越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

謙信急逝後における分国中の要人たちの動向 -御館の乱前夜ー

2018-09-15 09:15:09 | 雑考

 越後国上杉謙信の急逝後における分国中の重要人物たちの動向について述べてみたい。



【史料1】吉江信景・三条信宗宛鯵坂長実書状
言上、今度之御仕合、言語道断、無是非御事候、因茲、早速御飛脚被為差登候、奉存知其旨候、然御様子於越中・当国内々無其隠之由候間、昨十八日、諸面々為召登、内証之通為申聞候処、何驚入申候、即於座中各神慮可致之歟之由申候処、何分ニも指図次第申候之条、出案文、為致誓詞・血判差上申候、先以当地備之儀、乍恐可御心易候、就之、愚意之旨以条数長尾堅佐申含、差越申候、此旨宜預御披露候、恐惶謹言、
            鯵坂備中守
    三月十九日      長実
    吉江喜四郎殿
    三条道如斎


【史料2】神保氏張宛上杉景勝書状
態用一書候、爰元之儀可心元候、去十三、謙信不慮之虫気不被執直遠行、力落候、可察候、依之、遺言之由候間、実城可移之由、各強理候条、任其意候、然、信・関諸堺無異儀候、可心易候、扨又、其方事、謙信在世中別懇意、不可有忘失儀、肝要候、当代取分可加意候条、其心得尤候、猶、喜四郎可申候、恐々謹言、
  追啓、謙信為遺物、刀一腰景光作秘蔵尤候、以上、
    三月廿四日      景勝
       神保安芸守殿


【史料3】小嶋職鎮宛上杉景勝書状
態用一書候、爰元之儀可心元候、去十三日、謙信不慮之虫気不被執直遠行、力落令察候、因茲、遺言之由候、実城可移之由、各強理候条、任其意候、然、信・関諸堺無異儀候、可心易候、扨亦、吾分事、謙信在世中別懇意、不可有忘失儀、肝要候、当代取分可加意之条、其心得尤候、猶喜四郎可申候、穴賢/\、
  追啓、謙信為遺言、刀一腰次吉作秘蔵尤候、以上、
    三月廿四日      景勝(花押a)
        小嶋六郎左衛門とのへ


【史料4】石黒成綱宛上杉景勝書状
態用一書候、爰元之儀可心元候、去十三、謙信不慮之虫気不被執直遠行、力落令察候、依之、遺言之由候間、実城可移之由、各強理候条、任其意候、然、信・関諸堺無異義候、可心易候、扨々、吾分事、謙信在世中別懇意、不可有忘失義、肝要候、当代取分可加意候条、其心得尤候、猶喜四郎可申候、穴賢/\、
  追啓、謙信為遺言、刀一腰吉連作秘蔵尤候、以上、
    三月廿四日      景勝御居判
       石黒左近蔵人との


【史料5】太田道誉宛上杉景勝書状
雖未申通、一筆啓述候、去十三謙信不慮之煩不被取直遠行、恐怖可有識察候、仍任遺言景勝可移実城之由、様々雖令斟酌、強各理候間、応其意候、然万方仕置謙信在生不相替候、可心安候、扨亦、其表之儀、謙信被申置子細共候、其上鬱憤弓箭、乍若輩当代猶以存詰候条、不相違入魂可為喜悦候、尚重畳可申候、恐々謹言、
  追啓、謙信遺物細刀一腰差越之候、為形見自愛尤候、
    三月廿六日     景勝
    太田美濃守殿


【史料6】吉江信景宛本庄全長書状
御書之趣精拝領、抑今度 謙信様御他界、乍恐、万民之浮沈此時候、然、任 御遺言即御実城御移、各々馳走千秋万歳御目出奉存候、随、愚入事奉対、御当代急度可走廻由被仰下候、如斯被入御手 御諚云、惣躰別心無之云、自今已後無二可抽忠信存意候、委曲之旨桐澤左馬亮方申達之由、可預御披露候、恐惶謹言、
             本庄入道
                 全長(花押)
    四月廿日
  吉江喜四郎殿


〔1.上杉景勝〕
 越後国上杉謙信は『上杉家御年譜 一 謙信公』(495~6頁)によれば、3月9日の午の刻に急病で倒れると、持ち直すことなく13日の未の刻に亡くなったといい、15日に葬儀が執り行われたという。確かなのは13日に亡くなり、その数日前に「虫気(腹痛)」で倒れたことである(渡辺慶一(編)『上杉謙信のすべて』47~9頁)。
 謙信の養子のひとりである上杉弾正少弼景勝は、病臥している謙信が残した遺言により、後継者に指名されたらしい。その時期は、謙信が急逝した直後なのか、それとも葬儀が執り行われた直後なのか、残念ながら明確ではないが、ともかく景勝は、在府していた越後衆の歴々から、謙信遺言の旨に従うべきとの後押しを受けて、府城春日山城における自分の郭から主郭へと移り、越後国上杉家の当主の座に就いた。
 そして景勝の動向が史料上で初めて知れるのは、【史料1】の通り、謙信最晩年の側近衆であった吉江喜四郎信景・三条道如斎信宗を取次として能登代官の鯵坂備中守長実の許へ飛脚を立てて、謙信が急逝した事実を報知していることである。これに対して鰺坂長実と能登衆たちは景勝に忠信を誓っているのだが、景勝の発した訃報は、【史料1】の文意からして3月17日頃に鰺坂の許に届いたようなので、『上杉家御年譜』に記されている通り、15日に謙信の葬儀が執り行われたのだとしたら、鯵坂は葬儀後に謙信急逝の事実を知らされたことになる。当然ながら、越中東・西郡の代官である河田豊前守長親・吉江織部佑景資、関東代官の北条安芸守高広・同丹後守景広父子に対しても、鯵坂と同時期に訃報は発せられたであろう。
 こうして景勝は代官たちと交信するなか、【史料2~4】の通り、3月24日には、越中西郡代官の吉江景資を通じて、景勝に対する忠信を誓ってきたであろう越中衆(神保氏旧臣)のなかでも、生前の謙信から懇意を受けた神保安芸守氏張・小嶋六郎左衛門尉職鎮・石黒左近蔵人成綱たちへ宛てた書状を認め、謙信が突然の「虫気」で倒れると、快復しないまま亡くなってしまったので、その落胆のほどを察してほしいこと、これにより、越後衆の歴々から、「遺言」の通りに「実城」へ移るべきであると、強く勧められたので、彼らの思いに従ったこと、諸方の境目に異変はないので、安心してほしいこと、謙信から受けた懇意を忘れないでほしく、「当代(景勝)」においても手厚く配慮していくつもりなので、よく心得ておいてほしいこと、これらを吉江喜四郎信景が詳報することなどを伝え、それぞれへ謙信の遺言と称して、刀を形見分けしている。残念ながら、神保氏張・小嶋職鎮・石黒成綱たちの返書は残っていないが、彼らの同輩である唐人式部大輔親広・長沢筑前守光国が景勝の跡目相続に祝意を表して太刀を献上した書状の写しが残っている(高橋義彦(編)『越佐史料 巻五』452頁 ◆『上越市史 上杉氏文書集』1488・1489号 ◆ 池享・矢田俊文(編)『上杉氏年表』174~5頁 ◆ 片桐昭彦(論)「上杉謙信の家督継承と家格秩序の創出」13頁)。
 また、【史料5】の通り、3月26日には、取り分け謙信と関係が深かった関東味方中の太田美濃入道道誉(資正。三楽斎)に宛てて、より丁寧な直状を認め、越中衆と同内容で謙信急逝の事実と自身の跡目相続の経緯を伝えるとともに、分国中の統治は「謙信在世」と変わらず万全なので、安心してほしいこと、関東表の事情については、謙信が詳しく言い残されており、その折に鬱憤を晴らすような戦いに臨めるのであればと、若輩ながら意気込んでいるゆえ、これまでと変わらず提携してもらえれば、大変喜ばしいこと、これらを懇ろに伝え、やはり謙信の遺言と称して、謙信愛用の細刀を形見分けをしている(花ヶ前盛昭(編)『上杉景勝のすべて』16・18頁 ◆ 黒田基樹(編)『岩付太田氏』157頁)。
 その後、越後国三条城将の神余小次郎親綱に不穏な動きがあったり、奥州黒川の蘆名家の軍勢が境目から攻め込んできたりして、蒲原郡が混乱に陥ったことから、これらに対処する一方、かつて上杉輝虎期に甲州武田・相州北条陣営に鞍替えして国内で反乱を起こすも失敗に終わると、嫡男を人質として越府に差し出し、自らは法体となって自領内での蟄居処分を下されていた揚北衆の本庄弥次郎入道全長(繁長。雨順斎)に忠信を求めるため、上田衆の重鎮である桐沢左馬允具繁を越後国猿沢城へ向かわせたところ、【史料6】の通り、4月晦日に本庄全長が取次の吉江喜四郎信景へ宛てた返書を認め、このたびの「謙信様御他界」は、恐れながら、「万民之浮沈」にかかわる事態であること、そうしたところ、「御遺言」の通りに「御実城」へ移られて諸事を取り仕切られており、御当家繁栄の門出に祝儀を申し上げること、よって、「御当代」から「愚入」に対せられ、しっかりと精励するようにと仰せ下されたこと、こうして御配下に属したからには、御下命に従うといい、全ての事柄に異心がないといい、今から先は無二の忠信を尽くす所存であること、詳しくは「桐澤左近亮方」へ申し伝えたので、これらを「御披露」してくれるように頼んでいる(高橋義彦(編)『越佐史料 巻五』452~3頁 ◆ 小林健彦『越後上杉氏と京都雑掌』178~182頁 ◆『村上市史 資料編 古代中世編』347頁)。このやり取りは景勝が本庄全長の処分を解除したのではないだろうか。



【史料7】結城晴朝宛上杉謙信書状
就越山再三示給、喜悦之至候、如啓、先達北国無残所納手裏候之条、越山令必然、分国中及陣触候、来月中旬至沼田・厩橋可打着之条、味方中被示合、御手合肝用候、猶露條目候間、不能具候、恐々謹言、
  追啓、段子弐巻到来快然候、是一儀計白布拾端進之候、已上、
    三月十八日      謙信(花押a)
    結城左衛門督殿


【史料8】水谷勝俊宛上杉謙信書状
就越山再三示給、喜悦之至候、如啓、先達北国無残所納手裏候之条、越山令必然、分国中及陣触候、来月中旬、至沼田・厩橋可打着之条、味方中有諷諫手合肝要候、恐々謹言、
    三月十八日      謙信(花押a)
      水谷伊勢守殿


【参考史料】宇都宮広綱宛上杉謙信ヵ条書
   覚
一、越山之儀、来月中旬必然之事、
一、両和之儀、令得其意候事、條々口上、
一、二、三ヶ城、計策専用之事、
 付、奥口之事、
  以上
(朱印)三月十八日                            
     宇都宮弥三郎殿


【史料9】吉江信景・三条信宗宛北条芳林・同景広書状
就其許御仕合、当口之儀無御意元之由侯て、市瀬方被指越侯、過分忝侯、於様躰委彼方令面述侯、事々重可申侯、恐々謹言、
  追、御前可然様御心得任入侯、以上、
             北丹  
              景広(花押)
    三月廿六日
             同安入
              芳林(花押)
    吉喜
    三道
      御宿所 


【史料10】吉江信景宛北条芳林・同景広書状
両度之御書具拝見、過分之至侯、内々疾ニも可及御請侯処、万端致朦昧遅延、寔以令迷惑侯、此般 上様御逝去不及是非侯、当表之事、御威光不浅上、動揺以外侯つる、雖然、御味方中令相談、于今御煩之様取成候、猶様躰市瀬右近允申分候、此旨宜預御披露候、恐々謹言、
           北条丹後守
               景広(花押)
    三月廿七日
           同安芸入道
               芳林(花押)
    吉江殿


【史料11】北条高定・吉江信景・三条信宗宛倉賀野尚行書状
就其許御仕合之儀、当口無御心元被思召、一瀬方為御使被指越候、善之地罷越、御使懸御目、御様躰承届、過分之至存候、於御様躰、彼御方申展候間、定可被仰上候、雖無申迄候、可然様御心得御披露奉存候、恐々謹言、
         倉賀野左衛門五郎
    三月廿七日     尚行(花押)
   喜四郎殿
   下総守殿
   道如斎
      参御宿所


【史料12】吉江信景宛津布久信定書状
今度 御使節善之地迄御移、其上倉左(倉賀野尚行)彼地迄招御申候、則我々同心申急可申候得、御用心如何奉存候間、後日罷越、御様躰承申、乍恐御笑止奉存候、扨又、御番御普請之儀無如在可仕候、可被思召御心安候、此等之趣、御次之時分御披露奉頼候、恐々謹言、
          津野(ママ)久刑部少輔
   三月廿八日       信定(花押)
 喜四郎殿
     人々御中


〔2.北条高広・同景広〕
 謙信の訃報を受けた関東代官の北条安芸守高広・同丹後守景広父子のうち、親の方の北条高広は法体となって弔意を表し、安芸入道芳林と号している(関 久『越後毛利氏の研究』150頁)。
 これは、かつて上杉輝虎から譜代家臣として様々な芳志を受けておきながら、関東代官として、相州北条氏政との和睦交渉に携わった際、交渉をまとめられずに失敗したのを叱責されたことや、輝虎による総州経略が失敗に終わり、関東味方中の離反が相次ぎ、最前線で孤立したことなどから、相州北条・甲州武田陣営に鞍替えしてしまったにもかかわらず、のちに越・相同盟が成立したのを機に越後国上杉家へ復帰が許された恩義に報いたものであろう。
 こうして内々に弔意を表した一方、北条高広・同景広父子は、景勝の指示によるものかは分からないが、【史料7・8】の通り、この春の謙信による関東大遠征に期待を寄せている関東味方中の結城左衛門督晴朝からの出陣要請がひっきりなしに届くなか、3月18日、すでに亡くなっている謙信を装って結城晴朝とその重臣である水谷伊勢守勝俊へ宛てて書状を送り、再三にわたる出馬要請に対する喜悦の意を表するとともに、先頃に北国の平定を終え、関東遠征に向けて、すでに分国中へ陣触れを済ませており、必ず来月中旬には上野国沼田・厩橋に着陣するので、味方中と示し合わせて参陣するように伝えている。これは、謙信があらかじめ各代官に配布しておいた「判紙(謙信の花押が据えられた白紙。味方中へ急報を要する場合など、特例で謙信の指示、あるいは代官の裁量に任され、代官の方で文面を書いて用いられた)」を使用したものと考えられている(『上越市史 上杉氏文書集』464号 ◆ 池享・矢田俊文(編)『定本 上杉謙信』260頁 ◆ 黒田基樹『関東戦国史』211~214頁)。
 その後、北条父子は、景勝から二度も書信が寄せられたにもかかわらず、どちらにも返信しなかったので、【史料9・10】の通り、3月26日に取次の吉江喜四郎信景・三条道如斎信宗へ宛てた書状を認め、このたび御当家が見舞われた憂き目により、「当口」の状況が案じられるとの思いから、使者の「市瀬方(一瀬が正しいと思われる。右近允。謙信旗本)」を寄越されたこと、この身に余る御配慮に恐縮していること、こちらの状況については彼方(一瀬右近允)へ直に申し述べたこと、諸々については続報すること、よって、これらを「御前(景勝)」へ然るべく取り次いでくれるように頼んでいる。この続報として、翌27日には吉江信景のみへ宛てた書状を認め、二度も寄せられた「御書」をつぶさに拝読させてもらい、身に余る御配慮に感謝してもしきれないこと、内々にすぐにでも御返答するべきところ、すっかり茫然自失の体に陥り、御返事が遅れてしまったこと、このたびの「上様(謙信)御逝去」は痛恨の事態であり、こちらでは「御威光」が強く及んでいたばかりに、はなはだ「動揺」していること、それでも何とか「御味方中」と相談したうえで、管内に対しては、今なお(謙信は)療養中であると装っていること、こちらの様子は「市瀬右近允」が説明すること、よって、これらをよろしく「御披露」してくれるように頼んでいる(高橋義彦(編)『越佐史料 巻五』458~460頁 ◆ 関 久『越後毛利氏の研究』125・172頁)。
 使者の一瀬右近允は、【史料11・12】の通り、上野国群馬郡の厩橋城から、関東味方中の河田九郎三郎(のちに備前守を称する。足利(館林)長尾氏の旧臣か)が拠る同国勢多郡の善城へ向かい、そこへ招集された味方中の倉賀野左衛門五郎尚行(上野国勢多郡山上城将)や、番城の用心のために遅れて出向いてきた津布久刑部少輔信定(桐生佐野氏の旧臣)らに対し、謙信急逝の事実を伝えている。このことからすると、これらの関東味方中は、謙信の訃報に接した北条父子からは謙信急逝の事実を知らされていなかったようであり、北条父子が謙信療養中を装うことを相談した「御味方中」とは、沼田城衆の河田伯耆守重親・上野中務丞家成・大石惣介芳綱・小中彦右兵衛尉・竹沢山城守、女淵城衆の後藤左京亮勝元(『上越市史 上杉氏文書集』1369号 ◆ 栗原修『戦国期上杉・武田氏の上野支配』173~188頁)、といった越後衆のみを指すのであろう。


※ 北条高広・景広父子が拠る厩橋城と並ぶ、関東における越後国上杉家の一大拠点である沼田城の城将を任されていた河田重親(謙信旗本)は、分郡代官の任ではなく、あくまで城将の任ではあったが、越中代官の河田長親の叔父であり、謙信の信頼も厚く、北条父子が謙信の出馬を引き出したいがために、偽りの情報を寄越してくることに困っていた謙信は、あえて重親に敵状や時節などの情報を確認しているほどである(『上越市史 上杉氏文書集』1282号 ◆ 池享・矢田俊文(編)『定本 上杉謙信』58頁)。この重親は、天正6年正月中旬に謙信から、厩橋の北条父子の許へ沼田衆を引き連れて移り、謙信による関東大遠征の準備を整えるように指示されていたので、謙信の訃報を厩橋で聞いた可能性がある(『上越市史 上杉氏文書集』1388号 ◆ 関 久『越後毛利氏の研究』163~4頁)。

※ 【参考史料】は、『謙信公御書集』では元亀元年3月条に置かれている。しかしながら、上杉輝虎が「越山之儀、来月中旬必然」と伝えているのに対し、当該期に輝虎は関東在陣中であるばかりか、輝虎が帰国の途に就くのは4月中旬であるから、全く状況が一致していない。これは、【史料7・8】と日付が一致していること、両書中の「越山令必然…来月中旬至沼田・厩橋可打着之条」といったように、必ず来月中旬に越山すると伝えていること、謙信の関東出馬を強く要請していたのは結城晴朝のほか、常陸国衆の佐竹次郎義重、その客将で常陸国衆の太田美濃入道道誉・梶原源太政景父子(当時は下野国榎本城に進出していたか)・下野国衆の宇都宮弥三郎広綱を中核とした「東方之衆」であることから、北条父子は宇都宮広綱に対しても謙信を装った書状を送ったと考えられるので、【参考史料】は【史料7】の「条書」にあたるのではないだろうか(『上越市史 上杉氏文書集』1374号)。もしこの通りであれば、当然ながら佐竹義重と太田・梶原父子に対しても同様であろう。

※ 【史料11・12】は、『新潟県史 資料編』『上越市史 上杉氏文書集』において、年次が天正2年に、それぞれ比定、仮定されている。しかしながら、【史料11】の方は【史料9・10】と使者が「市瀬・一瀬」で一致していることと、署判者の一人である三条信宗が取次として活動を始めたのは天正5年であることから、『謙信公御書集』が同史料を同6年の発給文書としているのに従うべきであろう。そして、【史料12】の方は、『新潟県史』が【史料11】と関連付けて天正2年の発給文書としており、これは越府からの使者が倉賀野尚行の拠る上野国善城に到来したことが一致しているからだと思われる。そうなると、越府から到来した使者がもたらした「御様躰」を聞いて津布久信定が抱いた「御笑止」という感情は、謙信急逝に対する心痛を指すものと考えられるので、『新潟県史』が両文書を関連付けたことに従い、そのまま一緒に年次を天正6年に動かした。



【史料13】上条政繁起請文案
天罸起請文
 一、惣躰備方於何事も、おんつ(隠密)の事、他言いたさす、尤存智通、しんそ(親疎)なく意見可申候、扨亦、ミツ事、いかやう御尋候共、おたいはうなとにて申ましく候、ミツ事さたきかせ、たゝ一すし景勝御前存、御意見可申候事、
         若此旨於偽
ほんてんたいしゃく(梵天帝釈)、四大天王、惣日本大小之神祇、殊ニハ日光・月光・摩利支天・愛宕大こんけん(権現)・飯綱・蔵王・弥彦・二田八幡大菩薩・関山大こんけん・府中六所・春日大明神・ゆするき(石動)山・ふぢ(富士)こんけん・天満大自在之御神可蒙御罸者也、仍如件、
    三月 日       上条
     「(墨引)

※ 著者不明(伊佐早謙か)の『畠山入庵考』による当該起請文案の翻刻を参考にして、見せ消ち部分の字句は除いた。


〔3.上条政繁〕
 能州畠山家出身であることから、謙信による能州平定の大義名分の象徴として七尾城の別郭に置かれたとみられる謙信一家の上条弥五郎政繁は、【史料10】の通り、謙信急逝後の3月中に上杉景勝へ宛てた誓詞を認め、おおよそ「備方」の計画内容は何事であっても他言せず、当然ながら方針に沿った「意見」を惜しみなく述べること、それからまた、密事の内容について執拗に尋ねられても、「おたいほう(上杉景勝の母。仙洞院)」などに決して打ち明けたりはしないこと、密事が滞らないように手配を進め、ただひたすらに「景勝」の利益を考えて「御意見」を述べること、これらを神名に掛けて誓っている(東京大学史料編纂所 所蔵史料データベース『畠山入庵考』0080・0081・0090齣 ◆ 池享・矢田俊文(編)『上杉氏年表』175頁)。
このことは、景勝が謙信のやり残した事業を引き継ぐにあたり、両者は今後の戦略構想などについて密談したのであろうから、『上杉家御年譜』に記されている通り、政繁が謙信の葬儀に参列したのであれば、分国中の代官たちが訃報を知らされた時期から考えても、天正5年11月の時点で能登在国が確かな政繁は、翌6年の春先には越府へ戻っていたことになる(『上越市史 上杉氏文書集』1358号)。
 ということは、天正6年春に謙信が挙行するはずであった関東大遠征において、謙信の信頼が厚い直江大和守景綱の補佐と監視を受けながら能登衆を率いる率いる予定であった政繁は、能登代官の鯵坂備中守長実が陣触れの日限に従って能登衆を引き連れてくると、その時点から、鰺坂長実と交替して能登衆を率いる手筈となっていたことにもなる。それは、天正5年分国衆交名注文によると、越中国新庄城の城将を長期務め、謙信の越中平定後には越中西郡代官として越中増山城代を短期務めた鰺坂長実(『富山県史 通史編 中世』1046頁 ◆ 栗原修(論)「上杉氏の領国支配機構と奏者 -吉江喜四郎信景の態様を通して-」63~4頁)は、越中東郡代官の河田豊前守長親と同西郡代官の吉江織部佑景資の両名と共に、馴染みの越中衆を率いることになっていたからであろう。


〔4.河田長親・吉江景資・鯵坂長実〕
 越中国東郡代官兼松倉城代の河田豊前守長親、同国西郡代官兼増山城代の吉江織部佑景資、能登国代官兼七尾城代の鯵坂備中守長実は、謙信旗本のうちでも、取り分け寵遇を受けた者たちであったが、越後国上杉家が江(尾)州織田家の北国衆と対向しているなかでは、謙信の病臥、急逝、葬儀、どの段階で知らされたところで、新領の統治を放り出して本国へ駆けつけることは叶わず、そのまま北陸に駐留を続けるほかなかったであろう。
 せめて謙信から受けた寵遇に報いるため、河田長親はすぐさま法体となって弔意を表し、豊前入道禅忠と号している(『上越市史 上杉氏文書集』1588号 ◆ 栗原修『戦国期上杉・武田氏の上野支配』76頁)。これは天正9年に常陸入道宗誾として所見される吉江景資も同様であり、当初は恐らく織部入道であったろう(『上越市史 上杉氏文書集』2113・2163号)。
 残念ながら、謙信急逝直後に上杉景勝と交信している書状が残っているのは、【史料1】の通り、能登一国を一人で管掌していた鯵坂長実のみである。これによれば、3月17日以前に鯵坂は景勝からの飛脚で訃報に接すると、18日に管内の主立った将士を七尾城へ呼び寄せ、そこで謙信が急逝した事実を伝えるとともに、凶報に驚く列席者一同に呼び掛け、謙信の跡目を継いだ景勝に忠信を誓う血判起請文を書かせている。そして19日には、取次の吉江信景・三条信宗へ宛てた書状を認め、このたび御当家が見舞われた憂き目は言葉では表せないほどの御痛恨の事態であること、いち早く「御飛脚」を寄越されたので、この有事を理解したこと、それゆえに謙信の「御様子」に何事かが起こったと、もはや越中と「当国」では秘かに知れ渡っているようなので、昨18日に能登衆の主立った者たちを招集し、内証事を申し聞かせたところ、その誰もが衝撃を受けていたこと、そこで列席者一同に対し、(景勝へ)誓詞を呈して忠信を誓うべきではないかとの考えを示したところ、一同は何が何でも指図に従うとの決意を示したゆえ、自分の方で用意した案文通りに血判起請文を書かせて、それを呈すること、とにかく管区の体制は万全であり、恐れながら御安心してほしいこと、自分の存念は条目を基に、使者として上府させる長尾入道堅佐を通じて詳しく申し述べさせてもらうこと、よって、これらをよろしく「御披露」してくれるように頼んでいる。(高橋義彦(編)『越佐史料 巻五』451頁 ◆ 栗原修(論)『上杉氏の領国支配機構と奏者 -吉江喜四郎信景の態様を通して-』63頁)。


〔むすび ー御館の乱前夜ー〕
 以上のように、越後国上杉家は景勝を当主に戴いて新たな船出を迎えていたわけだが、3月下旬、越後国三条城将の神余小次郎親綱が近辺の各層から証人を差し出させるなどして三条領が騒然となり、世間では「雑意」が噂されたことから、景勝が林部三郎右兵衛尉・楡井修理亮親忠(ともに謙信旗本)を三条城へ派遣し、景勝の許可を得ていない勝手な処置について詰問するとともに、神余家中の証人はそのまま要害内に留め、そのほかは在地へ帰すように指示したところ、神余親綱は、〝自分のとった行動に関して手落ちがなかったこと、自分に不正や叛意の無いこと〟(小林健彦『越後国上杉氏と京都雑掌』180頁)を上使両衆と取次三人衆を通じて弁明した(高橋義彦(編)『越佐史料 巻五』462~4頁 ◆『上越市史 上杉氏文書集』1483号』)。なかでも神余は身の潔白を示すため、取次三人衆に対し、上使両衆の眼前において、景勝へ呈する血判起請文を認めることを望んだところ、そのような景勝の指示は受けていないにもかかわらず、とても見届けるわけにはいかないとして、上使両衆に固辞されてしまい、とりあえずは断念したが、とにかくその意を酌んでほしいこと、ただひたすらに血判起請文を呈させてほしいこと、これらを上使両衆に言伝てを頼んだので、然るべく取り成してくれるように求めている。
 さらには同じ頃、奥州黒川の蘆名止々斎(盛氏)・同盛隆父子が遣わした軍勢が境目を越えて越後国中郡に攻め込んできたので、4月3日頃に景勝は遅ればせながら蘆名父子の許へ使者二名を向かわせ、謙信急逝の事実と自身の跡目相続の経緯、今後も謙信在世時のように友好関係を続けていきたいことを伝えるとともに、止々斎には、かつて景勝が謙信から下賜され、「冥感(信心により神仏が感応して冥利を授かる)」があるとして肌身離さずにいた佩刀を贈り、盛隆には具足一領と甲一刎を贈るも、それでは不足と思い直したのか、加えて「寒物」も贈るなどして、蘆名父子の懐柔に努めたが効果はなかった。それでも16日には在地の越後衆が会津黒川衆を撃退している(『新潟県史 資料編』2936号 ◆『上越市史 上杉氏文書集』1486・1487号 ◆ 小林健彦『越後上杉氏の京都雑掌』178~180頁 ◆ 片桐昭彦(論)「上杉謙信の家督継承と家格秩序の創出」13頁)。
 そして、4月下旬までには、謙信のもうひとりの養子であった上杉景虎が、景勝から何がしかの圧力を受けて憤慨すると、自らも跡目相続を宣言し、5月朔日には三条の神余親綱がついに反旗を翻すといった状況のなか、景勝は支持者に命じ、景虎の支持者と思しき柿崎左衛門大夫、北条下総守高定・同助三郎父子、片野将監亮・同七郎兵衛尉父子(将監亮は北条高定の舅という)らを10日までに次々と殺害していったので、たまらず景虎は、ちょうど謙信の月命日にあたる13日に春日山城の自分の郭から府内の御館へと移った。これには謙信の一家衆であった山本寺伊予守定長のほか、大身の部将が十名ほど従ったという。この景虎の行動に呼応するようにして、三条の神余に同調した越後国栃尾城主の本庄清七郎も反旗を翻し、神余と本庄は相談のうえ、蘆名父子に再出兵を呼び掛けたので、蘆名父子は謙信在世中から越後国上杉家と友好関係にあった一方、常陸国衆の佐竹義重を巡って、上杉景虎の実家である相州北条氏政とも手を結んでおり、その北条氏政からの要請もあってか、神余・本庄の呼び掛けに応じ、24日、小田切治部少輔・小沢大蔵少輔が率いる軍勢を差し向け、蒲原郡菅名荘を襲撃させた。会津衆は翌日には荘内の過半を制圧するも、26・7日は大雨の影響もあって停滞したことから、28日に足軽部隊を中心とした戦術に切り替えて雷城に攻め掛け、主郭のみに追い詰めたところ、各所から集まった越後衆の援軍が到来したので、挟撃される前に援軍の方を迎撃して三十人ほどを討ち取ったが、突破口を開いて後退する際に五十人ほどを討ち取られてしまうと、蘆名父子から敗戦の失態を責められて、やむなく会津領越後国蒲原郡小川荘三川の平等寺薬師堂に逼塞している。こうしたなか、春日山城と御館の間では、毎日のように激しい戦闘が行われ、両勢力による越後国上杉家の内乱が始まったのである(高橋義彦(編)『越佐史料 巻五』475頁 ◆『新潟県史 資料編』2936号 ◆『戦国遺文 後北条氏編』1990号 ◆ 布施秀治『上杉謙信伝』(附録)7頁 ◆ 関 久『越後毛利氏の研究』160~2頁 ◆ 瀧澤健三郎『越後入廣瀬村編年史 中世編』◆ 渡辺三省『直江兼続とその時代』◆ 七宮涬三『三浦・会津蘆名一族』218頁 ◆ 下山治久『戦国時代年表 後北条氏編』286頁 ◆ 小林健彦『越後上杉氏と京都雑掌』182頁 ◆『先祖由緒帳』馬廻組 105齣)。


※ 神余親綱は、取次の吉江信景・三条信宗・北条高定を通じて上杉景勝に対し、「当地長敷衆上府之儀、上様(謙信)御遠行之砌より再三申理候、」と、謙信急逝時より、再三にわたって家老衆を上府させることを申し出ていたというから、本国の在城衆には、すぐさま訃報が伝えられたようである(『上越市史 上杉氏文書集』1483号)。

※ 景勝が蘆名盛隆に贈った「寒物一」とは、単位が「一」とあるから、巻物か板物と書き写すべきところを誤ったのかもしれない(『上越市史 上杉氏文書集』1277号)。

※ 天正7年6月28日付岡本但馬守(号元悦。房州里見義頼の重臣)宛上杉景勝書状(『上越市史 上杉氏文書集』1844号)によると、景勝の方では、「謙信遠行以往、三郎(上杉景虎)徒構意趣、雖及鉾楯…」と述べている。

※ 『越後入廣瀬村編年史』の著者である瀧澤健三郎は、上杉景勝方の圧迫を受けて春日山城の自分の郭から退去せざるを得なくなった上杉景虎は、あえて謙信の月命日を選んで御館へ移り、景勝への対決姿勢を示したと考えられている(同書102頁)。

※ 通説では、上杉景虎が御館に移る以前の天正6年5月5日に春日山城と御館の間に位置する大場の地で両陣営による合戦が行われたとするが、その根拠となる5月16日付福王寺兵部少輔宛上杉景勝感状写(『上越市史 上杉氏文書集』1500号)における「五月五日、於大場弥太郎(福王寺兵部少輔の嫡男)走廻候事、」の日付は、写された段階で十が書き落とされた可能性がある(『越境記』21齣)。まだ景虎が春日山城に居た5日の時点で、両陣営による戦いが大場の地で行われたことに違和感を覚えていたが、15日であるならば、『平等寺薬師堂資料』における「三郎殿春日を引のき、御城之内へ御入候…春日と日々の御調義候、」という記述からしても得心がいく。

※ やはり通説では、天正6年4月に景虎方の古志郡栃尾城主である本庄清七郎と景勝方の山東郡与板城主である直江与右兵衛尉信綱の間で戦闘が始まり、その翌月には、知らせを受けた景勝から刈羽郡赤田城主の斎藤下野守朝信は与板へ出向いて加勢するように指示を送られたとしているが、『上越市史 上杉氏文書集』は、これらに関する文書を天正7年に置いている。それは天正6年当時は斎藤朝信が在府している事実に気付いたからであろう(『上越市史 上杉氏文書集』1807・1820・1824~1826号)。景勝が与板衆の直江一族・重臣を励ました天正6年5月10日付上杉景勝条書写(同前1498号)も、本庄清七郎が退勢を挽回するために総力を挙げて与板城を攻めようとした同7年5月に移すべきと思われる。

※ 越後国菅名荘に侵攻してきた会津黒川衆の中心人物である小沢大蔵少輔は、天正7年6月頃に取次として上杉景勝とやり取りしているので、これ以前に、敗戦の責めを負わされて平等寺薬師堂で逼塞していた会津黒川衆は蘆名父子からの折檻を解かれていたようである(『上越市史 上杉氏文書集』1836号)。



『上杉家御年譜 一 謙信公』(原書房)◆ 高橋義彦(編)『越佐史料 巻五』(名著出版)◆『新潟県史 資料編5 中世三』2936号 平等寺薬師堂史料・内陣正面右側上部嵌板墨書 『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』897号 上杉輝虎ヵ条書、1199号 倉賀野尚行書状、1200号 津野久信定書状写、1277号 上杉謙信書状、1282号 上杉謙信書状(写)、1326・1327号 上杉謙信書状、1358号 上杉謙信条書(写)、1375・1388号 上杉謙信書状(写) ◆『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1476号 鯵坂長実書状写、1477号 上杉景勝書状写、1478号 上杉景勝書状、1479号 上杉景勝書状写、1480号 北条芳林・同景広連署状、1482号 北条芳林・同景広連署状写、1483号 神余親綱書状、1484号 上条宜順起請文案、1483号 神余親綱書状(影写)、1486号 上杉景勝書状(写)、1487号 上杉景勝書状、1488号 唐人親広書状(写)、1489号 長沢光国書状(写)、1490号 本庄全長書状(影写)、1492号 由良成繁書状(写)、1497号 上杉景勝感状(写)、1498号 上杉景勝条書(写)、1500号 上杉景勝感状(写)、1523号 上杉景虎書状(写)、1588号 河田禅忠書状、1807号 直江信綱感状(写)、1820号 上杉景勝書状、1824号 斎藤朝信書状(写)、1825号 直江信綱感状(写)、1826号 今井久家・直江重綱連署状、1836・1844号 上杉景勝書状、2031号 上杉景勝朱印状、2113号 上杉景勝書状(写)、2163号 吉江宗誾書状 ◆『戦国遺文 後北条氏編』(東京堂出版)1990号 北條氏政覚書 ◆「戦国時代の越中(神保・椎名の角逐と上杉氏の越中進攻)」(『富山県史 通史編2 中世』)◆「本荘氏記録」(『村上市史 資料編1 古代中世編』)◆ 布施秀治「附録 勇将猛士 (柿崎景家 家憲)」(『上杉謙信伝』謙信文庫)◆ 関 久「十一代 北条毛利丹後守 十二代 北条毛利丹後守」(『越後毛利氏の研究』上越郷土研究会)◆ 瀧澤健三郎「西暦一五七八 天正六年 五月十三日 景虎、妻子姑を同伴して春日山を退去し、府中御館に入城す」(『越後入廣瀬村編年史 中世編』野島出版)◆ 渡辺三省「御館の乱と領国の確立 景勝・景虎の継嗣争い」(『直江兼続とその時代』野島出版)◆ 滝沢定春「上杉謙信の出自とその家族(逝去と死因)」渡辺慶一(編)『上杉謙信のすべて』(新人物往来社)◆ 花ヶ前盛昭「上杉景勝の出自と越後時代(御館の乱)」(花ヶ前盛昭(編)『上杉景勝のすべて』新人物往来社)◆ 西澤睦郎「謙信と越後の領主(越後毛利氏とその城館 北条高広と上杉謙信)」◆ 黒田基樹「謙信の関東侵攻(佐野領支配の開始)」(池享・矢田俊文(編)『定本 上杉謙信』高志書院)◆ 片桐昭彦「天正六年 謙信、「不慮の虫気」で倒れ、死去。四十九歳 景勝、景虎の家督争い。景勝、春日山を占拠」(池享・矢田俊文(編)『増補改訂版 上杉氏年表 為景・謙信・景勝』高志書院)◆ 栗原修「上杉氏の隣国経略と河田長親(長親発給関係文書について)」「厩橋北条氏の族縁関係(武田・織田領国下の北条氏)」「上杉氏の勢多地域支配(「名字尽」にみえる上野国武将)(河田九郎三郎と倉賀野尚行)」(『戦国期上杉・武田氏の上野支配』岩田書院)◆ 木村康裕「(上杉景勝の世界(景虎・景勝と御館の乱)」(『戦国期越後上杉氏の研究 戦国史研究叢書9』岩田書院)◆ 杉山博「上杉輝虎(謙信)と太田資正(道誉) -三戸文書の再検討-」(黒田基樹(編)『岩付太田氏 論集 戦国大名と国衆12』岩田書院)◆ 小林健彦「戦国大名上杉氏の対朝幕交渉(御館の乱に於ける神余氏)」(『越後上杉氏と京都雑掌 戦国史研究叢書13』岩田書院)◆ 片桐昭彦「上杉謙信の家督継承と家格秩序の創出(上杉家内部の暗闘と謙信の死)」(『上越市史研究 第10号』)◆ 七宮涬三「伊達・佐竹の狭間に立つ(盛氏の死去)」『三浦・会津蘆名一族』(新人物往来社)◆ 下山治久「天正6年5月19日条」『戦国時代年表 後北条氏編』(東京堂出版) 黒田基樹「北関東の攻防戦と謙信の死(死せる謙信、関東出陣を表明)」『関東戦国史 北条VS上杉55年戦争の真実』(角川ソフィア文庫)◆『畠山入庵考』(〔東京大学史料編纂所 所蔵史料目録データベース〕)◆「岡田次左衛門由緒」(〔市立米沢図書館デジタルライブラリー〕『先祖由緒帳』御馬廻組)◆「両勢初て矢合の事」(〔市立米沢図書館デジタルライブラリー〕『越境記』)
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