永禄4年(1561)6月~7月 山内(越後国)上杉政虎(弾正少弼)【32歳】
引き続き武蔵国で相州北条軍と対峙するなか、6月2日、越府の荻原掃部助殿(大身の旗本衆)・蔵田五郎左衛門尉(実名は秀家か。府内代官)へ宛てて朱印状を発し、直ちに「新そう」(政虎の近親者であろう)を寄越してほしいので、その手配に奔走するべきこと、関東に残留させる越後国衆たちが、「しんさう」の当方の到着を待って、政虎には帰国してもらい、疲労を和らげてほしいと申し出てくれており、其元(荻原・蔵田)は早急に対応するべきこと、よしんば政虎だけが帰国すれば、そのまま越後に留まり、再び関東には戻ってこないのではないかと危惧している国衆たちから、「新さう」が到着したうえで政虎には帰国してほしいと嘆願されているため、どうにも見放し難く、(国衆を)安心させたいので、固い決意をもって「新そう」を呼び寄せること、其方でも政虎を早く帰国させたいのであれば、一刻も早く「しんさう」を寄越すべきこと、こうした事態は「しんさう」と番手になるようで、はなはだ外聞が悪くて口惜しいこと、従って、彼の分の所領を「峠」が保障を求めている件については、替地として間違いなく宛行うべきこと、この旨を「峠」に宛行う知行地には人を派遣して、事情を申し伝えるべきこと、これらを謹んで伝えた。さらに追伸として、「峠」の所領については、責任を持ってくら田(蔵田)が処置するように指示した(『上越市史 上杉氏文書集一』275号「荻原掃部助殿・蔵田五郎左衛門尉とのへ」宛上杉政「虎」朱印状【鳳凰型】)。
同日、将軍足利義輝から御内書が発せられ、このたび東国まで出陣すると、瞬く間に本意を達したと聞こえており、めでたく喜ばしいこと、いよいよ計画を滞りなく進められるべきこと、よって、一舟を差し下すこと、なお、詳細は輝氏(大館左衛門佐輝氏。奉公衆。晴光の子)が書面で伝えること、これら申し渡されている(『上越市史 上杉氏文書集一』276号「長尾弾正少弼とのへ」宛足利義輝御内書【署名はなく、花押のみを据える】)。
10日、上野国厩橋城(群馬郡)に滞在中の関白近衛前嗣から書状が発せられ、昨日は陣中へ飛脚を遣わしたところ、その方(政虎)の状況を追々知らせてくれるとの返答が寄せられたので、めでたく喜ばしいこと、また、敵軍が後退したあかつきには、速やかに帰陣するそうであり、それが適当であること、一、ただひたすらに病状を案じており、経過を知らせてほしいこと、とにかく病状を軽視しないで十分に御養生してほしいこと、一、昨日は太田源五郎(実名は氏資。武蔵国衆・岩付太田資正の嫡男)が当城を出立した事実を、前触れもなく知らされたので不可解に思い、(厩橋城将の)しはたかた(新発田尾張守忠敦。外様衆。越後国蒲原郡の新発田城主)に尋ねたところ、まさとら(政虎)からの指示であると、(政虎の陣にいる)「きたせうかた(北条丹後守高広。譜代衆。同刈羽郡の北条城主)」から確かに事情を申し伝えられたそうであり、やむを得ない成り行きに納得したこと、まさとら(政虎)の留守については、われら(近衛前嗣)に任された責任により、前もって(政虎が)言い置かれた指示に従い、なり田(武蔵国衆の成田氏)やミのわ(上野国衆の箕輪長野氏)の人質などにも実城(主郭)で勤番させるべく、「しはたかた(新発田忠敦)」を通じて両人へ申し付けたところ、昨夕になり田の幼い者(成田下総守長泰の嫡男である左衛門次郎氏長か)は参ったが、ミのわ(長野信濃守業正の嫡男である新五郎氏業か)は病と称して参らず、そういう事情であれば、兄弟で人質を務めているのだから、一人でも参るように申し遣わしたが、ついに昨夜は参らなかったので、今また申し遣わしたこと、一、実城の御留守については、力の及ぶ限り差配する覚悟なので、どうか御安心してもらいたく、すでにしはたかた(新発田忠敦)にしっかり指図したこと、一、昨日も申し述べた通り、その方が敵に攻めかかるのであれば、是非とも同行して盟約の結実の御祝儀を直接に表したいこと、一、何度も繰り返し述べた通り、軽はずみな御一戦は避けるべきであること、取り分け(政虎は)御患いの身であり、加えて暑気の時分でもあるため、はなはだ案じられてならないこと、それでもなお頼もしき御心中で満ち溢れており、めでたく敵を追い払って凱旋されるのを待ち望んでいること、これらを畏んで伝えられている。さらに追伸として、返す返すも、そちらの状況を知りたくて、またもや飛脚を遣わしたこと、御患いが事実ならば、その容態を聞かせてほしいこと、くれぐれも養生に努めるべきこと、これらを畏んで伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』277号 近衛前嗣書状【署名はなく、花押のみを据える】 奥ウハ書「政虎 まいる 前」)。
その後、甲州武田軍に信濃国上蔵城(水内郡の上倉城か)を攻略され、さらには武田軍が加賀・越中の本願寺門徒衆と連携して越後への侵攻を企図するなか、武蔵国勝沼口(多西郡)に在陣して同由井陣(同前)の相州北条軍と対峙していたが、決戦には至らなかったので、三田に新城を築いて勝沼口の防備を整えると、7月3日、関東味方中の那須修理大夫資胤(下野国烏山城主)へ宛てて返書を発し、勝沼の件について、示し給わったこと、遠境にもかかわらず、こちらの状況を気遣ってもらい、その御懇厚に感謝してもしきれないこと、彼の口に要害を築いて厳重に防備を申し付けたので、御安心してほしいこと、其元(那須資胤)は遠境なので、往々にして音信が途絶えがちであり、返事を疎かにしているかのようで、実に遺憾であること、余事については来信を期すること、これらを恐れ謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』279号「那須修理太夫殿」宛上杉「政虎」書状写【花押a影】)。
その後、上野国厩橋城を経て7月中に帰府した。
この間、甲州武田信玄(徳栄軒)は、10日、武州由井に在陣する甲斐国衆の加藤丹後守景忠(甲斐国上野原城主)へ宛てて返書を発し、先だって上蔵を攻略したのは来意の通りであること、このついでに越府へ攻め入るつもりでいたところ、加賀・越中両国の大坂門徒衆が当月16日か17日頃に越後へ攻め込むそうなので、それに連動するため、このたびは越府への進攻を延期したこと、一、敵方が三田に新地を築いたそうであり、そのために氏康が由井に在陣し、敵味方の間は三十里ほどであると伝わってきたが、無為に対陣を続けているようであり、どのような陣容であるのか、幸い其方(加藤景忠)が由井に滞留しているので、取り沙汰されている情報を注進するべきこと、一、今なお其方が由井に在陣しているにもかかわらず、このような成り行きは不可解であり、早飛脚をもって逐一を報告してほしいこと、これらを恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文 武田氏編一』746号「加藤丹後守殿」宛武田「信玄」書状)。
同じく相州北条氏康(左京大夫)は、15日、鎌倉公方の重臣である野田左衛門大夫弘朝(下総国栗橋城主)へ宛てて書状を発し、このたび御所様(足利義氏)が下総国関宿(葛飾郡下河辺荘)から同小金(同風早荘)まで 御座を移されるそうで、何はさておき御めでたい思いであること、近日中に証人衆の準備を整えるので、御安心してほしいこと、ともかく、 御台様(足利義氏の母。北条氏康の異母妹)の御逝去は、全くどうにもならない成り行きであり、氏康の心中を御察ししてほしいこと、もとより昨年から関宿の地に御籠城して力の限り奮闘されたのは、並外れた御忠信であり、必ず対面の折に謝意を申し述べること、これらを恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文 房総編二』1058号「野田殿」宛北条「氏康」書状)。
永禄4年(1561)8月~9月 山内(越後国)上杉政虎(弾正少弼)【32歳】
このたびの信州出馬に際し、8月29日、留守将の上田長尾越前守政景(譜代衆。越後国坂戸城主)に覚書を与え、一、越中衆から提出させた証人の監視は、怠りなく細心の注意を払うべきこと、一、援軍の会津衆(奥州黒川の蘆名家の援軍部隊)・大宝寺衆(出羽国の味方中である大宝寺氏の援軍部隊)が到着したら、府内の蔵田(五郎左衛門尉)の許に迎え入れて、越中が急迫した状況であれば、越中・越後国境の越後国西浜筋の能生・名立(頸城郡)に布陣させ、異変がなければ、そのまま府内に在陣させるべきこと、一、越中へ援軍を催す際には、蔵田に府内在陣の加勢衆を整えさせ、其方(長尾政景)が加勢衆を率いて越中に赴援し、手配りして戦陣を敷くべきこと、この補足として、この留守中に斎藤下野守(実名は朝信。譜代衆。越後国刈羽郡の赤田城主)と山本寺伊予守(実名は定長。一家衆。越後国頸城郡の不動山城主)を越中に在陣させており、三人で相談しながら、越中口の警戒に務めるべきこと、これらの条々を指示した(『上越市史 上杉氏文書集一』280号「長尾越前守殿」宛上杉「政虎」条書【花押a3】)。
越後国上杉軍が信州へ出陣すると(政虎自身の出馬は29日前後か)、それに応じて甲州武田軍も信州へ出陣している。
上野国厩橋城から下総国古河城(葛飾郡)に移った関白近衛前嗣が、下野国足利荘の鑁阿寺(足利郡)から寄せられた祝儀に対して礼状を送ると、28日、近衛前久の従者である(知恩寺)岌長(京都百万遍知恩寺の第二十八世で、現知恩寺住持の岌州(第三十世)と共に前嗣の関東下向に付き従った)が、鑁阿寺の別舎である千手院へ宛てて副状(謹上書)を発し、このたび(近衛前久の)御当城御鎮座により、早々に(鑁阿寺の)御衆中から御祈祷の巻数ならびに御樽一荷・御肴が進納されたので、めでたく喜ばしいこと、また貴院(千手院)から特別に両金の扇子と抹茶一壺を御進上されたのも、(近衛前久は)それぞれが一々めでたいと感じられていること、おまけに愚所(岌長)まで両金の扇子を給わり、何から何まで御懇志の至りであること、 上意(近衛前久)からこうして御内書が発せられたのは、御祝着であること、なお、再便を期すること、これらを恐れ謹んで伝えている(『栃木県史 資料編 中世一』【安足地区 足利市 鑁阿寺文書】576号「謹上 千手院 御報」宛知恩寺「岌長」副状 封紙ウワ書「謹上 千手院 御報 知恩寺岌長」)。
同日、同じく従者の某棟当(近衛家の家礼である西洞院時当か)が、千手院へ宛てて書状を発し、このたび寄せられた御懇札を披読し、ひたすら本望であること、(近衛前久が)御当城に御座を移されたので、(千手院が)御祝儀を申し入れられたのは、いかにもめでたいこと、もしも御用の向きがあれば、遠慮なく仰ってほしいこと、そうして(棟当へも)扇子一本を贈って下さり、めでたく喜ばしい思いであること、なお詳細については御使者の広瀬新五郎方が口述されるので略筆すること、これらを恐れ謹んで伝えている(『古河市史 資料 中世編』1018号「千手院 御報」宛「棟当」書状)。
29日、関白近衛前嗣の警護として古河に在城中の古志長尾景信(右京亮。政虎の縁者)が、鑁阿寺へ宛てて書状を発し、このたび(近衛前久が)当城に御座を移されたので、(鑁阿寺から)御祝儀として御樽・御肴ならびに御祈祷の巻数が贈り届けられたこと、すぐさま御披露に及んだところ、(近衛前久は)珍重に思召されており、このところをよく心得て(鑁阿寺へ)申し伝えるべきとの仰せであること、なお、追って申し述べること、これらを恐れ謹んで伝えている(『栃木県史 資料編 中世一』【安足地区 足利市 鑁阿寺文書】132号「鑁阿寺 貴報」宛「智信」(景信が正しい)書状)。
同日、古志長尾景信が、千手院へ宛てて副状を発し、このたび(近衛前久が)当城に御座を移されたこと、その御祝儀として(千手院から)御扇・抹茶が贈り届けられたこと、この旨を披露に及んだところ、いかにも珍重に思召されたので、御内書を発せられたこと、おまけに拙者(長尾景信)まで五明(扇)を給わり、恐縮していること、なお、詳細はこれ(使者の広瀬新五郎であろう)より申すこと、これらを恐れ謹んで伝えている(『栃木県史 資料編 中世一』【安足地区 足利市 鑁阿寺文書】565号「千手院 貴報」宛「景信」書状)。
9月10日、信濃国川中嶋(更級郡)の地において、自ら旗本衆を引率して太刀打ちに及ぶほど(政虎にとっては珍しいことでもなかったという)の激戦をした(『上越市史 上杉氏文書集一』290号 近衛前久書状)。一説によれば、両軍の戦陣が崩れて混乱の極みに陥るなか、政虎は独りはぐれて乗馬を失い、敵兵が二重三重に取り巻いたところ、馬廻衆の本田右近允が政虎を探し出し、単騎で敵中に駆け込み、人馬共に傷を負いながらも体を張って守り続けているうち、牢人衆の須田尾張守(翌5年に足利長尾但馬守景長の重臣として見える須田尾張守栄定か)が駆けつけたので、政虎を馬に乗せると、両名が協力して護衛に当たり、ようやく危地を脱したとも伝わる(市立米沢図書館デジタルライブラリー『先祖由緒帳』)。
11日、旗本衆(馬廻衆)の本田右近允(実名は長定か)に感状を与え、このたびの信州河中嶋の一戦における、馬廻としての並外れた奮闘を称えるとともに、今後ますます忠信を励むように申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』286号「本田右近允殿」宛上杉「政虎」感状(花押a3) 封紙ウハ書「本田右近允殿 政虎」●〔謙信公御書〕31号 上杉政虎感状写)。
※ 日付は〔本田文書〕の3日、〔謙信公御書〕の11日、〔越佐史料〕の12日と定まらないが、原本の写真を見た限りでは11日と読める。
13日、越後奥郡国衆の最有力者である中条越前守(実名は房資か。越後国蒲原郡の鳥坂城主)と色部修理進勝長(同瀬波(岩船)郡の平林(加護山)城主)に感状を与え、去る10日の信州河中嶋における武田晴信(信玄)との一戦に際し、力の限りを尽くした奮戦は格別であること、取り分け親類・被官人・手飼の者を数多く失いながらも奮励されたので、凶徒数千騎を討ち取る太(大)利を得たこと、まさに年来の本望を達したこと、このたびの面々の名誉と忠功については、政虎の一生涯にわたって忘失しないこと、今後ますます忠節を励まれるべきこと、これらを恐れ謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』287号「中条越前守殿」宛上杉「政虎」感状写、282号「色部修理進殿」宛上杉「政虎」感状【花押a3】)。
同日、越後奥郡国衆の安田治部少輔(越後国蒲原郡の安田城主)と垂水源次郎(越後国蒲原郡の垂水城主)、大身の旗本衆の松本大学助(実名は忠繁か。越後国山東(西古志)郡の小木(荻)城主)に感状を与え、去る10日の信州河中嶋における武田晴信との一戦に際し、力の限りを尽くした奮戦は格別であること、取り分け親類・被官人・手飼の者を数多く失いながらも奮励したので凶徒数千騎を討ち取る太(大)利を得たこと、まさに年来の本望を達したこと、このたびの面々の名誉と忠功については、政虎の一生涯にわたって忘失しないこと、今後ますます忠節を励むべきこと、これら謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』283号「安田治部少輔殿」宛上杉「政虎」感状【花押a3】、284号「垂水源ニ郎殿」宛上杉「政虎」感状【花押a3】、285号「松本大学助殿」宛上杉「政虎」感状【花押a】)。
またすぐに関東へ出馬しなければならないため、これまでのように長居することなく、信・越国境の信濃国市川城(高井郡。武田方に属する信濃国衆市川氏の元来の本拠地)や同野尻城(水内郡芋河荘)の防備を堅めて早々に帰陣した(『戦国遺文武田氏編一』759号 武田信玄書状写)。
これまでと異なり、両者の間で駆け引きしている様子を物語る史料が今のところ見当たらないので、両軍が信州に着陣してから、早い段階で一気に衝突したように感じられる。
そして、いつになく景虎に対して戦意の高かった武田信玄は、有能で信頼の厚い弟武田信繁を失っている(『戦国遺文武田氏編一』784号 快川紹喜書状写)。
また、越後国上杉軍では、外様衆の大川駿河守(実名は忠秀か。越後国瀬波(岩船)郡の藤懸城主)、譜代衆の志駄源四郎(実名は義時か。同山東(西古志)郡の夏戸城主)、旗本衆の庄田惣左衛門尉定賢(馬廻衆。景虎の栃尾時代からの近臣)らが、甲州武田軍では、親類衆の油川彦三郎、譜代衆の室住(両角)豊後守虎光、直参衆の山本菅助・三枝新十郎・初鹿野源五郎・安間三右衛門尉らが戦死したと伝わっている。これ以降は史料上で所見されなくなる人物が多いことから、恐らくは事実であろう。
15日、下総国古河城に拠る関白近衛前久(花押のみが据えられており、これより前に、実名を前嗣から前久に変え、同時に花押を公家様から武家様に変えている)、相州北条方の攻撃を受けていた某城(下野国佐野と足利の境目辺りの城塞か)を守っている越後衆の計見出雲守・吉江中務丞忠景(「計見出雲守(実名は堯元か。譜代衆)とのへ・吉江中務丞とのへ(政虎の旗本)」)へ宛てて返書を発し、たびたびの言上は神妙であること、南方(相州北条家)の動向については、その方面から(北条)氏康は退散したそうであり、何はさておき良かったこと、委細は知恩寺岌州(京都百万遍知恩寺の第三十世で、前久の関東下向に付き従った)が演説すること、これらを申し渡している(『尊経閣善本影印集成77 武家手鑑』59号 上杉輝虎(謙信)の書状とされているが、実は近衛前久書状である)。
信濃国川中嶋陣から帰国後の22日、旗本衆の岡田但馬守(実名は重堯か。馬廻衆)に感状を与え、このたびの河中嶋における一戦で、奮闘して首級を取ったのは、ひたすら殊勲であることと、今後ますます忠功を励むべきことを申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』288号「岡田但馬(守を欠くか)殿」宛上杉政虎感状写【署名はなく、花押のみを据える】)。
この間、武蔵国勝沼領(多西郡)の三田氏を滅ぼした相州北条氏政(新九郎)は、9月11日、武蔵国江戸城(豊島郡)の城衆である太田新六郎康資(江戸太田康資。武蔵国江戸城の城衆)へ宛てて書状を発し、去る10日の注進状が今11日に到来したこと、何度か当口の様子を知らせているにもかかわらず、これについての言及がないので、連絡が届いているのかどうか心許ないこと、このほど勝沼の唐貝山城(多西郡)を攻め落とすと、すぐさま当地高坂(比企郡)に攻め寄せたこと、日尾城(秩父郡)を南図(南図書助。藤田衆)が乗っ取ったので、当方の属城に加えたこと、この結果により、軍勢を割いて天神山城(秩父郡)を攻めさせたところ、あっけなく自落したので、彼の谷は思い通りに一変したこと、その一方では数多くの敵兵を討ち取ったが、公表を避けていた事実なので、あえて申し伝えなかったこと、先だって幸便を得たついでに知らせた通り、これから河越城(入間郡)に移ること、その地(江戸城)については、城代の遠山(綱景。江戸衆)と協力し合って防備に努めるべきこと、下総口については、味方中に支障がないかどうかを目配りするべきこと、これらを恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文 後北条氏編一』716号「太田新六郎殿」宛北条「氏政」書状写)。
◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『上越市史叢書6 上杉家御書集成1』〔謙信公御書〕(上越市)
◆『栃木県史 史料編 中世1』(栃木県)
◆『古河市史 資料 中世編 古文書(編年文書)』(古河市)
◆『尊経閣善本影印集成77 武家手鑑 付旧武家手鑑〔第十輯 古文書〕』(八木書店)
◆『戦国遺文 後北条氏編 第一巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 武田氏編 第一巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 房総編 第一巻』