越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎の略譜 【25】

2012-09-29 17:52:00 | 上杉輝虎(謙信)の略譜
永禄7年(1564)11月 上杉輝虎(弾正少弼) 【35歳】

尾州織田信長(尾張守)の申し入れにより、盟約を結んで連携関係を進展させると、7日、織田「信長」から、取次の「直江大和守殿(政綱。大身の旗本衆。越後国与板城主)」に宛てて返書が発せられ、このたび使者をもって連携を申し入れたところ、たちまち成立させてもらえたばかりか、様々に御厚情をかけてもらったおかげで、すこぶる本懐を遂げられたことと、取り分け大鷹を五連も贈ってもらえたのは、未だかつてない過分な厚意を受けたこと、ひたすら御鷹を寵愛していること、これらを取り成してくれるように、丁重に依頼されている。更に別紙の追伸として、このたび示された御誓約の条々に恐悦していること、取り分け御養子として愚息を迎えてもらえるのは、このうえない栄誉であること、通過国との調整が付いたならば、いつでも送り出すこと、今後とも御指南にあずかり、ますます連携を図っていきたいこと、よって、これらを御披露してもらえれば、本望満足であることを伝えられている(結局のところ、この養子縁組は実現しなかった)。

この年の7月に没落して味方中の宇都宮弥三郎広綱(下野国宇都宮城主)の許に身を寄せた太田三楽斎道誉(資正)の在所へ使者を派遣すると、27日、太田美濃入道道誉から、取次の「河田豊前守殿(長親。大身の旗本衆。上野国沼田城代)」に宛てて返書が発せられ、このほど御書札を拝読したこと、仰せの通り、思い掛けない事態によって、今は宮(下野国宇都宮)に滞在していること、これにより、当方を心配して御両使を寄越されたので、誠に過分の至りであること、一、賄い料として黄金百両を供与されたので、ひたすら恐悦していること、先頃に両使をもって自分と愚息の源太(梶原政景。次男)が見舞われた思い掛けない事態の経緯や御味方中の現状を報告したものの、一向に御返書が寄せられなかったので、はなはだ不安を感じていたこと、一、これまで拙夫(太田道誉)が尽くしてきた忠節を忘れずに評価されているので、誠に過分極まりない賛辞であること、この上は愚息を引き立ててもらい、年老の拙夫は閑居する無二の決意であること、詳細については河田豊前守方が申し上げられること、これらを御披露してくれるように頼まれている。
28日、梶原源太政景から、「越府」の年寄中に宛てて返書が発せられ、御貴札を拝読し、ひたすら恐悦していること、このほど思い掛けない災難に見舞われて、使者をもって当地に移った事情を知らせたところ、一向に御返札が寄せられなかったので、はなはだ不安を感じていたところ、このたび御両使が到来して条々を示してもらい、面目も冥利も尽くされたので、望外の喜びであること、取り分け大鷹一連を贈ってもらい、その御厚情は計り知れないこと、よって、これらの詳述を御両使に頼んだことを伝えられている。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 441・442号 織田信長書状、443号 太田道誉書状、444号 梶原政景書状(写)


永禄7年(1564)12月 上杉輝虎(弾正少弼) 【35歳】

19日、(上杉「輝虎(花押a3型とe1型が合わさったもの)」)越後奥郡国衆の色部修理進勝長(越後国平林城主)の嫡男である「色部弥三郎殿」に一字状を与え、山内上杉家に縁のある「顕(初代の上杉憲顕に由来する)」の一字を付与して顕長と名乗らせた。

この夏から秋にかけて飛州姉小路三木良頼(中納言)に反抗するも、輝虎の支援を受けた良頼とその支持者である江馬四郎輝盛に敗れ、輝虎に誓詞を差し出して恭順した江馬左馬助時盛の許へ使者の草間出羽守(旗本衆。信濃衆高梨氏の旧臣)を派遣し、改めて誓約の趣旨を示すと、23日、江馬「時盛」から、「山内殿」の年寄中に宛てて返書が発せられ、貴札を拝読し、本懐の至りであること、仰せの通り、去秋に誓詞を差し出して恭順を申し入れたのに伴い、このほど御使者が到来されたこと、取り分け黒毛馬を贈ってもらい、ひたすら恐悦していること、このたび示された条々の旨に、いささかも異心のないこと、その趣旨に従って血判起請文を差し出すこと、今後は格別な御厚誼を結んでもらえれば、本望満足であること、よって、これらを草間出羽守が詳述してくれることを伝えられている。

『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 445号 上杉輝虎名字書出、446号 江馬時盛書状(写)


永禄8年(1565)正月 上杉輝虎(弾正少弼) 【36歳】

28日、(上杉「輝虎(花押e1)」)、関東味方中の「富岡主税助殿(上野国小泉城主)」に宛てて返書を発し、新年の祝儀として太刀一腰と鳥目(銭)百疋を贈ってくれたことへの謝意を表するとともに、判形(花押型)を変更することを伝えた。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 378号 上杉輝虎書状

◆ 『上越市史』等は378号文書を永禄7年に仮定しているが、黒田基樹氏の論集である『戦国大名と外様国衆』(文献出版)の「第十章 富岡氏の研究」に従い、永禄8年の発給文書として引用した。


永禄8年(1565)2月 上杉輝虎(弾正少弼) 【36歳】

18日、関東味方中の酒井中務丞胤治(上総国衆の土気酒井氏。上総国土気城主)から、取次の「河田殿(長親)参御宿所」に宛てて返書が発せられ、旧冬は北村内記助をもって当国の状況を伝達したところ、御丁寧に御披露して下されたので、ひたすら恐悦していること、去る12日に氏政(相州北条氏政)が当城(土気城。山辺郡)に攻め寄せてきたこと、宿城に攻め込んできた先陣の臼井衆(相州北条氏に他国衆として属する上総国臼井城主の原胤貞)である原弥太郎・渡辺孫八郎・大網半九郎・大厩藤太郎・鈴木某など五十余名を討ち取り、翌13日には金谷口(同郡東金)へ侵攻してきた同族の東金衆(相州北条氏に他国衆として属する上総国東金城主の酒井左衛門尉政辰)を、拙者(酒井胤治)の嫡男である左衛門次郎(政茂)の軍勢が迎撃し、河嶋新左衛門尉・市藤弥八郎・早野某・宮田某など百余名を討ち取り、また、善勝寺口(同)でも十余名を討ち取り、連戦連勝であるので、安心してもらいたいこと、こうしたなか、房州里見義堯(岱叟院正五)・同義弘(太郎)父子は、当方の敗亡が房州里見家のそれに直結するにも係わらず、一騎の援軍も寄越そうとしないので、当陣は長期戦の様相を呈しており、一刻も早く当方面へ御出陣されて、里見父子を諫めてほしいこと、これまで拙者は氏康・氏政父子の許で、ひたむきに奮闘を続け、永禄3年の関東御出陣による氏康・氏政父子の苦境に際しても、両総で忠功を尽くしたところ、昨年に於ける下総国国府台(葛飾郡)の合戦の間際、不忠の人物に肩入れをして、忠義の拙者を蔑ろにしたので、全く我慢がならず、彼の興亡の一戦を前に北条陣営から離脱したこと、その国府台合戦後に敗亡寸前であった大美(太田資正)を助けて岩付に帰した事実でも分かるように、たとえ関東中の諸士が氏康・氏政父子に降っても、拙者だけは里見父子の前衛を務める決意を、弓矢と護国の神名に掛けて誓うこと、当家中は、氏康・氏政父子の傘下に入るまで、十年以上も大乱の渦中にあったゆえに疲弊困憊しており、早々に金(下総国小金城。葛飾郡風早荘)に攻め寄せられ、北条方の圧迫を取り払ってほしいこと、よって、これらについての万事を貴方(河田長親)から面述してもらうのが念願であることを伝えられている。

23日、関東味方中の横瀬雅楽助成繁(上野国金山城主)が上野国堀口(那波郡)に出陣し、同三宮(群馬郡)に布陣して惣社城を窺う甲州武田軍を牽制している。

本来であれば、この上旬に越前国朝倉義景(左衛門督)との盟約に基づいて賀州へ出陣するはずであったが、関東味方中からの出陣要請が相次ぎ、やむを得ず関東出陣に予定を変更し、24日に出府することを決めた。

24日、(上杉「輝虎」)、関東味方中の「成田左衛門次郎殿(氏長。武蔵国衆。武蔵忍城主)」や「小山下野守殿(高朝。号明察。下野国衆。下野国榎本城主)」に宛てた書信を使者の山岸隼人佑(光重ヵ。譜代衆)と草間出羽守(旗本衆)に託し、取り急ぎ両使をもって申し届けること、繰り返し伝わっているであろうが、越前国(朝倉家)とは長年に亘って連携を図ってきた間柄であり、昨年に否応なく当方に証人を寄越し、朝倉左衛門督(義景)は賀州に出陣すると、輝虎の出陣を今か今かと心待ちにしていたこと、盟約の成り行き上、やむを得ないので、国境の積雪、賀州の寒風の季節を越え、漸く時宜を得たので、今月上旬に賀州へ出陣する計画であったが、早々に武・上州戦線の防備に手立てを講じるべきとの緊急要請が方々から寄せられたゆえ、これまで積み重ねてきた功績を捨て去るわけにはいかないので、北陸の万事をなげうち、このたび関東に出陣する結論に達したこと、今24日に出府するので、当方がここまでしたからには、当軍が着陣する以前に上野国厩橋城(群馬郡)へ御着陣し、結束して戦略を練り上げ、関東平定の達成に専心するべきこと、それぞれが長年の遺恨などを持ち出したりすれば、御着陣に遅れてしまうので、これまでの御忠節を貶めないように、よくよく留意するべきこと、よって、これらを山岸隼人佑と草間出羽守が詳述することを伝えた。


この間、甲州武田「信玄(徳栄軒)」は、7日、上州へ出陣するにあたり、信濃国諏訪上宮大明神と同新海大明神に願文を納め、十日を経ずしての上野国箕輪城(群馬郡)の攻略と、同じく惣社(同)・白井(同)・嶽山(吾妻郡)・尻高(群馬郡)の四ヶ所の制圧を希求している。
それから間もなく出陣した甲州武田軍は、上州北部を脅かしたあと、20日前後に三宮(群馬郡)へ布陣して惣社城に圧力を加えている。
25日、三宮陣を引き払って惣社口へと進んだが、末日の前後には引き上げている。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 451号 酒井胤治書状、452・453号 上杉輝虎書状(写) 『戦国遺文 武田氏編 第二巻』 928号 武田信玄願文、929号 武田信玄願文写 『群馬県史 資料編5 中世一』【記録】長楽寺永禄日記
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越後国上杉輝虎の略譜 【24】

2012-09-26 19:18:52 | 上杉輝虎(謙信)の略譜
永禄7年(1564)9月 上杉輝虎(弾正少弼) 【35歳】

信濃国川中嶋陣(更級郡)から後退して同飯山(水内郡)の地に本陣を移すと、5日、前線の陣城で甲州武田軍の動向を注視させている旗本衆の堀江駿河守と岩船藤左衛門尉(実名は忠秀か)から脚力をもって、二度目の状況報告を受けると、本陣に詰める「直大政綱(直江大和守政綱。大身の旗本衆)」が、「堀駿(堀江駿河守)・岩藤(岩船藤左衛門尉)御報」に宛てて返書を発し、このたび目付を駆使されて入手した情報を、またもや御注進に及ばれたので、直ちに御返報を送ったこと、なおいっそう御油断なく目付を駆使して敵筋の様子を探られ、その変化を逃さず御報告されるべきこと、彼の脚力の口才によれば、その地の総勢をもって、敵軍の前線拠点である信濃国小玉坂(水内郡太田荘)に攻撃を繰り返しているそうであるが、若しも敵軍の反撃によって陣城が突破された場合、御当陣(飯山)まで危険に曝されるため、連日の総勢をもっての攻撃を止め、「目付嚊(忍衆か)」を初更に展開し、戦機を見極めた上での大規模な夜襲に戦術を変更されるべきこと、その際には、陣城の防備を十分に固め、足軽部隊のみで夜襲を仕掛けられるべきこと、敵軍が本取山(髻山。水内郡若槻荘)に小旗五本の小部隊を派遣し、哨戒活動を繰り返している事実については、その実態の把握に努められ、監視の目をかいくぐって物見衆を旭山口(水内郡)に潜行させ、武田軍の本営を探り出されるべきこと、その物見が帰還したあかつきには、当御陣に寄越して直に御報告すれば、御感心されるは間違いないとの仰せであること、これらを懇ろに伝えている。更に追伸として、取り立てて堀駿(堀江駿河守)に申し伝えるものであり、昼夜を分かたぬ辛労をかけてしまっているとの仰せながら、ますます御奮励されるべきことを伝えている。

6日、関東味方中の足利(館林)長尾但馬守景長(上野国館林城主)から、取次の「河田豊前守殿(長親。大身の旗本衆。同沼田城代)」に宛てて返書が発せられ、信州に御進発されて、日を追うごとに御勝利を挙げられているとの知らせが届き、めでたく喜ばしい思いであること、このたびの戦陣で御本意を遂げられるのは間違いないであろうこと、その戦陣の御一環として北条丹後守(高広。譜代衆。同厩橋城代)が西上野へ進攻されるのに伴い、愚拙(長尾景長)も同行して奮闘するつもりで準備を整えていたところ、にわかに東口(東関東)の情勢が悪化したので、愚拙は西上野出陣を見合わせ、同名(長尾)隼人佑・大屋右馬允を陣代に定め、自分が率いるはずであった軍勢を任せて参陣させたこと、そうしたところに、突如として氏康(相州北条軍)が下総国関宿城(葛飾郡下河辺荘)に攻め寄せると、彼の城衆に内通者が出て城内に火を放つも、兼ねてより警戒を強めていた城主の簗田中務太輔(晴助)は騒ぎを鎮めて要害を堅守したばかりか、攻城軍を迎撃して数多の将兵を討ち取ったので、氏康は関宿からの撤退を余儀なくされると、今度は武蔵国の成田筋(武蔵国衆の成田氏領)に鉾先を変え、昨日からは忍と久下の間の清水(いずれも埼西郡)に陣取ったので、愚拙は別働隊を彼の地へ向かわせる一方、自身は南河辺(武・総国境付近。或いは埼玉郡南河原のことか)へ出陣して、繰り返し牽制を試みていること、このように、こちらの状況の全てを丹後守(北条高広)が御注進するので、よろしく御披露してくれるように求められている。


この間、甲州武田「信玄」は、西上野先方衆の岩下「斎藤弥三郎殿(上野国岩下城主)」に対して書信を送り、越後衆が当国(信濃国)に出陣してきたので、信玄自身は小諸城(佐久郡)に、前衛軍が岡村城(小県郡)へと進陣したところ、当方の小旗などを視認した越後衆は後退して犀川を渡ると、翌日には小荷駄を捨てて逃げ去ったので、一戦を遂げられず無念であることを報知するとともに、斎藤家中のうちで若干名が、沼田(上野国沼田城衆)の計略に乗り、陰謀を画策しているとの噂が事実であれば、直ちに処断するべきことを指示している。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 433号 直江政綱書状(写)、434号 長尾景長書状、474号 上杉輝虎書状(写) 『戦国遺文 武田氏編 第二巻』 912号 武田信玄書状写


永禄7年(1564)10月 上杉輝虎(弾正少弼) 【35歳】

朔日、信濃国飯山城(水内郡)の改修を終えて帰国の途に就いた。

2日、(上杉「輝虎」)、前線の陣城に残る「堀江駿河守殿・岩船藤左衛門尉殿」に宛てて書信を発し、昨日で飯山城の改修を完了させ、帰国の途に就いたことを報知するとともに、甲州武田軍の動向が気掛かりなので、目付を張り付かせ、このまま退陣するのか、それとも犀川を越えて信濃国中野(高井郡)辺りまで進出してくるのか、その見極めが付いたら詳細を注進するように指示した。更に追伸として、目付からの情報を確認次第、岩船が帰府して報告するように指示を加えた。

4日、(上杉「輝虎」)、飛騨国の味方中である江馬四郎輝盛(飛州姉小路三木良頼の重臣。飛騨国高原諏訪城主)の側近を務める「河上式部少輔(丞)殿」に宛てて初信を発し、このたび輝盛から書中が届いたばかりか、祝儀の太刀一腰と鉄砲一挺を贈られたので、喜びに満ち溢れていることと、今後ますます厚誼を深めたいとの申し出にも、ひたすら歓喜していることを伝えるとともに、何かにつけ其方(河上式部丞)を通じるので、そのつど取り成しに奔走するべきことと、このほど家中衆が、其許(江馬家)にあっても当方に忠節を尽くすとの意思を示したので、こうして家中衆に初信を通じたわけであり、その趣旨をしっかりと心得るべきことを促した。

これから間もなく、関東へ出陣しようとしたが、従軍将兵の参集が芳しくないために遅延していたところ、甲州武田軍が西上野へ進陣したとの情報に接し、やむを得ずに手元の将兵を率いて出陣すると、半途(越後国上田荘)まで進んだところ、程なく武田軍は帰陣してしまったので、その場で人馬を休める。

14日、(上杉「輝虎」)、江馬四郎輝盛の重臣である「河上左衛門尉殿」に宛てて自筆の初信を発し、其許(河上左衛門尉)が輝盛と当方の間を取り成してくれるそうなので、このほど初信を通じたこと、ますます輝盛と当方が厚誼を深められるように、適切な意見を述べてくれれば、本望満足であること、よって、これらを河上式部丞が詳述することを伝えている。

16日、(上杉「輝虎(花押a3)」)、関東味方中の「富岡主税助殿(上野国小泉城主)」に宛てた自筆の書簡を飛脚に託し、当秋に先年のような大規模の関東遠征を催すため、力を尽くして準備を急いだが、一向に軍勢が集まらないので、もたついていたところ、晴信(甲州武田信玄)が上州に出陣したとの急報に接し、あらかじめ伝達していたように、このたびこそ晴信と決着をつける覚悟であったので、取る物も取り敢えず出陣して半途まで進むも、程なく晴信は退散してしまったこと、方々からも晴信は退散したとの情報が寄せられたので、さしあたって人馬を休息させたところ、北条丹後守(高広。上野国厩橋城代)から、諸方面の事態が切迫しているため、ともかく至急に手立てを講じるべきとの要請が繰り返し寄せられたこと、もはや猶予はないので、来る20日に必ず進軍を再開すること、当方が着陣するまでの間、相州北条方の攻勢を抑えるべきこと、これらを取り急ぎ伝えた。

20日、(上杉「輝虎(花押e1)」)、「河上式部丞殿」に宛てて返書を発し、先般に時盛(江馬左馬助。飛州姉小路三木氏の重臣。もとの高原諏訪城主)が甲州武田信玄に一味して起こした再乱は、はなはだ遺憾であること、先忠を違わずに輝盛を守って越中国境へ抜け出したのは、実に奇特な忠功であること、姉小路良頼(三木氏。中納言)と輝盛(江馬四郎)が高原(荒城郡)の時盛に抗戦するに当たって支援を求められたので、越中衆を飛州に派遣した直接支援に加え、それだけでは心許ないゆえ、自分が信濃国川中島(更級郡)に出陣して7月から六十日もの間、甲州武田軍の本隊を引き付けた間接支援により、満足に武田軍の支援を受けられなかった時盛が降伏を申し入れてきたわけであり、先ずここは聞き入れて和睦するべきであること、今後ますます輝盛に適切な意見を加えるべきこと、よって、これらについては村上義清(兵部少輔。客分の信濃衆。もとは信濃国坂木(更級郡)の領主。姉小路三木氏と江馬氏とのつてがあったと思われる)が詳報することを伝えた。
同日、取次の「河田長親(豊前守)」が、江馬方の取次である「河上中務丞殿(富信)」に宛てて返書を発し、このたび時盛が再び国方(飛州姉小路三木氏)に逆らい、晴信(甲州武田信玄)に一味して再乱を企てたのは、はなはだ遺憾であること、其方(河上富信)が筋目に従い輝盛を守って越中国境に抜け出したのは、極めて殊勝な忠功であること、良頼と輝盛が高原を攻撃するため、当方に支援を求められたので、越中衆を援軍として飛州に派遣したばかりか、自ら信州に御出陣して、7月から六十日間に亘って河中島に旗を立てられたゆえ、時盛は降伏して証人を差し出す旨を申し入れてきたわけであり、先ずここは受け入れて一和を遂げられるべきであること、今後ますます輝盛に適切な御意見を加えられるべきであること、よって、これらの詳細については御直書で示されることを伝えている。

このあと結局、国境を越えることなく越府に引き返し、今次の関東遠征を取り止めた。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 355号 上杉輝虎書状、436・437・438号 上杉輝虎書状(写)、439号 上杉輝虎書状、440号 河田長親書状(写) 『戦国遺文 武田氏編 第二巻』 913号 武田信玄書状
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越後国上杉輝虎の略譜 【23】

2012-09-24 20:23:16 | 上杉輝虎(謙信)の略譜
永禄7年(1564)7月 上杉輝虎(弾正少弼) 【35歳】

2日、関東味方中の佐竹「源真(右京大夫義昭。常陸国太田城主)」から、取次の「北条丹後守殿(高広。譜代衆。上野国厩橋城主)」に宛てた書簡が使者に託され、去春の輝虎による常陸国小田口(筑波郡)への御出陣の実現に努めてくれたのは本望満足であること、この謝礼として、旧小田領の沼崎郷・前野郷・佐村・山木の地を宛行うので、速やかに知行するべきであり、詳細については使者の馬見塚大炊介が口述するので、繰り返しの説明は避けること、これらを懇ろに伝えられている。更に追伸として、彼の者が当口の模様についても詳述するので、この書面を略したことを伝えられている。

5日、姉婿の上田長尾越前守政景(譜代衆。越後国坂戸城主)が急逝する。これにより、来る8日に予定していた信州出陣の日程変更を余儀なくされた。

6日、北条丹後守高広が、常陸国衆の佐竹氏の宿老中に宛てた書簡を使僧に託し、このたび敢えて連絡させてもらうこと、(輝虎は)当月中に関東へ出陣される予定であったが、なかなか人衆が集まらず、ままならなかったところに、思いがけずも信州口で好機を得たので、来る8日に彼の口への御出陣を決定されたこと、こうした事情を詳しく説明するために太田(常陸国久慈郡)へ使者を派遣されること、(輝虎の)信州御在陣中に氏康(相州北条氏康)が隙を突いて当陣営の領域に侵攻してくるのは必至であり、御自身(佐竹入道源真)が上州まで御出陣されて、南方衆(相州北条軍)の侵攻を抑止してもらいたいとの仰せであること、御苦労であっても、早々に御出陣されるべきこと、今般の要請について詳細は直達されるので、この書面を略したこと、詳細については拙者(北条高広)の使僧が口述するので、よろしく御理解を得たいこと、これらを懇ろに伝えている。

この中旬から下旬にかけて、飛州姉小路三木良頼(中納言を私称する)の重臣である江馬左馬助時盛(飛騨国高原諏訪城主)が甲州武田信玄に一味して再乱を起こし、敗れた三木良頼と、その支持者である江馬四郎輝盛(系図類は時盛の子と伝えているが、疑わしいようである)は、やむなく越中国境まで後退すると、そこから態勢を整えて高原(荒城郡)への反転攻勢を企図し、輝虎に支援を求めてきたことから、先ずは援軍として越中衆を派遣した。

23日、(上杉「輝虎(花押a3)」)、関東味方中の「富岡主税助殿(上野国小泉城主)」に宛てて書信を発し、必ず明日には信州へ乱入し、即時に彼の上郡へ進撃すること、あらかじめ何度も伝達した通り、武田方の西上野衆は信州へ参集するはずなので、上野国厩橋城(群馬郡)へ急行し、北条丹後守(高広)や西上野の味方中と協力して上野国小幡谷(甘楽郡額部荘)・同安中口(碓氷郡)の奥深くまで進撃するべきこと、両方面の総勢は信州に向かうはずなので、諸要害が手薄であるのは間違いなく、敵城攻略のために手立てを講じるべきこと、今こそ何時もながらの奮戦をするべきこと、これらを取り急ぎ伝えた。
24日、(上杉「輝虎(花押e1影)」)、出府する最中か進軍中に、越府代官の「蔵田五郎左衛門尉殿(秀家ヵ)」に宛てて書信を発し、このたび越中(越中味方中であろう)へ書簡を送るので、それを同名(蔵田)兵部左衛門尉(旗本衆)の所へ急いで届けるべきこと(兵部左衛門尉はすでに越中国へ向かっているか)、越中国からやって来る「人数(軍勢)」は越中・越後国境の越後国西浜地域の「寺家(頸城郡)」の周辺に着陣させるようにしたいので、その通りに先導してくるように、しっかりと兵部左衛門尉へ申し伝えるべきこと、これらを指示した。
29日、(上杉「輝虎(花押a)」)、「富岡主税助殿」に宛てて再便を発し、このたび岩付(太田資正)が見舞われた災難(相州北条氏に内通した長男の太田源五郎氏資(号道也。大膳大夫)によって放逐された)について、北条丹後守(高広)から注進状が到来したので披読したこと、まさに前代未聞の忌まわしい所行であること、しかしながら、美濃守(太田資正)の身柄は無事であり、取り分け彼の書中の意趣によれば、これまで以上に忠節を尽くす覚悟を示していること、当口については、今29日に信濃国河中島(更級郡)の地に着陣するので、近日中には佐久郡へ乱入し、状況次第で直ちに碓氷峠を越えて西上野に進出する考えであり、武州味方中と協力して陣容を整えておくべきこと、よって、これらを取次の河田豊前守(長親。上野国沼田城代)が詳報することを伝えた。

上田長尾越前守政景の死去については、永禄4年以降の輝虎の権威上昇に伴う組織の再編によって、上田長尾氏の与力に配されたらしい越後国魚沼郡波多岐荘に拠る国衆の下平修理亮(実名は吉長か。越後国魚沼郡波多岐荘の千手城主)との確執が刃傷沙汰に発展して共倒れとなったようである。
こうした組織の再編によって大身者に吸収される中小国衆が多数にのぼり、下平と同じく波多岐荘に拠った中条玄蕃允(越後国大井田城主か)などは上田長尾氏の被官化している。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 389号 上杉輝虎感状、419号 佐竹源真書状(写)、421号 北条高広書状(写)、423号 上杉輝虎書状、426号 上杉輝虎書状、429号 上杉輝虎書状(写)、439号 上杉輝虎書状、440号 河田長親書状(写)、997号 上杉輝虎書状(写) ※ 『越後入廣瀬村編年史 中世編』

◆ 江馬輝盛については、岡村守彦氏の著書である『飛騨史考 中世編』の「三 武田・上杉の干渉 【江馬系図の問題】」を参考にした。


永禄7年(1564)8月 上杉輝虎(弾正少弼) 【35歳】

朔日、(「藤原輝虎」)、信州更級八幡宮に願文を納め、甲州武田信玄の非道を訴えるとともに、甲州武田軍を打倒して小笠原・村上・井上・高梨・須田・嶋津ら信濃衆を故国に還住させる決意を表し、更には、武運長久と子孫繁栄、朝廷・幕府への覚えもめでたい功績を挙げられるように祈願した。

3日、犀川を渡って信州川中嶋の地に着陣する。

将軍足利義輝から、相州北条氏康との和睦を勧告する御内書が届いたのを受け、4日、(「藤原輝虎」)、将軍家の奉公衆である「大館陸奥守殿(晴光)」に宛てて返書(謹上書)を発し、北条左京大夫氏康と和睦するべきとの御下命について、このほど御内書を謹んで頂戴したこと、誠にもって過分極まりないこと、おおよそ、東国は元より坂の東は、古河様(鎌倉公方)に御統治が委ねられ、更に上杉が東副将(関東管領)に仰せ付けられたこと、取り分け宝筐院殿様(第二代将軍足利義詮)から稀有の御感を得て一紙五ヶ国の御判形を拝領したこと、これによって当家が御歴代に対し奉り、都鄙に於いて御忠節を違わなかったところ、彼の左京大夫(相州北条氏康)が関東で傍若無人に振舞い、つまりは憲政(山内上杉光徹。輝虎の養父)の旗本に策謀を弄して家中を引き裂き、当家が立ち行かなくなったこと、ひとまず憲政は越後に移られたので、関・越については、歴代の厚誼が深く、また、憲政を見捨てるわけにはいかず、先年に国境を越えて上州に進撃し、那波要害(那波郡)などの要所を攻め落として筋目を示したところ、かつての味方中も再起を遂げ、先忠に復してきたので、その諸軍勢を引き連れて相州に進攻したこと、百年ほど無事に過ごしてきた小田原(東郡)の地や各所の家屋を焼き払い、敵の根城を攻略するつもりでいたところ、佐竹(号源真。右京大夫義昭。常陸太田城主)・小田(中務少輔氏治。常陸国小田城主)・宇都宮(弥三郎広綱。下野国宇都宮城主)を始めとする味方中から、ここで凱旋するべきとの意見を繰り返し寄せられたので、その総意に従ったこと、公私共に本来であれば自分は鎌倉中に出入りするべきではないが、恐れながら余勢をもって憲政と共に鶴岡八幡宮に社参し、長々と鎌倉に滞在すると、数百里内外の旧跡を巡見して瞠目したこと、憲政は病身であるため、代わって愚拙が名代職(管領職)を相続するように、諸家が一揆同心をもって、しきりに受諾を迫ってきたこと、しかしながら、身分不相応であり、若輩であり、取り分け上意様(足利義輝)の御信任を得ておらず、自分勝手に納得するわけにはいかないこと、この旨を数日に亘って説明するも、八幡宮神前に寄り合った諸家から、この重要な戦陣の最中、無為に時日を送り、若し仮に余計な手出しでも入れば、無益に終わってしまうなどと、様々に談じ込まれたゆえ、深く斟酌したが、やはり身に余るので、何れにしても関東の大局を見据えて奮闘する思いに変わりはなく、憲政が本復するまでの間、御旗を預かるとの妥協案で納得してもらい、昨年以来の諸家の労兵に休息を与えなければならず、要地の防備を十分に整えた上で、取り敢えず凱旋したこと、こうして関東の過半を静謐へと導いたゆえ、左京大夫(北条氏康)は正攻法では勢力を維持できなくなり、例によって策略を弄し、弱者共を引き抜いたので、関東の端々で見苦しい状況に陥っていること、常州の小田氏治については、先年に北条の攻勢によって本拠から追いやられると、憲政が支援のための戦陣を催し、彼の者が十余年も牢籠した間に、二度も在所に還住させたこと、その厚恩を未来永劫に亘って忘れない旨を誓い、数通の起請文を差し出したにも係わらず、あっさりと(北条)氏康に与同して、彼の周辺の味方中に乱行を繰り返すため、遠境ではあるが、当春に小田の地へ長駆して要害旧地を取り囲んだこと、彼の地は年月を掛けて要害に強化を施しているため、味方中からは、慎重に攻めるべきとの提言が寄せられるも省みず、ひたすら強攻すると、二千余名の主だった者を討ち取り、一気に決着がついたこと、また、残党は堀溝で溺死するか焼死するかして、その数を把握できないほどであり、小田与党の三十余ヶ所は、その日のうちに証人を差し出して降伏したこと、野州の佐野小太郎(昌綱。下野国唐沢山城主)については、一旦は味方に復していたが、あっさりと北条に寝返ったので、小田からの帰途に立ち寄ったこと、佐野の地は険難の要害ではあったが、様々な工夫を凝らして攻めかかり、外郭を押し破ったところ、(佐野昌綱が)降伏を嘆願してきたので、主要な証人を数多く差し出させ、(昌綱の)処断は容赦したこと、(北条)氏康については、晴氏様・藤氏様御父子を伊豆奥郡に押し籠めたばかりか、御生害に及んだこと、不義を恥ともしない言語道断の輩なので、およそ和談するなどとは、思いも寄らない題目ではあるものの、御下知に背くわけにはいかず、上意に応ずるべく御請状を捧げ給うこと、このたび上使が御下向され、ともかく関東味方中は氏康と停戦するようにと、きつく申し付けられたので、皆々が緊張を解いたところ、一体どのように氏康へ御下知されたものか、先月23日に武州のうち太田美濃守(太田資正)の居城を乗っ取ったばかりか、日増しに様々な乱行を募らせており、はなはだ口惜しい思いをしていること、それでも上意を無視するわけにはいかず、この上は使者を上洛させること、御上使の大館兵部少輔方(藤安。奉公衆)に愚意を余す所なく申し伝えたこと、決して上意を軽んじない旨を、詳しく上奏に達するので、よろしく御披露願いたいこと、これらを懇ろに伝えた。

同日、(上杉「輝虎(花押e1)」)、関東味方中の「佐竹右京大夫殿(義昭。常陸国衆)」に宛てて書信を発し、昨3日に犀川を渡って河中嶋の地に布陣したこと、武田大膳大夫(信玄)と対向したならば、一戦するつもりであり、色々と信玄を引き摺りだすために策を講じているが、未だに甲州武田軍の本営の所在地すら不明であること、たとえ信玄が信濃国内の何れの地に陣城を構えて堅く守ったとしても、強攻して興亡の一戦を遂げるつもりであること、それでもなお信玄が一戦を避けるのであれば、佐久郡に進出して信州から武田方を一掃する覚悟であること、あらかじめ約束していたように、速やかに御自身が武・上州国境に出陣されて、甲軍と連動する南方(相州北条軍)の抑止に努められるべきこと、この時宜に例の如く御油断されては、悔やんでも悔やみきれないこと、よって、これらを取次の北条丹後守(高広)が詳報することを伝えた。

24日、(上杉「輝虎(花押d)」)、越府の「蔵田五郎左衛門尉殿(府内代官)」に宛てて返書を発し、このたび行き届いた音問が寄せられたので、ひたすら喜んでいること、府内と府城・春日山城の城下町の防火に留意するべきこと、春日山城の大門・大手門を必ず築造させるべきこと、要害の普請以下を、これまた留意して施工させるべきこと、当口については、晴信(甲州武田信玄)は塩崎(更級郡)まで進陣してきたが、攻勢に出てくる様子もなく、無駄に時日を送っており、もはやこれ以上は何もできないであろうこと、このように敵の挙動は口ほどにもないので、安心してほしいこと、よって、これらの詳細を各々(留守衆)にも周知させるべきことを伝えた。更に追伸として、必ず門番以下を配置し、留守将の新発田尾張守(忠敦。外様衆。越後国新発田城主)の小者が門番を務める際にも、緩怠のないように徹底させるべきことを指示した。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 427号 上杉輝虎願文(写)、428号 上杉輝虎書状、429号 上杉輝虎書状(写)、431号 上杉輝虎書状
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越後国上杉輝虎の略譜 【22】

2012-09-23 00:23:05 | 上杉輝虎(謙信)の略譜
永禄7年(1564)5月 上杉輝虎(弾正少弼) 【35歳】

13日、越後国柏崎(刈羽郡比角荘)の飯塚八幡宮の別当職である極楽寺に願文(朱印「円量」)を納め、このたびの五壇護摩執行の意趣は、一、越後国に於ける豊饒と安寧が永続すること、同じく分国の味方中が変節しないこと、いよいよ本意が達せられるように祈念するべきこと、一、輝虎が当秋中に甲州武田晴信(信玄)を撃滅して甲府ならびに晴信の全領国を占有できるように祈念するべきこと、一、輝虎が催す戦陣に於いて思うがままに力を振えること、生涯に亘って慈悲心を失わないこと、忠臣が健勝であること、そして、輝虎に関わる者共の所願が成就するように祈念するべきこと、これによって皆々が満足を得られれば、従来からの一万刈分に加えて千刈分の地を寄進することを通達した。

同日、将軍足利義輝(花押)から御内書(「上杉弾正少弼とのへ」)が発せられ、氏康(相州北条氏康)との抗争が未だに続いているのは、好ましい状況ではないため、分別を弁えて和睦に取り組むべきこと、よって、この旨を使者の藤安(奉公衆の大館兵部少輔藤安)が詳述することを伝えられている。
同日、同じく越後国上杉家の年寄中に宛てて御内書(封紙ウワ書「 上杉弾正少弼 年寄中」)が発せられ、相州北条氏康との抗争が未だに続いているのは、好ましい状況ではなく、このたび輝虎に分別を弁えて氏康と和睦するように申し遣わしたので、各々が輝虎に適切な助言を加え、和睦成就のために奔走するべきこと、よって、この旨を藤安が詳述することを伝えられている。

この正月の下総国国府台(葛飾郡)に於ける合戦の敗北によって、関東味方中の岩付太田美濃守資正が本拠地である武蔵国岩付城(埼玉郡)に戻れず、房州里見領へと落ち延びていたところ、先だって無事に帰還したとの情報に接し、16日、(上杉「輝虎(花押a3)」)、太田資正の次男である「梶原源太殿(政景)」に宛てて書信を発し、このほど美濃守(太田資正)が房州から無事に帰還したのは、誠にめでたいこと、房・総戦線の再建に尽くされて、酒井(上総国衆の土気酒井中務丞胤治。上総国土気城主)らを当陣営に加えたばかりでなく、岩付への帰還を手助けさせたのは、実に見事であること、関東の兵乱は一向に収まらず、自他共に苦境に陥っているため、来秋は早々に関東へ出陣して、果たせないまでも勝敗を決する覚悟で臨むこと、よって、これらを両使が詳述することを伝えた。


この間、甲州武田「信玄(徳栄軒)」は、朔日、先月に攻略した上野国倉賀野城(群馬郡)を守る西上野先方衆の「大熊伊賀守殿」に対して書信を送り、このたび(大熊が)寄越してきた倉賀野統轄のための方針などについての条々を承知したこと、これからも倉賀野城は和田城(群馬郡)・木部城(緑野郡)とならぶ重要な拠点なので、用心を怠ってはならないこと、この三日のうちに飯富(兵部少輔。譜代衆)、真田(弾正忠幸綱。信濃先方衆。信濃国真田城主)・阿江木(相木氏。依田能登入道常喜。信濃先方衆。信濃国相木城主)・望月(遠江守信雅ヵ。信濃先方衆。信濃国望月城主)らを倉賀野に派遣するので、それまでの間、必ず城衆を常備させておくべきこと、よって、これらを使者の吉田左近助(信生。譜代衆)と飯富三郎兵衛尉(昌景。同前)が詳報することを伝えている。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 405号 上杉輝虎願文、406号 足利義輝御内書、407号 足利義輝御内書(写)、408号 上杉輝虎書状 『戦国遺文 武田氏編 第二巻』 891号 武田信玄書状写、895・896号 武田信玄感状、897号 武田信玄感状写


永禄7年(1564)6月 上杉輝虎(弾正少弼) 【35歳】

3日、百姓中と調整して年貢率を決めると、旗本衆で構成する奉行衆の「某能信・飯田長家(孫右衛門尉)・河隅忠清(三郎左衛門尉)・五十嵐盛惟(官途名は主計助か)」をもって各所に証状を発し、五十七貫五百四文を納付するように通達した。

9日、この年より友好関係を結んだ尾州織田「信長(尾張守)」から、取次の「直江大和守殿(政綱。大身の旗本衆)に宛てて返書が発せられ、玉簡を謹んで拝読したこと、近年は関東御出陣を繰り返され、そのつど勝利を挙げられて秩序を回復させた上での御帰国は、誠にめでたい限りであること、このほど直和(直江政綱)を通じて、格別な厚誼を結ぶための条々を示されたので、すこぶる満足であること、改めて音信を通じるので、このたびは書面を略したこと、よって、これらを適当に御披露してほしいことを伝えられている。

24日、(上杉「輝虎(花押a3。姉倉比売神社宛願文は不明)」)、府城春日山城の看経所・越後国一宮の弥彦神社(蒲原郡弥彦荘)・越中国姉倉比売神社(婦負郡寒江荘)などに願文を納め、この輝虎は筋目を守って道理から外れた振舞いはしないこと、一、関東への遠征を毎年繰り返して平穏に治めようとしているのは、輝虎が上杉憲政から関東管領職を譲り受けたからこそ、敵に立ち向かって奮闘しているのであり、道理から外れた振舞いではないこと、一、信州へ出陣しているのは、第一には、武田晴信(甲州武田信玄)のせいで小笠原(大膳大夫長時。もと信濃国林城主)・村上(兵部少輔義清。同葛尾城主)・高梨(源太。もと信濃国中野城主・高梨刑部大輔政頼の子)・須田(相模守満国のことか。もと信濃国須田城主)・井上(左衛門大夫昌満のことか。同じく井上城主)・嶋津(左京亮忠直。同じく長沼城主)、そのほか信国の諸士が居所を失って流浪したこと、次には、武田晴信が輝虎の分国である上州を侵略したこと、更には、武田晴信のために信州河中嶋に於いて数多くの手飼いの者が戦死したこと、このような事情から武田晴信の退治に乗り出しているのであり、これもまた道理から外れた振舞いではないこと、越中を平穏に治めようとしているのは、神保(惣右衛門尉長職。越中国増山城主)と椎名(右衛門大夫康胤。同金山(松倉)城主)の抗争を止めるために説得を尽くしても、両者は承服しないからであること、椎名については、亡父(長尾為景)の頃から提携しており、長尾小四郎(景直。輝虎の甥)を養子に迎えており、ともかく見放し難いために加勢していること、これもまた道理から外れた振舞いではないこと、そもそも当家は、坂東の地から管区を治めるために関東の諸士に指図してきたのであり、その正否は管領の意向に懸かっていたこと、それゆえに、たとえ誰人に頼まれなくても、輝虎が関東の諸士を導くのは、これもまた道理から外れた振舞いではないこと、一、これから先はともかく、輝虎は只今のところ、どこの国にも一ヶ所の料所を保持していないこと、これは一時しのぎの私欲に走っていない証拠であること、一、輝虎の分国に於ける寺社領を武士が横奪しているのは、世の中の秩序が乱れているゆえ、輝虎が戒告しても聞き入れなかったり、やむを得ない事情を抱えた者がいたりするので、こうした有様であること、それでも堂社・仏堂の修理建立と寺社領の寄進については、そのつど精魂を込めて配慮を申し付けたこと、武田晴信と伊勢氏康(相州北条氏康)を退治したあかつきには、往時よりも増して積極的に配慮すること、これからも寺社に対して輝虎の一世中は、いささかも道理から外れた振舞いはしないこと、大小を問わず何事も神慮以外は頼みとしないこと、非道を知らず存ぜずが輝虎の本分であること、よって、いよいよ輝虎の所願が達するべきことを祈念した。
同日、(「上杉輝虎(花押a3)」)、同じく願文を納め、武田晴信悪行のこと、一、飯綱・戸隠・小菅の三名社を零落させて仏供・灯明を供えられなくしたこと、一、信州塚原陣の折、駿河(駿州今川義元)の調停をもって無事を遂げるに当たり、神慮に伺いを立てて誓詞を取り交わしたにも係わらず、あっさり破棄したこと、一、信州に於いて寺社領を俗人に与えてしまい、仏法を破滅させたこと、一、武田とは交流のない隣州や隣郡を奪い取ろうとして、非情にも攻撃を仕掛けたので、敵味方の戦火に巻き込まれた堂社・仏堂が焼失したのは、武田晴信の過誤であること、一、信州に於ける仏神の氏子が滅亡に追い込まれたり、浮浪して乞食になったりで、このたび仏力をもって彼らを助けてもらわなければ、誰も神慮を尊ばなくなるであろうこと、一、すでに直親の武田信虎を国から追い出し、浮浪させて乞食にした事実で孝心を失い、もはや仏神の真理を悟れはしないこと、一、よって、当秋中に武田晴信を退治し、輝虎が本意を達せられれば、寺社領と堂社・仏堂を従来通りに精魂を込めて配慮を申し付けることを約束した。

25日、(上杉「輝虎(花押a3)」)、関東味方中の「富岡主税助殿(上野国小泉城主)」に宛てた書簡を飛脚に託し、来秋に相州口へ出陣するつもりでいたところ、西上州の倉賀野城(群馬郡)が甲州武田軍に攻略されてしまい、西上野の味方中である長野左衛門大夫(箕輪長野氏業。上野国箕輪城主)が代官を寄越して窮状を訴え続け、信州筋への後詰を求めていることから、やむを得ず予定を変更して、来る7月8日に彼の筋へ出陣すること、このため西上野に手立てを講じる必要があり、当方の出陣に合わせて、全ての将兵を引き連れて出陣し、長野氏業の手引きに従って奮闘するべきこと、輝虎も同日に信州へ出陣するので、つとめて8日の日限を違えてはならないこと、準備が整い次第に検使(軍監)を派遣すること、これらを取り急ぎ脚力をもって伝えた。
26日、(上杉「輝虎(花押e1)」)、「富岡主税助殿」に宛てて再便を発し、初夏以来、何度も伝達しているように、来月は武・上州に出陣する覚悟を決めていたところ、信・甲両州に於いて好機が到来したゆえ、予定を変更して来る8日に彼の口へ出陣すること、当方の信州出陣に際しては、必ず氏康(相州北条氏康)が出陣してくるはずなので、東口の味方中を上州に招来して南方衆(相州北条軍)の侵攻を抑止させたいので、吾分(富岡主税助)は味方中に先んじて厩橋に向かい、北条丹後守(高広。譜代衆。上野国厩橋城代)と協力して準備に奔走するべきこと、よって、これらを検使の小野主計助(旗本衆)が詳述することを伝えた。

関東味方中の房州里見義弘から出陣要請を受けると、27日、(上杉「輝虎(花押a3)」)、房州「里見大郎殿(義弘)」に宛てて返書を発し、このたび寄せられた芳札の趣旨を詳しく読み込んだこと、何はさておき、宿将である正木左近大夫(勝浦正木時忠。上総国勝浦城主)の造反により、同じく正木大炊助(一宮正木時定。同一宮城主)が没落したと聞いて、思わず絶句したこと、其許(里見義弘)の御力落としのほどは、此方(輝虎)に於いても同様であること、其許が柔弱に陥っているのではないかと、はなはだ心許ないこと、こうした災難の一方で、御書中によれば、酒井中務丞(土気酒井胤治。上総国土気城主)が御父子(里見父子)の先兵を務める意向を表明しているそうであり、懇切に対応して房総の戦線を強化するため、御存分の通り、互いに協力されるべきであること、総州口への加勢については、御要請の趣旨は尤もであり、軽んじるつもりもないこと、すでに伝わっているであろうが、西上野のうち倉賀野左衛門五郎(直行。上野国倉賀野城主)は若輩ゆえの油断から、凶徒(甲州武田方)に居城を奪取されてしまい、そのせいで西上野の味方中が残らず窮状を訴え、しきりに西上野の背後に当たる信州への後詰を懇願されていること、彼の口が正常でなければ、東口への通路は途絶してしまい、それから後悔したところで遅きに失するので、先ずは信州へ進攻する決意を固めたこと、先頃に脚力をもって伝達した通り、出陣の日限自体は来る8日で変更はないこと、太田美濃守(岩付太田資正。武蔵国岩付城主)も去年の秋から相州北条軍の攻勢に窮迫しており、彼の地が維持できなければ、関東が破局するのは時間の問題であり、当方の出陣に合わせて、常・野両州を始めとする味方中の総勢をもって武州に出陣され、美濃守(太田資正)の先導で敵領を席巻してほしいこと、よって、関東経略の大局、里見家の発展、取り分け親密な美濃守(太田資正)のために、彼の口へ出陣されて味方中を主導するべきであり、毎度申し伝えているように、御奮闘されるのは今をおいて他にはないことを伝えた。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 409号 飯田長家等四名連署状、410号 織田信長書状、412号 上杉輝虎願文、413号 上杉輝虎願文(写)、414号 上杉輝虎願文、415号 上杉輝虎願文(写)、416号 上杉輝虎書状(写)、417号 上杉輝虎書状、463号 上杉輝虎書状(写) 『戦国遺文房総編 第二巻』 1146号 上杉輝虎書状
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越後国上杉輝虎の略譜 【21】

2012-09-21 06:18:06 | 上杉輝虎(謙信)の略譜
永禄7年(1564)3月4月 上杉輝虎(弾正少弼) 【35歳】

このたび西上野の味方中との盟約に従い、上野国和田城(群馬郡)を攻めることに決し、3月7日、和田城は小規模ながら、甲州武田信玄が入念に補強を施した堅城なので、攻略は至難と見越して逡巡するも、すでに攻撃を決断したからには、勝敗にとらわれずに迷いを捨てて不退転の覚悟で臨むと、関東国衆(味方中)は戦意に乏しく頼りにならないため、白井長尾左衛門尉憲景(上野国白井城主)に先導させ、自ら越後衆を引率して強攻する。別の攻め口を担当する北条丹後守高広(譜代衆。同厩橋城代)・箕輪長野左衛門大夫氏業(同箕輪城主)・横瀬雅楽助成繁(同金山城主)を始めとする国衆勢が戦果を挙げられないのを尻目に、白井・越後衆で外郭の防塁を手勢に犠牲を出すことなく奪取し、内郭の敵状が視認できるほどに迫った。

その後、佐竹右京大夫義昭(常陸国太田城主)・宇都宮弥三郎広綱(下野国宇都宮城主)・足利(館林)長尾但馬守景長(上野国館林城主)の一群が城を取り巻き、人数では圧倒しているにも係わらず、堅城ゆえに攻めあぐみ、戦前に予見した通り攻略は行き詰ってしまう。

10日、(上杉「輝虎」)、参戦中の「簗田中務太輔殿(晴助。下総国関宿城主)に証状を与え、繰り返し懇望されていた相馬一跡(下総国相馬御厨の守谷相馬氏領)の領有を認めること、今後ますます忠節を励むべきこと、これらを懇ろに伝えている。

13日、(上杉輝「虎」)、府城に留守居する老臣の「本庄美作守殿(入道宗緩。実乃。すでに家督は嫡子の新左衛門尉に譲っている)・金津新右兵衛尉殿・吉江中務少輔殿(中務丞忠景)」に宛てて返書を発し、そちらが寄越してくれた飛脚をすぐにでも帰すべきところ、当方の様子を見届けさせてから帰すために留め置いたこと、この7日に攻め掛けた上州和田城は小規模ながら、晴信(甲州武田信玄)が念入りに手を加えた堅城であるので、攻略は至難であるが、一旦攻めると決したからには、あれこれ考えずにためらいを振り払って不退転の覚悟で臨んだこと、例によって関東国衆(味方中)は戦意が欠けており、どうにも当てにならないため、自ら越後衆を引き連れて、白井(長尾憲景)を先導として敵城に取り掛かり、一日中攻め立てたこと、北条(高広)・箕輪(長野氏業)・横瀬(成繁)を始めとする国衆勢が一郭も攻め取れないなか、白井・越後衆は力の限り奮闘したゆえか、そのまま攻め上って外郭の防塁を奪取したこと、何といっても手勢に一人の負傷者も出さなかったこと、内郭との距離は、五間と言いたいところであるが、十間(18メートルほど)のうちまで迫り、直に様子を視認できること、以前の攻め口である志内口より主要部に接近していること、敵城が小規模であっても侮らずに大軍をもって五重に取り巻き、「うつの宮(宇都宮広綱)・佐竹(義昭)・あしかゝ(足利長尾景長)の軍勢については遠巻きながらも遺漏なく配置したので、十分に人手は足りていること、しかしながら優れた城であり、このまま長期戦に入れば、やがて国衆を帰陣させなければならず、兵力が減ってから軽はずみに後詰の一軍を投入しては、敵軍に横撃される恐れがあること、その一方で、後衛の投入が早過ぎれば、佐・宮(佐竹・宇都宮)を始めとする国衆が戦い甲斐をなくす恐れがあり、若しも彼らに立ち去られてしまったら、とても越後衆だけでは戦線を維持できないこと、この正月に房州・太田(房州里見氏と太田康資・太田資正の両太田氏による連合軍)が相州北条軍に敗北した頃よりも、いっそう戦局の悪化が進んでいるために生還が危ぶまれ、各々に再会は期し難いのではないかと心細さを感じながらも、一昨晩、何とかこの局面を打開しようとして策を講じたが、思い通りの采配が振るえずに口惜しいこと、それでも気を取り直して奮闘する決意であること、よって、これらを彼の飛脚が詳述することを伝えた。更に追伸として、かいほつ(開発某。旗本衆)と牢人衆のうちで、それぞれ一名の負傷者を出したが、何れも軽傷であることを伝えるとともに、とにかく今回はいつにも増して帰心が募り、この弱気が凶事を招いてしまうかも知れないことへの不安な心境を吐露した。

15日、(上杉「輝虎(花押d)」)、越府留守将の新発田尾張守忠敦(外様衆。越後国新発田城主)らに対する目付衆(旗本衆)の「金津新兵衛尉殿・本田右近允殿(実名は長定か)・吉江織部佑殿(景資)・高梨修理亮殿・小中大蔵丞殿(実名は光清か)・吉江民部少輔殿(実名は景淳か)・岩船藤左衛門尉殿(忠秀ヵ)・吉江中務丞殿(忠景)」に宛てて書信を発し、このたび春日(府城春日山城下の春日町)・府内(越後国府の政庁街)・善光寺門前(府内善光寺の門前町)以下、各要所の防火と警備について、改めて申し遣わすこと、定時に夜警を巡回させる法令を厳格に遵守するべきこと、およそ日没以降は町人衆も往来を禁ずるべきこと、何が何でも放火犯は捕らえて成敗するべきこと、不審者を目撃したら、こちらに注進する必要はないので、即座に成敗するべきこと、また、町方の者と見受けられたのならば、拘束して取り調べに当たるべきこと、若しも悪乗りして面倒をかけるならば、これも即座に成敗するべきこと、わずかな油断による過失から危機を招いてはならないこと、善光寺町には信州からの新規の移住者が多く、これに紛れて敵方の工作員による焼き取りなどの火付けに狙われ易いので、若しも住人が注意を怠り、みすみす放火を見逃した場合には、両隣三軒の住人を成敗するべきこと、これについても取り急ぎ住民たちに布告して用心させるべきこと、また、府内の住民にも同様に布告するべきこと、万が一、大事が起こった際には、先ず如来堂を保護するように、しっかり新発田忠敦に申し伝えるべきこと、奉公人・牢人であろうとも、不審な態度を取る者は、当然ながら成敗するべきこと、例外なく往来者の素振りを注視するべきこと、この条々を尾張守方(新発田忠敦)にも認知されるべきこと、これらを取り立てて伝えた。

この前後に上州和田陣を撤収した。

23日、(上杉「輝虎(花押影a3)」)、越府の代官である「蔵田五郎左衛門尉殿(秀家ヵ)に宛てて返書を発し、このたび飛脚をもって、心がこもって行き届いた書簡を寄越してくれたので、喜びもひとしおであることと、先に帰国させた長尾越前守(上田長尾政景)と相談し合い、府内の住人らに対し、法令通りに治安を維持させるように、必ず申し付けるべきことを伝えた。

24日、(上杉「輝虎(花押a3)」)、関東味方中の「富岡主税助殿(上野国小泉城主)」に証状を与え、このたび年来の知行されてきた各所に於ける本領分ならびに昨年から館林(上野国館林城主の足利長尾但馬守景長)と相論している上野国石打郷(邑楽郡佐貫荘)以下の地について、これまで尽くしてくれた様々な忠節に報いるため、永代領有を認めることを通達した。

これを機に富岡主税助を山内(越後)上杉家の譜代家臣として処遇し、以後は書札礼を薄礼に改める。

このあと帰国の途に就いた。

こうしたなか、輝虎の指示で途中帰国した上田長尾越前守政景(譜代衆。越後国坂戸城主)が着府すると、12日、信・越国境の拠点を守る信濃味方中の関屋民部少輔政朝(高梨氏の旧臣か。飯山領域の水内郡関屋を出自とする)から、「越前守殿(長尾政景)参御宿所」に宛てた書簡が使者に託され、留守中の防備のために、急遽御帰国を命じられたとの知らせを受けたので、すぐさま御連絡を入れる心積もりでいたにも係わらず、諸事に取り紛れて御連絡が遅くなってしまい、戸惑いを感じていたこと、内々に参上して御挨拶に及びたいと考えていたところ、敵軍襲来の情報が流れてきたので、同名(一族)の者をもって御挨拶に及ぶこと、このたびの御着府は、何よりも心強い思いであること、晴信(甲州武田信玄)が当方面に来攻するとの情報が流れるなか、武田方の信濃駐留軍が兵船の用意を進めており、方々の御談合をもって、しっかりと御援軍を派遣して下されば、感謝に堪えないこと、万が一にも御来援がなければ、とても持ち堪えられないこと、これらを留守将の直大(直江大和守政綱。大身の旗本衆。越後国与板城主)に詳報するので、御賢明な手立てを講じられるべきこと、よって、万事について再報告することを伝えられている。

※ 直江政綱は、恐らく永禄5年頃に名を実綱から政綱に改めたと思われるが、文書によって確認されるのは、この年からなので、ここより政綱と表記する。
※ 関屋政朝は、正確な時期は不明であるが、のちには武田家に従ったようである。

4月3日、上田長尾越前守政景の代行者である長男の長尾「時宗(丸)」が、関東からの帰陣後に、改めて上田衆の「下平弥七郎殿(越後国魚沼郡波多岐荘の国衆である下平氏から早くに分派した)」と「内田文三殿」に感状を与え、去る2月17日の下野国佐野扇城(安蘇郡佐野荘。唐沢山城)に於ける奮闘を忠賞している。

このほど関東味方中の富岡主税助から、深谷上杉左兵衛佐憲盛(上杉・北条両陣営の間を変転とする。武蔵国深谷城主)の支援を受け、相州北条方の軍勢を迎撃して多数の敵兵を討ち取り、残党を利根川に追い落とした戦勝報告が寄せられると、10日、(上杉「輝虎(花押a3)」)、「富岡主税助殿」に宛てて書信を発し、このたび深谷から助勢を得られると、敵勢を誘い込んで一撃し、凶徒を数百名を討ち取ったばかりか、残党を利根川に追い落としたそうであり、そのような情報を耳にして心地好い思いであること、いつもながらの並外れた戦功であること、今後ますます奮闘するべきこと、よって、これらを取次の河田豊前守(長親。大身の旗本衆。上野国沼田城代)が詳報することを伝えた。

20日、荒廃の著しい港湾都市の越後国柏崎町(刈羽郡比角荘)に制札を掲げ、一、当町に諸商売のために出入りする業者の牛馬荷物等については、町の周囲に関所を設けて新役を取り立ててはならないこと、一、青苧役については、必ず従来通りに完納するべきこと、一、当町については、先年に復興を遂げたにも係わらず、再興以前から先住している町民が、もっぱら好き勝手な場所に住居を構えて、未だに居住するべき宿に戻っていないそうであり、はなはだ不愉快な状況であること、この上は当宿への帰住を急ぐべきこと、但し、町民が現住する場所の領主が引き留めて帰住が遅れているのならば、その領主の名を列記した書付を寄越すべきこと、一、盗賊や放火犯等の存在を察知して告発した者には、計画によっても効果を得られなかったので、いっそうの褒美を遣わすこと、一、当町中に於いて無道狼藉を働く徒輩がいれば、現行犯は勿論、どのような身分の者であろうとも、その名を列記した書付を寄越すべきこと、若し、その場で捕縛するか、成敗するかしたとしても、町民の過失を問わないこと、一、当町再興を図った際の「休年記」の条項に対しての証判は別紙に書き付けたこと、よって、柏崎町中に於いては、これらの条々を厳守するべきであり、若しも違犯する徒輩がいれば、誰人手あろうとも罪科に処すること、但し、往古に定められた規定に異議を唱え、この制札を口実にして詭弁を弄し、町民に無理強いする者がいれば、重罪に他ならないことを通達した。

同日、(上杉「輝虎(花押a3)」)、信濃国飯山城(水内郡)の城衆(外様平衆)である「上倉下総守殿・奈良沢民部少輔殿・上堺彦六殿・泉弥七郎殿(実名は重歳か)・尾崎三郎左衛門尉殿(実名は重信、或いは重誉か)・中曽根筑前守殿・今清水源花丸殿」に宛てて書信を発し、飯山口の防備を強化するため、安田惣八郎(顕元。譜代衆。越後国安田城主)の軍勢に岩井備中守(昌能。信濃衆。もとは高梨氏の同名衆)を附属して派遣すること、聞くところによれば、今回もまた、それぞれが在所に戻っていたので、不甲斐なくも甲州武田軍の来襲に即応できず、飯山領が甚大な被害を受けたのは、はなはだ遺憾であること、今後は二度とこのような失態を繰り返さないように、必ず全員が在陣して抜かりなく飯山領の統治に当たるべきこと、陣所については、其許で相談して相応しい場所を選定するべきこと、よって、これらを備中守(岩井昌能)が詳述することを伝えた。更に追伸として、近日中に安田の軍勢は出立するので、何としても飯山領を堅持するように、皆で力を合わせるべきことを厳命した。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 313号 上杉輝虎書状、336号 関屋政朝書状、394号 上杉輝虎安堵状(写)、395・397号 上杉輝虎書状(写)、398号 上杉輝虎判物、401号 長尾時宗感状(写)、402号 長尾時宗感状、404号 上杉輝虎制札(写)、433号 直江政綱書状(写)、508・604号 上杉輝虎書状(写) 『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』 2450号 上杉景勝朱印状(写)

◆ 関屋氏の出自については、山本隆志氏による史料紹介の高野山清浄心院「越後過去名簿」【写本】(『新潟県立歴史博物館研究紀要』第9号)を参考にした。
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