越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎の年代記 【永禄10年7月~同年9月】

2012-12-28 23:12:46 | 上杉輝虎の年代記

永禄10年(1567)7月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼)【38歳】


5日、この5月に下野国佐野領の唐沢山城に攻め寄せてきた相州北条氏政を、越後衆の在番衆を中心とした佐野城衆が撃退した際に、戦功を挙げた佐野地衆の鍋山衆の大蘆雅楽助へ宛てた感状を認め、このたび氏政がその地へ攻め懸かってきたところ、吾分共が奮励したので、敵は退散したとのこと、今にはじまったことではないとはいえ、見事な戦いぶりは類い稀であったこと、ますます皆々が示し合わされ、駆け回るのが肝心であること、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』993号「大芦雅楽助殿」宛上杉「輝虎」書状【花押a3】
)。


当文書を、諸史料集は年次未詳としているが、永禄10年6月4日付けで輝虎が佐野衆・佐野地衆へ宛てた感状群(『上越市史 上杉氏文書集一』562~566号)との兼ね合いからして、当年に発給された文書となろう。



この間、越前国金ヶ崎(敦賀郡)に滞在中の左馬頭足利義秋は、輝虎に対して、速やかな参洛と、兵糧の援助を要請するために、上使を越府へ下している。

朔日、左馬頭足利義秋が、越後国上杉家の年寄衆である直江大和守政綱と河田豊前守長親前のそれぞれへ宛てて御内書を認め、(足利義秋の)出張の実現について、智光院(頼慶。輝虎の使僧)を(義秋の許に)附属して置き、奔走させたのは、感悦であること、輝虎の参洛の実現について、異存がないように、意見するのが肝心であること、(相州)北条かたへも和睦の件を申し遣わすので、(越・相両国が)一つにまとまるように、重ねて申し越すこと、なお、(飯河肥後守)信堅・(杉原入道)祐阿が申し届けること、これらを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』570号「直江大和守とのへ」宛足利義昭御内書、571号「河田豊前守とのへ」宛足利義昭御内書写【署名はなく、花押のみを据える】)。

同日、左馬頭足利義秋が、智光院頼慶へ宛てて御内書を認め、隣国へ出勢するつもりでいたところ、諸侯も出勢すると、言上してきたこと、されば、まずはすぐにでも手立てに及びたいこと、兵粮の援助を、輝虎かたへ申し遣わすのは、無理であるのかどうか、参洛するのが専要であると(輝虎へ)申し下したところに、またこのように(兵粮の援助を)申し遣わすのは、どうかと思われたこと、(輝虎は)思量して、内々に(義秋へ返事を)申し越すべきこと、なお、(杉原)祐阿が申し届けること、これらを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』573号「智光院」宛足利義昭御内書【署名はなく、花押のみを据える】【端見返しウハ書「智光院」】)。

同日、左馬頭足利義秋の随員である聖護院門跡道澄(関白近衛前久の弟。この2月に客死した大覚寺義俊に替わる人物)が書状を認め、智光院(頼慶)を、長々と(義秋の許に)付属して置かれ、様々に施された御懇切は、敵味方から優れた評価を得て、諸国に知れ渡っており、御満足そのものであること、(取次の大役を)堅く仰せ付けられたにより、いっそう奔走致すので、御遠慮なく、何事につけ仰せ聞かせてほしいこと、(輝虎を)最も奇特と思われているわけであり、(こうして輝虎へ)御内書を発せられたこと、それについて、三好(三好三人衆)と松永(久秀)の抗争は、ますます見境なく激化しているにより、御出勢を催すのは、適当な時節とはいえ、諸軍勢の兵糧がまったく足りないので、この折に御進上されれば、(敵国の)山深くに身を置かれ、(輝虎の)御参陣を待たれるつもりであり、(輝虎が参陣すれば、諸国が義秋の)御本意に属するのは、思いのままであること、(義秋は輝虎と)格別な御入魂を結び、頼みにしたいと思われていること、なお、頼慶(智光院)へ条々を申し入れたので、(これ以上は)詳しく書かないこと、これらを畏んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』569号「上杉弾正少弼殿」宛聖護院道澄書状【署名はなく、花押のみを据える】)。

同日、飯河信堅が、直江大和守政綱へ宛てて副状を認め、 (義秋の)御出張について、重ねて御内書を発せられたこと、よって、隣国へ(義秋が出張を)催されるところ、格別に濃・尾・三河そのほかの諸侯が出勢すると、言上してきたこと、そうではあっても、輝虎が御参洛されないにおいては、天下の静謐は成し難いので、(輝虎の参洛に)支障がないように調えられるのが肝心であること、次いで、相州(北条氏)との御和平の件を、これまた、仰せ下されること、未だに一つにまとまらないにより、引き続き仰せ越されること、いずれも(直江政綱が)御奔走されるにおいては、ひとえに御忠節であると、(義秋は)仰せになっていること、よって、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』572号「直江大和守殿」宛飯河「信堅」副状)。

同日、杉原祐阿が、直江大和守政綱・河田豊前守長親・神余隼人佑へ宛てて副状を認め、追って申し上げること、近国の諸侯から出勢するべき旨を言上にて、(義秋は)近日中に御手立てに及ばれること、そうではあっても、(義秋は)御兵糧以下を調え難いので、(輝虎が)御進上されるようにはできないものか、(輝虎の)御参洛の実現が御専要であると仰せられ、また、御兵糧の要請は、どうかと思われたが、あまりにも調達できないので、このように(輝虎の)御意を得られたいこと、(三人が)力の及ぶ限り奔走されるのが肝心であること、なお、(詳細は)智光院(頼慶)が申し達せられるので、(この紙面は)省略すること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』576号「直江大和守殿・河田豊前守殿・神余隼人正(佑)殿」宛杉原「祐阿」書状写)。



永禄10年(1567)8月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼)【38歳】


7日、通交の途絶えた佐竹次郎義重(常陸国久慈郡の太田城を本拠とする)・宇都宮弥三郎広綱(下野国河内郡の宇都宮城を本拠とする)をはじめ、かっての味方中との関係改善を図るため、佐竹氏の客将である太田美濃入道道誉(三楽斎。俗名は資正。佐竹氏から常陸国新治郡の片野城を任されている)へ宛てて書状を発し、其元(佐竹)の様子は計り難いとはいえ、使僧をもって申し入れること、佐竹の御事は、代々の交誼に任せ、近年はほかにはないほどに申し談じてきたところ、関東の破綻を狙い、調子を合わせた徒輩がほとんどであり、かえって馬鹿げた結果となってしまい、無念で、どうしようもない次第であること、これから巻き返し、互いにあらゆる差し障りを捨てて、一筋に申し合わせ、関左(関東)における陣営の再興を念願するのみであること、幸いにも宮(宇都宮氏)については、(佐竹)義重とは骨肉の御間(宇都宮広綱の妻は義重の妹)であり、今後は両家に下野国佐野から東方一円の統治をゆだね、輝虎は関東の半分を統轄するつもりなので、万事に於いて世評も芳しいであろうこと、本来であれば、こうした内意を直報するべきところ、両家の現況がわからないため、先ずは其方(太田道誉)へ申し伝えたこと、尤も佐(佐竹)・宮(宇都宮)の家中衆にこそ、こうした提案の取り成しを頼むべきところではあるが、遠境ゆえに両家の事情が把握できないため、これも其方(太田)の手引きにより、彼の家中衆の理解を得たいこと、多嶋(羽生か。武蔵国衆の広田・木戸一族をさすか)については、去る頃に氏政(相州北条氏政)が、もはや周辺で従わない者は、彼の一ヶ所のみであるとして、彼の在所に攻めかかったところ、一身に南軍の攻勢を受け止めると、古今無比の奮戦によって大軍を撃退したこと、そして、こうした最中にあっても、ますます忠節を尽くす覚悟を明言し続けていたこと、万が一にも佐・宮の両家が苦境に陥れば、なおさら輝虎が救援に駆け付けること、従って早速にも関東遠征を挙行するべきところ、留守中の防衛態勢を整えるため、信濃国飯山領(水内郡)での地利の構築(飯山城近辺に新城を築いたのか、或いは飯山城に郭を増築して拡張したのか)に忙殺されて果たせなかったが、漸くほぼ完成したので、必ず今月中に出馬すること、上野国沼田領(利根郡沼田荘)と下野国佐野領を結ぶ直通路が存在するとの情報を得たので調査したところ、最小限の拡張工事で兵馬の往来が可能となり、ありがたくも天運に恵まれて喜ばしいこと、倉内(沼田城)に着陣したならば、諸軍が揃うまでの間に道普請を完了させた上で、沼田から佐野へ直行すること、たとえ当秋の出陣で大功を収められなくとも、敵方になびいた国衆を降して勢力図を一変させるのは眼前であり、まして両家の御同心を得られれば、東方の味方中の再編も思い通りであること、佐野の統治については、すでに聞き及んでいると思われるが、先年に佐(佐野小太郎昌綱)が息子の虎房丸を証人として差し出したにも係わらず、彼の者を見捨てて離反を繰り返していたが、輝虎は惻隠の情から、そのつど彼の者の処分を見送っていたこと、これより佐野領の統治を以前のように佐野へ委譲する旨を下知したので、譜代も外様も一致団結しており、日を追うごとに佐野の陣容は整いつつあるため、両家も満足されるであろうこと、よって、これらを彼の使僧が詳述することを伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』579号「太田美濃守殿」宛上杉「輝虎」書状写)。

24日、越府の蔵田五郎左衛門尉へ宛てて返状を発し、行き届いた音問が寄せられたので、喜悦であること、府内・春日(春日山城の城下町)の防火に油断があってはならず、その心懸けが専一であること、(春日山城の)大門・大手門のいずれも(油断が無いように責任者に)しっかりと申し付けるべきこと、要害の普請以下も、これまた絶対に油断があってはならないこと、当口(信濃国川中嶋陣)の様子については、晴信(甲州武田信玄)は塩崎(更級郡)まで出張してくるも、攻勢に出てくる様子もなく、無駄に時日を送っていること、このうえなお、大した事態は起こらないであろうこと、敵の挙動は口ほどにもないこと、安心してほしいこと、詳細を各々(留守衆)にも申し遣わすこと、これらを謹んで申し伝えた。さらに追伸として、門番以下に任務をしっかりと申し付け、(留守将の)新発田尾張守(忠敦。外様衆。越後国蒲原郡の新発田城を本拠とする)の小者が門番を務める際にも、緩怠のないようによくよく言い聞かせるのが適当であること、これらを申し添えた(『上越市史 上杉氏文書集一』431号「蔵田五郎左衛門尉宛」宛上杉「輝虎」書状【花押d】)。



この間、甲州武田信玄(徳栄軒)は、越後国上杉氏の陣営の動向に注意を払い、7日、信・越国境の信濃国野沢の湯要害(水内郡)に拠る信濃先方衆の市川新六郎信房へ宛てて覚書(朱印状)を発し、一、城内の昼夜の警戒と修繕等を怠ってはならないこと、一、地衆をみだりに入城させてはならないこと、この補足として、往還の人改めについて、一、地衆に対して非分狼藉を働いてはならないこと、一、越国(越後国)の模様について、念入りに情報収集して逐一報告するべきこと、相原庄左衛門尉の替わりとして、天河兵部丞を在府させるべきこと、この補足として、相原が帰着した上で、兵部丞に全ての事柄を相談するべきこと、これらを指示している(『戦国遺文 武田氏編二』1098号「市川新六郎殿」宛武田家朱印状写)。

7日から8日に掛けて、「甲・信・西上野三ヶ国の諸卒」から起請文を徴収し、一、信玄に対して「逆心謀反」を引き起こさないこと、一、長尾輝虎を始めとする敵方に如何なる功利をもって誘引されたとしても同意しないこと、一、三ヶ国の諸卒が悉く逆心を引き起こしたとしても、自分だけは信玄に忠義を尽くすこと、これらを誓約させ、厳しい統制を図っている(『戦国遺文 武田氏編二』1099~1186号〔生島足島神社〕起請文)。


相州北条氏政(左京大夫)は、房州里見領に侵攻するも、23日、上総国三船山(望陀郡富津)の地で房州里見軍に大敗を喫し、岩付太田源五郎氏資(大膳大夫。相州北条氏康の娘婿。武州岩付城主)らを失っている(『戦国遺文 後北条氏編二』1035~1037 ●『千葉県史 資料編 中世5』735号抄 年代記配合抄)。



永禄10年(1567)9月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼)【38歳】


18日、信・越国境の越後国祢知城(頸城郡)の城衆である斎藤下野守朝信(譜代衆。越後国刈羽郡の赤田城を本拠とする)・赤見六郎左衛門尉(信濃衆)・小野主計助(旗本衆)へ宛てて書状を発し、(祢知城から)信州口へ目付を差し越し、敵(甲州武田軍の)陣所の陣容を見届けさせ、取り急ぎ注進してくれたので、祝着であること、(その注進の内容は)爰許(輝虎本陣)から遣わした目付が入手した内容と一致していること、関東から寄せられた情報でも、(織田信長が)尾州と濃州を併合し、甲府へ戦陣を催されると、彼の口は激しく動揺しているそうであること、おそらく本当ではないかと考えていること、引き続き目付をしっかりと張り付け、甲・信の様子ならびに越中口の事情について、こまめに注進するのが専一であること、申すまでもないとはいえ、その地の維持管理を徹底するべきこと、これらを謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』474号「斎藤下野守殿・赤見六郎左衛門尉殿・小野主計助殿」宛上杉「輝虎」書状【花押d】)。


こののち帰府した。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 武田氏編 第二巻』(東京堂出版)
◆『千葉県史 資料編 中世5 県外文書2 記録典籍』(千葉県)

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越後国上杉輝虎の年代記 【永禄10年5月~同年6月】

2012-12-23 14:27:51 | 上杉輝虎の年代記

永禄10年(1567)5月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼)【38歳】


2日、羽州米沢(置賜郡長井荘)の伊達家に属する国衆の上郡山盛為(官途名は民部少輔。出羽国小国城を本拠とする)へ宛てた書状を使者(真壁越中守)に託し、別紙をもって申し伝えること、このほど当国菅名荘(蒲原郡)に侵攻してきた会津衆により、神洞・雷の両城を奪われたが、すぐさま当手の軍勢を派遣して追い払い、凶徒を五百名ほど討ち取ったので、さぞかし喜ばれたであろうこと、よって、これらを彼の使者が詳述するので、書面を略したことを伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』558号「上郡山殿」宛上杉「輝虎」書状写【花押a影】)。

6日、上郡山民部少輔盛為へ宛てて返状を発し、このたび来札(真壁に託された書状より前に発せられた書簡に対する返書か)を披見し、満足しきりであること、去る3月18日に信・越国境の信濃国野尻城(水内郡芋河荘)を甲州の武田晴信(信玄)に奪われたが、即日取り返して防備を固めたこと、更に先月は当国に手引きする徒輩がおり、菅名荘に会津衆の侵攻を許したものの、すぐさま当手の足軽共を派遣し、五百余名の凶徒を討ち取り、残党を追い払ったこと、いかにも各方面は平穏無事なので、御安心してほしいこと、遠境にも係わらず、厚情の限りを尽くしてもらい、感謝に堪えないこと、よって、これらについての詳報は、先だって使者の真壁越中守(旗本衆)を派遣した際に済ませており、今回は省略することを伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』559号「上郡山民部少輔殿」宛上杉「輝虎」書状写)。


下野国佐野領の唐沢山城(安蘇郡佐野荘)に在番する色部修理進勝長(外様衆。越後国平林(加護山)城主)から本田右近允(実名は長定か。旗本衆)を通じて、番城体制の不備を理由に早期の帰国を要求されると、7日、色部修理進勝長へ宛てて返状を発し、このほど本田右近方への書中を披見したこと、その地(佐野唐沢山城)の番城体制の不備により、労兵を帰国させたいとの申し出については、はなはだ尤もであること、虎房(佐野小太郎昌綱の子である虎房丸。越府に人質として差し出された。輝虎の養子になったと伝わる)に佐野の家督を相続させるため、近日中に上野国根利(利根郡)の地へ送り出して佐野衆に受け渡すので、それまでは帰国を待ってもらいたいこと、このたびの辛労については、いうまでもなく十分に理解していること、はたまた、甲州武田軍に奪取された信濃国の野尻島(野尻城)については、自ら差配して即日取り返し、会津衆による菅名荘への侵攻については、軍勢を急派して五百余名の凶徒を討ち取ったからか、詫びを入れてきた盛氏(蘆名止々斎)と和解に至ったので、いかにも諸方面の防備は万全であり、ともあれ安心してほしいこと、返す返すも、虎房丸の受け渡しが完了してから、帰国されるべきこと、只今の時分まで佐野で無事に過ごしてきたにも係わらず、一人(色部勝長)で帰国を焦り、路中で災禍に見舞われでもすれば、敵味方の嘲笑を受けるのは免れず、考えただけでも口惜しくてならないこと、実際に在番衆の五十公野(官途名は玄蕃允。外様衆。越後国五十公野城主)が独断で帰国を図ったばかりに、無法にも敵地で捕縛されてしまったわけであり、仮に納得してもらえないとしても、この通路が断絶しているなかで、万一の事態を懸念しての忠告であること、これらを念入りに伝えた。更に追伸として、返す返すも虎房の受け渡す時期を遅延したりはしないので、その時分に帰国されるべきことを伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』560号「色部修理進殿」宛上杉「輝虎」書状【花押a3】)。

16日、色部修理進勝長へ宛てて血判起請文を発し、起請文の意趣は、このたび加勢としてその地(唐沢山城)に配置したところ、吉江(中務丞忠景)と荻原(伊賀守)の両名に遜色なく奮闘されており、その忠信を輝虎一生涯こころに留めておくこと、一、其方(色部勝長)の息子(弥三郎顕長)が脚力を寄越してきたので、何事かと思いきや、少しも其方の進退について、輝虎かたから保障を得ていないとの不信感を示されたので、こうして誓詞をもって申し遣わすこと、一、留守中に於いても懇切に対応し、外敵から当国(越後国)を守り通すつもりであり、従って、今度その地から帰国されるにあたっては、それまで吉江・荻原と協調して失策がないように努めてもらいたいこと、これらを神名に掛けて誓約した(『上越市史 上杉氏文書集一』561号「色部修理進殿」宛上杉「輝虎」起請文【花押a3】)。


これから間もなく、唐沢山城が相州北条軍の攻撃を受けているとの情報が寄せられ、救援のために急遽、出馬して上・越国境まで進んだところ、唐沢山城衆が北条軍を撃退したとの報告が届き、越府に引き返した。


この間、敵対関係にある相州北条氏政(左京大夫)は、5月に入ってすぐの頃に、佐野唐沢山城から抜け出した越後衆の五十公野玄蕃允を捕縛すると、その五十公野から、奥州黒川(会津郡門田荘)の蘆名家を頼って在所に帰還することを懇望されたので、5月14日、蘆名止々斎へ宛てて書状を発し、ここ暫くは、関東情勢の変化により、図らずも疎遠となっていたこと、このほど思い掛けない巡り合せで、佐野唐沢山城から抜け出した越後衆の五十公野を捕らえたところ、(五十公野は)貴辺(蘆名盛氏)の援助により、会津口から在所へ戻りたいと望んでいるため、その要望に沿って身柄を引き渡すこと、懇ろに引き受けてもらえれば、この氏政の面目が施されること、ますます長尾輝虎が関東に争乱を引き起こすので、力の限り防戦に及んだところ、当夏の関東は余す所なく安寧を取り戻したこと、そればかりか、毛利丹後守(北条高広。上野国厩橋城主)を始めとする越衆(越後衆)までもが当手(相州北条陣営)に従属してきたこと、また以前のように連携を図り、今度こそ越国(越後国上杉家)を打倒したいので、是非とも連帯の御同意を得たいこと、よって、これらを弟の源三(大石氏照。武蔵国由井城主)が詳報することを伝えている(『戦国遺文 後北条氏編二』1023号「葦名殿」宛北条「氏政」書状写)。


その後、相州北条氏政は唐沢山城を攻めるも、陥落させることはできずに撤収している。



永禄10年(1567)6月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼)【38歳】


4日、先月半ばに表明していた通り、番城体制を敷いている下野国佐野領の唐沢山城の元城主であった佐野昌綱から預かっていた息男の佐野虎房丸を、自らの養子としたうえで佐野氏の家督に据えるための送り出す準備を進めるなか、来る虎房丸の入城時に、先月下旬に下野国佐野領の唐沢山城衆が相州北条軍を撃退した際に戦功を挙げた佐野氏の被官や地衆へ渡す感状を用意する。

佐野氏の被官である大貫半三郎へ宛てた感状(黒印状)を認め、伊勢氏政(相州北条新九郎氏政)がその地へ取り懸かったところに、防戦に及び、敵を数多討ち取ったのは、いつもながらとはいえ、類い稀な奮闘は殊勝であること、そして、先書にも申し遣わした虎房丸(佐野昌綱の息男)の身柄は、(輝虎の)養子として其元(佐野唐沢山城)へ差し越すこと、(虎房丸の佐野家相続の取り決めに)奔走して、ますます忠信を励むのが肝心であること、これらを謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』563号「大貫半三郎殿」宛上杉「輝虎」感状【印文「量円」】)。

同じく飯塚対馬守泰貞へ宛てた感状(黒印状)を認め、伊勢氏政がその地に向かって戦陣を催したところに、防戦に及び、敵を数多討ち取ったのは、いつもながらとはいえ、類い稀な奮闘は殊勝の極みであること、よって、(佐野)虎房丸の身柄は、先書にも申し遣わしたように、養子として其元へ移すこと、奔走して、ますます忠信を励むのが肝心であること、これらを謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』564号「飯塚対馬守殿」宛上杉「輝虎」感状【印文「量円」】)。

佐野地衆(鍋山衆)の小曽戸善三へ宛てた感状を認め、伊勢氏政がその地へ戦陣を催したところ、いつもながらとはいえ、各々が防戦に及び、凶徒を数多討ち取り、(唐沢山城を)堅固に保持したのは、類い稀な殊勲であること、内々に後詰めとして越山する覚悟をもって半途まで進んだところ、敵は退散したというので、(越山を)延引したこと、されば、先書に申し遣わした通り、虎房丸を養子として、其元へ差し越し、彼の家の相続について申し合わせること、ますます忠信を励むのが肝心であること、これらを謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』566号「小曽戸善三殿」宛上杉「輝虎」感状写)。

同じく小曽戸図書助へ宛てた感状(黒印状)を認め、伊勢氏政がその地へ取り懸かったところに、防戦に及び、敵を数多討ち取ったのは、いつもながらとはいえ、類い稀な奮闘は殊勝であること、そして、先書にも申し遣わした虎房丸に身柄は、養子として其元へ差し越すこと、奔走して、ますます忠信を励むのが肝心であること、これらを謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』562号「小曽戸図書助殿」宛上杉「輝虎」感状【印文「量円」】)。

同じく梅沢兵庫助正頼へ宛てて感状(黒印状)を発し、伊勢氏政がその地へ戦陣を催したところ、いつもながらとはいえ、各々が防戦に及び、凶徒を数多討ち取り、堅固に保持したのは、類い稀な次第であること、内々に後詰めとして越山する覚悟をもって半途まで進んだところ、敵は退散したというので、延引したこと、されば、先書に申し遣わした通り、虎房丸を養子として、其元へ差し越し、彼の家を相続を申し合わせること、以前に指示した通り、近いうちに虎房丸を養子として其元(佐野)へ受け渡すので、彼の家の相続について申し合わせること、ますます忠信を励むのが適当であること、これらを謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』565号「梅沢兵庫助殿」宛上杉「輝虎」感状【印文「量円」】)。


7月5日付けで鍋山衆の大芦雅楽助へ宛てた同内容の輝虎感状(『上越市史 上杉氏文書集一』993号)が存在することからして、佐野虎房丸を送り出したのは、これ以降のことであろう。


小曽戸善三・同 図書助・梅沢兵庫助を鍋山衆としたのは、江田郁夫氏の論考である「中世下野鍋山衆の成立と終焉」(『栃木県立文書館研究紀要 第三巻』)による。



15日、これより前、濃州平定を遂げた濃(尾)州織田信長の許へ祝儀のために使僧の宝蔵院と龍蔵房を派遣したところ、使僧の通行に便宜を図ってくれた飛州姉小路三木良頼から書状が発せられ、尾張守(織田信長)への祝儀は時宜にかなった適切な対応であり、良頼にとっても本望であること、(信長との)友好を永続させるのが最も重要であること、よって、これらを宝蔵院と龍蔵坊が詳述することを伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』567号「山内殿」宛三木「良頼」書状)。



25日、年寄の河田長親(豊前守。輝虎の最側近)が、配下である小越平左衛門尉(もともとは古志長尾氏の被官で、越後国長尾景虎の旗本衆を経て、河田に配属された)に証状を与え、佐田甚左衛門尉との間の土地相論については、双方の主張の正否を明らかにすることは困難なため、四貫百文の知行地を折半するように下した(『上越市史 上杉氏文書集一』568号「小越平左衛門尉殿」宛河田「長親」判物写)。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』(東京堂出版)

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