越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎(旱虎)の略譜 【46・下】

2013-03-18 22:54:29 | 上杉輝虎(謙信)の略譜
永禄12年(1569)2月 上杉輝虎(旱虎。弾正少弼) 【40歳】

16日、相州北条家に属する他国衆の「由信成繁(由良信濃守成繁。上野国衆。上野国金山城主)から、すでに一線を退いた老臣の「本美(本庄美作入道宗緩。実乃)御宿所」に宛てて書信が発せられ、このたび敢えて申し上げること、ここ三・四年は御世上の変化に伴い、絶縁状態にあったのは遺憾であること、旧冬に甲(甲州武田軍)が不意を衝いて駿(駿河国)へ侵攻したので、氏康父子(相州北条氏康・同氏政)は越(越後国上杉家)の御力を借り、相・甲・駿三ヶ国の同盟が崩壊してしまったので、貴国に縋って武田信玄に遺恨を晴らしたいとする北条氏康・同氏政父子から、自分が貴国と接触を図る信玄に遺恨を散じたい旨を申されるも、若輩の身であるばかりか、不行状ゆえに見放された身でもあり、はなはだ躊躇していたところ、氏康父子に強く頼まれたこと、それでもなお、三・四年は申し達していなかったので、色々と思慮に及んでいたところ、藤田新太郎方(氏邦。氏康の四男。武蔵国鉢形城主)の懇望を受けて断りきれず、不肖の身を憚りながらも意を決し、倉内(沼田)在城の方々まで愚札をもって申し届けたこと、方々が内々に越府へ御披露してくれたおかげか、松石(沼田城将の松本石見守景繁)から誓約を交わすための必要条項が提示されたので、氏康父子へ申し聞かせたところ、彼の条目の旨に任せて、宝印を翻して誓詞を認められると、使僧をもって進め置かれたこと、子細の全容については、相から上野式部少輔と心月斎をもって、在城州の松石(松本石見守景繁。大身の旗本衆)・河伯(河田伯耆守重親。同前)・上野家成(輝虎の山内上杉家相続に伴って譜代家臣化した越後国衆)に面述するので、必ず在城の方々から御伝説されるはずであること、越・相一和の成就は御歴々の御尽力にかかっているので、然るべく御取り成してもらいたいこと、これらを懇ろに伝えられている。

18日、三州徳川「家康(三河守)」から、取次の「河田豊前守殿(長親。大身の旗本衆)」に宛てて直筆の返書が発せられ、輝虎から懇切に現況を尋ねられたので、ひたすら本望であること、このたびの駿・甲争乱により、遠州に向かって出馬したところ、思いも寄らず彼の国(遠江国)諸士が降参してきたので、もはや抵抗を続けているのは遠江国懸川城(佐野郡)のみであること、彼の城には今川氏真が立て籠もっているので、詰め寄って在陣し、必ず決着をつける覚悟であること、このほか特筆すべき異変はないこと、(輝虎の)御家中で逆徒が現れたところ、速やかに御成敗したゆえ、治国を成し遂げた事実を仰せ越せられたこと、輝虎の力量からすれば、当然の結果であること、よって、これらを丹念に取り成すことを求められている。
同日、三州徳川家の宿老である石川「家成(日向守)」から、「河田豊前守殿(河田長親)」に宛てて書信が発せられ、貴札の旨を書を披露させてもらったこと、このたび不意に駿・甲が争われたので、それに合わせて家康も遠州へ出馬したところ、彼の国の諸士が降参してきたので、即時に統合されたこと、今川氏真が懸河表に御籠城されているため、家康は彼の城へ詰め寄り、今もって在陣し、近日中に決着をつけられるつもりであること、時宜に於いては御安心してほしいこと、よろしく御披露してほしいこと、これらを懇ろに伝えられている。

21日、由良「信濃守成繁」から、上野国沼田城(利根郡沼田荘)の在城衆である「松石(松本石見守景繁)・上中(上野中務丞家成)・河伯(河田伯耆守重親)」に宛てて書信が発せられ、取り急ぎ申し上げること、駿河の(今川)氏真から越国(輝虎)へ寄越される御使い(善得寺茄首座)が、夜前に相府小田原から此方(上野国金山城)へ寄越されたので、すぐさま沼田城へ向かうこと、方々の御尽力をもって、よくよく御指南あるべきこと、駿河国薩埵山陣(庵原郡)に七日間滞在した使者がもたらした情報によると、甲州(甲州武田軍)は惣軍の小荷駄を二度に亘って送り出し、帰陣する様子であったにも係わらず、呼び返して張陣を続けているが、そう遠くない時期に帰陣してしまうのは明らかであり、この絶好の機会を逃しては、悔いを残す結果になるので、一刻も早く御出馬されて信・甲両国を存分に平定を遂げられるべきであり、(輝虎へ)御忠言されるべきこと、領境での在城衆との御会談について、遠山新四郎(氏康の側近である遠山康英。小田原衆)が寄越されるところ、自分が越・相御和穆の交渉について見通しに不安を訴えたので、年若い遠新(遠山康英)ではなく、その父親の遠山左衛門尉(康光)に変更されたこと、この17日に遠左(遠山左衛門尉康光)を召還するための使者が相府小田原から薩埵山陣へと発足しており、遠左(遠山康光)が相府へ戻り次第、一報が寄せられるので、その折に御会談の日時を申し合わせたいこと、これらを懇ろに伝えられている。

この頃、24日、相州北条「氏康(相模守)」が、他国衆の「深谷(上杉左兵衛佐憲盛。武蔵国衆。武蔵国深谷城主)」に宛てて書信を発し、このたび武蔵国児玉郡の筋へ信濃衆が侵攻したところ、鉢形衆(氏康の四男である藤田新太郎氏邦の同名・同心・被官集団)と合流して一戦に及び、大利を得て敵百余人を討ち取ったそうで、敵首の注文が到来したこと、取り分け、速やかに御人数を出され、武蔵国榛沢郡内に於いて敵を数多く討ち取られた事実を、三山(氏邦の側近である三山五郎兵衛尉綱定)が申し越してきたこと、実に心地よい戦果であり、すこぶる喜ばしいこと、なおいっそう鉢形衆、そのほかの味方中と協力されて、その口の防備を尽くされるべきこと、これらを懇ろに伝えている。

26日、今川氏真(上総介)が、宿老衆の「小右馬元詮(小笠原右馬助元詮)・瀬尾元世(瀬名尾張守元世)」を通じて遠江国堀江城(敷智郡)に拠る「大沢殿(左衛門佐基胤)・中彦(中安彦次郎種豊)・大左兵(大沢左兵衛尉ヵ)」一族に宛てて書信を発し、その方面で徳川軍を相手に奮戦していることを忠賞するとともに、こちらも懸河城を堅持していることと、相州の人数・安房(房州里見家)・越国の「景虎」が大挙して出張する手筈なので、武田信玄は駿州を立ち退くほかなく、当家復興の本懐を遂げるのも十日から十五日のうちであることなどを伝えている。

27日、飛州姉小路「自綱」から返書(封紙ウワ書「山内殿  宰相自綱」)が発せられ、本来であれば緊密に連絡をするべきところ、交通路の寸断によって果たせず、遺憾であること、懸案である本庄(繁長)の逆心については、御存分に決着をつけてほしいこと、照会を受けた京都と、駿・甲両国の争乱の様子については、父の良頼が詳しく申し入れるので、重意を避けること、早期の後便を期していること、これらを懇ろに伝えられている。
同日、飛州姉小路三木「良頼(中納言)」から返書(「山内殿」)が発せられ、このような長文の返信は憚られるとしながらも、遠路を厭わずに寄せられた音信に報いたい一心ゆえであり、是非とも理解してほしいこと、お互いが認識しているように、ここ暫くは交信が途絶えていたが、このほど折り良く書信が寄せられたので、安堵していること、一、その表の本庄(繁長)の逆心については、昨年の初冬から今日に至るまでの間に、厳重に敵城を包囲されると、全ての外郭部を破却されたので、間もなく決着がつくそうであり、めでたく喜ばしいこと、その表本庄が伊達(羽州米沢の伊達輝宗)と会津(奥州黒川の蘆名止々斎)を頼んで降伏を懇願しているのが事実ならば、時局を考えて赦免されるべきではないかと思われること、一、駿・甲両国の交戦については、信州口の全通路が塞がっているため、確実な情報を得られず、当表に流れてきた風説であること、甲府(甲州武田信玄)がいきなり軍勢を催し、駿府中に火を放ったので、今川氏真は遠江国懸川城に逃げ込んだこと、すると北条氏政が今川救援に乗り出し、甲府への帰路を塞ぐ格好となったので、困り果てた在陣衆(甲州武田軍)は新道を切り開いて本国への帰路を確保したこと、それでも不便に変わりなく、直近の風説によれば、すでに武田信玄は夜陰に紛れて本国へ馬を納め、敗北したそうであること、東美濃の遠山(美濃国衆の苗木遠山左近助直廉)が、(甲州武田軍に)参陣させていた小部隊が持ち帰った情報なので、事実ではないかと思われること、一、岐阜(濃州織田家)と甲州(甲州武田家)の提携については、甲府(信玄)の申し入れによって結ばれたもので、その子細は、織弾忠(織田弾正忠信長)にも駿州(今川家)に対する遺恨があり、この一致のみで繋がっていると思われること、うわべだけの厚誼のようであること、だからといって貴辺(輝虎)は両国の離間を煽ったりせず、岐阜(織田信長)を粗略に扱われないように気を配るべきであること、(輝虎とは)特別に申し交わしている間柄なので、真意を余すところなく申していること、一、京都合戦については、当家の使者が持ち帰った情報によれば、昨年末に三好三人衆(三好日向入道宗功(北斎。長逸)・同下野入道宗渭(釣竿斎。政生)・石成主税助友通)ら諸牢人が蜂起すると、先ず和泉国家原(大鳥郡)の地に於いて三好左京兆(左京大夫義継。河内国若江城主)の軍勢を撃破し、年明けの正月4日には京表へ進出して公方様(将軍足利義昭)御座所の六条(本国寺の仮御所)を襲撃したので、上意の御眼前に於いて、何度も御一戦が行われたこと、御味方された摂州住人の池田(筑後守勝正。摂津国池田城主)と伊丹(大和守親興。同伊丹城主)が山城国西岡(乙訓郡)表から赴援するも、三好三人衆の迎撃によって苦戦を強いられたところ、上意自らが御馬を寄せられて敵軍を突き崩されたこと、こうして、三人衆は天罰によるものか、主要な者共はことごとく討ち取られてしまったので、そのまま敗走を余儀なくされたこと、やがて急報に接した織弾忠(織田信長)が駆けつけ、五畿内から四国・中国に至るまでを余すところなく従え、参集を募った諸大名の協力を得て上意御座所を二条に完成させたこと、一方、和泉国堺(大鳥郡)の町衆は、諸牢人の蜂起を援助した事実を咎められ、このような過ちを二度と犯さない約束をするほか、様々な弁明を尽くして懸命に謝罪したので、このたびは不問に付されたが、何ゆえに牢人衆を援助したのか理解できないこと、一、本来であれば緊密に御連絡するべきところ、昨年の二度に亘る使者の派遣は、越中国金山表(新川郡)の不穏な情勢により、二度とも途中で引き返してくるほかなく、ひとえに交通路の事情によるものではあるが、貴辺との友好を軽んじたような形で、音信が途絶えてしまったのは遺憾であること、遠路を越えて書簡が寄せられたのは快然であること、早期の来信を期しているので、詳細を省いたこと、これらを懇ろに伝えられている。
同日、姉小路三木「良頼」から、取次の「直江大和守殿(景綱。大身の旗本衆)」に宛てて書信が発せられ、ここ暫く交信が途絶えていたところ、このほど折り良く輝虎の方から音信が寄せられたので、自ら筆を執って申し上げること、本来であれば緊密に音信を通ずるべきところ、交通路の寸断によるものではあるが、疎遠となってしまい面目を失したこと、その表の本庄(繁長)の逆心については、輝虎が御在陣して隙間なく取り囲まれたので、決着がつくのも間近であるのは、めでたく喜ばしいこと、本庄は伊達と会津にすがって降伏を懇願しているそうであり、(本庄が)確かな証人を差し出すのであれば、赦免するのが適当ではないかと思われること、これについては直書にて申し上げたので、よろしく取り成してほしいこと、駿・甲両国の交戦の状況がどうなっているのか、不確かながら、知り得た情報を記した書付を輝虎へ進ずること、京都合戦については、このたび諸牢人衆が出張したところ、上意(将軍足利義昭)が御一戦を遂げられて、即時に御本意を達せられたこと、この書簡を携えた使者が詳述すること、後音を期していること、これらを懇ろに伝えられている。
同日、姉小路三木「良頼」から、取次の「村上殿(村上源五国清。客分の信濃衆・村上兵部少輔義清の世子で、一家衆に準ずる)」に宛てて返書が発せられ、先月26日付の芳札(村上国清の書状)と輝虎から飛脚をもって承った事柄について、このほど改めて示し預かり、つぶさに披読したこと、一、その表の本庄(繁長)の逆心については、初冬から現在に至るまで輝虎が御在陣し、隙間なく包囲されると、外曲輪を焼き尽くしたので、近日中に決着がつくそうであり、めでたく喜ばしいこと、本庄は伊達と会津を頼んで、必死に降伏を懇願しているそうであり、(本庄が)確かな証人を差し出すのであれば、赦免されるのが適当ではないかと思われること、これについては直書にて申し上げたこと、一、駿・甲両国の交戦については、当口には信州との通路が残らず塞がれており、確かな情報は得られていないこと、それでも風聞によれば、武田信玄は計策をもって駿州に攻め込むと、駿府を焼き尽くしたこと、よって今川氏真は遠州のうち懸河の地へ入城したそうであること、そうしたところに北条氏政が救援に駆けつけ、駿州衆のうちで、一旦は甲州に従った者も味方に回ると、甲府への通路を塞いだので、在陣衆(甲州武田軍)は困り果てて新道を切り開いたこと、それでも不便に変わりなく、直近の風聞によれば、武田信玄は夜陰に紛れて馬を納め、敗北したそうであること、東美濃の遠山が、(甲州武田軍に)参陣させていた小部隊が持ち帰った情報なので、事実ではないかと思われること、一、京都合戦については、近日中に下国する京都へ差し上せた使者が下してきた書付の通りの内容を、こうして披見のために進ずること、牢人衆が出張するも、上意の御眼前で一戦を遂げられると、主要な者共をことごとく討ち取られて、余すところなく御本意を達せられたそうであること、この書状を携えた使者が詳述すること、一、岐阜と甲州の提携については、甲府から使者を寄越されて、交誼が結ばれたそうであること、その実情は、織弾忠が駿府に対せられ遺恨があり、それが一致して繋がっているだけの形ばかりの交誼であること、だからといって輝虎は両国の離間を煽ったりせず、そつなく岐阜へ交流を図られるべきであり、つとめて書状のやりとりされるのが適当ではないかと思われること、(輝虎とは)特別に申し交わしてしる間柄なので、真意を余すとことなく申し上げていること、このように御取り成してもらえれば、めでたく喜ばしいこと、一、鹿毛の馬一匹を贈与してもらえるそうであり、快然であること、若采(村上家中の若林采女允)には伏せられた案件なので、受け取りの者を派遣したこと、一、このほど馬の鞦を贈ってもらい、ひたすら喜んでいること、こちらからは、塩硝二斤を贈ること、些少ながら書状への感謝の印であること、一、本来であれば緊密に交信するべきところ、越中金山表の異変によって、昨年の二度に亘る使者の派遣は失敗に終わり、たとえ交通路の断絶よるものだとしても音信が途絶えてしまい、某(姉小路三木良頼)が不義理をしたようで鬱積していたところ、遠路を越えて音信が寄せられたので、救われた思いであること、来信を期していること、これらを懇ろに伝えられている。

29日、(上杉「輝虎(花押a)」)、関東味方中の房州「里見大郎(左馬頭義弘)殿」に宛てて書信を発し、その口(総州口)の状況を内々に案じていたところ、わざわざ使者を寄越してくれたので、ひたすら喜んでいること、以前にも知らせたように、佞人の表裏をもって本庄弥二郎(繁長)が在府中に欠落し、居城の村上要害(越後国瀬波(岩船)郡小泉荘)に立て籠もったので、この口に馬を立てたこと、しかしながら、伊達輝宗と蘆名盛氏(止々斎)が、しきりに弥次郎の進退について意見を寄せてきたので、両所(伊達・蘆名)の厚意に配慮し、また、関東出陣を急がねばならないため、赦免する考えであること、このほど武田信玄が駿州へ攻め入ると、北条氏政は今川氏真との親縁を捨て難かったようで、駿河国薩埵山に乗り出し、信玄と対峙していること、このため正月中に輝虎に無事を様々に懇願してきたのは、きっと聞き及ばれているであろうこと、先年に北条丹後守(高広。相州北条家の他国衆。かつては越後国上杉家の譜代衆であり、上野国厩橋城代を務めていた)をもって氏政との一和の交渉に臨んだ際、様々な提案をして真摯に取り組んだにも係わらず、氏政が不誠実な対応に終始してまとまらなかった経緯があり、このたびの無事の打診をはねつけたので、それについては御安心してほしいこと、氏政は信頼に値しない人物なので、若しも接触を図ってきたとしても、信用してはならないこと、これに関しては、去る頃に二度に亘り、そちらへ氏政かたからの書簡の写しを使者に持たせて進ずるも、未だ参着していないものか、何らの反応もないこと、たとえ無事を受け入れるとしても、そちらとは代々に亘って申し交わしてきた間柄であり、どうして意見を聞かず相談もせず、内々に交渉を進めたりするわけもなく、是非とも御不審に思わないでほしいこと、必ずこの口(越後奥郡)の決着をつけて帰府したあかつきには、使者をもって申し述べること、これらを懇ろに伝えた。
その房州里見義弘は、これ以前に総州へ出陣しており、下総国松戸・市川(葛飾郡)を散々に荒らし回ったのち、この26日に撤収すると、同臼井(印旛郡)筋の郷村を焼き払いながら後退し、28日には上総国椎津(市原郡)の地に至っている。
これに対し、相州北条氏康は、下総国葛西城(葛飾郡)の防衛のため、江戸衆に加勢を指示したり、鉄炮の玉薬の手配をしたりしている。

29日、(上杉「輝虎」)、関東味方中の簗田中務大輔入道道忠(洗心斎。晴助。下総国関宿城主)から飛脚が到来したことを受け、同じく味方中の「太田美濃守殿(三楽斎道誉。資正。常陸国片野城主)に宛てて、自ら筆を執って書信を発し、このたび簗中から脚力が罷り越したので、一筆を認めたこと、当地村上を日ごとに追い詰めていること、これにより、伊達輝宗と蘆名盛氏を頼み、様々な手段を用いて降伏を懇願しており、最も実現を志向するべき越山のため、小事にかまけて時日を送っていても仕方がなく、輝宗・盛氏に免じて容赦するつもりであること、繰り返し何度も北条氏政が越・相一和を懇願してくるも、諸味方中を見捨てるわけにはいかないので、はっきりと拒絶したこと、南方(相州北条家)がどのような流言を広めたとしても、誘いに乗られてははならないこと、先年も越・相一和が持ち上がった際、当方は北条高広を交渉役に立てて、様々な提案をして真摯に取り組んだにも係わらず、氏政が裏腹な態度を取り続けたので、交渉は物別れに終わっており、このたびの一和の打診に応じるつもりはないので、安心してほしいこと、たとえ無事を成立させるとしても、房(房州里見家)・佐(常陸国衆の佐竹氏)・其方(太田入道道誉)を始めとする味方中に相談もないまま、どうして一和を遂げるなどあろうか、つとめて房・佐には平静を保つように心得られてほしいこと、この口の決着がつき次第、使者の開発中務少輔(中務丞。旗本衆)をもって申し届けること、前回に息子の源太方(道誉の世子である梶原政景)が蘆名家の事情を知りたいとして、使者を寄越してきたが、満足な情報を得られないまま帰途に就く際、また再訪させるつもりであると聞いていたが、くれぐれも報知するべき事柄を得ていないので、留め置かれるべきこと、これらを懇ろに伝えている。更に追伸として、今しがた盛氏がら届けられた音信によると、佐(佐竹次郎義重)との対立を解消する意思を示してきたが、結局こうなるのであれば、先だって話が持ち上がった際に両者が歩み寄るべきであったこと、しかしながら、其方(太田入道道誉)を通じて具体的な要望が寄せられれば、すぐさま仲介に乗り出すことを伝えた。

同日、(上杉「輝虎」)、伊勢神宮の御師である「蔵田紀伊守殿」に宛てて自筆の書簡を発し、先だって東海道筋に使僧を往復させた際、懇ろに様々な便宜を図ってくれたので、ひたすら喜んでいること、このほど再び使僧を往復させるので、彼の者が滞りなく通行できるように、路次番を念入りに努めてほしいこと、これらを懇ろに伝えた。
同日、年寄衆の河田「長親」が、「蔵田紀伊守殿」に宛てて副状を発し、このたび敢えて申し伝えること、東海道筋を往復した御使僧の通行に便宜を図られたので、すこぶる御喜びであり、その趣旨を示されるために御書を認められたこと、当方の御使僧である要明寺の口弁によれば、「たげ」が当方と交誼を結ばれたいとして、其方(蔵田紀伊守)に御内意を示されたそうであり、若しも事実であるならば、格別に相談されるべきこと、よくよく聞き届けられて、承諾されるのが尤もであること、よって、これらを蔵田左京亮(越後に在国する伊勢神宮の御師)が詳報することを伝えている。

同日、相州北条「氏康(相模守)」から、上野国沼田城の在城衆である「河田伯耆守殿(重親)・上野中務少輔(丞)殿(家成)」に宛てて書信が発せられ、善徳寺・天用院を向かわせたところ、御懇ろに接してくれているそうであり、本望であること、余りに寒雪の厳しい時節なので、使僧の越境は困難であるため、代わりに松石(沼田城将の松本石見守景繁)が越山されるそうであり、松石にとっては御大儀ながら、満足していること、薩埵山陣中の様子については、山上の在陣衆が中腹まで下ったと報告を寄せてきたこと、この26日、息子である新大郎(藤田氏邦)の配下の五・六十騎が興津河原へ攻め下り、敵の小荷駄隊に馬を入れて五十余名を討ち取ったとの注進を寄せてきたこと、日々交戦して余裕がないようであり、このまま御遅延されれば、愚老の心労も頂点に達してしまうこと、一日も早く信濃国飯山(水内郡)辺りへ御人数を打ち出されるように念願していること、よって、これらを由信(由良信濃守成繁)が詳報することを伝えられている。更に追伸として、松石(松本景繁)に宛てて認めた一書を、追送されるように頼まれている。

晦日、飛州姉小路三木「良頼」から、取次の「直江大和守殿(景綱)」に宛てて書信が発せられ、越中金山(椎名右衛門大夫康胤。越中国松倉城主)との和睦について、昨年に村兵(村上兵部少輔義清。客分の信濃衆)の仲介により、無事が過半まで調ったにも係わらず、ひとつふたつの条件を巡って紛糾し、御同心されなかったそうであり、そのあらましは若采(若林采女允)に尋ねたので、存じていること、双方の御存分は合意できないほどの隔たりはないのではないかと感じたので、先頃に飛脚をもって申し述べたたように、金山(椎名康胤)へ無事の件について再考を促したところ、良頼の意見に従うそうなので、若采へ存分を言い含めて下国させたこと、この御返事を詳しく承ったのち、調停の方針を定めたいこと、これらを懇ろに伝えられている。


この間、甲州武田「信玄(徳栄軒)」は、16日、「徳川殿(三州徳川家康)」に対して書信を送り、いささかも疑心を抱いてはいないものの、誓詞の交換を持ち掛けたところ、すぐさま調えて寄越してくれたので、めでたく喜ばしいこと、信玄も案文の通りに書き写し、使者の面前で血判を押して進ずること、よりいっそうの御入魂を望んでいること、これらを懇ろに伝えている。
19日、常陸国衆の佐竹氏の客将である「三楽斎(太田美濃入道道誉)」に対して返書を送り、このたび使者として鷹尾(高尾伊賀守)を派遣したところ、懇ろに返答を寄せてくれたので、めでたく喜ばしいこと、先月27日に氏政(相州北条氏政)が当国薩埵山に出張してきたので、信玄も乗り向かって対陣しており、疑心を抱かれないでもらいたいこと、今こそが其方(太田入道道誉)の御本意を遂げられるべき時節であり、互いに一致しているのではないかと思われること、鷹尾の口上の趣旨を聞き届けられ、手抜かりなく奮闘されるべきこと、言うまでもなく、この好機を逃せば、必ず後悔すること、これらを懇ろに伝えている。
24日、信濃先方衆の「芋川右衛門尉殿(親正。信濃国若宮城主)」に対して書信を送り、濃州織田信長が、遠江国懸川城(佐野郡)を攻囲中の松平蔵人(徳川家康)に加勢するため、近々出陣するようなので、当表の戦陣は両者に任せ、自分は雪解けの時期が到来したならば、直ちに越府へ攻め入るつもりなので、用意のために帰府することを伝えるとともに、信・越国境の様子を報告することを求めている。

摂州石山(東生郡生玉荘小坂)の本願寺顕如(光佐)は、25日、内衆の下間「証念(頼総。丹後法印)」を通じて越中一向一揆の勝興寺(婦負郡末友の安養寺伽藍城郭に拠る)の内衆である下間「右衛門尉殿(頼辰ヵ)」に対して書信を送り、これまで固く連帯していたはずの神保(惣右衛門尉長職。越中国増山城主)が、昨年来より越後の「長尾輝虎」と手を結んで門徒中に非分を働いているのは、もはや疑いようがないところで、武田殿(甲州武田信玄)からも繰り返し善処を求められており、このまま神保の横行を放ってはおけないので、現在は味方である椎名方(右衛門大夫康胤。越中国松倉城主)を立ち行かせるためにも、甲州・金山(椎名)・諸牢人衆と協力して反撃するように指示を送っている。

越後奥郡の村上城に立て籠もる本庄「繁長」は、吉日、被官の「斎藤十郎左衛門尉殿」と「飯沼藤四郎殿」のそれぞれに感状を与え、籠城の奮闘を称えるとともに、永代に亘って諸役を免除している。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 660号 由良成繁書状(写)、661号 徳川家康書状、662号 石川家成副状(写)、664号 由良成繁書状、665号 姉小路自綱書状、666号 三木良頼書状、667号 三木良頼副状(写)、668号 三木良頼書状、669・670・671号 上杉輝虎書状(写)、672号 河田長親副状(写)、673号 北条氏康書状、887号 三木良頼書状(写) 『新潟県史 資料編5 中世三』 3704号 三木良頼書状(写) 『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』 1157・1158号 北条氏康書状 『戦国遺文 今川氏編 第三巻』 2287号 小笠原元詮・瀬名元世連署状 『戦国遺文 房総編 第二巻』 1315号 千葉胤富書状 『戦国遺文 武田氏編 第二巻』 1342号 武田信玄書状写、1367号 武田信玄書状写、1368号 穴山信君副状、1370号 武田信玄書状 『富山県史 資料編Ⅱ 中世』1672号 下間証念書状 『村上市史 資料編1 古代・中世編』 189号 本庄繁長感状(写)、190号 本庄繁長感状 ※ 『富山県史 通史編Ⅱ 中世』

◆ 三好三人衆の実名・法号については、天野忠幸氏の論集である『戦国期三好政権の研究』(清文堂出版)の「第一部 国人編成と地域支配 補論 三好一族の人名比定について」を参考にした。
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越後国上杉輝虎(旱虎)の略譜 【46・上】

2013-03-05 15:40:11 | 上杉輝虎(謙信)の略譜
永禄12年(1569)2月 上杉輝虎(旱虎。弾正少弼) 【40歳】

2日、相州北条氏康の側近である遠山新四郎康英(遠山左衛門尉康光の嫡男。小田原衆)から、上野国沼田城(利根郡沼田荘)の在城衆である「松本石見守殿(景繁。大身の旗本衆)・河田伯耆守殿(重親。同前)・上野中務少輔(丞)殿(家成。譜代衆)」に宛てて条書が発せられ、一、このたび使僧をもって氏康父子(北条氏康・氏政)の証文(誓詞)を進め置かれること、一、相・甲両軍は間近に御対陣しているため、交戦状態に入られるのは時間の問題なので、早々に越の御人数(越後上杉軍)も信州へ打ち出されて、沼田御在城衆は西上野大戸・岩櫃(ともに吾妻郡)の方面に火の手を揚げられるように、父子は心待ちにされており、此方の人数(相州北条軍)は其方の御指示に従うこと、一、この条書を携えた飛脚が14日か15日に帰府すると思われるので、16日か17日辺りには、内命によって拙者親子(遠山康光・康英)のうち、どちらかが上野国金山城(新田郡新田荘)へと差し向けられるので、沼田と金山の中間点に於いて御両所(松本・河田)と御対談に及び、越・相一和の道筋をつけられるべきであり、御同意されるならば、御日限を仰ってほしいこと、これらの三ヶ条について説明されている。

5日、関東味方中の多賀谷入道祥聯(修理亮政経。常陸国衆。常陸国下妻城主)から、取次の「河田豊前守殿(長親。大身の旗本衆)」に宛てて返書が発せられ、昨4日に到来した正月12日付の御状(河田の書状)に、高札(輝虎の書簡)と写物(相州北条家側の書簡の写し)が添えられたのは、身に余る芳志を給わったこと、越・相一和については、南方(相州北条家)の策謀は今に始まったわけではなく、申し立てには及ばないこと、このたび義重(常陸国衆の佐竹次郎義重。常陸国太田城主)が、小田(相州北条家に従属する常陸国衆の小田中務少輔氏治が拠る常陸国小田城)へ向かって攻撃を仕掛けられたこと、正月15日に小田一党の常陸国海老嶋城(真壁郡)を取り囲み、翌16日には夜襲を敢行して主郭以外の施設を悉く制圧したところ、恭順の意を示してきた城主(平塚刑部大輔)の身命が容赦されたので、自分が多数の人質を受け取って佐(佐竹)御陣下に送致し、支障なく処置したこと、21日には小田城(筑波郡)へ攻め寄せ、佐村の地に御本陣を構えると、宿城・外郭に火を放ち、数日間に亘って近郊の郷村を一ヶ所残らず荒らし回ったのち、初夏の再戦を期して御帰陣されたこと、必ず小田との決着をつけるつもりなので、早々に反乱を鎮定されて、思うがままに関東の経略を果たされるように念願していること、下総国関宿城(葛飾郡下河辺荘)の救援が焦眉の急であり、とにかく御越山を急がれるべきなので、恐れながら申し上げること、房州(房州里見家)からも御越山の要請が仰せ届けられているからには、この書面は略すこと、よろしく御披露してほしいこと、これらを懇ろに伝えられている。
6日、地下鑓の動員を図り、年寄衆の柿崎「景家(和泉守。譜代衆)」・山吉「豊守(孫次郎。大身の旗本衆)」・直江「景綱(大和守。政綱。昨年の村上陣堅持の功績によって輝虎から景の一字を付与されたものか)」を奉者として、奉行衆の「岩船藤左衛門尉(忠秀ヵ。旗本衆)・羽田六助(六介ヵ。同前)に朱印状を与え、鑓百挺につき小旗三本を、壱人につき鑓・縄(二十尋を二荷)・鉈・鍬の用意を課するとともに、この四種を持参した者には褒美を与えることを通達した。

同日、相府の北条「氏康(相模守)」が、他国衆の「由良信濃守殿(成繁。上野国衆。上野国金山城主)」に宛てて書信を発し、先書で申し届けた通り、このたび天用院(相州北条家の菩提寺である早雲寺の支院主。家老の石巻下野守家種の弟)に誓詞と条目などを託して詳細を申し含め、金山城を経由して彼の国(越後)へ派遣すること、今回は輝虎への直書は控え、沼田衆・直江(景綱)・柿崎(景家)に宛てて書簡を送って交渉を進めること、その地(金山城)に於いて、よくよく天用院から詳細を聞き届けられた上で、諸事万端を御助言してほしいこと、取り分け(今川)氏真の使僧(善得寺茄首座)が当地(小田原)に長逗留しており、このたび天用院に差し添えるので、これまた、よろしく御指南してほしいこと、よって、これらを柳下・内海が詳報することを伝えている。
同日、駿河国薩埵山(庵原郡)に在陣中の相州北条「氏政(左京大夫)」が、「由良信濃守殿(成繁)」に宛てて書信を発し、越・相一和の交渉の進捗状況を知らせてほしいこと、このほど沼田からの使者が当陣に参着したのは、ひとえに其方(由良成繁)の尽力にほかならず、我ら父子の意向に副ったもので満足していること、この上は速やかに一和を成就させて、一日も早く彼(越後国上杉軍)の信州出張が求められること、昨年の12月26日に伊豆国三島(田方郡)を出立すると、薩埵山の敵勢を追い落として彼の嶺に陣所を構え、甲・相両軍は一里の間に対陣していること、今この時に越衆(越後国上杉軍)の出張が実現すれば、越・相両国が本意を達せられるのは疑いないのではないかと思われ、死力を尽くして甲州武田軍を封じ込めること、但し、道筋が多いので、どうなるかは分からないこと、沼田在城衆の松石(松本石見守景繁)から示された条目の旨に従い、輝虎に誓詞を送るので、よって、其方(由良成繁)が、これらを心得た上で不足なく調整されるべきことを伝えている。
同日、相州北条「氏政」から、年寄衆の「柿崎和泉守殿(景家)・直江大和守殿(景綱)」に宛てて初信が発せられ、越・相和融の実現に尽力してもらいたく、詳細については、使僧の天用院が口述することを伝えられている。
同日、相州北条「氏康」から、沼田城将の「松本石見守殿(景繁)」に宛てて書信が発せられ、越・相和融について、何度も息子の新太郎(藤田氏邦。氏康の四男。武蔵国鉢形城主)をもって申し届けたところ、御懇切に対応してくれたので、まさしく本望満足であること、このほど当主の氏政が宝印を翻した誓詞をもって申し述べるので、越府(輝虎)が御同意してくれるように、どうか根回してほしいこと、甲・相両軍の対陣の様子については、両人(氏政・氏邦兄弟)の書簡を添えるので、詳説を省くこと、今後の薩埵山陣の作戦行動などについては、使僧の天用院が口述すること、願わくば彼の者に同道し、越府に於いて御指南を頼み入るばかりであること、これらを懇ろに伝えられている。
7日、由良成繁から、沼田在城衆の「松石(松本石見守景繁)・河伯(河田伯耆守重親)・上中(上野中務丞家成)御宿所」に宛てて返書が発せられ、一昨日は御懇ろに示し預かり、ひたすら本望であること、すなわち御返報に及んだこと、御使者が帰着したかどうか気になっていること、先だって南方(相府小田原)に寄越された両使は、薩埵山陣に逗留されていること、彼の両人が沼田へ帰着するまでには時間を要するため、氏康が代わって合点の段について、先ずは方々(沼田衆)へ直札をもって申し述べられること、そのため志津野(一左衛門尉。藤田新太郎氏邦の家臣)が直札を携えて折り返し寄越されること、先月26日に氏政は駿州近辺の薩埵山に進陣なされたので、信玄も対陣したそうであること、この機会を捉えて越国(越後国上杉軍)が御戦陣を催されれば、信・甲両国の御平定は疑いないこと、これらの趣旨を申し述べるため、氏政から上野式部少輔方が両人に差し添え遣されること、氏康父子(北条氏康・氏政)からの誓詞を、遠山左衛門尉父子(遠山康光・康英)の何れかが持参するそうなので、その地(沼田)から川境まで御出ましあるならば、日取りなどを詳しく御提示してほしいこと、彼の使者が口上に申し含めたので、この書面を略すこと、これらを懇ろに伝えられている。

8日、将軍足利義昭(花押)から御内書(「上杉弾正少弼とのへ」)が発せられ、このたび凶徒が蜂起したところ、すぐさま織田弾正忠(信長)が駆けつけ、凶徒を一掃して本懐を遂げたので、今は平穏に在洛していること、この機会に越・甲和与を成就させて、いよいよ天下静謐のために信長と相談して奔走するべきこと、よって、これらを智光院(頼慶。越後国上杉家の使僧)を下して詳述させることを伝えられている。
同日、濃(尾)州織田「信長(弾正忠)」から、取次の「直江大和守殿(景綱)」に宛てて副状が発せられ、このたび越・甲御間の和与について、御内書を下されたこと、今この時に成就させて公儀(足利義昭)のために奔走されるべきこと、ことさらに取り成してもらえれば、信長にとっても、すがすがしく喜ばしいこと、よって、これらを御使僧が詳述されることを伝えられている。

10日、(上杉「輝虎(花押a)」)、飛州姉小路三木良頼(中納言)の重臣である「塩屋筑前守殿(秋貞ヵ)」に宛てて書信を発し、久しく交信していなかったので、良頼へ書札を送ること、その表に異変があるかどうか、心許ないこと、当口については、逆徒(本庄繁長)を成敗して決着をつけるのも程近いため、安心してほしいこと、駿・甲・相三ヶ国の間での抗争が取り沙汰されており、どのような事情であるのか、その口ならば、きっと情報が伝わってきているであろうこと、詳しい返答が寄せられれば、すこぶる喜ばしいこと、帰府した上で詳細を申し届けること、よって、これらの取り成しを任せることを伝えた。
同日、飛騨国の味方中である江馬四郎輝盛(飛州姉小路三木氏の重臣。飛騨国高原諏訪城主)に久方ぶりの音信を通じるために飛脚を雇うと、取次の村上国清(源五。客分の信濃衆・村上兵部少輔義清の子で、一家衆に準ずる)が、ついでに江馬輝盛の宿老である「河上式部少輔殿」に宛てた書信を託し、ここ暫くは音信を通じていなかったとして、輝虎の方から飛脚をもって申し入れられること、その国(飛騨国)の事情がどうなっているのか、承りたいこと、以前に申し入れた通り、本来であれば四郎殿(江馬輝盛)へ御音信を通ずるべきところ、(輝虎は)前回もしばしば豊前(河田豊前守長親)の御取り成しを用いられており、このたびも豊前をもって申されること、およそこれまで老父(村上義清)が貴国(飛州姉小路三木家)の取次を務めてきたこと、拙夫(村上国清)も寸分変わらず取次に奔走する覚悟であること、この趣旨をしかるべく御取り成してほしいこと、両国の修好を維持するために率直な意見を承り、無沙汰のないように努めること、若林采女允が詳報するので、この書面は要略したこと、これらを懇ろに伝えている。

11日、関東味方中の太田「三楽斎道誉(美濃守資正。常陸国片野城主)」から、取次の「山吉孫次郎殿(豊守。大身の旗本衆)」に宛てて返書が発せられ、先月12日付の御貴札を今月朔日に拝読したこと、大石源三方(北条氏照。相州北条氏政の兄弟衆。武蔵国滝山城主と下総国栗橋城主を兼務する)から御当国(越後)へ一和を持ち掛けられた事実について、喜ばしくも精細に報知されたので、逐一を義重(常陸国衆の佐竹次郎義重。常陸国太田城主)に報告したこと、昨年の12月27日に佐竹(義重)が申し上げた、年明けの正月2日に当地(太田入道道誉)が申し達した、その首尾に恐れながら御合点してほしいこと、南方(相州北条家)は苦境に陥ると、あのような揺さ振りを仕掛けてくるのであり、まともに対応されては、が不利益を被られること、大石源三(氏照)と北条丹後守(高広。上野国厩橋城主)が越府に呈した書簡の写しは披見に預かったものの、添えられるべき直江方(大和守景綱)が南方(相州北条家)に宛てた返書は忘失されているらしいこと、佐竹と南方の間は完全に没交渉であること、(佐竹)義重に於いては、正月10日、当地(常陸国茨城北郡片野)に御着場、同15日、常陸国海老嶋城に押し寄せ、翌16日、夕暮れ時から攻撃を始めると、日付が変わっても攻め続けたので、同17日の午前中には、宿城を制圧したこと、すると、城主(平塚刑部大輔)が降伏をひっきりなしに懇願し、元より佐竹に対抗する意思はなかったとの言い分であり、我等(太田入道道誉)とは入魂の仲であり、赦免の取りまとめに一役買ったこと、こうして攻撃開始から三日間で落着を遂げ、証人を受け取って一両日を城の修復に費やすと、正月21日、小田城へ進陣し、周辺地域を悉く焼き払うなか、府中(常陸国衆の大掾貞国。常陸国府中城主)が合流されたこと、このたびの戦陣では真壁方(安芸守久幹。常陸国真壁城主)と多賀谷修理亮(号祥聯。政経。常陸国下妻城主)の働きが顕著であったこと、南方(相州北条家)がいかなる策謀をめぐらせようとも、(輝虎が)当口の味方中(東方衆)を御見捨てにならない旨を確約されたので、心から感激しているかたわら心強い思いであること、房州(房州里見正五(義堯)・義弘父子)への御書札(輝虎の書状)を簗田方(洗忠斎道忠(晴助)・八郎持助父子。下総国関宿城主)へ送り届けたこと、その房州からも脚力が寄越され、言葉を尽くして関東御出陣を求められていること、やがて佐竹から御使者をもって仰せ届けられるので、愚息(梶原源太政景)からも代官をもって申し達すること、取り分け下総国関宿城(葛飾郡下河辺荘)の救援は急務であり、いつものような御越山をしてほしいがための大仰な報告をしているとは御思いにならないでほしいこと、詳細については石井拾左衛門尉が申し上げるので、然るべく御披露してもらいたいこと、これらを懇ろに伝えられている。
また別紙の追伸として、こちらでは、南方(相州北条家)からの策略を、真実と考えた上で盛氏(奥州黒川の蘆名止々斎)に御取り成しされるように仰せ届けられたのではないか、そのように認識していること、本庄(越後国村上城)を御手に入れられたのかどうか、遠隔の地であり、会津の領中も大切なので、御当陣へ参って御様子を確認できないため、恐れながら御心許ない思いであること、この甲・南(相)両国が抗争している機会を捉え、たとえ不十分な陣容であっても御越山され、関東の御平定を成し遂げてほしいと、深く念願していること、関宿城が堅固な間の御越山に極まれること、持ち堪えられるのは今来月までとの見当を聞いていること、しかるべく御披露してもらいたいこと、これらを懇ろに伝えている。

13日、(上杉「旱虎(花押a)」)、越後国村上陣(瀬波郡小泉荘)から、越府の「喜平次殿(甥である上田長尾顕景。越後国坂戸城主)」に宛てて返書を発し、幾度となく細やかで配慮の行き届いた音信を寄越してくれているばかりか、このたびは、祈りを込めた護符と巻数(読誦した経文の種類・度数を記したもの)を贈ってくれたので、喜びもひとしおであることと、そう遠くないうちに決着をつけ、帰府するつもりなので、対面の折に喜びの言葉を述べることを伝えた。更に追伸として、返す返すも、こまめに音信を寄越してくれたので、喜びもひとしおであることと、筆致が上達したので、手本を送り届けることを伝えた。

この頃、常州在国の白井長尾左衛門入道沙弥(憲景。もと上野国白井城主)から、「越府」の年寄中に宛てて、正月12日付の書簡に対する返書が発せられ、正月12日付の御一札、去る晦日に到着したこと、芳翰の通りに、大石源三(北条氏照)が和睦を懇望する書札の複写が添えられていたが、取次の直江大和守(景綱)が大石に宛てた返書の複写は到着されているらしいこと、当口の味方中は、たとえ越・相一和を受諾されたとしても、見捨てられないでほしいと申しており、各々がひたすら念願していること、一和の万事を拒否されて、今こそ御越山されれば、関東を御平定されるのは瞬く間であること、駿・相両国と甲(甲州武田信玄)の間の対戦に決着がついてからでは徒労に帰すため、一刻も早い御越山を待ち入るばかりであること、この正月15日に当口の味方中は、小田一党の常陸国海老嶋城に攻め寄せ、翌16日に夜襲を敢行し、同17日の昼までに本郭以外を制圧すると、城主の平塚刑部太輔が降伏をひっきりなしに懇願し、主要な親類・家中の実子までも人質に差し出したので赦免すると、彼の地の普請と統治を手配したのち、正月21日、(小田)氏治の拠る小田城に程近い佐村の地に進み、翌22日、一日がかりで不動山に堅陣を構え、密かに小田城へ攻めかかる準備を整えていたところ、真壁安芸守(久幹)・太田美濃守父子・多賀谷修理(号祥聯)から、(輝虎が)いつ御越山されるのか分からないため、その場合に備えて帰陣するべきとの提言があり、これに応じて小田陣を撤収したこと、下総国関宿城は、南方(相州北条軍)の攻勢に曝され、日毎に窮迫して自落するのも目前であり、とにかく一刻も早く関東へ出陣してほしいこと、このほかの事柄についての報告は、改めて使者を派遣すること、これらを懇ろに伝えられている。


この間、駿河国興津城(庵原郡)に在陣中の甲州武田「信玄(徳栄軒)」は、11日、西上野に残留する先方衆の「信竜斎(小幡尾張入道全賢。上野国国嶺城主)」に対して書信を送り、このたび寄せられた来意の通り、息子の上総介(小幡信実)が当地に無事着陣し、諸事万端について談合したので、御安心してほしいこと、当城の改修を終えたので、今日明日中に本国から糧米を搬入し、氏政の陣所に一撃を加えたのち、速やかに帰国するつもりであること、沼田表に目立った活動は見られないようであり、安堵していること、よって、これらを隼人佑(原昌胤。譜代衆)が詳報することを伝えている。更に追伸として、僅かではあるが、現来に任せて蛤一籠を送ることを伝えている。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 308号 上杉輝虎書状、450号 村上国清書状、648号 遠山康英条書、649号 多賀谷祥聯書状、650号 上杉輝虎朱印状(写)、651号 北条氏康書状(写)、 652号 北条氏康書状、653号 北条氏政書状、654号 由良成繁書状(写)、655号 足利義昭御内書、656号 織田信長副状、657号 上杉輝虎書状、658・659号 太田道誉書状、684号 長尾憲景書状(写) 『戦国遺文 後北条氏編 補遺編』 4681号 北条氏政書状 『戦国遺文 武田氏編 第二巻』 1363号 武田信玄書状写

◆ 『上越市史』等は308号文書を永禄5年と仮定しているが、今福匡氏の論考である「「旱虎」署名の謙信書状について」(『歴史研究』第502号)に従い、永禄12年の発給文書として引用した。
◆ 『上越市史』は450号文書を永禄8年に仮定しているが、岡村守彦氏の著書である『飛騨史考 中世編』の「四 越中出陣 【上杉方越中守備軍】」に従い、永禄12年の発給文書として引用した。
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