越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎(謙信)の略譜 【63】

2014-05-26 11:00:10 | 上杉輝虎(謙信)の略譜
元亀元年(1570)9月 上杉謙信(不識庵)  【41歳】

8月下旬から9月上旬の間に謙信と号する。

3日、相模在国の今川「氏真(上総介)」から、年寄三人衆の「柿崎和泉守殿(景家。譜代衆)・山吉孫次郎殿(豊守。大身の旗本衆)・直江大和守殿(景綱。同前)」へ宛てて書信が発せられ、ここ暫く音信を通じていなかったところ、いよいよ信州へ出陣されるそうなので、大いに喜んでいること、それに連動した(北条)氏政の出陣が実現するように、力の及ぶ限り奔走すること、当方の思いを然るべく取り成してほしいこと、こちらの様子は大惣(大石惣介芳綱。旗本衆)に詳述してもらうこと、これらを懇ろに伝えられている。
同日、今川氏真の側近である朝比奈「泰朝(備中守)」から、「柿崎和泉守殿(景家)・直江大和守殿(景綱)・山吉孫次郎殿(豊守)御宿所」へ宛てて副状が発せられ、まめに使者を派遣して音信を通じるべきところ、相州に居住するようになって以来、心ならずも連絡が滞ってしまったこと、いよいよ信州へ出陣されるそうなので、(今川)氏真にとっても大変喜ばしい吉事であること、ますます両家の厚誼を確かなものにするため、御取り成しを頼みとするほかないこと、よって、これらを大石惣介殿(芳綱)が詳述することを伝えられている。
同日、今川「氏真」から、別して取次の「山吉孫次郎殿(豊守)」へ宛てた書信が発せられ、このたび輝虎に直書を送るつもりであったが、これまで三度に亘って直書を送ったにも係わらず、輝虎からは一向に返事が寄せられなかったので、いぶかしんでいたところ、あしらわれた原因は、当方の貴国に対する不躾な書札礼にある旨を伝え聞かされたこと、ここ一、二年については、決して書礼を誤ったつもりはないが、若し不躾と思われるのであれば、貴国が望まれる通りの書礼に則って、非礼のないように注意を払うこと、貴国と当国は遠く隔たっているゆえ、行き届かない点が多いところは斟酌してもらうほかなく、当方の誠意が輝虎の理解を得られるように、なおいっそう其方の奔走を頼みにしていること、当口の模様は大惣(大石芳綱)に詳述してもらうこと、これらを懇ろに伝えられている。

7日、上野国厩橋城(群馬郡)の城代である北条丹後守高広(譜代衆。関東代官)が、取次の「山吉殿(豊守)」へ宛てて夜分に急報を発し、先月29日付の御直札が一昨5日に到来したので拝読したところ、その5日に御出府されて、早々に上田(越後国魚沼郡上田荘)の地に御着陣されるとの仰せを受け、これを知れば南方(相州北条家)を始めとした味方中の意気が揚がるはずなので、何より最も待ち望まれていた機会であり、直ちに相府小田原へ伝達したこと、(武田)信玄が信濃国岩村田(佐久郡)に着陣したのに伴い、上野国箕輪城(群馬郡)の城代である内藤修理亮(昌秀。譜代衆)が出迎えに向かったとの情報を、箕輪領に忍び込んだ境目衆の者が昨晩に寄越してきたので、こうした状況を承知して頂くために急報したこと、信玄が碓氷峠を越えてくるのかどうか、詳しく正確な情報を収集し、改めて報告を上げること、いずれにしても、こうして速やかな御出陣を肝心な時節に実行されたので、いよいよ当方の皆々が活気づいていること、これらをよしなに披露してほしいことを伝えている。更に追伸として、信玄が岩村田に着陣したとの情報は、敵領の上野国小幡谷(甘楽郡。西上野先方衆の小幡氏領)・武蔵国御嶽(児玉郡。武蔵先方衆の長井氏領)で諜報活動をしていた者からの報告とも一致することを伝えている。

15日、(上杉「謙信」)、今次の関東遠征に於ける先遣部隊として上野国沼田城(利根郡沼田荘)に向かっている「板屋修理亮とのへ(実名は光胤か。大身の旗本衆・松本鶴松丸の陣代)」へ宛てて夜分に急報を発し、昨日も連絡した通り、方々から寄せられた確報によると、(武田)信玄が上野国厩橋城に攻めかけてくるので、昼夜に関係なく倉内(上野国沼田城)へ急行するべきこと、兵糧は後から送らせてでも一人一騎の不足もなく夜通しで倉内に着城するべきこと、急を要する大事であり、ことさら頼りにしていること、追っ付け自分も沼田へ向かうこと、連立つ清七郎(大身の旗本衆・本庄清七郎。綱秀ヵ。本庄美作入道宗緩の世子)に対して、両衆の軍紀を徹底させるように言い含めるべきこと、これらの指示を与えた。更に追伸として、沼田に着城したあかつきには、この書簡を(本庄)清七郎の召し使う者に持たせて厩橋の北条丹後守(高広)に届けることを指示した。

17日、伊豆国韮山城(田方郡)の在城衆である北条「氏規(氏康の四男。相模国三崎城主)」が、重臣の「山本信濃入道殿(実名は家次。水軍大将)」に宛てて返書を発し、房州里見領(上総・安房国)に攻め入り、次男の新七郎(実名は正次か)が名高い戦功を挙げたそうで、心地よい首尾に満足していること、このほど敵軍が反攻に転じるようなので、とても心配していること、しかしながら、たとえ敵軍が攻め込んできたとしても、相府から援軍が手配されるはずであり、日増しに防備が整うので、心配は要らないであろうこと、何といっても(北条)氏政の軍勢が相府に詰めているからには、おいそれと敵軍は三浦郡内に攻め入れないはずではあるが、昼夜の防備を怠ってはならないこと、連日、当城に甲州武田方の駿州在陣衆が攻め寄せており、このたび熾烈な攻勢をかけてきたが、いずれの諸口も頑強に防戦していること、取り分け自分の持場である和田嶋口は頑強に防戦しており、全く心配は要らないこと、よって、このように繁忙を極めているため、彼の使者が詳述することを伝えている。更に追伸として、各々に苦労をかけるとしながらも、ことさら海賊衆の奮闘に期待を寄せている。

27日、(上杉「謙信(花押a)」)、上野国厩橋城を経由して武蔵国鉢形城(男衾郡)に向かっている使者の「後藤左京亮殿(実名は勝元。旗本衆)」へ宛てた書簡を早飛脚に託し、相府に派遣していた大石惣介(芳綱)からの連絡によると、(北条氏政は)氏康が明日をも知れぬ容態であるとして、自身の同陣も証人の交換も拒絶し、この21日に惣介(大石芳綱)を追い返したそうなので、吾分(後藤勝元)は厩橋城に留まり、彼の地から鉢形の新大郎(藤田氏邦。氏康の四男)に対し、「すでに輝虎(謙信)は越・相両国による御同陣を挙行するため、上・越国境の越後国上田まで進陣しているにも係わらず、このたび当方の使節である大石と須田(弥兵衛尉。旗本衆)を通じ、御同陣できない旨を返答されたのに伴い、新たに自分が使節として相府へ向かわなければならず、何とか入府できるように、衷心より貴殿様(藤田氏邦)の御意見を内々に伺いたく、その御返事を拠り所として相府に案内を乞いたい」とする文面の書簡を認めて飛脚を立てるべきこと、そして新大郎(藤田氏邦)の存分を聞き届けた上で相府小田原へ向かうべきこと、すでに厩橋を通過している場合には、直に書簡を鉢形へ持参し、彼の地で小田原(北条氏政)の対応を聞き届けた上で相府小田原へ向かうべきこと、多大な辛労を負わせるが、それでもなお今が正念場であり、ひたすら使命に奮励するべきこと、たとえ中途で滞留したとしても、諦めずに使命を果たすべきこと、全てが順調に運んだ折に改めて連絡することを伝えた。

晦日、病床にある北条「氏康(相模守)」から、取次の「山吉孫次郎殿(豊守)」へ宛てて書信が発せられ、このたび大惣(大石芳綱)が帰国するので音信を通じたこと、それに伴って彼の者に、当方の存念を伝えてくれるように詳述を頼んだので、この書面では詳細を省いたこと、まだそちらに遠左(遠山左衛門尉(実名は康光。氏康の側近。小田原衆)が逗留しているようならば、彼の者に御返答を託してほしいこと、若しも帰途に就いているのならば、そちらから使者一名を寄越してくれるように、万事を然るべく取り成すことを頼まれている。


この間、甲州武田「信玄(法性院)」は、9日、甲斐国諏訪南宮神社(八代郡)に願文を納め、北越の輝虎に於いては、俄かに一族郎党が反乱を起こすか、それでもなければ、悪疾を患って没命するか、いずれかの災厄に見舞われて、越後衆が信濃・上野両国に戦火を及ぼさず、人民が太平を恙なく謳歌することと、信玄が甲斐衆を引率して関東に出陣し、怨敵に慈心を施して幕下に降らせるか、それでもなければ、悉く撃破して四散させた上で指揮に服させるか、いずれかの果報を得て、凱歌を奏でて安楽に帰府することが実現すれば、諏方南宮大明神の加護によるものとして、普賢法五百座の読誦を約束している。
26日、関東の味方中(常陸国衆・佐竹氏の客将である太田美濃入道道誉か)に対して返書を送り、先書でも伝えたように、このほど武蔵国深谷(幡羅郡。深谷上杉氏領)・同藤田(榛沢郡。鉢形藤田氏領)領中を余す所なく荒らし回ったこと、明日は同秩父(秩父郡。鉢形藤田氏領)に移陣して郡中を打ち破るとともに、これから先の戦陣の手立てなどについて、そちらに使者を派遣して伝達すること、どうせならば直談してすり合わせをしたいこと、これらを懇ろに伝えている。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 582号 今川氏真書状(写)、936号 今川氏真書状、937号 朝比奈泰朝副状、938号 北条高広書状、939号 上杉謙信書状(写)、940号 上杉謙信書状、941号 北条氏康書状(写) ◆『戦国遺文 後北条氏編 第五巻』 4023号 北条氏規書状 ◆『戦国遺文 武田氏編 第三巻』 1592号 武田信玄願文、1740号 武田信玄書状

※ 『上越市史』等は582号文書を永禄10年に比定しているが、長谷川弘道氏の論考である「駿越交渉補遺―「書札慮外」をめぐって―」(『戦国遺文 今川氏編 第二巻』月報2)に従い、元亀元年の発給文書として引用した。

※ 『戦国遺文 武田氏編』等は1740号文書を元亀2年に比定しているが、柴辻俊六氏の論集である『戦国期武田氏領の形成』(校倉書房)の「第一編 権力編成と地域支配 第七章 越相同盟と武田氏の武蔵侵攻」に従い、元亀元年の発給文書として引用した。

※ 『戦国遺文 武田氏編』1592号文書の解釈については、小林計一郎氏の著書である『信玄、謙信と信濃』(信濃毎日新聞社)の「第九章 真剣な神仏合戦」を参考にした。

※ 北条氏規の重臣である山本氏については、下山治久氏の編著である『後北条氏家臣団人名辞典』(東京堂出版)を参考にした。
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