越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎(旱虎)の年代記 【永禄13年・元亀元年4月】

2014-01-09 01:58:25 | 上杉輝虎の年代記

永禄13年・元亀元年(1570)4月 越後国(山内)上杉輝虎(旱虎。弾正少弼)【41歳】


朔日、関東味方中の真壁氏幹(右衛門大夫。常陸国真壁郡の真壁城を本拠とする常陸国衆で、佐竹氏に従っている)から、山内上杉家の年寄中へ宛てて返状が発せられ、あらためて申し述べること、もとより、南方(相州北条家)との御一和の成就によって、御直書をもって仰せ知らされたこと、まさしく過当の極みであり、畏み入り存じ申し上げるばかりであること、関東の事態については、いよいよ思うがままに統治されるべき時節を迎えられたにより、恐れながら(そうされるのが)御肝心に極まること、なお、(詳細については)北条方(関東代官を任せている北条丹後守高広。)と山吉方(輝虎の最側近である山吉孫次郎豊守)が披露に及ばれるので、(この紙面は)省略させてもらうこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』696号「山内 江 参人々御中」宛「真壁 氏幹」書状)。


当文書を、諸史料集は永禄12年に置いているが、輝虎と真壁氏幹の間を取り次いでいる北条高広と山吉豊守のうち、永禄9年末に越後国上杉家から離反した北条は、永禄12年4月の時点ではまだ上杉家に復帰しておらず、次に掲げる多賀谷祥聯書状との兼ね合いからして、当年の発給文書となろう。


4日、同じく多賀谷入道祥聯(修理亮政経。常陸国関郡の下妻城を本拠とする常陸国衆)から、越後国上杉家側の取次である山吉孫次郎豊守へ宛てて書状(謹上書)が発せられ、あらためて申し達すること、もとより、今なお関東に御馬を立てられていると承り、恐れながら御太儀の極みであると存じ申し上げること、しかも先頃に御馬を進上致したところ、(輝虎が)御直書をもって(多賀谷へ謝意を)仰せ下さり、まさしく過分の極みであると存じ申し上げること、このような趣旨を、先日に山吉孫次郎方へ申し述べたこと、なお、それ以来は申し上げずにいたのは、取り立てて御連絡するべき事柄がなかったからであるとはいえ、(いささか無沙汰をしてたので)敬って申し上げること、この趣を御披露に預かりたいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』903号「謹上 山吉孫次郎殿」宛「多賀谷入道 祥聯」書状写)。


7日、養父である山内上杉光徹(俗名は憲政)が、陸奥国白河の結城七郎義親へ宛てて書状を発し、追って、両使をもって申し届けること、近年は(輝虎と)佐竹(常陸国太田の佐竹義重)との間が疎遠である状況については、やむを得ない事態であること、輝虎と内々に構想した密事を申し越すこと、彼の両使が口上にて伝語すること、いささかも(密事の趣旨に)異心はないこと、まずまず老拙(光徹)が切書を送ったこと、これにより、返札を重ねて輝虎の方からも届けられること、思うがままに弓矢の采配を振るえるための意見を示すこと、御安心してほしいこと、この密事については、しっかりと秘匿するのが適切であること、万が一にも(敵方に露見して)妨害されたのでは元も子もないこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』557号「白川七郎殿」宛上杉「憲政(ママ)」書状写)。


当文書を、『上越市史 上杉氏文書集一』は永禄10年に仮定しているが、やはり同9年に仮定されている3月15日付白川義親宛上杉輝虎書状写(『上越市史 上杉氏文書集一』503号)は、当文書と関連するものであり、輝虎書状の佐竹氏を巡る形勢からして、どちらも当年の発給文書となろう。


9日、盟約の見直しにより、相州北条氏政の次男である国増丸に代わって輝虎の養子となることが決まった三郎(北条氏康の末男)を出迎えに行かせている山吉孫次郎豊守へ宛てて、上野国沼田城から返状を発し、(山吉豊守からの)来書の趣を心得たこと、よって、今日中に三郎を厩橋(上野国群馬郡の厩橋城)に着馬させるのが肝心であること、以下の者(出迎えの人衆)が途中で滞留を余儀なくされる事態に見舞われても、規律を保つべきこと、(道中の)三郎については、常に行動が制限されている状態であるにより、昼夜兼行で大風雨でも構わず、厩橋へ其方(山吉)は供をするべきこと、着城後は間を置かずに(沼田城まで)早馬を走らせて注進に及ぶのが肝心であること、申すまでもないとはいえ、万端の処置を丹後守(北条高広)と相談を尽くすべきこと、自分だけで判断といった勝手をしてはならないこと、これらを謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』904号「山吉孫二郎殿」宛上杉「輝虎」書状写)。


これ以前に、上野国勢多郡赤堀の五目牛陣から沼田城に戻っていた。


13日、関東味方中である広田出雲守直繁(武蔵国衆。武蔵国埼玉郡の羽生城主)へ宛てて返状を発し、昨年以来、様々に(古河公方足利)義氏からの御要望が寄せられていたとはいえ、果たすべき義理も、親しい交誼もなかったので、さしずめ御請けしないでいたこと、そうではあっても、其方兄弟(広田出雲守直繁と木戸伊豆守忠朝)がしきりに嘆願してきたところを、このままでは兄弟が当方に尽くした忠信を蔑ろにしてしまうため、このたび御請けすること、兄弟の忠信は明白であること、そしてまた、愚老にとってもこのたびの(義氏への)芳志は名字中の面目を施すものであり、万事においてこれ以上の機会はこないのではないかと思われること、(広田・木戸兄弟は)ますます忠信を心掛けるのが肝心であること、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』905号「広田出雲守殿」宛上杉輝虎書状写)。


15日、同盟関係にある相州北条氏康(相模守)から、取次の山吉孫次郎豊守へ宛てて書状が発せられ、三郎は路次中滞りなく、去る10日に倉内(沼田城)まで到着したそうであること、翌日には御対面の儀が執り行われ、様々な御厚情を施されたそうであり、まさしく本望満足そのものであること、其方(山吉豊守)が堀口(上野国那波郡)の渡し場まで、出迎えの人衆を率いて御越しになったそうであり、(山吉の)骨折りのほどは、ひとしお祝着であること、何はともあれ使いをもって申し述べること、詳細は遠左(遠山左衛門尉康光)が申し述べること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』906号「山吉孫次郎殿」宛北条「氏康」書状写)。

16日、相州北条側の取次である遠山新四郎康英(氏康の側近。遠山左衛門尉康光の世子。小田原衆)から、山吉孫次郎豊守へ宛てて返状が発せられ、 御実城様(輝虎)から御直書ならびに御腰物(太刀)を下されたこと、謹んで拝領し、まさしく名誉も実益も得るところとなり、面目を果たされたこと、御請けしてすぐに(御礼を)謹んで言上するべきであったとはいえ、その恐れ多きにより、これらの趣の適切な御取り成しを、貴所(山吉)へ頼み申し上げること、従って、御使節として堀玄(輝虎旗本の堀江玄蕃允)が当府に御到着したので、氏康父子は満足そのものに尽きること、(輝虎から示された)条々については、よろしく御返答に及ばれること、委細は堀玄の御口上を頼み申し上げること、これらを恐れ畏んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』907号「山孫 参御宿所」宛「遠山新四郎康英」書状 封紙ウハ書「山孫 参御宿所 自相府 遠山新四郎」)。


18日、越府に帰還した。


19日、相州北条氏康から書状が発せられ、三郎が参府した以後も、こまめに申し入れるべきであったとはいえ、取り立てて報じる事柄がなかったので、時日が経過してしまったこと、当口の様子に異変はないこと、(甲州武田)信玄は、去る16日に人数をかき集め、急速に出張したとの報に接したこと、そうはいっても、境目は今日に至るまで、合戦の様子は見えないこと、武州口においては、(異変があれば)新太郎(藤田氏邦。氏康の四男。武蔵国男衾郡の鉢形城主)がとりもなおさず申し入れること、(甲州武田軍が)豆州口へ攻め入ってくるについては、昼夜を問わず申し届けるつもりであること、いささかも御油断なく後詰めの御仕度が専一であること、とにかく近日中に使いをもって申し入れるつもりであること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』908号「山内殿」宛北条「氏康」書状)。

20日、相州北条氏政(左京大夫)から書状が発せられ、取り急ぎ申し上げること、ただ今酉の刻(午後6時前後)に、駿州興国寺城(駿東郡)からの注進によれば、甲州衆(甲州武田軍)が富士口に出張してきたと、言って寄越したこと、おそらく興国寺か、そうでなければ、豆州口へ攻め入ってくるであろうこと、当方の防備に抜かりはないので、御安心してほしいこと、これまで何度も申し届けているように、信州口への御出勢が専一であること、そのようにしてもらえれば、敵は長陣を敷いていられないこと、なお、敵の今後の展開については、ふたたび申し入れるつもりであること、(事態の急変によって)前触れなく申し上げたこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』909号「山内殿」宛北条「氏政」書状)。

23日、関東味方中である下野国烏山の那須修理大夫資胤(下野国那須郡の烏山城を本拠とする下野国衆)の重臣である佐賀朝清軒(兵部大輔)へ宛てて書状を発し、(那須)資胤からの使いとして、(輝虎が)佐野(下野国唐沢山城)へ進陣した折、(朝清軒は到来すると)越年し、(輝虎が年明けに)五目石(上野国赤堀の五目牛)の地へ移陣したのにまで同行し、資胤の意向に従って精励したのは殊勝であること、そのうえ(烏山に帰城後に)輝虎の意趣をも(資胤へ)申し上げられたのも感心であること、詳細は萩原主膳允が説明すること、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』981号「朝清軒」宛上杉「輝虎」書状写)。


24日、山吉豊守が、東方衆の太田美濃入道道誉(三楽斎。俗名は資正。佐竹氏から常陸国片野城を任されている)・梶原源太政景父子の族臣である三戸駿河守の妻女としょう(道誉の妹)へ宛てて仮名書き消息を発し、このような御な内々(音信)は、(輝虎が)ただいまの世間を、どうであるのかと(疑問を)感じられていても、余方にもいないこと、三らく御ふし(太田道誉・梶原政景)の事は、余人をもって替え難いと思われている、この通り御ないをもって、申しまいらせたこと、さの御ぢん(下野国佐野陣)にて、すこしの儀(行き違いから)をもって、やかたさま(輝虎)が御機嫌を損ねて、(太田父子と)疎遠になってしまわれたこと、(その一方で)ついには、なんぽう(相州北条家)と御ぶじ(無事)を迎えられたゆえにて、くちおしいこと、さりながら、ただいままでも、三らくの忠信を、このままさしすてられるような事は、なげいてもあまりある事であること、そもし(としょう)の御かせぎをもって、三らくが先忠に復し、その口のかせぐ(東方衆の結束を図る)ように、そもじ(としょう)に御たのみとの、思し召しであること、(本来であれば)御直に(太田父子へ)仰せ致すとも、(音信が)御中絶にて、ただいまは、どうであるのかと思われており、まずは身の方(としょう)から説き勧めてほしいとの仰せであること、この返事が寄せられ次第、御直に(太田道誉へ)重ねて御使いを立てられるそうであること、これらを畏んで伝えている。さらに追伸として、それにしても、このように(太田父子を)差し捨てられている状況であるのは、口惜しいこと、是が非でも三らくへの御意見を、そもじにお任せするとの御内々であること、けん太殿(梶原政景)へもそっと申すこと、これは(梶原)まだ御若いので、深く三らくへ御意見し、十分に注意を払うべきこと、つまりはそもじ(としょう)の御手並みにかかっているとも、思われていること、これにより、ひとかき(一書)をもって申しまいられること、けん太殿(梶原政景)と内々に御談合して、三らくに見せてから、詳しい御返事を待ち入りまいらせること、よって、めでたく吉報を得られたあかつきに、あらためて申すべきこと、これらを申し添えている(『上越市史 上杉氏文書集一』910号 山吉「とよ守」書状 端見返しウハ書「御うちかたへ まいる 申給へ より 山よし孫二郎」)。


25日、春日山城中で輝虎と北条三郎の養子縁組ならびに三郎と輝虎の姪の婚儀が執り行われ、三郎は輝虎の初名である景虎を与えられて上杉三郎景虎と名乗る。



この間、敵対関係にある甲州武田信玄(法性院)は、3日、西上野先方衆の和田右兵衛大夫業繁(上野国群馬郡の和田城を本拠とする上野国衆)へ宛てて書状を発し、心月斎(信濃先方衆の望月遠江入道一峯。俗名は信雅。信濃国小県郡の望月城を本拠とする信濃国衆)の所から届いた書状を披読したこと、越国(越後)へは出仕せず、また当方へも通じていないのは、心構えが不誠実であること、よって、輝虎は今なお沼田(上野国利根郡沼田荘)に在陣しているのか、この様子をいかなる計略もって聞き届け、注進に預かりたいこと、なお、戦陣について相談し合うため、攀桂斎(跡部入道祖慶。御譜代家老衆)と春日弾正忠(虎綱。御譜代家老衆。信濃国埴科郡の海津城の城代)を信・上両国の境へ差し越されること、詳細は内藤修理亮(昌秀。譜代家老衆。上野国群馬郡の箕輪城代)と相談するのが適当であること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編三』1531号「和田兵衛大夫殿」宛武田「信玄」書状)。

10日、将軍足利義昭の奉公衆である一色式部少輔藤長へ宛てた条書を使者に託し、条目、一、駿州山西(志太郡域)において、来年から一万疋(百貫文)分の御料所を進献すること、この補足として、当年は累年の通りとして、来年からは、京着一万疋の意趣は、この補足として、彼の口上あるべきこと、一、貴辺(一色藤長)にも駿州で五千疋(五十貫文)分の地を進上すること、一、愚息の四郎(諏訪勝頼。信玄の四男)に官途ならびに御一字を頂戴したいこと、この補足として、一、当家の出頭人から隣国の諸士へ対し、書状を認めるように、上意(足利義昭)の御下知であるとのこと、これについての存分は彼の口上を雇うこと、一、相・越両国が様々に 御前(足利義昭)において申し妨げているそうであり、今後は(相・越からの使者の讒言に惑わされないよう)御分別してほしいこと、以上、これらを申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編三』1535号「一色式部少輔殿」宛武田「信玄」判物)。

同日、西上野郡司の内藤修理亮昌秀へ宛てて条書を発し、覚、一、(前箕輪城の城代)浅利右馬助(信種。永禄12年10月に相模国三増峠で戦死した)の時のように、考え過ぎずに配分の判形を発給するべきこと、この補足として、条々の口上あり、一、岩鼻(上野国群馬郡)の砦を破却するべきか否かについては、つまるところ田畑の耕作の有無によること、この補足として、条々の口上あり、一、玉村郷(同前について、昨年に和兵(和田右兵衛大夫業繁)が書状をもって申し上げてきたこと、三分の一でも四分の一でも耕作して、残らず荒田にさせないように調法するべきこと、一、惣社領内(同前)の地が、井田ならびに百姓の負傷ゆえ、荒田になっていると伝え聞き、実に不適切であり、相論の絶えないところを聞き合わせ、双方共に仲直りさせて、まず耕作を催すのが肝心であること、一、およそ上野西辺については、下知を得ずとも、民百姓が安穏に暮らせるように、秩序ある状態に調えられておくべきこと、一、輝虎は今なお沼田に在陣しているかどうか、このところをつぶさに聞き届けられ、早飛脚をもって注進するべきこと、一、近日中に出馬するのは必定であること、この補足として、上州衆も指図通りの時日に参陣するべきこと、一、在陣留守中に、箕輪(同前)ならびに近辺の差配を手抜かりなく調えておくべきこと、これらの条々を申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編三』1536号 武田家朱印状)。

14日、春日弾正忠虎綱へ宛てて、自筆の書状を発し、輝虎が沼田に在陣しているとはいえ、卜筮に従って出馬するので、信州衆を早々に参陣させるために各地へ飛脚を遣わしたこと、ただし、輝虎が五日のうちに帰国の途に就くのは、確実であること、安心して出馬したいので、当府(甲府)において(輝虎が)沼田から退散した有無を聞き合わせたいこと、その間に上・信両州衆を集め、越山する存分であること、吉原津(駿河国駿東郡)に船橋を掛け、豆州へ向かって手立てに及ぶつもりであること、その心得として自筆を染めたこと、兵糧の不足している時期ではあるも、好機であるにより、とりもなおさず人数を催して罷り立たれるように、(信濃衆を)説き勧められるべきこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている。さらに追伸として、真田源太左衛門尉(実名は信綱。信濃先方衆。上野国岩櫃城代)の所へ懇ろに飛脚を立てて、輝虎退散の実否を聞き届けた注進を待ち入ること、これらを申し添えている(『戦国遺文 武田氏編三』1539号「春日弾正忠殿」宛武田「信玄」書状写)。


※ 当文書の解釈については、鴨川達夫氏の著書である『武田信玄と勝頼 ー文書にみる戦国大名の実像』(岩波新書)の「第四章 信玄・勝頼の歩いた道 ー 信玄自筆の文書」を参考にした。


16日、甲府を立つ。

20日、駿州富士口まで進陣する。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『戦国遺文 武田氏編 第三巻』(東京堂出版)

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