越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎(長尾景虎)の略譜 【10】

2012-08-30 19:06:28 | 上杉輝虎(謙信)の略譜
永禄2年(1559)4月8月 長尾景虎(弾正少弼) 【30歳】

このたび将軍足利義輝の還京祝儀及び、警護と称して上洛する。

4月15日、年寄の直江与右兵衛尉実綱(大身の旗本衆)が、将軍家奉公衆・大館上総介晴光の内衆である「富森殿(左京亮信盛)」に宛てて書信(謹上書)を発し、このたびの弾正少弼(景虎)の参洛について、自分のような陪臣までも尊書を拝閲したこと、こうした時宜を迎えたからには、ひたすら格別な御尽力を御頼みするほかないこと、何から何まで過分な御配慮に恐悦している旨を御披露願いたいこと、これらを懇ろに伝えている。

21日、将軍足利義輝(花押)から御内書(「長尾弾正少弼とのへ」)が発せられ、このたび近江国坂本(滋賀郡。景虎一行の宿営地)に着津したのは、尤もであること、この上は早々に参洛するべきこと、万が一、あれこれ非難する徒輩が現れたとしても、それ以上は異議を差し挟ませないように、厳重に申し付けるので、安心して参洛するべきこと、よって、これらを使者の藤安(奉公衆の大館兵部少輔藤安。大館晴光の弟と伝わる)が詳述することを伝えられている。

5月初頭、禁中の見物が許されたのち、庭上の御門(正親町天皇)から御盃を賜る。その後、大納言広橋国光から申次の速水右近大夫有益を通じ、兼ねてよりの叡慮(天皇即位式費用、若しくは禁裏修理費用の献金についてか)の実現に尽くされれば、さぞかし御門も御感悦されるであろうことを伝えられている。

その後、坂本へ戻ると、摂関家の近衛家・名家の広橋家に使者の荻原掃部助(旗本衆)を派遣し、関白近衛前嗣に隼を贈る一方、蒐集したい歌書について問い合わせる。

15日、関白近衛前嗣が、坂本への使者を頼んだ知恩寺岌州(京都百万遍知恩寺の住持)に書簡(端見返しウワ書「知恩寺 (花押)」)を送り届け、先だって長尾弾正少弼(景虎)から並々ならない懇意を示されたゆえ、ひたすら喜ばしい限りであること、只今、貴僧の許へ使いとして時秀(西洞院左兵衛督時秀。近衛家の門流)を差し向けること、条々を然るべく御伝達願いたいこと、長尾弾正少弼は歌道に執心のようで、ひときわ感心であると、太閤(近衛稙家。前嗣の父)が申しており、若し拙者(近衛前嗣)にも相応の用件があるに於いては、何事でも尽力するつもりであること、諸事に於いて長尾弾正少弼の頼もしい心積もりを、しばしば耳にしているので、どうにか拙者も厚誼を深められるように、彼方に取り成してもらえれば、ひたすら本望であること、よって、これらを時秀が詳述することを伝えている。
同日、関白近衛前嗣が、知恩寺岌州に別紙(礼紙ウワ書「知恩寺  前」)をもって、先日は長尾弾正少弼(景虎)から隼一居を贈ってもらい、満足極まりなく、こよなく愛玩すること、この厚意には、ひたすら歓喜している旨を、彼方へ然るべく御伝達願いたいこと、和歌懐紙については、先だって時秀から承ったこと、憚りながら悪筆を染めたので、この旨を彼方へ御伝え願いたいこと、返す返すも、隼を贈ってもらい、ひたすら満足している旨を取り成してもらいたいこと、先日も申した通り、弾正少弼(長尾景虎)のひときわ頼もしい覚悟については、しばしば耳にしており、是非とも会談したいこと、彼方と厚誼を結べるように、くれぐれも頼み入ること、よって、これらを貴僧と対面の折に詳述することを伝えている。
同日、西洞院「時秀」が、大納言広橋国光の許に書簡(礼紙ウワ書「亜槐床下  西洞院時秀」)を送り届け、今朝方、そちらに赴かれた荻原(掃部助)からの芳札を拝読したこと、長尾殿から御尋ねの歌書である三智抄については、御方御所様(近衛前嗣)に申し入れるも、そのような歌書を御方御所様は御所持されていないとの仰せであり、他家が御所持しているかどうかも御存知ないこと、何れ方に御尋ねするべきか、御思案されていること、本来であれば参上して、こうした事情を直に長尾殿へ申し伝えるべきであるが、そちらから荻原掃部助殿に御伝達されてほしいことの仰せであること、御方御所様から長老(知恩寺岌州)に御書をもって仰せられるのは、先だって長尾殿から御鷹を進上された御礼であること、また、自分が坂本に遣わされた折、長尾殿から申し入れられた御懐紙については、御方御所が整えられるので、長尾殿が受け取りに来られるようにとの仰せであり、このところを御承知されて、そちらに立ち寄られる長老に御言伝を願いたいこと、これらを懇ろに伝えている。更に追伸として、先刻は三智抄を御所持されていないとの仰せであるも、明日には当方から各所に申し入れるので、このところを御承知してもらい、(荻原)掃部助殿へ御伝達を御頼みすることと、とにかく自分が各所に赴いて申し入れることを伝えている。

改めて近衛家に使者を派遣すると、17日、西洞院「時秀」から書信(「長尾弾正少弼殿」)が発せられ、先だって荻原掃部助が御使者として到来されたこと、すぐさま承った趣旨を披露に及んだので、このところを御理解してもらいたく、私より申し伝えること、御談合する用件があり、荻原掃部助を長逗留させていること、この詳細については、御使者が口述されること、これらを懇ろに伝えられている。

24日、千五百名ほどの人数で再び入洛して将軍の許へ祗候すると、相伴衆(大名格)に処遇される。

6月上旬から中旬にかけて、将軍足利義輝や太閤近衛稙家・関白近衛前嗣父子と酒宴を催すなか、近衛前嗣が、知恩寺岌州に書簡(端見返しウワ書「知恩寺  前」)を送り届け、先日の参会以降、長尾の気概に心惹かれており、それについて貴僧と内々に語り合いたいこと、心静かに長尾(景虎)の存意をひとつひとつ玩味できれば、ひたすらめでたく喜ばしく、対面の折に詳述するのを心待ちにしていること、長尾に拙者(近衛前嗣)の覚悟のほどを伝えてくれたのかどうか気になっていること、長尾は真から頼もしい気概を持っているので、ひとえに頼み入りたいこと、先日も話した通り、どうしても彼方と直談したく、実現できるかどうか気になっていること、どうにか一日でも坂本に於いて隠密に参会できればと考えており、それで了承してもらえるのかどうか、いつ頃に少弼(長尾景虎)が坂本に下向するのか、是非とも承りたいこと、少弼が近日中に坂本へ下向するのであれば、拙者は明日辺りに坂本へ下向して少弼を待つつもりであること、いかにも人目を忍び、従者を二名ほど召し連れること、様々な思いを申し述べたいこと、本日は公方(足利義輝)から、少弼が祇候するので、太閤と拙者にも参るように仰せられたこと、拙者は昨晩にも、当邸に御出ましになられた公方と朝方まで大酒し、はなはだしい宿酔に苛まれているため、不本意ながらも見合わせるが、太閤は参上するそうであること、これまでも公方が当邸に御出ましになられるたびに酒宴を張り、数多の華やかな若衆を侍らし、大酒しては度々夜を明かしたこと、少弼は衆道数寄と聞いていること、昨晩も希望を申し伝えたが、わずかな時間であっても、ひたすら来会を念願していること、返す返すも、貴僧には適宜の取り成しを頼み入るばかりであり、明日辺りには坂本へ下向して景虎を待つつもりなので、彼方の下向が何時ごろになるのか知らせてほしいこと、そして、景虎の下向の折には、必ず貴僧は彼方に同道してきてほしいこと、これらを懇ろに伝えている。

それから程なくして、関白の要望により、坂本で二人だけの密談に及ぶ。

6月11日、将軍「義(足利義輝)」が、「関白殿(近衛前嗣)」の許に起請文を送り届け、内密に景虎へ仰せ聞かされた条々については、一切他言しないことを神名に誓っている。
12日、将軍足利義輝が、関白近衛前嗣の許に御内書(礼紙ウワ書「関白殿  義輝」)を送り届け、景虎は、たとえ領国を失っても、ひたすら忠節に励む存念を示しており、その揺るぎない覚悟は奇特であること、彼の密事については、景虎の下国に際して申し伝えること、取り敢えず爰許(京都)に異変はないので、先ずは帰国させるのが相当であること、よって、これらを内々に景虎へ仰せ聞かせるように伝えている。

将軍と景虎の結び付きを快く思わない勢力により、両者の間を妨げる風聞が流布すると、16日、将軍足利義輝(花押)から、「大館上総介とのへ(晴光)」に宛てられた御内書をもって、長尾弾正少弼(景虎)に下国を申し渡すように進言する者の存在により、景虎が下国を決意したとの風聞を耳にしたが、すでに領国を捨てるのも厭わず、自ずから忠功を尽くす覚悟で上洛した事実に感嘆しているにも係わらず、景虎に帰国を強制するなどとは、一切あり得ないで分別であり、こうした風聞は始末が悪く、取り合うべきでないことを伝えられている。

吉日(21日)、関白近衛「前嗣」と血書した起請文(「長尾弾正少弼とのへ」)を取り交わし、一、このたび長尾を一筋に頼み入り、遠国(関東)へ下向する約束に、いささかも偽りはないこと、一、少弼(長尾景虎)と進退を共にし、決して心変わりしないこと、一、密事を他言しないこと、一、若しも在京中に其方(景虎)から頼みごとが寄せられた際には、あれこれ算段を尽くし、いささかも抜かりなく、一筋に奔走すること、一、これからまた讒言にあったとしても、疑心暗鬼が生じないように、其方(景虎)の耳に入れて確認を取ること、一、其方への信用を保ち続け、たとえ行き違いがあっても、決して遺恨を残さないこと、一、ここに挙げた条々を一事として偽らないこと、これらを神名に誓われている。
22日、関白近衛前嗣から書簡(礼紙ウワ書「長尾弾正少弼殿  前」)が送り届けられ、このたび坂本に下向したところ、様々な懇意を示してもらい、その満足のほどは、紙面に書き表せないこと、昨日も直談した通り、こうして申し合わせたからには、景虎と進退を共にするつもりなので、今後ますます厚誼を深められれば本望であること、この紙面の詳細については、知恩寺(岌州)が演説すること、よって、これらを(西洞院)時秀が詳報することを伝えられている。
また別紙(端見返しウワ書「長尾弾正少弼とのへ  前」)をもって、昨晩に見参したところ、様々な懇意を示してもらい、ひたすら本望満足であること、格別な厚誼を頼み入るばかりであり、一筋に下向するからには、昨晩に申し述べた通り、景虎の与力同前に奔走する覚悟なので、諸事に於いて気安く接してもらえれば、何にも増して喜ばしいこと、昨晩以後は愉快に酒が飲めるので、ひたすら其許へ参りたいこと、また暇な時分に参会して雑談したいこと、よって、これらについては、知恩寺に詳説を頼んだので略筆したことを伝えられている。
同日、関白近衛前嗣から返書(礼紙ウワ書「長尾弾正少弼殿  前」)が送り届けられ、早速にも寄せられた芳札に満足していること、このたびは直談を遂げられたので、実にめでたく喜ばしいこと、下国について、一度申し合わせたからには、決してし反故にしない旨を、今また示されたので、その頼もしい心中には、いくら考えても紙面には書き表せないこと、ひたすら頼み入り、すでに血書した誓詞を固く取り交わしたからには、どのような避け難い事態に見舞われたとしても、誓詞紙面に違背しないこと、しかしながら、最前から申している通り、若し此方の下国が景虎の不利益になるとして、思い止まるように告げられるのであれば、諦めるほかないこと、此方としては、もはや思案も尽きたので、ひたすら頼み入るのみであり、格別な厚誼を結びたいこと、返す返すも、心からの懇意に感謝するばかりであること、これらを懇ろに伝えられている。

将軍に召し出されると、26日、足利義輝(花押)から御内書(「長尾弾正少弼とのへ」)が下され、裏書(書札礼)を免許するので、分別をつけて心得るべきこと、よって、これを大館「晴光」が詳報することを伝えられている。
同日、大館「晴光(上総介)」から副状(「長尾弾正少弼殿床下」)をもって、このたび裏書御免許の御内書が発せられたこと、さぞかし御面目が施されたであろうこと、よって、御分別をつけられるべきであり、その意味されるところは、三管領・御一族ばかりに御免許された御書礼であること、ここを十分に御心得られるべきこと、これらを懇ろに伝えられている。
同日、将軍足利義輝(花押)から御内書(「長尾弾正少弼とのへ」)が発せられ、塗輿(乗輿)を免許するので、その旨を心得るべきこと、よって、これを(大館)晴光が詳報することを伝えられている。
同日、別紙に於いて、今後の関東上杉五郎(憲政・憲当。号成悦)の処遇については、景虎の判断をもって取り計らうべきこと、よって、これを(大館)晴光が詳報することを伝えられている。
同日、別紙に於いて、甲・越一和については、これまで何度も晴信(甲州武田信玄)に下知を加えているにも係わらず、一向に同心しないこと、その結果、分国境目に乱入を許すところとなり、はなはだ無念であること、甲軍と抗戦中の信濃国諸侍への援助については、景虎が差配するべきこと、よって、これらを(大館)晴光が詳報することを伝えられている。

このように裏書と塗輿を免許されて将軍家一族・三管領家と国持大名に準ずる特権及び、関東・信州平定の大義名分を与えられた。

同日、将軍足利義輝(花押)から御内書(「長尾弾正少弼とのへ」)が発せられ、このほど出羽国最上(最上郡)の山形孫三郎方(義守)より早道馬が献上されるので、分国中滞りなく通行できるように便宜を頼み入ること、この事情については、関白殿(近衛前嗣)が御演説されること、よって、これらを(大館)晴光が詳報することを伝えられている。

その後、炎症を患い坂本で療養すると、29日、将軍足利義輝(花押)から御内書(「長尾弾正少弼とのへ」)が下され、坂本滞在が長期に及んでおり、その後は腫物の症状が快復しているのかどうか、はなはだ心許ないので、其許に左衛門佐(大館輝氏)を遣わすこと、よって、これを(大館)晴光が詳報することを伝えられている。
同日、大館「晴光」から副状(「長尾弾正少弼殿」)をもって、御患いの御見舞いとして、左衛門佐(大館輝氏)を遣わされたこと、ついでに、このたび大友新太郎(豊州大友義鎮)進上による鉄砲玉薬の調合法の書付一巻を御下賜されたので、さぞかし御面目が施されたであろうこと、よって、上意の趣旨を輝氏が詳述することを伝えられている。

こうして「鉄放薬之方并調合次第」を賜ると、幕臣の籾井某から口伝されている。

それから間もなくして、太閤近衛稙家が、知恩寺岌州の許に書簡(端見返しウワ書「知恩寺乃下 (花押)」)を送り届け、先日以降は御疎遠であること、当方の存分を弾正少弼(長尾景虎)に伝達してもらえたのかどうか気になっていること、一日しっかりと内談する意図により、去る26日に武家(将軍邸)へ召し出されて、めでたくも様々な面目を施されたこと、当方も大いに舞台裏で駆け回ったこと、とにもかくにも直談に及びたいところ、酷暑の時分ゆえに呼び寄せるのも憚られたので、先日は注進で済ませたこと、以前に弾正少弼と約束した歌書の写本については、只今見直したところ、誤写があったゆえ、修正して進呈するつもりなので、彼方に御到来してほしいこと、彼方に御用があれば、何事でも承ること、とにかく速やかに手直しすること、いつ頃に弾正少弼は下国するのか、是非とも承りたいこと、よって、これらを詳説するために面談を期することを伝えている。

同じ頃、太閤近衛稙家から書信(端見返しウワ書「長尾弾正少弼殿 (花押)」)が発せられ、先日の武家に於ける面談の実現には、当方も大いに満足しており、種々の特典を得て御面目を施されたのは、めでたい限りであること、その会席の様子を詳しく承りたいので、其方の都合が付けば、内々に直談したいこと、ひたすら御逗留中の再会を待ち望んでいること、これらを懇ろに伝えられている。
同じく太閤近衛稙家から書信(端見返しウワ書「長尾弾正少弼殿 (花押)」)が発せられ、先頃に通じた音信の趣旨が伝わっているのどうか気になっていること、久しく面談していないので、聞きたい事実が山ほどあること、近いうちの帰国が決まったようなので、ひたすら名残惜しいこと、悪筆ながら詠歌大概一冊を書写し終えたので、約束通り進呈すること、要望があれば、抜かりなく取り計らうこと、折り良く見つけた五合五合(五合五乖、書譜のことか)も進呈すること、これらを懇ろに伝えられている。

7月初頭、将軍足利義輝の取次に宛てて条書を呈し、一、上意様(足利義輝)からは亡父信濃入道(長尾為景)以来、御感を賜っており、上意様が江州朽木(近江国高島郡朽木荘)の地に御動座中、何としてでも御帰洛に成就に奔走する覚悟でいたところ、信州張陣が打ち続き、ついに寸暇を得ず、何とかしたい一心でありながらも、少しの寄与もできなかったので、思い悩んでいたこと、一、御上洛の御祝儀として参上したところ、様々な恩典を賜り、身に余るほどの面目が施されたので、今後ますます身命を惜しまず、ひたすら忠節を尽くす覚悟であること、一、めでたく洛中が御静謐を取り戻した上は、このように申し述べるのは、まるで虚偽のように取り沙汰されるかも知れないところ、取り分け遠境ゆえに率いる人数も少ないため、余計な奔走は避けるべきであろうとも、ひたむきに忠節を尽くす絶え間ない決意のほどを、漏れなく上聞に達したいこと、このたびの参洛については、たとえ本国がどのような乱禍に見舞われたとしても、相応の御用等があって召し留められるに於いては、本国の一切を省みず、ひたすら上意様の御前を御守りする覚悟で臨んでいること、それは、すでに先月(6月か)中旬、甲州(武田軍)が越国中に侵攻されても、御暇せずに今なお在京を続けている事実により、御理解して頂けるはずであること、一、泉州表の争乱については、各陣営に宿怨が渦巻いているのは勿論ながら、御畿内に於ける事態であり、恐れながら御心配申し上げていること、このように覚悟のほどを表明した。

同じ頃、関白近衛前嗣が、知恩寺岌州の許に書簡(礼紙ウワ書「知恩寺  前」)を送り届け、拙者(近衛前嗣)の越後下向について、景虎から格別に奔走する旨を約束されたのは、いつもながら実に頼もしい心意気であり、紙面に書き表せないほどの主旨であること、しかしながら、すでに拙者の越後下向については、景虎の同意を得て、互いに血書した誓詞を取り交わしているにも係わらず、直江与兵衛尉(実綱)からの一札によると、様々な方面から抑留の働き掛けがあるそうで、拙者も今一度思量するべきかどうか、近頃は困り果てていたところ、自分の気の迷いで景虎に誓約を違えさせるなどもってのほかであり、そのような事態を招かないように気を引き締めていること、これまで何度も話したように、もはや自分は京都の不本意な有様に我慢がならず、日増しに下国への思いが募り、去る4月頃には西国へ密かに下向するつもりでいたこと、しかしながら、両親を思い遣ると、8月までは離京に踏み切れず、無二の覚悟を決めていたつもりでも、世評は芳しくないばかりか、親命を疎かにできないため、下国の決行を延期していたところ、折り良く長尾(景虎)が上洛したこと、その長尾から連綿と頼もしい意趣を聞かされたので、下国の件を打診したところ、快く同意してくれたこと、すでに長尾と血書した誓詞を取り交わして合意に至ったからには、何度も申し伝えた通り、どれほど離京し難い事情があろうとも、自分から誓詞の趣旨を違えるなどは、一切あり得ないこと、取り分け自分が長尾に誓詞の条項を示して頼み込んだ下国の申し合わせにも係わらず、違背しない旨を約束した神慮を反故にするなどは、これまた微塵もあり得ないこと、当然ながら少弼(長尾景虎)の方でも、誓詞を取り交わしたからには、たとえ貴命(上意)に反しても盟約を違えない旨を表明していること、このように、先だって申し合わせた筋目を双方が違背しないのは確かであり、何があろうとも下国を果たすつもりなので、こうした筋目に於ける自分の覚悟を、改めて貴僧から少弼に伝達してほしいこと、そういうわけなので、このたびの下国は長尾を煩わせて困惑させる事態を招くゆえ、是が非でも延期するようにと促されたところで、少弼の意向でもあるため、考えを改めるつもりはないこと、そうは言ったところで、あるべき姿でない京都の現状に我慢がならず、たとえ他国に下向しようとも、何とか元通りにしたいとの思いに変わりなく、加えて少弼から格別に頼もしい意趣を聞かされたこと、そうした不変の思いを自分は危ぶんでいないこと、これまた景虎に然るべく伝達してほしいこと、返す返すも、このたびの景虎との面談に於いて様々な厚情を受け、ひたすら本望満足であること、これらを懇ろに伝えている。
7月6日、関白近衛前嗣が、知恩寺岌州の許に書簡(礼紙ウワ書「知床下  さ」)を送り届け、敢えて一筆を認めたこと、南方(河内国)の情勢について変化があれば、少弼(長尾景虎)に知らせたく思い、事情通の会話を立ち聞きしたところ、得られた情報は不確実なものが多く、そうした情報までも軽々しく知らせては、却って少弼の迷惑になるため、確かな情報のみを知らせること、南方で対向する河州衆(河州畠山家中衆。昨年に当主の紀州畠山高政(尾張守。もとは紀伊国と河内国の守護を兼任した)は重臣の安見宗房と対立して紀伊国に出奔した)と摂州衆(畠山高政を支援する三好長慶が率いる)は、昨5日に河州衆が先手を取って足軽を押し出すと、両軍は細道でせめぎあいとなり、混乱して後退しようとした摂州衆が手間取るところを河州衆が追撃したので、摂州衆に負傷者が続出したが、戦線を維持できないほどではないらしいこと、大和国については、もはや大半の国人が筑前守(三好長慶。当時は摂津国芥川城を本拠としていた)に味方してしまったのではないかと言われており、これも風聞とは異なる事実のようであること、和州衆は辰巳と超昇寺を中核とする軍勢のようだが、全くの無勢ゆえに脆弱であり、和州衆は筑前守(三好長慶)に味方したといっても、未だに人質を差し出していないため、この点が危ぶまれて将兵の動員が限られたそうであること、そればかりか、同じく河内の戦線に合力として派遣された布施や万歳などは、大和の情勢が不穏のため、急遽引き返したそうであること、しかし結局は何事もなかったようで、再び河州に発向したそうであること、以上の事実を耳にしたので、にわかに顚末を伝えたこと、しっかりと少弼に知らせたいので、こうした要領を得ないままの情報を知らせても良いのかと思い悩んでおり、この旨を貴僧から少弼に然るべく説明してほしいこと、若し異変があれば、改めて知らせること、それから、畠山(高政)は思いのままに采配を振るえなかった不満により、すでに河州衆と秘密裡に和解したそうであること、くれぐれも、異変があれば連絡するので、この書状を紛失しないでほしいこと、ここ暫く少弼に無沙汰しており、細やかに音信を通じたいところ、却って煩雑になると思い、心ならずも時が過ぎてしまったので、この辺りの事情を十分に心得た上で景虎に伝えてほしいこと、詳細については貴僧と対面した折に伝えること、せわしない有様ゆえ、どのような文面にしたら良いのか迷い、一方に偏った内容ばかりでは、あまりにも無分別なので、その点に留意したところを御理解してほしいこと、この通り自分は今朝から用事で下京に居り、帰宅は夜更けになりそうなので、明日は上京に出掛けるゆえ、貴僧も当方に出向いてほしいこと、あまりの慌しさに、この書簡を立ったまま認める有様であったこと、この書簡を何れは火中に投じてほしいこと、これらを懇ろに伝えている。
7日、関白近衛前嗣が、知恩寺岌州の許に書簡(礼紙ウワ書「知恩寺  前」)を送り届け、少弼(長尾景虎)からの芳札を披読したこと、何はさておき、昨日送った書状の最後に、せわしない有様ゆえに詳細を書き表せない、と記した状況を案じ、わざわざ少弼が書状を寄越されたのは、実に頼もしい心根なので、容易く言葉にできないほどであること、下国については、ここまで気運が高まったからには、いささかも決意は揺るがないこと、昨日の件とも異なる事情ではないため、自分の身上などを気遣われる必要は全くないこと、少しばかり田舎から禁裏に呈する事柄があり、それを談合するために下京まで出掛けたところ、連歌会が催されており、自分も座敷に呼ばれたこと、少弼への返事と貴僧への書簡を整えたものの、あれやこれや慌しく、そうした状況は書状の最後に記した通りであること、爰許の様子を知らせたいと思いながらも、このように慌しい状況ではままならず、書状の体裁をなしていないのは自覚していること、このほか別条はないが、却って景虎に気を遣わせてしまい、気が咎めて困惑しており、自分に成り代わって謝意を申し伝えてもらいたいこと、ひたすら少弼の態度の端々に頼もしさを感じている思いを、内々に公方と語り合ったこと、返す返すも、下国の決心は固いが、とにかく少弼に気を遣わせては、気が咎めてならないため、出来るだけ早く支障がないように存意を少弼へ申し伝えてもらいたいこと、詳細については面述すること、ここ暫く無沙汰していた非礼を少弼へ十分に詫びておいてもらいたいこと、これらを懇ろに伝えている。

14日、関白の越後下向の風聞に接した将軍足利義輝(花押)から御内書(「長尾弾正少弼とのへ」)が発せられ、近衛殿が越後国に御下向されるとの風聞を耳にしたこと、若し事実ならば、御即位(永禄三年正月に挙行される御門の即位式)が予定されるため、近衛殿は当職(関白)であり、その不在は適切ではないこと、但し、御即位後に下国されるならば、やむを得ないこと、よって、これらを(大館)晴光が詳報することを伝えられている。
同日、大館「晴光」から副状(礼紙ウワ書「長尾弾正少弼殿  大館上総介 晴光」)が発せられ、近衛殿様が越後国に御下向されるとの風聞が流れており、若し事実であるならば、現状に於いては不適切との思召しであること、その子細は、御即位が予定されており、近衛殿様は御当職であられるので、取り敢えず御延引されるべきとの仰せであること、その旨を御理解されて、御下向を思い止まらせられるように、是非とも御分別されるべきとの仰せであり、こうして御内書を認められたこと、貴所が御下国されるのは、いつ頃であるのか、一昨日に申し伝えた通り、あらかじめ念入りに御暇を申し上げられるべきこと、よって、これらを使者の富森小四郎(大館氏の内衆。富森左京亮信盛の子か)が詳述することを伝えられている。

これを受けて将軍に請文を呈し、近衛殿様の越後国下向については、そのような事実を一切存じ上げないこと、しかしながら、近衛殿様から強いて御頼みされた場合、拙者からは近衛殿様に対して、明確な拒否も御下向の御延期を勧めるのも難儀であること、たとえ上意の御勘気を蒙ったとしても、この節義を疎かにできないこと、不相応にも上意御近辺の面々に御不義を働く方が大勢いる残念な現況に於いては、拙者が近衛殿様の御下向の御供をしたところで、上意に背くものではないかとの考えから、近衛殿様御下向の事実を一切存じ上げないと申し上げたまでであること、このように申し開きをした。

当の関白近衛前嗣は、下国の意思は堅いものの、取り分け将軍足利義輝と自分の間で板挟みになっている景虎へ配慮し、御門即位式の大典を無事に終えるまでは、やむを得ず京都に留まることを決断している。

8月中には帰国の途に就いた。


この上洛中、甲州武田軍が越後に侵攻している。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 164号 直江実綱書状、165号 足利義輝御内書、166号 広橋国光書状、167・168号 西洞院時秀書状、169・170・171号 近衛稙家書状、172号 近衛前嗣書状、173号 足利義輝起請文、174・175号 足利義輝御内書、176号 近衛前嗣書状、177号 足利義輝御内書、178号 大館晴光副状、179・180・181・182・183号 足利義輝御内書、184号 大館晴光副状、185号 鉄砲薬之方并調合次第、186号 近衛前嗣血書起請文、187・188・189号 近衛前嗣書状、190号 長尾景虎条書案、191号 足利義輝御内書、192号 大館晴光副状、193号 長尾景虎請文案、194・195・196・197・198号 近衛前嗣書状、201・202号 足利義輝書状 

◆ 無日付の文書については、谷口研語氏の著書である『流浪の戦国貴族近衛前久 天下一統に翻弄された生涯』(中公新書)と池享、矢田俊文両氏の編著である『定本上杉謙信』(高志書院)から、小林健彦氏の論考である「謙信と朝廷・公家衆」を参考にして引用した。


永禄2年(1559)10月11月 長尾景虎(弾正少弼) 【30歳】

10月28日、国内の諸領主から祝儀(関東管領就任の将軍認可を得て京都から帰国した祝いとされるが、本当のところは分からない)の太刀を献上される。

〔侍衆御太刀之次第〕

【直太刀之衆】
 
古志ノ十郎殿(古志長尾景信。越後国古志郡代官長尾家の系譜。越後国栖吉城主) 
桃井殿(永禄3年に桃井右馬助がみえる。享禄4年にみえる前上杉家の譜代衆・桃井伊豆守義孝の子であろう。足利氏支族桃井氏の系譜) 
山本寺殿(永禄4年から山本寺伊予守定長がみえる。定長は、天文年間初期にみえる前上杉家の一家衆・山本寺陸奥守定種の子か。越後国不動山城主)


何らかの事情により、祝儀に参加しなかった、この頃の越後国長尾家の一家衆にあたる領主に、上条上杉氏(越後国上条城主)、山浦上杉氏(同篠岡城主)がいる。

【披露太刀之衆】
 
中条殿(外様衆・中条越前守。越後国鳥坂城主) 
本庄殿(同本庄弥次郎繁長。越後国村上城主)
 
石川殿(天正年間初期に石川中務少輔がみえる。この中務少輔は、長尾為景が一族を入嗣させた可能性のある前上杉家の譜代衆・石川新九郎景重の子か) 
色部殿(外様衆・色部修理進勝長。越後国平林(加護山)城主) 
千坂殿(天文18年にみえる千坂筑前守か。この筑前守は、長尾為景が一族を入嗣させた可能性のある前上杉家の譜代衆・千坂藤右衛門尉景長の子か、或いは同一人と思われる。越後国鉢盛城主か)
長尾越前守殿(上田長尾政景。関東管領山内上杉氏の家領である越後国魚沼郡上田荘代官の系譜。景虎の姉婿。越後国坂戸城主)
斎藤下野守殿(前上杉家の譜代衆・斎藤朝信。越後国赤田城主)
 
毛利弥九郎殿(前上杉家の譜代衆・安田毛利越中守景元の子。実名は景広か。或いは景元の次男である安田惣八郎(のち顕元)か。越後国安田城主) 
長尾遠江守殿(下田長尾藤景。関東管領山内上杉氏の家領である越後国蒲原郡下田郷代官の系譜。越後国下田(高)城主) 
柿崎和泉守殿(前上杉家の譜代衆・柿崎景家。越後国柿崎城主) 
琵琶嶋殿(長尾為景に没落させられた上杉一族の琵琶嶋氏に代わって台頭した柏崎氏か。越後国琵琶嶋城主) 
長尾源五郎殿(景虎の近親者か)
 
加地殿(享禄4年にみえる外様衆・加地安芸守春綱か。永禄末年から加地彦次郎がみえる。越後国加地城主) 
竹俣殿(外様衆・竹俣三河守慶綱。越後国竹俣城主) 
大川殿(外様衆・大川駿河守忠秀か。永禄12年から大川三郎次郎長秀がみえる。越後国藤懸(府屋)城主)
長尾右衛門尉殿(一右衛門尉か。下田長尾遠江守藤景の弟か) 
相川殿(外様衆・鮎川清長(岳椿斎元張)、或いは子の鮎川孫次郎盛長か。そうであれば越後国大葉沢城主) 
仁科清蔵殿(江戸期の米沢藩主・上杉定勝の時代にもみえる。或いは竄入か) 
平賀殿(外様衆・平賀左京亮重資。越後国護摩堂城主) 
安田新八郎殿(外様衆・安田治部少輔長秀、或いは子か。天正年間初期にみえる外様衆の安田新太郎(堅親ヵ)は、大身の旗本衆・河田長親の弟。越後国安田城主) 
竹俣平太郎殿(天文年間中期に一旦没落した筑後守系の外様衆・竹俣氏か。天正年間初期の譜代衆に竹俣小太郎がみえる) 
吉江殿(前上杉家の譜代衆・吉江中務丞忠景か。忠景は永禄4年には旗本衆としてみえる。越後国吉江城主か) 
甘糟近江守殿(前上杉家の譜代衆・甘糟長重。越後国枡形城主か) 
水原小太郎殿(永禄年間後期に外様衆・水原蔵人丞がみえる。越後国水原城主) 
下条殿(外様衆・下条薩摩守実頼か。天正年間初期にみえる外様衆・下条采女正(忠親ヵ)は、大身の旗本衆・河田長親の弟。越後国下条城主) 
大関殿(前上杉家の譜代衆・大関阿波守盛憲か。天正年間初期に大関弥七郎(親憲ヵ)がみえる) 
荒川殿(外様衆・荒川伊豆守長実か。天正年間初期に荒川弥次郎がみえる) 
唐崎殿(不詳) 
桐沢殿(上田長尾氏の被官・桐沢氏の本流か) 
大崎殿(不詳) 
有留弥七郎殿(不詳) 
計見出雲守殿(前上杉家の譜代衆) 
野路弥左衛門尉殿(天正年間後期の赤田斎藤氏の家中に野呂氏がみえる。こののち斎藤氏に吸収されたのか) 
計見与十郎殿(出雲守の近親者か) 
毛利丹後守殿(前上杉家の譜代衆・北条高広。越後国北条城主) 
長井丹波守殿(上杉景勝の時代に、甲斐国出身の長井丹波守昌秀がみえる) 
村山平次郎殿(天正年間初期に譜代衆・村山善左衛門尉慶綱がみえる。この慶綱は、前上杉家の譜代衆・山岸隼人佑の次男。越後国徳合城主)
大崎九郎左衛門尉(越後国上杉景勝の時代にみえる)

何らかの事情により、祝儀に参加しなかった、この頃の越後国長尾家の外様衆・譜代衆にあたる領主に、黒川氏(外様衆・黒川竹福丸。永禄10年には元服して四郎次郎平政と名乗る。越後国黒川城主)・新発田氏(外様衆・新発田尾張守忠敦。越後国新発田城主)・五十公野氏(享禄4年に外様衆・五十公野弥三郎景家がみえる。永禄9年から五十公野玄蕃允がみえる。越後国五十公野城主)・菅名氏(天正3年から外様衆・菅名源三がみえる。越後国菅名城主)・新津氏(天正元年から外様衆・新津大膳亮がみえる。越後国新津城主)・飯田氏(外様衆・飯田与七郎。のちに山吉氏の与力に配される)、御屋敷長尾氏(譜代衆・長尾小四郎景直。景虎の近親者)・平子氏(譜代衆・平子孫太郎。永禄11年から若狭守としてみえる。越後国薭生城主)・宇佐美氏(譜代衆・宇佐美駿河守定満。永禄11年から平八郎がみえる。越後国真板平城主か)・上野氏(譜代衆・上野中務丞家成。越後国節黒城主)・福王寺氏(譜代衆・福王寺兵部少輔。重綱、孝重などと定まらない。越後国下倉山城主)・善根氏(譜代衆・善根毛利氏。越後国善根城主)・小国氏(永禄11年から譜代衆・小国刑部少輔がみえる。越後国天神山城主)・山岸氏(永禄8年から譜代衆・山岸隼人佑がみえる。越後国黒瀧城主)・志駄氏(永禄4年に譜代衆・志駄源四郎が戦死したのちは、直江氏に吸収される。越後国夏戸城主)・力丸氏(譜代衆・力丸中務少輔。こののち松本氏の与力に配される。越後国根小屋城主)などがいる。


11月朔日、旗本衆から祝儀の太刀を献上される。

【御馬廻年寄分之衆】
 
若林方(天正2年から若林九郎左衛門尉家吉がみえる) 
山村方(天文17年にみえる山村右京亮か。越後国青木城主か) 
諏訪方(永禄11年から諏訪左近允がみえる) 
山吉方(永禄9年から山吉孫次郎豊守がみえる。兄の山吉孫四郎(景久か)は永禄元年に早世している。越後国三条城主) 
相浦方(上杉謙信(輝虎)死去の直後から相浦主計助がみえる) 
松本方(大学助か。永禄9年から松本石見守景繁がみえる。越後国小木(荻)城主) 
荻田方(天正5年に上杉謙信から長の一字を付与された荻田孫十郎長繁の父にあたるか) 
庄田方(もとは古志長尾氏被官の庄田惣左衛門尉定賢)

何らかの事情により、祝儀に参加しなかった、この頃の景虎の旗本衆に、直江与右兵衛尉実綱(越後国与板城主)・吉江織部佑景資(古志長尾家被官の系譜)・荻原掃部助・金津新右兵衛尉(景虎の乳母夫と伝わる)・本庄新左衛門尉(本庄実乃(号宗緩)の子。越後国栃尾城主)・三潴出羽守長政(越後国中目城主)・新保清左衛門尉秀種・本田右近允(長定ヵ)・野島平次左衛門尉・小越平左衛門尉(もと古志長尾氏被官。こののち景虎の寵臣である河田豊前守長親に附属される)・秋山氏・飯田氏・五十嵐氏・小野氏・河隅氏・小嶋氏・小林氏・高梨氏・塚本氏・林氏・平林氏・村田氏・吉田氏・吉益氏などがいる。


※ 金覆輪の太刀を献上した大身の侍衆は紫字で示した。それから、補筆と入道衆については、疑わしいので除外した。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 3542号 祝儀太刀次第(写)


永禄2年(1559)12月 長尾景虎(弾正少弼) 【30歳】

先の上洛中に将軍足利義輝から相伴衆に処遇されたことなどにより、大名並みの家格を得たので、国内に於ける権威が上昇し、この頃より、有力領主(前上杉氏譜代衆)の長尾遠江守藤景・斎藤下野守朝信・柿崎和泉守景家・北条丹後守高広を年寄衆として政務に参画させる。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 200号 長尾藤景等四名連署状(写) 

◆ この景虎の権威上昇 、有力国衆の政務参画については、片桐昭彦氏の論集である『戦国期発給文書の研究 ― 印判・感状・制札と権力 ―』(高志書院)の「長尾景虎(上杉輝虎)の権力確立と発給文書」に依拠した。
コメント

越後国上杉輝虎(長尾景虎)の略譜 【9】

2012-08-27 21:03:49 | 上杉輝虎(謙信)の略譜
弘治3年(1557)10月 長尾景虎(弾正少弼) 【28歳】

18日、奉行衆の本庄「宗緩(新左衛門入道。新左衛門尉実乃。旗本衆。越後国栃尾城主)」・長尾「景繁(譜代衆。山東(西古志)郡に基盤を置く長尾氏か)」・長尾「景憲(譜代衆。古志長尾氏の系統か)」・直江「実綱(与兵衛尉。大身の旗本衆。越後国与板城主)」・吉江「長資(与橘ヵ。のち景資。景虎の初政に於ける側近であった吉江木工助茂高の世子)」が、「広泰寺」に証状を与え、頸城郡夷守郷榎井保内の大高山湧光寺領について、応永29年4月5日に性景(長尾上野入道。邦景ヵ)が認可した郡司不入と諸役免除の特権を有効のまま、改めて当代(景虎)が安堵することを通達している。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 155号 本庄宗緩等五名連署状(写) 『新潟県史 資料編5 中世三』 2641号 某景繁過所、3316号 長尾景憲裁許状


永禄元年(1558)閏6月 長尾景虎(弾正少弼) 【29歳】

このたび在地の諸将に参陣を呼び掛けたところ、14日、越後国瀬波(岩船)郡小泉荘に盤踞する秩父一族の本庄弥次郎繁長(外様衆。越後国村上城主)と色部弥三郎勝長(同前。同平林(加護山)城主)が起請文を取り交わし、このほど当郡中が申し合わせて参陣する上は、周囲から難癖をつけられたり、取り分け陣中に於いて不当に干渉されたとしても、必ず互いに擁護するべきこと、これから先についても、身辺に邪な輩が現れて奸計などをめぐらしているのを察知した際には、必ず互いに通報するべきこと、いよいよもって交誼を深め合うべきこと、これらを神名に誓っている。


この間、甲州武田「晴信(大膳大夫・信濃守)」は、閏6月16日、武蔵国衆の「市田茂竹庵(市田上杉氏。武蔵国市田城主)」の許に返書(謹上書)を託した使者を立て、来意の通り、昨年は当方の加勢として上州まで御出陣されたゆえ、当表の敵軍が退散したこと、これに対する御礼として使僧の宝泉院を派遣したところ、このたび御祝儀の御使者が到来したばかりか、甲二鉢と鞦十具を贈ってもらい、すこぶる喜ばしいこと、よって、この書面では略筆したが、これらを余す所なく使者の板倉方が詳述することを伝えている。
19日、(武田「晴信(黒印)」)、山城国醍醐寺「理性院」に対して返書を送り、信濃国安養寺・文永寺(伊那郡)の再興(勅命による)については、昨年に存分を申し述べたところ、このたび再便が寄せられたので、取り分け由緒があり、また、すでに綸旨を賜った上は、いささかも異議はないこと、当今は戦国の世であり、両寺の焼亡によって仕方なく当国(信濃)に於ける武運長久の祈祷を、近年は法善寺(筑摩郡)に寄進して任せていること、つまるところ、来る秋に越国に進攻するので、一戦勝利の御丹精な祈祷を、ひたすら貴僧に御頼み申したく、速やかに成就に至れば、必ず本寺に寄進すること、まことに身勝手な申し出であり、すこぶる恐縮している旨を、御使僧が口述されること、よって、これらを懇ろに伝えている。更に追伸として、青蓮院(尊円法親王)の御真筆一巻を贈って下さり、ひたすら恐悦していることを伝えている。
同日、取次の飯富「昌景(譜代衆)」が、理性院に対して副状(進上書)を送り、このたび寄せられた貴札を拝読し、その趣旨を承知したこと、晴信に両寺の一件を取り次いだところ、当秋に信国の残賊を退治し、速やかに本意を達したのちであれば、両寺の再興に異存はないとの仰せであること、恐れながら、この旨を御分別されるべきであり、是非とも尊意を得たいこと、これらを懇ろに伝えている。

この前後、甲州武田軍は越後国に侵攻している。

そして、武田家と同盟を結ぶ相州北条「氏康(左京大夫)」は、閏6月18日、他国衆の「安中越前守殿(重繁。上野国安中城主)」に対して書信を送り、このたび上野国吾妻谷(吾妻郡)に向けて至急に戦陣を催すこと、自分も半途まで出陣するゆえ、ひたすら御奮励されるべきこと、正確な日時については、改めて三日前に報知するので、いささかも抜かりなく準備を整えられるべきこと、よって、これらを取次の遠山(丹波守綱景。準一家。家老衆であり、武蔵国江戸城代を務める)が詳報することを伝えている。
その後、安中氏の被官である赤見某(山城守か)らが越後国に侵攻している。


これに対応して景虎は、上・越国境の越後国上田荘に在陣していた可能性がある。


『新潟県史 資料編4 中世二』 1119号 本庄繁長起請文 『戦国遺文 武田氏編 第一巻』 598号 武田晴信書状写、599号 武田晴信書状、600号 飯富昌景副状、609号 武田晴信書状写、610号 武田晴信書状 『戦国遺文 後北条氏編 第三巻』 2537号 北条氏邦書状 『戦国遺文 後北条氏編 補遺編』 4653号 北条氏康書状写

◆ 相州北条氏による越後侵攻については、黒田基樹氏の論集である『戦国期東国の大名と国衆』(岩田書院)の「第十二章 上杉謙信の関東侵攻と国衆」を参考にした。


永禄元年(1558)8月~9月 長尾景虎(弾正少弼) 【29歳】

8月晦日、越後奥郡国衆の本庄「繁長(弥次郎)」が、被官の「須貝彦左衛門尉とのへ」に証状を与え、このたび越府の要請に応じて出陣したところ、従軍して奉公に励んだのは、すこぶる神妙であり、鮎川分一貫文の地を宛行うので、今後ますます奮励するように、よくよく心得るべきことを通達している。

9月22日、越後国守護代長尾家以来の重臣である山吉孫四郎(景久ヵ。旗本衆。蒲原郡司。越後国三条城主)が死去する。


この間、甲州武田晴信(大膳大夫)は、8月吉日、(「源 晴信」)、信濃国「戸隠山中院(戸隠神社。水内郡)」に願文を納め、このたび筮竹をもって、当年に信国に居陣するに於いては、十二郡を存分に治められるかどうか、また、当国と越国の和睦交渉を取り止めにして、彼の国へ攻め入るべきかどうか、吉凶を占ったところ、何れも吉の卦が出て、信国に居陣すれば、一国を残らず掌握し、若し越国衆が信国に攻め込んでも、たちまち凶徒は滅亡し、晴信の勝利は疑いないところであり、よって、神助を得られれば、貴社の修補費用は賄うことを誓っている。

この前後、甲州武田軍は、再び信濃奥郡に出陣している。


『新潟県立歴史博物館研究紀要 第9号』 高野山清浄心院 越後過去名簿(写本) 『新潟県史 資料編5 中世三』 3279号 本庄繁長知行宛行状写 『戦国遺文 武田氏編 第一巻』 609号 武田晴信書状写、602号 武田晴信願文


永禄元年(1558)10月~12月 長尾景虎(弾正少弼) 【29歳】

このたび京都に要脚を納めるために公田段銭を徴収すると、10月晦日、公銭衆の吉江「長資(与橘ヵ)」・庄田「定賢(惣左衛門尉)」・某「貞盛」が、越後上郡国衆の山田帯刀左衛門尉に宛てて請取状を発し、頸城郡夷守郷内の河井村・阿弥陀瀬村に於ける益田分の段銭について、確かに受領したことを通達している。


将軍足利義輝から今夏の越後侵攻を咎められた(大館晴光が悦西堂に宛てた書簡による)甲州武田「晴信」は、11月28日、将軍家奉公衆の「大館上総介殿(晴光)」に宛てて請書を送り、去る3月10日付の御内書(『戦国遺文 武田氏編』 4019号)を謹んで頂戴し、ひたすら恐悦していること、信・越で領界を分けて和融するべきとの御下知を、謹んで御請けすること、この覚悟の旨を、御使僧の悦西堂が詳述されるので、よろしく御披露願いたいこと、これらを懇ろに伝えている。
同日、(武田「大膳大夫晴信」)、別書(謹上書)をもって、このほど寄越された御内書を拝読したこと、直ちに御請けしたので、よろしく御取り成し願えれば、すこぶる本望であること、一、このたび悦西堂へ宛てられた御札を披読したところ、この夏に越国へ攻め入ったのは、上意を軽んじたと誤解されたようで、ともかく驚いていること、すでに去る頃、瑞林寺が御使者として御下向された際に、信州(信濃国守護職)補任の御内書を頂戴しており、こうした事実から他国の干渉を受けるいわれはないにも係わらず、長尾が二度も信国を放火して回ったこと、これこそ上意に背いた行為であること、一、昨年に甲・越和睦の御仲裁として、聖護院御門主(道澄。関白近衛稙家の三男)の御使僧である森坊(増隆)が御内書を携えて下国されると、取り敢えず(武田)晴信は停戦して信府に留まり、もっぱら府城の整備を差配していたこと、一方、長尾は御内書を頂戴したにも係わらず、和睦勧告を御請けするどころか、信濃国海津(埴科郡)に放火したこと、これまた周知の事実であること、一、この長尾の非道な行為に対する報復として越国に攻め入ったのであり、いささかも上意を軽んじるものではないこと、一、今また越国に攻め入ろうと企てたのは、この夏に攻め入った際、越府を壊滅させるつもりでいたところに、留守居の者共が、甲府に御使僧が御下向されたとの連絡を寄越してきたゆえ、このたびもまた上意を奉じ、一先ず越府攻略を見合わせて帰陣したこと、そして、すぐさま御使僧の悦西堂に申し伝えた愚存は、前記の通りであること、更に悦西堂に対し、すでに当方が信州補任の御内書を所持している以上、甲・越和融の是非は越国次第である旨を申し伝えたところ、納得されて彼の国へ下られるも、すげなく追い払われたそうであること、これこそ紛れもない上意への逆心であり、御分別を願うほかないこと、一、信州補任の御内書の旨を覆されず、信・越で領界を分けての和融であるならば、御下知された通りで異存はないこと、なお詳細については、富森左京亮(信盛。大館晴光の内衆)が詳述されること、これらを懇ろに伝えている。

12月に入って武田晴信は、出家して徳栄軒信玄と号する。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 160号 庄田定賢等三名連署段銭請取状(写) 『戦国遺文 武田氏編 第一巻』 609号 武田晴信書状写、610号 武田晴信書状 

◆ 『戦国遺文 武田氏編』609号文書と武田晴信の出家(『山梨県史 資料編5』2617号)については、鴨川達夫氏の著書である『日本史リブレット 人 043 武田信玄と毛利元就 思いがけない巨大な勢力圏』(山川出版社)を参考にした。


永禄2年(1559)2月 長尾景虎(弾正少弼) 【30歳】

20日、将軍足利義輝(花押)・(前年の6月に江州六角佐々木義賢(左京大夫)らの支援を受け、京都の回復を図って三好長慶(筑前守)と戦うと、9月に和睦が成立し、11月に漸く還京した)から御内書(「長尾弾正少弼とのへ」)が発せられ、(武田)晴信との和談について、昨年に内書をもって詳しく申し遣わしたところ、大筋で合意に達したのは、尤も適切であり、殊勝な態度であること、いいいよ手堅く和談を成就させるべきこと、よって、これらを晴光(大館晴光。奉公衆)が詳述することを伝えられている。

23日、公銭衆の吉江「長資(与橘ヵ)」・庄田「定賢(惣左衛門尉)」・某「貞盛」が、越後中郡国衆の飯田与七郎(蒲原郡五十嵐川流域が本領と伝わる)に宛てて請取状を発し、頸城郡夷守郷赤沢村内の富田与三左衛門尉分(係争地の横曽祢村分を除く)の段銭について、確かに受領したことを通達している。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 161号 足利義輝御内書、162号 庄田定賢等三名連署段銭請取状
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越後国上杉輝虎(長尾景虎)の略譜 【8】

2012-08-23 17:16:08 | 上杉輝虎(謙信)の略譜
弘治3年(1557)正月3月 長尾景虎(弾正少弼) 【28歳】

正月20日、(「長尾弾正少弼景虎」)、信濃国更級八幡宮(更級郡)に宛てた願文を認め、「隣州国主」として信州の安寧を取り戻すために甲州武田晴信を打倒する決意を表し、この立願が神助によって成就したあかつきには、信州に於いて一所を寄進することを誓った。
2月16日、(「長尾弾正少弼景虎」)、在地の「色部弥三郎殿(勝長。外様衆。越後国平林(加護山)城主)御宿所」に宛てて書信を発し、信州陣については、一昨年に駿府(駿州今川義元)の御取り成しにより、無事が成立したにも係わらず、懸念していた通り、晴信(甲州武田晴信)が策動を始めたので、はなはだ不愉快な思いをしていること、神慮といい、駿府の御取り成しといい、此方からは手出しするべきではないとの思いから、ひたすら堪忍していたところ、このたび(武田)晴信は計略をもって、信濃味方中である落合方の家中を引き裂き、彼方の拠る葛山(水内郡)の地を攻め落としたこと、このために同じく味方中の嶋津方(忠直)は、何はさておき本城の長沼城(水内郡)を放棄して支城の太蔵城(大倉城。水内郡太田荘)に後退せざるを得なかったこと、もはや我慢の限度を越えたので、爰許の総員を彼の口へ急派し、景虎も半途に在陣中であること、雪中ゆえに御面倒ではあろうが、昼夜兼行での御着陣を待ち侘びていること、信州味方中が滅亡してしまっては、当国の存亡も危ぶまれるので、今般は相応の人数を整えられて、ここぞとばかりに御精励されるべきであること、これらを懇ろに伝えた。

これより前、能州畠山悳祐(左衛門佐入道。義続)・同義綱(次郎。修理大夫)父子から、内乱(年寄衆の神保宗左衛門尉総誠・温井兵庫助続宗・三宅筑前守総広らが、畠山一族の畠山四郎晴俊を擁して挙兵した)を鎮圧するための支援要請を受けるも、信州出陣を予定しているため、援軍の派遣を丁重に断り、兵糧の援助のみを請け負うと、18日、畠山「悳祐(黒印)・同「義綱」から返書(「長尾弾正少弼殿」)が発せられ、再び飛脚を派遣すること、このたび返札を始めとした様々な厚意を受け、感謝の言葉もないこと、いかにも累代の交誼に変わりないので、めでたく喜ばしいこと、ますます当城(能登国七尾城)は堅固なので、安心してもらいたいこと、今般の事情については、何度も申し伝えており、ここでは敢えて触れないこと、糧米を扶助してくれるそうで、何はさておき士卒の意気が揚がったこと、とにかく越国に計策を託したく、その助成をもって本意を達する以外に仕様がないかも知れず、少しでも波が穏やかで渡海に適する時機を得たならば、是非とも加勢を派遣してもらいたいこと、別紙をもって条々を申し伝えること、よって、これらを取次の遊佐美作守(続光)が詳報することを伝えられている。
同日、畠山「悳祐(印)・同「義綱」から、取次の「山田修理亮殿(長秀。旗本衆)」に宛てて書信が発せられ、取り急ぎ飛脚を派遣したこと、当方の籠城について、このたび景虎から厚意を示してもらったゆえ、ひたすら喜んでいる旨を申し伝えてほしいこと、糧米を扶助してくれるそうで、何はさておき士卒の意気が揚がり、めでたく喜ばしいこと、とにかく越国に計策を託したく、その助成をもって本意を達する以外に仕様がないと思われ、少しでも波が穏やかで渡海に適する時機を得たならば、速やかに加勢を派遣してもらいたい旨を申し伝えるものであり、其方(山田長秀)の取り成しに期待していること、よって、これらを遊佐美作守(続光)が詳報することを伝えられている。
23日、能州畠山家の年寄衆である遊佐「続光」から副状(「長尾弾正少弼殿 御宿所」)が発せられ、去る頃は御返書ならびに御厚意を給わり、感謝の言葉もないこと、今もって当陣に別条はないこと、糧物の援助を請け負って下さり、何はさておき歓喜していること、御加勢については、このたび越国は信州へ進攻されるため、御同意を得られなかったのは、やむを得ない事態であること、しかしながら、是非とも高徳をもって、その多寡に係わらず一勢を派遣してもらいたいとの思いから、当国父子が直書と条書にて申し入れられたものであり、早速にも御同意を得られれば、まさに当家再興にとっては主要であること、ここを十分に心得て申し入れたこと、これらを懇ろに伝えられている。更に追伸として、委細を飛脚の金台寺に申し伝えてほしく、彼の者の帰国を待って談合するつもりであることを伝えられている。

3月18日、(「長尾弾正少弼景虎(花押c)」)、返報を寄越してきた「色部弥三郎殿(勝長)御返報」に宛てて返書を発し、信州陣について、わざわざ御切書を寄越してもらい、祝着千万であること、再三に亘って申し伝えた通り、このたびは甲軍と興亡の一戦を遂げる覚悟であること、ここが正念場であり、ひたすら速やかな御参陣を待ち侘びていること、漸く景虎も出陣できること、其許(色部勝長)の御用意が整ったとの知らせには、すこぶる満足していること、今のところ信濃奥郡に異変はないので、どうか御安心してほしいこと、諸事については、対面の折に承ること、これらを懇ろに伝えた。
3月23日、(長尾「弾正少弼景虎(花押c)」)、姉婿の「越前守殿(上田長尾政景。譜代衆。越後国坂戸城主)」に宛てて書信を発し、信州陣については、何度も申し伝えている通り、このたびは更に抜き差しならない困難な状況であるため、看過してはならないこと、そのように考えながら、出陣の日取りについて、皆々と談合していた間にも、信濃味方中の高刑(高梨刑部大輔政頼。信濃国飯山城主)から、このまま景虎の信州出陣が遅延するようであれば、飯山城(水内郡)を放棄しなければならないとして、しきりに出陣を求められており、ここで救援を怠っては、いよいよ信望を失ってしまうため、明24日に出陣するので、いつも申し伝えている通り、御面倒ではあっても、早々に御着陣されるべきこと、これらを懇ろに伝えた。更に追伸として、こちらの様子については、藤七郎方(実名は景国か。政景の弟。越後中郡国衆・大井田氏の名跡を継いだと伝わる)が詳報することを伝えた。


この間、信府深志城(筑摩郡)に在陣中の甲州武田「晴信(大膳大夫)」は、2月15日、信濃在陣衆に命じ、すでに昨年から内通者を得ていた越後方の信濃衆・落合次郎左衛門尉が拠る信濃国葛山城を攻め落としている。
25日、信濃先方衆の「木嶋出雲守殿・原(山田)左京亮殿(ともに高梨氏の旧臣。信濃国山田城に拠るか)に対して書信を送り、このほど飯富兵部少輔(譜代衆。信濃国塩田城代)の所へ寄越してくれた注進状によれば、敵勢が中野筋(高井郡)に進出してきた事実を把握したこと、幸いにも当府(深志城)に在陣中なので、若し敵勢が大軍であるならば、その方面に再進攻するつもりであること、よって、それまでの間、城内を堅守するように伝えている。
3月14日、「木嶋出雲守殿・原左京亮殿」に対して返書を送り、去る11日付の注進状が、今14日の晩に着府したこと、それによると、越国衆が当国に侵攻してきたらしいが、元より承知の上なので、いち早く出陣していること、詳細については、その表に着陣した折に面談するべきこと、其方の存意もつぶさに承ること、よって、これらを飯富兵部少輔の方から詳報することを伝えている。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 140号 長尾景虎願文(写)、141号 長尾景虎書状(写)、142・143号 長尾景虎書状 『新修七尾市史7 七尾城編』 【文献史料編 第三章 未曽有の内乱の中で】 118号 畠山晴俊書状写、119号 畠山晴俊年寄連署奉書写、122号 畠山悳祐・同義綱連署状、123号 畠山悳祐・同義綱連署状写、124号 遊佐続光書状  『戦国遺文 武田氏編 第一巻』 495号 武田晴信書状、531号 武田晴信書状写、533・534号 武田晴信感状、535号 武田晴信感状写、536・537・538号 武田晴信感状、539号 武田晴信感状写、540号 武田晴信感状、541号 武田晴信感状写、542・543・545・546号 武田晴信感状、547・548号 武田晴信感状写、549号 千野靭負尉勲功目安案、550号 武田晴信書状、551号 武田晴信感状


弘治3年(1557)4月7月 長尾景虎(弾正少弼) 【28歳】

4月18日、信州へ向けて出陣する。

21日、(「長尾弾正少弼景虎(花押c)」)、信濃国善光寺(水内郡)に着陣すると、参陣途中の「色部弥三郎殿(勝長)御宿所」に宛てて書信を発し、このたび善光寺の地に着陣したこと、甲州武田方の山田要害・福島城(ともに高井郡)が自落したので、退去していた信濃味方中が、それぞれ還住を遂げたので、取り敢えず御安心してほしいこと、味方中の皆々から寄せられた事情もあるので、早々に御着陣されるのを心待ちにしていること、まさしく御進陣中であるのは、ひたすら喜ばしいこと、これらを懇ろに伝えている。

25日、数ヶ所の敵陣や要害の根小屋を焼き払い、信濃国旭山城(水内郡)を再興して拠点と定め、甲州武田晴信を戦場に引き摺り出して決戦を挑むための駆け引きを始めると、武田側は和睦(将軍足利義輝から双方に停戦命令が下されている)を含めた様々な働き掛けをしてきたことから、今後の推移を見定めるために一旦、同飯山城(水内郡)へと後退する。

5月10日、(「平 景虎」)、飯山の小菅山元隆寺(高井郡)に願書を納め、甲州武田晴信が一戦を避けているので、暫く飯山の地に滞陣していたが、明日に上郡へ進出することを表明し、神助をもって勝利を得られれば、河中島に於いて一所を、末代まで寄進することを誓った。
同日、(長尾「弾正少弼景虎(花押c)」)、出羽国の味方中である「土佐林能登入道殿(杖林斎禅棟。出羽国衆・大宝寺新九郎義増の重臣。出羽国藤島城主)」に宛てて返書を発し、このたび信州へ出陣するにあたり、先頃に使者の野島平次左衛門(旗本衆)を、(色部勝長に参陣を要請するため)瀬波(岩船)郡に下向させた幸便をもって直筆の書状を届けたところ、御懇報が寄せられたので、まさに本望満足であること、先月18日に信州へ向けて出陣すると、同25日には、数ヶ所の敵陣と根小屋を焼き尽くし、旭山要害を再興して本陣を据えたこと、この上は、ひたすら武略を駆使して(武田)晴信を引き摺りだし、彼の軍勢と一戦する覚悟を決めていたところ、敵地から様々な和平案を提示してきたので、一先ず静観していること、御承知の通り、今なお爰許は抜かりなく堅陣を維持しているので、御安心してほしいこと、これらを懇ろに伝えた。

12日、犀川を越えて香坂(埴科郡。海津のことらしい)の地を強襲して周辺を焼き払う。

13日、坂木・岩鼻(ともに埴科郡)の両地を蹂躙したところ、一・二千ほどの甲州武田軍前衛が姿を現したので、迎撃態勢に入ったが、相手が後退してしまい、捕捉するには至らなかった。

こうしたなか、飯山城の高梨刑部大輔政頼から陣中見舞いの飛脚が到来すると、15日、(「長尾景虎(花押c)」)、すぐさま「高梨殿(政頼)御報」に宛てて返書を発し、当口の戦陣について、このほど御飛脚を寄越されたので、すこぶる満足していること、去る12日に香坂に攻め込むと、彼の地一帯を焼き払ったこと、翌13日には板木・岩鼻の地を蹴散らしたこと、すると一・ニ千ほどの凶徒が現れたので、一斉に攻めかかろうとしたところ、凶徒は五里から三里も遁走してしまい、打ち漏らしたのは、実に無念であること、今後については天気が好転すれば、また進撃を再開すること、何かしら異変があれば急報すること、これらを懇ろに伝えた。更に追伸として、先刻にも申し入れた通り、御用件があるため、草出(草間出羽守。高梨氏の重臣)を寄越されるのを心待ちにしているので、今が正念場であり、大変な御負担であっても御尽力してくれるように頼み込んだ。

その後、飯山以北で武田方に属する信濃奥郡国衆の市川藤若(のち信房を名乗る)が拠る「野沢之湯」要害(高井郡)の攻略に向かうと、高梨刑部大輔政頼を通じて帰属を勧告した(野沢に赴いたのは草間出羽守か)が、市川藤若に拒否される。

6月11日、再び飯山城へと戻った。


一方、この情報に接した甲州武田「晴信(大膳大夫)」は、16日、「市川藤若殿」に対して書信を送り、取り急ぎ客僧をもって申し伝えること、去る11日に長尾景虎が飯山に移陣したそうであること、そして、このたび耳にした風聞によれば、長尾方の高梨政頼が野沢に現れ、其方(市川藤若)と景虎の和融を持ち掛けたそうであり、こうした互いにとって疑念が生じるような風説は伝えたくはないが、何事も隠し事をしないとする誓約の旨に従い、本心を残らず申し伝えること、幸いにも当陣は堅固であるばかりか、来る18日には、上州衆の全軍が当筋(信濃国深志城)に、相州北条氏康からは加勢として北条左衛門大夫(玉縄北条綱成。一族衆。相模国玉縄城主)が上田筋(小県郡)に到着するゆえ、日増しに越国衆の威勢が減退していくのは明らかなので、この機会に景虎を滅ぼしたいとの晴信の宿願を達する決意であり、速やかに出撃してほしいこと、事態の推移により、そのたびに使者を派遣して一切を報知すること、これらを懇ろに伝えている。
23日、「市川藤若殿」に対して返書を送り、このたび寄せられた注進状によると、(長尾)景虎が「野沢之湯」に侵攻し、その要害に攻めかかる素振りを見せる一方、其方の籠絡を図るも、同意しなかったばかりか、要害の防備を尽くされたゆえ、長尾は何ら成果を得られずに飯山城へ後退したようであり、実に心地よく、このたびの其方の振舞いは何れも頼もしい限りであったこと、長尾が野沢に在陣中、飛脚をもって中野筋(高井郡)への援軍要請を受けたゆえ、加勢として、上原与三左衛門尉(直参衆)に先導させた西上野の倉賀野衆と、当手から信濃国塩田城(小県郡)の在城衆である原与左衛門尉(直参衆)に足軽衆を始めとした五百名を、中野に在陣する真田(幸綱。信濃先方衆。信濃国真田城主)の許に急行させたが、すでに越国衆は退散していたので、無念極まりなく、いささかも対応を怠ったわけではないこと、こうした事態が二度とないように万全を期して、今後は湯本(野沢)から要請があり次第、当方を通さずに、塩田城代の飯富兵部少輔(譜代衆)の一存で援軍を催す許可を与えたので、御安心してほしいこと、よって、これらを使者の山本菅助(直参衆)が詳述することを伝えている。


こうしたなかで、越後国西浜口に侵攻してきた武田軍の別働隊を、急派した越後衆が鉄砲を撃ち掛けるなどして退けた。

この際、武田方の信濃先方衆である千野靭負尉(譜代衆・板垣信憲の同心)は、使者として西浜口の武田軍別働隊の陣所に赴いたところ、越後衆の襲撃に遭遇して鉄砲傷を負っている。

また一方、甲州武田「晴信」は、自ら信府深志城(筑摩郡)から信濃国川中嶋(更級郡)の地に進出すると、7月5日、板垣左京亮(信憲。譜代衆)を始めとする別働隊をもって、信・越国境の信濃国小谷(平倉)城(安曇郡)を攻め落としている。
6日、前線の水内郡で活動する宿将の「小山田備中守殿(虎満。譜代衆。信濃国内山城代)」に対して返書を送り、各々が奮励されているゆえ、其許の陣容は万全であるとの報告が寄せられたので、ひときわ満足していること、当口については、敵方の信濃衆である春日(信濃国鳥屋城主か)と山栗田(善光寺別当・里栗田氏の庶族)を追い払い、寺家(善光寺)・葛山衆に人質を差し出させたこと、嶋津(長沼嶋津氏の庶族である赤沼嶋津氏)については、今日中に服従する意思を示しており、すでに以前から誼みを通じているため、別条はないであろうこと、この上は詰まるところ、信濃先方衆の東条(越後に逃れた東条氏の庶族。或いは武田氏の東条(雨飾城)在陣衆か)と綿内(同じく井上氏の庶族。信濃国綿内城主)ならびに真田方衆と協力し、敵方の調略に努めるべきこと、よって、今が信濃奥郡を制する好機と見極めており、いささかも油断してはならないことを伝えている。更に追伸として、密かに綱島(更級郡大塚。犀川河畔)の辺りに布陣するつもりでいたところ、若し越後衆が進撃してきた場合、彼の地は防戦に適していないとする諸将の意見に従い、佐野山(同塩崎)に布陣したことと、この両日は人馬を休ませたので、明日に軍勢を進めることを伝えている。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 147号 長尾景虎願文(写)、148・149号 長尾景虎書状 『戦国遺文 武田氏編 第一巻』 549号 千野靭負尉勲功目安案558号 武田晴信書状、561号 武田晴信書状写、562・563号 武田晴信書状、564・565・566・567号 武田晴信感状、568号 武田晴信感状写、569号 武田晴信感状、570号、武田晴信感状写、571号 武田晴信感状、609号 武田晴信書状写 

◆ 『戦国遺文』609号文書の追而書は、同じく第二巻の1410号文書のものであり、引用に一抹の不安を感じるが、本文の内容に問題はないようである。


弘治3年(1557)8月 長尾景虎(弾正少弼) 【28歳】

先月の信濃国小谷城陥落により、越後国西浜口(頸城郡)が危うくなったので、上田長尾越前守政景(景虎の姉婿。越後国坂戸城主)らを信濃国飯山城に残留させて、大きく後退したところ、その長尾政景から、同じく飯山城に留めた越後奥郡国衆の安田治部少輔長秀(政景とは姻戚関係にあると伝わる。越後国安田城主)を通じ、前線で孤立することへの不安を愁訴されたので、4日、(長尾「弾正少弼景虎(花押a3ヵ)」)、「越前守殿(長尾政景)」に宛てて書信を発し、このたび安田方をもって条々を仰せられたので、つぶさに御存分を聞き届けたこと、今次の信州陣に御参加されたばかりか、こうして御留守が長引くところに、万が一の事態が発生した場合、決して御進退を見放さないでほしいとの御存分を、くれぐれも承知していること、このような御懸念は御尤もであること、すでに信州の面々衆と一旦でも結んだ交誼の証として、今日に至るまでの間、長年に亘る加勢の苦労は並々ならぬものであったこと、まして浅からぬ因縁などがあるにも係わらず、貴所(長尾政景)の御事を見放せるわけがなく、この存分を書簡をもって安治(安田治部少輔長秀)に詳説したこと、ひとえに貴所の御心腹を頼もしく思っていること、それでもまだ御疑念があるならば、誓詞をもって示すこと、よって、これらの詳細については、彼方(安田長秀)が雑談することを伝えた。
14日、(長尾「景虎」)、旗本衆の重鎮である「庄田惣左衛門尉殿(定賢。公銭方)」に宛てて書信を発し、はやばやと西浜口に着陣したそうで、その殊勲は紛れもないこと、彼の口へ諸勢を派遣したからには、綿密に談合して陣容を整えるべきこと、この正念場は方々の奮励に掛かっていること、これらを取り急ぎ伝えた。更に追伸として、これらの旨を皆々に周知することと、取り分け小越と平林(ともに旗本衆)に申し伝えることを促した。

その後、上田長尾越前守政景らが飯山方面に進出してきた甲州武田軍の信濃駐留部隊を信濃国上野原(水内郡)の地で撃退すると、29日、(長尾「景虎」)、上田衆の「南雲治部左衛門(尉)とのへ」に感状を与え、このたびの信州上野原の一戦に於ける並外れた軍功を称えるとともに、今後の更なる奮闘に期待を寄せた。
同日、長尾「政景」が、被官の「大橋弥次郎殿」に感状を与え、このたびの信州上野原の一戦に於ける並外れた軍功を称えるとともに、今後の更なる奮闘に期待を寄せている。
同日、長尾「政景」が、被官の「下平弥七郎殿」に感状を与え、このたびの信州上野原に於ける武田晴信との一戦に勝利した際の見事な軍功を称えるとともに、今後の更なる奮闘に期待を寄せている。


一方、甲州武田「晴信(大膳大夫)」は、別働隊が飯山口に進攻して敵勢と交戦したのを受けて、8月15日、東条(雨飾城)在陣衆に対して書信を送り、本日に於ける皆々の奮戦は快然であること、但し、今後は千曲川を渡河する際には、十分に瀬踏みをして軽はずみな進軍を慎むべきこと、この上は皆々で相談し合い、堅実な攻戦を心掛けるべきこと、これらを取り急ぎ伝えている。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一 』 135号 長尾景虎書状(写)、150号 長尾景虎書状、152号 長尾景虎感状(写)、153・154号 長尾政景感状(写) 『戦国遺文 武田氏編 第一巻』 574号 武田晴信書状写 ※ 松澤芳宏氏のウエブサイト『松澤芳宏の古代中世史と郷土史』 上野原の戦い、飯山市静間田草川扇状地説
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越後国上杉輝虎(長尾宗心・景虎)の略譜 【7】

2012-08-20 21:51:50 | 上杉輝虎(謙信)の略譜
弘治2年(1556)6月 長尾宗心(弾正少弼入道) 【27歳】

このたび引退を決意すると、6月28日、(「長尾弾正少弼入道宗心」)、恩師である長慶寺光育(天室。越後国柿崎の楞厳寺の住持)の衣鉢侍者に宛てて書信を発し、謹んで言上すること、このたびの宗心の一身上については、両使に条々を説明させるので、是非とも御理解してほしいこと、更には各々にも仰せ聞かせてもらいたく、こうして一書を捧げること、一、当国が数年に亘って錯乱していたのは、良く御存知の通りであること、そもそも宗心の先祖以来、屋形(前上杉氏)対しては、ひたすら忠義を励んで誤りがなかったにも係わらず、当家の根絶に乗り出した屋形は一代ではないこと、そうしたなかで先年には、関東の屋形である可諄(山内上杉顕定)が道七(長尾為景)を退治するとして、関東から当国に御進陣されたこと、これにより、ひとまず道七は越中国へと退去したのち、翌年には佐渡国を経て当国蒲原津(蒲原郡)に上陸し、同寺泊(山東郡)・椎谷(刈羽郡柏崎)の地に於いて、関東勢と一戦して大勝されたばかりか、同長森原(魚沼郡上田荘)の地に於いて可諄を御没命に至らせたこと、それ以外にも国中所々で挙げた軍功は枚挙に暇がなく、このように道七が戦術を励まれたゆえ、二度も当国に元通りの平穏を取り戻すと、道七の骨折りによって、一家を始め、外様・諸傍輩の全てが忠賞を宛行われたこと、この厚恩を忘れてはならないところ、彼の面々は芳恩を忘れて一味同心し、道七に謀叛を企てたこと、それでも道七は軍配を振るい、二十ヶ年に亘って敗れはしなかったこと、しかしながら、その道七が死去すると、凶徒が越府に押し寄せてきたので、この宗心も甲冑を着用して葬送に臨んだこと、それ以後には、兄である晴景を病者と侮ってか、奥郡の者共は府内に出仕せず、遺恨があると称して勝手放題に振る舞ったゆえ、宗心は若輩ながらも、このままでは亡父ならびに当家の名誉が失われてしまうため、図らずも上府して春日山城に移ったところ、意外にもあっさり国中が平穏無事に収まったので、ともかく皆々が昨今に至るまで盛況であること、一、信州陣については、隣国であるのは勿論ながら、村上方(義清)を始め、井上(昌満ヵ)・須田(満国ヵ)・嶋津(忠直)・栗田(善光寺別当の里栗田氏から分かれた山栗田氏)などの味方中とは、絶え間なく交流を図ってきた関係であり、取り分け高梨(政頼)とは格別な厚誼を結んでいるため、何はともあれ彼の味方中を放っておけなかったこと、彼の国の過半を晴信(甲州武田晴信)が掌握し、もはや国情が一変してしまったので、二度に亘って出陣したこと、昨年については、甲州武田方の拠点である旭山要害(水内郡)に向かって新地を構築し、彼の要害を封じ込めた上で、(武田)晴信と興亡の一戦をする不退転の決意で臨んでいたところ、甲陣は勢いを失い、駿府(駿州今川義元)を頼み、無事を様々に懇願してきたこと、すると誓詞ならびに条目を整えられた上で、あれこれ(今川)義元が御調停に及ばれたゆえ、多様な障害に折り合いをつけ、旭山城の破却をもって和与が成立したのに伴い、帰国の途に就いたこと、これにより、現在も彼の味方中は安泰であること、自賛のようであるが、宗心の助勢がなければ、皆々が滅亡したのは疑いないこと、一、当家が関東から移って以来、歴代は不安や支障に見舞われながらも、当国の経営を担ってきたこと、万が一にも当代(宗心)で領国経営に不備を生じさせるのは、堪え難い屈辱であり、ますます当家の威勢を上げるため、家中も心から結束してほしいと願っているにも係わらず、皆共の思うところは一致しないようで、あらゆるものから見放された状況であること、このような有様では、とても国政を担ってはいけないため、ついには退陣を決断するほかなかったこと、おおよそ、先祖の魯山(長尾高景)は、無双の勇将としての名が震旦(明)まで知れ渡り、絶海和尚(中津。禅僧。夢窓疎石国師の弟子)が入唐した折には、天子から当朝に於ける勇将を有無を尋ねられたので、魯山の武功を御聞かせしたところ、魯山の形像を御所望されたので、和尚は帰朝後、ついには絵図を画師に描かせて大唐に送り届けたそうであること、そればかりか、同じく実景(高景の孫)は、野州結城(氏朝)御退治の折、赤漆の御輿を御免許されると、京都(将軍足利義教)の御代官として出陣し、東国第一の名地である要害(下総国結城城)を攻め落とされたので、並々ならぬ御感により、綸旨ならびに都鄙(京都・鎌倉公方)の代々に於ける御内書を数通も頂戴し、今なお当代が所持していること、通窓(長尾頼景。実景の従弟)・実渓(長尾重景)父子は、関東に在陣して、至る所で軍功を挙げたこと、祖父の正統(長尾能景)は、当方(越後国上杉房定)の代官として関東へ出陣し、武蔵国椚田城(多西郡)・相模国真(実)田城(西郡)を攻め落としたこと、その際に当手の者共が手を焼いた奮戦は、恐れながらも天下に誉れ高い武威であったこと、亡父の道七は二八(十六歳)の頃、正統に従って関東へ出陣したのを始め、信濃国・越中国、そして当国に於いて戦功を挙げたこと、漢の高祖(劉邦)は、その生涯で七十余戦したそうであるが、道七は百余戦していること、あまりに冗長な説明なので、恐れ入りながらも、このついでに申し表すばかりであること、そして宗心は、幼稚の時分に父を失い、間もなくして古志郡に下向したところ、若年と見くびった近郡の者共が方々から、栃尾城に向かって城砦を築いたり、奇襲を仕掛けたりしてきたので、ひたすら防戦に努めたこと、文武については、太公(呂尚か)の兵法と越王の勾践が賢臣の范蠡の補佐によって会稽の恥を雪がれた故事に倣うべく、当時の宗心は幼くして兵法の師を持たず、それでも折目正しい弓矢の家に生を受けたからにはと、代々培った戦術を駆使し、数多の戦場に於いて大勝したので、討ち取った凶徒は数知れないこと、その結果、わずかに当家を再興したばかりか、先年の物詣に際して上洛参内に及び、天盃御剣を頂戴したのは、当家創始以来の快挙であり、はなはだ身に余る名利であること、それ以外にも数々の特権を御免許されたこと、この詳細については御存知の通りなので、敢えて申し上げないこと、こうして現在は国中も豊饒であり、爰許に長居して筋違いの干渉でもされれば、今までの功績も台無しになること、また、召し使う者共への体裁も悪く、ますます立場がないので、古人曰く、功成り名を遂げて身退く、と聞き及んでいるので、拙者もこの語に倣い、遠国に移り住む決心を固めたこと、幸いにも家中譜代の者には、優秀な人物がいるので、集議して国政を担うように、東堂様(天室光育)から彼の者たちに御高説願いたいこと、宗心が相応に意見した時分には、何れも受け付けられなかったので、ともかく遠境に移り、この国の有様を見守るつもりであること、皆々で相談し合えば、日増しに国政が安定するのは間違いないであろうこと、但し、隣国の様子を見聞する際には、取り立てて支障はないであろうが、確か種類は定かでないものの、鳥の寿命のようであるとの諺の通りに、注意を払われた方が良いであろうこと、返す返すも、今般の出奔については、別の理由があるとの勘繰りから、無闇に噂を流す輩もいると思われるので、愚意を皆々に御高説願うため、俄かに大略を条書として認めたこと、それゆえ草稿を練らず筆の赴くままに認めたので、きっと文章が前後していたり、重字や落字なども目だって多く、嘲笑されるのは明らかなので、他見は憚られるところ、それを差しおいても、この道理ばかりは御理解してもらいたいゆえであること、よって、これらを然るべく東堂様に披露してほしいことを伝えた。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 134号 長尾宗心書状(写)、258号 長尾景虎願文(写)


弘治2年(1556)8月 長尾景虎(弾正少弼) 【27歳】

国主不在の混乱に乗じ、甲州武田晴信(大膳大夫)に内応して越中国に出奔した大熊備前守朝秀(越後国箕冠城主)が、国内外に味方を募って越後攻略を企てるなか、姉婿の上田長尾越前守政景(譜代衆。越後国坂戸城主)から説得を受けると、17日、(長尾「景虎(花押a3)」)、長尾政景に宛てて書信(礼紙ウワ書「越前守殿  景虎」)を発し、これまで何度も申し述べた通り、越後でのあらゆる物事に嫌気が差すなどしたこと、貴所(長尾政景)も御存知の通り、自分は病者であるばかりか、健気に世話をしてくれる者を持たないので、越後を立ち去って以来、一切の交渉と望郷の念を絶っていること、こうして久しく他国に滞留するも、嫌気が差して下国したいとは、いささかも思っていないこと、自分が隠退などしたところで、もはや国衆に何の御支障もないであろうこと、この思いに偽りはないものの、貴所を始めとして国中の面々が、自分の復帰を望んでいる思いを無視はできないばかりか、弓矢から道から逃げ出したように、あれこれ非難されるのは本意ではないので、つべこべ言わず何もかも貴所の御意見に任せて国主に復帰すること、これらを神名に誓った。

これにより、法号の宗心を廃して俗名の景虎に戻す(花押もa型に戻した)。

この間、大熊備前守朝秀は旧知である陸奥国衆の山内刑部大輔舜通(奥州黒川の蘆名氏に属する。陸奥国横田城主)に音信を通じて協力を求めると、13日、その山内「舜通」が、「大熊備前守殿(朝秀)」に対して返書を送り、来書の通り、久しく交信が途絶えていたところ、このたび簡中が届いたので、満足極まりないこと、更には(武田)晴信からの御音書も添えられていたので、ひたすら恐縮しており、このところを彼方(武田晴信)にも御伝達願いたいこと、越後乱入については、小田切安芸守(蘆名氏の族臣。会津領越後国赤谷城主)が奔走する手筈が整っているそうであり、当方も必ず黒河(越後奥郡国衆の黒川下野守(実名は平実か)、或いは蘆名氏か)と談合して、努めて奔走するつもりであること、これらを懇ろに伝えている。

23日、越中口から侵攻した大熊備前守朝秀を越中・越後国境の越後国駒帰(頸城郡)の地で撃破すると、25日、(長尾「景虎」)、戦功を挙げた「上野中務丞殿(家成。越後国節黒城主)」に感状を与え、去る23日に大熊備前守(朝秀)以下が越中口から当国に乱入した際、駒帰の一戦に於いての奮闘は、並外れた殊勲であること、今後ますます戦功を心掛けられて忠節を励まれるべきこと、これらを懇ろに伝えた。

この結果、越後奥郡に於ける会津衆の策動も失敗に終わり、反乱の首謀者である大熊備前守朝秀は甲州に落ち延びて甲州武田家に仕えた。
若し、山内刑部大輔舜通と談合した黒河が、越後奥郡国衆の黒川下野守(越後国黒川城主)であるならば、数年後に幼い竹福丸が当主として所見されるため、当主の座から降ろされた可能性がある。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 136号 長尾景虎書状、137号 長尾景虎書状(写)、211号 長尾景虎掟書(写) 『新潟県史 資料編5 中世三』 3755号 山内舜通書状写、3756号 長尾為景書状写


弘治2年(1556)9月 長尾景虎(弾正少弼) 【27歳】

このたび公田段銭を徴収すると、朔日、大熊備前守朝秀の退転後、新たに構成された公銭衆の某「貞盛」・庄田「定賢(惣左衛門尉)」・某「秀家(蔵田五郎左衛門尉か)」が、越後上郡国衆の山田彦三郎に宛てて請取状を発し、頸城郡夷守郷河井村・同阿弥陀瀬村に於ける益田分の段銭について、確かに受領したことを通達している。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 138号 庄田定賢等三名連署段銭請取状(写)
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越後国上杉輝虎(長尾宗心)の略譜 【6】

2012-08-19 05:29:08 | 上杉輝虎(謙信)の略譜
天文23年(1554)3月8月 長尾宗心(弾正少弼入道) 【25歳】

3月15日、越後国魚沼郡波多岐荘の国衆である上野源六家成(越後国節黒城主)と下平修理亮(実名は吉長か。越後国千手城主)の間で起こった境界地相論を裁定し、下平側の証文を有効と認める。
16日、三奉行の大熊「朝秀(前上杉氏の譜代衆。越後国箕冠城主)」が、同僚の本庄実乃(大身の旗本衆。同栃尾城主)」の許に書簡(封紙ウワ書「本新 参御宿所  朝秀」)を送り届け、昨日は殿様(宗心)の御機嫌斜めならず、貴所(本庄実乃)も我々も気分良く帰宅するところとなり、すこぶる満足であること、この思いは貴所も御同意であろうこと、このたびの上野方と下平方の公事について、殿様は下修(下平修理亮)の言い分を是とされ、上野方へ道理を説かれるようにとの仰せであり、これ以上ない最善の結果を得られたこと、この結果については、もはや論じるまでもないのは明らかであり、早速にも御落着を遂げ、下平方に御返事を届けるべきであること、よって、すぐにも詳細を莅蔵(莅戸蔵人。栃尾本庄氏の被官か)に説明するので、この書面を要略したこと、これらを懇ろに伝えている。更に追伸として、とにかく早速にも御落着を遂げ、下平方へ御一札を進められるのが適当であることと、これらの詳説を莅蔵に頼んだことを伝えている。
同日、本庄実乃が、上野氏の菩提寺の住持である妙雲院小式(興徳寺の住持を兼ねる。上野氏の出身か)に宛てて書信(礼紙ウワ書「妙雲院 御同宿中  本庄新左衛門尉 実乃」)を発し、このたびの上野殿と下平方の間で起こった境界地相論について、繰り返し貴院(妙雲院小式)が様々に上野殿の御説得を尽くされたのは、よく存じていること、この相論に於いて拙者(本庄実乃)が上野殿の指南を務める立場であり、何はともあれ丁寧に御存意通りの説明を繰り返したこと、しかしながら、双方が言葉巧みに主張をぶつけ合うばかりというのは、好ましい状況ではないので、互いの理非を一書にまとめ、すり合わせて判断を下すため、内輪で事情を知る方々に聴取したところ、下平方の主張が正当であるとの結論に達したこと、この結果を弁えて拙者が上野殿へ直に道理を説き勧めるも、はっきりとした御返事を得られなかったこと、万が一にも調停を受け入れないのであれば、裁決によって是非を問われるほかないこと、ここはどうか貴院が上野殿に道理を説き勧められて、下平方へ土地を引き渡されるのが、尤も適当であること、つまりは貴院の御説得にかかっていること、この一件について大備(大熊朝秀)が拙者に寄越された書簡を御披見のために送付すること、くれぐれも御熟慮されるべきこと、上野殿からの調停に応じられた御報が拙者に寄せられ次第、下平方は帰宅されるそうであること、これらを懇ろに伝えている。更に追伸として、まだ上野殿は御若いので、貴院が御教導されるべきこと、拙者も彼方に対し、決して不利益を被らせるような指南はしないこと、御報が寄せられ次第、適切に取り成して下修(下平修理亮)に連絡すること、一切は上野殿の御利益に結びつくように、こうして申し入れたのであり、思わしい御返事が寄せられるのを待望していること、これらを念入りに伝えている。
23日、在府中の上野家成が、本庄実乃の許に書簡(礼紙ウワ書「本庄新左衛門尉殿 参御宿所  上野源六 家成」)を送り届け、このたび敢えて申し上げること、拙者(上野家成)が下平を告発した件については、殿様(宗心)が御隠居を表明されたので、諸公事が停止してしまった旨を、貴殿(本庄実乃)から直に承り、下平も拙夫も帰宅するべき旨を、大備(大熊朝秀)から書簡をもって承ったこと、これらを受けて、内々に帰宅するつもりでいたところ、下平の心底を見定めたいとの思いから、まずは帰宅を延引したこと、そうしたなか、推測していた通り、この20日に下平が被官の高橋を上田堵の地に入部させたとの事実が、在地からの飛脚によってもたらされたこと、まさに時宜を弁えない行為であり、はなはだ口惜しいこと、かつて道七様(長尾為景。宗心の父)御在世の時分には、一貫して彼の公地に手出しをしなかったこと、その後に黒田方(秀忠。長尾為景の側近であった)が彼の地域の経営に奔走していた時分には、その混乱に乗じ、空白地となっていた彼の地を、一両年に亘って横領したこと、そして、先年に殿様が当地(春日山城、或いは節黒城か)に御移りの際、大備(大熊朝秀)からの内意により、針生(藤兵衛尉ヵ。上野・下平の隣人か、或いは公銭方の役人か)の調停をもって返上したこと、御両所(奉行衆)の間でも御落着されていないにも係わらず、あのような下平の暴挙は不埒千万であること、つまりは前述の経緯を御承知してもらえないとしても、往時の御法に則って御差配されるべきであること、先書に於いて詳説を済ませており、この書面は要略したこと、これらを懇ろに伝えている。

8月13日、大熊備前守朝秀が、在府中の「上野源六殿(家成)御宿所」に宛てた書簡を使者に託し、敢えて書札をもって申し上げること、去春以来の下平方との境界地相論について、双方が御出府して提出された御証文などを精査した結果、下平方の証文に真正を認めると、本庄実乃も聞き分けられたので、書面で通達した通り、下平方の勝訴で落着したにも係わらず、このたび上訴に及ばれたのは、今更めいていること、そればかりか、つい先日には御家風の佐藤方をもって、彼の地に標杭を打ち込まれたとの事実を承ったこと、実に言語道断の不愉快な事態であること、しかしながら、ひょっとして御家風の吉川方(上野家成の側近か)を通じて在地に内命を下し、あのような暴挙に出たのかも知れないと思い、彼の者を問い質したところ、一切の関与を否定されたこと、このたびの公事については、いくら不服を仰せ立てられたとしても、ひとたび結審した以上、再審の請求は認められないこと、こうして結審したからには、下平方に所務するように申し伝えるので、その旨を十分に御理解されるべきこと、よって、これらを彼の者が詳述するので、略筆したことを伝えている。更に追伸として、本来であれば、本庄実乃も加判するべきところ、去春の結審以来、奉書への加判を拒否しているため、某(大熊朝秀)のみで申し入れた訳であり、これについても、彼の者に詳述を申し付けたことを伝えている。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 113号 大熊朝秀書状、114号 本庄実乃書状、115号 上野家成書状、117号 大熊朝秀書状 『新潟県史 資料編4 中世二』 1586号 上野家成譲状、1589号 曹源寺妙昭譲状


天文24年(1555)正月2月 長尾宗心(弾正少弼入道) 【26歳】

越後国安田条(刈羽郡鵜河荘)の領主である安田毛利越中守景元(前上杉家の譜代衆。越後国安田城主)から、三奉行のひとりである直江与兵衛尉実綱(大身の旗本衆。越後国与板城主)を通じ、同じ毛利一族で越後国北条(刈羽郡佐橋荘)の領主である北条毛利丹後守高広(前上杉家の譜代衆。越後国北条城主)が隣郷の善根の地を武力で占拠したとの急報が寄せられると、正月14日、(「長尾入道宗心(花押b)」)、「毛利越中守殿(安田景元)御宿所」に宛てて返書を発し、先だっては直江与兵衛尉(実綱)の所に御丁寧な御報を寄越されたので、ひたすら満足していること、すでに柿中(柿崎景家か。前上杉家の譜代衆。越後国柿崎城主)が在陣している上条(刈羽郡鵜河荘)の地へ、此方から二名の旗本を派遣したこと、上条(前上杉家の一家衆。越後国上条城主)と琵琶嶋(同じく譜代衆か。同琵琶嶋城主)ら在陣衆に御助言されて、首尾よく敵陣に対抗してもらいたいこと、その方面の状況をまめに御注進してもらいたいこと、これらを懇ろに伝えた。

それから程なくして自らも出陣し、早々に北条丹後守高広を屈服させて事態を収拾すると、2月3日、三奉行の本庄新左衛門入道宗緩(実乃。大身の旗本衆。越後国栃尾城主)・大熊備前守朝秀(前上杉家の譜代衆。越後国箕冠城主)・直江与兵衛尉実綱が、「安田越州(景元)参」に血判起請文を渡し、このたびの善根の一件については、図らずも宗心が当口に御出陣されたところ、御前(安田景元)と北条は御骨肉の間柄であり、御代々の御筋目もありながら、ひたすら宗心の面前で精励する御覚悟をもって、率先して宗心との御談合に臨まれたのは、実に御頼もしい限りであり、すこぶる御満足された宗心は、なおいっそう貴方を厚く処遇される御存分であること、仮に景元御父子が何方に遺恨がらみの言い掛かりをつけられたとしても、真に受けて見放されない御存分であること、そうは言っても、なおも御前が世間からの称賛を求められて、不用意な御発言をされた場合には、却って不名誉になるため、注意を払われるべきこと、よって、ますます相互の間で御支障がないように努めることを神名に誓っている。

そして帰府して間もない、13日、(「長尾入道宗心(花押b)」)、「毛利越中守殿(安田景元)御宿所」に宛てた書簡を飛脚に託し、このたびの事態に於いて、率先して格別に御奮励されたのは、ひたすら御頼もしく、すこぶる満足であったこと、取り分け在陣中の様々な御心遣いには、感謝してもし尽くせないこと、こうした存分については、何はさておき丁重に使者を立てて申し延べるべきところ、それでは準備に時間を要してしまい、却って礼を欠くため、先ずは脚力をもって音信を通じること、諸々については、来信を期すること、これらを取り急ぎ伝えた。

この騒動により、北条毛利丹後守高広は、越後国長尾家に属する領主中の席次を大きく下げられている。減封などの処分を受けた可能性は高いが、今のところ史料では確認できない。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 121号 長尾宗心書状、122号 本庄宗緩等三名連署起請文、123号 長尾宗心書状 『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』 3542号 祝儀太刀次第


天文24年(1555)7月閏10月 長尾宗心(弾正少弼入道) 【26歳】

甲州武田軍の攻勢に窮する信濃味方中の高梨刑部大輔政頼(信濃国中野城主)から使者が到来すると、7月3日、取次の直江与兵衛尉実綱が、高梨氏の年寄中に宛てて返書を発し、このほど寄せられた御芳書の通り、思い掛けない事態によって、その地(飯山城)に御在留されているため、本来であれば、当方から内々に御音信を通じるべきところ、近いうちに信濃国東条(雨飾城。埴科郡英田荘)を攻撃したいとの御意向を示されたゆえ、只今は衆議の途中であり、このほかは一切手が回らず遅れに遅れてしまい、ここに至るまで御報を送れず、あたかも其許(高梨氏)を軽んじたようで、ひたすら悩ましいこと、しかしながら、このたび御馬を越中に上せられるため、過書の発給を御求めになられたので、速やかに整えて御使者に渡したこと、このように、何事でも爰許(直江実綱)に相応の御用所を申し付けてもらえれば、いささかも抜かりなく奔走する覚悟であること、よって、御取次の安倍修理亮が仰せの趣旨は、彼の御使者の御口上により、つぶさに承ったので、その詳細を十分に理解したこと、このように御存意を理解した上で申し伝えるものであり、ここのところを高梨殿の御意を得られるように御取り次ぎ願いたいこと、これらを懇ろに伝えている。

その後、信州へ出陣すると、甲州武田方の信濃奥郡に於ける拠点の旭山城(水内郡)に向城を築く。

これに対して信濃国川中嶋地域の大塚(更級郡)に本営を置く甲州武田晴信(大膳大夫)は、旭山城に三千名の将兵と弓八百張・鉄砲三百挺を配備している。

7月19日、川中嶋の地に於いて甲州武田軍と戦う。

武田晴信は、その日のうちに多数の将士に感状を与えている。

この合戦で勝敗は決せず、その後は対陣へと移行する。

こうしたなか、8月20日、越後国長尾軍の信州出陣と連動し、賀州一向一揆と戦うために彼の国へ出陣した越前国朝倉軍の主将である朝倉太郎左衛門入道宗滴(太郎左衛門尉教景。越前国朝倉家の当主である朝倉義景(左衛門督)の陣代)から、彼我の状況を確認し合うために陣僧が派遣されている。

22日、(長尾「景虎(戦陣には俗名で臨んだらしい)」)、7月の川中嶋合戦で剛の者を討ち取った旗本衆の「福王寺兵部少輔殿(重綱、孝重と定まらない。もとは越後中郡国衆。越後国下倉山城主)」に感状を与え、このたび信州川中嶋に於いて功名を遂げ、取り分け「面白者」を討ち取ったのは、並外れた殊勲であること、今後なおいっそう奮闘するべきこと、よって、小嶋分一騎前を宛行うことを通達した。

10月に入り、打ち続く滞陣に士気が低下した越後衆に誓詞の提出を求め、一、景虎(宗心)が何ヶ年御張陣されようとも、他者がどうあれ自分一騎だけは、またとない御指図通りに在陣を続け、御馬前に於いて奮励すること、当陣中に於いて、自分の配下が無道狼藉を働いた場合には、直ちに成敗すること、また、御下知されるまでもなく、この旨を配下に周知徹底させること、陣容について良案が浮かんだならば、残らず本心を上申すること、攻勢に出る際には、どのような場所にでも、我が事として認知し、御方策の通りに奮励すること、一先ず御帰陣されたのち、再び御出陣される際には、すぐさま自分一騎だけでも馳せ参じて奮励すること、これらを厳重に誓わせた。

甲州武田「晴信(大膳大夫)」は、10月23日、信濃先方衆の「大須賀久兵衛尉殿」に感状を与え、その地(信濃国旭山城か)に於いて、ひときわ奮闘されているので、めでたく喜ばしいこと、取り分け一昨夜には、城内の反徒が小屋に火を放ったところ、其方(大須賀久兵衛尉)が察知して下手人を召し捕られたゆえ、その城は災禍を免れたようであること、いつもながらの首尾であり、その忠功は計り知れないこと、今後ますます奉公に励めば感心であること、これらを懇ろに伝えている。

武田晴信の要請を受けた駿州今川義元(治部大輔)の調停により、信濃国旭山城の破却と北信濃衆の本領復帰を承諾させて、武田との和睦に応じると、閏10月15日、帰国の途に就いた。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 106号 直江実綱書状、129号 長尾景虎家中誓書案(写)、134号 長尾宗心書状(写)、151号 長尾景虎感状(写) 『上越市史 資料編3 古代・中世』 814号 妙法寺記 『富山県史 史料編Ⅱ 中世』 1575号 朝倉宗滴書状(写) 『戦国遺文 武田氏編 第一巻』 436・437・438・439・440・441号 武田晴信感状、442号 武田晴信感状写、443号 武田晴信感状、444・445号 武田晴信感状写、447・448号 武田晴信感状、456号 武田晴信書状 ※ 『越後入廣瀬村編年史 中世編』 

◆ 『上越市史』等は151号文書を弘治3年に仮定しているが、『越佐史料 巻四』 【〔歴代古案〕八〇】 に従い、天文24年の発給文書として引用した。


弘治元年(1555)11月~12月 長尾宗心(弾正少弼入道) 【26歳】

11月4日、宗心の師である長慶寺光育(天室。越後国柿崎の楞厳寺の住持)が、越後奥郡国衆の中条越前守(弥三郎。実名は房資か。越後国鳥坂城主)に宛てて書信(礼紙ウワ書「中条越前守殿 参  長慶寺 光育」)を発し、このたびは御陣労に引き続き、御在府も長期に及ばれ、その御苦労は計り知れないこと、黒河との関係改善の御仲裁を、ひたむきに取り組むつもりであること、所領の件については、たとえ黒河が様々に不服を申し立てたとしても、旦那(中条越前守)が返付されるのは、鼓岡と名津居(蒲原郡奥山荘黒川条)の二ヶ所のみであり、その他の地に関しては、何があろうとも応じる必要はないこと、ことさら遠境であるため、下口に於いて誰人が雑言を触れ回ったしたとしても、惑わされてはないこと、御門送りに参上するべきところ、却って御造作をかけるため、使僧の恕益をもって音信を通じたこと、松岡源左衛門尉について申し入れたところ、立ち所に御了承されたので、ひたすら恐悦していること、よって、これらを彼の者が詳述することを伝えている。
29日、(「宗心(長尾入道宗心か)」)、「黒川四郎次郎殿(下野守。実名は平実か。越後国黒川城主)御宿所」に宛てて書信を発し、このたびの中条越前守方と御無事について、東堂様(天室光育)を頼んで説き勧めたところ、連綿と道理を仰せ立てられたので、ともかく御存分を理解したこと、しかしながら、こうして切実に説き勧めているからには、愚意を聞き入れられて、是非とも承服してもらえれば、ひたすら満足であること、それが果たされれば、今後ますます丁寧に接し、いささかも疎略に扱わないこと、これらを懇ろに伝えた。
12月4日、(「長尾入道宗心」)、「中条越前守殿 御宿所」に宛てて書信を発し、このたびの黒川下野守との御無事について、東堂様をもって御意見に及んだところ、愚意を聞き入れてもらえたので、宗心に於いても満足極まりないこと、御誓書を寄越されて、今後も決して御疑心を抱かない御覚悟を示されたのは、これもまた快然極まりないこと、愚拙(宗心)に於いても、ますます変わりなく音信を通じるので、この書面を要略したこと、これらを懇ろに伝えた。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 130号 天室光育書状、131・132号 長尾宗心書状(写)
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