越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎(謙信)の年代記 【永禄6年3月~同年4月】

2012-09-15 21:47:09 | 上杉輝虎の年代記

永禄6年(1563)3月5月 山内(越後国)上杉輝虎(弾正少弼)【34歳】


3月上旬から中旬にかけて、鎌倉公方に奉公衆として仕えてきた小田伊賀守家の累代が拠る武蔵国埼西城(埼西郡)に猛攻を加えて外郭・副郭を陥落させると、埼西小田助三郎(武蔵国衆・成田長泰の弟。官途名は大炊頭か)が当陣営の味方中である岩付太田美濃守資正(武蔵国岩付城主)を頼り、全面降伏を嘆願してきたので、これを容赦したところ、埼西城の救援に積極的ではなかった相州北条氏康を見限った武蔵国衆の成田下総守長泰(同忍城主)と下野国衆の藤岡茂呂因幡守(下野国藤岡城主)も帰参を嘆願してきたので、この両名も容赦した。


※ 埼西小田助三郎については、『戦国人名辞典』(吉川弘文館)を参考にした。


3月中旬から下旬にかけて、野州へ進攻し、北条方に寝返った下野国衆の小山弾正大弼秀綱(下野国祇園城主)の支城である網戸(都賀郡)の地を攻め取ると、宿将の北条丹後守高広(譜代衆。上野国厩橋城代)に保守させる。

その翌日には、小山秀綱の居城である祇園城(都賀郡小山荘)に攻め寄せる。

参戦した関東味方中の佐竹右京大夫義昭(常陸国太田城主)の族臣である石神小野崎三郎(又三郎政通のことか)が、小山方として参戦した下総国衆の結城左衛門督晴朝(小山秀綱の実弟。下総国結城城主)の重臣である多賀谷民部少輔を討ち取っている(『小山市史 資料編 中世』591号 上杉輝虎書状写)。



一方、小山方として参戦した常陸国衆の多賀谷修理亮政経(常陸国下妻城主)が、越後・関東連合軍の陣所のうちで浅間塚北口に敷かれた陣所に夜襲を仕掛け、多賀谷衆の野口・厚木・東郷らが幕際に迫っている(『小山市史 資料編 中世』833号 野口豊前戦功覚書写)。



攻撃を開始してから三日ほどで外郭部を制圧し、主郭へと追い詰めた小山一党を撃滅する寸前に、小山秀綱が降伏を嘆願してきたので、秀綱の出家と、その息子や小山親類・家中のうちから人質を提出させることを条件に、小山方として参戦した下総国衆の結城晴朝(秀綱の実弟)も含めて赦免した。

それから戦後処理を施したのち、佐竹右京大夫義昭・宇都宮弥三郎広綱(妻は佐竹義昭の娘。下野国宇都宮城主)らと相談し、下野国衆の佐野小太郎昌綱の拠る下野国唐沢山城(安蘇郡佐野荘)を攻囲した。


3月24日、野州の戦陣には参加せずに帰国した房州里見正五(岱叟院。権七郎義堯)・同義弘(太郎)父子の宿老である小田喜正木平七信茂(上総国小田喜城主)へ宛てて書状を発し、このたび武州へ向かって馬を進めたところ、相・甲両軍と一戦を遂げられずに歯がゆい思いは残っているものの、速やかに義堯・義弘父子が御着陣されたので、本望であること、さぞかし其方(正木信茂)には陣労を掛けたであろうこと、今回の武州陣について、こちらより申し伝えたところ、ちょうどその時に(里見父子から)示されたので、心地良い思いであったところを、よくよく心得てもらいたいこと、来秋は相州を急襲するつもりなので、御父子を引き立てて参陣されるのが肝心であること、このほど無事に帰城されたそうであり、満足であること、御当口(野州)については、阿地戸(網戸)を即座に攻め落とすと、北条丹後守(北条高広)に保守を任せ、翌日には小山へと進み、強攻して外郭の大半を打ち壊したのち、一気に始末をつけようとしたところ、(小山)秀綱が降伏を嘆願してきたこと、彼の者(小山秀綱)の背信には強い遺恨を抱いていたが、関東経略の大局を見据え、また、嘆願を無碍にはできないため、降伏を許して和議を結ぶと、秀綱は出家して墨染めの衣をまとい、息子ならびに家中のうちから証人を数多く差し出したこと、今後の戦陣については、(佐竹)義昭と(宇都宮)広綱が在陣しているので、両所と談合して決めること、なお、詳細は河田豊前守(実名は長親。大身の旗本衆。上野国沼田城代)が書面で伝えること、これらを恐れ謹んでを伝えた(『戦国遺文 房総編二』1094号「正木平七殿」宛上杉「輝虎」書状【花押a3】)。

野州唐沢山城を攻囲すると、佐野小太郎昌綱は恭順の意を示してきたが、先年に息子(虎房丸)を人質に差し出しているにもかかわらず、態度を変転させるため、その処遇を考えあぐねていたところ、下野佐野氏の同族である上野国衆の佐野大炊助(実名は直綱か。上野国桐生城主)が出頭して服属したことから、取り敢えず佐野昌綱の処分を保留し、4月6日頃に佐野陣を解散した。


4月6日、上野国厩橋城代の北条高広(丹後守)が、一族の北条源八郎親富に証状を与え、このたび弥五郎(景広。高広の嫡男)に差し副えるについて、鷹取黒部新六給分と役銭に加えて本給分の役銭、よな丸分の山を給付すること、今後ますます怠りなく奉公を励むべきことを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』338号「源八郎殿」宛北条「高広」宛行状)。


8日、留守将の長尾越前守政景(譜代衆。越後国魚沼郡の坂戸城主)へ宛てて返書を発し、去る3日の切書が今8日に到着し、披読したこと、信州境ならびに越中国の防備、府内・春日の用心以下を懈怠なく務めてくれているそうであり、意義深いこと、来札の通り、小山(秀綱)は、ひたすら恭順の意を示してきたので、それを受け入れて赦免したこと、続いて降伏を懇願してきた佐野(昌綱)との交渉も半ばに達していること、桐生(佐野大炊助)に至っては投降してきたこと、そういうわけで、一昨日に厩橋(上野国群馬郡の厩橋城)へ馬を納め、今日の夕刻には倉内(同国利根郡沼田荘の沼田城)へ着城したので、明日には本国へ向けて越山すること、安心してほしいこと、なお、詳細は河田豊前守(長親)が書面で伝えること、これらを謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』340号「長尾越前守殿」宛上杉「景(輝)虎」書状写)。


※ この文書の日付や書中の日時は、『謙信公御書集』などでは28日、23・28日となっているが、『越佐史料 巻4』(野島出版)に載録されている当該文書の8日、3・8日に従った。


11日、越後奥郡国衆の鮎川盛長(孫次郎。越後国瀬波(岩船)郡の大葉沢城主)が、被官の大島十右衛門尉に証状を与え、其方(大島十右衛門尉)については、(鮎川盛長が)牢籠中の頃に誰人よりも一身を捧げて奉公してくれたので、加恩として横野外記助遺跡の一円を宛行うこと、今後は越府に駐在して精励するのが肝心であること、これらを申し渡している(『新潟県史 資料編4』1981号 鮎川「盛長」知行宛行状 端見返しウハ書「大島十右衛門尉殿」)。


15日、上野国沼田城から、関東の戦況を心配して連絡を寄越してくれた奥州会津(会津郡門田荘黒川)の蘆名修理大夫盛氏(止々斎)へ宛てて返書を発し、このたび当国(関東)の戦陣について、御心配してもらったので、脚力をもって書状を差し上げたこと、そもそも関東の状況は、先年に進発した時分に、是非をつけて諸口の防備などを強固に整えたので、独力で戦えない北条新九郎(相州北条氏康)は武田大膳大夫(甲州武田信玄)と連れ立って出張し、取り分け去年の初冬頃からは、太田美濃守(岩付太田資正)が年来守り続けている松山城(武蔵国比企郡)に対向すると、甲・相両衆は昼夜の区別なく、彼の要害を攻め立てていること、美濃守(太田資正)の同心と被官の実力者が数千人が籠め置いているとはいえ、武・相国境の地であるがゆえに味方の進退が容易でなく、おまけに(相・甲両軍は)多勢をもって取り詰めているので、松山城衆は苦境に陥り、美濃守(太田資正)は加勢を催促するほかにしようがないこと、密かに一勢を派遣するのが当然であること、武大(武田信玄)と北新(北条氏康)が張陣し、幸い今こそ関東の悪逆人を殲滅するべき好機と見極め、相当の決意をもって、昨年の11月下旬、にわかに出陣したところが、旧冬はいつにも増して雪深く、軍勢の各々が駕輿をもって昼夜を分かたず、越山したこと、雪中の遠路を凌ぐ苦労は、(蘆名止々斎にも)御推察してもらえるであろうこと、されば、去る2月上旬、松山の敵陣に後背から迫るため、(敵陣から)僅か数里の地である石戸(武蔵国足立郡)に陣取るべく、急行していたところ、輝虎越山の報に接すると、いつものように両所(信玄・氏康)は策士であるから、城中へ人を忍び込ませて、案の定、城衆を言葉巧みのたぶらかしてしまい、そうして晴信は証人を城中へ渡されたゆえ、松山籠城の者共はつつがなく出城したこと、ちょうど(輝虎が)石戸に着陣したところ、相・甲両軍に松山城を明け渡した皆共(城衆)と出くわしたこと、(敵軍に)城内への道路・諸口を厳重に封鎖されていたので、(松山城衆は)輝虎の後詰を知り得ず、このような結果に終わってしまったのは仕方がないこと、それでも相・甲両軍と一戦して勝利を挙げてしまえば結構なわけで、敵陣に詰め寄り、連日にわたって攻撃を繰り返すも、(相・甲両軍は)難攻の陣所に籠ったままなので、引っ張り出すための策を講じ、輝虎の陣所を移動させると、囮兵を放って食い付かせようとしたが、囮の二部隊の攻め寄せ方が不自然であったのか、当軍の着陣の頃合いが不適切であったのか、敵軍が誘いに乗らず、ついに会戦には持ち込めなかったこと、もはや難所を越えて敵陣へ攻めかかるほかなく、翌日の一戦を期していたところ、内通者が密告したものか、相・甲両軍は慌てふためいた敗軍の格好で夜中に退散してしまい、陣場が隔たっていたので追撃はままならなかったこと、いずれにしても、このたび興亡の決着をつけられなかったのは無念であること、しかし、武州を離れる道すがらの崎(埼)西の地には、鎌倉公方の奉公衆である小田伊賀守家の累代が在城し、現城主の小田助三郎は、成田下総守(長泰)の弟であること、輝虎に対して直に不平不満をぶつけてはこないが、参陣に応じるわけでもなく、兄の逆心に同調しているようで、彼の城は四方を絶え間ない湿地帯に囲まれた特筆すべき要害であり、まるで攻め込む隙がないとして、年寄共が難色を示すも、氏康・晴信(信玄)と一戦を遂げられなかったのが口惜しく、思い悩んでいたところに、若年の者共が、このまま空しく通り過ぎたのでは闘志を失うと主張したので、崎(埼)西の地へ向かって陣を進め、軍勢を揃え、攻め道具を整え、一気に攻めかかると、立ち所に外郭・副郭を攻め取って主郭のみに追い詰めたこと、たまらず(小田助三郎は)美濃守(太田資正)を頼り、言葉を尽くして降伏を嘆願してきたので、寛大にも容赦したこと、すると、下総守(成田長泰)が当陣営への復帰を嘆願してきたばかりか、藤岡の茂呂因幡守も成田・小田兄弟と同前に帰属を願い出てきたので、この両名も寛宥したこと、それからは野州へ向かって陣を進め、小山弾正大弼(秀綱)の拠る祇園城を取り囲み、ここでも三日ほど猛攻を加えたところ、身命をなげうち出家のなりで降伏を嘆願してきたので、打ち滅ぼすわけにもいかず、小弾(小山秀綱)の息子をはじめとして親類・郎党のうちから多数の人質を受け取り、これも容赦したこと、結城(晴朝)については、小弾正(小山秀綱)の弟であること、これにより、彼の人(結城晴朝)も寛宥するべきとの強い要望が寄せられたので、それも了承したこと、輝虎について、何はともあれ馬を納められるべきとの提言が寄せられるも、次の佐野小太郎(昌綱)は若輩の身であり、家中の専横を許して背信を繰り返すので、小太郎(佐野昌綱)の拠る唐沢山城へ向かって馬を寄せたこと、彼の人も先年に一子を証人として差し出しており、いまなお当方で預かっていること、それにもかかわらず、不埒な家中にたぶらかされて参陣してこなかったこと、そうこうするうちに彼の人(佐野昌綱)が当陣営の味方中を頼って降伏を嘆願してきたが、諸将もあれこれ彼の人の言い分も聞かなくてはならず、無事がまとまるには途方もなく時間がかかりそうなので、余人に対する見せしめとして決着をつけるべきか否か、考えあぐねていたこと、当地の情勢も一変するはずなであること、その状況を見極めて、必要ならば強攻策に出ること、何はともあれ帰府するつもりであること、子細は河田豊前守(長親)が申し届けること、これらを恐れ謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』339号「芦名左京(修理)太夫殿」宛上杉「輝虎」書状写)。


こうしたなか、3月26日、関白近衛前久から、年寄衆の河田豊前守長親・直江大和守実綱へ宛てて書状が発せられ、それ以後は疎遠の極みであること、もとより、在国中における懇待の数々は、いささかも忘れていないこと、されば、上洛した折、輝虎から知らされている通り、様々な慰留にもかかわらず、逗留し難いやむを得ない事情などがあったゆえ、帰洛してしまったところ、立腹したそうであり、それは当然で反論の余地がないこと、さぞかし不愉快な思いをさせてしまったであろうこと、しかしながら、本心より聊かもないがしろにしてはいないこと、この趣旨を両人から輝虎に詳しく申してもらいたいこと、ことさら当時の自分は、まさしく未熟といい、軽率あるいは身勝手ばかり、それは明らかであったこと、一切合切を容赦してもらって、以前通りの厚誼を取り戻せるように、両人には取り成しに奔走してほしいこと、幾重にも懇願する覚悟は浅からず、輝虎へも改めて内状をもって申すので、格別に取り成してもらえれば、祝着であること、これらを申し渡されている(『上越市史 上杉氏文書集一』337号「川田豊前守とのへ・直江太和守とのへ」宛近衛前久書状写【署名はなく、花押のみを据える】)。



この間、相州北条氏康(左京大夫)は、3月17日、他国衆の成田下総守長泰の家老である手嶋美作守高吉へ宛てて書状を発し、(越軍の攻撃を受ける)崎(埼)西城への後詰として、(成田勢は)今朝方に出立したところ、出し抜けに処理しなければならない事案が生じて取り止めたそうで、実に期待はずれで無念極まりないこと、しかしながら、こちらは必ず(越軍へ)興亡の一戦を仕掛けるつもりでおり、状況と地形などについて談合したく、布施弾正(弾正左衛門尉康能。小田原衆)と太平左近大夫(馬廻衆の大草左近大夫康盛か)を(忍城へ)差し越すこと、なお、詳細は両人が口述すること、これらを恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文 後北条氏編一』807号「手島美作守殿」宛北条「氏康」書状写)。


甲州武田信玄(徳栄軒)は、武州退陣後の越後国上杉軍が河東(利根川以東)へ向かったことから、輝虎の野州攻略を予期しておらず、帰路から急遽、信濃奥郡へと向かい、越後国侵攻を企てるも、雪解けによる犀川の増水に阻まれて滞陣を余儀なくされるなか、4月7日、相州北条氏康の三男である大石源三氏照(武蔵国由井城主)へ宛てて書状を発し、このところ音信が途絶えていたのは、はなはだ不本意であったこと、いったい長尾景虎(上杉輝虎)が河東へ退散したので、高をくくっていたところ、(輝虎が)小山の地を取り囲んでしまい、事もあろうに(小山)秀綱が降伏してしまったのは、残念な結果であること、ただし、これは全く景虎の手柄ではなく、関東人の未熟な戦い振りが原因であり、三十日も持ち堪えられないような失態を演じるとは、無念極まりないこと、(武田信玄は)来る12日に必ず出馬し、ひたむきに戦陣を催すので、御安心してほしいこと、次に(輝虎は)佐野の地へ攻め込むようであり、幸いにも御指南(大石氏照は佐野昌綱の取次)を務めているので、敵陣営へ属さないように、調略はひとえに御手前に懸かっていること、これらを恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文 武田氏編一』818号「大石源三殿」宛武田「信玄」書状)。


14日、鎌倉公方足利義氏の奉公衆である河村対馬守定真が、奥州白河の白河結城氏(陸奥国白河城主)の宿老中へ宛てて書状を発し、(白河結城左京大夫晴綱による)昨年(2月)の御誓詞に対する御名札を、先頃に(北条氏康が)松山城(武蔵国比企郡)において調えられたこと、拙者(河村定真)が御届けするところ、急病にかかってしまい、未だに寝込んでいるゆえ、遅延しているのは、(白河晴綱を)決して軽んじているわけではないこと、来る20日のうちに氏康父子は結城(下総国結城城)へ自身御出馬に定めたこと、このたびの(結城左衛門督晴朝)との御手合せ(連合)は、言葉に余るほど喜ばしいこと、(河村定真が)氏治(小田中務少輔氏治。常陸国小田城主)と(結城)晴朝の許へ伺い、氏康の御誓詞ならびに御書中を御届けすること、御条目については、いずれも氏康自身が熟慮されたものであること、(小田氏治・結城晴朝は)大いに喜ばれるであろうこと、(北条氏康からの)御誓詞については、血判が捺されていないため、御不審を抱かれるであろうこと、これは未だにその口(両所)より御証人を寄越してこないからであること、(両所が)彼の御誓詞の趣旨をしっかりと受け取られ、早急に御使者を寄越すのを心待ちにされていること、その御使者の面前で氏康は血判を捺されるつもりであること、一、(北条氏康父子は)武田晴信(信玄)と今川氏真の両将を引き立てられ、武・上両国の防備を頼まれたうえで、氏康父子は来る20日のうちの(利根川)渡河を定め、越国の景虎(輝虎)へ向かって陣を進められること、(輝虎は)必ずや引き返してこられるであろうこと、されば、(氏康父子は)無二の御一戦を仕掛けられるつもりであること、そうはならなかったとしても、佐(佐竹右京大夫義昭。常陸国太田城主)・宮(宇都宮弥三郎広綱。下野国宇都宮城主)の在所にまで、氏康が攻め寄せられるとは、想像もしていないであろうこと、宇都宮は十日以内には方が着くであろうこと、このたびは資胤(那須修理大夫資胤。下野国烏山城主)も最初から最後まで参加するので、この機会に御本意を達せられるのは、疑いないと思われること、(白河晴綱にとっても)佐竹に横領された御本領の全てを奪還されるのは、御間違いないであろうこと、両皆川(宇都宮氏の外様衆。宗家の皆川山城守俊宗と庶家の同駿河守忠宗が並立する。下野国皆川城主)と笠間(孫三郎綱家。宇都宮氏の親類衆。常陸国笠間城主)には話を通されているので、御安心してほしいこと、佐野(小太郎昌綱。下野国唐沢山城)・成田(下総守長泰。武蔵国忍城主)をはじめとした味方に別条はないが、このたびは寄(埼)西(埼西小田助三郎。武蔵国埼西城主)と小山(小山弾正大弼秀綱。下野国祇園城主)だけが景虎に同心したこと、寄(埼)西については、二百騎足らずの寡兵なので、大した影響はないこと、小山方については、また当陣営に復帰されるはずなので、いずれも御安心してほしいこと、一、会津(蘆名氏)と取り交わした御誓詞に対する御返札を添えられたで、必ず御届け願いたく、いずれの御返事も待ち望まれること、当口については、いささかも御疑心を持たれる必要はないこと、拙者の病状も快復しつつあるので、来月の初めには結(結城)・小(小田)へ参って御目に掛かるつもりであること、これらを恐れ畏んで伝えている。さらに追伸として、このような病身ゆえ、憚りながらも願わくば御馬一匹を御所望したく、那弾(那須弾正左衛門尉資矩。下野国衆・那須資胤の一族)の所まで寄越してもらえれば、つつがなく参上できることを伝えている(『神奈川県史 資料編3下』7370号「白川御館人々御中」宛「河対 定真」書状)。


甲州武田信玄(徳栄軒)は、14日、佐野昌綱へ宛てて書状を発し、来意の通り、このたび一旦は河内(利根川以東)へ退散した景虎(上杉輝虎)が野州に侵攻すると、あっさりと(小山)秀綱は降伏してしまったこと、その未熟な戦い振りは残念であること、しかしながら、今度は敵(越後国上杉軍)が佐野へ向かい、唐沢山城の根小屋に攻めかかったところ、足軽戦で勝利を得られたのは、実に見事であること、誓約の旨に従って氏康(相州北条氏康)と同調されているのは、並外れて際立っていること、(佐野においては)信玄が後詰するからには、陣容に抜かりがないように御覚悟あるべきこと、このように伝えておいたにもかかわらず、その地への後詰は利根川の増水によって浅瀬がないため、後詰は別の対応にするしか、どうにもしようがなくなったこと、早速にも越国へ向かって攻め入るべきところ、信濃国奥郡の犀川が雪解けによる増水ゆえ、浅瀬が一切なく、これにより、去る4日から国中の人夫をもって、飯綱山麓に軍道を作らせていたところ、このほどようやく完成したので、すでに去る12日の出馬を定めたところ、景虎(上杉輝虎)が退散した様子を、去る10日に和田(右兵衛大夫業繁。西上野先方衆。上野国和田城主)から注進が寄せられたので、出馬を取り止めたこと、承った通り、来秋の戦陣を真剣に取り組んで、一定の成果を挙げなければ、相・甲両国は滅亡するほかない状況を強く肝に銘じているので、御安心してほしいこと、まずはこの麦秋に西上野へ出馬するので、その折に佐野近辺・関東各所の情勢についての御意見を寄せてほしいこと、これらを恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文 武田氏編一』820号「佐野殿」宛武田「信玄」書状)。


奥州会津(会津郡門田荘黒川)の蘆名止々斎(修理大夫盛氏)は、25日、河村対馬守定真へ宛てて書状を発し、先だって氏康へ誓句を差し上げたところ、このほど彼の回答が寄せられたこと、望み通りで心から喜んでいること、関東中における戦陣の有様について、心中では気掛かりであったところ、条々を示されたので、大いに喜んでいること、取り分け松山の地を手中に収められたのは、自分にとっても満足であること、景虎が後詰として武州へ向かったので、当然ながら勝負を決せられると思っていたところ、戦機を捉えられずに、ついには埼西の地は景虎に一味してしまったそうで、何とも残念な結果であること、よって、(景虎が)佐竹(義昭)・宇都宮(広綱)を伴って小山の地に攻めかかると、彼の地は降伏して景虎の手中に入ってしまったそうで、何としても後詰を全うしなければいけなかったのは明白だったであろうこと、このたび後詰の責務を果たされなかった事態について、(北条氏康は)頼りにならないという印象が、密かに奥州口で取り沙汰されていること、また、近日中に氏康は宇都宮に遠征されるようであり、今最も必要な措置であること、老子(河村定真)とは格別な歓談をしたいこと、奥州口においても、ここかしこで戦陣の止む気配がなく、諸家の仲裁を図るのも容易でないこと、岩城(左京大夫重隆。号明徹。陸奥国大館城主)と田村(安芸守隆顕。同三春城主)さえ誘引できれば、一気に収斂するはずなので、ここに御工夫を凝らすべきであること、このところを十分に結(結城晴朝)と小(小田氏治)にも相談されるべきであること、何はともあれ氏康が御発向の折には申し達すること、改めて関東における戦陣の様子を知らせてくれれば、その理解に努めること、これらを恐れ謹んで伝えている(『神奈川県史 資料編3下』7322号「河村対馬守殿」宛蘆名「止々斎」書状案)。


※『神奈川県史』 7322・7370号文書の年次比定と解釈については、黒田基樹氏の論考である「常陸小田氏治の基礎的研究 ―発給文書の検討を中心として―」(『国史学』第166号)と、同じく黒田氏の著書である『戦国関東の覇権戦争 北条氏VS関東管領・上杉氏55年の戦い』(洋泉社)の「第四章 「国衆」が左右する関東戦国史 」を参考にした。


◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『新潟県史 資料編4 中世二』(新潟県)
◆『小山市史 資料編 中世』(小山市)
◆『神奈川県史 資料編3下 古代・中世』(神奈川県)
◆『戦国遺文 後北条氏編 第一巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 武田氏編 第一巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 房総編 第二巻』(東京堂出版)

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