越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎(旱虎)の略譜 【58】

2013-10-28 03:01:26 | 上杉輝虎(謙信)の略譜
永禄13年(1570)正月 上杉輝虎(旱虎。弾正少弼) 【41歳】

参陣要請に応じない下野国衆の佐野小太郎昌綱に制裁を加えるため、下野国唐沢山城(安蘇郡佐野荘)に攻め寄せる。

朔日、(上杉「輝虎」)、武蔵国衆の成田左衛門次郎氏長(武蔵国忍城主)の家老である「手嶋左馬助とのへ(長朝。譜代衆)」に宛てて返書を発し、年頭の祝儀として酒肴が到来したので、すこぶる喜ばしいこと、当地唐沢まで進陣したこと、速やかに成田左衛門二郎(氏長)が参陣するように導くべきこと、よって、これらを取次の山吉孫二郎(豊守。大身の旗本衆)が申し越すことを伝えた。

4日(14日ヵ)、相州北条「氏政(左京大夫)」から、取次の「山吉孫次郎殿(豊守)」に宛てて書信が発せられ、取り急ぎ申し上げること、西上州へ向けて御進攻されたとの一報が寄せられるのを心待ちにしていたところ、佐野に向かって御戦陣を敷かれたそうであり、このたび得られるはずであった栄誉と勝利への期待が外れて遺憾に思うこと、今からすぐにでも西上州へ御出陣されるように、御取り成しに奔走してもらいたいこと、詳細は進隼(進藤隼人佑家清。旗本衆)が戻って報告されること、これらを懇ろに伝えられている。

5日、(上杉「輝虎(花押a)」)、関東味方中の「広田出雲守殿(直繁。武蔵国羽生城主)」に血判起請文を与え、このたび当口へ出馬したところ、周囲の動向に惑わされず、独自の判断で速やかに着陣し、これまでと変わらず味方中の証を立ててくれたので、ますます感じ入っており、輝虎が存命の間は、この忠節を決して忘れないこと、先約の旨に任せて下野国藤岡(都賀郡)の地を宛行うこと、但し、諸事情によって領有が困難な場合には、相当分の替地を宛行うこと、これらを神名にかけて誓った。

15日、相州北条方の取次である「遠左康光(遠山左衛門尉康光。氏康の側近。小田原衆)」から、「山孫(山吉孫次郎豊守)御報」に宛てて書信が発せられ、昨14日に到来した11日付の書簡を拝読して、すぐさま父子(相州北条氏康・同氏政)に披露したこと、信・甲両国に御進発されるはずはずのところ、見当違いの場所に御戦陣を敷かれたので、世間体だけではなく実益も損なわれて面目を失い、父子はうろたえていること、このたび約束に反した行動を取られたのは、関東国衆の帰属について、当家の方から先年(永禄4年半ば)に遡って線引きする協定を申し入れたにも係わらず、未だに履行していないからであるとの理由を示されたが、父子から申し入れた事実はまるでなく、先書にて拙者(遠山康光)が問い合わせを受けた懸案ゆえに、取次の氏邦(藤田新太郎氏邦。氏康の四男。武蔵国鉢形城主)へも問い合わせたところ、やはり氏邦から申し入れた事実もないので、ひたすら困惑していること、佐野城(唐沢山城)を攻囲されているので、当方は不安を抑えられずに両使を越陣に派遣したこと、(佐野)昌綱には謝罪して帰服するように説得を尽くすので、こうした様子は越陣にも伝わるはずであること、当方が成り行きに任せて傍観していられるわけもなく、懸命に事態の改善に取り組んでいる姿勢は、進隼(進藤家清)が伝えてくれるはずであること、繰り返しの説明を省くため、詳細は彼(進藤家清)口上に頼み入ること、これらを懇ろに伝えられている。更に追伸として、要請の通りに氏照(氏康の三男。武蔵国滝山城主と下総国栗橋城主を兼務する)と氏邦へ御伝言を申し届けることを約束されている。

26日、(上杉「輝虎」)、常陸国衆・佐竹氏の客将である「梶原源太殿(政景。太田美濃入道道誉(三楽斎。資正)の世子)」に宛てて書信を発し、このほど改めて大石右衛門尉(旗本衆)を通じて存意を示すこと、今すぐに義重(常陸国衆の佐竹次郎義重。常陸国太田城主)が同陣してくる様子は窺えないので、先ずは三楽斎方(大田入道道誉)だけでも寄越してくるべきであり、取り急ぎ其方(梶原政景)が先行するべきこと、このようにくどくど言っても、三楽父子に疑心を抱いているわけではないこと、三楽父子のうち一人でも参陣しなければ、佐竹と輝虎が不仲であるために三楽父子が陣払いしたものと、世間から騒ぎ立てられるのを見過ごしたとの思いに捕らわれてしまい、口惜しいので、これまで励んできた忠節を忘れていないのであれば、三楽でも其方でも明日のうちに馳せ参じてくるべきこと、三楽が佐陣へ来られるのは、ひとえに其方(梶原政景)の尽力にかかっていること、とっくに本来ならば佐竹勢が同陣しているべきであり、これほどまでに苦労するなどとは、いかにもばかばかしく、このように手間のかかる人物を味方にしたのは初めてであること、詳細は彼の者(大石右衛門尉)が申し述べること、これらを懇ろに伝えた。更に追伸として、若しこのまま佐竹勢が同陣しないのであれば、このたび皆川(下野国衆の皆川山城守俊宗。下野国皆川城主)などを帰属させるので、彼らとの厚誼に重点を置くほかなく、それから後悔しても手遅れであることと、この書簡を他見してはならないことを伝えた。
日、相州北条「氏康(相模守)」から、越陣に帰着した「進藤隼人佑殿(家清。旗本衆)に宛てて書信が発せられ、武蔵国鉢形城(男衾郡)への到着を心待ちにしていたところ、未だに到来する気配がないので、明日に遠山左衛門尉(康光)を半途まで向かわせることと、其方(進藤家清)が間違いなく鉢形まで御到着してくれれば、めでたく喜ばしいことを伝えられている。


この間、常陸国衆・佐竹次郎義重の一族である佐竹「宗誉(篤親)」は、23日、甲州武田信玄に対して起請文を送り、信玄との関係をいささかも疎かにしないことと、嘘偽りを述べないことを誓約している。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 863号 上杉輝虎書状(写)、864号 北条氏政書状(写)、865号 上杉輝虎起請文、868号 遠山康光書状、870号 上杉輝虎書状(写) 『戦国遺文 武田氏編 第六巻』 4038号 佐竹宗誉起請文案写


永禄13年(1570)2月 上杉輝虎(旱虎。弾正少弼) 【41歳】

2日、(上杉「輝虎」)、上田衆(甥である長尾喜平次顕景の同名・同心・被官集団)の「下平右近允とのへ」に感状を与え、下野国佐野の飯守山(唐沢山城)攻略に於ける戦功を褒め称えた。

同日、上田長尾「顕景(戦場での初見にあたるが、今次の佐野陣は前年8月の越中遠征の延長上にあるので、越中陣が初陣だったと考えられる)」が、被官の「広居善右衛門尉殿(忠家)」・「下平右近允殿」・「小山弥兵衛尉殿」のそれぞれに感状を与え、佐野飯守山に於ける戦功を褒め称えている。

3日、上野国衆の由良「信濃守成繁(上野国金山城主)」から、取次の「山孫(山吉孫次郎豊守)御宿所」に宛てて書信が発せられ、先月25日に相府小田原城へ使僧の玄蔵主を派遣して、懸案の回答が滞っている現状への不満を表したところ、玄蔵主が本城(氏康)の雇った客僧と一緒に戻ってきたので、この客僧に案内者を添えて越陣へ向かわせること、遠左(遠山左衛門尉康光)は昨日に相府を立ち、来る6日には武州鉢形城に到着すること、進隼(進藤隼人佑家清)が鉢形に到来する件はどうなっているのか、知らせてほしいこと、本城と新太郎(藤田氏邦)からの書簡、遠左(遠山康光)からの二通の書簡に加え、自分が玄蔵主に託した書簡を送り届けるので、つぶさに披見してほしいこと、よって、これらの披露を頼まれるとともに、玄蔵主が詳述することを伝えられている。

同日、「遠左康光(遠山左衛門尉康光)」が、「由良信濃守殿(成繁)参御宿所」に宛てて書信を発し、今3日に出府したら、どんなに風雨が厳しくても6日には鉢形に到着すること、必ず進隼(進藤家清)を鉢形へ派遣してくれるように、越陣に取り計らってほしいこと、いつぞやは代官の日福が交渉の取りまとめに奔走してくれたので、この度の懸案の早期解決を図るため、進隼が鉢形に到来する折りには、再び代官を付き添わせてほしいこと、これらを伝えるとともに、詳細は来信を期している。

同日、鉢形城へ派遣した使者の「進隼家清(進藤隼人佑家清)」が、山吉孫次郎豊守の陣中に居る同輩の「堀玄(堀江玄蕃允)参御宿所」に宛てて書信を発し、道程の遅れに(輝虎が)御立腹されているようなので、困惑して平静を失いながらも、国境の地(上野国金山城か)で中継ぎに奔走していること、相府小田原からは次郎殿(山吉孫次郎豊守)の所へ飛脚が立てられたこと、このように拙夫(進藤家清)へ仰せ越されたこと、(相州北条側から)場合によっては懸案の回答が示されること、なおも鉢形城へ向かうべきか、次郎殿(山吉豊守)の御内意を得たいこと、これらを伝えて、詳しい返答を寄せてくれるように求めている。

6日、「遠左康光(遠山康光)」が、由良「信濃守殿(成繁)御宿所」に宛てて書信を発し、このほど鉢形に到着したので、使者の「薗図」に御状を新田へ持参させようと考えていたところ、そちらが信頼の厚い使者の「一忠」を寄越してくれたので、彼の者に御状二通と内状を託して帰したこと、一、このたびの御状と、先だって相府に到来した玄蔵主が口述する内容が相違しているので不審に思われるかもしれないところ、(輝虎が)西上野へ御出陣されたならば、武蔵国岩付領(埼玉郡)を引き渡されること、詳細は玄蔵主が申し入れること、一、同じく松山領(比企郡)の引き渡しについては、このたびは決定を保留されるも、早期の解決を目指されること、一、御養子を差し出す件については、越後国上杉家の年寄である柿和(柿崎和泉守景家。譜代衆)か、その子息(左衛門大夫)を相府まで迎えに寄越されるべきこと、岩付領を引き渡す件については、太美(太田美濃入道道誉)への引き渡しはためらわれるが、彼方(大田入道道誉)の子息の源太(梶原政景)を一両年は相府に在留させるのであれば、引き渡しに応じるつもりであり、これから進隼(進藤家清)と協議に臨めば、すぐにでも是非が決着すること、一、山孫(山吉豊守)からは、拙者(遠山康光)も御陣下へ参向するように求められたこと、一、使者の「一忠」が目にした通り、灸治療中で移動できる状態にないため、御書付をもって当地(鉢形城)まで仰せ越されてもらいたいこと、これらを懇ろに伝えている。

8日、(上杉「旱虎(花押a)」)、上野国厩橋城(群馬郡)の城代である「北条丹後守殿(高広。譜代衆)」に宛てて書信を発し、使者の専柳斎(山崎秀仙)が当陣に到着するのを昼過ぎまで待ったが、未だにやってくる気配がないため、こちらから早飛脚を立てること、一、このたび孫次郎(山吉豊守)を通じて、小貫(佐渡守頼安。常陸国衆・佐竹氏の譜代家臣)に対して、先年の春(永禄10年)に上州沼田城から佐野陣への参加を求めた際には、(佐野)昌綱の取り扱いについて同意を得られず、(佐竹義重は)同陣してこなかったところ、この時の事情が今回の同陣要請に応じるのを躊躇させているらしいこと、(佐竹)義重が家中を始めとする同陣衆の証人を集めたのちであれば、いくらでも在陣し続けるとの意向を示していたにも係わらず、今回の同陣要請を受けるまでは考えてもみなかったらしく、話が食い違っているので戸惑っていること、その一方で、この機会に皆川(山城守俊宗)から証人を取りたいと要望しており、どのように返答するべきか、上等な手段が浮かばずに持て余していること、一、先ずは証文を渡して同陣へと導き、その上で義重と相談して皆川の統制に当たるべきであろうこと、当地(佐野)の攻略に手を抜かない様を見せ付ければ、皆川は素直に帰順せざるを得ないので、統制も容易くなること、義重が同陣して、当地落着の成果を挙げれば、おのずと関東は一つにまとまって統治も容易いこと、たとえ関東中の諸士から証人を徴収しても、先年(永禄9年)のように関東の体制が崩壊すれば無意味であること、(佐竹)義重が同陣さえすれば、佐野の落着ばかりか、関東の戦線も再構築できるのだから、最後の手段として証文を渡し、何としても同陣を急がせたいこと、よって、義重へ宛てた証文を整えることを伝えた。

12日、鉢形城の藤田「氏邦」から、進藤隼人佑家清に宛てて書信(端見返しウワ書「進隼 参  新太郎」)が発せられ、御養子の件については、佐野陣での引き渡しの要求は十分に理解しているが、すぐには準備が整わないため、先ずは武州岩付領を引き渡せるように取り計らっており、その間に御養子の三郎殿(氏康の末男で、久野北条氏を継いでいた)を送り出す準備を整えるゆえ、西上野へ進攻されている最中の引き渡しが望ましいとして、このように何れの懸案も落着させる決意を表されている。
18日、北条「氏康」・「氏政」父子から起請文(「山内殿」)が発せられ、一、このほど篠窪治部(越陣に詰めていた北条方の連絡要員か)を通じて、山吉方(豊守)から懸案解決のための条件が示されるとともに、再び進藤方・須田方(弥兵衛尉。旗本衆)の両使が到来されたので、我ら親子の懸案解決への思いに偽りのない旨を誓った起請文を呈するので、この道理を是非とも理解してもらい、揺るぎない提携関係を築ければ満足であること、一、岩付については、去秋に申し合わせた通り、信濃か西上野への御出陣が果たされた時点で引き渡すべきところ、どうしてでも佐野陣の最中に引き渡すべきとの要求を受け入れるので、相違なく武田領へ御出陣されるように、案文通りに認められた誓詞を給わりたいこと、この補足として、岩付領を引き渡す上は、これまで何度も示しているように、若しも太美(太田入道道誉)が当方に敵意を露にして、敵方と関東の諸士の間を取り持っている全容を察知した折には、その敵対行動を止めさせるとともに、氏政と太美の間の疑心を晴らすように御取り成ししてほしいこと、そのためには、源太(梶原政景)を証人として、暫く当府に在留させるべきであること、よって、越・相一和を取りまとめ、両国は禍福を共にする間柄となったわけで、この道理を理解してもらえれば喜ばしいこと、一、御養子については、最前から示している通り、柿崎方(景家)か、その子息である左衛門尉(左衛門大夫)を当府に証人として寄越されれば、御養子を西上野陣に送り届けること、これらを神名に掛けて誓約されている。

28日、(上杉「輝虎」)、関東味方中の「広田出雲守殿(直繁)」に証状を与え、このほど関東に出陣して下野国佐野へ進んだところ、同日に合流したばかりか、態々河辺(下総国葛飾郡下河辺荘か)まで北上した際に連絡を寄越してくれるなど、これまでの忠節もさることながら、このたびの忠節も格別であるため、上野国館林城(邑楽郡佐貫荘)並びに、館林領を宛行うこと、但し、佐野領と足利(下野国足利郡足利荘)領は除外すること、これまで何度も越府へ使者として遣わされた佐藤筑前守と小安隠岐守の辛労に報いるため、それぞれ館林領のうちで羽根田郷と飯富郷を宛行うこと、これらを通達した。


この間、甲州武田「信玄(法性院)」は、朔日、常陸国衆・佐竹氏の客将である「梶原源太殿(政景)」に対して書信を送り、年頭の祝儀に答謝した返書を送り、旧冬以来、駿州に在陣して数ヶ所の敵城を攻め落としたので、(太田)道誉に詳報したことを伝えるとともに、今春中に武州の経略を遂げられる機運が高まっているため、ぬかりなく岩付城内に計略を仕掛けることを促している。
22日、西上野先方衆の「高山大和守殿(泰重ヵ。上野国高山城主)」に対して返書を送り、先書でも知らせたように、駿河国徳一色城(益津郡。武田軍による改修後は田中城となる)を攻略したこと、元来の堅城なので改修を施し、主郭に三枝土佐守(虎吉。譜代衆)、ニ・三郭に朝比奈駿河守(信置。駿河先方衆)・同筑前守(輝勝。同前)を配備したこと、去る15日に清水津(有度郡)へと移陣し、城塞(江尻城)を構築して岡部豊前守(駿河先方衆)を初めとする海賊衆を配備したので、今日中に帰国の途に就くこと、佐久郡衆(信濃先方衆)を西上野へ派遣するため、前日に帰陣させたので、先ずは安心してほしいこと、八十日間の在陣中に五ヶ所の敵城を攻略したが、小田原衆は一騎一人も反撃してくる気配がなく、はなはだ器量の小さい弱兵ばかりであること、こうした状況を伝えている。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 485号 上杉輝虎書状、872号 上杉輝虎感状(写)、873号 長尾顕景感状、874・875号 長尾顕景感状(写)、878号 進藤家清書状、879号 由良成繁書状、880号 遠山康光書状(写)、881号 遠山康光書状、882号 藤田氏邦書状、883号 北条氏康・氏政連署起請文、885号 上杉輝虎判物(写) 『戦国遺文 武田氏編 第三巻』 1498号 武田信玄書状写、1515号 武田信玄書状
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越後国上杉輝虎(旱虎)の略譜 【57】

2013-10-13 15:52:37 | 上杉輝虎(謙信)の略譜
永禄12年(1569)12月 上杉輝虎(旱虎。弾正少弼) 【40歳】

朔日、(上杉「輝虎」)、常陸国小田城(筑波郡)に在陣している関東味方中のうちの太田美濃入道道誉(三楽斎。資正。常陸国衆の佐竹氏の客将。常陸国片野城主)・梶原源太政景父子の許へ派遣した使者の「大石右衛門尉殿(旗本衆)」に宛てて書信を発し、多賀谷(常陸国衆の多賀谷修理入道祥聯。政経。常陸国下妻城主)が申し越してきた情報によれば、氏治(佐竹氏らと対立する常陸国衆の小田中務少輔氏治。もとの小田城主)が片野城(北郡)に攻めかかってきたところ、美濃守(太田入道道誉)が迎え撃って大勝したばかりか、逆に小田城を乗っ取ったそうであり、気分がよいこと、しかしながら、義重(常陸国衆の佐竹次郎義重。常陸国太田城主)を小田陣に引っ張り出したので、宇都宮(下野国衆の宇都宮弥三郎広綱。下野国宇都宮城主)や多賀谷を始めとする東方衆が小田の地に勢揃いしているため、輝虎方へ参陣してくる東方の味方中は一人もいないこと、(太田・梶原父子が)身(輝虎)との約束を後回しにして小田の戦後処理にかまけ、宿願を捨て去って片野・小田に執心するように見えたならば、吾分(大石右衛門尉)は早々に帰陣するべきこと、若しも(太田父子が)武蔵国岩付領(埼玉郡)・同松山領(比企郡)へ復帰する宿願を果たし、まだ身の方(輝虎)に忠信を尽くすつもりがあるならば、早々に(佐竹)義重を小田から当陣へ先導してくるように努めさせるべきこと、とかく当軍勢は越中在陣が百日間に及んだ労兵なので、当地(関東)に長居はしていられないこと、松山・岩付の受け取りを待つのにも限度があり、これまでのように美濃守(太田入道道誉)が態度を明らかにしないのであれば、きっと後悔する事態に見舞われるであろうこと、義重と美濃守に宛てた書中を添えたので、吾分(大石右衛門尉)が直に手渡してほしいこと、そちらの状況を手日記に逐一まとめ、適当な者に託して寄越すべきこと、同陣に無関心な味方中がいて、太美(太田入道道誉)が参陣するか否かを迷っているようであれば、その辺りの状況を当飛脚をもって申し越すべきこと、ここ最近の美濃守(太田入道道誉)の様子を伝え聞く分には、多忙を極めているようには思えないこと、この分を源太(梶原政景)にも十分に説明し、美濃守に宛てた結文は、源太も同席させた上で、吾分が直に手渡すべきこと、これらを伝えた。更に追伸として、すでに武・上両国の人衆が集結しており、藤田(新太郎氏邦。北条氏康の四男。武蔵国鉢形城主)から申し越された情報によれば、(武田)信玄が駿州へ打ち出してきたようなので、これより輝虎も上州の中央部に進陣することと、一戦が終わってから美濃守が到着したのでは、もはや用立たないばかりか、宿願も達せられないことを伝えた。
同日、(上杉「輝虎」)、「大石右衛門尉殿」に重ねて追伸を発し、小田城が落着して一通り(佐竹)義重の手が空いたからには、もはや(佐竹義重に)同陣を拒む理由はないので、このたびの対応如何により、(佐竹義重の)本性が露になるであろうとの見解を伝えた。

4日、相州北条「氏政(左京大夫)」から書信(山内殿)が発せられ、このたび由信(上野国衆の由良信濃守成繁。上野国金山城主)が申し越してきた情報によれば、越中から御馬を納められたそうなので、使者をもって申し届けたこと、取り分け越中表を余すところなく御平定されたそうなので、実にめでたく喜ばしい限りであること、詳細は添付した条目をもって申し届けるので、確かな御返答を寄せてもらいたいこと、寒気の厳しいなかでも御越山されて、(武田)信玄を追い詰めるための御手立てを講じてもらいたいこと、これらを懇ろに伝えられている。

6日、相州北条方の駿河国蒲原城(庵原郡)が甲州武田軍の猛攻によって攻め落とされる。相州北条方は、城主の久野北条新三郎氏信(幻庵宗哲の世子)、その弟である箱根少将融深(長順)・清水新七郎(清水太郎左衛門尉康英の嫡男。伊豆衆)・笠原美作守(伊豆衆)・狩野介(松山衆)らが、甲州武田方では、小幡上総介信実(西上野先方衆)の弟である小幡弾正左衛門尉信高が戦死している。

8日、(上杉「輝虎」)、武蔵国衆の成田左衛門次郎氏長(武蔵国忍城主)の家老である「手島左馬助とのへ(長朝。譜代衆)」に宛てて自筆の書簡を発し、このたび成田左衛門二郎(氏長)かたから使僧を寄越してくるも、吾分(手島長朝)からは何の連絡もないので、心配していることを伝えるとともに、今後は亡父美作守(手島高吉)のように馳走するべきことを促した。

同日、相州北条「氏康(相模守)」が、上野国衆の「由良信濃守殿(成繁)」に宛てて書信を発し、其方(由良成繁)に宛てられた山吉方(豊守)からの重要な書簡を回覧してもらい、何はさておき本望であること、このたび(輝虎から)示された一儀に極まるので、越陣から立て続けに到来した三人の先使に存念を伝えて送り返したこと、(輝虎が)倉内(上野国沼田城)で御越年されるのを念願していること、(輝虎から)御返答が得られるように、山吉方へ念入りに申し届けてもらいたいこと、これらを懇ろに伝えている。
同日、相州北条「氏政」が、「由良信濃守殿(成繁)」に宛てて書信を発し、このたび越(輝虎)から御使者が到来したこと、彼の口上をつぶさに聞き届け、御返答に及んだので、当方の存念をよく理解された上で、いよいよ適宜の御取り成しに奔走してもらいたいこと、これらを懇ろに伝えている。

9日、(上杉「輝虎」)、奥州黒川(会津郡)の「蘆名四郎殿(盛興)」に宛てて返書を発し、当方が越中へ進発したところ、わざわざ脚力を寄越してくれたので、とても喜ばしい限りであること、彼の国の平定を思うがままに成し遂げたので、北条氏政と共闘するために関東へ向かい、先月20日に当地倉内まで着陣したこと、この上は関東の諸勢を引き連れて氏政と同陣し、(武田)信玄を追い詰めるための兵略を綿密に協議するつもりなので、御安心してほしいこと、詳細は盛氏(蘆名止々斎。盛興の父)へ申し述べるので、この書面を略したこと、これらを懇ろに伝えた。

同日、相州北条「氏政」が、「由良信濃守殿(成繁)」に宛てて書信を発し、このたび輝虎が関東へ御出陣してくれたので、最前に取り交わした盟約を守るため、其方(由良成繁)には(越陣へ)御参陣してもらいたいこと、ひととおり御奮励してもらいたいこと、詳細は使僧の松(昌)甫が口上すること、これらを懇ろに伝えている。

12日、駿河国薩埵山陣(庵原郡)の相州北条軍が後退する。

15日、上杉軍の倉内着城の報に接した今川「氏真(上総介。駿河国平山城(千福城)に拠る)」から書信(「謹上  上杉殿」)が発せられ、盟約通りに雪中の苦労を厭わずに関東へ御出張されたので、喜びもひとしおであること、宿願を達するには、御尽力にすがるほかないこと、その口の様子を是非とも知らせてほしいこと、詳細は使僧の東泉院が口述すること、これらを懇ろに伝えられている。
同日、今川氏真(朱印)から、「倉内江(上野国沼田城の城衆)」に宛てた東泉院が口述するための条書(印文「桶」)が発せられ、一、このたび深雪の御困難を物ともせずに関東へ御出陣されたので、ひとえに本望であること、一、この上は早々に信・甲両国へ御出勢してほしいこと、一、当口の臨戦態勢は万全であること、これらの条々を説明されている。
同日、今川氏真の近臣である朝比奈「泰朝(備中守)」から、上野国沼田城(利根郡沼田荘)の城衆である「松本石見守殿(景繁。当時はすでに城将を退任している)・河田伯耆守殿(重親。大身の旗本衆)・上野中務丞殿(家成。譜代衆)」に宛てて初信が発せられ、このたび初めて申し達すること、輝虎御出張の件について、(今川氏真が)東泉院をもって申し入れられること、その地(沼田城)に於いて、適宜に御取り成ししてもらいたいこと、彼の口上をもって申し上げるので、この書面を略したこと、これらを懇ろに伝えられている。

18日、相州北条方の取次である藤田「新太郎氏邦」が、「由信(由良信濃守成繁)御宿所」に宛てて書信を発し、倉内(上野国沼田城)への御返事を託すので、速やかに御届けしてほしいこと、御同陣がままならない事情と駿河国蒲原城(庵原郡)の失陥について、先頃に派遣した使僧の昌甫を通じて申し述べること、輝虎が御出馬されるのに伴い、我々(藤田氏邦)や遠左(遠山左衛門尉康光。氏康の側近。小田原衆)が参陣するべきところ、このたびの蒲原落城により、なおいっそう余裕が失われた現状を御理解してもらいたいこと、一両日中には武蔵国鉢形城(男衾郡)へ帰還するつもりなので、その折に改めて申し達するつもりであること、これらを懇ろに伝えている。
22日、在府中の藤田「氏邦」が、伊豆国韮山城(田方郡)に在陣中の「遠左(遠山左衛門尉康光)」に書信を発し、取り急ぎ飛脚をもって申し伝えること、去る20日に鉢形を罷り立ち、昨21日には当地小田原へ罷り着いたこと、此方(小田原)において御実城(氏康)の御草案と山孫(山吉孫次郎豊守)からの一札の模様を拝見したこと、使者の(三山)又六と安富が小田原から戻るのを待たずに、此方で(氏康の)御意を直接受けるため、昼夜兼行で駆けつけたこと、とりもなおさず(氏康の)御直書を其方(遠山康光)へ寄せられるので、必ずや飛脚が参ること、こうした御実情を(輝虎に)御理解してもらえたそうなので、(氏康は)ひときわ御満足されていること、遠新(遠山新四郎康英。康光の嫡男)に数名の徒輩を添えて利根川端に寄越されたので、山孫(山吉豊守)の御同心衆から数名を迎えに寄越してもらうべきこと、我々(藤田氏邦)が越陣に出向く際には、(氏康の)御意向により、体裁を整えるために大駿(大道寺駿河守資親。武蔵国河越城代)が付き添われること、これは当然の対応であろうこと、先頃に何度も承ったところでは、(氏康に)出家遁世する意思はいささかもないので、御安心してほしいこと、詳細は新四郎方(遠山康英)に同道してそちらへ参った時分、改めて申し伝えること、当家は存続に係わる難局を迎えられており、使者・飛脚の遣り取りでは済ませられない状況なので、一切合切を把握して越・相両国の御連携が機能するように取り持ちたい一心であり、昼夜に関係なく奔走するつもりなので、この覚悟を山孫に御理解してもらえるように取り次いでもらいたいこと、明後24日に此方を罷り立つにあたり、先ず申し入れたこと、これらを懇ろに伝えている。
同日、「三五綱定(三山五郎兵衛尉綱定。氏邦の側近)」が、由良「信州」の年寄中に宛てて書信を発し、取り急ぎ飛脚をもって申し入れること、このたび越国(越後)から到来した使者の進隼(進藤隼人佑家清(旗本衆)が、先だって越陣へ帰るのと入れ替わるように、越陣から相府小田原へ御状が送られたこと、昨晩に相府から当鉢形城に御返札が届くと、今朝方に脚力をもって新田へ発送したので、早々に越陣へ転送してほしいこと、詳細については御直札に示されていること、越陣に居る篠治(篠窪治部。相州北条氏の使者。連絡要員として越陣に在留か)から去る19日付の一札が届き、来る24日に(輝虎が)西上州へ御出張されるにあたり、(越後国上杉家側から)氏照(氏康の三男。武蔵国滝山城主と下総国栗橋城主を兼務する)と氏邦の御同陣されるべきとの仰せを申し越されていること、必ずや御貴城(由良成繁)にも篠治を通じて参陣要請が寄せられるであろうこと、未だに氏邦は帰城されないこと、繰り返し事情を申し上げること、これらを懇ろに伝えている。
26日、相州北条「左京大夫氏政」から書信(「謹上  山内殿」)が発せられ、歳暮の慶賀は尽きないため、三種一荷を進上すること、ただ祝儀を表するばかりであること、詳細は明春に承るつもりであること、これらを懇ろに伝えられている。


この間、甲州武田「信玄(法性院)」は、6日、相州北条方の駿河国蒲原城を攻略すると、敵の部将である清水新七郎(実際には別人であったらしい)を討ち取った駿河先方衆の「孕石主水佑殿(元泰)」に対して感状を与え、このたび蒲原に攻めかかったところ、最前で戦いに臨んばかりか、敵首ひとつ「清水新七郎」を討ち取ったのは、いつもながらの顛末であること、武勇の名誉は計り知れないこと、よって、駿州の内で一所を宛行うこと、ますます戦功を重ねれば神妙であること、これらを通達している。
同日、上野国岩櫃城代の「一徳斎(号幸隆。信濃先方衆の真田弾正忠幸綱)・真田源太左衛門尉殿(信綱)」父子に対して直筆の書簡を送り、取り急ぎ一筆を染めること、今6日に蒲原城の根小屋に火を放ったところ、在城衆の総勢が出撃してきたので、一戦して勝利を挙げ、城主の北条新三郎(氏信)を始めとして清水(新七郎)・狩野介ら主要な部将を残らず討ち取ると、即時に城を乗っ取ったこと、まさに前代未聞の戦果であること、本城に山県三郎兵衛尉(昌景。譜代衆)を置いて防備を整え、この表の勢力図を一変させて本懐を遂げたので、安心してほしいこと、これらを懇ろに伝えている。
10日、濃(尾)州織田「弾正忠殿(信長)」に対して書信(謹上書)を送り、こたび良い機会を得たので申し上げること、輝虎は上州沼田まで出張してきたが、上意(足利義昭)と貴辺(織田信長)の御計略が進むなか、某(武田信玄)の分国に攻め入ってこないはずであること、但し、迂闊に手出しをしてくるならば、その無意味な行為を後悔するはめになること、家老の者共が、先ずは信州に出馬して諸城に厳重な防備を申し付けるべきであるとの意見を具申してきたこと、上意の御下知に加え、貴所(織田信長)の和睦の御調停も半ばに達しており、深慮した結果、駿州への出張を選択したこと、去る6日に蒲原城を攻め落とし、北条新三郎以下の凶徒を全滅させると、信玄自ら当城を確保したので、御安心してほしいこと、今後の輝虎の出方については、ひとえに信長の調略に掛かっていること、近日中に使者の市川十郎左衛門尉(直参衆)をもって詳述すること、これらを懇ろに伝えている。
同日、「徳秀斎へ御返報」に対して返書を送り、蒲原の落着について、早々と御音問が寄せられたので、めでたく喜ばしいこと、去る6日に当宿城の攻撃を始めて火を放ったところ、例の如く向こう見ずな四郎(勝頼。信玄の四男で世子となった)・左馬助(信豊。信玄の甥)が、無謀にも要害を攻め上ってしまったので、大いに肝を冷やしたが、意外にも両者の率いる軍勢は立ち向かってきた敵を追い崩し、城主の北条新三郎兄弟・清水・笠原・狩野介ら主立った部将に加え、要害に立て籠もる士卒を残らず討ち取ったこと、当城は海道一の険難な地であり、このように容易く攻め落とすなど、人のなしうる業ではないこと、そればかりか味方は全員無事なので、御安心してほしいこと、これらを懇ろに伝えている。
19日、西上野先方衆の「高山大和守殿(泰重ヵ。上野国高山城主)」に対して返書を送り、蒲原の落居について、わざわざ書状を寄せてくれたので、めでたく喜ばしいこと、海道随一の当地を瞬く間に攻め落とし、そればかりか北条新三郎(氏信)・狩野介・清水以下の凶徒を残らず討ち取ったので、御安心してほしいこと、この勢いに乗って相・豆両国の間に攻め入るべきところ、輝虎の沼田在陣には色々と疑念を感じるので、当城の修復を終え次第、帰府してから信濃国岩村田(佐久郡)まで出馬すること、その折の面談を期していること、これらを懇ろに伝えている。
23日、濃(尾)州織田信長の側近である「佐々伊豆守殿(良則ヵ。御馬廻衆)」に対して書信を送り、長々と市川十郎左衛門尉を岐阜に留め置いているところ、手厚くもてなしてもらっており、いくら感謝してもしきれないこと、先月20日に輝虎が上州沼田城まで出張してきたが、深慮の結果、駿州へ出陣すると、思い通りに勝利を挙げたので、すこぶる満足していること、詳細は彼の者が口述するので、この書面を略したこと、これらを懇ろに伝えている。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 846・847号 上杉輝虎書状(写)、848・849号 北条氏政書状、851号 上杉輝虎書状(写)、852号 北条氏康書状(写)、853号 北条氏政書状(写)、854号 上杉輝虎書状(写)、855号 北条氏政書状、856号 今川氏真書状、857号 今川氏真条書、858号 朝比奈泰朝書状(写)、859号 藤田氏邦書状(写)、860号 三山綱定書状、861号 北条氏政書状 『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』 1361号 北条氏邦書状 『戦国遺文 武田氏編 第二巻』 1479号 武田信玄感状、1480・1481号 武田信玄書状写、1482号 武田信玄書状、1484号 諏訪勝頼書状、1485・1486号 武田信玄書状

◆ 成田家中の手嶋氏については、市川高男氏の論集である『戦国期東国の都市と権力』(思文閣出版)の「第二編 北条氏と東国領主 第二章 武蔵成田氏の発展と北条氏」を参考にした。
◆ 北条家中の篠窪氏については、下山治久氏の編著である『後北条氏家臣団人名辞典』(東京堂出版)を参考にした。
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