越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎(旱虎)の年代記 【元亀元年8月上旬】

2014-03-27 01:08:30 | 上杉輝虎の年代記

元亀元年(1570)8月 越後国(山内)上杉輝虎(旱虎。弾正少弼)【41歳】


4日、同盟関係にある相州北条氏政(左京大夫)から、取次の山吉孫次郎豊守(大身の旗本衆)へ宛てて書状が発せられ、(甲州武田)信玄が豆州へ出張してきたについて、後詰の件を申し述べること、遅れるのであれば、深刻な事態に陥るので、(輝虎への)速やかな御取り成しを頼み入ること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』922号「山吉孫次郎殿」宛北条「氏政」書状)。

9日、養子の上杉景虎(三郎)が、取次の直江景綱(大和守)へ書状を渡し、(輝虎の)御書を拝読し、その旨について愚慮したこと、(甲州武田)信玄が豆州へ向かって出張したのは、ただ今の時節には不審に思えること、つまりは相州(北条氏政)の油断ゆえ、敵へ(立ち向かう)意欲がないからであること、(輝虎の)仰せの通り、出陣同陣の件については、昨年以来の決定事項であること、取り急ぎ使者をもって御相談されるべきところ、そうした重要なやり取りを怠ったのは、油断に思えること、されば、(氏政が)篠窪(治部)をもって申し入れられたところに、(輝虎が疑念を)仰せになったのは、そうされる以外になかったものと愚慮していること、この春に伝えた御内意の通りには、(春に到来した両使の)伊右(御家門方の伊勢右衛門佐)・幸田(氏政側近の大蔵丞定治か)は、氏政父子(氏康・氏政)へ申し聞かせなかったゆえ、(篠窪を)寄越されたのではないかと、戸惑いを感じていること、この旨を御披露に預かりたいこと、以上、これらを申し伝えている。さらに追伸として、なおもって、信玄出張は不審に思えること、当国の諸勢(越後衆)を当府に集め置かれている様子は、明白であるところ、豆州へ戦陣を催したのは、(氏政の対応の)ひとつひとつが不審に思えること、返す返すも、御同陣の件については、最前に(北条氏政が)使者をもって(輝虎の)御意を得られるべきところ、結局は此方(上杉側)から大石(惣介芳綱)を差し越されたこと、およそ相州の油断には呆れる思いであること、後詰めの件については、急速に挙行されるつもりのところは、拙者(景虎)においても過分であると愚慮していること、そのうえで御同陣されるそうであると、取り急ぎ明日に相州(氏政)へ申し届けること、以上、これらを申し添えている(『上越市史 上杉氏文書集一』923号 上杉景虎書状 礼紙ウハ書「直江殿 三郎」)。


12日、同盟関係にある相州北条氏政から、越後国上杉家に復帰した北条丹後守高広へ宛てて返書が発せられ、去る9日付の注進状が今12日未刻(午後二時前後)に到来したこと、越府へ(出馬を)頼み入り、脚力を繰り返し差し越されたそうであり、祝着であること、しかして、敵(甲州武田軍)は昨年の陣庭である黄瀬川にまた陣取り、毎日欠かさず韮山城(伊豆国田方郡)と興国寺城(駿河国駿東郡)に向かって攻め懸けていること、韮山城の方は、今も外宿を堅守していること、要害においては、何もかも別条ないこと、(当府からの救援の)人衆が調わず、無念極まりないこと、たとえこのうえに敵が退散したとしても、早々に輝虎には御越山してもらい、当方の戦略へのひたむきな御意見に預からなければ、さらなる(越・相両国)の御入魂の意趣は深まらず、世間体と言い、実益といい、ただ今の御手成りにおいては、笑止千万であること、よくよく貴辺(北条高広)も御斟酌して、(両国の連帯が機能するように)御奔走するのが適当であること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』925号「毛利丹後守殿」宛北条「氏政」書状)。

同日、相州北条氏政の側近である山角四郎左衛門尉康定(御馬廻衆)から、北条丹後守高広へ宛てて副状が発せられ、去る9日付の御状が今12日に参着し、去る7日付の御状と同前に(氏政父子へ)申し聞かせたこと、御精を入れられ、度々の御飛脚に預かったこと、(父子は)祝着であると申されていること、されば、信玄は今日に至るまで豆州韮山へ毎日欠かさず攻め立てていること、この機会を放って置かれるわけにはいかないので、一戦を遂げられるため、人数を残らず(相府小田原に)集められたこと、物主衆はいずれも駆け付けられるも、(それ以下の)人数が調わないので、一両日は延引し、この18・19日のうちに、かならず敵に立ち向かって一戦を致されるべきこと、敵は八千ばかりであること、此方(相州北条家)は、城々に(人数を)籠め置かれていながらも、当地から打ち立つ人数七・八千であること、殊に(当方にとって)地形が優位に立てる場所なので、信玄を討ち取るのは眼前であると思っていること、韮山籠城衆は、氏政の舎弟である助五郎(氏規。氏康の四男。相模国三浦郡の三崎領を管轄する)ならびに六郎(氏忠。氏康の弟である左衛門佐氏堯の長男で、氏康の養子となったらしい)のほか、(家中衆の)清水・大藤・山中・蔵地・大屋が三方の要所に立て籠もっているので、御安心してほしいこと、去る9日には、町庭口という韮山城から一里ばかりの外宿に、(敵方の)山県三郎兵衛(昌景。御譜代家老衆。駿河国江尻城代)・小山田(左兵衛尉信茂。御譜代家老衆。甲斐国谷村城主)・伊奈四郎(勝頼。甲州武田信玄の四男で世子となった)を物主として、五・六手が攻め寄せてきたところに、(韮山城の物主が)城内から人数を出して応戦し、敵十余人を城内で討ち取ったこと、彼の地形は際立って難所であるので、敵方は負傷者で溢れかえっているらしいこと、詳しくは氏照(北条源三氏照。氏康の三男。武蔵国滝山城主と下総国栗橋城主を兼務する)が申し達せられるので、(この紙面は)省略すること、越(越後国上杉軍)の御出馬が御遅延されては、どうしようもないこと、急いでいるので、早々に御知らせに及んだこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』号「毛丹 御報」宛「山四 康定」書状)。

13日、相州北条氏政から、その氏政によって越後への帰国を促された両使の大石惣介芳綱・須田弥兵衛尉(いずれも輝虎旗本)へ条書が渡され、一、使衆(大石・須田)に申し付けた筋目を、御斟酌してもらえたのかどうか、何よりも重要であること、されば、(筋目に則り)西上州へ打ち出られ、碓氷峠へ上られ、それが明確になったならば、(相府小田原に)守衛の軍勢などは残して置くつもりはないので、人数が足りなくても、夜通しで駆け付け、同陣するつもりであること、しかしまた、万が一にも峠を越えられることがない模様であるならば、西上州を攻めるだけであるならば、(氏政が)本国を捨てて罷り出でるのは、どうかと思われるので、人衆のみを派遣するのか、または(単独で)甲州へ向かって打ち出るのかどうか、これは御作意次第であること、一、御越山については、とりもなおさず新大郎(藤田氏邦)に、調儀方(戦略)の御相談されるならば、それ(氏邦)を差し添えて進め置くこと、一、何はさておき(越・相両国が)浮沈を共にするからには、一刻も早い御越山に極まるまでであること、敵は山をひとつ隔てた場所に張陣しているにより、もはや猶予はないこと、右の三ヶ条の意趣は両人に説明したこと、以上、これらの条々を示されている。(『上越市史 上杉氏文書集一』927号「大石惣介殿・須田弥兵衛尉殿」宛北条「氏政」条書)。

同日、相州北条側の取次である藤田新大郎氏邦(氏康の五男。武蔵国男衾郡などの鉢形領を管轄する)から、取次の山吉孫次郎豊守へ宛てて返書が発せられ、去る7月19日付の御書(920号の同日付山吉豊守条書案に関係する山吉の書状)を拝読させてもらったこと、よって、御同陣の件について、(協議するために)大石惣介(芳綱)と須田弥兵衛を寄越しなされたこと、とりもなおさず氏政は、御条目(前号の氏政条書)の趣旨を一つひとつを(両使に)申し聞かせたこと、委細は御返答に及ばれたこと、一刻も早く御越山してもらい、碓氷峠を越えなされる御様子が、確かめられたならば、(氏政は)夜通しで御同陣すると申されていること、なお、彼の御使いの口上に頼み入るにより、御披露に預かりたいこと、これらを恐れ畏んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』928号「山吉孫次郎殿」宛「藤田新大郎氏邦」書状 封紙ウハ書「封 山吉孫次郎殿 自小田原 藤田新大郎 封」)。


同日、大石惣介芳綱が、山吉孫次郎豊守の年寄中へ宛てて書状を発し、この10日に、相府小田原にへ罷り着いた折、御状などを(北条側へ)差し出すべきところに、中途から申し上げた通り、遠左(遠山左衛門尉康光。氏康の側近。小田原衆)は親子四人で韮山に在城していること、新大郎殿(藤田氏邦)は鉢形城(武蔵国男衾郡)に居られるので、(取次の両人共が不在といった状況であり)契約外の御奏者には、 (輝虎の)御状・御条目を手渡せないと告げて、新大郎殿が当地(小田原)へ御越しになる昨12日まで待っていたこと、(その当日に)氏邦・山角四郎左衛門尉(康定)・岩本大郎左衛門尉(定次。氏政の側近。馬廻衆)の三人をもって、 (輝虎の)御状を御請け取りになって、今13日に(氏政が)御返事が示されたこと、(越・相両国が)互いに半途まで御一騎にて御出でになり、家老の衆をもって、御同陣の日取りを定められるか、または半途への御出でが憚られるのであれば、新大郎殿に松田(憲秀。準一家。小田原衆)なりとも、(家老の者を)一人でも二人でも添えられ、利根川端(上・武国境の上野国那波郡堀口の渡し付近か)まで御出でになって、御相談し合ってはと、言葉を尽くして提案するも、(氏政は)豆州に信玄が張陣しており、余裕はないので、中談(中途での談合)などして数日を送っては、そうしている間に豆州は焦土と化し、取り返しが付かないので、そんなことはしていられないと、仰せ払われたこと、それでもまた、 (輝虎が)御越山して厩橋へ、 御馬を納められるまでの間、氏政御兄弟衆の一人を倉内(上野国沼田城)へ証人として御越しになってはと、これも言葉を尽くして提案したこと、万が一にも長期間の在留になると、また疑心があるようならば、 輝虎は十、二十の指から血を出して、三郎殿(上杉景虎)へ(誓詞に血判を据えるのを)見せるつもりであり、山孫(山吉豊守)がそう話していると、ねんごろに申し上げても、これもまた一切を納得されないこと、にべもないので、それならば左衛門大夫方(玉縄北条綱成。準一家。相模国玉縄城主)の息子二人のうち一人が倉内へ御越しになるか、松田の息子なりともが(倉内へ)御越しになってはと提案しても、これも納得されないこと、(輝虎が)御越山されたならば、家老の者共の息子・兄弟を二人でも三人でも(輝虎の)御陣下へ進め置き、また、そなた(越陣)からも御家老衆の息子を一人でも二人でも申し請け、瀧山(武蔵国多西郡)か鉢形に差し置くべきであると、公事でもしているかのように激しい口調で仰せられたこと、御本城(北条氏康)の御煩いはものか、そのうち御子達をもしかじかと見知っておられないとの噂を耳にしたこと、食い物も飯と粥を供すると、食いたき物に指ばかりを御差しになるそうであること、一向に御言葉を発することができないので、何事も御大途事などは御存知ないそうであること、わずかでも御病状が快方に向かえば、このたびの御事には、もひたむきに御意見されたのではないか、一向に回復の兆しが見られないので、どうにもならないと、各々方之間では噂が立っていること、殊に遠左(遠山康光)は不在であること、呆れ果てた思いであること、某(大石芳綱)においては、爰元(相府小田原)に滞留は、もっぱら無用のようではあれども、須田をまずは(越府へ)帰し、某(大石)については御一報の次第により、小田原に腰を据えているようにと、 (輝虎の)御諚であったので、(このまま)滞留すること、ほかに御用件がなければ、罷り帰るようにと、氏政からは仰せられていながらも、重ねて(輝虎の)御一報が寄せられるまでは、御待ちすること、爰元(小田原)の様子は、(帰府した)須田を召し出されて、よくよく御尋ねになるのが適当であると思われること、(小田原の様子は)正体なきていたらくであること、(甲州武田)信玄は伊豆の黄瀬川と言う所に陣取られていること、毎日欠かさず韮山に攻め込んでは、柵囲いを引き剥がしているそうであること、昨年には箱根(相模国西郡)を押し破り、男女出家まで切り捨てているので、ますます爰元(小田原)は御難儀のていたらくであること、某(大石芳綱)については、罷り帰るべきとの、 (輝虎の)御諚であるならば、兄である(大石)小次郎に仰せ付けられて、留守中に置いている者(大石家中)なりともを、早々に御寄越し下されてほしいこと、それでまた、篠窪(治部)の件については、新大郎殿(藤田氏邦)へ直接、説明したこと、これは一向に応対がないこと、遠左(遠山康光)からの(大石宛ての)切紙二通を御披見のために差し越すこと、子細においては、須田が説明すること、これらを恐れ謹んで申し伝えている。さらに追伸として、重ねて御用件があるならば、須弥(須田弥兵衛尉)を御寄越しになるべきかと、返す返すも某(大石)については爰元(小田原)に滞留を致しても、(交渉の)行き着く先は御果てになったと思われるので、(大石が)罷り帰るための御申請は、つまりは(山吉の)御手並みに懸かっていること、御本城(北条氏康)の御容態は余程に前後不覚であるとお考えになっていてほしいこと、このたび豆州へ信玄が攻め込んだのも、御存知ないとの観測が取り沙汰されていること、以上、これらを申し添えている(『上越市史 上杉氏文書集一』929号「山孫 参人々御中」宛「大石惣介芳綱」書状)。



この間、外様衆(揚北衆)の中条越前守景資と黒川四郎次郎平政の同族間で土地相論が再燃する(関連史料を『上越市史 上杉氏文書集一』等は、関連史料を永禄12年に置いているが、それでは輝虎の北陸遠征と時期が重なってしまうので、当年の出来事であると考えられる)。

8月6日、長尾景虎期の最側近で、すでに一線を退いているが、何かと駆り出されている本庄美作入道宗緩(俗名は実乃)が、在府中の中条越前守景資の屋敷へ返状を届け、御懇書を給わり恐れ多く思うばかりであること、仰せの通り、黒川方から言い掛かりをつけられている件について、繰り返し承ったこと、いかにも御主張を控えられ、御堪忍に及ばれているのは、時分を弁え、御実城をいささかも御疎略にされないとの気遣いが感じられること、黒川方の御事情は、若輩と言い、家中の面々も功績はないゆえ、時宜の分別を弁えずに(訴訟を)申し立てたこと、どうしようもないこと、御自訴の件については、(中条は)山孫(山吉豊守。輝虎の最側近)へ理を分けて仰せになるのが、尤も適切であること、某(本庄宗緩)の事情は老後と言い、五日・六日に一度ほど出仕する有様なので、愚入(宗緩)からは取り立てて口添えする立場にはないこと、御問い合わせには、抜かりなく申し上げるつもりであること、決して疎略に扱う気はないこと、山孫へも彼の地御諚(弘治元年の裁定)の仔細について、愚入が使いを立てること、当時の様子を(中条が)理を分けて仰せになられるのが適当であること、我等(宗緩)からは(中条と)気心が知れているにより、(山吉へ)伝えられないこと、なお、折り返し申し承ること、これらを恐れ謹んで申し伝えている。さらに追伸として、返す返すも、御懇札に預かり、恐れ多い思いであること、内々に参上して申し述べるべきであるとは言っても、御聞き及ばれているかどうか、思うに任せない身であるゆえ、どなたとも御無沙汰していること、決して心中の抜かりはないこと、以上、これらを申し添えている(『上越市史 上杉氏文書集一』782号 本庄「宗緩」書状 礼紙ウハ書「越州 参御報 本庄美作守 宗緩」)。

8日、本庄美作入道宗緩が、中条越前守景資の屋敷へ返状を届け、御存分の趣を、 (輝虎の)御上聞に達せられたく、(宗緩から)山孫(山吉豊守)へ催促してほしいとの、御懇札をつぶさに披読したこと、御心腹の通りは、そうではあっても、根拠に乏しいと思われること、とりもなおさず、そのところ(中条の言い分)は山孫へ申し届けておくこと、同じくは、新尾(新発田尾張守忠敦)へ御存分を、詳しく仰せ届けられるべきであること、とりもなおさず彼方(新発田忠敦)から公界(評定の場)に仰せ達せられるのは、なおもって適切な御手段であろうこと、推察ながら御筋目(中条と新発田の由縁)からして、(新発田の関与は)頼もしい仰せが力添えになるのは、吾等(宗緩)までも同じ思いであること、御身に提案するについては、御悦喜されるものと思っていること、委細は、御目に懸かって申し達するつもりであり、早々の御報せに及ぶこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている。さらに追伸として、返す返すも、山孫へ催促の件について、仰せを承ったこと、委細は心得たこと、御安心してほしいこと、以上、これらを申し添えている(『上越市史 上杉氏文書集一』784号 本庄「宗緩」書状 礼紙ウハ書「越州 参御報 本美入 宗緩」)。

11日、本庄美作入道宗緩が、中条越前守景資の屋敷へ返状を届け、貴札をつぶさに披読したこと、よって、(中条の)御存分の件について、(中条が)条々を仰せ越されたこと、しかしながら、御余儀ない(ほかに取るべき手段はない)との思いであること、とりもなおさず山孫(山吉豊守)へすぐにも申し届けておくこと、こと、また、以前に給わった御書中を(山吉へ)差し越し、(輝虎への)御披露の件を何度も催促したこと、未だに、 (中条の存分は輝虎の)御耳に立てられていないのではないかと思われて、これにより、(中条から)またもや御書中を給わったこと、吾等(宗緩)に(輝虎へ)御披露してほしいとの仰せであること、(宗緩は)歳を重ねた老耄ゆえ、公界の趣の事には口出しはしないので、御披露はできないこと、最前からこのように申し上げていること、御失念されているのかどうか、決して心底において御等閑にはしていないけれども、何事にも口出しはしないので、ありのままを申し達すること、長年の付き合いから、何事をも請け負う間柄だといって、(輝虎へ)御披露など致したならば、(宗緩は輝虎から)永代の不興を被る事態となること、とにかく山孫へ直談をもって申し届けるつもりなので、御安心してほしいこと、変事があればまた申し達するつもりであること、これらを恐れ謹んで申し伝えている。さらに追伸として、返す返すも、 屋形さま(輝虎)から、もしも拙者(宗緩)などへ御尋ねがあったならば、ありのままを申し上げるつもりであるので、御安心してほしいこと、吾等(宗緩)の方からは申し上げないこと、以上、これらを申し添えている(『上越市史 上杉氏文書集一』787号 本庄「宗緩」書状 封紙ウハ書「越前守殿 参御報 本庄美作入道 宗緩」)。

13日、外様衆の新発田忠敦(尾張守)が、山吉孫次郎豊守へ宛てて書状を発し、今し方、直太(直江大和守景綱)から(使者の)寺内方が寄越され、中越(中条景資)と黒四(黒川平政)の言い争い(土地相論)の子細について、中越(中条)へ拙者(新発田忠敦)が意見致すようにと、 (輝虎の)御諚であること、以前から申している通り、中越についても貴所(山吉豊守)を頼み入りたいと申されていること、 (輝虎の)御目へも立てられたのかどうか、また、直太(直江景綱)ばかりが、 (黒川の言い分を輝虎へ)御披露されたのかどうか、形勢を承りたいこと、詳しい御返事に預かりたいこと、それともまた、蔵王堂別当から切書を預かるにより、どのような返答に及ぶべきなのか申していて、掃部(山吉一族の山吉掃部助であろう)の所まで(蔵王堂からの)切書を送り届けたこと、これも未だに御返事がないこと、御手間ではあっても、詳しく言って寄越してほしいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている。さらに追伸として、某(新発田忠敦)に中越の一件について、意見致すようにとは、戸惑いを感じていること、それでも、(輝虎の)御諚であるからには、不服を唱えるわけにはいかないではないか、という思いであること以上、これらを申し添えている(『上越市史 上杉氏文書集一』788号 新発田「忠敦」書状 端裏書「山孫 安書」)。

同日、新発田尾張守忠敦が、中条越前守景資の屋敷へ書状を届け、あらためて書札をもって申し上げること、今し方、直和(直江景綱)から寺内方が寄越され、中越と黒四の言い争いの子細について、(輝虎から)拙者(新発田忠敦)から中越に意見致し、これまでの歳月の通り、(現状維持で)双方を和解させるのが当然であるというのが、 (輝虎の)御諚であるとのこと、余計な事ではあるけれども、(これまでの経過に)不安を覚えたので、山孫(山吉)へ書中を届けたにより、かならずや返事があるではないかと思われること、案文(前号文書のこと)を(中条の)御目に掛けること、いずれにしても、(中条と)面上をもって申し述べること、またぞろ、これらを畏んで伝えている。さらに追伸として、返す返す、申し入れること、(黒川の取次である)直和からは昨夕も、 (輝虎の)御諚を得られているわけであること、はなはだ不安を感じているので、山孫へ書中を差し越したこと、(山吉から)返答が届いたならば、折り返し申し入れること、これらを畏んで申し添えている(『上越市史 上杉氏文書集一』789号 新発田忠敦書状 端裏ウハ書「越州 御報人々 より 尾張守」)。



やはりこの間、将軍足利義昭・濃(尾)織田信長と南方衆が摂津国で対峙するなか、友好関係にあり、伊賀在国で信長に抵抗を続けている近江国旧主の佐々木六角承禎(抜関斎。左京大夫義賢)から、加勢を求められたので、応諾すると、佐々木承禎は、8月10日、近江国甲賀郡内の国衆である馬場兵部丞へ宛てて書状を発し、その表へ森 三左衛門尉(可成。織田家の部将。近江国宇佐山城を守る)が攻め懸けられたと、伝わってきたこと、心配していたところ、大勝されたそうであること、今にはじまったことではないが、このたびも毎度ながらの類い稀な高名の極みであること、(それぞれの地で織田軍と対峙している)越前(朝倉氏)・南方の状況は定かではないこと、越後長尾も合力として打って出る旨を、厳重に使者をもって言って寄越したので、(信長打倒の)本意を遂げるのは、間近であること、様子においては、落合(家光)・松原(弥兵衛尉か)が申し述べること、これらを謹んで申し伝えている(『戦国遺文 佐々木六角氏編』972号「馬場兵部丞殿」宛佐々木「承禎」書状【封紙ウハ書「馬場兵部丞殿 承禎」】)。


『信長公記』(角川日本古典文庫)による南方衆の顔触れは、細川六郎殿(京兆家細川晴元の世子。のちに足利義昭・織田信長のそれぞれから一字を与えられて昭元・右京大夫信元・信良を名乗っていく)、三好日向守(北斎宗功。俗名は長逸。三好三人衆)、三好山城守(号咲岩。俗名は康長)、安宅(神太郎。三好長慶の実弟であった安宅冬康の世子)、十河(孫六郎在康。三好長慶の実弟であった三好実休の次男)、篠原(岫雲斎恕朴。右京進長房)、石成(主税助友通・長信。三好三人衆)、松山、香西(越後守。実名は長信か)、三好為三(一任斎。三好三人衆の三好釣竿斎宗渭の実弟)、竜興(一色治部大輔義棟。美濃国旧主の斎藤龍興)、永井隼人(長井隼人佑。号不甘。一色義棟の族臣)となる。


※ 三好一族の実名・法号等は、天野忠幸氏の論集である『増補版 戦国期三好政権の研究』(清文堂出版)の「第一部 国人編成と地域支配 補論二 三好一族の人名比定について」による。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『戦国遺文 佐々木六角氏編』(東京堂出版)

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越後国衆の秋山氏と松郷氏について

2014-03-09 20:32:34 | 雑考
 
 越後守護代長尾能景の被官に秋山主計助・同式部丞が、越後国上杉謙信(輝虎)の旗本衆に秋山式部丞定綱(のち伊賀守)がいた。


【史料1】安田景元宛長尾為景書状
去廿六日松郷・志駄・秋山御在所取懸候処、家風中出合、遂一戦、為始松郷与次郎志駄、敵数多被討捕之段、御忠節無比類候、何様静謐之上、所帯方義可申合候、依之、家風中以切紙申届候、弥御忠劫簡要候、恐々謹言、
             長尾
    九月廿九日      為景(花押)
    安田弥八郎殿


 越後天文の乱に於いて、越後守護代長尾為景方の越後国衆・安田毛利弥八郎景元(のち越中守。越後守護上杉家の譜代衆でもあった。越後国刈羽郡安田城主)は、越後守護上杉氏の一家衆・上条播磨守定憲方の越後国衆である松郷与次郎・志駄(越後国山東(西古志)郡夏戸城主)・秋山が居城に攻め寄せてくると、迎撃して松郷与次郎や志駄勢の多数を討ち取っている。

 これまで秋山氏を越後守護代長尾氏を始めとする長尾一族が越後に入部する以前からの守護代長尾氏の被官であると考えていたが、実際のところは越後国衆・秋山氏の一族が被官化したようだ。


【史料2】平野修理亮宛松郷景盛借状
   借申御蔵銭之事
           百文四文子
      合本卅五貫文者
右、子銭者四文子、来年二月中本子共、進納可申候、若無沙汰申候者、苅和郡之内別山之地勘定以相当、可被召置候、仍如件、
  享禄弐      松郷大隅守
    九月廿四日      景盛(花押)
    平野修理亮殿
          


【史料3】某能盛書状
まつかう殿借銭候、先日しわけ候代之内、借状のむねまかせわたされへく候、恐々謹言、
            しゆり
    丑九月廿五日     能盛(花押)
      六郎左衛門尉殿


 享禄2年9月24日に松郷大隅守景盛は段銭を納付するにあたり、長尾為景に対して平野修理亮能盛(為景の側近か)を通じ、越後国刈羽郡別山の知行地を抵当として、長尾家御蔵銭の借用を申し入れている。

 越後天文の乱は長尾為景が越後国衆に段銭の納付を強硬に迫ったことも一因のようで、この松郷景盛の次代であろう松郷与次郎は前述の通り、反為景の上条定憲に味方して為景方の安田景元を攻撃するも、あえなく戦死している。そして、上杉謙信期に松江(松郷)氏は、旗本衆・松本鶴松丸(越後国山東(西古志)郡小木(荻)城主)の同心として確認される。

 このように越後国衆の秋山氏と松郷氏は、越後国山東(西古志)郡を本拠とする志駄氏や松本氏との係わりから考えて、その本領は山東郡である可能性が高いのではないだろうか。


『新潟県史 通史編2 中世』◆『新潟県史 資料編3 中世一』777号 長尾・飯沼氏等知行検地帳、839号 上杉家軍役帳 ◆『新潟県史 資料編4 中世二』1557号 長尾為景感状、1558号 長尾為景書状、1997号 某能盛書状 ◆『新潟県史 資料編5 中世三』2421号 松郷景盛借状 ◆『新潟県立歴史博物館研究紀要 第9号』高野山清浄心院 越後過去名簿(写本)
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上杉輝虎(長尾景虎。号宗心。上杉政虎。号謙信)の小姓衆

2014-03-08 20:19:48 | 雑考
 
 何れも引用には注意を要するが、これについては参考になると考えられるので、【上杉家御年譜 一 謙信公】と【古代士籍】から、上杉輝虎の小姓を務めたとされる人物を挙げてみたい。


【上杉家御年譜 一 謙信公】

「山吉孫次郎豊守」:旗本衆・山吉丹波守政久(恕称軒政応)の次男。【上杉家御年譜】は山吉丹波入道景永の嫡男としている。

「河田豊前守長親」:江州佐々木六角氏の旧臣である河田伊豆守(憲親ヵ。実清軒ヵ)の嫡男。

「吉江喜四郎」:資賢。信景。江州佐々木六角氏の旧臣か。旗本衆・吉江織部佑景資(古志長尾氏の被官を出自とする)の一族に列した。その後、旗本衆・吉江佐渡守忠景(前上杉氏の被官を出自とする)の名跡を継いだらしい。

「五十公野右衛門佐」:重家。初め越後奥郡国衆・新発田氏の一族として新発田右衛門大夫を名乗った。その後、同じく新発田氏の一族である五十公野氏を継いで五十公野右衛門尉重家を名乗った。更に因幡守を称したのち、宗家を継いで新発田因幡守重家を名乗った。

「荻田孫十郎」:長繁。旗本衆・荻田与三左衛門尉の次男。兄も与三左衛門尉を称した。【上杉家御年譜】も荻田与三左衛門尉の次男としている。

「本庄清七郎」:旗本衆・本庄新左衛門尉実乃(美作入道宗緩)の次男。【上杉家御年譜】は本庄美作守の嫡男としている。

「進藤孫七郎」:旗本衆・進藤隼人佑家清の嫡男。

「岩井源蔵」:信能。源三。民部少輔。備中守。旗本衆(もとは信濃衆)・岩井備中守昌能の嫡男。

「本田右近」:右近允。嫡男の本田弁丸(長信か。孫七郎)と二代に亘って務めたか。


【古代士籍】

「中条越前守」:中条与次景泰。吉江織部佑景資の次男(沙弥法師丸と伝わる)で、越後奥郡国衆の中条越前守の名跡を継いだ。

「安田筑前守」:堅親か。新太郎。治部少輔。河田豊前守長親の弟で、越後奥郡国衆の安田治部少輔の名跡を継いだ。

「五十公野源太」:五十公野右衛門尉重家。

「吉益」:旗本衆・吉益伯耆守(清定ヵ)の前身か。

「川村」:上杉景勝期に与板衆に属した河村彦左衛門尉吉久に係わる人物か。

「飯田彦六」:旗本衆・飯田孫右衛門尉長家、若しくは子であろう。

「河隅善七」:旗本衆・河隅三郎左衛門尉忠清、若しくは子であろう。

「蔵田」:府内代官の蔵田五郎左衛門尉(秀家ヵ)に係わる人物か。

「川田 対馬守子」:旗本衆・河田対馬守吉久の子と考えられる河田喜三郎か。

「北条 下総守子」:旗本衆・北条下総守高定の子である北条助三郎。

「北村民部」:旗本衆の北村氏に係わる人物か。
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