越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎(旱虎)の年代記 【永禄13年正月~同年2月】

2013-10-28 03:01:26 | 上杉輝虎の年代記

永禄13年(1570)正月 越後国(山内)上杉輝虎(旱虎。弾正少弼)【41歳】


参陣要請に応じない下野国衆の佐野小太郎昌綱に制裁を加えるため、下野国唐沢山城(安蘇郡佐野荘)に攻め寄せる。

朔日、関東味方中である成田左衛門次郎氏長(武蔵国衆。武蔵国埼玉郡の忍城を本拠とする)の家老である手嶋左馬助長朝へ宛てて返状を発し、年頭の祝儀として、樽
肴が到来し、喜悦であること、よって、当地唐沢へ向かって進陣したこと、成田左衛門二郎が早々に参陣するように進言するのが肝心であること、なお、(詳細は)山吉孫二郎(豊守。大身の旗本衆)が(紙面にて)申し越すこと、これらを畏んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』863号「手島左馬助とのへ」宛上杉「輝虎」書状写)。


4日(14日ヵ)、同盟関係にある相州北条氏政(左京大夫)から、取次の山吉孫次郎豊守へ宛てて書状が発せられ、取り急ぎ申し上げること、もとより西上州へ向けた御手立ての一報が寄せられるのを心待ちにしていたところ、佐野へ向かって御戦陣を催されたそうであり、このたび得られるはずであった栄誉と勝利への期待が外れて遺憾であること、これからでも、早々に西上州へ御打ち入りしてもらいたく、つまりは、(取り成しの)御精励が肝要であること、委細はなお進隼(進藤隼人佑家清。輝虎旗本)が帰路して申し述べること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』864号 北条「氏政」書状写)。


5日、関東味方中の広田出雲守直繁(武蔵国埼玉郡の羽生城を本拠とする)に血判起請文を与え、このたび当口(下野国安蘇郡の佐野領)へ出馬したところ、世間の動向に惑わされることなく、とりもなおさず着陣し、先忠の証を立ててくれたので、ますます感じ入っていること、輝虎が存命の間は、(広田直繁の忠信を)亡失しないこと、されば、先約に任せて、藤岡(下野国都賀郡)の地を出し置くこと、しかしながら、やむを得ない状況によって領有が困難な場合には、相当分の替地を申し合わせること、もしこの旨を偽るにおいては、諸神の御罸を蒙ること、よって、前記した通りであること、これらを誓約した(『上越市史 上杉氏文書集一』865号 上杉「輝虎」血判起請文【花押a4】)。


15日、相州北条方の取次である遠山左衛門尉康光(北条氏康の側近。小田原衆)から、山吉孫次郎豊守へ宛てて書状が発せられ、去る11日の(山吉豊守からの)御状が昨14日に到着し、披読致して、とりもなおさず父子(相州北条氏康・同氏政)に申し聞かせたこと、御書中の通り、信・甲へ向かうとして、 (輝虎は)御進発を申し立てられたこと、そうしたところ、見当違いの地へ御打ち入り、世間体だけではなく実益も損なわれて面目を失い、父子は怖気づかれていること、一、御書面の様子では、御分国は前切りも前切り(永禄4年半ばに遡って線引きする)の協定を結んでおり、当地(相府小田原)から申されたはずであるとのこと、一向にそのような(父子から)申し入れをしたとは覚えておられないこと、先書にも、拙者(遠山康光)へ仰せ下されたので、氏邦(藤田新太郎氏邦。氏康の五男。武蔵国男衾郡を中心とした鉢形領を管轄する)へも問い合わせたところ、そうした条件を(氏邦から)申し入れてはいないと、申されていること、ひたすら不審に思っていること、一、佐城(佐野唐沢山城)に御馬を立てられていること、(北条父子は)御心配に思われ、此方(小田原)から両使をもって申し達せられ、(佐野)昌綱へも(輝虎へ)御詫言を申し上げられるようにと、助言されること、きっと其元(輝虎)も御耳に入って承知されるであろうことこと、どうして当方が成り行きに任せて傍観していられる、爰元が懸命に事態の改善に取り組んでいる姿勢は、進隼(進藤家清)へ申し上げて相談したので、彼方が帰参してから、申し披かれるのではないかと思われ、委細は彼(進藤家清)の口上に頼み入るにより、(この紙面は)省略すること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている。さらに追伸として、氏照(氏康の三男。武蔵国滝山城主と下総国栗橋城主を兼務する)と氏邦へ御伝言を申し届けること、これを申し添えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』868号「山孫 参御報」宛「遠左 康光」書状)。


26日、常陸国太田の佐竹氏の客将である梶原源太政景(太田三楽斎道誉の世子)へ宛てて書状を発し、重ねて大石右衛門尉(旗本衆)をもって申し届けること、ただ今の様子では、(佐竹)義重が同陣、急がれているようには見聞できないので、三楽斎方(大田入道道誉)だけでも寄越すべきこと、そうでなければ其方(梶原政景)が早々に当陣(佐野陣)へ来るのが肝心であること、このように言っていても、(三楽父子に)疑心を抱いているわけではないこと、三楽父子のうち一人でも参陣しなければ、佐竹と輝虎の間が不仲であるため、三楽父子が共に陣払いしたものと、世間から騒ぎ立てられるのを見過ごしたと認知されかねないところは、口惜しいので、長年にわたって励んできた忠信を失念していないのであれば、三楽が何を言っても、(梶原政景は)明日のうちに馳せ参じ、三楽は佐陣(佐竹陣)へ向かわせるべきこと、其方(梶原政景)の手並みに懸かっていること、通常の機会であるならば、(とっくに佐竹勢が同陣しているべきで)これほどの辛労をもって同陣に至るとは、なかなか困り果てていること、このように行動が遅い人物とはじめて付き合ったこと、なお、(詳細は)彼者(大石右衛門尉)が申し述べること、これらを恐れ謹んで申し伝えた。さらに追伸として、(もしこのまま佐竹勢が同陣しないのであれば)皆川(下野国衆の皆川山城守俊宗。下野国皆川城を本拠とする)以下の者をどうように言ったとしても、(皆川らが)入魂を申し上げてくるならば、こうした者共に輝虎は思いを変えられるやもしれず、それから歎いても手遅れであること、この書中を他見してはならないこと、以上、これらを申し添えた(『上越市史 上杉氏文書集一』870号「梶原源太殿」宛上杉「輝虎」書状写)。


29日、同盟関係にある相州北条氏康(相模守)から、下野国佐野陣に帰着した進藤隼人佑家清(輝虎旗本)へ宛てて書状が発せられ、内々に(武蔵国鉢形城)へ入り来るのを心待ちにしていたところ、未だにやってこないので、遠山左衛門尉(康光。氏康の側近)を明日に半途まで差し向けること、其方(進藤家清)が鉢形までかならずかならず御発足あれば、祝着であること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』871号「進藤隼人佑殿」宛北条「氏康」書状)。



永禄13年(1570)2月 越後国(山内)上杉輝虎(旱虎。弾正少弼) 【41歳】


2日、上田衆(甥である長尾喜平次顕景の同名・同心・被官集団)の下平右近允に感状を与え、下野国佐野の飯守山(唐沢山城)における戦功は神妙であることを申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』872号「下平右近亮とのへ」宛上杉輝虎感状写【署名と花押はなく、朱印を据えたのみであったらしい】)。

同日、上田長尾顕景(のちの上杉景勝)が、配下の広居善右衛門尉忠家に感状を与え、佐野飯守山において、格別に奮闘し、敵を討ち取った戦功は、神妙の極みであること、これらを謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』873号「広居善右衛門尉殿」宛長尾「顕景」感状)。

同日、同じく下平右近允に感状を与え、佐野飯守山において、格別に奮闘し、敵を討ち取った戦功は、神妙の極みであること、これらを謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』875号「下平右近亮殿」宛長尾「顕景」感状写)。

同日、同じく小山弥兵衛尉に感状を与え、(輝虎が)佐野飯守山を取りなされ折に、粉骨を励んで駆け廻ったのは、神妙の極みであること、これらを謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』874号「小山弥兵衛(尉)殿」宛長尾「顕景」感状写)。


長尾顕景の戦陣での初見に当たるが、この佐野陣は前年8月の北陸遠征に引き続くものであるから、顕景の初陣は前者であったと考えられる。



3日、関東味方中の由良信濃守成繁(上野国新田郡の金山城を本拠とする上野国衆)から、取次の山吉孫次郎豊守へ宛てて書状が発せられ、取り急ぎ申し上げること、先月25日に相府小田原城へ(使僧の)玄蔵主をもって、御懸案への回答が遅滞しているため、つまりは口惜しい思いを説明したところ、玄蔵主が、小田原から脚力を伴って、今申刻(午後四時前後)に(金山城に)帰着したこと、本城(氏康)から寄越された脚力であること、とりもなおさず(この客僧に)案内者を添えて(佐野陣へ)向かわせること、遠左(氏康側近の遠山康光)は昨日に小田原を立ち、来る6日には鉢形へ着城するそうであること、進隼(輝虎旗本の進藤家清)を鉢形まで差し越してほしいそうであること、どうされるのか、本城ならびに新太郎(藤田氏邦)、遠左の切紙両通、(由良が)玄蔵主に託した折紙、いずれも御披見のために送り届けること、近日は、よくよく御披読あり、よろしく御披露を任せ入ること、玄蔵主が着いたならば、追って申し述べること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』879号「山孫 御陣所」宛由良「信濃守成繁」書状)。


同日、遠山左衛門尉康光が、由良信濃守成繁へ宛てて書状を発し、取り急ぎ申し達すること、今3日に当府小田原を罷り立つこと、どんなに風雨が厳しくても6日には、たとえどのような風雨が吹き荒れようとも、鉢形へ罷り着くこと、佐野御陣下(輝虎)へ御申し上げられ、かならずかならず進隼(進藤家清)を鉢形まで寄越されてほしいこと、日福(玄蔵主)が御馳走した御意趣といい、殊に先頃は様々に(由良から)御意見が寄せられたゆえ、(遠山が)調えるので、進隼が御越しになるついては、その地から御代官を差し添えられ、早々に御落着させるのが肝心であること、委細は来信を期していること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』880号「由良信濃守殿 参御宿所」宛「遠左 康光」書状写)。


同日、鉢形城へ派遣した使者の進藤隼人佑家清が、山吉孫次郎豊守の陣中に居る同輩の堀江玄蕃允へ宛てて書状を発し、(進藤の鉢形への到着が)遅参致している有様について、(輝虎が)御立腹されているそうであると知らされ、困惑して悲歎し、半途の地(上野国金山城か)で難儀していること、されば、小田原(相州北条氏康)から次郎殿(山吉豊守)の所へ飛脚が差し向けられたこと、拙夫(進藤家清)へもこのように仰せ越されたこと、この折には、(相州北条側から)懸案の回答が示されるかもしれないと考えていること、なおも鉢形城へ向かうべきかどうかを、承りたく、(堀江から)次郎殿へ御内意を得られ、詳しい御返事を御待ち申し上げること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』878号「堀玄 参御陣所」宛「進隼 家清」書状)。


6日、遠山左衛門尉康光が、由良信濃守成繁へ宛てて書状を発し、小田原からの御状を、当地(鉢形へ)まで持参したので、今朝方に(使者の)薗図をもって御状を(新田へ)送ろうと考えていたところに、(使者の)一忠を寄越され、ことさら御心安く思われている(気心が知れている)方であると、御紙面に露わされているので、御状二通と糊付けの書状を共に彼方(一忠)へ渡したこと、一、小田原からの御状表と、(小田原から戻った由良の使僧)玄蔵主の口上には、内容の相違は御不審の通りで、しかしながら、(輝虎が)西上州へ向かって御戦陣を催されたならば、岩(武蔵国埼玉郡の岩付領)を引き渡されること、玄蔵主の口上により、詳しく申し入れること、一、松(武蔵国比企郡の松山領)の引き渡しについては、このたびは是非を仰せ付けられなかったこと、ただし、早急に是非を付けること、一、御養子の御事、これは御迎えとして、柿和父子(越後国上杉家の重臣である柿崎和泉守景家・同左衛門大夫)の御一人を相府へ寄越されれば、御相違なく引き渡されること、一、岩の件については、太美(太田美濃入道道誉)への引き渡されるのは、どうしたものかとためらわれていること、ただし、(大田入道道誉の世子である)源太(梶原政景)を小田原へ一両年も在府させられるべきかどうか、こうした件なども、進隼(進藤家清)と対談すれば、落着はすぐに済むこと、一、山孫(山吉豊守)からは、拙者(遠山康光)も御陣下へ参るようにと、山孫(山吉豊守)が仰せになって下さったこと、一忠が御見聞の通り、灸治療ゆえ、その地(佐野陣)まで参るのは無理であること、御用があれば、御書付をもって当地(鉢形城)まで仰せ越されてほしいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』881号「信濃守殿 参御宿所」宛「遠左 康光」書状)。


8日、関東代官を任せている北条丹後守高広(上野国群馬郡の厩橋城の城代)へ宛てて書状を発し、(使者の)専柳斎(山崎秀仙)を(当陣へ)寄越すとのことなので、午刻(正午前後)まで待つも、やって来ないので、(こちらから)早飛脚を立てたこと、一、小貫(佐渡守頼安。常陸国太田の佐竹義重の側近)に対して孫次郎(輝虎側近の山吉豊守)が尋ねたところでは、去る年の春(永禄10年)にも沼田(上野国利根郡の沼田城)まで、(佐竹義重からは)ついに当地(下野国佐野の佐野昌綱)の件(同陣)を承知してもらえなかった頃に、(輝虎が)強く(佐野)昌綱との(対立の)御清算を望んでは、屋形(佐野氏当主)を彼の者(佐野昌綱)に返すように御考えを変えられるかどうかの説明を(佐竹に)しているところから、今日までも(佐竹が)同陣してこないのは、(佐竹が前回に承服できなかった説明の内容とは)別の理由があるわけではないであろうこと、(輝虎は佐竹から)義重の家中をはじめとした同陣の者共から証人を取りなされるべきであると、堅く聞届けたわけであるにより、(佐竹は)この一ヶ条が片付けば、当陣にいつまでも陣取るそうであること、今日までは、こうしたことは心にも思っていなかったこと、いかなる子細であるのか、(佐竹は)ひとえにこの機会に皆川(下野国皆川の皆川山城守俊宗)から証人を取りたいそうであること、この(要望について)返事をどうするべきか、よい手段が浮かばずに持て余していること、一、まずは(佐竹へ)一札を出して同陣したならば、そのうえで義重と相談し合い、皆川の統制に当たるべきではないかと、当地(佐野)を統括できれば、以後以後は皆川ばかりを従わせるのは容易いこと、まずは(証人の件を)承諾して、(義重が)同陣すれば、一功を挙げたうえで、統治は容易いこと、たとえ関東中の諸士から証人を取ったとしても、先年(永禄9年)のように関東の体制が崩壊すれば、証人は捨てるしかないこと、(佐竹)義重が同陣して、佐野も落着し、関東の戦線を再構築できれば、その身なども差し出してくるであろうか、最後の手段としてこの証文を出し、同陣を急がせたいこと、そのために書いて遣わしたこと、義重への一札であること、これらを謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』485号「北条丹後守殿」宛上杉「旱虎」書状【花押a4】)。


12日、鉢形在城中の藤田氏邦から、越後国上杉家の使者である進藤隼人佑家清(輝虎旗本)へ宛てて書状が発せられ、御養子の件については、佐陣(下野国佐野陣)へ差し越されるようにとは、(相州北条父子も)納得はしていながらも、迅速には準備を調えるのは難しいと考えていること、そのような状況であるにおいては、まずは岩(武蔵国岩付領)の件をいかようにも意見の限りを尽くし、その間に(御養子の)三郎殿の御用意を準備を調えられ、西上州へ御攻めになっている最中に(三郎を)着陣させるのはどうかと、いずれの懸案を解決させるようにと、覚悟を致しているだけであるのは、この通りであること、以上、これらを申し渡されている(『上越市史 上杉氏文書集一』882号 藤田氏邦書状 端見返しウハ書「進隼 参 新太郎」)。

18日、相州北条氏康・同氏政父子から起請文が発せられ、一、このたび篠窪治部(越陣に詰めていた北条方の連絡要員か)をもって、山吉方(豊守)から(懸案を解決するのための)条々を承り、重ねて(両使の)進藤・須田方が到来し、これにより、(北条父子の)愚意に偽りのないところを、宝印を翻した誓詞をもって申し上げること、御理解を得て、ますます(越・相両国が)御入魂の間柄となれば、本望であること、一、岩付の件については、佐陣(下野国佐野陣)の最中において引き渡すべきとのこと、去秋以来の申し定め通りであること、(輝虎が)信州か西上州へ向けて、一意専心の御戦陣を催されてからと、申し上げたはずであるも、どうしても御陣中にてと承ったからには、それに従うつもりであること、よって、(信州か西上州への)御手立てを確約する旨を、案文通りに認められた御誓詞を給わりたいこと、この補足として、太美(太田美濃入道道誉)の事は、何度も申し入れている通り、(太田道誉)が当方に敵意を露わにして、敵方と関東の諸士の間を取り持っているところを、深く御認識が明確なものとなった時には、岩城を渡し置くのは御留保され、氏政と太美の間の疑心を晴らすように御取り成しが専一であること、そのためには、源太(梶原政景)を証人として、しばらく当府に在留させるべきであること、もとより、越・相御一和を遂げられたからには、両国は禍福を共にする間柄となったのではないかと思われ、この機を逃さず、御同意を得られれば喜悦であること、一、御養子については承ったこと、最前から申し上げている通り、柿崎方(景家)か、そうでなければ、彼の子息である左衛門尉(左衛門大夫)を(当府へ証人として)寄越されるべきこと、御養子を西上州において引き渡すこと、右の条々に、万が一にも偽るにおいては、諸神の御罸を蒙るべきものであること、よって、前記した通りであること、これらの条々を誓約されている(『上越市史 上杉氏文書集一』883号「山内殿」宛北条「氏康」・北条「氏政」連署起請文)。


28日、関東味方中の広田出雲守直繁(武蔵国埼玉郡の羽生城を本拠とする武蔵国衆)に証状を与え、このたび(輝虎が)関東越山し、佐城(下野国安蘇郡佐野の唐沢山城)へ向かって出馬したところに、同日に馳せ参じ、殊に(広田直繁が)河辺(下総国葛飾郡下河辺荘か)へ打ち上った折にも、連絡を寄越されたのは、先忠・当忠ともに類い稀で神妙な心懸けであること、これにより、館林城(上野国邑楽郡佐貫荘)を(館林領)知行と共に出し置くこと、しかしながら、佐野領と足利領(下野国足利郡足利荘)は除外すること、そしてまた、越府まで使いを務め、辛労が絶えないので、館林領のうちで羽根田郷と飯富郷を、佐藤筑前守と小安隠岐守に出し置くものであること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』885号「広田出雲守殿」宛上杉「輝虎」判物写)。



この間、敵対関係にある甲州武田信玄(法性院)は、朔日、常陸国太田の佐竹氏の客将である梶原源太政景へ宛てて書状を発し、誠に肇年の吉兆は、終わらないこと、よって、太刀一腰が到来し、珍重であること、こちらからも祝儀を表し、太刀一振りを進上すること、従って、旧冬に当表(駿河国)へ出陣し、敵城数ヶ所を攻め落としたこと、この様子を(太田)道誉へ紙面で露わにしたので、詳しくは書かないこと、なお、其方(太田・梶原父子の)本意(道誉の旧領である武蔵国岩付領への復帰)は当春に極まること、抜かりなく岩付城内へ御計策を用いるのが専一であること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編三』1498号「梶原源太殿」宛武田「信玄」書状)。

22日、西上野先方衆の高山大和守(実名は泰重か。上野国緑野郡の高山城を本拠とする上野国衆)へ宛てて返状を発し、たびたびの音問は祝着であること、先書で寄せた通り、徳一色城(駿河国益津郡。武田軍による改修後は田中城となる)は落居したこと、元来の堅固の地利であるので、普請に及ばず、本城に三枝土佐守(虎吉。御譜代家老衆)、ニ・三の曲輪に朝比奈駿河守(信置。駿河先方衆)・同筑前守(輝勝。同前)を在城させ、去る15日に清水津(駿河国有度郡)へと移陣し、地利(江尻城)を築き、岡部豊前守(駿河先方衆)以下の海賊衆を差し置き、今日中に納馬すること、佐久郡衆(信濃先方衆)はその表(西上野)の備えさせるにより、前日に帰国させたので、まずは御安心してほしいこと、もとより八十日間の在陣中に、五ヶ所の敵城を攻め落としたところ、小田原衆は一騎一人も反撃してくる気配がなく、誠に弱兵で度量が狭すぎること、これらを謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編三』1515号「高山大和守殿」宛武田「信玄」書状)。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『戦国遺文 武田氏編 第三巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 武田氏編 第六巻』(東京堂出版)

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越後国上杉輝虎(旱虎)の年代記 【永禄12年12月】

2013-10-13 15:52:37 | 上杉輝虎の年代記

永禄12年(1569)12月 越後国(山内)上杉輝虎(旱虎。弾正少弼)【40歳】


朔日、攻略した常陸国小田城(筑波郡)に在陣している東方の味方中のうちの太田美濃入道道誉(三楽斎。俗名は資正。常陸国太田の佐竹氏の客将)・梶原源太政景父子の許へ派遣した使者の大石右衛門尉(輝虎旗本)へ宛てて書状を発し、多賀谷(修理入道祥聯。俗名は政経。常陸国下妻城を本拠とする常陸国衆)の所から
申し越してきた様子によれば、氏治(佐竹氏らと対立する常陸国衆の小田氏治。もとの小田城主)が片野城(常陸国北郡)へ向かって攻め懸かけてきたところ、美濃守(太田道誉)が打ち出でて一戦を遂げ、大利を得て、殊に小田城を乗っ取ったそうであり、気分が好いこと、しかしながら、義重(常陸国太田城を本拠とする佐竹次郎義重)を(太田が)小田陣へ引っ張り出したので、宇都宮(弥三郎広綱。下野国宇都宮城を本拠とする)や多賀谷をはじめとする東方の衆が小田の地に勢揃いしているので、東方の味方中は輝虎方へ手合いの者(同陣してくる者)は一人もいないこと、(太田・梶原父子が)身(輝虎)との約束を後回しにして、小田の戦後処理に懸かり切りになる時には、宿願を捨て去って、片野・小田に執心する覚悟が見えたならば、早々に吾分(大石右衛門尉)は帰ってくるべきこと、もしまた、(太田父子が)岩付(武蔵国埼玉郡)・松山(同比企郡)に復帰する宿願を心懸け、身方(輝虎)への忠信をも励み続ける気があるにおいては、(大石は)小田から直接に(佐竹)義重を先導し、(佐竹へ)早々に同陣をするように努めるべきであると、申し届けるべきこと、とかく(当軍勢は)越中で百日間の張陣に及んだ労兵なので、当地(関東)に長居はしていられないこと、松山・岩付にも事情などがあるので、これまでのように美濃守(太田道誉)が心得ているのであれば、後悔する事態になるであろうこと、義重と美濃守かたへの書中を添えたので、吾分(大石)が直接手渡してほしいこと、其元の様子の逐一を手日記にまとめ、誰か適当な者に託し、この口へ寄越すべきこと、また、同陣要請について、軽く考えている者をも、大美(太田道誉)が参陣するか否かを迷っている様子をも、この飛脚に早々先へ申し越すべきこと、(ここ最近の)美濃守の様子を伝え聞く分には、多忙を極めているようには思えないこと、このところを源太(梶原政景)に申し届け、美濃守への結文(結状)を、源太も同席させたうえで、吾分(大石)が直接手渡すべきこと、これらを恐れ謹んで申し伝えた。さらに追伸として、すでに武・上両国の人数が勢揃いしていること、殊に藤田(新太郎氏邦。北条氏康の五男。武蔵国男衾郡を中心とした鉢形領を管轄する)から申し越された情報によれば、(甲州武田)信玄が駿州へ打ち出してきたようなので、これより輝虎も沖中(上州の中央部)へ打ち出でること、手立てを催したあとに美濃守が到着したのでは、何も用立たないばかりか、宿願も達せられないこと、以上、これらを申し添えた(『上越市史 上杉氏文書集一』864号「大石右衛門尉殿」宛上杉「輝虎」書状写)。

同日、大石右衛門尉へ宛てて、続けざまに書状を発し、追って、(常陸国)小田が落居したからには、(常陸国太田の佐竹)義重は一方の手が空いたわけなので、いよいよ(義重は)何かにかこつけて(同陣を)拒めないにより、表裏がなければ、同陣するのではないかと思われること、以上、これらを申し添えた(『上越市史 上杉氏文書集一』847号「大石右衛門(尉)殿」宛上杉「旱虎」書状写 ●『謙信公御書集』巻九)。


※ 諸史料集では「於表裏者」であるが、『謙信公御書集』では「於無表裏者」とあり、後者でなければ、意味が通りにくい。



4日、同盟関係にある相州北条氏政(左京大夫)から書状が発せられ、(輝虎が)越中から御馬を納められたそうであると、由信(由良信濃守成繁。上野国新田郡の金山城を本拠とする上野国衆)が申し越してきたこと、そうしたわけで、使者をもって申し届けたこと、殊に越中表を余すところなく御本意を遂げられたそうであり、誠にもってめでたく大慶に勝るものはないこと、詳細は(添付した)条目をもって申し届けるので、すべての条々に漏れなく御返答を願うところであること、つまりは、寒気の厳しい時分であろうとも、迅速に御越山を果たし、(甲州武田)信玄を追い詰められるための御手立てを願望していること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』848号「山内殿」宛北条「氏政」書状)。


6日、相州北条方の駿河国蒲原城(庵原郡)が甲州武田軍の猛攻によって攻め落とされる。相州北条方は、城主の久野北条新三郎氏信(幻庵宗哲の世子)、その弟である箱根少将融深(長順)・清水新七郎(清水太郎左衛門尉康英の嫡男。伊豆衆)・笠原美作守(伊豆衆)・狩野介(松山衆)らが、甲州武田方では、小幡上総介信実(西上野先方衆)の弟である小幡弾正左衛門尉信高が戦死している。清水新七郎の戦死は誤報であった。



8日、関東味方中の成田左衛門次郎氏長(武蔵国忍城を本拠とする武蔵国衆)の家老である手嶋左馬助長朝(譜代衆)へ宛てて、自筆の書状を発し、成田左衛門二郎かたから使僧を寄越してきたところ、吾分(手島長朝)は何も言って寄越さないこと、心配していること、今後は美作守(手嶋高吉)の在生時のように奔走するのが適当であること、それを伝えるために筆を取ったこと、これらを畏んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』851号「手島左馬助殿」宛上杉「輝虎」書状写)。


同日、相州北条氏康(相模守)が、由良信濃守成繁へ宛てて書状を発し、山吉方(越後国上杉家側の取次である山吉豊守)から其方(由良成繁)へ糊付けの一札を回覧してもらい、まずもって本望であること、つまりは、この(輝虎から示された)一儀に極まるので、(越陣から立て続けに到来した)先使三人に存念を申し含めて送り返したこと、(輝虎が)倉内(上野国沼田城)において御越年されるように念願していること、山吉方へ念入りに申し届けられ、(輝虎の)御返答に預かりたいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』852号「由良信濃守殿」宛北条「氏康」書状写)。

同日、相州北条氏政(左京大夫)が、由良信濃守成繁へ宛てて書状を発し、越(輝虎)からの御使者が到来し、彼の者の口上を漏れなく聞き届け、御返答に及んだにより、考慮を遂げられ、いよいよ(由良成繁の)適切な御奔走が肝要であると思っていること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』853号「由良信濃守殿」宛北条「氏政」書状写)。


9日、友好関係にある奥州会津(黒川)の蘆名平四郎盛興へ宛てて返状を発し、(輝虎が)越中へ進発したについて、わざわざ脚力を寄越してくれたので、大慶極まりないこと、彼の国は思うがままに静謐を遂げたからには、北条氏政へ手合いをするために越山し、先月20日に当地倉内(上野国利根郡の沼田城)へと打ち着いたこと、(このうえは)関東の諸勢を引き連れ、氏政と同陣し、(甲州武田)信玄を追い込むための兵略の相談に抜かりはないので、御安心してほしいこと、なお、詳細は盛氏(蘆名止々斎。盛興の父)へ申し述べるので、(この紙面は)省略すること、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』854号「芦名四郎殿」宛上杉「輝虎」書状写)。


同日、相州北条氏政(左京大夫)が、由良信濃守成繁へ宛てて書状を発し、このたび輝虎が(関東へ)御出陣してくれたので、最前からの筋目といい、其方(由良成繁)には(越陣へ)御参陣してもらって、いちずな御精励が専要であること、委細は使僧の松(昌)甫が口上にて申し届けること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』855号「由良信濃守殿」宛北条「氏政」書状)。


12日、駿河国薩埵山陣(庵原郡)の相州北条軍が後退する。


15日、輝虎の倉内着城の報に接した今川氏真(上総介。駿河国平山(千福)城に拠る)から書状(謹上書)が発せられ、兼ねての約束に任せられ、雪中を押し分けて(関東へ)の御出張は、大慶であること、(今川氏真が)本意を達するには、(輝虎の)御骨折りに極まること、その口の様子を示し給うように願うところであること、なお、(詳細は使僧の)東泉院の口上に附すこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』856号「謹上 上杉殿」宛今川「氏真」書状 封紙ウハ書「謹上 上杉殿 氏真」)。

同日、今川氏真から、上野国沼田城(利根郡沼田荘)の三人衆へ宛てた条書が使僧の東泉院に託され、覚、一、深雪の折、御越山は誠に御苦労の極みであり、まったく本望に勝るものはないこと、一、信・甲両国へ向かって、早々の御出勢を願うところであること、一、当口の臨戦態勢に、まずもって異常はないこと、以上、これらの条々を申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』857号「倉内江」宛今川氏真朱印状【印文「桶」】)。

同日、今川氏真の側近である朝比奈泰朝(備中守)から、上野国沼田城の三人衆である松本石見守景繁(すでに城将を退任している)・河田伯耆守重親(大身の旗本衆)・上野中務丞家成(譜代衆)へ宛てて、初信となる書状が発せられ、これまで申し交わしてこなかったとはいえ、申し達すること、よって、輝虎の御出張の件について、(今川氏真が)東泉院をもって申し入れられること、その地(沼田城)において、適切な御取り成しが専要であること、彼(東泉院)の口上にて申し上げるにより、(この紙面を)省略すること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』858号「松本石見守殿・上野中務丞殿・河田伯耆守殿 御宿所」宛朝比奈「泰朝」書状写)。


18日、相州北条方の取次である藤田新太郎氏邦が、由良信濃守成繁へ宛てて書状を発し、倉内(上野国沼田城)への御返事に及ぶこと、早々の御届けを頼み入ること、よって、御同陣がなされ難い事情などと、蒲原城(駿河国庵原郡)の結末について、委細は(使僧の)昌甫へ申し渡すと申されていること、輝虎が御出馬するのに伴い、我々(藤田氏邦)や遠左(氏康の側近である遠山左衛門尉康光。小田原衆)が参陣致すべきところ、蒲原の落城以来、爰元はますます余裕が失われたこと、御察しに勝るものはないこと、一両日中には鉢形城(武蔵国男衾郡)へ帰られるにより、とりもなおさず、申し達するべきこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』859号「由信 御宿所」宛藤田「新太郎氏邦」書状写)。

22日、在府中の藤田氏邦が、伊豆国韮山城(田方郡)に在陣中の遠山左衛門尉康光へ書状を発し、取り急ぎ飛脚をもって申し伝えること、去る20日に鉢形を罷り立ち、昨21日には当地小田原へ罷り着いたこと、此方(小田原)において御実城(氏康)の御草案と山孫(山吉孫次郎豊守)からの一札の模様を拝見したこと、使者の(三山)又六と安富が小田原から戻るのを待たずに、此方(小田原)で(氏康の)御意を直接受けるため、昼夜兼行で駆けつけたこと、とりもなおさず(氏康の)御直書を其方(遠山康光)へ寄せられるので、必ずや飛脚が参ること、こうした御実情を(輝虎に)御理解してもらえたそうなので、(氏康は)ひときわ御満足されていること、遠新(遠山新四郎康英。康光の嫡男)に数名の徒輩を添えて利根川端に寄越されたので、山孫(山吉)の御同心衆から数名を迎えに寄越してもらうべきこと、我々(藤田氏邦)が越陣に出向く際には、(氏康の)御意向により、体裁を整えるために大駿(大道寺駿河守資親。武蔵国河越城の城代)が付き添われること、これは当然の対応であろうこと、先頃に何度も承ったところでは、(氏康に)出家遁世する意思はいささかもないので、御安心してほしいこと、詳細は新四郎方(遠山康英)に同道して、そちらへ参った時分、あらためて申し伝えること、当家は存続にかかわる難局を迎えられており、使者・飛脚の遣り取りでは済ませられない状況なので、一切合切を把握して越・相両国の御連携が機能するように取り持ちたい一心であり、昼夜に関係なく奔走するつもりなので、この覚悟を山孫(山吉)に御理解してもらえるように取り次いでもらいたいこと、明後24日に此方(小田原)を罷り立つにあたり、まず申し入れたこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 後北条氏編二』1361号「遠左」宛藤田「氏邦」書状)。

同日、藤田氏邦の側近である三山五郎兵衛尉綱定が、由良信濃守成繁の年寄中へ宛てて書状を発し、取り急ぎ飛脚をもって申し入れること、このたび越国(越後)から到来した使者の進隼(進藤隼人佑家清(旗本衆)が、先だって越陣へ帰るのと入れ替わるように、越陣から相府小田原へ御状が送られたこと、昨晩に相府から当鉢形城に御返札が届くと、今朝方に脚力をもって新田へ発送したので、早々に越陣へ転送してほしいこと、詳細については御直札に示されていること、越陣に居る篠治(篠窪治部。相州北条氏の使者。連絡要員として越陣に在留か)から去る19日付の一札が届き、来る24日に(輝虎が)西上州へ御出張するにあたり、(越後国上杉家側から)氏照(氏康の三男。武蔵国滝山城主と下総国栗橋城主を兼務する)と氏邦が御同陣されるべきとの仰せを申し越されていること、必ずや御貴城(由良成繁)へも篠治(篠窪)を通じて参陣要請が寄せられるであろうこと、未だに氏邦は帰城されないこと、繰り返し事情を申し上げること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』860号「信州 参人々」宛「三五 綱定」書状)。


26日、相州北条左京大夫氏政から書状(謹上書)が発せられ、歳暮の慶賀は永続であること、三種一荷を進上すること、誠に祝儀を表するばかりであること、委細は明春に申し承ること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』861号「謹上 山内殿」宛北条「左京大夫氏政」書状)。



この間、敵対関係にある甲州武田信玄(法性院)は、12月6日、相州北条方の駿河国蒲原城を攻略すると、敵の部将である清水新七郎(実際には別人であったらしい)を討ち取った駿河先方衆の孕石主水佑元泰に感状を与え、このたび蒲原に向かい、敵と干戈を交えた折、最前で戦いに挑み、そのうえ敵首ひとつ「清水新七郎」を討ち取ったにより、いつもながらの顛末とはいえ、武勇の名誉は計り知れないこと、よって、駿州の内で格別な一所を宛行うこと、なお、ますます戦功を重ねれば神妙であること、よって、前述の通りであること、これらを申し渡している(『戦国遺文 武田氏編三』1479号「孕石主水佑殿」宛武田「信玄」感状)。

同日、上野国岩櫃城代の真田一徳斎(号幸隆。信濃先方衆の真田弾正忠幸綱)・真田源太左衛門尉信綱父子へ宛てて、直筆の書状を発し、取り急ぎ一筆を染めたこと、今6日に蒲原城の根小屋に火を放ったところ、在城衆の総勢が出撃してきたので、一戦して勝利を挙げ、城主の北条新三郎(氏信)を始めとして清水(新七郎)・狩野介ら主要な部将を残らず討ち取ると、即時に城を乗っ取ったこと、まさに前代未聞の戦果であること、本城に山県三郎兵衛尉(昌景。譜代衆)を置いて防備を整え、この表の勢力図を一変させて本懐を遂げたので、安心してほしいこと、これらを恐れ畏んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編三』1480号「一徳斎・真田源太左衛門尉殿」宛武田「信玄」書状写)。

10日、濃(尾)州織田弾正忠信長へ宛てて書状(謹上書)を発し、こたび良い機会を得たので申し上げること、輝虎は上州沼田まで出張してきたが、上意(足利義昭)と貴辺(織田信長)の御計略が進むなか、某(武田信玄)の分国に攻め入ってこないはずであること、ただし、迂闊にも手出しをしてきたならば、その無意味な行為を後悔するはめになるであろうこと、家老の者共が、先ずは信州へ出馬して諸城に厳重な防備を申し付けるべきであるとの意見を具申してきたこと、上意(足利義昭)の御下知に加え、貴所(織田信長)の和睦の御調停も半ばに達しており、深慮した結果、駿州への出張を選択したこと、去る6日に蒲原城を攻め落とし、北条新三郎以下の凶徒を全滅させると、信玄自ら当城を確保したので、御安心してほしいこと、今後の輝虎の出方については、ひとえに信長の調略に掛かっていること、近日中に使者の市川十郎左衛門尉(直参衆)をもって詳述すること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編三』1481号「謹上 弾正忠殿」宛武田「信玄」書状)。

同日、徳秀斎へ宛てて返状を発し、蒲原の落着について、早々と御音問が寄せられたので、めでたく喜ばしいこと、去る6日に当宿城の攻撃を始めて火を放ったところ、例の如く向こう見ずな四郎(勝頼。信玄の四男で世子となった)・左馬助(信豊。信玄の甥)が、無謀にも要害を攻め上ってしまったので、大いに肝を冷やしたが、意外にも両者の率いる軍勢は立ち向かってきた敵を追い崩し、城主の北条新三郎兄弟・清水・笠原・狩野介ら主立った部将に加え、要害に立て籠もる士卒を残らず討ち取ったこと、当城は海道一の険難な地であり、このように容易く攻め落とすなど、人のなしうる業ではないこと、そればかりか味方は全員無事なので、御安心してほしいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編三』1482号「徳秀斎へ 御返報」宛武田「信玄」書状写)。

19日、西上野先方衆の高山大和守(実名は泰重か。上野国高山城を本拠とする上野国衆)へ宛てて返書を発し、蒲原の落居について、わざわざ書状を寄せてくれたので、めでたく喜ばしいこと、海道随一の当地を瞬く間に攻め落とし、そればかりか北条新三郎(氏信)・狩野介・清水以下の凶徒を残らず討ち取ったので、御安心してほしいこと、この勢いに乗って相・豆両国の間に攻め入るべきところ、輝虎の沼田在陣には色々と疑念を感じるので、当城の修復を終え次第、帰府してから信濃国岩村田(佐久郡)まで出馬すること、なお、面談の時を期していること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『
戦国遺文 武田氏編三』1485号「高山大和守殿」宛武田「信玄」書状)。

23日、濃(尾)州織田信長の側近である佐々伊豆守良則(御馬廻衆)へ宛てて書状を発し、市川十郎右衛門尉長々と岐阜に留め置いているところ、格別に手厚くもてなしてもらっており、感謝してもしきれないこと、よって、先月20日に輝虎が上州沼田まで出張してきたが、深慮の結果、駿州へ出陣すると、思い通りに勝利を挙げたので、すこぶる満足していること、詳細は彼の者が口述するので、この紙面を略したこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編三』1486号「佐々伊豆守殿」宛武田「信玄」書状)。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 武田氏編 第二巻』(東京堂出版)
◆『謙信公御書集』(臨川書店)

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