越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎(旱虎)の略譜 【62・上】

2014-03-27 01:08:30 | 上杉輝虎(謙信)の略譜
元亀元年(1570)8月 上杉輝虎(旱虎。弾正少弼)  【41歳】

4日、相州北条「氏政(左京大夫)」から、取次の「山吉孫次郎殿(豊守。大身の旗本衆)」に宛てて書信が発せられ、(武田)信玄が豆州に出張してきたので、後詰の約束を果たしてもらいたいこと、遅延すれば、深刻な事態に陥るので、(輝虎への)御取り成しに御尽力してもらいたいこと、これらを懇ろに伝えられている。

6日、老臣の本庄「宗緩(美作入道。実乃。大身の旗本衆・本庄清七郎(綱秀ヵ)の父)」が、在府中である越後奥郡国衆の中条越前守(房資ヵ。外様衆。越後国鳥坂城主)の許に返書(礼紙ウワ書「越州 参御報  本庄美作守 宗緩」)を送り届け、このたび御懇書が寄せられたので、ただただ恐縮していること、黒川方(四郎次郎平政。外様衆。越後国黒川城主)との間で再燃した同族間の領界地相論については、これまで何度も説明を受けたので、つぶさに事情を理解していること、時宜を弁えて冷静に対応されているので、ひたすら御実城(輝虎)への御気遣いが感じられること、一方の黒川方は、当主が若輩の上に、補佐する家中も力量不足であるがゆえ、このほど時宜を弁えずに訴訟を申し立てたのは、誠に遺憾であること、この件の反訴については、山孫(山吉豊守)に取次を依頼して陳述されるべきであること、老後の愚入(本庄宗緩)が出仕するのは五日か六日に一度であり、率先して口添えする立場にはないが、問い合わせには真摯に応じること、前回の相論で下された裁定については、愚入から山孫の所に使者を立てて子細を説明するが、敢えて心構えに関する助言はしないこと、この一件については、今後も相談に乗らせてもらうこと、これらを懇ろに伝えている。更に追伸として、このたび御懇書に預かり、つくづく恐縮していることと、本来であれば内々に面談するべきところ、すでに御存知であろうが、老後の身で思うに任せず、方々との接触は控えており、いささかもないがしろにする気持ちはないことを伝えている。
8日、本庄「宗緩」が、中条越前守の許に返書(礼紙ウワ書「越州 参御報  本美入 宗緩」)を送り届け、このたびの境界地相論についての存念を上聞に達するため、取次の山孫(山吉豊守)に御披露を催促してほしいとの御懇書を精読したこと、たっての御依頼ゆえ、山孫に連絡を入れて御存念を披露するように催促すること、しかして、そちらからは同輩の新尾(新発田尾張守忠敦。外様衆。越後国新発田城主)にも協力を仰ぐべきであり、彼方(新発田忠敦)から評定の場に公表されるのが、取り分け妥当な手段であること、彼方の関与は、中条・新発田両家の由縁からして有効であると見込んでおり、大いに期待していること、この提案に満足してもらえれば、我等(本庄入道宗緩)にとっても大きな喜びであること、よって、これらをのちのち面談して詳説する考えであり、先ずは取り急ぎ連絡したことを伝えている。

9日、養子の上杉景虎(相州北条氏康の末男)が、取次の直江大和守景綱(大身の旗本衆)に宛てて返書(礼紙ウワ書「直江殿  三郎」)を発し、御書を拝読してその意趣を理解したこと、この時期に(武田)信玄が豆州に侵攻したのは不可解であり、つまりは甲軍に対して消極的な相州の油断が招いた事態であること、このたびの出陣同陣については、越・相両国にとって昨年来の命題であり、相州は最終調整をするために、必ず越府に使者を寄越すべきところ、不覚にもそれを怠ったこと、こうしたなかで篠窪(治部。相州北条家の使者)を寄越し、ただ救援を要請したのでは、筋違いを難詰されても仕方ないこと、今年の春、越陣に到来した伊右(伊勢右衛門佐。相州北条家の一家衆である伊勢氏の一族)と幸田(北条氏政の側近である幸田大蔵丞定治、若しくはその一族か)の両使が、しっかりと御内意を氏政父子(氏康と氏政)に報告していれば、このような形で篠窪を寄越してくるはずがなく、伊勢・幸田両人が失念して正確な報告を怠ったのではないかと思われ、はなはだ困惑していること、よって、これらを懇ろに披露してほしいことを伝えている。更に追伸として、このように越後衆が出陣を控えて当府に参集しているにも係わらず、いかにも甲軍の豆州侵攻は不可解であること、返す返すも御同陣については、前もって使者を寄越して御意向を確かめるべきところ、かえって当方から大石(惣介芳綱。旗本衆)を派遣する結果となり、総じて相州は失態の謗りを免れないこと、それでもなお速やかに武田領に出陣して下されば、自分にとってはこれ以上ないほどの喜びであり、相州に於いては、その時期に合わせて間違いなく同陣するようにと、必ず明日には相府へ使者を立てること、これらも併せて披露を頼んでいる。

10日、濃(尾)州織田信長に対抗する江州旧主の佐々木六角「承禎(抜関斎。左京大夫義賢。伊賀在国か)」が、近江国甲賀郡に拠る国衆の「馬場兵部丞殿」に宛てて書信を発し、その地に織田軍の森三左衛門(可成(近江国宇佐山城主)が攻め寄せてきたと聞いて心配していたところ、見事に大勝したそうなので、毎度ながらの名高い軍功に感じ入っていること、各方面で織田軍と対峙している友軍の越前国朝倉軍や南方衆(細川六郎(昭元)・三好宗功(長逸)・三好康長・安宅神太郎・十河存保・篠原長房・石成友信(友通ヵ)・松山某・香西越後守・三好為三・斎藤龍興・長井不甘)の戦況は定かではないが、このたび「越後長尾(上杉)」が使者を寄越し、合力を堅く約束したので、念願の織田軍撃破も間近であること、よって、これらを落合家光と松原(弥兵衛尉ヵ)が詳報することを伝えている。

11日、本庄「宗緩」が、中条越前守の許に返書(礼紙ウワ書「越前守殿 参御報  本庄美作入道 宗緩」)を送り届け、このほど寄せられた貴札を精読したこと、御要望の通り山孫(山吉豊守)に連絡を入れ、(中条越前守の)御存念を伝えるかたわら、貴方が愚入(本庄宗緩)に寄せてくれた御書中を渡し、何度も御披露の催促をしたこと、この状況が伝わっていないようで、またもや催促の書簡が届けられたが、総じて吾等(本庄入道宗緩)は耄碌して引退した身なので、公事への干渉などもってのほかであり、御披露に及ぶ立場ではないこと、失念されているかも知れないが、これまでに説明は済ませていること、いささかも貴方を侮り軽んじるつもりはないが、何れにも肩入れはしないので、ありのままを知らせること、長年の付き合いから同情にほだされて肩入れし、でしゃばって御披露に及べば、永代の不興を被る事態になること、とにかく山孫に直談して御披露を催促するゆえ、安心してほしいこと、状況に変化があれば、改めて連絡すること、これらを懇ろに伝えている。更に追伸として、先述の通り拙者は御披露はできないが、若しも屋形さま(輝虎)から御下問を受ければ、ありのままを申し上げるので、ひとえに安心してほしいことを伝えている。

12日、相州北条「氏政」から、上野国厩橋城(群馬郡)の城代である「毛利丹後守殿(北条高広。譜代衆)」に宛てて返書が発せられ、去る9日付の注進状が今日の昼過ぎに届いたこと、繰り返し越府に出陣要請をしてくれただけではなく、そのたびに飛脚を寄越して報告を入れてくれたので、満足しきりであること、甲州武田軍は昨年に布陣した伊豆国黄瀬川に再び陣取り、毎日欠かさず伊豆国韮山城(田方郡)と駿河国興国寺城(駿東郡)を攻撃していること、韮山城については、現在も外宿を堅守して要害に敵勢を寄せ付けないでいるが、当府の軍勢は未だに救援する態勢が整わず、無念極まりないこと、たとえこれから敵軍が退散したとしても、輝虎には盟約の通りに出陣してもらい、当方が実行するべき戦略の助言を加えてほしいこと、若しそれが果たされなければ、越・相両国の厚誼は一向に深まらず、このまま現状を放置されたのでは、世間体も実益も損なわれて、はなはだ無様であること、よって、貴辺(北条高広)もよくよくこのところを理解し、両国の連帯が機能するように奔走してほしいことを伝えられている。
同日、相州北条氏政の側近である「山四康定(山角四郎左衛門尉康定。馬廻衆)」から、「毛丹(北条高広)御報」に宛てて副状が発せられ、去る9日付の書簡が今日の昼過ぎに届いたので、去る7日付の書簡と同前に氏政父子へ披露したこと、たびたび念入りに飛脚を寄越されたので、父子はこの上なく満足していること、伊豆国韮山口に侵攻してきた甲州武田軍は、今日に至るまで毎日欠かさず韮山城を攻め立てており、この機を捉えて一戦するため、当府に総員を召集したところ、物主衆は何れも到着したが、それ以外の者共が追いつかず、一両日は延引せざるを得なかったこと、この18・19日には必ず出陣して敵軍に立ち向かうので、勝利は疑いのないこと、敵軍は八千人ほどであり、当方は各所に人員を配置しているため、七・八千人での出撃になること、当方が優位に立てる戦地なので、たちどころに信玄を討ち果たすであろうこと、韮山籠城衆は、氏政の弟である助五郎(氏規。氏康の五男。相模国三崎城主)・六郎(氏忠。氏康の弟である左衛門佐氏堯の長男で、氏康の養子となったらしい)のほか、家中衆の清水・大藤・山中・蔵地・大屋が三方の要所を堅守しているので、ひとえに安心してほしいこと、去る9日には、韮山城から一里ばかりに位置する外宿の町庭口へ、敵将の山県三郎兵衛(昌景。譜代衆。駿河国江尻城代)・小山田(信茂。甲斐国衆。甲斐国谷村城主)・伊奈四郎(勝頼。甲州武田信玄の四男で世子)ら五・六手が攻め寄せてきたところ、籠城衆が出撃して応戦し、敵兵十余名を討ち取ったこと、彼の地は難所であるため、敵方は負傷者で溢れかえっているらしいこと、取次の氏照(北条源三氏照。氏康の三男。武蔵国滝山城主と下総国栗橋城主を兼務する)からも詳報されること、越軍の出陣が遅れると当方は立ち行かないので、とにかく急報したこと、よって、これらを越府に取り成すことを頼まれている。
13日、北条「氏政」から、その氏政によって越後への帰国を促された「大石惣介殿(芳綱。旗本衆)・須田弥兵衛尉殿(旗本衆)」に宛てて条書が認められ、一、先頃に使衆をもって示したように、このたび実行に移されるべき盟約の趣旨を、速やかに検討してもらいたいと望んでおり、よって、西上野から碓氷峠を登り詰められたのが確認されれば、相府に守衛軍などは残さずに総軍をもって、先ずは自分だけでも夜通しで越陣に駆けつける覚悟であるが、若しも峠を越えられずに、西上野の掃討のみを実行されるのであれば、本国を捨ててまでの同陣は憚られるため、当方は、軍勢のみを派遣するのか、別働で甲州へ進攻するのか、何れも御意向次第であること、一、御望みであれば、西上野に御着陣されるのに合わせて新大郎(藤田氏邦)を派遣し、戦略の御協議に臨むこと、一、越・相両国が浮沈を共にするからには、一刻も早く出陣してほしく、敵軍は山をひとつ隔てた場所に布陣しており、もはや猶予はないこと、これら三ヶ条の詳述を託されている。
同日、相州北条方の取次である藤田新大郎氏邦(氏康の四男。武蔵国鉢形城主)から、取次の「山吉孫次郎殿(豊守)」に宛てて返書が発せられ、去る19日付の御書(輝虎の直書)を謹んで拝読したこと、御同陣について協議するために大石惣介(芳綱)と須田弥兵衛を寄越されたのに伴い、氏政は認めた条目の趣旨を一つ一つを両使に説明したので、よろしく御返答を賜りたいこと、よって、一刻も早く西上野に出陣してもらい、碓氷峠を登り詰められたのが確認されれば、氏政は夜通しで越陣へ駆けつける覚悟であり、これらを彼の両使に詳述を頼んだとして、懇ろな披露を求められている。

同日、大石惣介芳綱が、「山孫(山吉豊守)」の年寄中に宛てて書信を発し、去る10日、相府に到着した際、すぐさま御状などを北条側に手渡すべきところ、道中に報告した通り、遠左(遠山左衛門尉康光。氏康の側近。小田原衆)は親子四人で韮山城に、新大郎殿(藤田氏邦)は本拠の武蔵国鉢形城(男衾郡)に居るため、取次が両人共が不在といった状況であり、契約外の御奏者には御状・御条目を手渡せない旨を示した上で、新大郎殿が上府する昨12日まで待機し、その当日、氏邦・山角四郎左衛門尉(康定)・岩本大郎左衛門尉(定次。氏政の側近。馬廻衆)に手渡したので、今13日に氏政から回答が示されたこと、先ず、双方から家老を一名を出して中途(上州東西の境目辺りか)で会談し、御同陣の日取りを定めるか、若し中途での会談が憚られるのであれば、新大郎殿に松田(憲秀。準一家衆。小田原衆)ほどの家老を一人か二人を加えた顔触れを出してもらい、利根川端(上・武国境の上野国那波郡堀口の渡し付近か)で会談するか、両案を言葉を尽くして提示したところ、豆州に甲軍が侵攻したなかで、会談に時日を費やす余裕などはなく、そうしている間に豆州は焦土と化し、取り返しが付かないとして、言下に断られたこと、次に、(輝虎が)越・相両国による共同軍事作戦を成し遂げられて上野国厩橋城(群馬郡)に帰陣するまでの間、氏政御兄弟衆の一人を倉内(上野国沼田城)に証人として置かれる案を、これも言葉を尽くして提示し、若し長期間の在留に疑心があるようならば、輝虎は三郎殿(上杉景虎)の眼前に於いて幾らでも血判誓詞を認める心積もりであると、山孫(山吉豊守)から言付かっている旨を丁寧に説明したところ、これもまた一切合財を納得されず、にべもないので、それならば左衛門大夫方(玉縄北条綱成。準一家衆。相模国玉縄城主)の息子二人のうち一人か、松田の息子を倉内に証人として置かれる案を提示したところ、やはり納得されないばかりか、かえって、輝虎が武田領へ御出陣されれば、御家老衆の息子・兄弟のうちニ人でも三人でも越陣に差し出すので、越陣からも家老衆の息子のうち一人でも二人でも瀧山(武蔵国多西郡)か鉢形に置くべきであるとの意向を言募られたこと、このほど御本城(北条氏康)は重い病に倒れられたようで、今では御子たちのそれぞれを見分けられないとの噂を耳にしたこと、更には、食事も飯と粥を供すると、食べたい方に指を示すばかりで、一向に言葉を発せられないほどの容態ゆえ、越・相両国を取巻く現状を認知していないと見られており、方々の間では、わずかでも病状が快方に向かえば、このたびの難題にもひたむきに助言を加えられたであろうが、一向に回復の兆しが見られないため、残念ながらどうにもならないとの噂が立っていること、こうしたなかでの遠左(遠山康光)の不在には呆れ果てており、もはや自分が相府に滞在する意味はないが、自分の帰還については指示が下されるのを待つのが前提であり、先ずは予定通りに須田(弥兵衛尉)を一人で帰すこと、氏政からも、ほかに用件がなければ帰国するように通告されているが、帰還の指示が下されるまでは滞在を続けること、相府の取り乱した様子については須田から詳しく聴取してほしいこと、大筋については、甲軍が伊豆国黄瀬川に陣取り、毎日欠かさず韮山城に攻めかけては柵囲いを引き剥がし、要所に押し迫っているそうで、昨年には相模国箱根(西郡)に押し入られると、だれかれ構わず切り捨てられた苦い思いから、慄然とした様子であること、某(大石芳綱)に帰国の指示を下される場合には、兄である小次郎に申し付けて、早々に家中の者を寄越して下されば十分であること、篠窪(治部)の件については、直に新大郎殿へ抗議しておいたところ、それから一向に音沙汰がないこと、遠左(遠山康光)から届いた二通の書簡を須田に持たせること、よって、これらを須田が詳述することを伝えている。更に追伸として、改めて御用件がある場合には、再び須弥(須田弥兵衛尉)を寄越されるべきであろうこと、もはや自分が相府に居座ったところで、これ以上は交渉が進展する見込みはなく、帰国の指示が下されるためには、つまるところ御前への取り計らい次第であること、御本城(北条氏康)の容態はなお厳しく、今般の(武田)信玄による豆州侵攻も認知されていないとの観測が取り沙汰されていること、こうした事柄を伝えている。

同日、越後奥郡国衆の新発田「忠敦(尾張守)」が、山吉孫次郎豊守の許に書信(端裏書「山孫  案書」)を送り届け、今し方、直太(直江大和守景綱)の所から使者として寺内方が到来し、中越(中条越前守)と黒四(黒川四郎次郎平政)の間で起こった領界地相論について、双方を和解させるため、このたび上様(輝虎)からも拙者(新発田忠敦)が中越を説得するように仰せ付けられたこと、以前にも書簡で伝えたように、中越は貴所(山吉豊守)の御披露を頼みとしていること、そろそろ上様(輝虎)の御目に立てられているのではないか、また、黒四の主張は昨夕に直太(直江景綱)が御披露されたのではないか、事実を承りたいので、詳しい御返事を頂戴したいこと、先だって蔵王堂別当から切書が届くも、どのように返答するべきなのか考えが及ばず、掃部(山吉豊守の一族である山吉掃部助か)の許に書簡を送り届けたところ、未だに御返事がないので、これについても詳しい御返事を頂戴したいこと、こうした事柄を伝えている。更に追伸として、このたび某(新発田忠敦)が中越の説得を仰せ付けられたゆえ、はなはだ戸惑っている胸の内を伝える一方、たっての御下命であるからには、不服を唱えるわけにはいかないとして、仲裁に奔走する決意を表している。
同日、新発田尾張守忠敦が、中条越前守の許に書信(端裏ウワ書「越州 御報人々  尾張守」)を送り届け、今し方、直和(直江景綱)の所から使者として寺内方が到来し、中越と黒四の境界地相論について、このたび(輝虎から)拙者が中越を説得し、現状維持で和解させるように仰せ付かったこと、差し出がましいかも知れないが、これまでの経過に不安を覚えたので、山孫(山吉豊守)に諸々の問い合わせをしたこと、山孫が繰り返し連絡することを伝えている。更に追伸として、返す返すも黒四の取次である直和は昨夕も御披露しているわけで、はなはだ不安を感じており、その旨を山吉に伝えたことを知らせるとともに、山吉から返答が寄せられ次第、連絡することを約束している。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 783・784・787号 本庄宗緩書状、788・789号 新発田忠敦書状、922号 北条氏政書状、923号 上杉景虎書状、925号 北条氏政書状、926号 山角康定書状、927号 北条氏政条書、928号 藤田氏邦書状、929号 大石芳綱書状 『戦国遺文 佐々木六角氏編』 972号 六角承禎書状

◆ 南方衆については、奥野高広氏・岩沢愿彦氏の校注による『信長公記』(角川日本古典文庫)の「巻 三」(8月10日条)と天野忠幸氏の論集である『戦国期三好政権の研究』(清文堂出版)の「第一部 国人編成と地域支配 補論 三好一族の人物比定について」を参考にした。
◆ 『上越市史』929号の解釈については、久保健一郎氏の論集である『戦国大名と公儀』(校倉書房)の「第一部 公儀の構造と展開 第一章 「大途」論 第三節 北条氏における「大途」の確立 Ⅰ北条領国外部の「大途」」と丸島和洋氏の著書である『戦国大名の「外交」』(講談社選書メチエ)の「第六章 外交の交渉ルート 3 越相同盟の崩壊 【越相同盟交渉の頓挫】」、高村不期氏のウェブサイトである『歴探』の「大石芳綱、山吉孫五郎に後北条氏の状況を伝える」を参考にした。
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越後国衆の秋山氏と松郷氏について

2014-03-09 20:32:34 | 雑考
 
 越後守護代長尾能景の被官に秋山主計助・同式部丞が、越後国上杉謙信(輝虎)の旗本衆に秋山式部丞定綱(のち伊賀守)がいた。


【史料1】安田景元宛長尾為景書状
去廿六日松郷・志駄・秋山御在所取懸候処、家風中出合、遂一戦、為始松郷与次郎志駄、敵数多被討捕之段、御忠節無比類候、何様静謐之上、所帯方義可申合候、依之、家風中以切紙申届候、弥御忠劫簡要候、恐々謹言、
             長尾
    九月廿九日      為景(花押)
    安田弥八郎殿


 越後天文の乱に於いて、越後守護代長尾為景方の越後国衆・安田毛利弥八郎景元(のち越中守。越後守護上杉家の譜代衆でもあった。越後国刈羽郡安田城主)は、越後守護上杉氏の一家衆・上条播磨守定憲方の越後国衆である松郷与次郎・志駄(越後国山東(西古志)郡夏戸城主)・秋山が居城に攻め寄せてくると、迎撃して松郷与次郎や志駄勢の多数を討ち取っている。

 これまで秋山氏を越後守護代長尾氏を始めとする長尾一族が越後に入部する以前からの守護代長尾氏の被官であると考えていたが、実際のところは越後国衆・秋山氏の一族が被官化したようだ。


【史料2】平野修理亮宛松郷景盛借状
   借申御蔵銭之事
           百文四文子
      合本卅五貫文者
右、子銭者四文子、来年二月中本子共、進納可申候、若無沙汰申候者、苅和郡之内別山之地勘定以相当、可被召置候、仍如件、
  享禄弐      松郷大隅守
    九月廿四日      景盛(花押)
    平野修理亮殿
          


【史料3】某能盛書状
まつかう殿借銭候、先日しわけ候代之内、借状のむねまかせわたされへく候、恐々謹言、
            しゆり
    丑九月廿五日     能盛(花押)
      六郎左衛門尉殿


 享禄2年9月24日に松郷大隅守景盛は段銭を納付するにあたり、長尾為景に対して平野修理亮能盛(為景の側近か)を通じ、越後国刈羽郡別山の知行地を抵当として、長尾家御蔵銭の借用を申し入れている。

 越後天文の乱は長尾為景が越後国衆に段銭の納付を強硬に迫ったことも一因のようで、この松郷景盛の次代であろう松郷与次郎は前述の通り、反為景の上条定憲に味方して為景方の安田景元を攻撃するも、あえなく戦死している。そして、上杉謙信期に松江(松郷)氏は、旗本衆・松本鶴松丸(越後国山東(西古志)郡小木(荻)城主)の同心として確認される。

 このように越後国衆の秋山氏と松郷氏は、越後国山東(西古志)郡を本拠とする志駄氏や松本氏との係わりから考えて、その本領は山東郡である可能性が高いのではないだろうか。


『新潟県史 通史編2 中世』 『新潟県史 資料編3 中世一』777号 長尾・飯沼氏等知行検地帳、839号 上杉家軍役帳 『新潟県史 資料編4 中世二』1557号 長尾為景感状、1558号 長尾為景書状、1997号 某能盛書状 『新潟県史 資料編5 中世三』2421号 松郷景盛借状 『新潟県立歴史博物館研究紀要 第9号』高野山清浄心院 越後過去名簿(写本)
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上杉輝虎(長尾景虎。号宗心。上杉政虎。号謙信)の小姓衆

2014-03-08 20:19:48 | 雑考
 
 何れも引用には注意を要するが、これについては参考になると考えられるので、【上杉家御年譜 一 謙信公】と【古代士籍】から、上杉輝虎の小姓を務めたとされる人物を挙げてみたい。


【上杉家御年譜 一 謙信公】

「山吉孫次郎豊守」:旗本衆・山吉丹波守政久(恕称軒政応)の次男。【上杉家御年譜】は山吉丹波入道景永の嫡男としている。

「河田豊前守長親」:江州佐々木六角氏の旧臣である河田伊豆守(憲親ヵ。実清軒ヵ)の嫡男。

「吉江喜四郎」:資賢。信景。江州佐々木六角氏の旧臣か。旗本衆・吉江織部佑景資(古志長尾氏の被官を出自とする)の一族に列した。その後、旗本衆・吉江佐渡守忠景(前上杉氏の被官を出自とする)の名跡を継いだらしい。

「五十公野右衛門佐」:重家。初め越後奥郡国衆・新発田氏の一族として新発田右衛門大夫を名乗った。その後、同じく新発田氏の一族である五十公野氏を継いで五十公野右衛門尉重家を名乗った。更に因幡守を称したのち、宗家を継いで新発田因幡守重家を名乗った。

「荻田孫十郎」:長繁。旗本衆・荻田与三左衛門尉の次男。兄も与三左衛門尉を称した。【上杉家御年譜】も荻田与三左衛門尉の次男としている。

「本庄清七郎」:旗本衆・本庄新左衛門尉実乃(美作入道宗緩)の次男。【上杉家御年譜】は本庄美作守の嫡男としている。

「進藤孫七郎」:旗本衆・進藤隼人佑家清の嫡男。

「岩井源蔵」:信能。源三。民部少輔。備中守。旗本衆(もとは信濃衆)・岩井備中守昌能の嫡男。

「本田右近」:右近允。嫡男の本田弁丸(長信か。孫七郎)と二代に亘って務めたか。


【古代士籍】

「中条越前守」:中条与次景泰。吉江織部佑景資の次男(沙弥法師丸と伝わる)で、越後奥郡国衆の中条越前守の名跡を継いだ。

「安田筑前守」:堅親か。新太郎。治部少輔。河田豊前守長親の弟で、越後奥郡国衆の安田治部少輔の名跡を継いだ。

「五十公野源太」:五十公野右衛門尉重家。

「吉益」:旗本衆・吉益伯耆守(清定ヵ)の前身か。

「川村」:上杉景勝期に与板衆に属した河村彦左衛門尉吉久に係わる人物か。

「飯田彦六」:旗本衆・飯田孫右衛門尉長家、若しくは子であろう。

「河隅善七」:旗本衆・河隅三郎左衛門尉忠清、若しくは子であろう。

「蔵田」:府内代官の蔵田五郎左衛門尉(秀家ヵ)に係わる人物か。

「川田 対馬守子」:旗本衆・河田対馬守吉久の子と考えられる河田喜三郎か。

「北条 下総守子」:旗本衆・北条下総守高定の子である北条助三郎。

「北村民部」:旗本衆の北村氏に係わる人物か。
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