越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎の略譜 【20】

2012-09-19 16:28:05 | 上杉輝虎の年代記

永禄6年(1563)閏12月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼) 【34歳】

ようやく上野国沼田城(利根郡沼田荘)に到着すると、3日、相州北条・甲州武田連合軍の攻撃から居城を守り通した関東味方中の倉賀野左衛門五郎直行(上野国倉賀野城主)の重臣である橋爪若狭守へ宛てて感状を発し、このたび倉賀野左衛門五郎が尽くした忠信は意義深いこと、つまりは其方(橋爪若狭守)が忠功を励んだゆえであること、相・甲連合軍との戦いに決着がついたら、必ず希望通りの所領を宛行って表彰すること、ますます傍輩共(家中衆)が結束して奮闘するように努めるべきこと、左衛門五郎(倉賀野直行)は言うまでもなく、親類・同心の者共に対して、しっかりと適切な進言をするべきこと、これらを畏んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』369号「橋爪若狭守とのへ」宛上杉輝虎感状【署名はなく、花押(a3)のみを据える】)。

5日、甲・相連合軍の攻撃目標である上野国金山城(新田郡新田荘)を救援するため、関東味方中の富岡主税助へ宛てて自筆の書状を発し、取り急ぎ筆を馳せたこと、甲・南両軍が利根川を渡り、金山の地に攻め掛けてくるので、当口(沼田)から金山の救援に向かい、今度こそ凶徒を殲滅するつもりであること、されば、太田美濃守(岩付太田資正。武蔵国岩付城主)と成田左衛門二郎(成田氏長。同忍城主。下総守長泰の子)の両所へ早々に羽生(武蔵国埼玉郡太田荘の羽生城)へ移るように申し遣わしたこと、彼の両衆(太田と成田)を先導して当陣に合流を果たすように努めるべきこと、もしも手落ちがあれば、計画は台無しになってしまうこと、これらを恐れ謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』371号「富岡主税助殿」宛上杉「輝虎」書状【花押a3】)。

関東味方中の横瀬雅楽助成繁(上野国金山城主)から、相・甲連合軍は金山城下の藤阿久陣を引き払い、上野国佐貫(邑楽郡佐貫荘)と下野国足利(足利郡足利荘)の間に布陣しているらしいとの報告を受け、11日、横瀬雅楽助成繁へ宛てて返書を発し、甲・相両軍が藤阿古(久)陣を引き払い、佐貫と足利の間に陣取ったらしく、注進状ならびに条目を基にした使者の口述により、逐一納得できたこと、注進状の通り、館林(上野国邑楽郡佐貫荘の館林城)と足利(下野国足利城)の防備は重要であること、幸いにもその地(金山)は余力が生じたはずであるから、必ず両地の支援に回り、頑強に奮闘するのが第一であること、これまで何度も申し届けた通り、今度こそ甲・相両軍と決戦を遂げる覚悟であること、そういうわけで、軽々に馬を進めはしないこと、この決意を八幡大菩薩の名に掛けて約束すること、なお、詳細は彼の使者が口上すること、これらを恐れ謹んで伝えた。さらに追伸として、来る15日に馬を進めること、それをしっかり心得ておくのが第一であることを伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』372号「横瀬雅楽助殿」宛上杉「輝虎」書状【花押a3】)。

関東味方中の足利(館林)長尾但馬守景長(上野国館林城主)が、野州足利・飯塚に在陣する相・甲連合軍の様子を知らせてきただけで、近年にない大規模な軍事作戦を催すと発令しているにもかかわらず、口内の病を理由に合流してこないため、14日、長尾但馬守景長へ宛てて返書を発し、敵陣ならびに足利・飯塚の様子について、代官をもって注進された報告の内容は、方々から寄せられた情報の内容と一致していること、よって、近頃はひどい口熱によって舌が回らないとの連絡を差し越され、何はさておき心配していること、このたびの儀については、近年になかったほどの大規模な戦陣を催すつもりなので、たとえ乗物などを使ってでも馳せ来たり、短期間であっても爰元にしっかりと在陣してところに、病中で大変ではあっても、ぞんざいにも無沙汰をするのであれば愉快ではないこと、そもそも皆々が憲政(山内上杉氏。輝虎の養父)の御前をしっかりと守り立ててこなかったゆえに、彼の御進退は御牢籠の憂き目に遭われたのであり、それに伴う皆々の滅亡の寸前に、にわかに輝虎が関東越山して皆々の窮状を救うと、どうしたわけか関東を取り仕切る身となったので、今では関東から憂いを取り去ったこと、それでもなお分別を弁えずに参陣しないのであれば、見下げ果てた振舞いであること、万一にも輝虎に対して折り合いのつかないほどの不満があるのならば、きっぱりと陣営から離脱するべきであること、但馬守(長尾景長)については、(景長)自身も分かっている通り、何事にも消極的で頼りにならないこと、左衛門尉(白井長尾憲景。上野国白井城主)は未だに若輩の身であること、(景長の)系譜や経験、そして能力からして、(長尾憲景を)招き寄せて指南するべき立場であること、または、皆々に奮闘してもらうため、ますます手広く参陣を呼び掛けているところに、拒否や怠慢を決込むつもりなのか、はなはだ頼りないこと、佐竹金吾(佐竹右京大夫義昭。常陸国太田城主)は思いもかけない厳しい病に罹りながらも、駕籠に乗って敵中を凌ぎ遠路を進軍しており、やがて到着して奮闘されるであろうこと、太田美濃守(岩付太田資正)は敵領と接する自領の維持に多忙を極めながらも、すでに味方の誼をもって駆けつけ、ひときわ奮励していること、当方(山内上杉家)宿老中としての節義を全うするのか、それとも節義に反するのか、もしも後者を選ぶのであれば、其方(長尾景長)は他者から、たまたま残ったに過ぎない名族であるにもかかわらず、自分では功名を挙げたつもりでいる人物という厳しい評価を受けるのは必至であり、これがひとえに当家滅却の基となるのか、輝虎が不遇の生涯を送るのか、いずれの憂き目に遭うのかは分からないが、このふたつに勝る凶事はないであろうこと、こうした一切合切を弁えて態度を決めるべきこと、これらを謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』373号「長尾但馬守殿」宛上杉「輝虎」書状写)。

19日、関東味方中の房州里見正五(岱叟院。権七郎義堯)・同義弘(太郎)父子らとの盟約を重んじて参陣を待ち続けたが、これ以上は時間を空費できないので、仕方なく現状の人数で甲・相連合軍と一戦するため、上野国沼田城から同厩橋城(群馬郡)へと進み、翌日の夜明けとともに、甲・相連合軍の陣所を強襲する準備を整えていたところ、またもや甲・相連合軍に計画が漏洩しており、相州北条氏康は武蔵国松山城(比企郡)へ、甲州武田信玄は西上野へと、夜中のうちに逃げ去られてしまった。

27日、度重なる参陣の呼び掛けにも応答のない里見入道正五・同太郎義弘父子へ宛てて、最後通告として自筆の書状を発し、旧冬から繰り返し申し上げているにもかかわらず、ついに返事を寄越されなかったこと、心もとない成り行きであること、いったい甲・南両敵の出張により、先月20日に味方中から利根川を渡るように求められたので、とりもなおさず両敵に立ち向かって興廃を決するつもりでいたところ、関東味方中は多忙を極めているとして参陣しないこと、取り分け其元(里見父子)とは遠境に隔たれているとはいえ、旧代から唯一無二の親交を結び、ことさら先年には小田原・鎌倉の地で対面し、格別な盟約を取り交わしており、当口へ御着陣される以前に一戦を遂げてしまっては、不平不満を言い立てられるに違いないとの思いから、ひたすら自制に努めて約束を守ったにもかかわらず、一向に御着陣されないので、もはやこれ以上の猶予はなく、興亡の一戦を遂げるため、去る19日に厩橋の地まで馬を進め、翌日の明け方を期して一戦の準備を進めていたところ、内応者が両敵に通報したようで、その夜中に両敵は退散してしまったこと、申し交わしたはずの筋目を黙殺されてしまったので、虜囚同前の凶徒を取り逃がし、無念極まりないこと、しかしながら両敵は、いかなる輝虎の作戦行動にも対応できるように、氏康(相州北条氏康)は松山(武蔵国比企郡)に在城し、晴信(甲州武田信玄)は西上州に張陣していること、そういうわけで、これから二、三の戦陣を催すつもりなので、昼夜兼行で着陣し、適切な献策をしてほしいこと、これまで何度も申し伝えているように、その口(里見領)がいくら平穏無事であったとしても、関東全体が不安定では破綻に向かうのは避けられないかもしれないので、賢明な判断をしてほしいこと、先年の久留里(上総国望陀郡)での御籠城による難儀の折、自賛ながら輝虎が図らずも関東の沖中まで進撃して、敵中で意を介さずに悠然と越年し、ひたすら敵を叩き破ったので、その口の運も開け、結果として両総州の過半に御静謐をもたらしたこと、もはや此方(輝虎)に余勢はないとの不安を感じているのかも知れないが、遠国に住みながらも関東に平穏をもたらす約束を、一旦引き受けたからには、遠征の労苦を厭わず、戦勝を挙げるために励んでおり、たとえ版図を拡がらないとしても、どうして取り交わされた盟約を反故にしたりするであろうか、ましてや先祖の善行によってもたらされた福運と領国が富饒であるうえに、どのような不足があって、あるいは関東経略の大局を見失い、あるいは氏康に対する年来の御遺恨を忘れ、ひたすら良しとして、南敵(北条軍)を根切にして枝葉を断つのを励むのは、この時に極まること、彼我で関左の安寧を勝ち取る機会を捉えるのが肝心であること、ただし、道理を斟酌せずに、このまま当方の要請にも無関係を装って、里見家の合戦における優れた技量、歴代の輝かしい名誉を、いくらなんでも失ってはならないこと、御心腹が今のままであるのならば、全ての言葉を閉ざし、重ねて染筆には及ばないこと、これらを恐れ謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』375号「里見入道殿・同太郎殿」宛上杉「輝虎」書状写)。

同日、常陸国小田城(筑波郡)の攻略を要請してきた関東味方中の佐竹右京大夫義昭(常陸国太田城主)へ宛てて書状を発し、去る19日に厩橋城へと進陣したので、早速にも小田口へ進陣するべきところ、西上野の味方中から、東方衆との小田攻めの盟約については、彼の衆と連絡を取り合って準備万端を整えられた以上、ほとんど落着したのも同前であるとして、上野国和田城(群馬郡)の攻略を懇望されたことから、まずは27日に和田城を攻めることを申し伝えた
(『群馬県史 資料編7』2214号 佐竹義昭書状写)


※ 結局は常州小田城・野州唐沢山城攻略の後回しにされた可能性がある。


これから間もなくして、房州里見父子が武蔵国青戸の葛西城(葛飾郡)を攻撃すると、相州北条方から離反した江戸太田新六郎康資が合流している(『戦国遺文 後北条氏編一』835号 北条氏康書状写)。



永禄7年(1564)正月2月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼) 【35歳】

正月3日、関東味方中の佐竹義昭が、早くから越軍に合流している味方中の簗田中務大輔晴助(下総国関宿城主)へ宛てて書状を発し、それ以来は取り立てて知らせるような事態が起こらなかったので、思いのほか無沙汰をしてしまったこと、されば、先月19日に輝虎が厩橋(上野国群馬郡)に着城したこと、これにより、早速にも小田口(常陸国筑波郡方面)へ進陣されるようにと、様々に道理を説いたからには、もはや落着したのも同前であること、ただし、(輝虎は)西上野の面々からも頻りに懇願されているので、同じく27日に利根川を渡って和田(上野国群馬郡)の地へ攻め込まれるそうであること、先ずは仕方ない事情であり、受け入れざるを得ないこと、(簗田晴助から輝虎へ)言うまでもなく誓約の筋目に従われ、彼の地(和田城)が落着したあかつきには、早急に小田へ攻め寄せられるように、それとなく念を押してもらうしかないこと、なおいっそう爰元で奮励するつもりであり、(輝虎へ状況を報告するため)重ねて使者として小貫佐渡守(頼安。譜代衆)を(越陣へ)向かわせること、万事については後便を期すること、これらを恐れ謹んで伝えている(『群馬県史 資料編7』2214号「簗田中務大輔殿」宛佐竹「義昭」書状写)。

この佐竹右京大夫義昭との盟約に従い、中旬から下旬にかけて相州北条方の常州小田城攻略戦を開始する。


常・総・野州の味方中は、佐竹軍が常陸国土浦(信太郡信太荘)近辺の真鍋台に陣所を構え、結城(左衛門督晴朝。下総国結城城主)・山川(中務大輔氏重。結城一家。同山川城主)・水谷(兵部大輔政村・弥五郎政久兄弟。結城一家。下野国久下田城主・常陸国下館城主)の軍勢は、小田城の救援に駆けつけた多賀谷(修理亮政経。号祥聯。常陸国下妻城主)に対向し、小山(弾正大弼秀綱。号良舜。下野国祇園城主)・宇都宮(弥三郎広綱。同宇都宮城主)・座禅院(同日光山座禅院。院主は相州北条方の下野国衆・壬生氏から出ている)の軍勢は、同じく壬生(下総守綱雄あるいは息子と思われる彦次郎氏勝か。同壬生城主)・皆川(山城守俊宗。同皆川城主)に対向し、敵方の小田勢は、土浦に菅谷摂津守(摂津入道全久。政貞。常陸国土浦城主)、木田余に信太伊勢守(同木田余城主)、戸崎に菅谷次郎左衛門尉(同戸崎城主)、宍倉に菅谷右馬允(同宍倉城主)、谷田部に岡見弾正忠(治資。同谷田部城主)、東林寺に近藤治部(東林寺城か。岡見治資の配下)、牛久に岡見山城守(常陸国牛久城主)、豊田に菅谷左衛門尉(同豊田城主)、土岐に土岐大膳大夫(治英。同江戸崎城主)が、それぞれ拠点を構えていた(『上越市史 上杉氏文書集一』480号 小田氏治味方地利覚書)。


※ 小田氏治味方地利覚書については、荒川善夫氏の論考である「戦国時代常陸東林寺の動向について」(『栃木県立文書館研究紀要』第11号)を参考にした。


正月21日、陣中において、佩刀備前長船兼光の刀身を三寸詰める(『越佐史料 巻四』上杉神社所蔵上杉輝虎佩刀刻印)。

27日、陣中において、夢想に歌句を得ると、帯同した連歌師の覚翁が脇句を付けている(『上越市史 上杉氏文書集一』377号 御夢想連句写)。

29日、常陸国小田城主の小田太郎氏治が宿老の菅谷摂津入道全久(政貞。譜代衆)の居城である常陸国土浦城へ逃走すると、残党一千余名を討ち取り、その日のうちに小田方の三十余ヶ所の領主が恭順してきたので、それぞれから証人を取って赦免した(『上越市史 上杉氏文書集一』429号 上杉輝虎書状写)。


戦後処理にあたるなか、常陸国黒子(河内郡下妻荘)の千妙寺と同小茎(同郡)の東林寺から制札の発給を懇願されると、2月5日、横瀬雅楽助成繁(上野国金山城主)・北条丹後守高広(譜代衆。同厩橋城代)・河田豊前守長親(大身の旗本衆。同沼田城代)のそれぞれが千妙寺に制札を掲げ、越後・関東の諸軍勢の濫妨狼藉を停止し、もしも違犯する徒輩がいれば、誰彼構わず罪科に処することを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』381号 横瀬「雅楽助成繁」制札、380号 北条「丹後守」高広制札、379号 河田「豊前守」長親制札)。

7日、年寄の柿崎和泉守景家(譜代衆)が、越陣に使者を寄越してきた東林寺へ宛てて返書を発し、尊書を謹んで拝読したこと、このたび屋形(輝虎)が当口(常陸国筑波郡方面)へ進発したところ、(小田)氏治を追い払われ、残党千余人を討ち取られたこと、これにより、近荘の城塞に拠る諸士は降伏を懇望してきたので、それぞれから証人を差し出させて赦免されたこと、従って、先頃に示された貴意については、すぐさま河田豊前守(長親)が御披露に及び、(輝虎が)直報を調えられので、これを託された御使僧は帰られたこと、真から御満足してもらえるであろうこと、もしも上口に相応の御用があれば、快く引き受けさせてもらうので、御遠慮なく申し付けられてほしこと、よろしく尊意を得たいこと、これらを恐れ畏んで伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』382号「東林寺 衣鉢閣下」宛「柿崎和泉守景家」書状)。


8日、東林寺へ宛てて初信となる書状を発し、これまで言達に及ばずにいたところ、尊札、ことさら祝語を給わったこと、拝読して、稀有にめでたく恐れ入り、輝虎美徳の姿勢を褒められ、むしろ戸惑っていること、とにかく当口張陣中に、あれやこれや申し述べること、これらを恐れ畏んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』383号「東林寺 衣鉢閣下」宛上杉「輝虎」書状【花押a3】)。


9日、佐竹義昭、河田豊前守長親のそれぞれが、東林寺に制札を掲げ、越後・関東の諸軍勢の濫妨狼藉を停止し、もしも違犯する徒輩がいれば、誰彼構わず罪科に処することを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』385号 横瀬成繁判物、384号河田「豊前守」長親制札【黒印・印文「調量富」ヵ】)。

同日、横瀬雅楽助成繁が、東林寺へ宛てて証状を発し、御寺領小茎郷に掲げる(佐竹)義昭御制札と(越後国上杉家の)旗本の奉行である河田豊前守(長親)の制札が発給されるので、諸軍勢の違乱がないことを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』385号「東林寺 衣鉢閣下」宛横瀬「雅楽助成繁」判物 端見返しウハ書「 横瀬」)。


この頃、越府の防衛に不安を感じ、姉婿の上田長尾越前守政景(越後国坂戸城主)を帰国させ、政景の長男である長尾時宗丸を残して上田衆を二分した(『上越市史 上杉氏文書集一』336号 関屋政朝書状、396号 上杉輝虎書状)。


その後、下野国佐野の唐沢山城(安蘇郡佐野荘)に攻め寄せると、17日、強攻して険難な要害の外郭を破壊したところで、城主の佐野小太郎昌綱が降伏を嘆願してきたが、しばらく回答を保留する(『上越市史 上杉氏文書集一』429号 上杉輝虎書状写)。


同日、色部修理進勝長(外様衆。越後国瀬波(岩船)郡の平林(加護山)城主)に感状を与え、このたび佐野の地を攻め破った折、其方(色部勝長)の被官のうちに、戦死者と負傷者をいずれも二名づつ出しながらも奮戦したのは、目覚しい殊勲であることと、今後ますます心掛けて奮闘するのが肝心であることを申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』386号「色部修理進殿」宛上杉「輝虎」感状【花押a3】)。

同日、斎藤下野守朝信(譜代衆。越後国刈羽郡の赤田城主)に感状を与え、このたび佐野の地を攻め破った折、(斎藤朝信)被官のうちに、戦死者の吉岡某、負傷者の宇木縫殿右衛門尉・大津藤六・蓮池弥八郎・犬貝源次郎・椎橋某・宇木孫兵衛尉、又被官のうちに、負傷者の中村源五郎・中条源介、中間のうちに、負傷者の二郎五郎を出しながらも奮戦したのは、目覚しい殊勲であることと、今後ますます心掛けて奮闘するのが肝心であることを申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』388号「斎藤下野守殿」宛上杉「輝虎」感状【花押a3】 封紙ウハ書「斎藤下野守殿 輝虎」)。

同日、上田長尾越前守政景の代行者である長尾時宗丸に感状を与え、このたび佐野の地を攻め破った折、上田衆の黒金新右兵衛尉・登坂弥八郎・大平源三(負傷)・田村与左衛門尉・登坂新七郎・小河源左衛門尉・同新四郎・甘糟惣七郎(負傷)・笠原源次郎・熊木弥介・三本又四郎・同彦次郎・尾山市介・樋口又三郎・浅間将監・内田文三・甘糟新五郎・桐沢惣次郎・上村玄蕃亮・中条玄蕃亮(允)・椿喜介・浅間次郎三郎・大平木工助・中野神左衛門尉・諸橋孫九郎・蔵田十右衛門尉・星神介・大平雅楽助・大橋与三左衛門尉・丸山与五郎・土橋三介(負傷)・下平弥七郎・登坂弥七郎・同与七郎・同彦五郎・吉田弥兵衛尉・西片(方)半七郎・(負傷)・豊野又三郎(負傷)・樋口帯刀左衛門尉(負傷)・目崎又三郎(負傷)・登坂半介弟(負傷)・千喜良彦次郎(負傷)、長尾伊勢守被官の高橋惣右衛門尉(負傷)、甘糟被官の市場小六郎、古藤中間の新三郎、黒金新右兵衛尉被官の玉田弥七(負傷)、丸山弥五郎(戦死)・篠尾与一・佐藤弥左衛門尉・宮島惣三、それぞれの奮戦は、目覚ましい殊勲であること、改めて帰府したのち、この通りに各々を褒め称えること、今後ますます心掛けて奮闘するのが肝心であること、これらを申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』389号「長尾時宗」宛上杉「輝虎」感状【花押a3】)。

同日、楠川左京亮将綱(旗本衆)に感状を与え、このたび佐野の地を攻め破った折、奮戦したのは目覚しい殊勲であることと、今後ますます心掛けるべきことを申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』391号「楠川左京亮殿」宛上杉「輝虎」感状写)。

同日、別して上田衆の栗林次郎左衛門尉房頼(上田長尾氏の年寄衆)に感状を与え、このたび佐野の地を攻め破った折、奮戦したのは目覚しい殊勲であることと、今後ますます心掛けるべきことを申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』387号「栗林次郎左衛門尉とのへ」宛上杉輝虎感状【署名はなく、花押a3のみを据える】)。

同日、同じく宮嶋惣三に感状を与え、このたび佐野の地を攻め破った折、奮戦して首級を挙げたのは目覚しい殊勲であること、今後ますます心掛けるべきことを申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』390号「宮嶋惣三とのへ」宛上杉輝虎感状写【署名はなく、花押のみを据える】)。


その後、28日頃に関東味方中の佐竹右京大夫義昭と宇都宮弥三郎広綱の取り成しにより、多数の証人を提出させて佐野小太郎昌綱を赦免した(『上越市史 上杉氏文書集一』429号 上杉輝虎書状写)。



これより前、佐野昌綱は、27日、佐野領内の地衆である鍋山衆の小曽戸長門守泰忠(下野国鍋山城主)へ宛てて書状を発し、このたびその地へ越衆が攻めかかったこと、すぐにも加勢を向かわせるべきであったが、領内に攻め込んできた越衆は大軍であり、手前(同唐沢山城)の防備も固めなければならないばかりか、部隊を往復させる手立てがなかったので、ひたすら心配していたところ、諸口において敵兵を五十余人を討ち取り、負傷者を続出させたこと、まさに並外れた忠信の手柄であること、されば、(佐竹)義昭と(宇都宮)広綱の提案に従い、輝虎と和談するつもりであり、(鍋山衆へ)安倍主計助をもって成り行きを申し伝えること、佐竹・宇都宮両家の催促されているため、明28日には大貫左衛門尉の一勢を彼の陣中へ向かわせること、これらを恐れ謹んで伝えている(『栃木県史 資料編 中世』【島津文書】9号「小曽戸長門守殿」宛佐野「昌綱」書状写)。



こうしたなか、総州に在陣する関東味方中の房州里見父子・太田新六郎康資(江戸太田氏。これ以前は相州北条氏に属していた)の軍勢に、武蔵国岩付城(埼玉郡)から出撃した岩付太田美濃守資正が合流し、一方の武蔵国松山城(比企郡)に在陣中の相州北条氏康が、相府から増援部隊を召集して総州へ出撃すると、正月8日、両軍は下総国国府台(葛飾郡)で激突している。房総・両太田の連合軍は国府台から十五町の内にいたが、相州北条軍の先手衆を率いる遠山丹波守綱景(北条氏の一家に準ずる。武蔵国江戸城代)は敵勢が後退したとの情報を信じて、国府台の坂を上っていたところに、連合軍がまっしぐらに攻めかかってきたので、先手衆は中腹で総崩れとなり、遠山綱景・同隼人佑父子と江戸衆寄親の富永弥四郎康景(烏帽子親は遠山綱景か)のほか、雑兵五十人ほどが討ち取られてしまった。ちょうどそこへ北条氏政の旗本勢が進んできて、残存の先手衆と合わさり、連合軍に逆襲した。一方、北条氏康の本隊は要害にいたことから、こうした状況を知らなかったが、先衆の情報が伝わると、氏康は後軍を呼び寄せて戦陣を整え、決戦する覚悟を決めて国府台から三里ほど下ったところ、連合軍もそれに反応して向かっていったので、酉の刻(午後6時前後)に合戦となったが、連合軍はあっけなく敗れて、里見父子は同名の民部少輔実房・兵部少輔、重臣の小田喜正木平七信茂(上総国小田喜城主)・同弾正左衛門尉・薦野神五郎時盛・加藤、外様の長南・多賀蔵人をはじめとして二千人が打ち取られてしまった。辛くも両太田とも里見軍と房総へ逃れることができたが、太田美濃守資正は自身が深手を負い、同名の下野守・重臣の恒岡・埴谷などを失っている。


※ これまで正月7・8日の二日にわたって行われたとされてきた武蔵国国府台の戦いであったが、黒田基樹氏の著書である2021年に発刊された『戦国関東覇権史 ー北条氏康の家臣団』(角川ソフィア文庫)の「第四章 氏政兄弟衆の台頭 国府台合戦の衝撃」では、「小田原北条氏文書補遺」(『小田原市郷土文化館研究報告』42・50号)所収の131号文書により、8日の一日で決着のついた戦いとして示されたので、こちらを参考にして記事の内容を改めた。ところが、2022年に発刊された滝川恒昭氏の著書である『人物叢書 里見義堯』(吉川弘文館)の「第七 第二次国府台合戦 三 国府台の激闘」によると、同文書について、その内容を詳細に検討する限り、疑問点や不審なところがあり、今の段階では基本史料になるとは断じえない、とのことであるから、合戦は二日にわたって行われ、北条方の遠山綱景父子・富永康景の戦死は7日であった可能性も残る。



◆『越佐史料 巻四』
◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』
◆『群馬県史 資料編7 中世3(編年史料2)』
◆『栃木県史 資料編 中世3』【広島県 島津文書】
◆『戦国遺文 後北条氏編 第一巻』

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