越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

『上越市史 上杉氏文書集』に未収録の謙信関連文書【16】

2023-05-30 20:51:37 | 雑考


【史料1】天正3年12月24日付正木大膳亮宛佐竹賢哲書状(上野家文書)
幸便之間申届候、其以来者無差義故、絶音問候、覚外之至候、然者、向万喜地利被取立之由、於御本意者不可有程之由存候、殊更如前々房越被仰談由、従謙信被仰越候、於当方肝要被存候、度々如申届候、御当方・当方別而御入魂之義、其方御馳走可相極候、当口之義、於我等不可存如在候、巨細期来音之時候、恐々謹言、
   十二月廿四日      賢哲(花押)
   正大
      参


【史料2】天正3年12月24日付太田新六郎宛佐竹賢哲書状(上野家文書)
其以来者絶音問候間、御当国之義、無御心元候処、示預候、向万喜正大地利被取立之由、如此之上者、於御本意者不可有程候、然者、房越如前々被仰談之由、従謙信被仰越候、当方被申合間、肝要被存候、義広(ママ)尚以義重御入魂候様、正大馳走之義、御取成尤候、巨細者三楽斎父子申越候間、不能重意候、恐々謹言、
   十二月廿四日      賢哲(花押)
   太田新六郎殿(参ヵ)
         ▢
  (奥上追而書)
  追而、正大へ一札御届頼入候、以上、


【史料3】天正3年10月9日付太田新六郎宛北条下総守高定書状(個人蔵文書)
就義弘・氏政御対陣、態御飛脚、則達 上聞候処、一段御喜悦由候、被成 御直書候、仍其国之為御後詰被遂御越山、向新田御近陣候間、定敵可為退散候、向後、如前々可有御入魂由、無二被思召請候条、弥於其元可然様御稼専一候、万吉重可申承候間、不能一二候、恐々謹言、
  追而、巨細いた方可被申候、一人之出家煩候間、府内差置候、如何ニも可被加療治由、せうれん寺(青蓮寺)助言申候間、定而不可有如在候条、可御心安候、以上、
              北下
    拾月九日       高定(花押)
    太新
      参 御報


 【史料1・2】は、天正3年も末に常州太田の佐竹次郎義重が、しばらく通交の途絶えていた房州里見義弘(上総国佐貫城に拠る)から、やはり里見家とは通交が途絶えていた越後国上杉家との旧交を再開させたという知らせを受け、族臣の佐竹賢哲(佐竹北家の当主。左衛門督。俗名は義斯)をもって、里見家の家宰である小田喜正木大膳亮憲時(上総国小田喜城主)、同じく客将である太田新六郎康資のそれぞれに対し、房・越の旧交再開は謙信からも知らされたことと、義重自身も通交が途絶えていた謙信と再び連帯することなどを伝えたもの(『勝浦市史 資料編 中世』171・179・182・184~186・189・198・199号〔注〕)。
 なお、江戸太田氏の康資は、永禄6年12月に相州北条家から離反して下総国市川の地に進軍してきた房州里見軍と合流し、年が明けた正月8日に房州里見勢と江戸・岩付の両太田勢からなる連合軍が国府台の地で北条軍に敗れると、里見領に逃れてからは、上総国久留里城に拠る里見家隠居の義堯(岱叟院正五)の許に身を寄せていたが、元亀3年中に、義堯(岱叟院正五)と現当主の義弘と鼎立する勢力でもある正木憲時の招聘を受けて小田喜城に移り、憲時と共に里見家の外
交を担った(『勝浦市史 資料編 中世』156・184・189号〔注〕)。


※ 正木大膳亮憲時(房王丸。弥九郎)は、房州里見義堯の家宰として名を馳せた正木大膳亮時茂(弥九郎)の弟たちである正木弾正左衛門尉(実名は弘季と伝わる)・勝浦正木左近大夫時忠(上総国勝浦城主)のどちらかの子で、叔父の養子となり、養父の死去に伴って小田喜正木氏を継いだとされてきた。しかし、だいぶ前から研究が進んでいて、実際のところは正木時茂の次男に当たり、時茂に先んじて嫡男の弥九郎時泰が病没し、永禄4年4月に時茂も病没すると、時茂の末弟である平七信茂が小田喜正木氏を継いだが、同7年正月8日に房州里見軍が相州北条軍との間で行われた下総国国府台の戦いに大敗し、信茂が戦死してしまったので、若年の憲時が小田喜正木氏を継いだことが明らかにされている(滝川恒昭『人物叢書 里見義堯』)。


 謙信と佐竹義重の通交は、天正2年冬に謙信が挙行した関東遠征において、義重が謙信からの同陣要請に応じなかったことで途絶えたが(『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』1238・1239号 以下は『上越』と略す)、味方中の下野国小山の小山秀綱(号孝山)が相州北条陣営からの攻勢にされされているなかでは、義重としても謙信を頼むしかなかったようで、翌3年8月中旬には両者の通交が再開し、北陸在陣中の謙信は当秋に必ず関東へ出馬することを伝えている(『上越』1265・1268号)。
 そして、【史料3】の通り、越後国上杉家と房州里見家が再び通交するに至ったのは、天正3年8月に相州北条氏政が上総国に出陣し、里見陣営の各所を攻め立てたので(『勝浦市史 資料編 中世』191~195号〔注〕)、その軍勢に立ち向かっている
房州里見義弘から、謙信の関東出馬を求める書状が発せられ、これを謙信は北陸陣を終えて関東へ直行している最中に受けた取ったようで、里見軍の後詰めと称して越山し(【史料3】『上越』1270号)、9月中旬から下旬にかけて、相州北条陣営の上野国衆である由良信濃守成繁・同刑部大輔国繁父子の新田領内に迫ったところ(『上越』1224号)、北条軍が上総陣を撤収したからである。


※ 『上越』16251・268号によれば、天正3年7月初旬から8月中旬にかけて謙信が挙行した北陸遠征に際し、佐竹義重から返礼の使者が北陸陣に到来しているが、里見義弘の飛脚と後発の使者「いた」と使僧「せうれん寺」(青蓮寺)と使僧某の場合は、上総国における房・相対陣の直前に派遣されたとしても、時間的に北陸陣に到着するのは無理であろうから、先発の飛脚は謙信が関東へ向かっている途中で出くわし、すぐに取って返したが、そのあとで謙信と出くわした使者・使僧たちは、何らかの理由により、取って返すことなく越府へ向かったものと思われる。


【史料4】(天正2年ヵ)9月11日付本庄清七郎・河田対馬守・新保清右衛門尉・栗林二郎左衛門尉・松本代宛上杉謙信書状(東京大学史料編纂所所蔵文書)
五日之以註進、自倉内申来以来、従而註進無之候、無心元候、雖然、爰元出馬候間、明日塩沢可打着候、早々旁々急候、倉内打着可然候、関左為懸助候差置候処、一騎壱丁人数不足候者、其曲有間布候、若黒川打入凶徒退散候、浅貝成共、猿京成共相待、一度可供候、又于今差▢候者、倉内可打着候、例式心得候而者、不可有曲候、相替義(ママ)候ハヽ註進待入候、謹言、
   九月十一日申刻     謙信(花押)
        河田対馬守殿
        新保清右衛門尉殿
        栗林二郎左衛門尉殿
        本庄清七郎殿
            松本代


『上越』1224号は天正2年に仮定されているが、この年の後半に謙信が関東へ出馬したのは10月19日以降であり(『上越』1229号)、状況が一致するのは「越中悉一変、賀国迄放火」したのち、8月21日に春日山城に納馬し、そのまま軍勢を解散することなく、関東へ直行して新田領に攻め寄せた天正3年である(『上越』1266・1267・1268号)。
 天正3年の謙信による関東遠征の流れは、9月に入って相州北条陣営の由良成繁・同国繁父子の軍勢が「去五日黒河谷寄居二ヶ所打散」じた(『戦国遺文 古河公方編』969号)ことから、関東へ向かっている途中の謙信は上野国沼田城将の河田伯耆守重親から、沼田管区内にある黒川地域(勢多郡黒川郷)の城砦が由良勢の攻撃を受けたという「五日之註進」を受け取り、進軍を急ぐなか、先遣部隊である旗本部将の本庄清七郎(実名は綱秀か)・同じく新保清右衛門尉秀種・同じく松本氏の陣代・上田衆の栗林次郎左衛門尉房頼に対し、「倉内」(沼田)から「五日之註進」以降は連絡がなく、心配ではあるが、ここまで進んできており、明日(12日)は塩沢(越後国魚沼郡上田庄)の地に到着することを伝えるとともに、皆々は先の指示通りに沼田城へ急行するべきこと、関東各所の味方中を支援するために、皆々を沼田城に配備するのだから、一騎一丁も人数が欠けてはならないこと、黒川谷へ攻め入った「凶徒」が退散するようであれば、浅貝あるいは猿ヶ京で待機し、どちらかの地で本隊と合流するべきこと、敵勢が退散しなかった場合は、予定通りに倉内へ向かうべきこと、いつも通りの心構えで臨み、つまらない失態を演じてはならないこと、異変があれば、連絡を寄越すべきことなどを命じた。
 しかし、この間に沼田の河田重親は黒川衆の救援に動き、由良家中が守っている黒川地域の五覧田城を攻めたが、五覧田衆と同地域における由良方の三ヶ所ほどの寄居衆の連携による反撃を受けていた(『戦国遺文 古河公方編』969・970・1421号によれば、沼田衆は三百余人の犠牲者を出したとされるが、由良側だけの情報なので実際のところはよく分からない)。
 やがて謙信は関東に到着し、9月下旬辺りから由良氏の新田領に進攻して各所を荒らし回ったのち、10月13日、やはり沼田管区内の仁田山城(山田郡仁田山郷)に対する由良方の向城である仁田山城砦群(谷山・皿窪城)を強襲し、同15日に陥落させると、勢多郡の赤堀城域(味方中の赤堀上野介が拠る)へ進み、さらなる軍事行動を検討したが諦めて、年内に厩橋城・沼田城を経て帰国の途に就いた(『上越』1228・1230・1231号、『戦国遺文 古河公方編』949・971号 これらの文書は諸史料集において、天正2年に置かれていたが、黒田基樹氏は『関東戦国史 北条vs上杉55年戦争の真実』において、同3年の文書として用いられている)。


◆ 勝浦市史編纂委員会編『勝浦市史 資料編 中世』(勝浦市)156号 「海上八幡宮年代記」抄、171号 正木憲時条書、176号 太田道誉(資正)書状写、179号 武田信玄書状写、182号 奉正木憲時禁制写、184号 土屋昌続書状、185号 奉正木憲時制札、186号 大山寺縁起・御堂造営誌写、189号 江戸通朝書状写、191・192号 北条家朱印状写、193号 北条氏政書状写、194号 芳春院周興副状、195号 北条高定書状、198・199号 佐竹賢哲(義斯)書状写
◆ 佐藤博信編『戦国遺文 古河公方編』(東京堂出版)949号 足利義氏書状、969号 足利義氏書状写、970・971号 足利義氏書状、1421号 芳春院周興副状
◆ 滝川恒昭『人物叢書 里見義堯』(吉川弘文館)
◆ 黒田基樹『関東戦国史 北条vs上杉55年戦争の真実』(角川ソフィア文庫)

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『上越市史 上杉氏文書集』に未収録の謙信関連文書【15】

2023-05-13 18:56:57 | 雑考


【史料】天正3年7月19日付越後国上杉家宛今川氏真書状写(徳川林政史研究所所蔵古案第六冊義元所収)
急度啓達、駿州家康依出張、令同心、即向敵城候、累年申通之入〔処ヵ〕、此節候歟
、自家康定委細雖可被申候、別而自分御合力、此時相極候、早々信州表御出馬、所希候、猶権現堂可有才覚候、恐々謹言、
 七月十九日         宗誾(花押影)
 上杉殿


 すっかり忘れていたが、
『上越市史 上杉氏文書集』に未収録の謙信関連文書【2】 - 越後長尾・上杉氏雑考で取り上げなければならなかった文書であり、越後国上杉謙信が遠(三)州徳川家康から天正3年5月21日の三河国長篠合戦直後に寄せられた戦勝報告と自身への信州出馬の要請を受け、同年6月6日付けの返書において、家康の戦勝に満悦の意を表するとともに、自身への出馬要請に心得た旨を伝えたのに対し、駿州在陣中の家康と今やその庇護のもとにある今川氏真(号宗誾)が改めて謙信へ信州出馬を求めたもので、双方の書状に家康の使僧である権現堂叶房光播が見えることから、権現堂はとんぼ返りで駿州陣から越府へ向かったことになる。
 濃(尾)州織田信長が謙信に対して長篠合戦直後と岐阜から、徳川軍と共に戦って武田軍を破った戦勝報告と謙信への信州出馬の要請をしたが、いずれも応答はなかったので、ここに掲げた今川氏真書状写と天正3年7月20日付村上源五宛信長朱印状写(『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』1259号)の日付から考えても、やはり信長は家康の手筋を用いて、上杉家と徳川家の間の取次を務める謙信一家の山浦(村上)国清に接触を図るしかなかったのであろう。


◆ 久保田昌希・大石泰史・糟谷幸裕・遠藤英弥編『戦国遺文 今川氏編』(東京堂出版)2572号 今川氏真書状写

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『上越市史 上杉氏文書集』に未収録の謙信関連文書【14】

2023-05-12 14:19:13 | 雑考


【史料1】天正6年2月16日付松嶋駿河守宛梶原政景書状写(個人蔵)
自佐・宮・結城、越府御使被指越候、自愚使指添可然ノ〔之〕由、御内儀之間、彼方指越候、路次事無相違節〔様〕頼入候、可被遂会面度々、追而御息為書中雖(ママ)可被届候、(書止文言を欠く)
               梶原
   二月十六日        政景
                松嶋駿河守殿
  未無音之間、無其儀候、雁俣(股)一手進候、音信迄候、以上、

【史料2】天正6年2月16日付越後国上杉家宛梶原政景書状(上杉家文書)
新年之御吉慶、千喜万悦候、為御祝儀、雁俣卅牧〔枚〕進献、併奉表御一儀迄候、仍去年以来、両三度以脚力雖申達候、往還断絶故、従半途罷帰候、当口之儀、無二被奉守御当国候、此節頓速御越山令念願候、因茲、従佐・宮・結城、被及使者候、委曲長与口門申含候条、奉略候、恐々謹言、
  追啓達、旧冬従太田・結城、以書状被仰述候、従義弘拙者之書中、為御披見奉進覧候、
             梶原源太
    二月拾六日      政景(花押)
   越府
    人々御中


 【史料1】は、常州太田の佐竹氏の客将である梶原源太政景(かつては武蔵国衆であった太田三楽斎道誉(美濃守資正)の世子)が松嶋駿河守なる人物に対し、佐竹常陸介義重・野州宇都宮の宇都宮弥三郎広綱・総州結城の結城左衛門督晴朝が共同で使者を越府へ向かわせるのに伴い、自身の使者も添えたので、この使者たちの通行に便宜を図ってくれるように頼んでおり、同じく佐竹義重・宇都宮広綱・結城晴朝の三者が、謙信の早急な関東出馬を求めるために共同で使者を越府へ向かわせている【史料2】と同時期に発せられたことが分かる。
 宛所の松嶋駿河守については、使者が滞りなく越後国へ向かえるように頼まれている事実から、関東衆であることは分かるので、そこを手掛かりに手持ちの史料・論考から探ってみたところ、黒田基樹氏の『古河公方と北条氏』(岩田書院)に、桐生佐野氏初代の周防守直綱に従っていた思われる松島十郎治郎・同次郎右衛門尉が見え、松島名字の者を辛うじて確認できたことから、ネットで松島氏と桐生佐野氏の関係を探ってみたところ、上野国五覧田城と関連して散見されたことから、手持ちの『日本城郭大系4』で「五乱田城」を確認すると、やはり松嶋(松崎)氏は桐生佐野氏との関連で記述されていた。
 双方の情報を合わせると、松嶋氏は上野国勢多郡黒川郷に根差した勢力の一つであり、やがて上野国衆の桐生佐野氏(上野国山田郡の桐生(柄杓山)城主)に従い、永禄年間には松嶋大和守(関東幕注文における桐生衆の松崎大和守の名字は松嶋の誤記とされている)が見えるので、駿河守はこの大和守の世子であるか、または一族の者で、何らかの理由により、松嶋氏を代表する立場となったのだろう。

 天正年間に松嶋駿河守が越後国上杉家に属しているのは、元亀4年に主家の桐生佐野氏が、相州北条陣営に属する上野国衆の由良氏に敗れて没落したあと、独立して越後国上杉家に属した桐生衆の津布久刑部少輔信定(『上越市史 上杉氏文書集』1200号)と同じ境遇であろう。
 この津布久信定は、下野国衆の佐野氏の重臣である津布久氏の一族であり、永禄3年8月以前に佐野氏の当主となった小太郎昌綱の弟である又次郎(実名は重綱か)が同族の桐生佐野大炊助直綱に養子として迎えられた際、又次郎に附属させられて桐生佐野氏の家臣に転じたと思われる。
 関東幕注文に見える津布久常陸守は、佐野又次郎が桐生佐野直綱の養子となったのが関東幕注文の作成以前であるのかそうでないのかで立場が違ってくるが、前者であれば、常陸守が又次郎に付き従い、信定の先代ぐらいに当たり、後者であれば、桐生佐野氏初代の直綱の次男が下野国衆の佐野越前守盛綱の養子に迎えられた時に付き従ったであろう津布久氏に連なる人物に当たるのではないか。

 【史料2】に見える使者の「長与」を諸史料集では、謙信の旗本部将である長与一景連とされているが、謙信の能州経略中に長景連は奥能登に配備されていたと伝わり、それは、謙信が能州平定を成し遂げたのち、天正5年12月に作成した明春に予定する関東遠征の動員名簿に、直江大和守景綱や平子若狭守らと共に景連が能登衆に配されている事実を見ても確かであろうから、謙信が天正4年冬から開始した能州経略の最中に、従軍していた部将の景連を関東へ使者として遣わしていたとは考えにくいこと、上杉家と佐竹氏ら「東方之衆」の間は、昨年から続く「往還断絶」で脚力が引き返して音信不通の状況であり、上杉側の使者が「東方之衆」の許に滞在していたような様子は見られないこと、上杉側の使者に対しては「方」の敬称が付されていても良さそうであることから、佐竹・宇都宮・結城側の使者に当たるのではないかと考えていたところ、【史料1】の通り、三者の使者に梶原政景が自分の使者を添えていたとなると、「長与」は梶原家中と考えた方が良いのではないか。


【史料3】天正6年6月18日付松嶋駿河守宛北条氏照書状写(個人蔵)
雖未通候、馳一翰候、抑境目地有之被走廻候由、肝要至様〔極ヵ〕候、沼田・厩橋・大胡之事、当方へ被相談、景虎御前無二可被走廻候由、被申越候間、向後者幾度も使飛脚を以可申〔候脱ヵ〕、其表之道筋、馳走尤候、猶徳雪斎可有演説候、恐々謹言、
   六月十八日        氏照
                


 相州北条氏政の兄弟衆である北条陸奥守氏照が松嶋駿河守へ宛てた書状であり、謙信没後の御館の乱において、沼田の河田伯耆守重親や厩橋・大胡の北条丹後守景広・同安芸入道芳林(高広)たちと同様に上杉景虎の側に付いたことと、下野国鹿沼の壬生徳雪斎周長(同国壬生の壬生義雄の叔父に当たる)が取次を務めていることが分かる。
 壬生周長は本家と対立して反北条陣営に身を置くことが多かったように見えたが、この時にどうして北条氏照の取次を請け負っているのかはよく分からない。


◆ 荒川善夫・新井敦史・佐々木倫朗編『戦国遺文 下野編 第二巻』(東京堂出版)1187号 梶原政景書状写、1212号 北条氏照書状写
◆ 黒田基樹『古河公方と北条氏  岩田選書 地域の中世12』(岩田書院)「第十章  桐生佐野氏の展開 [追記]」
◆ 阿久津 久・峰岸純夫・菊池 卓・山崎 一編『日本城郭大系4 茨城・栃木・群馬』(新人物往来社)

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『上越市史 上杉氏文書集』に未収録の謙信関連文書【13】

2023-05-02 20:34:06 | 雑考


【史料】年次未詳4月3日付丹後国侍中宛織田信長朱印状写(武家聞伝記)
此度謙信能州面出陣之由、其聞候、不日令進発可討果候、以海陸之間、其地之舟越前三国之浦令入津候、尤馳走此時候也、
  四月三日       信長公御朱印
        丹後国侍中


 織田信長から丹後国侍中に対し、謙信が能州表に出陣したとの情報が耳に入ったので、速やかに彼の表へ進発して討ち果たすつもりであることが伝えられたものであり、能州方面に謙信が向かった時期となると、天正4年の11月と翌5年の9月なので、発給年次の特定が難しい。
 天正5年2月中に謙信は能登国石動山城に在番衆を残して越中国内に本陣を移しているわけで、謙信が再び敵方の本拠である七尾城を攻める気配があったのだろうか。
 それから、3月下旬に謙信が石動山城の在番衆からの増援要請を受けて、彼の地へ人数を向かわせた時の様子か、4月上旬に前線の直江景綱が独断で能州大吞口へ軍勢を動かしたのではないかと、謙信から誤解を受けた時の様子が、敵方に謙信の出馬と捉えられて情報が流れたという可能性もあるのだろうし、ただ単に日付が誤写された可能性もあるのだろう。


◆ 『岡山のアーカイブズ 5  ~記録資料館活動成果資料集~』(岡山県立記録資料館編)

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