみを据える】)。


同日、将軍足利義輝から御内書が発せられ、氏康(相州北条氏康)との抗争が未だに続いているのは、好ましい状況ではないため、分別を弁えて和睦に取り組むべきこと、詳細は藤安(将軍奉公衆の大館兵部少輔藤安)に申し含めたこと、これらを申し渡されている(『上越市史 上杉氏文書集一』407号「上杉弾正少弼とのへ」宛足利義輝御内書写【署名はなく、花押のみを据える】)。

同日、同じく越後国上杉家の年寄中へ宛てて御内書が発せられ、(北条)氏康との抗争が未だに続いているのは、好ましくない状態であり、輝虎に対して申し遣わしたので、各々が(輝虎へ)適切な助言を加え、(輝虎が)分別を弁えて(相州北条家との)和睦するように、奔走するべきこと、詳細は(大館)藤安に申し含めたこと、これらを申し渡されている(『上越市史 上杉氏文書集一』406号「上杉弾正少弼 年寄中」宛足利義輝【署名はなく、花押のみを据える】 封紙ウハ書「 上杉弾正少弼 年寄中」)。


この正月の下総国国府台(葛飾郡)における合戦の敗北によって、関東味方中の岩付太田美濃守資正が本拠地である武蔵国岩付城(埼玉郡)に戻れず、房州里見領へと落ち延びていたところ、先だって無事に帰還したとの情報に接し、16日、太田資正の次男である梶原源太政景へ宛てて書状を発し、このたび美濃守(太田資正)が房州から無事に帰城を果たしたのは、めでたいこと、取り分け房・総の戦線の再建に尽くされて、酒井(上総国衆の土気酒井中務丞胤治。上総国土気城主)以下を当味方中に引き入れたばかりでなく、岩付への帰宅を手助けさせたのは、実に見事であること、東国の兵乱は一向に収まらず、自他共に苦境に陥っているので、来秋は早々に関東越山して、果たせないまでも勝敗を決する覚悟で臨むこと、なお、委細は両使が口上すること、これらを恐れ謹んでを伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』408号「梶原源太殿」宛上杉「輝虎」書状【花押a3】)。



この間、甲州武田信玄(徳栄軒)は、朔日、先月に攻略した上野国倉賀野城(群馬郡)を守る西上野先方衆の大熊伊賀守へ宛てて書状を発し、(大熊伊賀守が)寄越してきた倉賀野統轄のための方針などについての条々を承知したこと、されば、これからも倉賀野城は和田城(群馬郡)・木部城(緑野郡)とならぶ重要な拠点なので、用心を怠ってはならないこと、この三日のうちに飯富(兵部少輔。譜代家老衆)、真田(弾正忠幸綱。信濃先方衆。信濃国真田城主)・阿江木(相木氏。依田能登入道常喜。信濃先方衆。信濃国相木城主)・望月(遠江守信雅か。信濃先方衆。信濃国望月城主)以下を倉賀野へ派遣するので、それまでの間、必ず城衆を常備させておくべきこと、委細は吉田左近助(実名は信生。譜代家老衆)と飯富三郎兵衛尉(実名は昌景。同前)が口上すること、これら恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文 武田氏編二』891号「大熊伊賀守殿」宛武田「信玄」書状写、895・896号 武田信玄感状、897号 武田信玄感状写)。



永禄7年(1564)6月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼) 【35歳】

3日、百姓中と調整して年貢率を決めると、旗本衆で構成された奉行衆の某能信・飯田長家(孫右衛門尉)・河隅忠清(三郎左衛門尉)・五十嵐盛惟(官途名は主計助か)をもって各所へ証状を発し、一、百姓こたえの五十七貫五百四文、この分を納めるべきことを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』409号「百姓中」宛「能信・(飯田)長家・(河隅)忠清・(五十嵐)盛惟」連署状)。

9日、この年より友好関係を結んだ尾州織田信長(尾張守)から、取次の直江大和守政綱へ宛てて返書が発せられ、玉簡が到来し、謹んで拝読したこと、快然であること、もとより近年は関東御発向を繰り返され、そのつど勝利を挙げられて秩序を回復させての御帰国は、珍稀でめでたい思いであること、従って、直和(直江政綱)を通じて、格別な御厚誼を結ぶための条々を示されたので、極めて本懐であること、なお、あらためて音信を達するので、この紙面は要略したこと、以上の趣旨を御披露願いたいこと、これらを恐れ敬って伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』410号「直江大和守殿」宛織田「信長」書状)。


24日、府城春日山城の看経所・越後国一宮の弥彦神社(蒲原郡弥彦荘)・越中国姉倉比売神社(婦負郡寒江荘)などに願文を納め、輝虎は筋目を守って道理から外れた振舞いはしないこと、一、関東で戦いを毎年繰り返して平穏に治めようとしているのは、(輝虎が)上杉憲政から関東管領職を譲り受けたからこそ、敵に立ち向かって奮闘しているのであり、道理から外れた振舞いではないこと、一、信州で戦っているのは、第一には、(甲州武田信玄のせいで)小笠原(大膳大夫長時。もとは信濃国林城主)・村上(兵部少輔義清。同葛尾城主)・高梨(源太。もとは信濃国中野城主・高梨刑部大輔政頼の世子)・須田(相模守満国か。もとは信濃国須田城主)・井上(左衛門大夫昌満か。もとは井上城主)・嶋津(左京亮忠直。もとは長沼城主)、そのほか信国之諸士が居所を失って流浪したこと、次には、武田晴信(信玄)が輝虎の分国である上州を侵略したこと、さらには、信州の河中嶋において数多くの手飼いの者が戦死したこと、このような事情から武田晴信(信玄)の退治に乗り出しているのであり、これもまた道理から外れた振舞いではないこと、越中口を平穏に治めようとしているのは、神保(惣右衛門尉長職。越中国増山城主)と椎名(右衛門大夫康胤。同金山(松倉)城主)の抗争を止めるために説得を尽くしても、両者は承服しないからであること、椎名については、亡父(長尾為景)の頃から提携していたといい、長尾小四郎(実名は景直。輝虎の従弟でもあり甥でもある)を養子に迎えたといい、ともかく見放し難いために加勢していること、これもまた道理から外れた振舞いではないこと、おおよそ当家は、坂東の地から管区を治めるために関東の諸士に指図してきたのであり、その正否は管領の意向に懸かっていたこと、それゆえに、たとえ誰人に頼まれなくても、輝虎が関東の諸士を導くのは、これもまた道理から外れた振舞いではないこと、一、これから先はともかく、(輝虎は)只今のところ、どこの国にも一ヶ所の料所を保持していないこと、これは一時しのぎの私欲に走っていない証拠であること、一、輝虎の分国における寺社領を武士が横奪しているのは、世の中の秩序が乱れ、輝虎が戒告しても聞き入れなかったり、やむを得ない事情を抱えた者がいたりするために、こうした有様であること、それでも堂社・仏堂の修理建立と寺社領の寄進については、そのつど精魂を込めて配慮を申し付けたこと、武田晴信(信玄)と伊勢氏康(相州北条氏康)を退治したあかつきには、往時よりも増して積極的に配慮すること、これからも寺社に対して、輝虎の一世中は、いささかも道理から外れた振舞いはしないこと、大小を問わず何事も神慮以外は頼みとしないこと、非道を知らず存ぜずが輝虎の本分であること、よって、いよいよ輝虎の所願が達するべきであることを祈念した(『上越市史 上杉氏文書集一』412号「弥彦 御宝前」宛上杉「輝虎」願文【花押a3】、413号 上杉輝虎願文写)。

同日、同じく願文を納め、武田晴信悪行のこと、一、飯綱・戸隠・小菅の三名社を零落させて仏供・灯明を供えられなくしたこと、一、塚原陣(信濃国更科郡川中嶋)の折、駿河(駿州今川義元)の調停をもって無事を遂げるに当たり、神慮に伺いを立てて誓詞を取り交わしたにもかかわらず、あっさり破棄したこと、一、信州において寺社領を俗人に与えてしまい、仏法を破滅させたこと、一、武田は交流のない隣州や隣郡を奪い取ろうとして、非情にも攻撃を仕掛け、敵味方の戦火に巻き込まれた堂社・仏堂が焼失したのは、武田晴信(信玄)の過誤であること、一、信州における仏神の氏子が滅亡に追い込まれたり、浮浪して乞食になったりで、このたび仏力をもって彼らを助けてもらわなければ、誰も神慮を尊ばなくなるであろうこと、一、すでに直親の武田信虎を国から追い出し、浮浪させて乞食にした事実で孝心を失い、もはや仏神の真理を悟れはしないこと、一、よって、当秋中に武田晴信(信玄)を退治し、輝虎が本意を達せられれば、寺社領と堂社・仏堂を従来通りに精魂を込めて配慮を申し付けることを約束した(『上越市史 上杉氏文書集一』414号「御かんきん所 仏前」宛「上杉輝虎」願文【花押a3】、415号「弥彦 御宝前」宛「上杉輝虎」願文写【花押a3】)。

25日、関東味方中の富岡主税助(上野国小泉城主)へ宛てた書状を飛脚に託し、来秋の調儀(戦陣)として、相州口への進攻を決めていたところ、西上州の倉賀野(上野国衆の倉賀野左衛門五郎直行。上野国倉賀野城主)が没落の憂き目にあったので、長野左衛門大夫(上野国衆の箕輪長野氏業。上野国箕輪城主)がいよいよ窮状に陥ってしまい、背後の信州筋への手立てが必要であるとして、代官をもって懇願を繰り返していること、これにより、やむを得ず予定を変更して、何はさておき彼の筋へ出馬するつもりであること、そのためには西上州の防備を固める必要があるため、(富岡においては)7月8日に総勢を引き連れて出張し、長野左衛門大夫の手引きに従って奮闘するべきであること、輝虎についても同日に信州へ越山するつもりなので、つとめて日限を違えてはならないこと、よって、準備が整い次第に此方(輝虎の許)から検使(軍監)を遣わすつもりであること、まずもって脚力を差し向けること、これらを謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』416号「富岡主税助殿」宛上杉「輝虎」書状【花押a3】)。

26日、富岡主税助へ宛てて再便となる書状を発し、あらためて申し遣わすこと、初夏以来、何度も申し届けているように、来月中には武・上(武蔵・上野国)へ向けて進発する覚悟を決めていたところ、信・甲(信濃・甲斐国)の間において好機が到来したので、何はさておき、来る8日に彼の口(信濃国)へ出馬すること、そうなれば氏康(相州北条氏康)が後詰に及ぶはずなので、(富岡においては)東口諸味方中を上州に招来して南方(相州北条軍)の侵攻を抑止するべく、手立てに及んでもらいたいこと、吾分(富岡)は味方中に先んじて出陣し、北条丹後守(高広。譜代衆。上野国厩橋城代)と協力して準備に奔走するべきこと、なお、詳細は小野主計助(検使。旗本衆)が口上すること、これらを謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』463号「富岡主税助殿」宛上杉「輝虎」書状【花押e1】)。

関東味方中の房州里見義弘から出陣要請を受けると、27日、里見太郎義弘へ宛てて返書を発し、このたび寄せられた芳札の趣旨を詳しく読み込んだこと、何はさておき、正木左近大夫(勝浦正木時忠。上総国勝浦城主)の造反により、正木大炊助(一宮正木時定。同一宮城主)が没落したと聞いて、思わず絶句したこと、(里見義弘の)御力落としのほどは、此方(輝虎)においても同様であること、これにより、其元(里見)が柔弱に陥っているのではないかと、はなはだ心許ないこと、こうした災難の一方で、御書中によれば、酒井中務丞(土気酒井胤治。上総国土気城主)が御父子(里見父子)の先兵を務める意向を表明しているそうであり、懇切に対応して房総の戦線を強化するため、御存分の通り、互いに協力されるべきであること、当口(下総国)への加勢については、要請の趣旨は御尤もであり、軽んじるつもりもないこと、すでに伝わっているであろうが、西上州の内の倉賀野左衛門五郎(直行。上野国倉賀野城主)は若輩ゆえの油断から、凶徒(甲州武田方)に居城を奪取されてしまい、そのせいで味方中が残らず窮状を訴え、背後に当たる信州への調儀(戦陣)をしきりに懇願されていること、彼の口が正常でなければ、東口への通路は途絶してしまい、それから後悔したところで遅きに失するので、まずは信州へ深々と攻め入る決意を固めたこと、先頃に脚力をもって伝達した通り、来月8日に出馬すること、岩付(武蔵国衆の太田美濃守資正)については、去年の秋から相州北条軍の攻勢に窮迫しており、彼の地が維持できなければ、関東が破局するのは時間の問題であり、当方の出馬に合わせて、常・野両州を始めとする味方中の総勢をもって武州に出陣され、太田美濃守(資正)の先導で敵領を席巻してほしいこと、関東経略の大局、里見家の発展、取り分け御親密な美濃守のために、彼の口へ御出張して味方中を主導するべきであり、毎度申し伝えているように、御奮闘されるのは今をおいて他にはないこと、これらを恐れ謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』417号「里見大郎殿」宛上杉「輝虎」書状【花押a3】●『戦国遺文 房総編二』1146号)。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』
◆『戦国遺文 房総編 第二巻』 
◆『戦国遺文 武田氏編 第一巻』

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越後国上杉輝虎の略譜 【21】

2012-09-21 06:18:06 | 上杉輝虎の年代記

永禄7年(1564)3月4月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼) 【35歳】

このたび西上野の味方中との盟約に従い、上野国和田城(群馬郡)を攻めることに決し、3月7日、和田城は小規模ながら、甲州武田信玄が入念に補強を施した堅城なので、攻略は至難と見越して逡巡するも、すでに攻撃を決断したからには、勝敗にとらわれずに迷いを捨てて不退転の覚悟で臨むと、関東国衆(味方中)は戦意に乏しく頼りにならないため、惣社長尾能登守(実名は景総あるいは景綱と伝わる。上野国惣社城主)と白井長尾左衛門尉憲景(上野国白井城主)に先導させ、自ら越後衆を引率して強攻する。別の攻め口を担当する北条丹後守高広(譜代衆。同厩橋城代)・箕輪長野左衛門大夫氏業(同箕輪城主)・横瀬雅楽助成繁(同金山城主)を始めとする国衆勢が戦果を挙げられないのを尻目に、惣社・白井・越後衆で外郭の防塁を手勢に犠牲を出すことなく奪取し、内郭の敵状が視認できるほどに迫った。

その後、佐竹右京大夫義昭(常陸国太田城主)・宇都宮弥三郎広綱(下野国宇都宮城主)・足利(館林)長尾但馬守景長(上野国館林城主)の一群が城を取り巻き、人数では圧倒しているにもかかわらず、堅城ゆえに攻めあぐねて、戦前に予見した通り攻略は行き詰ってしまう。

10日、参戦中の簗田中務大輔晴助(下総国関宿城主)に証状を与え、繰り返し懇望されているので、その意に任せ、相馬一跡(下総国相馬御厨の守谷相馬氏領)を進らせること、ますます忠信を励むのが肝心であること、これらを恐れ謹んで伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』394号「簗田中務太輔殿」宛上杉「輝虎」安堵状写)。

13日、府城に留守居する老臣の本庄美作入道宗緩(すでに家督は嫡子の新左衛門尉に譲っている)・金津新右兵衛尉・吉江中務丞忠景へ宛てて返書を発し、そちらが寄越してくれた飛脚をすぐにでも帰すべきところ、爰元の様子を見届けさせてから帰すために留め置いたこと、されば、爰元の和田は小規模ながらも、晴信(甲州武田信玄)が念入りに手を加えて、まさしく堅固に拵えたものであり、落居の是非はつき難いこと、しかしながら、馬を寄せたからには、あれこれ考えずにためらいを振り払って不退転の覚悟で攻めるべく、当月7日より詰め掛けたところ、例によって関東国衆(味方中)は戦意が欠けており、当てにならないため、自ら越後衆を引き連れて、惣社(長尾能登守)・白井(長尾憲景)を先導として、一日中攻め立てたこと、北条(高広)・箕輪(長野氏業)・横瀬(成繁)をはじめとする国衆勢が一郭も攻め取れないなかで、惣社・白井・越後衆は力の限り奮闘したゆえか、そのまま攻め上って外郭の防塁を奪取したこと、ついには手勢に一人の負傷者も出さなかったこと、内郭との距離は、五間と言いたいところであるが、十間(18メートルほど)のうちまで迫り、直に様子を視認できること、以前の攻め口である志内口より主要部に接近していること、また、人数も味方は大軍であるのに対し、敵城は小規模であっても、侮らずに前は五重に取り巻いたとはいえ、うつの宮(宇都宮広綱)・佐竹(義昭)・あしかゝ(足利長尾景長)の軍勢は間隔を大きく空けて陣取り、こだわらずに配置したので、人数は漏れなく配置したこと、しかしながら(和田城は)優れた地であり、このまま長期戦に入れば、やがて国衆を帰陣させなければならず、兵力が減ってから軽はずみに後詰の一軍を投入したのでは、敵軍に横撃される恐れがあること、若輩ながら一生の大事という状況で、人数はただ今の様子であるとしたら、後詰はどうこうできそうもないと思われ、後詰の投入が早過ぎれば、国衆については佐・宮(佐竹・宇都宮)をはじめとして戦い甲斐をなくす恐れもあり、越後衆だけでは戦線を維持できないこと、(この正月に)房州・太田(房州里見氏と太田康資・太田資正の両太田氏による連合軍)が相州北条軍に敗北した頃よりも、ただ今はいっそう戦局の悪化が進んでいること、とにかくこのたびは生還が危ぶまれ、各々に再会は期し難いのではないかと心細さを感じながらも、早く張り破るため、一昨晩に一番鑓を入れ、彼の者共は塀際までにじり寄って、見隠しを結わい付けたところ、目の前の者共は腹を立てて、気に入らずに叱り飛ばしたこと、これまた仕方ないとはいえ、それでも気を取り直して奮闘する決意であること、詳細は彼の脚力が見聞しており、ここでは省くこと、これらを謹んで伝えた。さらに追伸として、「かいほつ」(旗本衆の開発中務丞であろう)と牢人衆のうちで、それぞれ一名の負傷者を出したが、いずれも軽傷であることを伝えるとともに、とにかく今回はいつにも増して帰心が募り、この弱気が凶事を招いてしまうかもしれないことへの不安な心境を吐露した(『上越市史 上杉氏文書集一』395号「本庄美作守殿・金津新右兵衛尉・吉江中務少輔(丞)殿」宛上杉輝「虎」書状写 ●『戦国遺文 下野編二』743号 上杉輝虎書状写)。

15日、越府留守将の新発田尾張守忠敦(外様衆(揚北衆)。越後国蒲原郡の新発田城主)らに対する目付衆(旗本衆)の吉江中務丞忠景・金津新右兵衛尉・本田右近允(実名は長定か)・吉江織部佑景資・高梨修理亮・小中大蔵丞(実名は光清か)・吉江民部少輔(実名は景淳か)・岩船藤左衛門尉(実名は忠秀か)へ宛てて書状を発し、春日(府城春日山城下の春日町)・府内(越後国府の政庁街)・善光寺門前(府内善光寺の門前町)以下、各要所の防火と警備について、重ねて申し遣わすこと、定時に夜警を巡回させる法令を厳格に遵守するべきこと、およそ日没以降は町人衆も往来を禁ずるべきこと、何が何でも放火犯は捕らえて成敗するべきこと、不審者を目撃したら、こちらに注進する必要はないので、即座に成敗するべきこと、また、町方の者と見受けられたのならば、拘束して取り調べに当たるべきこと、もしまた、悪乗りして面倒をかけるならば、これも即座に成敗するべきこと、わずかな油断による過失から危機を招いてはならないこと、善光寺町には信州からの新規の移住者が多く、これに紛れて敵方の工作員による焼き取りなどの火付けに狙われ易いので、住人が注意を怠り、みすみす放火を見逃した場合には、両隣三軒の住人を成敗するべきこと、これについても取り急ぎ住民たちへ布告して用心させるべきこと、府内の住民にも同様に布告するべきこと、万が一にも大事が起こった際には、先ず如来堂を保護するように、しっかり新発田(忠敦)の所へ申し届けるべきこと、奉公人・牢人であろうとも、不審な態度を取る者は、当然ながら成敗するべきこと、例外なく往来者の素振りを注視するべきこと、この条々を尾張守(新発田忠敦)かたへも認知されるべきこと、このほかは申し遣わさないこと、これらを謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』313号「吉江中務丞殿・金津新兵衛尉殿・本田右近允殿・吉江織部佑殿・高梨修理亮殿・小中大蔵丞殿・吉江民部少輔殿・岩船藤左衛門尉殿」宛上杉「輝虎」書状【花押d】)。

この前後に上州和田陣を撤収した。

23日、越府の代官である蔵田五郎左衛門尉(実名は秀家か)へ宛てて返書を発し、心がこもって行き届いた書状を携えた飛脚を寄越してくれて、喜びもひとしおであること、長尾越前守(上田長尾政景)を帰国させたので、相談し合い、府内の住人らに対し、法令通りに治安を維持させるように、必ず申し付けるべきこと、これらを謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』397号「蔵田五郎左衛門尉殿」宛上杉「輝虎」書状写【花押影a3】)。

24日、関東味方中の富岡主税助(上野国小泉城主))に証状を与え、年来の知行されてきた各所における本領分ならびに昨年から館林(上野国館林城主の足利長尾但馬守景長)と相論している石打郷(邑楽郡佐貫荘)以下の地について、これまで尽くしてくれた様々な忠節に報いるため、このたび落着を遂げたので、永代にわたって領有するべきことを申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』398号「富岡主税助殿」宛上杉「輝虎」判物【花押a3】)。

これを機に富岡主税助を山内(越後国)上杉家の譜代家臣として処遇し、以後は書札礼を薄礼に改める。

このあと帰国の途に就いた。


こうしたなか、輝虎の指示で途中帰国した上田長尾越前守政景(譜代衆。越後国魚沼郡の坂戸城主)が着府すると、12日、信・越国境の拠点を守る信濃味方中の関屋民部少輔政朝(高梨氏の旧臣か。飯山領域の水内郡関屋を出自である)から、長尾越前守政景へ宛てた書状が使者に託され、あらためて申し上げること、留守中の防備のために、御帰国を命じられたとの知らせを受けたので、御音信として、すぐさま申し上げる心づもりでいたにもかかわらず、万事に取り紛れていたので、遅参してしまい、戸惑いを感じていたこと、内々に参上して御挨拶に及びたいと考えていたところ、敵軍襲来の情報が流れてきたので、同名(一族)の者をもって申し上げること、このたびの御着府は、何よりも心強い思いであること、されば、晴信(甲州武田信玄)がこの口(水内郡の飯山口か)へ出張するとの情報が流れるなか、武田方の信濃駐留軍が兵船の用意を進めており、方々の御談合をもって、しっかりと御人数を派遣して下されば、感謝に堪えないこと、万が一にも御来援がなければ、とても持ち堪えられないこと、詳細は直大(直江大和守政綱。大身の旗本衆。越後国山東(西古志)郡の与板城主。春日山城の留守将であろう)へも申し入れるので、必ずや御賢明な手立てを講じられるべきこと、万事について重て申し述べるので、ここでは要略こと、これらを恐れ謹んで伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』336号「越前守殿 参御宿所」宛「関屋民部少輔政朝」書状)。


※ 直江政綱は、恐らく永禄5年頃に実名を実綱から政綱に改めたと思われるが、文書によって確認されるのは、この年からなので、ここより政綱と表記する。

※ 関屋政朝は、正確な時期は不明であるが、のちには武田家に従ったようである。この関屋氏の出自については、山本隆志氏による史料紹介の高野山清浄心院「越後過去名簿」を参考にした。


4月3日、上田長尾越前守政景の代行者である長男の長尾時宗丸が、関東からの帰陣後に、改めて上田衆の下平弥七郎(越後国魚沼郡波多岐荘の国衆である下平氏からはやくに分派した)と内田文三に感状を与え、去る2月17日に佐野扇城(下野国安蘇郡佐野荘。唐沢山城)を(輝虎が)攻め破りなされた折、よくよく奮闘したそうであり、殊勝の極みであること、今後なおいっそう励むのが肝心であること、これらを謹んで伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』401号「下平弥七郎殿」宛長尾「時宗」感状写、403号「内田文三殿」宛長尾「時宗」感状)。

このほど関東味方中の富岡主税助から、深谷上杉左兵衛佐憲盛(上杉・北条両陣営の間を変転とする。武蔵国深谷城主)の支援を受け、相州北条方の軍勢を迎撃して多数の敵兵を討ち取り、残党を利根川に追い落とした戦勝報告が寄せられると、10日、富岡主税助へ宛てて書状を発し、深谷からその地(上野国小泉城)に対して助勢が成されたところ、凶徒を誘い込んで一撃し、数百名を討ち取り、残党を利根川に追い落としたそうであり、そのような勝報を耳にして心地好い思いであること、いつもながらの並外れた戦功であること、今後ますます奮闘するのが肝心であること、なお、河田豊前守(大身の旗本衆。上野国沼田城代)が申し遣わすこと、これらを謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』508号「富岡主税助殿」宛上杉「輝虎」書状【花押a3】)。

20日、荒廃の著しい港湾都市の越後国柏崎町(刈羽郡比角荘)に制札を掲げ、一、当町へ諸商売のために出入りする業者の牛馬荷物等については、町の周囲に関所を設けたりして、新役を取り立ててはならないこと、一、青苧役については、必ず従来通りに完納するべきこと、一、当町については、先年に復興を遂げたにもかかわらず、再興以前から先住している町民が、もっぱら好き勝手な場所に住居を構えて、未だに居住するべき宿に戻っていないそうであり、はなはだ不愉快な状況であること、このうえは当宿への帰住を急がせるべきこと、ただし、町民が現住する場所の領主が引き留めて帰住が遅れているのならば、その領主の名を列記した書付を寄越すべきこと、一、盗賊や放火犯等の存在を察知して告発した者には、計画によっても効果を得られなかったので、いっそうの褒美を遣わすべきこと、一、当町中において無道狼藉を働く徒輩がいれば、現行犯は勿論、どのような身分の者であろうとも、その名を列記した書付を寄越すべきこと、もしその場で捕縛するか、成敗するかしたとしても、町民の過失を問わないこと、一、当町再興を図った際の休年記の条項に対しての証判は別紙に書いたこと、よって、柏崎町中においては、これらの条々を厳守するべきであり、もしも違犯する徒輩がいれば、誰人手あろうとも罪科に処するべきこと、ただし、往古に定められた規定に異議を唱え、この制札を口実にして詭弁を弄し、町民に無理強いする者がいれば、重罪に他ならないこと、これらを申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』404号上杉輝虎制札写【署名はなく、印判のみを据える】)。

同日、信濃国飯山城(水内郡)の城衆(外様平衆)である上倉下総守・奈良沢民部少輔・上堺彦六・泉 弥七郎(実名は重歳か)・尾崎三郎左衛門尉(実名は重信あるいは重誉か)・中曽根筑前守・今清水源花丸へ宛てて書状を発し、飯山口の防備を強化するため、安田惣八郎(実名は顕元。譜代衆。越後国安田城主)の手勢に岩井備中守(実名は昌能。信濃衆。もとは高梨氏の同名衆)を添えて派遣すること、聞くところによれば、今回もまた、それぞれが在所に戻っていたので、不甲斐なくも甲州武田軍の来襲に即応できず、飯山領が甚大な被害を受けたのは、はなはだ遺憾であること、今後は二度とこのような失態を繰り返さないように、必ず全員が在陣して抜かりなく飯山領の統治に当たるべきこと、陣所については、其許で相談して相応しい場所を選定するべきこと、なお、子細は備中守(岩井昌能)が口説すること、これらを謹んで伝えた。さらに追伸として、近日中に安田の軍勢は出立するので、何としても飯山領を堅持するように、皆で力を合わせるべきことを厳命した(『上越市史 上杉氏文書集一』604号「上倉下総守殿・奈良沢民部少輔殿・上堺彦六殿・泉 弥七郎殿・尾崎三郎左衛門尉殿・中曽根筑前守殿・今清水源花丸殿」宛上杉「輝虎」書状写【花押a3影】)。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』
◆『新潟県立歴史博物館研究紀要』第9号高野山清浄心院「越後過去名簿」
◆『戦国遺文 下野編 第二巻』

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