越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

上杉輝虎(長尾景虎。号宗心。上杉政虎。号謙信)関連文書のウワ書

2015-07-30 17:27:39 | 雑考

 上杉輝虎(長尾景虎。号宗心。上杉政虎。号謙信)関連文書は、輝虎とそれに関わる人物が発給した書状のうち、礼紙・端見返し・端裏捻封などのウワ書にのみ宛名書きして本紙には宛名を書かない形式ものが多数残っており、この特徴について、いずれ何らかの基準のようなものが見つけられるかも知れないため、該当する文書を『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』から抜き出してみた。

〔長尾景虎(号宗心)期〕

天文23年3月16日付本庄実乃宛大熊朝秀書状[ウワ書 「本新 参御宿所」 「朝秀」  本紙 「朝秀(花押)」](113号)
天文23年3月16日付妙雲院小式宛本庄実乃書状[ウワ書 「妙雲院 御同宿中」 「本庄新左衛門尉 実乃」  本紙 「実乃(花押)」](114号)
天文23年3月23日付本庄実乃宛上野家成書状[ウワ書 「本庄新左衛門尉殿 参御宿所」 「上野源六 家成」  本紙 「家成(花押)」](115号)
弘治元年11月4日付中条越前守宛天室光育書状[ウワ書 「中条越前守殿参」 「長慶寺 光育」  本紙 「光育(花押)」](130号)
弘治2年8月17日付長尾政景宛長尾景虎書状[ウワ書 「越前守殿」 「景虎」  本紙 「景虎(花押)」](136号)
永禄2年5月15日付知恩寺岌州宛西洞院時秀書状[ウワ書 「亜槐 床下」 「西洞院 時秀」  本紙 「時秀(花押)」](167号)
永禄2年6月12日付近衛前嗣宛足利義輝御内書〔ウワ書 「関白殿」 「(義輝」  本紙 「義輝(花押)」](174号)
永禄2年6月16日付大館晴光宛足利義輝御内書[ウワ書 「大館上総介とのへ」  本紙 「【花押】」)](175号)
永禄2年7月14日付長尾景虎宛大館晴光副状[ウワ書「長尾弾正少弼殿」 「大館上総介 晴光」  本紙 「晴光(花押)」](192号)
永禄2年無月日付長尾景虎宛近衛稙家書状[ウワ書 「長尾弾正少弼殿」  本紙 「【花押】」](169・171号)
永禄2年無月日付知恩寺岌州宛近衛稙家書状[ウワ書 「知恩寺之下」  本紙 「【花押】」](170号)
永禄2年無月日付知恩寺岌州宛近衛前嗣書状[ウワ書 「知恩寺」 「前」](172・194・195・197号)
永禄2年無月日付知恩寺岌州宛近衛前嗣書状[ウワ書 「知恩寺」  本紙 「【花押】」](176号)
永禄2年無月日付長尾景虎宛近衛前嗣書状[ウワ書 「長尾弾正少弼とのへ」 「前」](187号)
永禄2年無月日付長尾景虎宛近衛前嗣書状[ウワ書 「長尾弾正少弼殿」 「前」](188・189号)
永禄2年無月日付知恩寺岌州宛近衛前嗣書状[ウワ書 「知 床下」 「さ」](196号)
永禄2年無月日付近衛前嗣宛足利義輝書状[ウワ書 「関白殿 御返事まいる 申給へ」 「義」](201号)
永禄2年無月日付近衛前嗣宛足利義輝書状[ウワ書 「関白殿 申給へ」 「義」](202号)

〔上杉輝虎(政虎)期〕

永禄4年4月4日付本田右近允宛上杉政虎書状[ウワ書 「本田右近丞とのへ」](1419号)
永禄4年無月日付上杉政虎宛近衛前嗣書状[ウワ書 「上杉殿」 「前嗣」](278号)
永禄4年6月10日付上杉政虎宛近衛前嗣書状[ウワ書 「政虎まいる」 「前」  本紙 「【花押】」](277号)
永禄6年12月3日付河田長親宛平賀重資書状[ウワ書 「豊州(豊前守) 参御報」 「平賀左京亮 重資」  本紙 「重資(花押影)」](360号)
永禄10年9月27日付三戸駿河守室宛上杉輝虎書状[ウワ書 「みとのするかかたへ 申給へ」 「てる虎」  本紙 「てる虎(花押)」](583号)
永禄11年11月27日付中条越前守宛山吉豊守・直江政綱・鰺坂長実連署状[ウワ書 「越州へ 参御陣所」 「三人より」  本紙 「豊守(花押)・政綱(花押)・長実(花押)」](623号)
永禄11年11月27日付中条越前守宛山吉豊守・直江政綱・鰺坂長実連署状[ウワ書 「越州 参御宿所」 「山孫 豊守・直大 政綱・鯵清 長実」  本紙 「豊守(花押)・政綱(花押)・長実(花押)」](624号)
永禄11年11月28日付中条越前守宛上杉輝虎書状[ウワ書 「中条越前守殿」 「輝虎」  本紙 「輝虎(花押)」](625号)
永禄12年7月21日付河田長親宛長尾憲景・長尾長健連署状[ウワ書 「河田豊前守殿」 「長尾左衛門尉 憲景・同能登入道 長健」  本紙 「憲景(花押)・長健(花押)」](778号)
永禄12年無月日付三戸駿河守室宛上杉輝虎書状[ウワ書 「いせ千代丸 らうほへ」 「ゑつ(越)府」](862号)
永禄13年2月12日付進藤家清宛藤田氏邦書状[ウワ書 「進隼(隼人佑) 参」 「新太郎」  本紙 「氏邦(花押)」](882号)
元亀元年4月24日付三戸駿河守室宛山吉豊守書状[ウワ書 「御うちかたへ まいる 申給へ」 「山よし孫二郎より」  本紙 「とよ守(花押)」](910号)
元亀元年7月8日付三戸駿河守室宛上杉輝虎書状[ウワ書 「みとするか 内かたへ」 「てる虎」  本紙 「てる虎(花押)」](917号)
元亀元年8月6日付中条越前守宛本庄宗緩(実乃)書状[ウワ書 「越州 参御報」 「本庄美作守 宗緩」  本紙 「宗緩(花押)」](783号)
元亀元年8月8日付中条越前守宛本庄宗緩書状[ウワ書 「越州 参御報」 「本美入宗緩」  本紙 「宗緩(花押)」](784号)
元亀元年8月9日付直江景綱宛上杉景虎書状[ウワ書 「直江殿」 「三郎」](923号)
元亀元年8月11日付中条越前守宛本庄宗緩書状[ウワ書 「越前守殿 参御報」 「本庄美作入道 宗緩」  本紙 「宗緩(花押)」](787号)
元亀元年8月17日付中条越前守宛直江景綱書状[ウワ書 「越州 参御報」 「大和守 景綱」  本紙 「景綱(花押)」](793号)
元亀元年8月18日付中条越前守宛山吉豊守書状[ウワ書 「越州 参御報」 「山孫 豊守」  本紙 「豊守(花押)」](794号)
元亀元年8月21日付新発田忠敦宛山吉豊守書状[ウワ書 「尾州(尾張守) 御報」 「孫次郎 豊守」  本紙 「豊守(花押)」](797号)
元亀元年8月22日付中条越前守宛本庄宗緩書状[ウワ書 「越州 参御報」 「本庄入道 宗緩」  本紙 「宗緩(花押)」](798号)
元亀元年8月24日付中条越前守宛新発田忠敦書状[ウワ書 「越州 御宿所」 「尾張守 忠敦」  本紙 「忠敦(花押)」](800号)
元亀元年無月日付中条越前守宛新発田忠敦書状[ウワ書 「越州 御報人々」 「尾張守より」](789号)
元亀元年無月日付中条越前守宛新発田忠敦書状[ウワ書 「越州 御報」 「尾張守より」](790号)
元亀元年無月日付中条越前守宛新発田忠敦書状[ウワ書 「越州 御報」 「尾張守」](791号)
元亀元年無月日付中条越前守宛山吉豊守書状[ウワ書 「越州 参貴報」 「山孫 豊守」  本紙 「豊守(花押)」](795号)
元亀元年無月日付中条越前守宛新発田忠敦書状[ウワ書 「越州 御宿所」 「尾張守より」](801号)
年月日未詳板屋修理亮(光胤)宛松本景繁書状[ウワ書 「修理亮殿」 「景繁」  本紙 「景繁(花押)」](947号)

〔上杉謙信期〕

天正2年5月朔日付宇都宮広綱室宛上杉謙信書状[ウワ書 「せうしやう(少将) 申給へ」 「けん信より」  本紙 「けん信(花押)」](1206号)
天正2年閏11月24日付宇都宮広綱室宛上杉謙信書状[ウワ書 「ひろつな簾中 御つほね」 「けん信 ゑつちん(越陣)より」  本紙 「けん信(花押)」](1239号)
天正5年3月27日付河田吉久・河田窓隣軒喜楽・栗林房頼宛上杉謙信書状[ウワ書 「河田対馬守殿・窓隣軒・栗林二郎左衛門尉殿」  本紙 「謙信(花押)」](1330号)
年次未詳3月15日付三戸駿河守室宛上杉謙信書状[ウワ書 「みとするかのかミ うちかたへ」 「けん信より」  本紙 「けん信(花押)」](1413号)
年次未詳6月12日付本庄宗緩宛某長元書状[ウワ書 「美作入道殿 参人々御中」 「神右」  本紙 「長元(花押)」](1431号)


青字については年次を改めた。
赤字については謙信を政虎に改めた。
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上杉謙信の内意

2015-07-26 13:18:48 | 雑考

【史料】奥村源内宛河田重親書状
去三日御状具披見、一段忝存候、如貴意、越国仕合故、御分国何乱入、就中、当春景虎御滅亡故、我等儀厩橋之地不計被移候、当表之儀不可過御推量候、内々謙信仰諸覚悟候処、爰元何押留、任其意候、何様来春態可申達候間、万吉令期来春候、恐々謹言、
追啓、任見来鞦進入候、雖左道之至候、遠路候間、御音信一儀迄候、以上、
             河伯
    九月三日       重親
    奥源
      参御報


 この『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』に所収された書状写は、上杉謙信急逝後の忩劇で上杉景虎を支持した、関東に駐在する越後衆の河田伯耆守重親(謙信存命中は、大身の旗本衆として上野国沼田城将を務めた)が、天正7年に上杉景虎が義兄の上杉景勝に敗れて自害し、景虎の実家である相州北条氏の後援を受けた、北条毛利安芸入道芳林(高広。謙信存命中は、譜代の重臣として上野国厩橋城、次いで同大胡城の城代を務めた)、その世子である北条毛利丹後守景広(父の跡を継いで上野国厩橋城代を務めた)、そして河田重親を中核とする関東衆の越後攻略も失敗に終わったのち、旧知の奥村源内(尾(江)州織田信長の重臣である明智日向守光秀の配下。近江国の大名であった六角佐々木氏の旧臣)に対して自身の消息を伝えたものである。

 ここで気になるのは、「内々謙信為仰諸覚悟候処(間か)、爰元何押留、任其意候」という一節であり、それは、内々に謙信は河田重親ら関東駐在の諸将に対し、諸々の覚悟を示していたことから、謙信急逝後に忩劇が起こると、彼ら関東衆の主立った者たちは、謙信の内意に従って関東に踏みとどまる進路を選んだものと考えられる。

 ところが、赤字で示した仰諸の部分は、『戦国遺文 武田氏編 第五巻』に所収された同書状写では「俳諧」となっており、これが徘徊の当て字であるならば、立ち寄ること、往ったり来たりすること、あてもなくブラブラ歩き回ること、いろいろな地方を遍歴すること、さまざまな国を駆けめぐること、などを意味するので、もし徘徊が正しい場合には、謙信は関東経略にいっそう傾注する覚悟であったものと考えられる(但し、御徘徊か、被為となるべきだろうが)。また、興味深いことに、ウェブログ『言葉を“面白狩る”』には「密かに住み着く」とも解釈できる事例が挙げられており、もし戦国期にも「住み着く」に近い表現として用いられた場合があったとしたら、内々に謙信は河田重親ら関東駐在の諸将に対し、いずれ自身が関東に拠点を移す覚悟を示していたことから、せめて自分たちだけでも、謙信の遺志を継いで関東に根付くため、彼ら関東衆の面々は関東に踏みとどまったものと考えられるか。

 いずれにしても、河田重親ら関東衆が、上杉謙信急逝後に忩劇が起こると、謙信の遺言で後継者に定められた上杉景勝に背いた挙句、自分たちの支持した上杉景虎の実家とはいえ、仇敵であった相州北条氏(その後に変転はあるが)に従ってまでも関東に踏みとどまるはめになったのは、謙信の内意が原因であり、その具体的な内容は分からないが、晩年の謙信は、来るべき織田信長との決戦を念頭に置きながらも、関東経略に並々ならぬ覚悟を胸に抱いていたことは確かであろう。

※「押留」は、そのままに放任しておけば事態が進展するのをさえぎって、おさえ止めること、無理に制止すること、目ざす所へ移ろうとする人や物を、その場に無理やり留めておくこと、などを意味するので、これらに従えば、内々に謙信は、諸々の覚悟を仰せなされたところ、爰許の面々(関東衆)が強硬に制止したことから、(謙信は)その意見に従いました(但し、爰元何押留は候間、任其意候は被が足りないように思うが)、と解釈するべきかも知れないが、河田重親は、相州北条氏によって上野国沼田城を召し上げられ、心ならずも同厩橋城に移されてもなお、関東に留まったという事情を、旧知の奥村源内に説明している文脈からすれば、謙信の内意に従って、関東衆の面々が関東に踏みとどまった、と解釈した方が適当であると考えた。

※ 関東衆の主立った者のうち、上野中務丞家成(謙信存命中は、譜代の重臣として上野国沼田城衆の一員であった)は上杉景勝を支持し、河田重親と戦った。


『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』 1861号 河田重親書状(写) ◆『戦国遺文 武田氏編 第五巻』 3152号 河田重親書状写 ◆ ウェブログ 『“言葉を面白狩る”』
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上杉輝虎(政虎)期の戦歴 【中】

2015-07-12 19:17:32 | 上杉輝虎(政虎)期の戦歴


 【19】(40) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄7年正月中旬から同下旬に掛けて、相州北条方の常陸国小田城を攻め落とす。

 永禄7年正月中旬、関東味方中の佐竹義昭(常陸国衆。常陸国久慈郡太田城主)との盟約に従って相州北条陣営に属する常陸国衆の小田氏治が拠る常陸国筑波郡の小田城に攻め寄せる。常陸・下総・下野の味方中は、佐竹義昭が常陸国信太郡信太荘の真鍋台に布陣し、結城晴朝(下総国衆。下総国結城郡結城城主)・山川氏重(結城一家。下総国衆。下総国結城郡山川荘山川綾戸城主)・水谷政村・政久(結城一家。常陸国衆。下野国芳賀郡久下田城主・常陸国伊佐郡下館城主)の軍勢は、小田城の救援に駆けつけた多賀谷政経(常陸国衆。もとは結城氏に従属していた。常陸国関郡下妻荘下妻城主)に、小山秀綱(号良舜。下野国衆。下野国都賀郡小山荘祇園城主)・宇都宮広綱(下野国衆。下野国河内郡宇都宮城主)・座禅院(下野国都賀郡日光山座禅院。相州北条方の下野国衆・壬生氏から院主を迎えている)の軍勢は、同じく壬生某(綱雄、若しくは子の義雄か。下野国衆。もとは宇都宮氏に従属していた。下野国都賀郡壬生城主)・皆川俊宗(下野国衆。もとは宇都宮氏に従属していた。下野国都賀郡皆川荘皆川城主)に対向した。正月29日、小田氏治が常陸国新治郡の土浦城(重臣の菅谷政貞の居城)に逃走したことから、多数の残党を討ち取ったところ、その日のうちに小田配下の三十余ヶ所の領主が投降してきたので、それぞれから証人を取って赦免すると、2月中旬頃まで小田領に留まって戦後処理を施した。


 【20】(41) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄7年2月中旬から同下旬に掛けて、相州北条方の下野国唐沢山城を攻め降す。

 永禄7年2月中旬、北条陣営に属する下野国衆の佐野昌綱が拠る下野国安蘇郡佐野荘の唐沢山城に攻め寄せる。17日に険しい要害の外郭を制圧すると、佐野昌綱が降伏を申し入れてきたが、すぐには回答を示さなかった。同日中、色部修理進勝長(外様衆)・上田長尾時宗丸(譜代衆。上田長尾越前守政景の長男。上田長尾政景は越府防衛のために途中帰国を命じられた)・斎藤下野守朝信(譜代衆)の主従をまとめて、楠川左京亮将綱(旗本衆)・栗林次郎左衛門尉房頼・宮嶋惣三(ともに上田衆)を個別に、それぞれの戦功を称えて感状を与えた。28日、関東味方中の佐竹義昭と宇都宮広綱の取りまとめにより、多数の証人を差し出させて佐野昌綱を赦免した。


 【21】(42) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄7年3月7日から同中旬の間、甲州武田方の上野国和田城を攻める。

 下野国衆の佐野昌綱を降したのち、西上野の味方中との盟約に基づいて、甲州武田陣営に属する上野国衆の和田業繁が拠る上野国群馬郡の和田城攻略に臨む。しかし、和田城は小規模ながら、甲州武田信玄が丹念に手を加えた堅城であるため、その攻略は至難と見越して逡巡する。それでも、すでにこうして和田に押し寄せたからにはと、迷いを振り払って、ひたむきに戦う覚悟を決し、永禄7年3月7日、例の如く関東国衆は頼りにならないため、白井衆(上野国衆・白井長尾憲景の同名・同心・被官集団)の先導のもと、自ら先手の越後衆を率いて和田城を攻め立てると、北条高広(越後衆。上野国群馬郡厩橋城代)・箕輪長野氏業(上野国群馬郡箕輪城主)・横瀬成繁(上野国新田郡新田荘金山城主)を初めとする国衆の一軍が戦果を挙げられないなか、白井・越後両衆が外郭を攻め取って内郭に肉迫した。その後、敵城が小規模といっても侮ることなく、宇都宮広綱・佐竹義重・足利長尾景長(上野国邑楽郡佐貫荘館林城主)らの大軍をもって五重に取り巻いているにも係わらず、戦況は膠着状態に陥った。やがて国衆を帰陣させなければならない時期を迎えるため、11日の晩に改めて攻勢に出ようとするも果たせず、15日前後に和田城から撤収し、3月下旬から4月上旬の間に帰国の途に就いた。


 【22】(43) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄7年7月下旬から同9月下旬の間、信濃国の奥郡で甲州武田信玄と駆け引きする。

 永禄7年7月下旬に甲州武田信玄と戦うために信濃国へ向かい、8月3日に更級郡の川中嶋の地に着陣する。中旬から下旬に掛けて、それまで一向に姿を現さなかった甲州武田軍本隊が、ようやく更級郡の塩崎の地まで進陣してくるも、ついに決戦するには至らなかった。9月5日以前に水内郡の飯山の地まで後退したところ、最前線の陣城に配備した旗本衆の堀江駿河守と岩船藤左衛門尉(実名は忠秀か)からの状況報告を受け、敵の最前線である水内郡太田荘の小玉坂の陣城に対する連日の総攻撃を止めて、初更に忍衆を展開して戦機を見極め、足軽衆による大規模な夜襲を仕掛けることと、物見衆をもって、水内郡若槻荘の髻山で哨戒活動をしている敵の小部隊の監視をかいくぐり、旭山口の敵本営を探し出して報告することを指示した。その後、飯山城に改修を施し、10月朔日に帰国の途に就くと、翌日には、最前線の堀江駿河守と岩船藤左衛門尉に対し、甲州武田軍が撤収するのか、高井郡の中野辺りまで進陣してくるのかを見極めて報告するように指示した。


 【23】(44) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄9年2月上旬、上野国安中口で甲州武田軍と戦う。

 将軍足利義輝からの上洛要請に応じるため、関東府足利氏の足利藤氏を下総国葛飾郡の古河城に復帰させて関東の安定を図る必要から、永禄8年11月24日、関東へ向けて出馬する。翌9年正月下旬に関東味方中の参陣を募るために上野国から下野国安蘇郡佐野荘の唐沢山城へ向かおうとするなか、佐野昌綱の一族である天徳寺宝衍が相州北条方に内通したとの情報を得たことから、唐沢山城へ急行しようとするも、自陣営に寝返った上野国衆の安中景繁が拠る上野国碓氷郡の諏訪(松井田)城に甲州武田軍が攻め寄せてきたことから、夜毎に軍勢を繰り出して攻撃布陣を整えると、2月上旬に甲州武田軍と戦って多数の敵兵を討ち取った。その後、唐沢山城に入って反抗勢力を鎮めると、側近の吉江佐渡守忠景(大身の旗本衆)を城将に任じ、越後奥郡国衆の五十公野玄蕃允と佐野衆の大貫左衛門尉を添えて主郭に配置した。それから、相州北条陣営に属する常陸国衆の小田氏治が拠る常陸国筑波郡の小田城攻略と下総国の経略に参加する関東味方中の結城晴朝(二百騎。下総国衆。下総国結城郡結城城主)・小山良舜(秀綱。百騎。下野国衆。下野国都賀郡小山荘祇園城主)・榎本(小山良舜の弟である高綱か。三十騎。下野国都賀郡榎本城主)・佐野昌綱(二百騎を代官が率いることを認められた。下野国衆。下野国安蘇郡佐野荘唐沢山城主)・横瀬(由良)成繁(三百騎。上野国衆。上野国新田郡新田荘金山城主)・足利長尾景長(百騎。上野国衆。上野国邑楽郡佐貫荘館林城主)・成田氏長(二百騎。武蔵国衆。武蔵国埼西郡忍城主)・広田直繁(五十騎。武蔵国衆。武蔵国埼玉郡太田荘羽生城主)・木戸忠朝(広田直繁の弟。五十騎)・簗田晴助(百騎。下総国衆。下総国葛飾郡下河辺荘関宿城主)・富岡主税助(三十騎。上野国衆。上野国邑楽郡小泉城主)・北条丹後守高広(越後国上杉家の譜代衆。上野国群馬郡厩橋城代)・沼田衆(越後衆。上野国利根郡沼田荘沼田城衆)・房州衆(房州里見義堯・同義弘父子。五百騎。房州勢は総州経略から参戦する)・土気酒井胤治(百騎。上総国衆。上総国山辺郡土気城主)・太田道誉(資正。百騎。常陸国衆・佐竹氏の客将。常陸国北郡片野城主)・野田景範(五十騎。下総国衆。下総国葛飾郡野田城主)・宇都宮広綱(二百騎を代官が率いることを認められた。下野国衆。下野国河内郡宇都宮城主)・佐竹義重(同心・代官が二百騎を率いることが認められた。常陸国衆。常陸国久慈郡太田城主)らの軍役を定めた。そして、常陸国小田城攻略に向かおうとしたところ、小田氏治が結城晴朝を通じて降伏を申し入れてきたことから、これを受諾したばかりか、そのまま居城に留まることを認めた。


 【24】(45) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄9年2月下旬から同年3月上旬の間、相州北条方の下総国大谷口(小金)城を攻める。

 永禄9年2月下旬に相州北条陣営に属する下総国衆の高城胤辰が拠る下総国葛飾郡風早荘の大谷口(小金)城に攻め囲んだ。その間、城下の平賀法華寺(本土寺)の懇望に応じ、譜代衆の北条丹後守高広と旗本衆の直江大和守政綱・河田豊前守長親を奉者として関東・越後諸軍勢の濫妨狼藉を禁ずる制札を掲げる。このたび帰属してきた下総国衆・相馬治胤(下総国相馬郡(御厨)守谷城主)が代官の率いる軍勢を寄越す。3月初めに大谷口城を封じると、相州北条陣営に属する下総国衆の原胤貞の拠る下総国印旛郡臼井荘の臼井城に向かった。


 【25】(46) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄9年3月9日から同25日の間、相州北条方の下総国臼井城を攻める。

 永禄9年3月9日、下総国臼井城に攻め囲んだ。猛攻して20日までに外郭の全てを制圧して堀一重の裸城にした。その後も昼夜に亘って攻め立てるも、強攻に失敗した房総勢が三百余名を失って戦場からの離脱を余儀なくされたことから、日没に越後衆の一部を房総勢の立ち去った陣場に移して攻城戦を続行すると、上田衆(甥である上田長尾顕景の同名・同心・被官集団)や味方中の下総国衆・結城晴朝の軍勢が奮戦したが、相州北条氏政の率いる援軍が迫ってきているため、25日に総州経略を断念して臼井城から撤収した。その後、4月13日に甲州武田陣営に属する上野国衆の和田業繁が拠る上野国群馬郡の和田城攻めるつもりでいたが、断念して関東を後にした。


 【26】(47) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄9年6月朔日から同7月中旬の間、越中国の中部で神保長職と戦う。

 関東から帰陣して間もなく、永禄9年5月中旬から下旬に掛けて、上野国厩橋城代の北条丹後守高広から甲州武田軍が上野国安中口に侵攻してきたとの知らせを受け、急いで出馬の準備をするなか、上野国沼田城衆(城代の河田豊前守長親は越府に滞在中)から誤報との知らせを受けたのもつかの間、隣国越中で争乱が起こったことから、直ちに出馬すると、6月朔日、越中増山の神保長職が立ち向かってきたので一戦に及んだ。7日には、この一戦に於ける吉江玄蕃丞(旗本衆)の殊勲を称えて感状を与えた。その後、7月中旬には、甲州武田軍が上野国沼田城を攻めるとの急報が寄せられたので、河田長親を沼田に戻し、信・越国境の越後国魚沼郡上田荘の坂戸城に残る上田衆を加勢として急行させて、自らはそのまま信濃国に進攻しようとするも、状況が変わったことから、関東遠征に切り替える。一旦、帰府してから、24日に出府し、下旬に信・越国境の越後国魚沼郡上田荘に着陣する。しかし、従軍将兵の遅参、甲州武田軍の信州出陣、関東味方中の離反によって滞陣を余儀なくされると、閏8月、長尾源五(譜代衆)を派遣して、このたび敵陣営に寝返った上野国衆の由良成繁が拠る上野国新田郡新田荘の金山城を攻めさせるも、自らは国境を越えることなく帰府した。


 【27】(48) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄9年11月9日、甲州武田方の上野国高山領と相州北条方の武蔵国深谷領を焼き払う。

 永禄9年10月11日、再び関東へ向けて出馬する。22日までに上野国利根郡沼田荘の沼田城に着陣すると、上野国金山城を攻撃するために関東味方中の参陣を呼び掛けた。11月8日に上野国勢多郡の大胡の地に本陣を構えると、相州北条軍が武・上国境に在陣しているとの情報を得たことから、翌9日、これを追い払うために利根川を渡ったところ、敵軍は跡形も無く退散していたので、甲州武田・相州北条陣営の勢力圏内である上野国緑野郡の高山城から武蔵国幡羅郡の深谷城の周辺を焼き尽くし、五十余の敵兵を討ち取り、多数の人馬を生け捕ると、大胡の本陣へ取って返した。その後、19日には下野国安蘇郡佐野荘の唐沢山城に移り、関東味方中の参陣を催促するも、そうしたなかで上野国衆の富岡主税助(上野国富岡城主)、12月上旬までには、同じく足利長尾景長(上野国館林城主)と越後衆の北条丹後守高広(上野国厩橋城代)が敵陣営に寝返ってしまい、あろうことか北条高広に至っては、輝虎の金山城攻略中に上野東西境界の防衛を厩橋衆と共に担う上野国衆・惣社長尾能登守の許から協議のために厩橋城を訪れた越後衆の松本石見守景繁(上野国沼田城将。加勢として惣社城に入ることを命じられていた)を拘束して相州北条軍の陣所に引き渡す有様で、相次ぐ味方中の離反に金山城攻めを断念せざるを得なかった。こうしたなか、父の北条高広とは行動を共にしなかった北条弥五郎景広が上野国勢多郡の棚下寄居に拠ったことを知ると、そのまま景広に厩橋城と対向させて、自らは唐沢山城での越年を決めた。

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