越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

上杉輝虎(政虎)期の戦歴 【上】

2015-06-01 18:46:58 | 上杉輝虎(政虎)期の戦歴


 【1】(22) 越後国(山内)上杉政虎(永禄4年閏3月に関東管領山内上杉憲政(号光徹)の養子となって名跡を継いだ)、永禄4年6月上旬から同年7月中旬の間、武蔵国由井口で相州北条氏康・同氏政父子と駆け引きする。

 永禄4年5月の初めに相模国東郡の鎌倉陣から旗本衆に殿軍を任せて武蔵国比企郡の松山城まで後退すると、相州北条氏康・同氏政の軍勢が相府小田原城から武蔵国多西郡の由井の地に進陣してきたので、武蔵国松山城を出撃して由井に程近い勝沼の地に布陣し、相州北条軍と対峙したが、決戦するまでには至らず、三田に新城(唐貝山城)を築いたのち、別格な縁者の古志長尾右京亮景信を、鎌倉公方足利藤氏の御座所である下総国葛飾郡の古河城(盟友の関白近衛前嗣と養父の山内上杉憲政(号光徹)もいる)に警護役として、寵臣の河田九郎左衛門尉長親を、上野国群馬郡の厩橋城に城代として配し、帰国の途に就いた。


 【2】(23) 越後国(山内)上杉政虎、永禄4年9月10日、信濃国川中嶋の地で甲州武田信玄と戦う。

 永禄4年8月29日前後、姉婿の上田長尾越前守政景を越府に残し、奥州黒川(会津郡門田荘)の蘆名止々斎(盛氏)と出羽国の味方中である大宝寺義増(出羽国田川郡大泉荘大浦城主)に越府防衛のための援軍を頼み、一家衆の山本寺伊予守定長と譜代衆の斎藤下野守朝信を越中国に在陣させた上で信濃国に出陣すると、9月10日、更級郡の川中嶋の地に於いて、甲州武田信玄(晴信)と決戦し、信玄の弟である武田左馬助信繁や重臣の室住豊後守虎光・山本菅助を討ち取るなどした。一説には、自ら旗本衆を率いて敵の本営を強襲すると、その最中に庄田惣左衛門尉定賢が戦死したとか、敵も味方も総崩れしたような混乱のなかで旗本衆と離れ離れになり、落馬して敵兵に取り囲まれるも、主君を見つけ出して駆け込んできた本田右近允(実名は長定か)が人馬ともに負傷しながらも敵を防ぐうち、牢人衆の須田尾張守(足利長尾家中の須田尾張守栄定か)が駆けつけたので、乗馬を得て二人に守られながら危地を脱したという。11日に本田右近允を馬廻としての働きを称えて感状を与えた。13日に外様衆の中条越前守(実名は房資か)・色部修理進勝長・安田治部少輔・垂水源次郎、旗本衆の松本大学助(実名は忠繁か)らの部将としての働きを称えて感状を与えた。その後、水内郡の野尻城や高井郡の市川城に守備兵を配し、帰国の途に就いた。帰国後の22日に旗本衆の岡田但馬守(実名は重堯か)の忠功を称えて感状を与えた。


 【3】(24) 越後国(山内)上杉政虎、永禄4年11月27日、武蔵国生山の地で相州北条軍と戦う。

 武蔵国比企郡の松山城が相州北条軍に圧迫されているため、永禄4年10月中旬、姉婿の上田長尾越前守政景、譜代衆の下田長尾遠江守藤景、旗本衆の直江大和守政綱・荻原伊賀守らに留守を任せて関東へ出陣すると、相州北条軍と連動した甲州武田軍が西上野の経略を進めるなか、11月中旬から下旬に掛けて上野国から武蔵国へ進陣し、武蔵国児玉郡の生山に布陣した。11月27日、生山を下ると、相州北条軍の攻撃を受けて利根川端に追いやられた。


 【4】(25) 越後国(山内)上杉政虎、永禄4年12月上旬、上野国倉賀野城域で甲州武田・相州北条連合軍と駆け引きする。

 永禄4年12月上旬、態勢を立て直したのち、関東味方中の倉賀野直行が拠る上野国群馬郡の倉賀野城を攻囲する甲州武田・相州北条連合軍と対峙した。そうしたなか、敵軍の撃退に貢献した倉賀野衆の橋爪若狭守に感状を与え、7日に忠功を称えて一所を宛行うことを約束し、15日には、改めて忠功を称えるとともに、約束通りに一所を宛行った。


 【5】(26) 越後国(山内)上杉政虎、永禄4年12月中旬から同下旬の間、相州北条方の下野国唐沢山城を攻める。

 永禄4年12月15日前後に甲州武田・相州北条連合軍が上州倉賀野表から退散したので、相州北条陣営に属する下野国衆の佐野昌綱が拠る下野国安蘇郡佐野荘の唐沢山城に攻め寄せると、21日、佐野と足利(下野国足利郡足利荘)の境目の城砦を、越後衆の計見出雲守(実名は堯元か。譜代衆)・吉江中務丞忠景(旗本衆)と共に守る足利衆の稲垣新三郎の忠功を称えて感状を与えた。27日以前には退陣し、年越しのために上野国勢多郡の三夜沢神社一帯に宿営した。


 【6】(27) 越後国(山内)上杉輝虎(永禄4年12月中に将軍足利義輝との間で使者の往来があり、将軍から偏諱を授与されて26日までに輝虎と名乗る)、永禄5年2月9日から同17日に掛けて、相州北条方の上野国館林城を攻め降す。

 上野国勢多郡の三夜沢小屋で年明けを迎えると、永禄5年2月9日、相州北条陣営に属する上野国衆の赤井文六が拠る上野国邑楽郡佐貫荘の館林城を攻囲する。やがて赤井文六が、関東味方中の横瀬成繁(上野国新田郡新田荘金山城主)らを通じて和睦を懇願してきたことから、使者を立てて交渉に臨むと、17日に赤井文六は城を明け渡したので、28日までに、関東味方中の足利長尾景長(この頃、輝虎から偏諱を授与されて実名を当長から景長に改める。下野国足利郡足利荘足利城主)に館林城と館林領を預けた。この間に下総国葛飾郡の古河城から盟友の関白近衛前久(これより前に実名を前嗣から前久に改めた)と養父の山内上杉憲政(号光徹)を引き取った。


 【7】(28) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄5年2月下旬から同年3月4日の間、下野国唐沢山城を再び攻める。

 永禄5年2月下旬、相州北条陣営に属する下野国衆の佐野昌綱が拠る下野国安蘇郡佐野荘の唐沢山城に再度攻め寄せるも、甲州武田軍が越府に侵攻するとの情報を得たことから、3月4日には撤収し、関白近衛前久と山内上杉憲政(号光徹)を伴って帰国の途に就いた。この際、譜代衆の北条丹波守高広を、上野国群馬郡の厩橋城の城代として、前厩橋城代の河田豊前守長親(妻は北条高広の三女という)を、上野国利根郡沼田荘の沼田城の城代として配した。


 【8】(29) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄5年7月中、越中国の中部で神保長職と戦う。

 越中国の東西に分立する椎名康胤(越中国味方中。越中国新川郡金山(松倉)城主)と神保長職甲州武田家と提携している。越中国新川郡富山城主)が、永禄3年に続いて再び抗争を始めたことから、椎名康胤を救援するため、永禄5年6月下旬に越中国へ出陣し、7月3日に神保方土肥主税助(もとは椎名氏に従属していたが、主家と対立して本領を失い、神保氏の重臣である寺嶋三郎職定の援助で生活していた)を討ち取るなどして、神保軍を打ち破って状況を一変させると、7月中に帰陣した。


 【9】(30) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄5年10月5日、越中国金屋村で神保長職と戦う。

 永禄5年9月に入り、この7月に隣国越中の争乱を鎮めて、中部に追いやったはずの神保長職が富山に再進出し、9月5日の一戦で椎名方の神前孫五郎・神保民部大輔(神保長職から離反した一族の者)・土肥次郎九郎(7月の戦いで神保方として戦死した土肥主税助の長男)を初めとする多数の味方中が戦死したとの連絡を受け、再び越中国に出陣し、10月5日に神保軍と婦負郡の金屋村で一戦した。


 【10】(31) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄5年10月中旬、越中国増山城を攻め降す。

 永禄5年10月中旬、敵方の諸城を降し、神保長職が逃げ込んだ越中国砺波郡の増山城に攻め寄せ、外郭を焼き尽くして裸城にすると、神保長職が能州畠山義綱を頼んで和睦を懇願してきたことから、このあと関東遠征が控えているため、和睦を受け入れて16日に帰国の途に就いた。


 【11】(32) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄6年正月7日、相州北条方の武蔵国深谷城を攻める。

 相州北条・甲州武田連合軍に攻囲されている武蔵国松山城救援のため、永禄5年11月下旬に深雪の踏み越えて関東へ急ぐと、永禄6年正月7日、関東味方中の参陣を待つ間の軍事行動として、相州北条陣営に属する武蔵国衆の深谷上杉憲盛が拠る武蔵国幡羅郡の深谷城に攻め寄せて外縁部を焼き払った。


 【12】(33) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄6年正月8日、甲州武田方の上野国高山領と同小幡領を荒らし回る。

 永禄6年正月8日、甲州武田家の勢力圏内である上野国緑野郡の高山領と同じく甘楽郡の小幡領を蹂躙した。こうしたなか、武蔵国松山城の状況が切迫しているとの知らせにより、当初の予定を変更して武蔵国埼玉郡の岩付城に立ち寄ることなく松山口へ直行する決意を固めるも、参陣を呼び掛けた関東味方中が到着しないので、一旦、上野国邑楽郡佐貫荘の館林城に後退した。


 【13】(34) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄6年2月中、相州北条・甲州武田連合軍と駆け引きする。

 永禄6年2月4日、武蔵国比企郡の松山城に程近い足立郡の石戸の地に布陣すると、房州里見正五(岱叟院。義堯)・同義弘父子を初めとする関東味方中も参陣してきたので、相・甲両軍に攻めかかる態勢を整えていたところ、援軍の到着を知らない松山城衆(岩付太田資正(武蔵国埼玉郡岩付城主)と、その同名・同心・被官集団を中核とする)が、相州北条氏康と甲州武田信玄の計略に乗せられて城を明け渡してしまったことから、城衆を収容した上で両敵軍と対峙した。その後、日々軍勢を繰り出しても相・甲両軍は陣城に籠ったままなので、11日に岩付城へ後退して利根川端に布陣すると、日々武略を駆使して敵軍を誘い出そうとしたが効果なく、下旬に至り、危険を顧みずに難所を越えて敵陣へ攻めかかろうとしたところ、これを察知した相・甲両軍は夜陰に紛れて退散してしまい、興亡の一戦を遂げられなかった。


 【14】(35) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄6年3月上旬から同中旬に掛けて、相州北条方の武蔵国埼西城を攻め降す。

 永禄6年3月上旬、相州北条・甲州武田連合軍と決戦に至らず、帰国する房州里見軍と別れ、下野国の経略に向かう道すがら、態度の定まらない武蔵国衆の埼西小田助三郎(武蔵国衆・成田長泰の弟)が拠る武蔵国埼西郡の埼西城を攻めようとしたところ、要害は四方を深い湿地に囲まれた難所であるとして、年配者たちは反対したが、ただでさえ相・甲両軍と一戦を遂げられなかったので口惜しい思いをしているにもかかわらず、このまま空しく武州を後にしたのでは闘志を失うとして、若者たちが攻撃を強く主張したことから、埼西城を総力を挙げて強攻し、中旬までに外郭と副郭を制圧して裸城にすると、埼西小田助三郎が、関東味方中の岩付太田資正を通じて降伏を申し入れてきたので、これを受け入れた。すると、埼西小田助三郎の兄である成田長泰(武蔵国埼西郡忍城主)と下野国衆の藤岡茂呂因幡守(下野国都賀郡藤岡城主)が帰属を申し入れてきたので、これも受け入れた。


 【15】(36) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄6年3月中旬、相州北条方の下野国祇園城の支城である網戸城を攻め落とす。

 永禄6年3月中旬、相州北条陣営に転じた下野国衆の小山秀綱の領内に攻め入り、下旬までに、まず下野国寒川郡の網戸城を攻め落とすと、宿将の北条丹後守高広(譜代衆。上野国群馬郡厩橋城代)に保全させた。


 【16】(37) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄6年3月中旬から同下旬に掛けて、相州北条方の下野国祇園城を攻め降す。

 下野国網戸城を攻略した翌日から小山秀綱の拠る下野国都賀郡小山荘の祇園城を攻め立てて、三日ほどで外郭と副郭を制圧して裸城にすると、いよいよ追い詰められた小山秀綱が出家の身なりで降伏を申し入れてきたことから、その息子、小山一族・家中から人質を差し出す条件で受諾した。また小山方として参戦した下総国衆の結城晴朝(小山秀綱の弟。下総国結城郡結城城主)についても容赦した。


 【17】(38) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄6年3月下旬から同年4月上旬の間、相州北条方の下野国唐沢山城を攻める。

 ここで一先ず凱旋するべきとの声が挙がるなか、関東味方中の佐竹義昭(常陸国衆。常陸国久慈郡太田城主)と宇都宮広綱(下野国衆。下野国河内郡宇都宮城主)と相談して、予定通り相州北条陣営に属する下野国衆の佐野昌綱に制裁を加えるため、下野国安蘇郡佐野荘の唐沢山城を攻め立てると、佐野昌綱が佐竹義昭と宇都宮広綱を頼って降伏を申し入れてきたが、佐野昌綱は、先年に息子を人質に差し出しておきながら、若輩ゆえに家中の専横に任せて背信を繰り返すので、見せしめとして討ち果たすべきかどうか、その処遇を考えあぐねていたところ、佐野昌綱とは同族で、やはり相州北条陣営に属する上野国衆の桐生佐野大炊助(実名は直綱か。上野国山田郡桐生城主)が出頭して帰参したので、佐竹義重と宇都宮広綱を仲介とする佐野昌綱との交渉も長引きそうなこともあり、このたびは佐野昌綱の処分を保留して陣払いし、4月6日に上野国群馬郡の厩橋城、同8日に上野国利根郡沼田荘の沼田城を経て帰国の途に就いた。


 【18】(39) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄6年閏12月中旬、下野国足利・飯塚の地に布陣する甲州武田・相州北条連合軍と駆け引きする。

 永禄6年11月下旬、越府に留守将として新発田尾張守忠敦(外様衆)、留守将の横目として金津新右兵衛尉(実名は弘雅か)・本田右近允(実名は長定か)・吉江織部佑景資・高梨修理亮・小中大蔵丞(実名は光清か)・吉江民部少輔(実名は景淳か)・岩船藤左衛門尉(実名は忠秀か)・吉江中務丞忠景(いずれも旗本衆)を残し、関東味方中との盟約に従って出陣するも、深雪のために進軍が滞ってしまい、ようやく閏12月上旬に上野国利根郡沼田荘の沼田城に着陣すると、相州北条・甲州武田連合軍と興亡の一戦を遂げるため、関東味方中に参陣を呼び掛けるも、最も待ち望んでいる房州里見軍が一向に着陣しないことから、仕方なく現存の軍勢で相・甲両軍と決戦する意思を固め、19日、上野国群馬郡の厩橋城に入り、翌朝に下野国足利郡足利荘の足利・飯塚の敵陣に攻めかかることを期したが、この春に続き、これを察知した敵軍は夜陰に紛れて退散しまい、またしても決戦の機会を失った。

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