越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎(旱虎)の年代記 【永禄12年2月後半】

2013-03-18 22:54:29 | 上杉輝虎の年代記

永禄12年(1569)2月 越後国(山内)上杉輝虎(旱虎。弾正少弼)【40歳】


29日、関東味方中の房州里見義弘(左馬頭)へ宛てて書状を発し、内心ではその口(下総国)の様子を御心配していたところ、わざわざ使いを越し、喜悦であること、先段に申し上げた通り、侫人の表裏をもって、本庄弥二郎(繁長)が在府中に欠落、これについて、この口(越後国瀬波郡村上)に馬を立てたこと、そうはいっっても、伊達輝宗・蘆名盛氏が、弥次郎の進退をしきりに意見してきたので、彼の両所(伊達・蘆名)からの厚意に感謝するため、赦免しようと考えていること、これも関東越山を急ぐため、このようにすること、また、武田信玄が駿州へ乱入、今川氏真とは北条氏政は縁故を捨て難かったからか、薩埵山へ乗り出し、信玄と対陣していると、そう聞こえていること、これについて、正月中に輝虎と無事を遂げたいと、色々と懇望してきたので、(里見義弘も)恐らく聞き及ばれているであろうこと、先年に北条丹後守(高広)の取り扱いをもって、一和の交渉に取り組み、様々に筋道を立てて説明を尽くしたとはいえ、(氏政は)すべてが表裏であって、(一和は)まとまらなかったにより、このたびの無事に見込みはないと、撥ねつけたこと、それにおいては御安心してほしいこと、本来から氏政は表裏の人物であるので、(氏政が義弘へ接触を図ってきても)ごまかしをも言い張るであろうこと、真実と受け取られてはならないこと、こうした事情は、去る頃に両度にわたって御届けのため、氏政かたからの(書状の)写物を(使いに)持たせて向かわせたこと、参着したのかどうか、たとえ(越・相)無事が調うにしても、(里見家とは)累代にわたって申し談じてきた間柄であるにより、どうして(義弘の)意見を伺わず、相談し合わずして、知らないふりを致したりするであろうか、少しも御不審に思われないでほしいこと、何としてもこの口(村上陣)を平らげ、帰府したうえで、使いをもって申し届けること、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』669号「里見大郎殿」宛上杉「輝虎」書状写【花押a】)。

同日、関東味方中の太田美濃入道道誉(三楽斎。俗名は資正)へ宛てて書状を発し、簗中(簗田中務大輔入道道忠。先心斎。俗名は晴助)の許から脚力が罷り越したので、一筆申し上げること、当地村上は日を追って厳しく攻め立てていること、これについて、(本庄繁長が)伊達輝宗・蘆名盛氏を頼み、様々に懇望してきたので、越山の心構えが第一であるところに、小事にかまけて数日を送ってしまうのは、不甲斐ないので、輝宗・盛氏に免じておくべきであると、覚悟を決めたこと、それからまた、それ以後の数度にわたって(相州北条)氏政が一和の成立を、懇望してきたとはいえ、諸味方中を見捨てるわけにはいかないので、またはないほどに撥ねつけたこと、それにおいては安心してほしいこと、ごまかしの誘い掛けで、南方から流言が放たれても、さらさら真実と受け取られてはならないこと、先年にも北条丹後守(高広)の取り扱いをもって、(一和成立のために)様々に筋道を立てて説明を尽くしたとはいえ、まとまりはせず、すべてが表裏であったので、たとえ(このたび)無事が調うにしても、房(里見家)・佐(佐竹氏)をはじめ、そのほかいずれの味方中と相談し合うことなくして、どうして無事を遂げるであろうか、安心して房・佐は承諾されるのが適当であること、なお、この口(村上陣)を平らげたら、開発中務少輔(輝虎旗本の開発中務丞)をもって申し届けること、従って、以前に寄越した使いが帰路に言っていたのは、息男の源太方(梶原政景)が越府へ使いを重ねて寄越し、(蘆名・佐竹の和睦の仲介を)催促なされたいとのこと、返す返すも会津の事の次第は知らないので、(使者は)留めておくのが肝心であること、これらを恐れ謹んで申し伝えた。さらに追伸として、この書中を認めているなかで、盛氏が言って寄越されたところは、佐(佐竹)と入魂(和解)を遂げるのが適当であると言ってきたこと、そうであったのならば、使者が着府するついでの前後、以前に頼んできた折にこそ、あのような分別をするべきであったところ、ただ今より(蘆名家と)佐が入魂を遂げるからには、(輝虎)いまさら必要のない発言であること、ひとえに其方(太田道誉)の指図次第で、(蘆名家へ)挨拶(仲介)に及ぶつもりであること、以上、これらを申し添えた(『上越市史 上杉氏文書集一』670号「太田美濃守殿」宛上杉「輝虎」書状写)。

同日、伊勢神宮御師の蔵田紀伊守へ宛てて、自筆の書状を発し、あらためて筆を染めたこと、東海道筋(遠江国懸川籠城中の今川氏真の許など)へ使僧が往復した際、色々と世話をしてくれたのは、喜悦であること、このほど重ねて(使僧を)遣わすこと、間違いなく参着するように、路次番を念入りに手配するのが適当であること、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』671号「蔵田紀伊守殿」宛上杉「輝虎」書状写【封紙ウハ書「蔵田紀伊守殿 輝虎」】)。


同日、側近の河田長親が、蔵田紀伊守へ宛てて副状を発し、あらためて一札申し上げること、よって、東海道筋へ御使僧を遣わされたところに、往復の御世話をしてもらったと、 (輝虎は)御耳に入れられ、ひときわ御悦喜である旨を御書に認められたこと、されば、要明寺が弁才を振るい、「たげ」(多気殿こと勢州北畠家)が当方(越後国上杉家)へ仰せ通じられると、其方(蔵田紀伊守)の所まで御内意があったそうであること、事実においては、(紀伊守が北畠家と)格別に相談されるべきこと、よくよく聞き届けられ、重ねて承るのが適当であること、なお、(蔵田)左京亮方(越後在国の伊勢神宮御師)が申し越すこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』672号「蔵田紀伊守殿」宛河田「長親」副状写)。



〔越・相一和の交渉における由良成繁からの音信〕

2月16日、相州北条家に属する他国衆の由良信濃守成繁(上野国新田郡の金山城を本拠とする上野国衆)から、すでに一線を退いた老臣の本庄美作入道宗緩(俗名は実乃)へ宛てて書状が発せられ、あらためて申し上げること、ここ三・四年は思いも寄らない御世上となったゆえ、音問が途絶えてしまったこと、誠にもって本意のほかであること、そうしたところ、旧冬、不慮に甲(甲州武田軍)から駿(駿河国)へ乱入したので、これにより、氏康父子(相州北条氏康・同氏政)は越(越後国上杉家)の御力を借りて、(甲州武田)信玄へ遺恨を散じたい旨を、(由良成繁へ)申されたとはいえ、若輩の身であるといい、そのうえ侫人の所行をもって、(輝虎から)御見捨てにされた身であるので、どうにもしようがなく、(それでも)氏康父子が頼むので、三・四年は申し達していなかったにより、色々と思慮に及んでいたとはいえ、藤田新太郎方(氏邦。氏康の五男。武蔵国男衾郡を中心とした鉢形領を管轄する)からもしきりに頼まれたので、不肖の身を憚りながらも意を決し、倉内(沼田)在城の方々まで、愚札をもって申し届けたところ、(沼田在城衆が輝虎へ)内々に御披露を遂げられたものか、松石(沼田城将の松本石見守景繁)から条目をもって筋目(同盟の条件)を承り、氏康父子へ申し聞かせたところ、とりもなおさず彼の条目の旨に任せて、宝印を翻して誓詞を認められると、使僧をもって送り届けられたこと、一部始終の子細は、相(相州北条家から)上野式部少輔と心月斎をもって、松石・上中(上野中務丞家成)・河伯(河田伯耆守重親)へ申し述べたので、かならず御伝説されること、いよいよ適切な御取り成しは、方々の御手並み懸かっていること、これらを恐れ謹んで伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』660号「本美 御宿所」宛「由信 成繁」書状写)。

21日、由良信濃守成繁から、上野国沼田城の在城衆である松本石見守景繁・河田伯耆守重親・上野中務丞家成へ宛てて書状が発せられ、取り急ぎ申し上げること、駿河の(今川)氏真から越国(輝虎)へ御使いを差し越しなされたこと、(今川の使者は)小田原から夜前に此方(上野国新田金山城)へ差し越しなされたので、とりもなおさず(沼田へ)送り出すこと、よくよく御指南されて(輝虎へ)御目見えさせてほしいこと、されば、薩埵山陣へ差し越した使いは、陣中に七日間滞留し、昨朝に罷り帰ってきたこと、甲州陣は両度にわたって惣軍の小荷駄を送り出したのか、どうかしたのか、送り返して今なお張陣していること、確かに退散するようであったと(使者が)言っていること、今こそ越国の御馬を早々に出しなされて、信・甲の軍勢を根切りになされるように、(沼田在城衆から輝虎へ)御申し上げられるのが専一であること、この折に(甲州武田軍)を取り逃されては、惜しまれる御時勢となってしまうこと、それからまた、方々(沼田在城衆)と半途(領境)において御調談するため、遠山新四郎(康英。氏康の側近)が差し越される段階であったこと、(由良成繁が)すんでに越・相御和穆の交渉の見通しに不安を強く訴えたところ、遠新は若輩であるとして、遠山左衛門尉(康光。康英の父)を差し越しなされる交代により、去る17日に薩埵山陣へ迎えを差し越されたそうであること、そういうわけで、遠左が小田原に帰府してから、一報が寄せられるので、それを聞き届けたあかつきに、(沼田在城衆が)半途へ御出でになる日取りなどを(沼田衆と由良で)申し合わせたいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』664号「松石・河伯・上中 御宿所」宛由良「信濃守成繁」書状)。


同じ頃、同盟交渉中の相手である相州北条氏康(相模守)は、2月29日、沼田在城衆の河田伯耆守重親・上野中務丞家成へ宛てて書状を発し、善徳寺・天用院を(沼田城へ)向かわせたところ、御入魂にしてもらえたそうであり、本望であること、殊に越へ参府するのは、あまりに風雪の厳しい時期で、(両人に越山は)果たし難いとして、松石が越山したとのこと、(松本には)御苦労ながら、満足であること、薩埵陣中の様子は、山の上の人数を中腹へ下ろしたと(氏政が)言って寄越したこと、去る26日には息男の新大郎(藤田氏邦)の者共が五・六十騎が興津河原まで馬を乗り下り、敵の小荷駄送りの人数へ馬を入れ、五十余人を討ち取ったと、注進に及んだこと、日に日に緩みなく追い詰めていること、その口(信濃国飯山)の(上杉軍出勢の)御遅延は、愚老(氏康)の苦労は今この時であること、一日も早々に飯山辺りへ御人数を打ち出されるように願うところであること、委細は由信(由良成繁)が演説すること、これらを恐れ謹んで申し伝えている。さらに追伸として、松石(松本景繁)へ一書に及ぶこと、届けられるのが適当であること、これらを申し添えている(『上越市史 上杉氏文書集一』673号「河田伯耆守殿・上野中務少輔(丞)殿」宛北条「氏康」書状)。

これより前、相州北条氏康は、24日、他国衆の深谷上杉憲盛(官途名は左兵衛佐と伝わる。武蔵国幡羅郡の深谷城を本拠とする武蔵国衆)へ宛てて書状を発し、このたび信濃衆が(武蔵国児玉郡の)児玉筋へ攻め込んできたところ、(上杉憲盛が)鉢形衆(氏康五男の藤田氏邦の同名・同心・被官集団)と合流して一戦に及び、大利を得て敵百余人を討ち取ったそうであり、敵首び注文が到来、殊に手早く(武蔵国榛沢郡の)榛沢において敵を数多く討ち取られたそうであり、三山(氏邦側近の三山五郎兵衛尉綱定)が言って寄越したこと、誠にもって心地好い戦果であり、大慶そのものであること、ますます鉢形衆やそのほかの味方中と仰せ合わされ、その口の御備えを任せ入ること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 後北条氏編』1157号「深谷」宛北条「氏康」書状)。



〔新たに友好関係を結んだ三州徳川家との交信〕

これより前、通交を求めてきた三州徳川家と友好関係を結ぶと、2月18日、三州徳川家康(三河守)から、取次の河田豊前守長親へ宛てて、直筆の返状が発せられ、輝虎から(現況の)御尋ねがあり、本望の極みであること、もとより駿・甲が楯鉾に及ばれた折、家康も遠州に向かって出馬したところ、思いも寄らず彼の国(遠江国)諸士が降参し、懸川(遠江国佐野郡)一城のみが敵対していること、彼の城へは今川氏真が立て籠もっているので、詰め寄せて在陣したこと、これまた、決着をつける覚悟であること、様子については(この紙面に)筆を染めた以外には異状はないこと、従って、(輝虎の)御家中で逆意の族が現れたところ、早速に御成敗されたゆえ、治国を成し遂げたと仰せ越せられたのは、(輝虎の力量からすれば)当然の結果であろうこと、この旨を漏れなく仰せ入れられるべきことを願うところであること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』661号「河田豊前守殿」宛徳川「家康」書状【封紙ウハ書「河田豊前守殿 家康」】)。

同日、三州徳川家の宿老である石川家成(日向守)から、河田豊前守長親へ宛てて副状が発せられ、貴札の旨を披露させてもらったこと、もとよりこのたび不意に駿・甲が楯鉾に及ばれた折、それに合わせて家康も遠州に向かって出馬したところ、彼の国の諸士が降参すると、即時にひとまとめに申し付けられたこと、されば、今川氏真が懸河表へ御籠城されていること、これにより、家康は彼の城へ詰め寄せ、今もって在陣しているにより、近日中に落着するのは、この機会であること、時宜においては御安心してほしいこと、この旨を適切な御披露に預かりたいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』662号「河田豊前守殿」宛石川「家成」書状写)。



一方、今川氏真(上総介)は、26日、宿老衆の小笠原右馬助元詮・瀬名尾張守元世を通じて遠江国堀江城(敷智郡)に拠る大沢左衛門佐基胤・中安彦次郎種豊・大沢左兵衛尉へ宛てて書状を発し、先日は御状に預かったので、その筋目を(今川氏真に)披露し、知行方を調え、中彦(中安種豊)などにも御判形を出したところに、それ以後は何も伝わってこないので、此方から飛脚を遣わせたところに、その地から御音信があり、ことさら25日の一戦であまねく駆け回るなどして粉骨を尽くされたのは並ぶものがないこと、その後は宇都名へ方面で打ち出て、鵜山と仰せ合わされて敵を押し破り、海賊船の過半を奪い取ったそうであり、なおなお(大沢たち)御忠節などは明白との仰せであること、この使者に御判形を託されるというのでは、不誠実なので、適切な人物を差し越され、所付案文を給わるつもりであること、重ねてその折に調えて進め置くつもりであること、その間は我らが預かっておくこと、当城はますます堅固であること、相州の人数・安房(房州里見家)・越国の景虎が出張する手筈なので、武田信玄が(駿州から)退散するのは確かである
こと、(氏真が)本意を遂げるのも十日から十五日のうちではないかと思われること、爰元については取出(砦)を築き、いよいよ御備えは堅固であること、万事に御安心してほしいこと、その地が鵜山と仰せ合わされ、御入魂を深めるのが専一であること、委細は朝備(朝比奈備中守泰朝)・同下(同下野守親孝)・同金具(金遊斎芳線)が此方(懸川)から申し届けられるにより、(この紙面は)省略すること、これらを恐れ謹んで申し伝えている。さらに追伸として、塩硝六百をこの通り送り届けること、路次が不自由であるそうなので、まずは少しだけ渡すこと、重ねて送るつもりであり、前々にも御減少状態については、両所の通り、御筆を立て次第調えること、以上、これらを申し添えている(『戦国遺文 今川氏編』2287号「大沢殿・中彦・大左兵 御報」宛「小右馬 元詮・瀬尾 元世」連署状【ウハ書「五大力尊 自懸川 大沢殿・中安・大左兵衛 御報 瀬尾・小右」】)。



〔友好関係にある飛州姉小路三木父子との交信〕

2月27日、飛州姉小路自綱(参議)から返状が発せられ、それ以来は音問なし得なかったこと、緊密に申し入れるべきところ、路次が思うようにならなかったについて、無音となってしまったのは所存のほかであったこと、よって、本庄(繁長)の逆心については、取り詰められて御存分に仰せ付けられたそうであり、当然ながら珍重であること、従って、京都ならびに駿・甲表の争乱については、良頼(自綱の父)が漏れなく申し入れるにより、(この紙面は)省略すること、あれこれは後音の時を期していること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』665号「山内殿」宛姉小路「自綱」書状【封紙ウハ書「山内殿 宰相自綱」】)。

同日、飛州姉小路三木良頼(中納言)から副状が発せられ、事長々しい申しようは、どうかと思ったとはいえ、遠路を厭わずに寄せられた(輝虎からの)御尋ねにより、このようになったこと、(輝虎の)仰せの通り、しばらく音問が途絶えていたところ、確かに示し預かり、本望であること、一、その表の事態は、本庄の逆心について、去る初冬から御在陣し、今日に至るまで、(村上城を)手抜かりなく取り詰められ、外曲輪を残らず破却なされ、落居するのは間もないそうであり、珍重であること、それについて、(本庄が)伊達(羽州米沢の伊達輝宗)と会津(奥州黒川の蘆名止々斎)を頼んで(降伏を)懇望していると、承ったこと、そうであるならば、赦免するのが適切ではないかと、御思慮はこの機会であること、一、駿・甲両国の抗争の様子を、尋ね承ったこと、信州通路は一円が塞がっているにより、確実な情報を得られなかったこと、そうではあっても、当口(飛騨国)へ流れてきた風説では、武田信玄が戦陣をもって、駿府へ攻め込まれ、余す所なく火を放ったこと、今川氏真は遠江内の懸川の地へ逃げ込んだとのこと、そうしたところ、北条氏政が(今川救援の)後詰めとして立ち向かい、甲府からの通路を断ち切り、在陣衆(甲州武田軍)は困り果てたので、新道を切り開き、(本国への帰路を)融通させたとはいえ、まったく不自由にしていたそうであること、直近の風説では、すでに武田信玄は夜陰に紛れて馬を納められ、敗北したとのこと、東美濃の遠山(美濃国衆の苗木遠山左近助直廉)は、(甲州武田軍の陣中へ)人数を少しばかり立て置いたこと、彼の者共が帰陣して申し上げたところは、この通りであること、確かな事実ではないかと思われること、一、岐阜(濃州織田家)と甲州(甲州武田家)の付き合いは、甲府(信玄)から使者を付け置き、入魂を遂げたとのこと、その子細は、駿州(今川氏真)に対して織弾忠(織田弾正忠信長)は遺恨があるわけなので、共通の敵がいるという、この一儀で繋がっていること、心の奥底から慣れ親しんではいなのではないか、(だからといって)貴辺(輝虎)においては、両国の離間を煽ったりせず、岐阜(織田信長)に対せられ、疎略に扱われない姿勢が適切であること、(輝虎とは)格別に申し交わしている間柄により、心底を残らず申し届けたこと、一、京都合戦の様子は、こちらから差し上せた使者が一両日以前に下国したこと、旧冬月末に及び、諸牢人(三好三人衆)が出張して、三好左京兆(左京大夫義継。河内国若江郡の若江城を本拠とする)が抱えている泉州内の大原(大鳥郡)の地を出衆が攻め崩すと、正月4日に京表へ進み、 公方様(将軍足利義昭)御座所の六条(本國寺の仮御所)へ攻め入ったこと、そうしたところ、 上意(将軍)の御眼前において、数度も御一戦に及ばれたこと、摂州住人の池田(筑後守勝正。摂津国豊嶋郡の池田城を本拠とする)・伊丹(大和守親興。同川辺郡の伊丹城を本拠とする)が御味方として、(山城国乙訓郡)西岡表へ進んだところを、三好三人衆(三好日向入道宗功(北斎。長逸)・同下野入道宗渭(釣竿斎。政生)・石成主税助友通)が攻め懸かり、即時に両人(池田・伊丹)の人衆を切り崩したところに、 上意(将軍)が御馬を寄せられ、御自身が切り懸かられると、天罸であろうか、(三好三人衆は)随分の者共が残らず討ち取られ、そのまま敗走を余儀なくされたこと、日を経ずして織弾忠(織田信長)が駆け付けられ、五畿内は言うまでもなく、四国・中国に至るまでを余すところなく御存分に従え、諸大名を在洛させたとのこと、当分は、 上意御座所(二条城)の普請を申し付けられ、ようやく完成させたとのこと、泉州堺(大鳥郡)の事情は、このたび諸牢人を仕立てたので、(将軍方の)発向は避けられなかったところ、今後は牢人衆を許容はしないと、色々と詫言について(将軍は堺衆を)宥免されたこと、誠に奇妙な仕立てであったのは明白であること、一、(本来であれば)緊密に申し交わすべきところ、昨年、両度に及び、使者をもって申し届けたところ、越中金山(新川郡)に不穏な動きがあり、(二度とも)途中で引き返してきたこと、兎角に及ばなかったこと、路次が思うようにならなかったゆえ、(輝虎との友好の)万端を軽んじたような形となり、(音信が途絶えてしまったのは)本意を失してしまったこと、遠路のところを、なおもって示し預かり、快然そのものであること、あれこれは来信を期するにより、(この紙面は)省略したこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』666号「山内殿」宛三木「良頼」副状)。

同日、姉小路三木良頼から、取次の直江大和守景綱(輝虎の最側近)へ宛てて副状が発せられ、しばらく無音であったにより、輝虎から確かに示し預かったので、一筆申し上げること、当然ながら緊密に申し交わすべきところ、路次が不自由について、疎遠となってしまい、本意を失したこと、よって、その表の本庄(繁長)の逆心については、輝虎が御在陣し、手抜かりなく取り詰められ、決着がつくのも間近であるそうであり、珍重であること、それについて、(本庄は)伊達と会津に頼んで(降伏を)懇望しているそうであり、(本庄が)確かな証人を差し出すのであれば、赦免するのが適切ではないかと思われること、この件については直書にて申し届けたこと、(輝虎への)取り成しが肝心であること、従って、駿・甲両国の抗争の状況がどうなっているのか、確かな情報は聞こえてこないとはいえ、大まかに承った通りを、輝虎へ書付で知らせること、それからまた、京都において、このたび諸牢人が出張したところ、 上意(将軍足利義昭)が御一戦を遂げ、即時に御本意を達せられたこと、委細はこの者(使者)に申し含めたので、演説するであろうこと、なお、後音を期していること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』667号「直江大和守殿」宛三木「良頼」副状【封紙ウハ書「直江大和守殿 良頼」】)。

同日、姉小路三木良頼から、取次の村上源五国清(客分の信濃衆・村上兵部少輔義清の世子で、一家衆に準ずる)へ宛てて返状が発せられ、先月26日付の芳札(村上国清の書状)ならびに輝虎から飛脚をもって承った事柄について、重ねて示し預かり、委細を披読したこと、一、その表について、本庄(繁長)の逆心は、初冬からただ今に至るまで、輝虎が御在陣し、手抜かりなく取り詰められ、外曲輪を残らず放火し、近日中に決着がつくそうであり、珍重であること、それについて、(本庄は)伊達と会津を頼み、様々に(降伏を)懇願していると(輝虎から)承ったこと、(本庄が)確かな証人を差し出すのであれば、赦免されるのが適切ではないかと思われること、この件については直書にて申し届けたこと、一、駿・甲の抗争について、当口と信州の通路が一円に塞がれており、確かな情報は聞こえてこないこと、そうではあっても、風聞の様子からは、武田信玄は戦陣をもって、駿府へ攻め込まれ、余す所なく放火したこと、よって、(今川)氏真は遠州内の懸河の地へ入城したとのこと、そうしたところ、北条氏政が後詰めとして立ち向かわれ、そのほか甲州へ組した(駿州)衆が手を替えて、甲府からの通路を断ち切り、在陣の衆(甲州武田軍)は困り果てたので、新道を切り開き、(本国への帰路を)融通したとはいえ、不自由にしていたそうであること、直近の風聞では、武田信玄は夜陰に紛れて馬を納められ、敗北したとのこと、東美濃の遠山が少々の人数を(甲州武田軍に)立て置いた、帰陣して申し上げた様子は、この通りであろうこと、確かな事実ではないかと思われること、一、京都合戦の様子について、(京都へ)差し上せた使者が近日に下国したこと、書付をもって大形の通りを、披見のために送り届けること、牢人衆が出張したとはいえ、 上意(将軍)の手前でもって御一戦を遂げられると、随分の者共を残らず討ち取られ、余す所なく御本意に属したそうであること、委細はこの者(使者)に申し含めて、申し入れること、一、岐阜と甲州の付き合いについて、甲府から使者を付け置き、入魂を遂げたとのこと、その子細は、織弾忠(織田信長)が駿府に対せられ、遺恨があるわけなので、共通の敵がいる形ばかりのもの(入魂)であること、(だからといって)輝虎は両国の離間を煽ったりせず、岐阜へ仰せ通われるのが適切であること、書状をやりとりされるのが適当ではないかと思われ、(輝虎とは)特別に申し交わされている間柄であるので、心底を残らず申し上げたこと、この由を御取り成しあれば、祝着であること、一、鹿毛の馬一匹を給わるそうであり、快然であること、若采(村上家中の若林采女允)には伏せられた案件なので、受け取りの者を差し下したこと、一、馬の鞦を贈ってもらい、喜悦であること、こちらからは、塩硝二斤を贈ること、些少ながら書状への感謝の印までであること、一、(本来であれば)緊密に申し交わすべきところ、昨年に両度にわたって使者をもって申し上げたところ、越中金山は兎角に及び、不審の様子であって、引き返してきたこと、そういうわけなので、路次が思うようにならなったこと、某(姉小路三木良頼)が不義理をしたようで鬱積していたところ、遠路を確かに示し預かり、本望であること、なお来信を期していること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』668号「村上殿」宛三木「良頼」書状)。



この間、敵対関係にある甲州武田信玄(徳栄軒)は、2月16日、三州徳川家康へ宛てて書状を発し、いささかも疑心を抱いてはいないとはいえ、誓詞の取り交わしを所望したところ、とりもなおさず調えて寄越してくれたこと、祝着であること、信玄自身も案文の通りに書き写し、使者の面前において、血判を押して渡し進めること、ますますの御入魂を願うところであること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編二』1367号「徳川殿」宛武田「信玄」書状写)。

同日、穴山武田左衛門大夫信君が、徳川家の重臣である酒井左衛門尉忠次へ宛てて副状を発し、このたび両使をもって申し届けられたところ、(酒井忠次の)御骨折りゆえ、(三州徳川)家康の御誓詞を給わったこと、珍重であること、信玄自身も案文の通り、血判を調えて差し越されること、ますます相互が御入魂の間柄となるように、(酒井の)取り成しが肝心であること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編二』1368号「酒井左衛門尉殿」宛穴山「信君」書状)。


19日、常陸国太田の佐竹氏の客将である太田道誉へ宛てて返状を発し、このたび使者として鷹尾(高尾伊賀守)を遣わしたところ、懇ろな返答を寄せてくれたので、祝着であること、先月27日に氏政(相州北条氏政)が先月27日に当国薩埵山に出張してきたので、信玄も乗り向かって対陣しており、そういうわけなので、疑心を抱かれないでほしいこと、今こそが其方(太田道誉)の御本意を遂げられるべき時節であり、互いに一致しているのではないかと思われること、鷹尾の口上の趣を聞き届けられ、手抜かりなく御奮闘されること、最も肝心であること、言うまでもなく、このたびの好機を逃せば、後悔するのは間違いないこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編二』1342号「三楽斎」宛武田「信玄」書状写)。


24日、信濃先方衆の芋川右衛門尉親正(信濃国水内郡の若宮城を本拠とする信濃国衆)へ宛てて書状を発し、当国(駿河国)へ出陣したについて、わざわざ音問に預かり、祝着であること、先書で露わにした通り、日増しに存分を遂げていること、とりわけ、松平蔵人(三州徳川家康)が遠州懸川(佐野郡)に向かって詰め寄せており、織田弾正忠(信長)も合力として、近日中に出陣すると申していること、彼らに当表の戦陣を任せ、(信玄は)雪解けの時期が到来したならば、越府に向かって攻め懸けるつもりであること、なお、その境目(信・越国境)が無事であるのかどうかを承りたいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編二』1370号「芋川右衛門(尉)殿」宛武田「信玄」書状)。


甲州武田家と同盟関係にある摂州大坂(東生郡生玉荘小坂)の本願寺顕如(光佐)は、25日、内衆の下間丹後法印証念(号頼総)を通じて、越中国一向一揆の勝興寺(婦負郡末友の安養寺伽藍城郭に拠る)の内衆である下間右衛門尉(法号は頼辰か)へ宛てて書状を発し、当国(越中国)増山の神保(長職)の進退は、長尾輝虎と入魂を結び、御門徒中に対し、悪事を企て非分を働いていると、近年、(本願寺顕如は)聞き及ばれているとはいえ、(勝興寺では、この神保の)無礼な御遺恨をどのように思われているのか、すでに御長袖(顕如)が、様々な情報から毎時に御聞き分けられたところ、長尾と神保の間の証跡は歴然であり、殊に昨年の半ば、増山から御門徒中に手出しをして、所々を放火し、そればかりか数輩を討ち取ったからには、別心は疑いないところかと思われ、武田殿(甲州武田信玄)からもこの件を、繰り返し此方(本願寺)へ御起訴されているにより、(顕如は)たしかにそれを理解されたので、甲州ならびに金山(越中国松倉の椎名康胤)そのほか諸牢人衆と相談され、椎名方が本意を遂げられように努め、増山(神保)においては、二度と許容しない旨を、仰せであること、このところを詳しく申し入れられること、これらを恐れ謹んで申し伝えている。さらに追伸として、端書はないことを申し添えている(『富山県史 資料編Ⅱ』1672号「右衛門尉殿」宛下間「証念」書状【包紙ウハ書「右衛門尉殿 丹後法印証念」】)。



昨年、当時の甲州武田・相州北条陣営に寝返って叛乱を起こし、本拠の村上城(越後国瀬波(岩船)郡小泉荘村上山)で籠城を続けている外様衆の本庄繁長は、吉日、重臣の斎藤十郎左衛門尉に感状を与え、このたび籠城を続け、駆け回ったのは神妙であること、これにより、持所のうちを、末代まで諸役を停止するものであること、よって、前述した通りであること、これらを申し渡している(『村上市史 資料編1』189号「斎藤十郎左衛門尉とのへ」宛本庄「繁長」感状写)。

同じく飯沼藤四郎に感状を与え、このたび籠城を続け、駆け回ったのは神妙であること、これにより、諸役においては末代に至るまで停止するものであること、よって、前述した通りであること、これらを申し渡している(『村上市史 資料編1』190号「飯沼藤四郎とのへ」宛本庄「繁長」感状)。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 今川氏編 第三巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 房総編 第二巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 武田氏編 第二巻』(東京堂出版)
◆『富山県史 資料編Ⅱ 中世』1672号 下間証念書状
◆『村上市史 資料編1 古代・中世編』
◆『富山県史 通史編Ⅱ 中世』

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越後国上杉輝虎(旱虎)の年代記 【永禄12年2月前半】

2013-03-05 15:40:11 | 上杉輝虎の年代記

永禄12年(1569)2月 越後国(山内)上杉輝虎(旱虎。弾正少弼)【40歳】


6日、越後国村上陣(瀬波(岩船)郡小泉荘)から各地へ地下鑓を募り、年寄衆の柿崎景家・山吉豊守・直江景綱をもって、奉行衆の岩船藤左衛門尉(実名は忠秀か)・羽田六助(六介とも)に朱印状を渡し、地下鑓触の覚、一、やり、一、なは 弐荷 廿ひろつゝ(尋宛)、一、なた、一、くわ、右、鑓百挺に小旗三本宛、ならびに壱人にこの通りの四様(鑓・縄・鉈・鍬)を持たせ、出すべきようにと、堅く触れられべきこと、このたび武具を持参して罷り出た者には、かならず御褒美を遣わすと、 (輝虎は)仰せ出され、 御印判を発せられたものであること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』650号「岩船藤左衛門尉殿・羽田六助殿」宛上杉輝虎朱印状写【奉者「(柿崎)景家・(山吉)豊守・(直江)景家」】)。


直江景綱は、これ以前に実名を政綱から景綱に改めている。永禄11年春の本庄繁長の叛乱により、夏に柿崎景家・直江政綱を主将とする軍勢が、本庄の立て籠もる越後国奥郡の村上に差し向けられ、ようやく冬に至って輝虎自身が越府から村上陣へ下ってくるまでの間、柿崎景家と共に村上陣を堅持した功績により、輝虎から一字を与えられたものか。


13日、村上陣から、越府の上田長尾喜平次顕景(輝虎の甥。越後国魚沼郡の坂戸城を本拠とする)へ宛てて返状を発し、専心して念入りな音信、殊に祈念を込めたまもり札と巻数(読誦した経文の種類と度数を記したもの)が到来し、喜びもひとしおであること、爰元(村上陣)をやがて平らげ、帰府のうえ、(謝意を直接)申し述べること、これらを謹んで申し伝えた。さらに追伸として、返す返すも、念入りな音信が到来し、喜びもひとしおであること、筆跡がますます上達しており、手本を送り届けること、以上、これらを申し添えた(『上越市史 上杉氏文書集一』308号長尾「喜平次殿」宛上杉「旱虎」書状)。


※ 当文書を、『上越市史 上杉氏文書集一』などは永禄5年に仮定しているが、今福匡氏の論考である「「旱虎」署名の謙信書状について」(『歴史研究』第502号 歴研)に従い、当年に発給された文書として引用した。



〔越・相一和を巡る関東味方中との交信〕

2月5日、常陸国衆の多賀谷入道祥聯(修理亮政経。常陸国関郡の下妻城を本拠とする)から、取次の河田豊前守長親へ宛てて返状が発せられ、去月12日付の御状(河田長親書状)が当月4日に到着し、高札(輝虎の書状)ならびに写物(相州北条家から越後国上杉家に届いた越・相一和を打診した書状の写し)披読申し上げ、過分の極みと存じ申し上げること、(越・相一和については)南方の計策は今に始まったものではないにより、(多賀谷祥聯から)取り立てて言うには及ばないこと、もとより、(佐竹)義重は(常陸国筑波郡の)小田に向かって御戦陣を催し、正月15日に(同真壁郡の)海老嶋(小田氏治の属城)を取り詰めなされ、翌16日に夜襲を仕懸けて、(曲輪を)残らず取り壊され、実城ばかりに追い詰められたこと、そうしたところ、城主(平塚刑部大輔)がしきりに(降伏を)懇望してきたうえは、身命を保証して、証人数輩を拙者が受け取り、佐御陣下(佐竹義重の本陣)へ引き渡し、爰元は確かに愚拙が取り扱ったこと、そうしてから、21日に小田へ押し寄せ、佐村と号する地に御陣取りされ、宿外張まで放火し、彼の領中郷村を一所残らず打ち散じられたこと、数日間、御張陣に及んでから、まずまず御馬を納めなされたこと、初夏の御戦陣は必定であるから、小田については、確実に決着がつくであろうこと、早々に御膝下を平らげられ、御越山されて関東を思うがままに御本意を遂げられるのを、皆々が待ち申し上げていること、(下総国葛飾郡の)関宿の地も大切であるからには、御急速の御越山に極まるものと、恐れながら存じ申し上げること、御催促のため、房州(里見家)からも仰せ届けられるうえは、(この紙面は)省略申し上げること、この趣を御披露に預かりたいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』649号「河田豊前守殿」宛「多賀谷入道祥聯」書状)。

同じ頃、常陸在国の白井長尾左衛門尉入道(俗名は憲景。先年に本拠の上野国群馬郡の白井城を失った)から、越後国上杉家の年寄中へ宛てて返状が発せられ、正月12日付の御一札が、去る晦日に到着、芳簡の通り、大石源三(相州北条氏政の兄弟衆である北条氏照)から(一和を)懇望されたのに伴い、とりもなおさず、(氏照書状の)写物を一覧のために差し越されたこと、御厳密のものと認識していること、直江大和守から返札の写しは到着していないこと、されば、たとえ(越・相の)思惑が一致して無事がまとまるとしても、味方中を見捨てられてはならないと、ひときわ各々は肝心であると申していること、そうではあっても、このほどは万事を差し置かれて、御越山に至れば、関東の御本意は瞬く間であろうこと、駿・相両国の件が落居してから(越山したの)では、労して功はないのではないかと思われ、一刻片時でも早々の御越山を待ち入るばかりであること、それからまた、(佐竹軍は)正月15日に海老嶋へ進陣し、翌16日の夜中より攻め始め、さらに翌17日の午刻(正午前後)に実城ばかりの裸城にしたところ、しきりに平塚刑部太輔が(降伏を)懇望し、証人として親類・家風の者までが実子を差し出したので、赦免したこと、(佐竹義重は)彼の地の普請・仕置を申し付け、21日に小田の佐村へ移陣し、翌22日に氏治の在城に攻め懸かり、不動山へ打ち上り、一日がかりで陣を構え、内々に陣を進める心積もりでいたところ、真壁安芸守(久幹)・太田美濃守父子(太田道誉・梶原政景)・多賀谷修理(入道祥聯)が意見を致し、(輝虎が)いつ越山してくるかもしれないので、進陣してしまっては、(上杉軍と)手合わせも不調になるかもしれないので、早々に帰陣するのが適切であろうと勧めたので、(義重は)その考えに従ったこと、よって、関宿については、不動山(関宿城に対する付城)を敵(相州北条軍)が今なお拠っているので、日を追うごとに手詰まりとなっており、(輝虎の)御越山がなければ、自落してしまうこと、御越山される以外にはないであろうこと、余事は追って使者をもって申し達すること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』648号「越府江 貴報人々御中」宛「長尾左衛門尉入道沙弥」書状写)。


※ 当文書の日付は3月7日であるが、前後の書状との兼ね合いからして、月は誤写ではなかろうか。


11日、太田三楽斎道誉(俗名は資正)から、取次の山吉孫次郎豊守へ宛てて返状が発せられ、先月12日付の御貴札(山吉書状)を、当月朔日に謹んで披読し、大石源三方が御当国(越後国上杉家)へ申し達せられた旨を、とりもなおさず、仰せ出されたこと、御厳密の事柄であるのは、奇特と存じ申し上げること、一々を(佐竹)義重へも申し渡したこと、12月27日に佐竹(佐竹氏の本拠である常陸国太田城)から申し上げたこと、正月2日には当地(太田道誉が拠る常陸国片野城)からも申し達したこと、その首尾を恐れながら御理解してほしいこと、南方(相州北条家)は苦境に陥った時には、どれもこれも思わせ振りな態度を取るのはいつもの通りであること、もちろん正直な申し入れと思われるに至ったのであれば、すべてが御相違となってしまうこと、大石源三・北条丹後守(高広)の書中(越後国上杉家宛て)の写しを披読申し上げたこと、直江方からの返札(相州北条家宛て)の写しは、御失念されたものか、届いてはいないこと、南方から近頃は佐竹へ一向に音信はないこと、義重においては、先月10日に当地(片野城)まで御着馬、15日に海老嶋と号する地へ押し寄せられ、16日の酉刻(午後6時前後)から攻め始められたこと、翌日まで人衆を引かれなかったので、17日の巳刻(午前10時前後)に宿城を取り壊されたこと、城主(平塚刑部大輔)がしきりに(降伏を)懇望し、もとから佐竹に対して別心はないといい、我等(太田道誉)とは懇ろな間柄の人物といい、(太田道誉が平塚の赦免の)取り扱いに及んだゆえ、三日のうちに無事落着し、証人をすべて受け取り、一両日は彼の地の普請に費やし、21日に小田へ進陣、在々所々を残らず放火、府中(常陸国府中の大掾貞国)にも御手合せしてきたこと、このたびは真壁方(久幹)の奔走は類い稀であったこと、多賀谷修理亮(政経。号祥聯)にしても同前であること、もとより、南方からどのような計策が図られようとも、当口御味方中を御覧じ放し(見放し)たりはしないとの(輝虎からの)御文体は、誠にもって感じ入り、御頼もしく存じ申し上げること、そして、房州への(輝虎の)御書札は、とりもなおさず、簗田方(下総国関宿の簗田晴助・同持助父子)へ差し越したこと、房州からも脚力をもって御申し届けられること、多くの言葉を尽くして御越山に極まること、やがて佐竹から御使いをもって仰せ述べられるにより、愚息(梶原政景)においても代官をもって申し達すること、関宿の件は、極めて手詰まりであるので、通例の越山要請とは思われないでほしいこと、詳しくは石井拾左衛門尉(太田道誉の使者)が申し上げること、こうした趣旨を御披露に預かりたいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』657号「山吉孫次郎殿」宛太田「三楽斎道誉」書状)。

同日、太田三楽斎道誉から、山吉孫次郎豊守へ宛てて、別紙の追而書が発せられ、南方からの計策を、誠意あるものとして、御取り成しされるように、盛氏(奥州会津の蘆名止々斎)へ仰せ届けられたのではないかと、(太田道誉は)そのように理解したこと、本庄を御手に入れたのかどうか、遠路の会津の領中も大切であるので、御当陣(輝虎による本庄村上陣)の御様子をも見えないというのは、恐れながら御心配存じ申し上げること、甲・南(相)の抗争は過小な有様ではないこと、今般は御人衆だけをもっても、御越山に至るならば、関東の御平定を遂げられるものと、深く思っていること、何としてでも関宿の堅固なうちの御越山に極まること、今来月のうちも保持はできないと、(簗田父子から)承り届けたこと、こうした事柄を御披露に預かりたいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』659号「山吉孫次郎殿」宛太田「三楽斎道誉」書状)。



〔越・相一和の交渉〕

2月2日、相州北条氏康の側近である遠山新四郎康英(遠山左衛門尉康光の嫡男。小田原衆)から、上野国沼田城(利根郡沼田荘)の在城衆である松本石見守景繁・河田伯耆守重親・上野中務丞家成へ宛てて条書が発せられ、覚、一、このたび使僧をもって、氏康父子(北条氏康・氏政)の証文(誓詞)を送り届けられるとのこと、一、相・甲両軍の御対陣は間近であるので、御弓矢は差し迫っていること、同じくは、越の御人数(越後上杉軍)も早々に(信州へ)打ち出され、沼田御在城衆は(上野国吾妻郡の)大戸・岩櫃筋へ火の手を揚げられるように、(相州北条父子は)念願されていること、此方の人数(相州北条軍)は、其方(越後国上杉家)からの御作意(意図)に従って手立てに及ばれること、一、(この条書を携えた)彼の飛脚は来る14日か15日に帰路致すであろうか、16日か17日辺りには、拙者親子(遠山康光・康英)のうち、どちらかが(上野国新田郡の)金山城まで差し越されると、(父子の)内儀であること、御両所(松本景繁・河田重親)と半途(沼田と金山の間)において御対談あり、仰せ合わされるべきであろうか、されば、御日限を仰せ下されべきこと、これらの条々を申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』647号「松本石見守殿・河田伯耆守殿・上野中務少輔(丞)殿」宛「遠山新四郎康英」条書)。


6日、相州北条氏康(相模守)は、他国衆の由良信濃守成繁(上野国新田郡の金山城を本拠とする上野国衆)へ宛てて書状を発し、先書で申し届けた通り、天用院(相州北条家の菩提寺である早雲寺の支院主。北条家の家老である石巻下野守家種の実弟)を彼の国(越後国)へ差し越すこと、誓詞ならびに条目など、委細を申し含めて託したこと、輝虎へ(送る)書中については、用捨をもって我慢すること、(代わりに)沼田衆・直江(景綱)・柿崎(景家)の所へ書中に及ぶこと、その地(金山城)において、よくよく(天用院から)聞き届けられ、諸事万端の御助言が肝心であること、とりわけ、(今川)氏真から使僧(善得寺茄首座)が参られ、はるばる当地(小田原)に逗留していること、このたび天用院に差し添えること、これまた、よ御指南が専一であること、なお、詳細は柳下・内海に申し含めたこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』652号「由良信濃守殿」宛北条「氏康」書状)。

同日、駿河国薩埵山(庵原郡)に在陣中の相州北条氏政(左京大夫)は、由良信濃守成繁へ宛てて書状を発し、彼の(越・相一和の)扱いが過半は調ったのかどうか、このたび沼田からの使いが当陣まで参着したこと、其方(由良成繁)が精励されたゆえ、時宜に適ったものであるにより、満足であること、このうえは早々に(一和を)成就し、彼(越後国上杉軍)の出張を一日も急がれるのが専一であること、もとより、昨年の12月26日に(伊豆国田方郡の)三島を打ち立ち、薩埵山の敵を追い崩し、彼の嶺に陣を張り、甲・相両軍は一里の間に対陣していること、今この時に信州へ越衆(越後国上杉軍)が出張するについては、越・相の互いが本意を遂げるのに、後戻りはできないのではないかと思われ、力の及ぶ限り敵が退散するように追い詰めること、ただし、道筋が数多あるので、どうなるかは分からず、従って、このたび松石(松本景繁)の条目の旨に従い、誓句をもって越(輝虎へ)申し越すこと、つまりは、其方(由良成繁)が心得て調えられるべきであるので、任せ入ること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』653号「由良信濃守殿」宛北条「氏政」書状)。

同日、相州北条氏政から、年寄衆の柿崎和泉守景家・直江大和守景綱へ宛てて、初信となる書状が発せられ、これまで申し交わしてはいなかとはいえ、申し上げること、もとより、越・相和融について、思慮を忘れて申し届けたこと、御骨折りを頼み入ること、委細は天用院が演説すること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『戦国遺文 後北条氏編 補遺』4681号「柿崎和泉守殿・直江大和守殿」宛北条「氏政」書状)。

同日、相州北条氏康から、沼田城将の松本石見守景繁へ宛てて書状が発せられ、越・相和融について、何度も新太郎(氏康の五男である藤田氏邦。武蔵国男衾郡を中心とした鉢形領を管轄する)が申し届けたところ、御入魂に預かったこと、真実から本望至極であること、このたび氏政が宝印を翻した誓詞をもって申し述べること、越府(輝虎)が御同意してくれるように御根回してほしいこと、甲・相両軍の弓矢の様子は、両人(氏政・氏邦兄弟)の文(書状)を給わり、見届けるので、委細には及ばないこと、(今後の武田軍に対する)手立てなどについては、天用院の口上に申し含めたこと、願わくば(彼の者に)同道あり、越府における御指南を頼み入るばかりであること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』651号「松本石見守殿」宛北条「氏康」書状写)。

7日、新田の由良成繁から、沼田在城衆の松本石見守景繁・河田伯耆守重親・上野中務丞家成へ宛てて返状が発せられ、一昨日は、御懇ろに示し預かり、本望の極みであること、とりもなおさず、御知らせに及んだこと、(御使者は沼田へ)帰着したのかどうか、されば、先だって南方(相府小田原)へ差し越された両人は、(薩埵山の)陣中に逗留されていること、彼の両人が(沼田へ)帰着するまでには遅延するようについて、氏康が覚悟のところを、まずまず方々(沼田衆)へ直札をもって申し述べられること、そのため折り返しで志津野(一左衛門尉。氏政兄弟衆の藤田氏邦の家臣)を差し越されたこと、先月26日に(氏政は)駿州近辺の薩埵山と号する地へ進陣され、信玄も対陣したそうであること、この機会を捉えて越国(越後国上杉軍)の御手立てが御急速に至れば、信・甲両州の速やかな御静謐は疑いないこと、これらの趣を申し述べるべきため、(氏政から)上野式部少輔方が両人に差し添え遣されること、氏康父子(北条氏康・氏政)からの誓詞を、遠山左衛門尉父子(遠山康光・康英)のどちらかが持参するそうであること、その地(沼田)からは、川境まで御出ましあるべきか、日取りなどを詳しく御知らせに預かりたいわけであり、(詳細は)彼の(使者の)口上に申し含めたので、(この紙面は)省略すること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』654号「松石・河伯・上中 御宿所」宛由良成繁書状写)。



〔将軍足利義昭との交信〕

2月8日、将軍足利義昭から御内書が発せられ、このたび凶徒などが蜂起したところ、とりもなおさず、織田弾正忠(信長)が馳せ参じ、ことごとく本意に属し、(信長は)今なお在洛しているわけであること、次いで、越・甲はこの折に和与し、いよいよ天下静謐のために(輝虎が)信長と相談するのが肝心であること、そのために智光院(頼慶。越後国上杉家の使僧)を差し下すものであること、これらを申し渡されている(『上越市史 上杉氏文書集一』655号「上杉弾正少弼とのへ」宛足利義昭御内書【署名はなく、花押のみを据える】)。

同日、濃(尾)州織田信長(弾正忠)から、取次の直江大和守景綱へ宛てて副状が発せられ、越・甲御間の和与について、 (将軍が)御内書を認められたこと、この折に入限あり、 公儀(足利義昭)のために御奔走されるのが肝心であること、格別に取り成しを致してもらえれば、信長においても快然であること、なお、御使僧が漏れなく申し述べること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』656号「直江大和守殿」宛織田「信長」副状)。



〔友好関係にある飛州姉小路三木家との交信〕

2月10日、飛州姉小路三木良頼(中納言)の重臣である塩屋筑前守(実名は秋貞か)へ宛てて書状を発し、久しく無沙汰していたにより、(三木)良頼へ一札申し上げること、その表(飛騨国)に異変はないか、心配していること、当口については、逆徒(本庄繁長)を成敗して決着をつけるのも程近いので、安心してほしいこと、されば、駿・甲・相三ヶ国の抗争が取り沙汰されていること、どのような事情であるのか、恐らくその口には(様子が)聞こえているであろうこと、詳しい回答が寄せられれば、喜悦であること、なお、帰府したうえで、万疎を申し届けること、取り成しを任せること、これらを恐れ謹んで申しを伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』657号「塩屋筑前守殿」宛上杉「輝虎」書状【花押a4】)。

同日、飛騨国姉小路三木家との取次を任されている村上国清(通称は源五。信濃衆の村上兵部少輔義清の世子)が、飛騨国の味方中である江馬四郎輝盛(飛州姉小路三木氏の重臣。飛騨国吉城郡の高原諏訪城を本拠とする)の宿老である河上式部丞へ宛てて書状を発し、それ以来はだんだん無音になってしまったとして、輝虎から飛脚をもって申し入れられること、その国(飛騨国)にどうような事情があるのか、承りたいこと、以前に申し入れた通り、(本来であれば)四郎殿(江馬輝盛)へ御音信に及ぶべきとはいえ、(輝虎は)引き続き豊前(河田豊前守長親)の御取り成しをもって、重ねて申し上げられること、およそ老父(村上義清)においては、貴国(飛州姉小路三木家)の取次を務められてきたこと、なお、拙夫(村上国清)も寸分変わらず(取り次ぎに)奔走する真情であること、こうした事情の適切な御取り成しを任せ入ること、当国は相応の事情を親しく承り、当然ながら無沙汰のないように努めること、なお、(詳細は)若林采女允が申し越すので、(この紙面は)省略すること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』450号「河上式部少輔(丞)殿」宛「村上 国清」書状写)。


当文書を、『上越市史 上杉氏文書集一』は永禄8年に仮定しているが、岡村守彦氏の著書である『飛騨史考 中世編』の「三木時代 四 越中出陣【上杉方越中守備軍】」の記述に従い、当年の発給文書として引用した。



この間、敵対関係にある甲州武田信玄(徳栄軒)は、11日、駿河国興津城(庵原郡)から、西上野に残留する先方衆の小幡尾張入道全賢(上野国甘楽郡の国嶺城を本拠とする)へ宛てて書状を発し、(このたび寄せられた)来意の通り、息総州(小幡上総介信実)が(当地に)着陣し、諸事について談合を遂げたこと、御安心してほしいこと、よって、当城(興津城)の改修を残らず終え、今日明日中に甲州から糧米を搬入し、そういうわけなので、氏政の陣所に向かって一撃を加えたのち、早々に帰国するつもりであること、また、沼田表に異変はないようであり、安堵していること、なお、(詳細は)隼人佑(原昌胤。譜代衆)が申し届けること、これらを恐れ謹んで申し伝えている。さらに追伸として、僅かではあるとはいえ、遠方より入手した蛤一籠を贈ること、これらを申し添えている(『戦国遺文 武田氏編二』1363号「信竜斎」宛武田「信玄」書状写)。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『戦国遺文 後北条氏編 補遺編』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 武田氏編 第二巻』(東京堂出版)

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