越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎(長尾景虎)の略譜 【10】

2012-08-30 19:06:28 | 上杉輝虎の年代記

永禄2年(1559)4月8月 越後国長尾景虎(弾正少弼) 【30歳】

将軍足利義輝の還京祝儀および警護と称して上洛する。


4月15日、年寄の直江与右兵衛尉実綱(大身の旗本衆)が、将軍家奉公衆・大館上総介晴光の内衆である富森左京亮信盛へ宛てて書状(謹上書)を発し、このたびの弾正少弼(景虎)の参洛について、我等(直江実綱)のような陪臣までも尊書を拝閲したこと、こうした時宜を迎えたからには、ひたすら格別な御尽力を御頼みするほかないこと、何から何まで過分な御配慮に恐悦している旨を御披露願いたいこと、これらを恐れ謹んで伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』164号「謹上 富森殿
」宛直江「右兵衛尉実綱」書状 封紙ウハ書「謹上 富森殿 直江 与右兵衛尉実綱」)。


21日、将軍足利義輝から御内書が発せられ、このたび近江国坂本(滋賀郡。景虎一行の宿営地)に着津したのは、尤もであること、この上は早々に参洛するべきこと、万が一あれこれ非難する徒輩が現れたとしても、それ以上は異議を差し挟ませないように、厳重に申し付けるので、安心して参洛するべきこと、なお、詳細は使者の藤安(奉公衆の大館兵部少輔藤安。大館晴光の弟と伝わる)が書いて伝えること、これらを申し渡されている(『上越市史 上杉氏文書集一』165号「長尾弾正少弼とのへ」宛足利義輝御内書【署名はなく、花押のみを据える】 礼紙ウハ書「長尾弾正少弼とのへ」)。


5月初頭、禁中の見物が許されたのち、庭上の御門(正親町天皇)から御盃を賜る。その後、大納言広橋国光から申次の速水右近大夫有益を通じ、兼ねてよりの叡慮(天皇即位式費用あるいは禁裏修理費用の献金についてか)の実現に尽くされれば、さぞかし御門も御感悦されるであろうことを伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』166号 広橋国光書状)。


その後、坂本へ戻ると、摂関家の近衛家と名家の広橋家に使者の荻原掃部助(旗本衆)を派遣し、関白近衛前嗣に隼を贈る一方、蒐集したい歌書について問い合わせる。


15日、関白近衛前嗣が、坂本への使者を頼んだ知恩寺岌州(京都百万遍知恩寺の住持)へ書状を送り届け、先だって長尾弾正少弼(景虎)から並々ならない懇意を示され、ひたすら喜ばしい限りであること、只今、貴僧の許へ使いとして時秀(西洞院左兵衛督時秀。近衛家の門流)を差し下すこと、条々をしかるべく御伝達願いたいこと、(景虎は)歌道に執心のようで、ひときわ感心であると、太閤(近衛稙家。前嗣の父)が申していること、我等(近衛前嗣)にも相応の用件があるならば、何事でも尽力するつもりであること、諸事において長尾弾正少弼の頼もしい心積もりを、しばしば耳にしているので、どうにか拙者(近衛前嗣)も厚誼を深められるように、(景虎へ)取り成してもらえれば、本望であること、なお、詳細は時秀が申し述べること、これらを畏んで伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』176号 近衛前嗣書状 端見返しウハ書「知恩寺 (花押)」)。

同日、関白近衛前嗣が、知恩寺岌州に別紙をもって、先日は長尾弾正少弼(景虎)から隼一居を贈ってもらい、喜ばしい限りで、こよなく愛玩すること、この厚意には、ひたすら歓喜している旨を、(景虎へ)しかるべく御伝達願いたいこと、また、和歌懐紙については、先だって時秀から承ったこと、憚りながら悪筆を染めたので、この旨を(景虎へ)御伝え願いたいこと、返す返すも、隼を贈ってもらい、ひたすら満足している旨を取り成してもらいたいこと、先日も申した通り、弾正少弼(長尾景虎)のひときわ頼もしい覚悟については、しばしば耳にしており、是非とも会談したいこと、(景虎と)厚誼を結べるように、くれぐれも頼み入ること、なお、詳細は(知恩寺岌州と)対面の折に申し述べること、これらを畏んで伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』194号 近衛前嗣書状 礼紙ウハ書「知恩寺 前」)。

同日、西洞院時秀が、大納言広橋国光の許へ書状を送り届け、今朝方、そちらに赴かれた荻原(掃部助)からの芳札を拝読したこと、長尾殿から御尋ねの歌書である三智抄については、御方御所様(近衛前嗣)に申し入れるも、そのような歌書を御方御所様は御所持されていないとの仰せであり、他家が御所持しているかどうかも御存知ないこと、いずれの方に御尋ねするべきか、御思案されていること、本来であれば参上して、こうした事情を直に(景虎へ)申し伝えるべきであるが、そちらから荻原掃部助殿に御伝達されてほしいことの仰せであること、御方御所様から長老(知恩寺岌州)に御書をもって仰せられるのは、先だって(景虎から)御鷹を進上された御礼であること、それから、(西洞院時秀が)先だって坂本に遣わされた折、(景虎から)申し入れられた御懐紙については、御方御所が整えられるので、長尾殿が受け取りに来られるようにとの仰せであり、このところを御承知されて、そちらに立ち寄られる長老へ御言伝を願いたいこと、これらを恐れ謹んで伝えている。さらに追伸として、先刻は三智抄を御所持されていないとの仰せであるも、明日にはこちらから各所に申し入れるので、このところを御承知してもらい、(荻原)掃部助殿へ御伝達を御頼みすることと、(西洞院時秀が)各所へ赴いて申し入れることを伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』167号 西洞院「時秀」書状 礼紙ウハ書「亜槐 床下 西洞院 時秀
」)。

改めて近衛家に使者を派遣すると、17日、西洞院時秀から書状が発せられ、先だって荻原掃部助が御使者として差し越されたこと、すぐさま承った趣旨を(近衛前嗣へ)披露に及んだので、このところを御理解してもらいたく、私より申し伝えること、御談合する用件があり、荻原掃部助を長逗留させていたこと、委細は御使者(荻原掃部助)が申し述べられること、これらを恐れ謹んで伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』168号「長尾弾正少弼殿」宛西洞院「時秀」書状 礼紙ウハ書「長尾弾正少弼殿 西洞院 時秀」)。


24日、千五百名ほどの人数で再び入洛して将軍の許へ祗候すると、相伴衆(大名格)に処遇される。


6月上旬から中旬にかけて、将軍足利義輝や太閤近衛稙家・関白近衛前嗣父子と酒宴を催すなか、近衛前嗣が、知恩寺岌州に書状を送り届け、先日以降は機会を得られず、はやく御会いしたいこと、(知恩寺と)内々に御談合したいこと、心静かに長尾(景虎)の存意をひとつひとつ玩味できれば、一段と御祝着であること、なおさらいっそうに対面して語らいたいこと、それから、(景虎へ)拙者(近衛前嗣)の覚悟のほどを申し届けてくれたのかどうか気になっていること、(景虎の)是が非でもの頼もしき真情により、ひたすら頼み入りたいこと、先日も話した通り、どうしても(景虎と)直談したく、実現できるかどうか気になっていること、どうにか一日でも坂本において隠密に参会できればと考えており、それで了承してもらえるのかどうか、いつ頃に少弼(景虎)が坂本へ下向するのか、承りたいこと、少弼が近日中に坂本へ下向するのであれば、我等(近衛前嗣)は明日辺りに坂本へ下向して(景虎を)待つつもりであること、いかにも人目を忍び、従者を二名ほど召し連れて下向するつもりであること、様々な思いを申し述べたいこと、本日は公方(足利義輝)から、少弼が祇候するので、太閤(近衛植家)と我等にも参るように仰せられたこと、我等は昨晩にも、当邸に御出ましになられた公方と朝方まで大酒し、はなはだしい宿酔に苛まれているため、不本意ながらも見合わせるが、太閤は参上するそうであること、これまでも公方が当邸に御出ましになられるたびに酒宴を張り、数多の華やかな若衆を侍らし、大酒しては度々夜を明かしたこと、少弼は若衆数寄と聞いていること、昨晩も希望を申し伝えたが、わずかな時間であっても、ひたすら来会を念願していること、どうしても、(知恩寺には)適宜の取り成しを頼み入るばかりであり、明日ぐらいには坂本へ参って(景虎を)待つつもりなので、(景虎の)下向が何時ごろになるのか知らせてほしいこと、その折には、必ず(知恩寺は景虎に)同道してきてほしいこと、これらを畏んで伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』172号 近衛前嗣書状 端見返しウハ書「智恩寺 前」)。


それから程なくして、関白近衛前嗣の要望により、坂本で二人だけの密談に及ぶ。


6月11日、将軍足利義輝が、関白殿(近衛前嗣)の許へ起請文を送り届け、内密に景虎へ仰せ聞かされた条々については、一切他言しないことを神名に誓っている(『上越市史 上杉氏文書集一』173号「関白殿」宛足利「義」輝起請文)。

12日、将軍足利義輝が、関白近衛前嗣の許へ御内書を送り届け、景虎の存分は、たとえ領国を失っても、是が非でも忠節を励む意思を示していること、その揺るぎない覚悟は奇特であること、彼の密事については、(景虎の)下国に際して申し伝えること、そういうわけで、爰元(京都)に異変はないため、先ずは(景虎を)帰国させるのが相当であること、内々に(景虎へ)以上の趣旨を仰せ聞かせてもらいたいこと、これらを謹んで伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』174号 足利「義輝」御内書 礼紙ウハ書「関白殿 義輝」)。

将軍と景虎の結び付きを快く思わない勢力により、両者の間を妨げる風聞が流布すると、16日、将軍足利義輝が、大館上総介晴光へ宛てて御内書を渡し、長尾弾正少弼(景虎)に下国したほうが良いとする旨を、(足利義輝へ)言上して出させようとする一派がいる状況に、景虎が下国する決意したとの風聞が耳に入ったこと、すでに領国を捨てるのも厭わず、自ずから忠功を尽くす覚悟で上洛した事実に感嘆しているにもかかわらず、(景虎に)帰国を強制するなどとは、一切あり得ない分別であり、こうした風聞は始末が悪く、取り合うべきでないことを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』175号 「大館上総介とのへ」宛足利義輝御内書【署名はなく、花押のみを据える】 礼紙ウハ書「大館上総介とのへ」)。

この書状は景虎へ渡された。


吉日(21日)、関白近衛前嗣と血書した起請文を取り交わし、一、このたび長尾を一筋に頼み入り、遠国(関東)へ下向する約束に、いささかも偽りはないこと、一、少弼(景虎)と進退を共にし、決して心変わりしないこと、一、密事を他言しないこと、一、在京中に何かの折にでも(景虎から)頼みごとが寄せられた際には、あれこれ算段を尽くし、いささかも抜かりなく、一筋に奔走すること、一、これからまた讒言などがあったとしても、疑心暗鬼が生じないように、其方(景虎)の耳に入れて確認を取ること、一、(景虎への)信用を保ち続け、たとえ行き違いがあっても、決して遺恨を残さないこと、一、ここに挙げた条々を一事として偽らないこと、これらを神名に誓われている(『上越市史 上杉氏文書集一』186号「長尾弾正少弼とのへ」宛近衛「前嗣」血書起請文)。

22日、関白近衛前嗣から書状が送り届けられ、このたび坂本まで下向したところ、様々な懇意を示してもらい、その満足のほどは、紙面に書き表せないこと、昨日も直談した通り、こうして申し合わせたからには、景虎と進退を共にするつもりなので、今後ますます厚誼を深められれば本望であること、なおなお、詳細は知恩寺(岌州)の方から伝達すること、(西洞院)時秀をもって礼を申すこと、これら畏んで伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』189号 近衛前嗣書状 礼紙ウハ書「長尾弾正少弼殿 前」)。

また別紙をもって、昨晩に見参したところ、様々な懇意を示してもらい、本望が達せられ、満足を得られたこと、格別な厚誼を頼み入るばかりであり、一筋に下向するからには、昨晩に申し述べた通り、(景虎の)与力同前に奔走する覚悟なので、諸事において気安く接してもらえれば、何にも増して喜ばしいこと、昨晩以後は愉快に酒が飲めるので、ひたすら好ましいこと、暇な時分にまた参会して雑談したいこと、委細は知恩寺へ悉く伝えて筆を置いたこと、これらを畏んで伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』187号 近衛前嗣書状 端見返しウハ書「長尾弾正少弼 とのへ 前」)。

同日、関白近衛前嗣から返書が送り届けられ、(景虎から)芳札が寄せられたので本望であること、このたびは直談を遂げられたので、実にめでたく喜ばしいこと、従って、(近衛前嗣の)下国の実現を一度でも申し合わせたからには、確かなものとする意思を(景虎から)示されたので、その頼もしい心中には、いくら考えても紙面には書き表せないこと、唯一無二に頼み入り、すでに血書した誓詞を固く取り交わしたからには、どのような避け難い事態に見舞われたとしても、誓詞紙面に違背したりはしないこと、しかしながら、最前から申している通り、我等(近衛前嗣)の下国が景虎の不利益になるとして、思い止まるように告げられるのであれば、諦めるほかないこと、此方(近衛前嗣)としては、もはや思案も尽きたので、是が非でも頼み入るのみであり、格別な厚誼を結びたい一心であること、返す返すも、心からの懇意に感謝するばかりであること、これらを畏んで伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』188号 近衛前嗣書状 礼紙ウハ書「長尾弾正少弼殿 前」)。

将軍に召し出されると、26日、足利義輝から御内書が下され、裏書(書札礼)を免許するので、分別をつけて心得るべきこと、なお、詳細は(大館)晴光が書いて伝えること、これらを申し渡されている(『上越市史 上杉氏文書集一』177号「長尾弾正少弼とのへ」宛足利義輝御内書【署名はなく、花押のみを据える】 封紙ウハ書「長尾弾正少弼とのへ」)。

同日、大館晴光(上総介)から副状をもって、このたび裏書御免許の御内書が発せられたこと、さぞかし御面目が施されたであろうこと、よって、御分別をつけられるべきであり、その意味されるところは、三管領・御一族ばかりに御免許された御書礼であること、ここを十分に御心得られるべきこと、これらを恐れ謹んで伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』178号「長尾弾正少弼殿 床下」宛大館「晴光」書状 封紙ウハ書「長尾弾正少弼殿 床下 大館上総介 晴光」)。

同日、将軍足利義輝から御内書が発せられ、塗輿(乗輿)を免許するので、その旨を心得るべきこと、詳細は(大館)晴光が書いて伝えること、これらを申し渡されている(『上越市史 上杉氏文書集一』179号「長尾弾正少弼とのへ」宛足利義輝御内書【署名はなく、花押のみを据える】 封紙ウハ書「長尾弾正少弼とのへ」)。

同日、別紙において、今後の関東上杉五郎(憲政・憲当。号成悦)の処遇については、景虎の判断をもって取り計らうべきこと、なお、詳細は(大館)晴光が書いて伝えること、これらを申し渡されている(『上越市史 上杉氏文書集一』180号「長尾弾正少弼とのへ」宛足利義輝御内書【署名はなく、花押のみを据える】 封紙ウハ書「長尾弾正少弼とのへ」)。

同日、別紙において、甲・越一和については、これまで何度も晴信(甲州武田信玄)に下知を加えているにもかかわらず、一向に同心しないこと、その結果、分国境目に乱入を許すところとなり、はなはだ無念であること、甲軍と抗戦中の信濃国諸侍への援助については、景虎が差配するべきこと、なお、詳細は(大館)晴光が書いて伝えること、これらを申し渡されている(『上越市史 上杉氏文書集一』181号「長尾弾正少弼とのへ」宛足利義輝御内書【署名はなく、花押のみを据える】 封紙ウハ書「長尾弾正少弼とのへ」)。


このように裏書と塗輿を免許されて将軍家一族・三管領家と国持大名に準ずる特権及び、関東・信州平定の大義名分を与えられた。


同日、将軍足利義輝から御内書が発せられ、このほど出羽国最上(最上郡)の山形孫三郎方(義守)より早道馬が献上されるので、分国中を滞りなく通行できるように便宜を頼み入ること、この事情については、関白殿(近衛前嗣)が御演説されること、なお、詳細は(大館)晴光が書いて伝えること、これらを申し渡されている(『上越市史 上杉氏文書集一』182号「長尾弾正少弼とのへ」宛足利義輝御内書【署名はなく、花押のみを据える】 封紙ウハ書「長尾弾正少弼とのへ」)。

その後、炎症を患い坂本で療養すると、29日、将軍足利義輝から御内書が下され、坂本滞在が長期に及んでおり、その後は腫物の症状が快復しているのかどうか、はなはだ心許ないので、そちらに左衛門佐(大館輝氏)を遣わすこと、なお、委細は(大館)晴光が書いて伝えること、これらを申し渡されている(『上越市史 上杉氏文書集一』183号「長尾弾正少弼とのへ」宛足利義輝御内書【署名はなく、花押のみを据える】 封紙ウハ書「長尾弾正少弼とのへ」)。


同日、大館晴光から副状をもって、御患いの御見舞いとして、左衛門佐(大館輝氏)を遣わされたこと、ついでに、このたび大友新太郎(豊州大友義鎮)進上による鉄砲玉薬の調合法の書付一巻を御下賜されたので、さぞかし御面目が施されたであろうこと、 上意の趣旨を(大館)輝氏が詳述すること、委細は輝氏が申し述べること、これらを恐れ謹んで伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』184号「長尾弾正少弼殿」宛大館「晴光」副状 封紙ウハ書「長尾弾正少弼殿 大館上総介 晴光」)。


こうして「鉄放薬之方并調合次第」を賜ると、幕臣の籾井某から口伝されている(『上越市史 上杉氏文書集一』185号 鉄砲薬之方并調合次第)。


それから間もなくして、太閤近衛稙家が、知恩寺岌州の許へ書状を送り届け、先日以降は御疎遠であること、当方の存分を弾正少弼(長尾景虎)に申し伝えてもらえたのかどうか気になっていること、一日しっかりと内談する意図により、(景虎は)去る26日に武家(将軍邸)へ召し出されて、めでたくも様々な面目を施されたこと、(近衛植家も)大いに舞台裏で駆け回ったこと、とにもかくにも直談に及びたいところ、酷暑の時分のために呼び寄せるのも憚られたので、先日は注進で済ませたこと、以前に(景虎と)約束した歌書の写本については、只今、見直したところ、誤写があったこと、修正して進呈するつもりなので、(知恩寺に)ちょっとばかり立ち寄ってもらいたいこと、(景虎に)御用があれば、何事でも承るつもりであること、とにかく速やかに手直しすること、いつ頃に(景虎は)下国するのかを承りたいこと、あれこれについて面談を期すること、これらを畏んで伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』170号 近衛植家書状 端見返しウハ書「知恩寺乃下 (花押)」)。

同じ頃、太閤近衛稙家から書状が発せられ、先日の武家における面談の実現には、(近衛植家も)本望を達せられたこと、種々の特典を得て御面目を施されたのは、めでたく喜ばしいこと、その会席の様子を詳しく承りたいので、(景虎の)都合が付けば、内々に直談したいこと、ひたすら御逗留中の再会を待ち望んでいること、これらを畏んで伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』169号 近衛植家書状 端見返しウハ書「長尾弾正少弼殿 (花押)」)。

同じく太閤近衛稙家から書状が発せられ、先頃に書状をもって申した趣旨が伝わっているのかどうか気になっていること、久しく面談していないので、聞きたい事実が山ほどあること、近いうちの帰国が決まったようなので、ひたすら名残惜しいこと、悪筆ながら詠歌大概一冊を書写し終えたので、約束通り進呈すること、要望があれば、抜かりなく取り計らうこと、折り良く見つけた五合五合(五合五乖、書譜のことか)も進呈すること、これらを畏んで伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』171号 近衛植家書状 端見返しウハ書「長尾弾正少弼殿 (花押)」)。


7月初頭、将軍足利義輝の取次へ宛てて条書を呈し、一、 亡父信濃入道(長尾為景)以来、 (将軍家から)御感を賜っており、 (足利義輝が)江州朽木(近江国高島郡朽木荘)の地に御動座中、何としてでも御帰洛に成就に奔走する覚悟でいたところ、信州張陣が打ち続き、ついに寸暇を得ず、何とかしたい一心でありながらも、少しの寄与もできなかったので、思い悩んでいたこと、一、御上洛の御祝儀として参上したところ、様々な恩典を賜り、身に余るほどの面目が施されたので、いよいよ身命を惜しまず、ひたすら忠信に励む覚悟であること、一、めでたく洛中が御静謐を取り戻した上は、このように申し述べるのは、まるで虚偽のように取り沙汰されるかも知れないところ、取り分け遠境ゆえに率いる人数も少ないため、余計な奔走は避けるべきであろうとも、ひたむきに忠信を励む絶え間ない決意のほどを、漏れなく上聞に達したいこと、このたびの参洛については、たとえ本国がどのような乱禍に見舞われたとしても、相応の御用等があって召し留められるにおいては、本国の一切を省みず、ひたすら上意様の御前を御守りする覚悟で臨んでいること、それは、すでに先月中旬、甲州(武田軍)に越国中を侵攻されても、御暇せずに今なお在京を続けている事実により、御理解して頂けるはずであること、一、泉州表の争乱については、各陣営に宿怨が渦巻いているのは勿論ながら、御畿内における事態であり、恐れながら御心配申し上げていること、これらを書いて伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』190号 長尾景虎書状案)。


同じ頃、関白近衛前嗣が、知恩寺岌州の許へ書状を送り届け、(近衛前嗣の)越後下向について、景虎から格別に奔走する旨を約束されたのは、いつもながら実に頼もしい心意気であり、紙面に書き表せないほどの主旨であること、しかしながら、すでに拙者(近衛前嗣)の越後下向については、景虎の同意を得て、互いに血書した誓詞を取り交わしているにもかかわらず、直江与兵衛尉(実綱)からの一札によると、様々な方面から抑留の働き掛けがあるそうで、拙者も今一度、思量するべきかどうか、近頃は困り果てていたところ、我等(近衛前嗣)の気の迷いで景虎に誓約を違えさせるなどもってのほかであり、そのような事態を招かないように気を引き締めていること、これまで何度も話したように、もはや我等は京都の不本意な有様に我慢がならず、日増しに下国への思いが募り、去る4月頃には西国へ密かに下向するつもりでいたこと、しかるところが両親を思い遣ると、8月までは離京に踏み切れず、無二の覚悟を決めていたつもりでも、世評は芳しくないばかりか、親命を疎かにできないため、下国の決行を延期していたところに、折り良く長尾(景虎)が上洛したこと、(景虎から)連綿と頼もしい意趣を聞かされたので、下国の件を打診したところ、快く同意してくれたこと、すでに(景虎と)血書した誓詞を取り交わして合意に至ったからには、何度も申し伝えた通り、どれほど離京し難い事情があろうとも、我等(近衛前嗣)から誓詞の趣旨を違えるなどは、一切あり得ないこと、取り分け我等(近衛前嗣)が誓詞の条項を示して頼み込んだ下国の申し合わせにもかかわらず、違背しない旨を約束した神慮を反故にするなどは、これまた微塵もあり得ないこと、当然ながら少弼(景虎)の方でも、誓詞を取り交わしたからには、たとえ貴命(上意)に反しても盟約を違えない旨を表明していること、そうであれば、先だって申し合わせた筋目を双方が違背しないのは確かであり、何があろうとも下国を果たすつもりなので、こうした筋目における(近衛前嗣の)覚悟のほどを、(知恩寺から)少弼へ申し伝えてほしいこと、そういうわけなので、このたびの下国は長尾を煩わせて困惑させる事態を招くゆえ、是が非でも延期するようにと促されたところで、少弼の意向でもあるため、考えを改めるつもりはないこと、そうは言ったところで、あるべき姿でない京都の現状に我慢がならず、たとえ他国に下向しようとも、何とか元通りにしたいとの思いに変わりなく、加えて少弼から格別に頼もしい意趣を聞かされたこと、そうした不変の思いを我等は危ぶんでいないこと、(景虎へ)こうした思いをしかるべく申し伝えてほしいこと、返す返すも、このたびの(景虎との)面談において様々な厚情を受け、ひたすら本望満足であること、これらを畏んで伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』195号 知恩寺岌州宛近衛前嗣書状 礼紙ウハ書「知恩寺 前」)。

7月6日、関白近衛前嗣が、知恩寺岌州の許へ書状を送り届け、改めて一筆を認めたこと、南方(河内国)の情勢について変化があれば、少弼(長尾景虎)に知らせたく思い、事情通の会話を立ち聞きしたところ、得られた情報は不確実なものが多く、そうした情報までも軽々しく知らせては、却って(景虎の)迷惑になるため、確かな情報のみを知らせること、南方で対向する河州衆(河州畠山家中衆。昨年に当主の紀州畠山高政(尾張守。もとは紀伊国と河内国の守護を兼任した)は重臣の安見宗房と対立して紀伊国へ出奔した)と摂州衆(畠山高政を支援する三好長慶が率いる)は、昨5日に河州衆が先手を取って足軽を押し出すと、両軍は細道でせめぎあいとなり、混乱して後退しようとした摂州衆が手間取るところを河州衆が追撃したので、摂州衆に負傷者が続出したが、戦線を維持できないほどではないらしいこと、大和国については、もはや大半の国人が筑前守(三好長慶。当時は摂津国芥川城を本拠としていた)に味方してしまったのではないかと言われており、これも風聞とは異なる事実のようであること、和州衆は辰巳と超昇寺を中核とする軍勢のようだが、全くの無勢ゆえに脆弱であり、和州衆は筑前守(三好長慶)に味方したといっても、未だに人質を差し出していないため、この点が危ぶまれて将兵の動員が限られたそうであること、そればかりか、同じく河内の戦線に合力として派遣された布施や万歳などは、大和の情勢が不穏のため、急遽引き返したそうであること、しかし結局は何事もなかったようで、再び河州に発向したそうであること、以上の事実を耳にしたので、にわかに顚末を伝えたこと、しっかりと少弼へ知らせたいので、こうした要領を得ないままの情報を知らせても良いのかと思い悩んでおり、この旨をそなた(知恩寺)から(景虎へ)しかるべく説明してほしいこと、もしも異変があれば、申し伝えること、それから、畠山(高政)は思いのままに采配を振るえなかった不満により、すでに河州衆と秘密裡に和解したそうであること、くれぐれも異変があれば連絡するので、この書状を紛失しないでほしいこと、ここしばらく少弼へ無沙汰しており、細やかに音信を通じたいところ、却って煩雑になると思い、心ならずも時が過ぎてしまったので、この辺りの事情を十分に心得たうえで(景虎へ)申し伝えてほしいこと、詳細については(知恩寺と)対面した折に話すこと、せわしない有様ゆえ、どのような文面にしたら良いのか迷い、一方に偏った内容ばかりでは、あまりにも無分別なので、その点を御理解してほしいこと、この通り我等は今朝から用事で下京に居り、帰宅は夜更けになりそうなので、明日は上京に出掛けるゆえ、(知恩寺も)ちょっとこちらへ出向かれてもらいたいこと、あまりの慌しさに、この書状を立ったまま認める有様であったこと、(書状を)何れは火中に投じてほしいこと、これらを畏んで伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』196号 知恩寺岌州宛近衛前嗣書状 礼紙ウハ書「知 床下 さ」)。

7日、関白近衛前嗣が、知恩寺岌州の許へ書状を送り届け、少弼(長尾景虎)からの芳札を披読したこと、何とか我等(近衛前嗣)が昨日送った書状の最後に、せわしない有様なので詳細を書き表せなかったと記した状況を案じ、わざわざ(景虎が)書状を寄越されたのは、実に頼もしい心根であり、容易く言葉にできないほどであること、下国については、ここまで気運が高まったからには、いささかも決意は揺るがないこと、昨日の件とも異なる事情ではないため、万一にも我等の身上などを気遣われる必要は全くないこと、ちょっとした田舎から禁裏に呈する事柄があり、それを談合するために下京まで出掛けたところ、連歌会が催されており、自分も座敷に呼ばれたこと、(景虎への)返事と其方(知恩寺)への書状を整えたものの、あれやこれや慌しく、そうした状況は書状の最後に記した通りであること、こちらの様子を知らせたいと思いながらも、このように慌しい状況ではままならず、書状の体裁をなしていないのは自覚していること、このほか別条はないが、却って少弼に気を遣わせてしまい、気が咎めて困惑しており、(近衛前嗣に)成り代わって謝意を然るべきように申し伝えてもらいたいこと、ひたすらに公方(足利義輝)とちょうど文を交わした時には、(景虎の)内に秘めた頼もしい心掛けについて、物語りされたこと、返す返すも(景虎に気を遣わせるなど)あってはならなかったこと、くれぐれも却って少弼に気を遣わせては、気が咎めてならないこと、出来るだけ早く支障がないように存意を少弼へ申し下されてたいこと、詳細については面述すること、ここしばらく無沙汰していた非礼を少弼へ十分に詫びておいてもらいたいこと、これらを畏んで伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』197号 知恩寺岌州宛近衛前嗣書状 礼紙ウハ書「知恩寺 前」)。


14日、関白の越後下向の風聞に接した将軍足利義輝から御内書が発せられ、近衛殿が越後国まで御下向するつもりであるとの風聞を耳にしたこと、もしそれが事実ならば、御即位(永禄三年正月に挙行される御門の即位式)が予定されるため、(近衛前嗣は)当職(関白)であるのだから、その不在は適切ではないこと、御即位後に下国されるならば、やむを得ないこと、なお、詳細は(大館)晴光が書いて伝えること、これらを申し渡されている(『上越市史 上杉氏文書集一』191号「長尾弾正少弼とのへ」宛足利義輝御内書【署名はなく、花押のみを据える】)。

同日、大館晴光から副状が発せられ、近衛殿様が越後国まで御下向されるとの風聞が流れており、もしそれが事実であるならば、現状においては不適切との思召しであること、その子細は、御即位が予定されており、近衛殿様は御当職であられるので、取り敢えずは御延引してほしいとの仰せであること、その旨を御理解して、御下向を思い止まらせられるように、是非とも御分別してほしいとの仰せであり、こうして 御内書を認められたこと、貴所(景虎)が御下国されるのは、いつ頃であるのか、一昨日に申し伝えた通り、あらかじめ念入りに御暇を申し上げてもらいたいこと、よって、これらを使者の富森小四郎(大館氏の内衆。富森左京亮信盛の子か)が詳述することを伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』192号「長尾弾正少弼殿」宛大館「晴光」副状 礼紙ウハ書「長尾弾正少弼殿 大館上総介 晴光」)。


これを受けて将軍へ請文を呈し、近衛殿様の越後国下向については、そのような事実を一切存じ上げないこと、しかしながら、(近衛前嗣から)強いて御頼みを 仰せになられた場合は、明確な拒否も御下向の御延期を勧めるのも、拙者(景虎)が(近衛前嗣へ)申し述べるのは難儀であること、たとえこれにより上意(足利義輝)の御勘気を蒙ったとしても、この節義を疎かにはできないこと、不相応にも上意御近辺の面々に御不義を働く方が大勢いるといった残念な現況においては、近衛殿様の御下向の御供をしたところで、拙夫(景虎)の過ちではないかとの考えから、近衛殿様御下向の事実を一切存じ上げないと申し上げたまでであること、このように申し開きをした(『上越市史 上杉氏文書集一』193号 長尾景虎請文案)。


当の関白近衛前嗣は、下国の意思は堅いものの、取り分け将軍足利義輝と自分の間で板挟みになっている景虎へ配慮し、御門即位式の大典を無事に終えるまでは、やむを得ず京都に留まることを決断している。


8月中には帰国の途に就いた。


この上洛中、甲州武田軍が越後国へ侵攻している。
 

※ 無日付の文書については、谷口研語氏の著書である『流浪の戦国貴族近衛前久 天下一統に翻弄された生涯』(中公新書)と池享、矢田俊文両氏の編著である『定本上杉謙信』(高志書院)から、小林健彦氏の論考である「謙信と朝廷・公家衆」を参考にして引用した。



永禄2年(1559)10月11月 長尾景虎(弾正少弼) 【30歳】

10月28日、国内の諸領主から祝儀(関東管領就任の将軍認可を得て京都から帰国した祝いとされるが、本当のところは分からない)の太刀を献上される(『上越市史 上杉氏文書集二』3542号)。

〔侍衆御太刀之次第〕

【直太刀之衆】
 
古志ノ十郎殿(上杉政虎期の永禄4年に見える古志長尾右京亮景信であろう。古志郡司長尾氏の系譜。越後国古志郡の栖吉城主) 
桃井殿(永禄3年に桃井右馬助義孝であろう。長尾景虎期の永禄4年には伊豆守を称しているから、上杉定実・長尾為景期の享禄4年に見える前上杉家の譜代衆・桃井伊豆守義孝の子であろう。足利氏支族桃井氏の系譜) 
山本寺殿(上杉政虎期の永禄4年から山本寺伊予守定長が見える。定長は、上杉定実・長尾為景期の天文初年に見える前上杉家の一家衆・山本寺陸奥守定種の子であろう。母は長尾為景の娘か。越後国頸城郡の不動山城主)


何らかの事情により、祝儀に参加しなかった、この頃の越後国長尾家の一家衆にあたる領主に、上条上杉氏(越後国刈羽郡の上条城主)、山浦上杉氏(同蒲原郡の篠岡城主)がいる。

【披露太刀之衆】
 
中条殿(外様衆・中条越前守。実名は房資、次いで景資を名乗ったらしい。越後国蒲原郡の鳥坂城主) 
本庄殿(同本庄弥次郎繁長。越後国瀬波(岩船)郡の村上城主)
 
石川殿(謙信期の元亀4年に石川中務少輔が見える。この中務少輔は、長尾為景が一族を入嗣させた可能性のある前上杉家の譜代衆・石川新九郎景重の子か) 
色部殿(外様衆・色部修理進勝長。越後国瀬波(岩船)郡の平林(加護山)城主) 
千坂殿(天文18年にみえる千坂対馬守か。この対馬守は、前上杉家の譜代衆・千坂藤右衛門尉景長の子あるいは同一人と思われる。越後国蒲原郡の鉢盛城主か)
長尾越前守殿(上田長尾政景。関東管領山内上杉氏の家領である越後国魚沼郡上田荘代官の系譜。景虎の姉婿。越後国魚沼郡の坂戸城主)
斎藤下野守殿(前上杉家の譜代衆・斎藤朝信。越後国刈羽郡の赤田城主)
 
毛利弥九郎殿(前上杉家の譜代衆・安田毛利越中守景元の子。実名は景広か。あるいは仮名の弥九郎は誤記か改竄で、景元の次男である安田惣八郎(のち顕元)に当たるか。越後国蒲原郡の安田城主) 
長尾遠江守殿(下田長尾藤景。関東管領山内上杉氏の家領である越後国蒲原郡下田郷代官の系譜。越後国蒲原郡の下田(高)城主) 
柿崎和泉守殿(前上杉家の譜代衆・柿崎景家。越後国頸城郡の柿崎城主) 
琵琶嶋殿(長尾為景に没落させられた上杉一族の琵琶嶋氏に代わって台頭した柏崎氏か。越後国刈羽郡の琵琶嶋城主) 
長尾源五郎殿(景虎の近親者か)
 
加地殿(上杉定実・長尾為景期の享禄4年に見える外様衆・加地安芸守春綱か。上杉輝虎期の永禄末年から加地彦次郎が見える。越後国蒲原郡の加地城主) 
竹俣殿(外様衆・竹俣三河守慶綱。越後国蒲原郡の竹俣城主) 
大川殿(外様衆・大川駿河守忠秀か。上杉輝虎期の永禄12年に大川三郎次郎長秀が見える。越後国瀬波(岩船)郡の藤懸(府屋)城主)
長尾右衛門尉殿(一右衛門尉か。下田長尾遠江守藤景の弟か) 
相川殿(外様衆・鮎川摂津守清長(岳椿斎元張)あるいは世子の鮎川孫次郎盛長か。そうであれば越後国瀬波(岩船)郡の大葉沢城主) 
仁科清蔵殿(江戸期の米沢藩主・上杉定勝の時代に見える人物なので竄入の可能性があろう。あるいは音が似る菅名源三か。菅名氏であれば、越後国蒲原郡の菅名城主) 
平賀殿(外様衆・平賀左京亮重資。越後国蒲原郡の護摩堂城主) 
安田新八郎殿(外様衆・安田治部少輔長秀あるいは世子の治部少輔か。謙信期の天正3年に見える外様衆の安田新太郎堅親は、大身の旗本衆・河田長親の弟。越後国蒲原郡の安田城主) 
竹俣平太郎殿(天文年間に一旦没落した筑後守系の外様衆・竹俣氏か。謙信期の天正3年の譜代衆に竹俣小太郎が見える) 
吉江殿(前上杉家の譜代衆・吉江中務丞忠景か。忠景は上杉政虎期の永禄4年には旗本衆として見える。越後国蒲原郡の吉江城主か) 
甘糟近江守殿(前上杉家の譜代衆・甘糟長重。越後国山東(西古志)郡の枡形城主あるいは同国蒲原郡の村松城将か) 
水原小太郎殿(上杉輝虎期の永禄末年に外様衆・水原蔵人丞が見える。越後国蒲原郡の水原城主) 
下条殿(外様衆・下条薩摩守実頼か。謙信期の天正3年に見える外様衆・下条采女正忠親は、大身の旗本衆・河田長親の弟。越後国蒲原郡の下条城主) 
大関殿(前上杉家の譜代衆・大関阿波守盛憲か。謙信期の天正2年に大関弥七郎親憲が見える) 
荒川殿(外様衆・荒川伊豆守長実か。謙信期の天正3年に荒川弥次郎が見える) 
唐崎殿(不詳) 
桐沢殿(上田長尾氏の被官・桐沢氏がいる。ここに陪臣が見えるのは不自然なので、誤記か改竄であろう) 
大崎殿(不詳) 
有留弥七郎殿(不詳) 
計見出雲守殿(前上杉家の譜代衆) 
野路弥左衛門尉殿(天正年間後期の赤田斎藤氏の家中に野呂氏が見える。こののち斎藤氏に吸収されたのか) 
計見与十郎殿(出雲守の世子か) 
毛利丹後守殿(前上杉家の譜代衆・北条高広。越後国刈羽郡の北条城主) 
長井丹波守殿(上杉景勝の時代に、甲斐国出身の長井丹波守昌秀が見えるので、誤記か改竄であろう) 
村山平次郎殿(永禄2年の景虎の上洛に譜代衆・村山善左衛門尉慶綱が従っている。この慶綱は、前上杉家の譜代衆・山岸隼人佑の次男。越後国頸城郡の徳合城主)
大崎九郎左衛門尉(謙信次代の上杉景勝の時代に見える人物なので、誤記か改竄の可能性がある)

何らかの事情により、祝儀に参加しなかった、この頃の越後国長尾家の外様衆・譜代衆にあたる領主に、黒川氏(外様衆・黒川竹福丸。上杉輝虎期の永禄10年には元服して四郎次郎平政と名乗る。越後国蒲原郡の黒川城主)・新発田氏(外様衆・新発田尾張守忠敦。越後国蒲原郡の新発田城主)・五十公野氏(上杉定実・長尾為景期の享禄4年に外様衆・五十公野弥三郎景家が見える。上杉輝虎期の永禄9年見える五十公野玄蕃允は景家の後身か次代であろう。越後国蒲原郡の五十公野城主)・菅名氏(謙信期の天正3年に外様衆・菅名源三が見える。越後国蒲原郡の菅名城主)・新津氏(謙信期の元亀4年から外様衆・新津大膳亮が見える。越後国蒲原郡の新津城主)・飯田氏(外様衆・飯田与七郎。のちに山吉氏の与力に配される)、御屋敷長尾氏(譜代衆・長尾小四郎景直。景虎の近親者)・平子氏(譜代衆・平子孫太郎。上杉輝虎期の永禄11年から若狭守として見える。越後国魚沼郡の薭生城主)・宇佐美氏(譜代衆・宇佐美駿河守定満。上杉輝虎期の永禄11年に平八郎が見える。越後国魚沼郡の真板平城主か)・上野氏(譜代衆・上野中務丞家成。越後国魚沼郡の節黒城主)・福王寺氏(譜代衆・福王寺兵部少輔。実名は重綱、孝重などと定まらない。越後国魚沼郡の下倉山城主)・善根氏(譜代衆・善根毛利氏。越後国刈羽郡の善根城主)・小国氏(上杉輝虎期の永禄11年に譜代衆・小国刑部少輔が見える。越後国蒲原郡の天神山城主)・山岸氏(上杉輝虎期の永禄8年に譜代衆・山岸隼人佑が見える。越後国蒲原郡の黒瀧城主)・志駄氏(上杉政虎期の永禄4年に譜代衆・志駄源四郎が戦死したのちは、直江氏に吸収される。越後国山東(西古志)郡の夏戸城主)・力丸氏(譜代衆・力丸中務少輔。のちに松本氏の与力に配される。越後国山東(西古志)郡の根小屋城主)などがいる。


11月朔日、旗本衆から祝儀の太刀を献上される。

【御馬廻年寄分之衆】
 
若林方(謙信期の天正2年に若林九郎左衛門尉家吉が見える) 
山村方(天文17年に見える山村右京亮か。越後国頸城郡の青木城主か) 
諏訪方(上杉輝虎期の永禄11年に諏方左近允が見える) 
山吉方(上杉輝虎期の永禄9年に山吉孫次郎豊守が見える。兄の山吉孫四郎(実名は景久であろう)は永禄元年に早世している。越後国蒲原郡の三条城主) 
相浦方(謙信(上杉輝虎)死去の直後に相浦主計助が見える) 
松本方(大学助か。上杉輝虎期の永禄9年に松本石見守景繁が見える。越後国山東(西古志)郡の小木(荻)城主) 
荻田方(与三右衛門尉か。天正5年に上杉謙信から長の一字を付与された荻田孫十郎長繁の父と兄がどちらも与三右衛門尉を称しており、どちらかに当たるであろう) 
庄田方(もとは古志長尾氏被官の庄田惣左衛門尉定賢)

何らかの事情により、祝儀に参加しなかった、この頃の景虎の旗本衆に、直江与右兵衛尉実綱(越後国山東(西古志)郡の与板城主)・吉江織部佑景資(古志長尾家被官吉江氏の系譜)・荻原掃部助・金津新右兵衛尉(景虎の乳母夫と伝わる)・本庄新左衛門尉(本庄実乃(号宗緩)の子。越後国古志郡の栃尾城主)・三潴出羽守長政(越後国蒲原郡の中目城主)・新保清左衛門尉秀種・本田右近允(実名は長定か)・野島平次左衛門尉・小越平左衛門尉(もと古志長尾氏被官。のちに景虎の寵臣である河田豊前守長親に附属される)・山田修理亮長秀(小越平左衛門尉と同じく河田長親に配される)・秋山氏・飯田氏・五十嵐氏・小野氏・河隅氏・小嶋氏・小林氏・高梨氏・塚本氏・林氏・平林氏・村田氏・吉田氏・吉益氏などがいる。


※ 金覆輪の太刀を献上した大身の侍衆は紫字で示した。それから、補筆と入道衆については、疑わしいので除外した。



永禄2年(1559)12月 越後国長尾景虎(弾正少弼) 【30歳】

先の上洛中に将軍足利義輝から相伴衆に処遇されたことなどにより、大名並みの家格を得たので、国内に於ける権威が上昇し、この頃より、有力領主(前上杉氏譜代衆)の長尾遠江守藤景・斎藤下野守朝信・柿崎和泉守景家・北条丹後守高広を年寄衆として政務に参画させる(『上越市史 上杉氏文書集一』200号 長尾藤景等四名連署状写)。


※ この景虎の権威上昇 、有力国衆の政務参画については、片桐昭彦氏の論集である『戦国期発給文書の研究 ― 印判・感状・制札と権力 ―』(高志書院)の「長尾景虎(上杉輝虎)の権力確立と発給文書」に依拠した。



『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』
『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』

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越後国上杉輝虎(長尾景虎)の略譜 【9】

2012-08-27 21:03:49 | 上杉輝虎の年代記

弘治3年(1557)10月 越後国長尾景虎(弾正少弼) 【28歳】

18日、奉行衆の本庄宗緩・長尾景繁・同景憲・直江実綱・吉江長資が、広泰寺に証状を与え、頸城郡夷守郷榎井保内の大高山湧光寺領について、応永29年4月5日に性景(長尾上野入道。実名は邦景か)が認可した郡司不入と諸役免除の特権を有効のまま、改めて当代(景虎)が安堵することを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集』155号「広泰寺」宛本庄「宗緩」・長尾「景繁」・長尾「景憲」・直江「実綱」・吉江「長資」連署状写、『新潟県史 資料編5』2641号 某景繁過所、3316号 長尾景憲裁許状)。


● 本庄宗緩:新左衛門尉実乃。新左衛門尉入道。旗本衆。越後国栃尾城主。

● 長尾景繁:譜代衆。山東(西古志)郡内の地を基盤とする長尾氏であろう。

● 長尾景憲:譜代衆。古志郡司で古志長尾氏の当主であろう。

● 直江実綱:神五郎。与右兵衛尉。旗本衆。越後国与板城主。

● 吉江長資:通称は与橘か。のちの織部佑景資。景虎初政の側近であった吉江木工助茂高の世子。



永禄元年(1558)閏6月 越後国長尾景虎(弾正少弼) 【29歳】

在地の諸将に参陣を呼び掛けたところ、14日、越後国瀬波(岩船)郡小泉荘に盤踞する秩父一族の本庄弥次郎繁長(外様衆。越後国瀬波(岩船)郡の村上城主)と色部弥三郎勝長(同前。同平林(加護山)城主)が起請文を取り交わし、このほど当郡中が申し合わせて参陣するからには、周囲から難癖をつけられたり、取り分け陣中において不当に干渉されたとしても、必ず互いに擁護するべきこと、これから先についても、身辺に邪な輩が現れて奸計などをめぐらしているのを察知した際には、必ず互いに通報するべきこと、いよいよもって交誼を深め合うべきこと、これらを神名に誓っている(『新潟県史 資料編4』1119号「色部弥三郎殿 参」宛「本庄弥次郎 繁長」血判起請文)。



この間、甲州武田晴信(大膳大夫・信濃守)は、閏6月16日、武蔵国衆の市田茂竹庵(市田上杉氏。武蔵国市田城主)へ宛てた返書(謹上書)を市田の使者に託し、来意の通り、昨年は当方の加勢として上州に御出陣されたので、当表の敵軍が退散したこと、これに対する御礼として使僧の宝泉院を派遣したところ、このたび御祝儀の御使者が到来したばかりか、甲二鉢と鞦十具を贈ってもらい、すこぶる喜ばしいこと、委細は使者の板倉方が念入りに口上されるので、略筆したこと、これらを恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文 武田氏編一』598号「謹上 市田茂竹庵 御返報」宛武田「晴信」書状写)。

19日、武田晴信、山城国醍醐寺理性院へ宛てて返書を発し、信濃国安養寺・文永寺(伊那郡)の再興(勅命による)については、昨年に存分を申し述べたところ、このたび再便が寄せられたので、格別な由緒があるにより、すでに 綸旨を賜ったからには、いささかも異議はないこと、当今は戦国の世であり、両寺の焼亡によって仕方なく当国(信濃国)における武運長久の祈祷を、近年は法善寺(筑摩郡)に寄進して任せていること、つまるところ、来る秋に越国に進攻するので、一戦勝利の御丹精な祈祷を、ひたすら貴僧に御頼み申したく、速やかに成就に至れば、必ず本寺に寄進すること、まことに身勝手な申し出であり、恐縮している旨を、御使僧が口述されること、これらを恐れ畏まって伝えている。さらに追伸として、青蓮院(尊円法親王)の御真筆一巻を贈って下さり、勿体ない思いであることを伝えている(『戦国遺文 武田氏編一』599号「理性院 尊報」宛武田「晴信」書状(黒印・印文「晴信」) 封紙ウハ書「理性院 尊報 大膳大夫 晴信」)。

同日、取次の飯富昌景(譜代衆)が、理性院へ宛てて副状(進上書)を発し、このたび寄せられた貴札を拝読し、その趣旨を承知したこと、晴信に両寺の一件を取り次いだところ、当秋に信国の残賊を退治し、速やかに本意を達したのちであれば、両寺の再興に異存はないとの仰せであること、恐れながら、この旨を御分別されるべきであり、是非とも尊意を得たいこと、これらを恐れ畏まって伝えている(『戦国遺文 武田氏編一』600号「進上 理性院 貴報」宛飯富「昌景」副状)。


この前後、甲州武田軍は越後国に侵攻している(『戦国遺文 武田氏編 第一巻』609号 武田晴信書状写)。


そして、武田家と同盟を結ぶ相州北条氏康(左京大夫)は、閏6月18日、他国衆の安中越前守重繁(上野国安中城主)へ宛てて書状を発し、上野国吾妻谷(吾妻郡)に向けて至急に戦陣を催すこと、(北条氏康が)半途へ出馬するので、(安中も)このたびはいっそう奮励されるべきこと、正確な日時については、改めて三日前に報知するので、いささかも抜かりなく準備を整えられるべきこと、なお、詳細は遠山(丹波守綱景。準一家。家老衆であり、武蔵国江戸城代を務める)が書き伝えること、これらを恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文 後北条氏編 補遺編』4653号「安中越前守殿」宛北条「氏康」書状写)。

その後、安中氏の被官である赤見某(山城守か)らが越後国に侵攻している。


これに対応して景虎は、上・越国境の越後国魚沼郡上田荘に在陣していた可能性がある。


※ 相州北条氏による越後侵攻については、黒田基樹氏の論集である『戦国期東国の大名と国衆』(岩田書院)の「第十二章 上杉謙信の関東侵攻と国衆」を参考にした。



永禄元年(1558)8月~9月 越後国長尾景虎(弾正少弼) 【29歳】

8月晦日、越後奥郡国衆の本庄繁長(弥次郎)が、被官の須貝彦左衛門尉に証状を与え、このたび越府の要請に応じて出陣したところ、従軍して奉公に励んだのは、すこぶる神妙であり、鮎川分一貫文の地を宛行うので、今後ますます奮励するように、よくよく心得るべきことを申し渡している(『新潟県史資料編5』3279号「須貝彦左衛門尉とのへ」宛本庄「繁長」知行宛行状写)。

9月22日、越後国守護代長尾家以来の重臣である山吉孫四郎(実名は景久であろう。旗本衆。蒲原郡司。越後国三条城主)が死去する(高野山清浄心院「越後過去名簿」)。



この間、甲州武田晴信(大膳大夫)は、8月吉日、信濃国戸隠山中院(戸隠神社。水内郡)に願文を納め、このたび筮竹をもって、当年に信国に居陣するにおいては、十二郡を存分に治められるかどうか、また、当国と越国の和睦交渉を取り止めにして、彼の国へ攻め入るべきかどうか、吉凶を占ったところ、何れも吉の卦が出て、信国に居陣すれば、一国を残らず掌握し、よしんば越国衆が信国に攻め込んできても、たちまち凶徒は滅亡し、晴信の勝利は疑いないところであり、よって、神助を得られれば、貴社の修補費用は賄うことを誓っている(『戦国遺文武田氏編一』602号「戸隠山中院」宛「源晴信」願文)。


この前後、甲州武田軍は、再び信州奥郡に出陣している(『戦国遺文 武田氏編一』609号 武田晴信書状写)。



永禄元年(1558)10月~12月 越後国長尾景虎(弾正少弼) 【29歳】

このたび京都に要脚を納めるために公田段銭を徴収すると、10月晦日、公銭衆の吉江長資(通称は与橘か)・庄田定賢(惣左衛門尉)・某貞盛が、越後上郡国衆の山田帯刀左衛門尉へ宛てて請取状を発し、頸城郡夷守郷内の河井村・阿弥陀瀬村における益田分の段銭について、確かに受領したことを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』160号 吉江「景(長)資」・庄田「定賢」・「貞盛」連署段銭請取状写)。



将軍足利義輝から今夏の越後侵攻を咎められた(大館晴光が悦西堂に宛てた書簡による)甲州武田晴信は、11月28日、将軍家奉公衆の大館上総介晴光へ宛てて請書を発し、去る3月10日付の御内書(『戦国遺文 武田氏編六』 4019号 武田大膳大夫・同太郎宛足利義輝御内書案)を謹んで頂戴し、ひたすら恐悦していること、信・越で領界を分けて和融するべきとの御下知を、謹んで御請けすること、この覚悟の旨を、御使僧の悦西堂が詳述されるので、よろしく御披露願いたいこと、これらを恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文 武田氏編一』610号「大館上総介殿」宛武田「晴信」書状)。

同日、別書(謹上書)をもって、このほど寄越された御内書を拝読したこと、直ちに御請けしたので、よろしく御取り成し願えれば、すこぶる本望であること、一、このたび悦西堂へ宛てられた御札を披読したところ、この夏に越国へ攻め入ったのは、上意を軽んじたと誤解されたようで、ともかく驚いていること、すでに去る頃、瑞林寺が御使者として御下向された際に、信州(信濃国守護職)補任の御内書を頂戴しており、こうした事実から他国の干渉を受けるいわれはないにもかかわらず、長尾が二度も信国を放火して回ったこと、これこそ上意に背いた行為であること、一、昨年に甲・越和睦の御仲裁として、聖護院御門主(道澄。関白近衛稙家の三男)の御使僧である森坊(増隆)が御内書を携えて下国されると、取り敢えず(武田)晴信は停戦して信府に留まり、もっぱら府城の整備を差配していたこと、一方、長尾は御内書を頂戴したにもかかわらず、和睦勧告を御請けするどころか、信濃国海津(埴科郡)に放火したこと、これまた周知の事実であること、一、この長尾の非道な行為に対する報復として越国に攻め入ったのであり、いささかも上意を軽んじるものではないこと、一、今また越国に攻め入ろうと企てたのは、この夏に攻め入った際、越府を壊滅させるつもりでいたところに、留守居の者共が、甲府に御使僧が御下向されたとの連絡を寄越してきたゆえ、このたびもまた上意を奉じ、一先ず越府攻略を見合わせて帰陣したこと、そして、すぐさま御使僧の悦西堂に申し伝えた愚存は、前記の通りであること、更に悦西堂に対し、すでに(武田晴信が)信州補任の御内書を所持している以上、甲・越和融の是非は越国次第である旨を申し伝えたところ、納得されて彼の国へ下られるも、すげなく追い払われたそうであること、これこそ紛れもない上意への逆心であり、御分別を願うほかないこと、一、信州補任の御内書の旨を覆されず、信・越で領界を分けての和融であるならば、御下知された通りで異存はないこと、なお詳細については、富森左京亮(信盛。大館晴光の内衆)が詳述されること、これらを恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文 武田氏編一』609号「謹上 大館上総介殿」宛武田「大膳大夫晴信」書状写、この書状の追而書は『戦国遺文武田氏編 第二巻』1410号のものである)。


12月に入って武田晴信は、出家して徳栄軒信玄と号する。
 

※『戦国遺文 武田氏編』609号文書と武田晴信の出家(『山梨県史 資料編5』2617号)については、鴨川達夫氏の著書である『日本史リブレット 人 043 武田信玄と毛利元就 思いがけない巨大な勢力圏』(山川出版社)を参考にした。



永禄2年(1559)2月 越後国長尾景虎(弾正少弼) 【30歳】

20日、将軍足利義輝(前年の6月に江州六角佐々木義賢(左京大夫)らの支援を受け、京都の回復を図って三好長慶(筑前守)と戦ったが、9月に和睦が成立し、11月にようやく還京した)から御内書が発せられ、(武田)晴信との和談について、昨年に内書をもって詳しく申し遣わしたところ、大筋で合意に達したのは、尤も適切であり、殊勝な態度であること、いいいよ手堅く和談を成就させるべきこと、なお、詳細は晴光(大館晴光。奉公衆)が書き伝えること、これらを申し渡されている(『上越市史 上杉氏文書集一』161号「長尾弾正少弼とのへ」宛足利義輝御内書【署名はなく、花押のみを据える】 封紙ウハ書「長尾弾正少弼とのへ」)。


23日、公銭衆の吉江長資(通称は与橘か)・庄田定賢(惣左衛門尉)・某貞盛が、越後中郡国衆の飯田与七郎(蒲原郡五十嵐川流域が本領と伝わる)へ宛てて請取状を発し、頸城郡夷守郷赤沢村内の富田与三左衛門尉分(係争地の横曽祢村分を除く)の段銭について、確かに受領したことを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』162号吉江「長資」・庄田「定賢」・「貞盛」連署段銭請取状写)。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』
◆『新潟県史 資料編4 中世二』
◆『新潟県史 資料編5 中世三』
◆『新潟県立歴史博物館研究紀要 第9号』高野山清浄心院「越後過去名簿」
◆『戦国遺文 武田氏編 第一巻』
◆『戦国遺文 武田氏編 第六巻』

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越後国上杉輝虎(長尾景虎)の略譜 【8】

2012-08-23 17:16:08 | 上杉輝虎の年代記

弘治3年(1557)正月3月 越後国長尾景虎(弾正少弼) 【28歳】

正月20日、信濃国更級八幡宮(更級郡)へ宛てた願文を認め、「隣州国主」として信州の安寧を取り戻すために甲州武田晴信を打倒する決意を表し、この立願が神助によって成就したあかつきには、信州の内で一所を当宮に寄進することを誓った(『上越市史 上杉氏文書集一』140号「八幡宮 御宝前」宛「長尾弾正少弼 平景虎」願文写)。

2月16日、在地の色部弥三郎勝長(外様衆。越後国平林(加護山)城主)へ宛てて書状を発し、信州陣については、一昨年に駿府(駿州今川義元)の御取り成しにより、無事が成立したにもかかわらず、懸念していた通り、晴信(甲州武田晴信)が策動を始めたので、はなはだ不愉快な思いをしていること、神慮といい、駿府の御取り成しといい、此方(景虎)からは手出しするべきではないとの思いから、ひたすら堪忍していたところ、このたび(武田)晴信は計略をもって、信州味方中である落合方の家中を引き裂き、(落合の拠る)葛山(水内郡)の地を攻め落としたこと、このために同じく味方中の嶋津方(左京亮忠直)は、何はさておいても本城の長沼城(水内郡)を放棄して支城の太蔵城(大倉城。水内郡太田荘)に後退せざるを得なかったこと、もはや我慢の限度を越えたので、爰元(越後国)の総員を彼の口へ急派し、景虎も半途に在陣中であること、雪中であるがゆえに御面倒ではあろうが、昼夜兼行での御着陣を待ち侘びていること、信州味方中が滅亡してしまっては、当国の存亡も危ぶまれるので、今般は相応の人数を整えられて、ここぞとばかりに精励されるべきであること、これらを恐れ謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』141号 「色部弥三郎殿 御宿所」宛「長尾弾正少弼 景虎」書状写)。


これより前、能州畠山悳祐(左衛門佐入道。義続)・同義綱(次郎。修理大夫)父子から、内乱(年寄衆の神保宗左衛門尉総誠・温井兵庫助続宗・三宅筑前守総広らが、畠山一族の畠山四郎晴俊を擁して挙兵した)を鎮圧するための支援要請を受けるも、信州出馬を予定しているため、援軍の派遣を丁重に断り、兵糧の援助のみを請け負うと、18日、畠山悳祐・同義綱から返書が発せられ、再び飛脚を差し下すこと、このたびは返札をはじめとした様々な厚意を受け、感謝の言葉もないこと、いかにも累代の交誼に変わりないので、めでたく喜ばしいこと、ますます当城(能登国七尾城)は堅固なので、安心してもらいたいこと、今般の事情については、何度も申し伝えており、ここでは敢えて触れないこと、糧米を扶助してくれるそうで、何はさておき士卒の意気が揚がったこと、とにかく越国に計策を託したく、その助成をもって本意を達する以外に仕様がないやもしれず、少しでも波が穏やかで渡海に適する時機を得たならば、是非とも加勢を派遣してもらいたいこと、別紙をもって条々を申し伝えること、委細は遊佐美作守(続光)が書いて伝えること、これらを恐れ謹んで伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集』156号「長尾弾正少弼殿」宛畠山「悳祐」・畠山「義綱」連署状 封紙ウハ書「長尾弾正少弼殿 悳祐 義綱」)。

同日、畠山悳祐・同義綱から、取次の山田修理亮長秀(旗本衆)へ宛てて書状が発せられ、取り急ぎ飛脚を差し下したこと、当方の籠城について、このたび景虎から厚意を示してもらったので、ひたすら喜んでいる旨を申し伝えてほしいこと、糧米を扶助してくれるそうなので、何はさておき士卒の意気が揚がり、めでたく喜ばしいこと、とにかく越国に計策を託したく、その助成をもって本意を達する以外に仕様がないと思われ、少しでも波が穏やかで渡海に適する時機を得たならば、速やかに加勢を派遣してもらいたい旨を申し伝えるものであり、(山田長秀の)取り成しに期待していること、なお、詳細は遊佐美作守(続光)が書いて伝えること、これらを畏んで伝えられている(『新修七尾市史 七尾城編』文献史料編第三章 123号「山田修理亮殿」宛畠山「悳祐」・畠山「義綱」連署状写)。

23日、能州畠山家の年寄衆である遊佐続光から副状が発せられ、去る頃は御返書ならびに御厚意を給わり、感謝の言葉もないこと、今もって当陣に別条はないこと、糧物の援助を請け負って下さり、何はさておき歓喜していること、御加勢については、このたび越国は信州へ進攻されるため、御同意を得られなかったのは、やむを得ない事態であること、しかしながら、是非とも高徳をもって、その多寡にかかわらず一勢を援軍として寄越してもらいたいとの思いから、(畠山悳祐・義綱父子が)直書と条書にて申し入れられたものであり、早速にも御同意を得られれば、まさに当家再興にとっては主要であること、ここを十分に心得て申し入れたこと、これらを恐れ謹んで伝えられている。さらに追伸として、委細を飛脚の金台寺に申し伝えてほしく、(金台寺の)帰国を待って談合するつもりであることを伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集』157号「長尾弾正少弼殿 御宿所」宛遊佐「続光」書状)。


※ 『上越市史 上杉氏文書集一』は、能州畠山父子と遊佐続光の書状を弘治4年に仮定しているが、『新修七尾市史7 七尾城編』における文献史料編第三章の概説と文書の年次比定に従った。


3月18日、返報を寄越してきた色部弥三郎勝長へ宛てて返書を発し、信州陣について、わざわざ御切書を寄越してもらい、祝着千万であること、再三にわたって申し上げた通り、このたびは(武田晴信と)興亡の一戦を遂げる覚悟なので、ここが正念場であり、ひたすら速やかな御参陣を待ち侘びていること、景虎もようやく出陣できること、(色部勝長の)御用意が整ったとの知らせは、望みを達して満足であること、今のところ彼口(信州奥郡)に異変はないので、どうか御安心してほしいこと、一切合切は対面の折に承ること、これらを恐れ謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』142号「色部弥三郎殿 御返報」宛「長尾弾正少弼 景虎」書状【花押c】)。

3月23日、姉婿の上田長尾越前守政景(譜代衆。越後国坂戸城主))へ宛てて書状を発し、信州陣については、何度も申し伝えている通り、このたびはさらに抜き差しならない困難な状況であるため、看過してはならないこと、そのように考えながら、出陣の日取りについて、皆々と談合していた間にも、信濃味方中の高刑(高梨刑部大輔政頼。信濃国飯山城主)から、このまま景虎の信州出馬が遅延するようであれば、飯山城(水内郡)を放棄しなければならないとして、しきりに出馬を求められており、ここで救援を怠っては、いよいよ信望を失ってしまうため、明24日に出立するので、そのたびに申し伝えている通り、御面倒ではあっても、早々に御着陣されるべきこと、これらを恐れ謹んで伝えた。さらに追伸として、こちらの様子については、藤七郎方(実名は景国と伝わる。政景の弟。越後中郡国衆・大井田氏の名跡を継いだとされる)が詳報することを伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』143号「越前守殿」宛長尾「弾正少弼 景虎」書状【花押c】)。



この間、信府深志城(筑摩郡)に在陣中の甲州武田晴信(大膳大夫)は、2月15日、信濃在陣衆に命じ、敵方の信濃衆・落合次郎左衛門尉が拠る信濃国葛山城(水内郡)を攻め落としている。

25日、信州先方衆の木嶋出雲守・原(山田)左京亮(ともに高梨氏の旧臣。信濃国山田城に拠るか)へ宛てて
書状を発し、このほど飯富兵部少輔(譜代衆。信濃国塩田城代)の所へ寄越してくれた注進状によれば、敵勢が中野筋(高井郡)に進出してきた事実を把握したこと、幸いにも当府(深志城)に在陣中なので、もしも敵勢が大軍であるならば、その方面に再進攻するつもりであること、それまで城内を堅守するべきこと、これらを恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文 武田氏編一』531号「木嶋出雲守殿 原左京亮殿」宛武田「晴信」書状写)。

3月10日、去る2月15日に信州在陣衆と共に葛山城を攻めて戦功を挙げた諏方清三・千野靫負尉・内田監物をはじめとする信州先方衆やその被官たちへ宛てて感状を発し、それぞれが敵兵ひとりを討ち取った戦功を褒め称えるとともに、今後ますます忠信を励むように申し渡している(『戦国遺文 武田氏編一』533・534号 武田晴信感状、535号 武田晴信感状写、536~538号 武田晴信感状、539号 武田晴信感状写、540号 武田晴信感状、541号 武田晴信感状写、542~545号 武田晴信感状、546号 武田晴信感状写、547・548号 武田晴信感状、549号 千野靫負尉勲功目安案)。

11日、葛山城域内の静松寺へ宛てて書状を発し、落合遠江守・同名三郎左衛門尉は最前からの筋目により、相変わらず忠信を励むつもりである旨を申されているのであれば、なおさらに感じ入ること、落合惣領のニ郎左衛門尉方が当手に属されたとはいえども、両所(遠江守・三郎左衛門尉)に対してはますます懇切に遇するつもりであり、この趣意を仰せ届けてもらいたいこと、これらを恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文 武田氏編一』495号「静松寺」宛武田「晴信」書状)。

14日、原左京亮・木嶋出雲守へ宛てて返書を発し、去る11日付の注進状が、今14日の晩に着府したので、被読したところ、越国衆が当国に出張してきたようであるが、元より承知のうえなので、いち早く出馬したこと、詳細については、その表に着陣した折に面談するべきこと、(原・木嶋の)存意もつぶさに承ること、詳細は飯富兵部少輔の方から書いて伝えること、これらを恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文 武田氏編一』550号「原左京亮殿 木嶋出雲守殿」宛武田「晴信」書状)。

20日、信州先方衆の室賀兵部大輔(信濃国室賀城主。越後国に亡命した村上義清の旧臣)へ宛てて感状を発し、去る15日の信州水内郡葛山城攻めにおいて、其方の被官である山岸清兵衛尉が小田切駿河守を討ち取った戦功に感じ入っていること、(山岸へ)今後ますます忠信を励むように申し含めてほしいこと、これらを恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文 武田氏編一』551号「室賀兵部太輔殿」宛武田「晴信」感状 封紙ウハ書「室賀兵部太輔殿 晴信」)。



弘治3年(1557)4月7月 越後国長尾景虎(弾正少弼) 【28歳】

4月18日、信州へ向けて出馬する(『戦国遺文 武田氏編一』550・558号の武田晴信書状によれば、越後衆の出張を受けて武田晴信父子は信州へ出馬してきたと述べているから、景虎は一部の越後衆を先に向かわせていたことになる)。

21日、信濃国善光寺(水内郡)に着陣すると、参陣途中の色部弥三郎勝長へ宛てて書状を発し、このたび善光寺の地に着陣したこと、甲州武田方の山田要害・福島城(ともに高井郡)が自落し、退去していた信州味方中はそれぞれ還住を遂げたので、取り敢えず御安心してほしいこと、味方中の皆々から寄せられた事情もあるので、早々に御着陣されるのを心待ちにしていること、どうにか参戦してもらえれば、めでたく喜ばしいこと、これらを恐れ謹んで伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』145号「色部弥三郎殿 御宿所」宛「長尾弾正少弼 景虎」書状【花押c】)。

25日、数ヶ所の敵陣や要害の根小屋を焼き払い、信濃国旭山城(水内郡)を再興して拠点と定め、甲州武田晴信を戦場に引き摺り出して決戦を挑むための駆け引きを始めると、武田側は和睦(将軍足利義輝から双方に停戦命令が下されている)を含めた様々な働き掛けをしてきたので(『戦国遺文武田氏編一』609号 武田晴信書状写)、今後の推移を見定めるために一旦、信濃国飯山城(水内郡)へと後退する。

5月10日、飯山の小菅山元隆寺(高井郡)に願書を納め、甲州武田晴信が一戦を避けているので、しばらく飯山の地に滞陣していたが、明日に上郡へ進出することを表明し、神助をもって勝利を得られれば、河中島において一所を、末代まで寄進することを誓った(『上越市史 上杉氏文書集一』147号「平景虎」願文写)。

同日、出羽国の味方中である土佐林能登入道禅棟(杖林斎。出羽国大浦の大宝寺新九郎義増の重臣。出羽国藤島城主))へ宛てて返書を発し、このたび信州へ出馬するにあたり、先頃に使者の野島平次左衛門(旗本衆)を(色部勝長に参陣を要請するため)瀬波(岩船)郡へ下向させた機会に、直筆をもって申し上げたところ、御懇報が寄せられたので、本懐を達してめでたいこと、先月18日に信州へ向けて越山すると、同25日には、数ヶ所の敵陣と根小屋を焼き尽くし、旭山要害を再興して本陣を据えたこと、この上は、ひたすら武略を駆使して(武田)晴信を引き摺りだし、彼の軍勢と一戦する覚悟を決めていたところ、敵地から様々な和平案を提示してきたので、一先ず静観していること、御承知の通り、爰元は抜かりなく堅陣を維持しているので、御安心してほしいこと、これらを恐れ謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』148号「土佐林能登入道殿」宛長尾「弾正少弼 景虎」書状【花押c】)。

12日、犀川を越えて香坂(埴科郡。海津のことらしい)の地を強襲して周辺を焼き払う。

13日、坂木・岩鼻(ともに埴科郡)の両地を蹂躙したところ、一・二千ほどの甲州武田軍前衛が姿を現したので、迎撃態勢に入ったが、相手が後退してしまい、捕捉するには至らなかった。

こうしたなか、飯山城の高梨刑部大輔政頼から陣中見舞いの飛脚が到来すると、15日、すぐさま高梨政頼へ宛てて返書を発し、当口の戦陣について、取り急ぎ御飛脚が到来し、満足していること、去る12日に香坂へ攻め込むと、彼の地一帯を焼き払ったこと、翌13日には板木・岩鼻の地を蹴散らしたこと、すると一・ニ千ほどの凶徒が現れたので、一斉に攻めかかろうとしたところ、凶徒は五里から三里も遁走してしまい、打ち漏らしたのは、実に無念であること、今後については天気が好転すれば、また進撃を再開すること、何かしら異変があれば申し入れること、これらを恐れ謹んで伝えた。さらに追伸として、先刻にも申し入れた通り、御用件があるため、草出(草間出羽守。高梨氏の重臣)を寄越されるのを心待ちにしていることと、大変な御負担ではあっても、御力を発揮されるのは今この時であり、もう言えるのはこれに尽きることを伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』149号「高梨殿 御報」宛「長尾 景虎」書状【花押c】)。

その後、飯山以北で武田方に属している信濃国衆の市川藤若(のち信房を名乗る)が拠る「野沢之湯」要害(高井郡)の攻略に向かい、高梨刑部大輔政頼を通じて帰属を勧告したところ(高梨政頼の使者として草間出羽守が野沢に赴いたと思われる)、市川に拒否される。

6月11日、再び飯山城へと戻った。



一方、この情報に接した甲州武田晴信(大膳大夫)は、16日、市川藤若へ宛てて書状を発し、取り急ぎ客僧をもって申し伝えること、去る11日に長尾景虎が飯山に移陣したそうであること、そして、このたび耳にした風聞によれば、長尾方の高梨政頼が野沢に現れ、其方(市川藤若)と景虎の和融を持ち掛けたそうであり、こうした互いにとって疑念が生じるような風説は伝えたくはないが、何事も隠し事をしないとする誓約の旨に従い、本心を残らず申し伝えること、幸いにも当陣は堅固であるばかりか、来る18日には、上州衆の全軍が当筋(信濃国深志城)に、相州北条氏康からは加勢として北条左衛門大夫(玉縄北条綱成。一族衆。相模国玉縄城主)が上田筋(小県郡)に到着するので、日増しに越国衆の威勢が減退していくのは明らかであるから、この機会に景虎を滅ぼしたいという晴信の宿願を達する決意であり、速やかに出撃してほしいこと、事態の推移により、そのたびに使者を派遣して一切を報知すること、これらを恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文 武田氏編一』561号「市川藤若殿」宛武田「晴信」書状写)。

23日、市河藤若へ宛てて書状を発し、このたび寄せられた注進状によると、(長尾)景虎が「野沢之湯」に侵攻し、その要害に攻めかかる素振りを見せる一方、(市河藤若の)籠絡を図るも、同意しなかったばかりか、要害の防備を尽くされたゆえ、長尾は何ら成果を得られずに飯山城へ後退したようであり、実に心地よく、このたびの其方(市河藤若)の振舞いはいずれも頼もしい限りであったこと、(長尾が)野沢に在陣していた折、飛脚をもって中野筋(高井郡)への援軍要請を受けたので、上原与三左衛門尉(直参衆)に先導させた西上野の倉賀野衆と、当手から信濃国塩田城(小県郡)の在城衆である原与左衛門尉(直参衆)に足軽衆をはじめとした五百名を、加勢として中野に在陣する真田(弾正忠幸綱。信濃先方衆。信濃国真田城主)の許へ急行させたが、すでに越国衆は退散していたので、無念極まりなく、いささかも対応を怠ったわけではないこと、こうした事態が二度とないように万全を期して、今後は湯本(野沢)から要請があり次第、こちらを通さずに、塩田城代の飯富兵部少輔(譜代衆)の一存で援軍を催す許可を与えたので、御安心してほしいこと、詳細は使者の山本菅助(直参衆)が口上すること、これらを恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文 武田氏編一』562号「市河藤若殿」宛武田「晴信」書状)。



こうしたなかで、越後国西浜口に侵攻してきた武田軍の別働隊を、急派した越後衆が鉄砲を撃ち掛けるなどして退けた。



この際、武田方の信濃先方衆である千野靭負尉(譜代衆・板垣信憲の同心)は、使者として西浜口の武田軍別働隊の陣所に赴いたところ、越後衆の襲撃に遭遇して鉄砲傷を負っている(『戦国遺文 武田氏編一』549号 千野靫負尉勲功目安案)。

そして、甲州武田晴信は自ら信府深志城(筑摩郡)から信濃国川中嶋(更級郡)の地へ進出すると、7月5日、板垣左京亮(実名は信憲。譜代衆)を始めとする別働隊をもって、信・越国境の信濃国小谷(平倉)城(安曇郡)を攻め落としている(『戦国遺文武田氏編一』549号 千野靫負尉勲功目安案、564~567号 武田晴信感状、568号 武田晴信感状写、569号 武田晴信感状、570号 武田晴信感状写、571号 武田晴信感状)。

6日、前線の水内郡で活動する宿将の小山田備中守虎満(譜代衆。信濃国内山城代)へ宛てて返書を発し、各々が奮励されているので、其元の陣容は万全であるとの報告が寄せられ、ひときわ満足していること、当口については、敵方の信濃衆である春日(信濃国鳥屋城主か)と山栗田(善光寺別当・里栗田氏の庶族)を追い払い、寺家(善光寺)・葛山衆に人質を差し出させたこと、嶋津(長沼嶋津氏の庶族である赤沼嶋津氏)については、今日中に服従する意思を示しており、すでに以前から誼みを通じているため、別条はないであろうこと、このうえは詰まるところ、信濃先方衆の東条(越後に逃れた東条氏の庶族。あるいは武田氏の東条(雨飾城)在陣衆か)と綿内(同じく井上氏の庶族。信濃国綿内城主)ならびに真田方衆と協力し、敵方の調略に努めるべきこと、今が信濃奥郡を制する好機と見極めており、いささかも油断してはならないこと、これらを恐れ謹んで伝えている。さらに追伸として、内々に綱島(更級郡大塚。犀川河畔)の辺りに布陣するつもりでいたところ、よしんば越後衆が進撃してきたら、彼の地は防戦に適していないとする諸将の意見に従い、佐野山(同塩崎)に布陣したことと、この両日は人馬を休ませたので、明日に軍勢を進めることを伝えている(『戦国遺文武田氏編一』563号「小山田備中守殿」宛武田「晴信」書状)。



弘治3年(1557)8月 越後国長尾景虎(弾正少弼) 【28歳】

先月の信濃国小谷城陥落により、越後国西浜口(頸城郡)が危うくなったので、上田長尾越前守政景(景虎の姉婿。越後国坂戸城主)らを信濃国飯山城に残留させて、大きく後退したところ、その長尾政景から、同じく飯山城に留めた越後奥郡国衆の安田治部少輔長秀(政景とは姻戚関係にあると伝わる。越後国安田城主)を通じ、前線で孤立することへの不安を愁訴されたので、4日、上田長尾越前守政景へ宛てて書状を発し、このたび安田方をもって条々を仰せられたので、つぶさに御存分を聞き届けたこと、されば、(信州に)御出陣して御留守が長引くに至っては、万が一の事態が起こった場合、決して御進退を見放さないでほしいとの御存分を、くれぐれも承知していること、このような御懸念は御尤もであること、すでに信州の面々衆と一旦でも結んだ交誼の証として、今日に至るまでの間、長年にわたる加勢の苦労は並々ならぬものであったこと、まして浅からぬ因縁などがあるにもかかわらず、どうして貴所(長尾政景)の御事を見放せるわけがなく、この(景虎の)存分を安治(安田治部少輔長秀)に詳説したこと、ひとえに(長尾政景の)御心腹を頼もしく思っていること、それでもまだ御疑念があるならば、誓詞をもって示すこと、詳細については彼方(安田長秀)が雑談すること、これらを恐れ謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』150号 長尾「越前守殿」宛長尾「弾正少弼 景虎」書状【花押a3ヵ】)。

14日、旗本衆の重鎮である庄田惣左衛門尉定賢(公銭方)へ宛てて書状を発し、はやばやと西浜口に着陣したそうで、その殊勲は紛れもないこと、彼の口へ諸勢を派遣したからには、綿密に談合して陣容を整えるべきこと、この正念場は方々の奮励に掛かっていること、これらを謹んで伝えた。さらに追伸として、これらの旨を皆々に周知することと、取り分け小越と平林(ともに旗本衆)に申し伝えることを指示した(『上越市史 上杉氏文書集一』135号「庄田惣左衛門尉殿」宛長尾「景虎」書状写)。

その後、上田長尾越前守政景らが飯山方面に進出してきた甲州武田軍の信濃駐留部隊を信濃国上野原(水内郡)の地で撃退すると、29日、上田衆の南雲治部左衛門尉に感状を与え、このたびの信州上野原の一戦における並外れた軍功を称えるとともに、今後のさらなる奮闘に期待を寄せた(『上越市史 上杉氏文書集一』152号「南雲治部左衛門(尉)とのへ」宛長尾「景虎」感状写)。


同日、長尾政景が、被官の大橋弥次郎に感状を与え、このたびの信州上野原の一戦における並外れた軍功を称えるとともに、今後のさらなる奮闘に期待を寄せている(『上越市史 上杉氏文書集一』153号「大橋弥次郎殿」宛長尾「政景」感状写)。

同日、長尾政景が、被官の下平弥七郎に感状を与え、このたびの信州上野原における武田晴信との一戦に勝利した際の見事な軍功を称えるとともに、今後のさらなる奮闘に期待を寄せている(『上越市史 上杉氏文書集一』154号「下平弥七郎殿」宛長尾「政景」感状写)。


※ ウェブサイト『松澤芳宏の古代中世史と郷土史』上野原の戦い、飯山市静間田草川扇状地説



一方、甲州武田晴信(大膳大夫)は、別働隊が飯山口に進攻して敵勢と交戦したのを受けて、8月15日、東条(雨飾城)在陣衆へ
宛てて書状を発し、本日における皆々の奮戦は快然であること、ただし、今後は千曲川を渡河する際には、十分に瀬踏みをして軽はずみな進軍を慎むべきこと、皆々で相談し合い、堅実な攻戦を心掛けるべきこと、これらを恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文 武田氏編 第一巻』 574号 武田晴信書状写 )。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』
◆『新修七尾市史7 七尾城編』文献史料編 第三章 未曾有の内乱の中で
◆『戦国遺文 武田氏編 第一巻』

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越後国上杉輝虎(長尾宗心・景虎)の略譜 【7】

2012-08-20 21:51:50 | 上杉輝虎の年代記

弘治2年(1556)6月 越後国長尾宗心(弾正少弼入道) 【27歳】

越後国主からの引退を決意すると、6月28日、恩師である長慶寺の天室光育(越後国柿崎の楞厳寺の住持)の衣鉢侍者へ宛てて書状を発し、謹んで言い及ぶこと、このたび宗心一身上の件において、両使をもって条々を申し述べるにより、必ずや御聞きになって承知されてほしいこと、なおさらに各々にも仰せ聞かせてもらうため、こうして一書を捧げること、一、当国の数年にわたる錯乱の状況については、深く御見聞の通りであること、わけても宗心の先祖以来、 屋形(守護上杉氏)対しては、忠はあっても誤りがなかったところ、驚きは、この名字(守護代長尾家)を断絶させる仕打ちを受けたのは一代ではないこと、それから先年には、関東の屋形である可諄(山内上杉顕定)が道七(長尾為景)を退治するとして、この国に向かって御進陣されたこと、これにより、(道七は)ひとまず越中国へ馬を入れられ、翌年には、佐州への渡海、蒲原(越後国蒲原郡)着津、寺泊(同山東郡)・椎谷(同刈羽郡柏崎)の一戦に大勝され、おまけに長森原(同魚沼郡上田荘)で可諄を御没命に至らせたこと、それ以外にも国中所々で挙げた軍功は枚挙に暇がなく、このように道七が戦術を励まれたので、(越後国に)二度も元通りの和平を取りまとめると、一家を始めとして外様・諸傍輩は残らず、道七の骨折りで忠賞を宛行われたこと、この厚恩を忘れてはならないところ、芳恩を忘れて国中の衆は一味同心し、(道七に)謀叛を企てたこと、およそ道七は軍配を振るい、二十ヶ年にわたって戦いに敗れはしなかったこと、しかしながら、その道七が死去した折には、(春日山城の)膝下まで凶徒が攻め寄せてくる状況に陥ったので、(宗心も)実に甲冑を着用して葬送に臨んだこと、それからは、兄である晴景を病者と侮ってか、奥郡の者は上府を遂げず、間には遺恨があると称し、勝手放題に振る舞いを果てしなく続けたこと、宗心は若輩ながらも、あるいは亡父、あるいは名字(長尾家)に汚点を残すゆえ、はからずも上府して春日山城に移ると、意外にもあっさり国中が平穏無事に収まったので、皆々も近頃では、何はともあれ(越後国のために)駆けずり回っている様子であること、一、信州における戦陣については、隣国であるのは勿論とはいえども、村上方(兵部少輔義清)を始めとして、井上(左衛門大夫昌満か)・須田(相模守満国か)・嶋津(左京亮忠直。のち淡路守)・栗田(善光寺別当の里栗田氏から分かれた山栗田氏)そのほかとは絶え間なく相談し合ってきたこと、特に高梨(刑部大輔政頼)とは格別な厚誼を結んでおり、いずれにしても(信州味方中を)放っておけなかったこと、彼の国の過半を晴信(甲州武田晴信)は手に入れられ、もはや国情が一変してしまったので、二度にわたって出陣したこと、昨年においては、旭の要害(信濃国水内郡。甲州武田方の拠点である旭山城)に向かって新地を取り立て、敵城(旭山城)を封じ込めておき、(武田)晴信と興亡の一戦を遂げる不退転の決意で臨んでいたところ、甲陣は勢いを失い、駿府(駿州今川義元)を頼み、無事を様々に懇願し、誓詞ならびに条目以下を調えられたうえに、(今川)義元から様々な御意見が寄せられたので、多くの障害に折り合いをつけ、旭の地を残らず破却させると、和与を受け入れて、馬を納めたこと、これにより、彼の味方中は今もって安泰にされていること、自賛のようであるとはいえ、宗心の助勢がなければ、各名字が滅亡したのは疑いないこと、一、この名字(長尾家)が関東から罷り移って以来、当国の行事を担ってきたが不安や異論などはあったこと、万が一にも当代(宗心)に至って(領国経営に)不足を生じさせるのは、堪え難いので、ますます当家の威勢を上げ、家中まで慣れ親しんでほしいと本心から思っているところ、皆共の心構えはまちまちでまとまりに欠けるゆえか、あらゆるものから見放された状況であること、このような有様では、まことに続け難いので、ついには進退を正す以外になかったこと、およそ、先祖の魯山(長尾高景)は、その頃は無双の勇将として、震旦(明)までも知れ渡り、絶海和尚(中津。禅僧。夢窓疎石国師の弟子)が入唐した折には、(天子から当朝における)その武功を問われ、魯山の形像を所望されたにより、和尚は帰朝後、ついに絵図を画師に描かせて、大唐に送り届けられたという話であり、そればかりか、野州結城(下総国結城氏朝)の御退治の折、因幡守(長尾実景。高景の孫)は赤漆の御輿を御免許され、京都(将軍足利義教)の御代官として発向し、彼の要害(結城城)は東国第一の名地であるとはいえ、これを攻め落とされ、ほかならぬ御感により、綸旨ならびに都鄙(京都・鎌倉公方)の代々における御内書も数通を頂戴し、今なお当代が所持していること、通窓(長尾頼景。実景の従弟)・実渓(長尾重景)父子は関東に在陣し、至る所で軍功を挙げたこと、祖父の正統(長尾能景)についても、当方(越後国上杉房定)の代官として、関左へ越山し、椚田城(武蔵国多西郡)・真(実)田城(相模国西郡)を落居させた時節、当手の者共が手を砕き、その武威は恐れながらも天下に誉れを振るわれたこと、亡父(長尾為景)は二八(十六歳)の頃、正統に従って関東へ出陣したのを皮切りに、信州・越中、当国において戦功を挙げたこと、およそ漢の高祖(劉邦)は、その生涯で七十余戦したそうであるが、道七は在世中に百余戦していること、ひたすら冗長な話で、恐れ入りながらも、このついでにすっかり申し上げるばかりであること、それからまた、宗心においては、幼稚の時分に父を失い、間もなくして古志郡に罷り下ったところ、若年と見くびり、近郡の者共が方々から栃尾城に向かって地利を築き、時には奇襲を仕掛けてきたので、その防戦に及んだこと、文武について言えば、太公(呂尚か)の兵法と越王の勾践が賢臣の范蠡の補佐によって会稽の恥を雪がれた故事であること、ここに宗心は、その当時は幼くして兵法の師を持たず、そうはいっても、熱心に弓矢の業を受けたというわけであり、代々伝わる軍刀を振るい、諸口において大勝し、討ち取った凶徒は数知れないこと、その結果、この家(長尾家)を少しばかり再興し、おまけに先年は物詣のために上洛した折、参内に及び、天盃御剣を頂戴したのは、父祖以来、はじめてこのような幸運に巡り合い、誠に名利過分の極みであること、そのほか御免許された栄典などは多いとはいえ、委細は承知されている通りであるから、申し上げないこと、されば、今は国中も豊饒であるところ、爰元に長居して不当な干渉をされでもしたら、今までの功績も台無しになり、また、召し使う者共への体裁も悪く、ますます立場がないこと、古人曰く、功成り名を遂げて身退く、と聞き及んでいるので、拙者もこの語に倣い、遠国へ移り住む決心を固めたこと、幸いにも家中譜代には優れた者が連なっているので、(家中譜代の者たちが)談合を遂げて相談するのが肝心であるにより、(天室光育から)御尊意を言い含められてほしいこと、宗心が相応に意見した時分には、いずれも撥ねつけられたたので、ともかく遠境へ移り、この国の有様を人づてに聞き及ぶつもりであること、皆々で相談し合えば、おそらくは日増しに(国政は)平穏無事となるのではないかと、ただし、隣国のように見聞する時は、取り立てて支障はないのではないかと思われ、確かになんとなく言えば、鳥の寿命の通りであるというように、推察していること、返す返すも、今回の出奔については、(宗心に)他意があるように、吹聴する輩もいると思われるので、愚意のあらましと▢意を申し上げるための条書を、にわかに書き記したので、草稿を練らず、筆に任せたこと、きっと文章が前後していたり、重字や落字なども目だって多く、他見の嘲笑は憚られる思いであること、それを差しおいても、この筋目ばかりは御納得されるのを願い望むこと、この旨を(天室光育へ)披露してほしいこと、これらを恐れ敬って申し
伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』134号「長慶寺 衣鉢侍者禅師」宛「長尾弾正少弼入道(宗心を欠く)」書状写、258号 長尾景虎願文写)。



弘治2年(1556)8月 越後国長尾景虎(弾正少弼) 【27歳】

国主不在の混乱に乗じ、甲州武田晴信(大膳大夫)に内応して越中国に出奔した大熊備前守朝秀(越後国箕冠城主)が、国内外に味方を募って越後攻略を企てるなか、姉婿の上田長尾越前守政景(譜代衆。越後国坂戸城主)から説得を受けると、17日、長尾政景へ宛てて書状を発し、何度も繰り返して言い古した通り、越後でのあらゆる物事に嫌気が差すなどしたこと、(長尾政景も)御存知の通り、(景虎は)病者であるといい、健気に世話をしてくれる者を持たないので、越州を立ち去って以来、一切の交渉と望郷の念を絶ったこと、久しく他国に滞留しているとはいえ、それに嫌気が差して(越後へ)下国したいとも思っていなかったこと、(景虎が)隠退に及ぼうとも、いまさら国衆に御厄介もないのではないかと思われ、この胸中に偽りはないとはいっても、貴所(政景)をはじめ、国中の面々の心積もり(景虎の復帰を企図)を無言で済ませてはおけないといい、それからまた、弓矢から道から逃げ出したように、どうあっても非難されるので、どれもこれも耳を傾けず、貴所(政景)の御意見に任せること、ここで申し述べた事柄に少しも偽りはないこと、(偽りあれば)日本大小神祇、八幡大菩薩、天満天神、氏神春日大明神の御罰を蒙るべきこと、(政景に対し)少しも隔心はないこと、これらを恐れ謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』136号 長尾「景虎」書状【花押a3】 礼紙ウハ書「越前守殿 景虎」)。

これにより、法号の宗心を廃して俗名の景虎に戻す(花押もa型に戻した)。



この間、大熊備前守朝秀は旧知である陸奥国衆の山内刑部大輔舜通(三郎。奥州会津(黒川)の蘆名家に属する。陸奥国横田城主)に音信を通じて協力を求めると、13日、その山内舜通が、大熊備前守朝秀へ宛てて返書を発し、来書の通り、久しく交信が途絶えていたところ、このたび簡中が届いたので、満足極まりないこと、さらには(武田)晴信からの御音書も添えられていたので、ひたすら恐縮しており、このところを彼方(武田晴信)にも御伝達願いたいこと、越州乱入については、小田切安芸守(蘆名家の外様衆。会津領越後国石間城主)が奔走する手筈は整っているそうであり、当方も必ず黒河(越後奥郡国衆の黒川下野守(実名は平実か)あるいは奥州会津蘆名盛氏か)と談合して、努めて奔走するつもりであること、これらを恐れ謹んで伝えている(『新潟県史 資料編5』3755号「大熊備前守殿」宛山内「舜通」書状写、3756号 長尾為景書状写)。



23日、越中口から侵攻した大熊備前守朝秀を越中・越後国境の越後国駒帰(頸城郡)の地で撃破すると、25日、戦功を挙げた上野中務丞家成(越後国魚沼郡の節黒城主)に感状を与え、去る23日に越中口から大熊備前守(朝秀)以下が(越後国へ)乱入し、駒帰の一戦に折において、とりもなおさず奮闘されたのは、並外れていること、今後ますます心掛けられて、忠節を励まれるのが第一であること、これらを恐れ謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』137号 「上野中務丞殿」宛長尾「景虎」書状写)。


この結果、越後国奥郡に対する会津衆の策動も失敗に終わり、反乱の首謀者である大熊備前守朝秀は甲州に落ち延びて甲州武田家に仕えた。


※ もし、山内刑部大輔舜通と談合した「黒河」が、越後奥郡国衆の黒川下野守(越後国黒川城主)であるならば、数年後に幼い竹福丸が当主として所見されるため(『上越市史 上杉氏文書集一』211号 長尾景虎掟書写)、当主の座から降ろされた可能性がある。



弘治2年(1556)9月 越後国長尾景虎(弾正少弼) 【27歳】

このたび公田段銭を徴収すると、朔日、大熊備前守朝秀の退転後、新たに構成された公銭衆の某貞盛・庄田定賢(惣左衛門尉)・某秀家(蔵田五郎左衛門尉か)が、越後上郡国衆の山田彦三郎へ宛てて請取状を発し、頸城郡夷守郷河井村・同阿弥陀瀬村における益田分の段銭について、確かに受領したことを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』138号「貞盛・(庄田)定賢・(蔵田ヵ)秀家」連署段銭請取状写)。


◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』
◆『新潟県史 資料編5 中世三』
◆『越後入廣瀬村編年史 中世編』

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越後国上杉輝虎(長尾宗心)の略譜 【6】

2012-08-19 05:29:08 | 上杉輝虎の年代記

天文23年(1554)3月8月 越後国長尾宗心(弾正少弼入道) 【25歳】

3月15日、越後国魚沼郡波多岐荘の領主(越後国中郡の国衆)である上野源六家成(越後国魚沼郡の節黒城主)と下平修理亮(実名は吉長か。同千手城主)の間で起こった境界地相論を裁定し、下平側の証文を有効と認める。


16日、三奉行の大熊朝秀(前上杉氏の譜代家臣。越後国頸城郡の箕冠城主)が、同僚の本庄実乃(大身の旗本衆。同古志郡栃尾城主)の許へ書状を送り届け、昨日は殿様(宗心)が御機嫌を良くされていたので、貴所(本庄実乃)も我々(大熊朝秀)も事の次第も良くて帰宅したこと、満足な思いであったこと、(本庄実乃も)さぞかし御同意であろうこと、よって、上野方と下平方の公事の件については、(景虎は)下修(下平修理亮)の御言い分を聞いて事の是非を決められたほどに、上野方へ御意見されるようにとの仰せであり、最善の結果を得られたと思うばかりであること、およそこの結果については、もはや論じるまでもないのではないかと考えて残し置いたこと、早速にも御落着を遂げられ、下平方へ御返しになるのが当然であること、詳細は莅蔵(莅戸蔵人。本庄実乃の被官か)が筋立てて説明申し上げるので、要略したこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている。さらに追伸として、早速にも御落着のうえ、下平方へ御一札を進められるのが適当であることと、委細は莅蔵が申し述べられることを伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』113号 大熊「朝秀」書状 封紙ウハ書「本新 参御宿所 朝秀」)。

同日、本庄実乃が、上野氏の菩提寺の住持である妙雲院小式(興徳寺の住持を兼ねる。上野氏の出身か)へ宛てて書状を発し、上野殿が下平方へ言い立てた相論について、日頃から貴院(妙雲院小式)が色々と(上野家成へ)事情を説明申し上げられたとのこと、それから、彼の御方(上野家成)においては、(本庄実乃が)肩入れして指南を務めるので、どちらにしても抜かりなく何度でも御存意通りに説明申し上げること、そうではあっても、双方が言葉巧みに主張をぶつけ合うばかりというのは、好ましい状況ではないので、互いの理非を一書にまとめ、すり合わせて判断を下し、内輪で事情を知る方々へも御尋ねしたところ、下平方の言い分は紛れもないとのこと、いかにも拙者においても、その立場を取っているので、以前に上野殿へ直々に意見していたこと、(その時は)はっきりとした御返事を得られなかったこと、万が一にもこの主旨を承引しないのであれば、公事に着手されるのが、下知を得られるにおいては大切であること、ここは一つ(妙雲院が)筋目の御意見あって、上野殿は(下平方へ)土地を引き渡されるのが適当であると思われること、つまりは貴院の御手並みにかかっていること、これにより、大備(大熊朝秀)が(本庄実乃へ)寄越された捻(書状)を御披見のために送付すること、くれぐれも御熟慮されるのが適当であること、上野殿から御報が拙者へ寄せられ次第、下平方は帰宅されるそうであること、これらを恐れ敬って申し伝えている。さらに追伸として、上野殿においてはまだ御若いので、貴院が御意見されるのが適当であること、それがし(本庄実乃)もわずかでも不利益を被らせるような指南はしないこと、御報が寄せられ次第、適切に取り成し、下修(下平修理亮)へ下し渡すこと、一切は(上野家成の)御利益に結びつくようにと思って、このように申し入れたこと、色好い返事が寄せられるのを待望していることを申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』114号 本庄「実乃」書状 礼紙ウハ書「妙雲院 御同宿中 本庄新左衛門尉 実乃」)。

23日、在府中の上野家成が、本庄実乃の許へ書状を送り届け、あらためて申し上げること、よって、下平へ拙者(上野家成)が言い立てた相論は、 殿様(宗心)が御隠居なさる意向を仰せ出されたので、諸公事が停止されてしまった事態を、貴殿(本庄実乃)から直々に承ったからには、下平も拙夫(上野家成)も帰宅するようにと、大備(大熊朝秀)から捻(書状)を給わったので、内々に帰宅するつもりでいたとはいえ、下平の心底を見定めたいとの思ったので、何はともあれ帰宅を延引したところ、そうしたなか、恐れていた通り、当月20日に(下平が)上田堵の地へ高橋という者を入部させたとの事実が、在地からの飛脚によってもたらされたこと、時宜を弁えない行為であり、口惜しいのは言うまでもないこと、道七様(長尾為景。宗心の父)御在世の時分には、一貫して違乱せずに彼の土地に手出しをしなかったこと、その後に黒田方(秀忠。長尾為景の側近であった)が彼の地域の経営に奔走していた時分には、その混乱に乗じ、空白地となっていた彼の地を、一両年にわたって横領したこと、 殿様(景虎)が当地(節黒城か)へ御移りの時、大備(大熊朝秀)の内意によるものとして、針生(通称は藤兵衛尉か。上野・下平の隣人あるいは公銭方の役人か)の調停をもって返し置いたこと、御両所(奉行衆)の間でも御落着されていないところに、あのような(下平の)手出しは不埒でどうしようもないこと、つまりは前述の経緯を御承知してもらえないとしても、往時の御法に則られての御差配が第一であると思われること、詳細は先だっての一書であからさまにしており、この紙面は要略したこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』115号 上野「家成」書状 礼紙ウハ書「本庄新左衛門尉殿 参御宿所 上野源六 家成」)。


※ 上野家成が述べている「殿様当地へ御移之刻」について、景虎が上野の本拠である節黒城へ移ったと考えたのは、春日山城であれば御当地と記したであろうことと、上野の関係地域での事情を語っているなかでの当地であることによる。


8月13日、大熊備前守朝秀が、在府中の上野源六家成へ宛てた書状を使者に託し、あらためて書札をもって申し上げること、よって、春中に下平方と応酬された相論について、御出府して互いの御証文など差し出されたところ、下平方の証文が正真正銘であり、庄新(本庄実乃)も聞き分けられので、この紙面であからさまにされた通り、落着したにもかかわらず、このたび重ねて上訴に及ばれたのは、今更めいていること、おまけに、つい先日には御家風の佐藤方が帰郷され、彼の地に標杭を打ち込まれたとの事実を承ったこと、言語道断で、どうしようもないこと、しかしながら、ひょっとして吉川方(上野家成の側近か)をもって在地に内命を下し、あのような暴挙に出たのかも知れないと思い、(吉川方へ)問い質したところ、一切の関与を否定されたこと、彼の公事については、いくら不服を仰せ立てられたとしても、ひとたび結審したからには、再審の請求は認められないこと、このうえにおいては、下平方へ所務されるように申し越すこと、それを心得られるのが肝心であること、なお、詳細は彼の使者が口上するので、この紙面は要略したこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている。さらに追伸として、本来であれば、庄新(本庄実乃)も加判するべきとはいえ、春の結審以来、未だに奉書への加判を拒否されているので、某(大熊朝秀)のみで申し入れたこと、これについての詳細も、彼の者に口上を申し付けたことを申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』117号「上野源六殿 御宿所」宛「大熊備前守朝秀」書状)。



天文24年(1555)正月2月 越後国長尾宗心(弾正少弼入道) 【26歳】

越後国安田条(刈羽郡鵜河荘)の領主である安田毛利越中守景元(前上杉家の譜代衆。越後国刈羽郡の安田城主)から、三奉行のひとりである直江与兵衛尉実綱(大身の旗本衆。越後国山東(西古志)郡の与板城主)を通じ、同じ毛利一族で越後国北条(刈羽郡佐橋荘)の領主である北条毛利丹後守高広(前上杉家の譜代衆。越後国刈羽郡の北条城主)が隣郷の善根の地を武力で占拠したとの急報が寄せられると、正月14日、安田毛利越中守景元へ宛てて返書を発し、この間は直江与兵衛尉(実綱)の所へ御懇書を寄越されたこと、本望極まりないこと、されば、柿中(柿崎中務)が上条(刈羽郡鵜河荘)の地に在陣していること、此方(越府)からは二名の旗本を差し向けておいたこと、上条と琵琶嶋ら在陣衆に御助言されて、首尾よく敵へ攻め掛けるように頼み入ること、その口の状況をまめに御注進されるのが肝心であること、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』121号「毛利越中守殿 御宿所」宛「長尾入道宗心」書状【花押b】)。


● 柿中:永禄3年から越後国長尾景虎の年寄衆として現れる柿崎和泉守景家の
  前身であろう。柿崎氏は越後国守護上杉家譜代の重臣であった。越後国頸
  城郡の柿崎城主。

● 上条:通称・実名不詳。天文22年に死去した上条惣五郎頼房の次代に当た
  る人物。越後国守護上杉家の一家衆であった。越後国刈羽郡の上条(黒滝)
  城主。

● 琵琶嶋:通称・実名不詳。越後国守護上杉家の譜代家臣。越後国刈羽郡の琵
  琶嶋城主。


それから程なくして自らも出馬し、早々に北条丹後守高広を屈服させて事態を収拾すると、2月3日、三奉行の本庄新左衛門入道宗緩(実乃。大身の旗本衆。越後国古志郡の栃尾城主)・大熊備前守朝秀(前上杉家の譜代衆。越後国頸城郡の箕冠城主)・直江与兵衛尉実綱が、安田越中守景元に血判起請文を渡し、このたびの善根の一件については、図らずも(宗心が)当口まで出陣されたところ、(安田景元と北条高広は)御骨肉の間柄であられ、御代々の御筋目も自明であるとはいえども、ひたすら宗心の面前で精励される御覚悟をもって、真っ先に(宗心との)御相談に臨まれたこと、(宗心は安田景元を)本当に御頼もしい存在であると、大いに喜ばれていると思われること、そういうわけであるから、宗心はこれから先、(景元を)微塵たりとも疎かにはされないこと、万が一にも、長年の遺恨があると称して、何方からどのような言い掛かりをつけられたとしても、(宗心は)景元御父子のことを、どうあろうとも見放したりしないのは、深く御心に留められていること、そうは言っても、御前(景元)より世間に対されて、言質を求めたりしては、それでは収まりがつかないこと、ますます相互の間で御支障がないように努めること、これらを神名に誓っている(『上越市史 上杉氏文書集一』122号「安田越州 参」宛「本庄新左衛門入道宗緩・大熊備前守朝秀・直江与右兵衛尉実綱」連署起請文)。


そして帰府して間もない、13日、安田毛利越中守景元へ宛てた書状を飛脚に託し、このたびの一件について、率先して格別に奮励されたのは、誠に御頼もしい存在であり、ひたすら本望であること、ことさら在陣中の様々な御心遣いには、感謝してもし尽くせないこと、こうした存分については、何はさておき、あらためて使者をもって申し述べるつもりであること、それでは準備に時間を要し、却って礼をしまうので、まずは脚力をもって申し上げること、一切合切は来信を期すること、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』123号「毛利越中守殿 御宿所」宛「長尾入道宗心」書状【花押b】)。


この騒動により、北条毛利丹後守高広は、越後国長尾家に属する領主中の席次を大きく下げられている。減封などの処分を受けた可能性は高いが、今のところ史料では確認できない(『上越市史 上杉氏文書集』3542号 祝儀太刀次第)。


4月10日、府内の称念寺へ宛てて証状を発し、称念寺領ならびに諸末寺における郡司不入・諸役免許の件については、(守護代長尾家)御代々の判形および亡父(長尾為景)の一札に明白であるとはいえ、それでもやはり、このたび事新しく寄進して諸役を停止すること、この旨をもって、執務あるべきこと、これらを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』125号「称念寺」宛長尾「景虎」判物)。

15日、府中八幡宮へ宛てて証状を発し、府中八幡領における郡司不入・諸役免許の件については、御代々の判形および亡父一札に明白であるとはいえ、それでもやはり、このたび事新しく寄進して諸役を停止すること、この旨をもって、執務あるべきこと、これらを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』126号「府中八幡宮 社人中」宛長尾「景虎」判物写)。



天文24年(1555)7月閏10月 長尾宗心(弾正少弼入道) 【26歳】

甲州武田軍の攻勢に窮する信濃味方中の高梨刑部大輔政頼(信濃国高井郡の中野城主)から使者が到来すると、7月3日、取次の直江与兵衛尉実綱が、高梨氏の年寄中へ宛てて返書を発し、御芳書の通り、このたび思い掛けない事態を受けて、その地(信濃国水内郡の飯山城)に御在留されているため、内々にこちらから御音信に及ぶべきところ、近日中に東条(雨飾城。同埴科郡英田荘)へ向かって手立てを講じられるとの御意向を示されたので、只今は衆議の途中であること、このように取り乱しているゆえ、遅れに遅れてしまい、御知らせができず、あたかも(高梨政頼を)疎かに扱ったようで、悩ましいこと、そして、御馬を越中へ御上せになったのに伴い、過書の発給を御求めになられたこと、とりもなおさず整えて御使者に渡したこと、何事でも爰元(直江実綱)に相応の御用所を申し付けてもらえれば、いささかも抜かりなく奔走する覚悟であること、従って、安倍修理亮(高梨政頼の側近)が仰せの趣は、彼の御使者の御口上により、これまたつぶさに承ったこと、詳細の旨も心得たこと、何はさておき、あらためて申し述べるつもりであり、この辺りについては(高梨政頼の)御意を得られるように御取り次ぎ願いたいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』106号「高梨殿 参 人々御中」宛「直江与右兵衛尉 実綱」書状)。


その後、信州へ出馬すると、甲州武田方の信濃国奥郡における拠点の旭山城(水内郡)に向城を築く(『上越市史 上杉氏文書集一』134号 長尾宗心書状写)


※ 戦陣においては俗名の景虎に復している(『越後入廣瀬村編年史 中世編』)。



これに対して信濃国川中嶋地域の大塚(更級郡)に本営を置く甲州武田晴信(大膳大夫)は、旭山城に三千名の将兵と弓八百張・鉄砲三百挺を配備している(『上越市史 資料編3』814号 妙法寺記)。



7月19日、川中嶋の地において甲州武田軍と戦う。


武田晴信は、その日のうちに根々井右馬允・向山主税助・大須賀久兵衛尉・内田監物をはじめとする多数の将士に感状を与えている(『戦国遺文 武田氏編 第一巻』436~441号 武田晴信感状、442号 武田晴信感状写、443号 武田晴信感状、444・445号 武田晴信感状写、447・448・456号 武田晴信感状、


この合戦で勝敗は決せず、その後は対陣へと移行する。


こうしたなか、8月20日、越後国長尾軍の信州越山と連動し、賀州一向一揆と戦うために彼の国へ出陣した越前国朝倉軍の主将である朝倉太郎左衛門入道宗滴(太郎左衛門尉教景。越前国朝倉家の当主である朝倉義景(左衛門督)の陣代)が、飛州姉小路三木右兵衛尉良頼へ宛てて書状を発し、長尾方の信州出陣に伴い、陣僧を差し遣わすにより、越中国の境目まで、路次番を仰せ付けてもらえれば、祝着であること、よって、加州出陣のため、去月21日に一乗を罷り立ち、金津に着陣し、翌22日は境目の細呂木山に野陣、23日は加州橘山に陣取り、足軽を遣わして村々を放火、そうしたところに、若き者共は断りもなく、大聖寺・千崎・南郷の三城、それから菅生・敷地・河崎の地まで攻め進み、敵の首六・七十を斬り取り、そのほか数輩を福田川へ追い落としたこと、翌日は川から拾い上げた鑓・武具等は数知れないこと、味方にも死傷者を出したこと、23・4日は橘山に居陣し、25日は敷地へ移って陣替えすると、江沼郡▢の山際を残らず焼き払ったこと、ところが、軍勢を大聖寺・敷地・菅生の三ヶ所へ居陣させたところ、今月13日に四郡の者共が猛勢をもって打ち立ち、山際・道筋・浜手の三方から攻め寄せて来たこと、しかも浜手の人数は一万ほどにて、午刻(正午前後)に当地の後ろの山へ二・三町までにじり寄り、すでに矢を射掛けているので、あらかじめ申し付けていた浮勢のうちから七・八百を召し連れて立ち向かい、敵を追い散らし、首を五・六十を斬り取り、(大聖寺)本城へ帰ったところ、また道筋・山際の両敵の数万人が敷地・菅生の両口へ向かって未刻(午後2時前後)に押し掛けてきたので、(敷地・菅生の両勢は)柵際で数刻にわたって戦い、斬り勝ち、斬り崩し、数百人を討ち取るも、深追いはしないように、申し定めていたので、十町ばかり追って切り捨てたところで踏み止まったこと、思いのほか敵は多勢をもって手強く襲い掛かってきたこと、そうは言っても、諸口は我等(朝倉宗滴)の下知通りに足並みを揃え、各々が手を砕き、敵兵を分捕って高名を挙げたこと、石川・河北の鑓をも差し出した者たちの大略を討ち取り、残党等は兵具以下を全部捨て、能美・石川へ敗走したという情報を、下郡より罷り出でた者が確かに申していること、されば、この表は何はともあれ一変させたこと、時宜にかなった状況であり、御安心してほしいこと、あれやこれやは後音を期すること、これらを恐れ謹んで申し伝えている。さらに追伸として、また高野山の朝覚庵が今もって逗留しているのかどうか、承りたいことを申し伝えている(『富山県史 史料編Ⅱ 中世』1575号「三木右兵衛尉(督) 御宿所」宛朝倉「宗滴」書状写)。

同日、朝倉宗滴から、直江与右兵衛尉実綱へ宛てて書状が発せられ、信州御進発の件について、取り急ぎ使僧をもって申し上げること、詳しく御取り成してもらえれば、本望であること、去月21日に一乗谷を罷り出で、金津に着陣、22日は加州橘山に陣取り、足軽を遣わし放火、そうしたところに、若き者共は断りもなく、大聖寺・千崎・南郷の三城、それから菅生・敷地・河崎まで攻め進め、敵の首六七を切り捨て、そのほか数輩を福田川へ追い落としたこと、翌日は川より拾い上げた鑓・武具等は数知れないこと、味方にも死傷者を出したこと、23・4日は橘山に居陣し、25日は敷地へ移って陣替えすると、江沼郡▢の山際を残らず焼き払ったこと、ところが軍勢を大聖寺・敷地・菅生の三ヶ所へ居陣させたところ、今月13日に加賀国四郡の者共が猛勢をもって打ち立ち、山際・道筋・浜手の三方から攻め寄せて来たこと、しかも浜手の人数は一万ほどにて、午刻に当地の後ろの山へ二・三町までにじり寄り、すでに矢を射掛けているので、あらかじめ申し付けていた浮勢のうちから七・八百を召し連れて立ち向かうと、敵を追い散らし、首を五・六十を斬り取り、(大聖寺)本城へ帰ったところ、今度は道筋・山際の両敵の数万人が敷地・菅生の両口へ向かって未刻に押し掛けてきたので、(敷地・菅生の両勢は)柵際で数刻にわたって戦い、斬り勝ち、斬り崩し、数百人を討ち取るも、深追いはしないように、申し定めていたので、十町ばかり追って切り捨てたところで踏み止まったこと、思いのほか敵は多勢をもって手強く襲い掛かってきたこと、そうは言っても、諸口は我等(朝倉宗滴)の下知通りに足並みを揃え、各々が手を砕き、敵兵を分捕って高名を挙げたこと、石川・河北の鑓をも差し出した者たちの大略を討ち取り、残党等は兵具を全部捨て、能美・石川へと敗走したという情報を、下郡から罷り出でた者が確かに申していること、されば、この表は何はともあれ一変させたこと、時宜にかなった状況であり、御安心してほしいこと、いずれにしても、この城については、たとえ能美・石川を手に入れたとしても、本陣に定めており、要害普請以下を申し付け、半ばほどであること、なお、英林寺が演説すること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『朝倉始末記』巻第三 )。


22日、7月の川中嶋合戦で剛の者を討ち取った旗本衆の福王寺兵部少輔殿(重綱、孝重と定まらない。もとは越後国中郡の国衆。越後国魚沼郡下倉山城主)に感状を与え、このたび信州川中嶋において功名を遂げ、とりわけ「面白者」を討ち取ったのは、並外れた殊勲であること、今後も心掛けるべきこと、これにより、小嶋分一騎前を出し置くこと、これらを申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』151号「福王寺兵部少輔殿」宛長尾「景虎」感状写)。



※ 『上越市史 上杉氏文書集一』などは、この感状を弘治3年に仮定しているが、『越佐史料四』(歴代古案八〇)に従った。


10月に入り、打ち続く滞陣に士気が低下した越後衆に誓詞の提出を求め、一、景虎(宗心)が何ヶ年にわたって御張陣されようとも、各々はどうあれ拙者一身だけは、またとない御指図通りに在陣を続け、御馬前において奮励すること、一、当陣中において、喧嘩無道を、召し使う者が働いた場合には、とりもなおさず成敗を、御下知されるまでもなく、申し付けること、一、陣容については、良案が浮かんだならば、残らず本心を申し送ること、一、手立てについては、どのような方法でも、我が事として認知し、御計画の通りに奮励すること、一、御馬を納められたのち、重ねて御出陣されようとも、速やかに一騎だけでも馳せ参じて奮励すること、これらをきつく誓約させた(『上越市史 上杉氏文書集一』129号 長尾景虎家中誓書案)。



甲州武田晴信(大膳大夫)は、10月23日、信濃先方衆の大須賀久兵衛尉に感状を与え、その地(信濃国水内郡旭山城か)において、ひときわ奮闘されているので、めでたく喜ばしいこと、取り分け一昨夜には、城内の反徒が小屋に火を放ったところ、其方(大須賀久兵衛尉)が察知して下手人を召し捕られたゆえ、その城は災禍を免れたようであること、いつもながらの首尾であり、その忠功は計り知れないこと、今後ますます奉公に励めば感心であること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編一』456号 「大須賀久兵衛尉殿」宛武田「晴信」感状)。



武田晴信の要請を受けた駿州今川義元(治部大輔)の調停により、信濃国旭山城の破却と北信濃衆の本領復帰を承諾させて、武田との和睦に応じると、閏10月15日、帰国の途に就いた。



弘治元年(1555)11月~12月 越後国長尾宗心(弾正少弼入道) 【26歳】

11月4日、宗心の師である長慶寺光育(天室。越後国柿崎の楞厳寺の住持)が、外様衆の中条越前守(実名は房資であろう。弥三郎。越後国蒲原郡の鳥坂城主)へ宛てて書状を発し、このたびは御陣労に引き続き、長々と御在府され、御苦労などは計り知れないこと、黒河との御間の取り成しを本気で務めるだけであること、それでも、所領の件については、たとえ黒河が様々な不服の申し立てを繰り返したとしても、(中条越前守が返付されるのは)鼓岡と名津居(蒲原郡奥山荘黒川条)の二ヶ所だけであること、それ以外は、何があろうとも、旦方(中条越前守)が納得される必要はないこと、遠境でもあるので、下口において誰人が悪し様に言い放ったとしても、真実ではないので惑わされてはならないこと、(中条の帰郷の)御門送りに参上するべきところ、むしろ御造作をかけてしまうので、使僧(恕益)をもって申し述べたこと、また、松岡源左衛門尉について申し入れたところに、御了承されたので恐悦していること、詳細は恕益に申し含めたこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』130号 長慶寺「光育」書状 礼紙ウハ書「中条越前守殿 参 長慶寺 光育」)。

29日、外様衆の黒川四郎次郎(実名は平実か。下野守。越後国蒲原郡の黒川城主)へ宛てて書状を発し、このたび中条越前守方との御間の無事について、東堂様(天室光育)に御頼みして意見したところ、連綿と仰る道理のそっくりそのままを、何はともあれ聞き届けたこと、そうは言っても、心を傾けてに意見しているからには、愚意を聞き入れてもらえれば、満足であること、それが果たされれば、今後ますます丁寧に接し、いささかも疎略に扱わないこと、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』131号「黒川四郎次郎殿 御宿所」宛長尾「宗心」書状写)。

12月4日、中条越前守へ宛てて書状を発し、このたび黒川下野守との御間の無事について、東堂様をもって御意見に及んだので、愚意を聞き入れてもらえたのは、宗心においても本望の極みであること、ことさら、今後も御異心を抱かないとの御存意を示された御誓書は、これもまた快然の極みであること、愚拙(宗心)においても、ますます変わりなく言い語らうつもりなので、この紙面は要略したこと、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』132号 「中条越前守殿 御宿所」宛「長尾入道 宗心」書状写)。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』
◆『上越市史 資料編3 古代・中世』
◆『越佐史料 巻四』
◆『富山県史 史料編Ⅱ 中世』
◆『越後入廣瀬村編年史 中世編』
◆『戦国遺文 武田氏編 第一巻』
◆『朝倉始末記』巻第三 朝倉金吾入道宗滴進発加州事 敷地菅生合戦付一揆敗
  北事

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