越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

『上越市史 上杉氏文書集』に未収録の長尾景虎関連文書【1】

2023-10-06 01:20:54 | 雑考


【史料1】天文18年12月 日付内之御座敷番帳写(『新編会津風土記 巻之三』一柳新三郎所蔵文書)
      定 内之御座敷 番帳

    一番  菅若大膳亮方  芹前源七郎   北村源五右衛門

    二番  庄小三郎方   四宮新次郎   鳥居万次郎

    三番  中里小六郎方  船見宮内少輔  気柄孫九郎

    四番  寺内新八方   河隅藤七    備後孫七郎

    五番  吉水小太郎方  長谷川弥三郎  飯田藤六

    六番  於木次郎四郎方 高野新九郎   鹿嶋彦九郎

    七番  右京亮殿    玉虫貞三    吉田新七郎

 二日二夜厳重可有勤番者也、仍如件、

     天文十八年極月 日



 この番帳には発給者は記されていないが、番衆に庄・船見・河隅・飯田・玉虫・吉田といった名字を見た途端に長尾・上杉氏関連の文書であろうと思い、謙信期以前にほかにも該当する名字がないかを調べてみたところ、北村・備後・長谷川・於木(小木)・高野・鹿嶋も越後衆のうちに確認ができた。
 長尾・上杉氏関連の文書であると確信を持てたのは「船見宮内少輔」と「鹿嶋彦九郎」の存在であり、前者は謙信期に旗本部将として現れる「船見宮内少輔」(『上越市史 上杉氏文書集』1149号)の前代に当たるのであろうし、後者に至っては、高野山清浄心院に供養依頼者として、番帳とほぼ同時期の天文16年正月12日には「クヒキ(頸城)カシマ彦九郎」、同じく20年8月5日には「春日山カシマ彦九良」と記されており(越後過去名簿)、本人そのものであろうことからである。
 年次は天文18年ということで、時代は越後国守護上杉定実(号玄清)・同守護代長尾景虎期となり、船見と鹿嶋のように同じ通称とまではいかないが、輝虎期から見える旗本衆の河隅三郎左衛門尉忠清・飯田孫右衛門尉長家(『上越』409・1128号)と同姓の者が記されていることからして、景虎の旗本衆も複数いたであろう。

※ 明応6年7月5日の古志長尾氏の役銭注文(『新潟県史 資料編3』841号)における古志衆のうちに「北村八郎右衛門方」・「北村兵衛五郎」、享禄3年11月6日に長尾為景に対抗したが敗れて会津方面へ逃れた一派のうちに「寺内長門守」(『新潟県史 資料編5』3756号)、永禄12年(元亀元年であろう)8月13日(『上越』788号)に外様衆の相論に一方の取次として関与した直江大和守景綱の被官で使者を務めた「寺内方」、建武3年2月に北朝方の色部高長・加地景綱らと戦って西古志郡島崎城を攻め落とされた南朝方のうちに「小木」(『新潟県史 資料編4』1051号)、明応年間頃の蒲原郡之内白河庄・金津保・菅名庄・長井保・青海庄・五十嵐保・加茂庄段銭帳(『新潟県史 資料編 補遺』4450号)に「備後方」・「中里式部丞方」・「中里六郎左衛門尉方」、文明年間後期の長尾・飯沼氏等知行検地帳(『新潟県史 資料編3』777号)に越後国守護代長尾能景被官の「河隅弥十郎」、同じく「玉虫新左衛門尉」、古志郡内の小領主の「玉虫与五郎」(「国衙之帳」(『新潟県史 資料編4』1992号)にも「玉むし与五郎殿」が記されている)、永正15年5月11日に高野山清浄心院に供養依頼がされている「コシ(古志)ノ郡タカナミ(高波)ノ内ニシハラ(西原)ハセ川藤左衛門」(越後過去名簿)、吉田に至っては、上杉定実・長尾為景期の奉行人であった「吉田藤三景親」・「吉田孫左衛門尉景重」(『新潟県史 資料編3』533・534号)をはじめとして枚挙に遑がない。

※ 菅若・芹前・気柄という名字は見当たらないので、誤写の可能性があろう。菅若・気柄については思い浮かばないが、芹前は芹沢あるいは花前が正しいと思われる(『新潟県史 資料編5』3483号、『上越』1229・2096号)。

※ 庄は、長尾景虎旗揚げ時からの重臣である本庄新左衛門尉実乃が初期に庄名字も用いており、栃尾本庄系図(『越後入廣瀬村編年史』)によると、栃尾本庄氏は武蔵七党の有道姓庄氏の流れという。

※ 高野といえば、三浦和田黒川氏の族臣であり(『新潟県史 通史編2』)、のちに上杉景勝に殉じた高野孫兵衛尉茂時(「御家中諸士略系譜」)の「茂」の一字は三浦和田氏の通字の一つであるから、黒川高野一族から主家を離れて守護上杉家の直臣となった者の流れなのかもしれない。高野茂時との関連は分からないが、高野山清浄心院には天文6年4月15日に逆修供養を依頼した「カハノサワ(樺沢)高野又六」が記されている(越後過去名簿)。

※ 船見宮内少輔規泰は、甲州武田晴信の信州奥郡侵攻により、長尾景虎を頼って亡命した信濃衆のうち、須田相模守満国の弟である順渡斎(俗名は満泰と伝わる)の息子で、時期は不明であるが、須田氏が越後国に移ったされる天文22年以降に先代の船見宮内少輔が死去すると、その幼若の男子が長じるまでの間、規泰が宮内少輔の娘を娶わせられて婿名跡となり、船見宮内少輔規泰を名乗ることになったという(「須田拓也氏所蔵須田氏系図」●『謙信公御書集』も実名を規泰としている)。船見規泰は元亀4年4月に旗本部将として見えるのが初見であり、元亀3年の謙信による越中国富山表での加賀・越中両国一向一揆との決戦に従軍したことが分かる。遅くとも上杉景勝期の天正8年4月までには須田相模守満親として須田本家を継いでいる(『上越』1941号)。しかし気になるのは、天正3年上杉家軍役帳と同5年越後・分国衆交名注文では船見氏は名字しか載らず(『上越』1246・1247・1369号)、天正4年の謙信による北陸遠征では船見衆を陣代が率いていることである(『上越』1315号)。考えるに、天正2年中に須田本家は当主に後継の男子がいないままで死去したかで、規泰が須田本家を継ぐところとなったが、先代船見宮内少輔の遺児はまだ元服する年齢には達しておらず、船見氏は陣代を立てたような時期だったのかもしれない。



 ところで、【史料1】の番帳は「内之御座敷」の番衆を定めたものであり、この「内之御座敷」とは奥座敷を意味すると思われるので、貴人の生活空間に当たるのであろう。そうなると、守護上杉定実(号玄清)あるいは守護代長尾景虎が起居する部屋の宿直を定めたものとなるのだろうが、越後国の新たな実力者である長尾景虎のために常設の番衆を編成したというよりは、何か臨時の対応に感じられる。
 なぜなら、番衆七番の組頭である「右京亮殿」は、各組頭の敬称が「方」であるのに対し、一人だけそれが「殿」であることと、名字が記されていないことからして、この人物は長尾氏であり、官途名が一致している古志長尾右京亮景信に当たると思われるのだが、その古志長尾氏の当主が常設の番衆を務めるとは考え難く、守護代の宿直を務めるほどには、屋形のそれを務めることには違和感がないためである。
 古志長尾氏の当主である長尾景信が宿直を務めるなどとは、いささか奇妙に思われるかもしれないが、のちに関白近衛前久(前嗣)が景虎の関東経略を支援するために自ら関東へ下向したなかで、下総国古河在城の折に景信が随伴していることからしても(『栃木県史 資料編』132・565号)、この時は宿直を務めたわけではないであろうが、景虎に近しく信頼の置ける景信は、早くから貴人警固にうってつけの人物であったろう。

 そこで気になったのが、次に掲げた文書である。
 

【史料2】天文18年11月15日付上野源六宛大熊備前守朝秀書状(『上越』26号)
今度 屋形様其口御通、千田・犬伏同前、其刷可被成由申入候処、御奏者之方尋御申候処、無用由被申之段、被仰越候間、庄新申理候処、努々さ様之義申たる義無之由、以誓詞被申事候、於此義善悪不被成候叶義候、軍役同前之義候間、急度御調尤存候、於御難渋、何ヶ度可申入候、為其重申入候、恐々謹言、
             大備
    十一月十五日     朝秀(花押)
    上源
      御宿所


 【史料2】は、景虎政権の奉行衆の一人である大熊備前守朝秀が、上杉家の譜代家臣で越後国魚沼郡波多岐荘上野の領主である上野源六家成へ宛てた書状で、【史料1】の前月に発したものとなる。
 この書状によると、先だって守護上杉定実が魚沼郡妻有地域の千田・犬伏、そして上野の地を経由して、どこかへ下向することが決まり、定実に近い大熊朝秀を通じて経路に当たる領主たちへ屋形一行の馳走を申し付けたところ、そのうちの上野家成からは応答がなかったとみえ、大熊が上野へ再通告を発すると、上野は最初の通告を受けてから、やはり奉行衆の一人で上野にとっては景虎との間の奏者で縁戚でもある本庄新左衛門尉実乃に事実確認をしており、本庄実乃から必要なしとの回答を得ているとして、大熊に再通告に対して疑問を呈したことから、驚いた大熊は本庄に問い質すと、本庄は誓詞をもって上野に無用であることを伝えた事実はないと否定したので、大熊は上野へ再々通告を送り、本庄の否認を伝えるとともに、改めて屋形一行の馳走を強く申し付けていることが分かる。
 大熊が上野に対して屋形一行の馳走を「軍役同前」に務めることを指示しているからには、定実が出府するは戦陣ではなく、年末にどこかで長逗留する予定になっていたわけであり、どうも景虎側は定実の下向をあまり望ましくは思っていなかったようにも見えるが、そうと決まって定実の滞在先における番衆を定めたものこそ、【史料1】の番帳ではないだろうか。

 ではなぜ戦陣でもないのに屋形上杉定実が越府を離れたのかといえば、天文18年夏に定実は、相州北条軍の攻勢にさらされている関東管領山内上杉憲政(憲当)から支援を求められ、定実はこの要請に応じて関東へ出馬することに乗り気であったところ(『上越』19号)、前年の守護代長尾晴景・景虎の兄弟抗争において晴景を支持した上田長尾房長・政景父子が、定実の仲介によって景虎が新守護代となることで決着した(『上越』10~12号)のちも、景虎との講和に応じておきながら、講和条件の履行をのらりくらりと先延ばしにして、晴景・景虎兄弟抗争で景虎を支持した魚沼郡堀内地域などの勢力に圧力を加えていたこともあり(『上越』17~20・51号)、定実・景虎が初秋に挙行するつもりでいた関東出馬(『上越』19・82号)を実行に移せなかったようなので、定実は湯治でも兼ねて自ら魚沼郡に赴いて上田長尾父子の懐柔に乗り出したのかもしれないし、天文17年9月に伊達家の親子間の抗争が一応の決着がつき、親の稙宗が退いて子の晴宗に変わったので、十年ほど停滞していた定実が伊達実元を跡継ぎに迎える一件を進展させるため、自ら行動に出たのかもしれない。
 いずれにしても、その後の状況は好転するどころか、一向に上田方が守護代方との講和条件を履行する気配はなく、年末から年明けにかけて、魚沼郡堀内地域の領主の一人である宇佐美駿河守定満が、多功小三郎遺領問題における守護代方の対応への不満からか、上田方へ転じてしまう有様で(『上越市史』42・44・45・96・100号)、ついには実元を越府に迎えることが叶わなかった定実が天文19年2月19日に死去してしまい(「高野山清浄心院 越後過去名簿」)、この腹いせからなのか、翌20年中には伊達と揚北衆の中条弥三郎が申し合わせて、中条の同族で迎養の反対派であった黒川四郎次郎を攻撃している(『上越』83号)。



※ 『上越』51・96・100号の宇佐美定満書状は、天文18年6月に発給された17号の宇佐美定満書状・18号の本庄実乃書状との比較によって、いずれも天文18年に比定できることから、前年の長尾晴景と景虎の兄弟抗争では、小千谷の平子・堀内地域の宇佐美・多功らは景虎に味方したことが分かり、このうち、景虎方の優勢に貢献したであろう平子孫太郎は、景虎一味に宇佐美が誘った多功小三郎は戦死したことから、かつて天文の乱で没収された旧領である多功遺領の押生・田河入の地の回復を求め、これを新守護代の景虎が承認したので、宇佐美は多功遺族のために、景虎と平子に撤回を求め続けるも、全く聞き入れてもらえず、宇佐美は上田長尾氏から圧力を受けていたこともあってか、天文18年暮れから翌19年明けの間に上田方へと転じてしまう。しかし、守護代方が多功遺領問題の解決策を示して帰参を促すようなことでもしたからなのか、もともと上田方に不信感を抱えていた宇佐美は天文20年が明けてから守護代方に復した。という流れになる。



◆『謙信公御書集
東京大学文学部蔵』(臨川書店)
◆ 米澤温故会編『上杉家御年譜 第23巻  上杉氏系図 外姻譜略 御家中諸士略系譜(1)』(原書房)
◆ 新潟県『新潟県史資料編3 中世一 文書編Ⅰ』533号 少林斎顕厳・吉田景親連署段銭預り状、534号 吉田景重書状、777号 長尾・飯沼等知行検地帳、841号 大関政憲外三名連署役銭注文
◆ 新潟県『新潟県史資料編4 中世二 文書編Ⅱ』1051号 色部高長軍忠状案、1992号 国衙之帳
◆ 新潟県『新潟県史資料編5 中世三 文書編Ⅲ』3483号 長尾為景感状、3756号 長尾為景書状写、
◆ 新潟県『新潟県史研究 19』新潟県史 資料編 補遺 4450号 蒲原郡白河庄等段銭帳
◆ 瀧澤健三郎『越後入廣瀬村編年史 中世編』(野島出版)
◆ 上越市史編纂委員会編『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)10号 長尾景虎書状写、11号 本庄実乃書状写、12号 下条茂勝書状、17号 宇佐美定満書状写、18~20号 本庄実乃書状写、42・44・45号 長尾政景書状写、51号 宇佐美定満書状写、83号 黒川実氏(ママ)書状案、96・100号 宇佐美定満書状写、409号 某能信・飯田長家・河隅忠清・五十嵐盛惟連署状、778号 新発田忠敦書状案、1128号 直江大和守景綱・飯田孫右衛門尉長家・河隅三郎左衛門尉忠清連署状、1246・1247号 上杉家軍役帳、1315号 直江景綱等六名連署起請文写、1369号 上杉家家中名字尽手本
◆ 上越市史編纂委員会編『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』(上越市)1941号 上杉景勝制札、2096号 上杉景勝判物写
◆ 栃木県史編纂委員会編『栃木県史 史料編 中世1』(栃木県)【安足地区 足利市 鑁阿寺文書】132号 智(ママ)信書状、565号 景信副状
◆『新潟県立歴史博物館研究紀要 第9号』【史料紹介】山本隆志 高野山清浄心院「越後過去名簿」(写本)
◆ 志村平治著『信濃須田一族 須田相模守満親 信濃に発祥した須田一族、上杉謙信・景勝二代に仕え、豊臣秀吉が認めた須田満親』(歴史研究会出版局)

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天正元年秋に謙信が挙行した北陸遠征と「東方一変」

2023-06-23 20:11:57 | 雑考


【史料1】元亀3年8月4日付河田伯耆守宛上杉謙信書状写(歴代古案巻一所収文書 ◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』1113号 以下は『上越』と略す)
野馬差越候、一段之馬ニ而見事候、仍自賀州番手之者共、相重(ママ)廿九・晦日両日出備候故「処」、初源五方数多籠候置候条、手負無際限候、仕出足と「を」違候時分、豊前守懸着候故、敵崩備引入候処、撃押付数十人討捕故、敵退散之由申候、内々可出馬支度申候得共、静候間、我々(等ヵ)義(儀)、仕置計申付、越山候 「之念」願迄候、兎角明後吉日候間、蔵田所迄門出申候、無心元思間敷候、東方三楽稼故、弥相調候、可心易候、万吉重謹言、


    八月四日       謙信
     河田伯耆守殿


 【史料1】は、諸史料集では元亀3年の発給文書とされている。
 それは、同年6月に入るか入らないかの頃に、甲州武田信玄・越中国増山の神保総三郎長国・同金山(松倉)の椎名右衛門大夫康胤と連帯する加賀国一向一揆が、北陸に謙信を引き出して釘付けにするために越中国砺波郡の河上五位庄へ進出して越中国一向一揆と合流し(『上越市史 別編Ⅰ 上杉氏文書集一』1100〜1102・1105号)、神通川以西の越中国味方中や駐在の越後衆が拠る城砦に襲いかかり(『上越』1107号)、6月中旬には神保旧臣衆(上杉陣営から離脱した主家には従わなかった神保氏の重臣たち)が拠る婦負郡の火宮城を攻め立て、神通川以東に駐在の越後衆が火宮城救援のために越河して五福山に布陣すると、大挙して押し寄せて打ち破り(『上越』1108〜1111号)、ついには越河して上杉陣営の防衛線を突破し、新川郡の富山城に入ったので(遅くとも7月には入城したであろう)、ようやく8月に入って北陸出馬の態勢を整えた謙信は、総力を挙げて越中国富山城に攻めかかり、遅くとも8月10日には越中国に入っているのは確かであるから(『上越』1114号)、この日付と関連付けて謙信が吉日の8月6日に越中国へ出馬したと考えられて、元亀3年に比定されたのであろう。
 しかし、【史料1】の内容は、天正元年8月に入って越府の謙信の許に、去る7月29日と晦日の両日、越中国駐在の越後衆が拠る富山城の向城に対し、加賀国一向一揆の番手衆が富山城から出撃してきたが、越後国上杉家の客将である村上源五国清をはじめとする数多の越後衆が迎え撃ち、敵は数えきれないほどの負傷者を出し、出足を挫かれたところに、越後国上杉家の越中国代官である河田豊前守長親(越中国松倉城に拠る)の率いる軍勢が駆け付け、敵が陣備えを乱して引き下がったところを追撃して数十人を討ち取ったので、敵は逃げ去ったという報告が寄せられると、謙信は8月4日に、見事な野馬を贈ってくれた上野国沼田城の城将である河田伯耆守重親(河田長親の叔父)へ宛てて返書を発し、賀州番手衆の攻撃を退けた越中国在陣の越後衆と越中国松倉城に駐在する河田長親の軍勢の働きにより、富山表が平穏になったので、内々に北陸へ出馬する準備をしていたが、自分(謙信)は代官の河田たちに越中国東郡を統治するための方策を申し付けるだけに留め、ひたすら待望していた越山を遂げるのみであり、何はともあれ明後6日は吉日なので、門出として蔵田の所(越府代官の蔵田五郎左衛門尉の役所か)へと移るつもりであり、心配しないでほしいことと、「東方」は太田三楽斎道誉の尽力により、いよいよ態勢が整ったので、安心してほしいことを伝えたものである。
 このように、謙信の行く先は北陸ではなくて関東であるし、越後衆と戦ったのは賀州衆の「番手之者共」であるし、「東方」(東・北関東)が太田「三楽」(美濃入道道誉。俗名は資正)の尽力によって整ったというのは、後述の【史料4・5】における「東方」の形勢が「一変」した事態を指すものであろうから、【史料1】の発給年次は天正元年となろう。


【史料2】(元亀2年ヵ)8月8日付太田美濃守宛上杉謙信書状(個人所蔵文書 ◆『上越』1059号)
急度令馳筆候、去比以両使其表之諸士申届候処、案之外其方不先忠、懇比之心懸、且感入、且先年侫人之表裏故、成物遠行、如此馳走、失面目候、此上之儀、菟角弥其近辺不及申、房州迄之可被取縄(ママ)義(儀)、千言万句候、可越山以心持、諸軍悉集置候、可心易候、路次不自由之間、早々啓候、恐々謹言、
    八月八日       謙信判
     太田美濃守殿


【史料3】(元亀2年ヵ)8月8日付三戸駿河守室宛上杉謙信書状(個人所蔵文書 ◆『上越』1060号)
いせん山よしまこ二郎ところより申こすところに、そもしちそうをもつて、三らくふし申わけられ候ゆへ、いかにもきゝとゝけ、せんちうをうしなす、へんたうまことに/\申つくしかたく候、しかしなから、せんねんねい人のさまたけをもつて、物とおになり行、たゝいまちそう、めんほくをしつし候、なを/\三らくねんを入、ゑつさん候ハヽ、さう/\そのくちとゝのいて、あわせも候やう、ばうせうまてのかせぎひつきやう三らくまへにこれあるへく候、このよしよく/\つたへ候て給へく候、いせんりやうしに申こす事共、すこしもあいちがうましく候、心やすかるへく候、めてたく候、ゑつさんのしふん申まいらせ候へく候、かしく、
    八月八日        けん信(花押a)
      三と
        うちへ


 【史料2・3】はどちらも元亀2年に仮定されているが、当時は越・相同盟によって断交していた謙信と太田道誉の間が関係改善したのであれば、それは越・相同盟の破談後であろうし、同日付の【史料4】とは、謙信が近いうちに関東へ出馬するつもりであること、すでに軍勢を悉く越府に集め置いていること、東方衆との関係改善がなったことなどが一致しているので、【史料2・3】の発給年次も天正元年となろう。
 天正元年8月に入るか入らない頃、越府の謙信の許に、関係改善が進んでいた「東方之衆」の重要人物であり、常州太田の佐竹氏の客将である太田道誉から書状が届いて通交が再開したので、謙信は8月8日に道誉へ宛てて返書を発し、去る頃に両使をもって、その表(東方)の諸士へ申し届けたところ、意外にも其方(道誉)は先忠を忘れておらず、懇ろな心掛けに、一方では、感じ入っており、一方では、先年に佞人の妨げによって疎遠となり、このような奔走をしなければならず、面目を失して悔しい思いをしていること、ここまで来たからには、何はともあれいよいよ近辺の諸士はもとより、房総の諸士も取りまとめてもらいたく、言葉を費やして頼み入ること、越山する心づもりであり、すでに軍勢を悉く手元に集め置いているので、安心してほしいこと、「路次不自由」であるため、早々に申し送ったこと、これらを取り急ぎ伝えたものである。
 謙信は同時に、太田道誉の妹であり、太田氏の族臣である三戸駿河守の妻「としょう」へ宛てても書状を発し、以前に山吉孫次郎豊守(謙信の最側近)の方から申し越したところ、其文字(としょう)の馳走をもって、三楽父子(太田道誉・梶原政景)へ道理を説いてくれたので、確かに聞き届けた父子から、先忠を忘れずに返答が届き、誠にもって言い尽くせないほどに感謝していること、しかしながら、先年に佞人の妨げによって、父子とは疎遠となってしまい、今こうして関係改善のために奔走をしなければならないのは、面目を失して悔しい思いであること、三楽へ殊更念入りに伝えるところは、謙信が越山するからには、早々にそちら(東方)の諸士を取りまとめて、合わせるようにして房総の諸士に至るまで結集させてもらいたく、つまりは道誉の手腕に懸かっていること、このところを道誉へしっかりと申し伝えてもらいたいこと、以前にこちらから両使をもって申し越した存念にいささかも相違はないので、安心してほしいこと、めでたいこと、越山する時分にまた申し参らせること、これらを懇ろに伝えたものである。


【史料4】天正元年8月8日付菅原左衛門佐宛上杉謙信書状写(謙信公御書一所収文書 ◆『上越』1169号)
就越山之義(儀)、重被申越条「透」、誠々無余義(儀)共可申様無之候、抑其方両人忠信第一可畏義(儀)勿論候、但後人為忠信ニも亦信・甲之取乱云、殊東方一変之上、可然時節争可弓(油)断候哉、爰元人数集置候処、佐藤筑前守菅左被越候使見届候間、可心易候、越山之内家中付力堅固備被申候付可被相待候、猶筑前守目出重恐々謹言、
    八月八日       謙信御居判
     菅原左衛門佐殿


 やはり天正元年8月に入るか入らないかの頃に、関東味方中の菅原左衛門佐為繁(武蔵国羽生城に叔父の木戸伊豆守忠朝と共に拠る)から、謙信の関東出馬を求めるための使者が到来したので、謙信は8月8日に菅原為繁へ宛てて返書を発し、越山の件については、繰り返し申し越された通り、誠にもって、未だに果たせないでいる状況を仕方がないと言って済ませるつもりはないこと、菅原・木戸両人の忠信は味方中第一であり、感謝しているのは勿論であろうこと、ただしそれだけでなく、後の人の忠信のためにも、信・甲両国の取り乱しといい、取り分け「東方」の形勢が一変したからには、この到来した時節をどうしてなおざりにするであろうか、という思いであり、すでに自分の手元に出馬のために人数を集め置いているのは、佐藤筑前守と菅原の寄越した使者が見聞しているので、安心してほしいこと、越山するまでの間は、家中を勇気づけて防備を固めて待っていてもらいたいこと、これらを懇ろに伝えたものである。


【史料5】天正元年8月18日付河田伯耆守宛上杉謙信書状(維宝堂古文書 ◆『上越』1170号)
態為音信珎敷具足到来祝着候、仍為越山候間、越中堅固可申付ため半途出馬候、賀州之者共断労兵故、梱望之様候間、半途立馬、彼口手堅一際可付事輙候間、可心安候、上口未落居候て、越山候得、其表張陣不叶、越中捨事候条、留守中手堅申付、心安為可張陣如此候、扨亦弥五郎申越分、氏政向羽生出張之由申越候、弥五郎越候飛脚、南衆出張之儀不知由申候、吾分兎角不申越候、如何実儀候哉、無心元候、東方属一変候上、近日越山前候間、家中付力堅固可防戦由、細々以飛脚羽生可申越候、又帰馬之内、何方之飛脚其地留、此方不越、続飛脚にて可申候、万吉帰陣之上可申候、謹言、
  追、織部子之事、色々申候共、陣召連、可添もの無之候間、帰
  陣之上と申候、身之帰陣申候、無理取可越候、其時追可越候、以
  上、
    八月十八日      謙信(花押a)
         河田伯耆守殿


 結局は関東ではなくて北陸へ出馬した謙信は8月18日に、珍しい具足を贈ってくれた上野国沼田城将の河田重親へ宛てて返書を発し、越山するためには、越中国の防備を整えておかなくてはならず、方策を在陣衆へ申し付けるために半途(越中・越後国境)まで進陣したところ、労兵の賀州衆が停戦を懇願してきたので、半途に陣所を設けて対応しており、富山方面を一段と安定させるのは容易なので、安心してほしいこと、北陸が落着しないうちに、越山してしまっては、上野国に張陣し続けてはいられず、越中国も手放すことになり、留守中の防備の方策を在陣衆に申し付けて、安心して張陣するために、このような行く先の変更をしたわけであること、関東代官の北条弥五郎景広(上野国厩橋城代)からの報告によると、相州北条氏政が羽生に攻め寄せてきたそうであるが、北条景広の寄越した飛脚は「南衆(相州北条軍)出張」の事実を知らないと申しており、吾分(河田重親)もともすれば申し越してこないので、実態はどうなっているのか、気を揉んでいること、東方の形勢も一変したからには、近々越山の機会が訪れるので、家中を勇気づけて堅固に防戦するように、羽生へ飛脚を遣わして、念入りに申し伝えるべきこと、帰府してからは、どこからの飛脚であっても沼田にそのまま留めて、こちらへは寄越さず、続飛脚にて申し越すべきことなどを伝えた。

 このように謙信は天正元年7月から8月にかけての頃、今なお越中国富山城に拠っている加賀国一向一揆を打倒するために、越中国へ出馬する準備を進めていたところ、富山城の向城に配備した越後衆ならびに松倉城に駐在する河田長親の軍勢が賀州衆を迎撃して勝利し、富山城に逃げ帰った賀州衆は鳴りを潜め、富山表が平穏になったので、8月6日の吉日を期して関東へ出馬することを表明していたにもかかわらず、実際に出馬した場所は北陸であったわけだが、出府した日にちは、8月8日に太田道誉や菅原為繁へ宛てて書状を発していることからすると、それ以降である可能性もあろう。
 それから、謙信は8月18日付の返書で沼田の河田重親に対し、自身は越中・越後国境に居ながらにして、賀州衆との講和は容易くまとまるであろうから、近いうちに関東へ出馬するというような感じの説明をしているわけだが、実際のところ謙信は、越中国に駐留させている越後衆が賀州衆に攻められようが攻められまいが、関東に余程の凶事が起こらない限りは、当初の予定通りに越中国へ向かうつもりでいたのだろうし、すでに8月18日には、両越国境どころか、富山表まで行ってしまったのだろう。

 そして富山表に現れた謙信は遅くとも9月半ばまでに富山城を攻略して富山一帯を掌握したが、9月半ばには富山城から逃げた賀州衆の残党が蜂起したので、軍勢を繰り出し、数度にわたって追い崩し、逃げ込んだ先の安養寺(砺波郡の安養寺御坊ではなく、富山近郊の安養寺)に押し入って止めを刺すと、富山一帯に敵の姿は一騎一人も見えなくなった。そこで18日には、神通川を渡って婦負郡へ進み、加賀国から送り込まれた本願寺門徒衆と越中国増山の神保長国の家中衆が拠る滝山城に攻めかかったところ、越後衆が奮闘して二日間で諸曲輪を打ち破り、残るは実城ばかりの裸城としたなか、外張際で本願寺門徒衆を捕縛し、つい先日には神保衆の水越某(昨年までは上杉陣営に属していた水越孫次郎職勝か)が河田長親の役所に投降してきたので、身命ばかりは助けてやると、城内を全て焼き払い、23日に破却を終えている(『上越』1124号)。
 10月19日に越中国代官の河田豊前守長親と旗本部将の村田忠右衛門尉秀頼(越中国津毛城将か)のそれぞれに、富山領の太田下郷と同上郷の料所代官を申し付けている(『上越』1175・1176号)、ことからすると、この頃まで謙信は新領を差配していた可能性があり、帰府したのはこれ以後であるかもしれない。

 謙信が越中国へ出馬するための準備を内々に進めていたなか、外交面でもやはり7月から8月にかけての頃に動きがあった。
 まず、三(遠)徳川家康からの
使者が使者が参り、なおいっそう交誼を深めることを求められたので、8月朔日に、お互いに申し合わせていく条項についての誓詞を取り交わすことを提案する返書を発した(『上越』1054〜1056号 ◆ 謙信と徳川家康の通交における徳川側の取次・松平左近允の人物比定 - 越後長尾・上杉氏雑考)。
 次いで、越・相同盟が破談となってしばらく経った元亀3年3月から同年4月にかけての頃に、関係改善のための交渉を始めた「房州・東方」(『上越』1094号)のうち、後者の重要人物である太田道誉から返答が寄せられ、「東方之衆」と連帯を再開して相州北条陣営と対抗していくところとなり、越中国へ向けて進軍中あるいは出府する間際の8月8日に、「東方之衆」の取りまとめに奔走してくれた道誉や、相州北条陣営の攻勢を受けている関東味方中の羽生衆に対して返書【史料2~4】を発し、道誉には、近いうちに越山するつもりなので、東方の諸士の更なる取りまとめと合わせて房州の諸士の取りまとめを頼み、羽生衆には、東方の形勢が一変したので、時節を捉えて越山するのは間近であるから、安心するように伝えたわけである。
 ここにようやく謙信は「東方一変」と表する東方の諸士との関係改善を遂げたことになる。


※『上越』1124号は、諸史料集では元亀3年に比定されているが、井上鋭夫『一向一揆の研究』(吉川弘文館)では天正元年に推定されているそうである(『富山県史 資料編Ⅱ 中世』1788号〔注〕)。元亀3年8月から翌天正元年4月まで謙信率いる上杉軍は賀・越一向一揆が拠る富山城と対峙し続けていて、元亀3年9月中に、1124号に記されているような、この表(富山)を存分のままに申し付けたり、神通川を越えて滝山城を攻め落としたりする状況にはなかったはずなので、天正元年に比定するのが妥当であろう。

※ 天正元年3月5日に謙信が、奥州会津の蘆名家の使僧で、謙信とは親しい間柄である游足庵淳相へ宛てて発した書状(『上越』1139号)には、太田道誉の働き掛けで「(佐竹)義重・(蘆名)盛氏一和」が進んでいたことや、「東方之衆」が相州北条氏政の軍勢を迎え撃って退けたことが示されているが、この時点ではまだ謙信と「東方之衆」の連帯の再開にまでは至っていなかったであろう。


◆ 上越市史編纂委員会編『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)1054・1055号 上杉謙信書状写、1056号 上杉謙信書状、1057号 上杉謙信書状写、1100号 神保覚広等四名連署状、1101号 鰺坂長実書状、1102号 長尾景直・鰺坂長実連署状写、1105号 上杉謙信願文、1107号 寺崎盛永・毛利秀広連署状、1108号 山本寺定長書状、1109号 鰺坂長実書状、1110・1111号 直江景綱書状、1114・1124号 上杉謙信書状、1139号 上杉謙信書状、1175・1176号 上杉謙信判物写
◆『富山県史 史料集Ⅱ 中世』(富山県)1788号 元亀3年9月24日付平加賀守宛上杉謙信書状

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『上越市史 上杉氏文書集』に未収録の謙信関連文書【18】

2023-06-13 23:58:51 | 雑考


【史料】年次未詳12月26日付太田新六郎宛佐竹義重書状写(神保誠家文書)
如来意、去頃氏政其口へ調義(儀)之由、無心元候処、別無子細之段、其聞簡用(要)至極候、如此露紙面候、越衆出張其口可為後詰之由、令校量候、従当方通路不自由之間、相互不及通信候、爰元手成従中務太輔所可申越候、恐々謹言、
   極月廿六日        義重(花押)
    太田新六郎殿


 またしてもすっかり忘れていたが、
『上越市史 上杉氏文書集』に未収録の謙信関連文書【16】 - 越後長尾・上杉氏雑考で取り上げなければならなかった文書であり、常州太田の佐竹次郎義重が、房州里見家の客将である太田新六郎康資へ宛てた返書となる。こちらでは佐竹東家の佐竹中務大輔義久が佐竹側の取次を務めている。
 去る頃に相州北条氏政が上総国に攻め寄せてきたというので、心配していたところ、取り立てて別条はないと聞いて、それが最も肝心であること、越後衆が関東へ出張してきたのも、そちらへの後詰めのためであるのは、まず間違いないであろうこと、当方側の通路が遮断されているので、越後衆とは交信できないでいることなどを伝えており、これらは、天正3年10月9日付太田新六郎宛北条下総守高定書状(『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』1270号)の「(里見)義弘・氏政御対陣」「其国之為後詰被遂御越山」、同年11月7日付山内(越後国)上杉家宛佐竹義重書状(同前1230号)の「今度(御を欠いている)越山之由」「通路断絶」などと一致する状況であるから、発給年次は天正3年となり、12月24日付けで正木大膳亮憲時と太田新六郎康資のそれぞれへ宛てた佐竹北家の佐竹左衛門督入道賢哲(俗名は義斯)書状(『勝浦市史 資料編 中世』198・199号)と同時期に送ったものであろう。

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『上越市史 上杉氏文書集』に未収録の謙信関連文書【17】

2023-06-12 23:41:13 | 雑考


【史料1】年次未詳7月25日付太田新六郎宛上杉謙信書状写(神保誠家文書)
凌遠境入心細々飛脚到来、祝着候、仍義弘正木間之儀、使僧遣候、其表可為不知案内之条、可然様指南任入候、猶委細彼使僧可有口上候、恐々謹言、
   七月廿五日       謙信(花押)
          太田新六郎殿


【史料2】年次未詳7月25日付太田美濃守宛上杉謙信書状写(太田文書 ◆『上越市 史別編Ⅰ 上杉氏文書集一』1443号  以下は『上越』と略す)
以別紙申候、任意見、義弘・大かた及使僧候、其元ニ而、能々被申含、被差越頼入候、路次中之義、被添詞任入候、恐々謹言、
   七月廿五日      謙信御同判
     太田美濃守殿


 【史料1】は、在府中の謙信が、房州里見家の客将である太田新六郎康資から、当主の里見義弘(上総国佐貫城に拠る)とその家宰である小田喜正木大膳亮憲時(同国小田喜城主)の仲が悪いとの知らせを受け、両者の間を取り持つために使僧を遣わしたもので、
『上越市史 上杉氏文書集』に未収録の謙信関連文書【16】 - 越後長尾・上杉氏雑考でも触れたように、太田康資は小田喜城の正木憲時の許で里見家の外交に携わっているわけであるから、正木側が主君との関係改善に動き、謙信へ事情を伝えて仲裁を頼んだことになろう。
 【史料2】は、謙信が、常州太田の佐竹氏の客将である太田三楽斎道誉から寄せられた意見に従い、義弘とその妻女の許へ使僧を遣わしたもので、【史料1】と同日付であるから、両書は同時期に発せられたものとなり、里見主従間の不和の仲裁を請け負った謙信が道誉の意見に従い、使僧を里見夫妻の許へ向かわせたことになる。
 謙信が道誉の意見を踏まえたうえで使僧を上総国佐貫城へ向かわせたということは、まず康資が道誉に相談してから、両人でもって謙信に仲裁を頼んだのか、まず康資が謙信に仲裁を頼んだところ、謙信が道誉に相談を持ち掛けたのか、どちらかになるのだろう。
 『勝浦市史 資料編 中世』は【史料1】の発給年次を、越後国上杉家と房州里見家の通交が復活したのちの天正3~5年としている。
 そうなると、越・房の通交が再開したのは、天正3年8月から同年9月にかけての頃であるから、発給年次は同4・5年のどちらかになるのであろうし、謙信が里見主従の間を取り持つために、太田道誉と意見交換をして、義弘夫妻の許へ使僧を派遣するところとなり、道誉に対して使僧が滞りなく上総国佐貫城へ向かえるように配慮を頼むことが可能であった時期となろうから、両年の里見家と太田美濃入道道誉・梶原源太政景父子の状況を追ってみる。
 里見家は、天正4年9月から北条軍の攻勢が強まって、そこからは通路の断絶により、上杉家と連絡を取るのに苦労するなかで、天正5年正月末には、正木憲時が上杉家の関東代官である北条安芸守高広・同丹後守景広父子に対し、当春の謙信御越山が難儀な状況であるとしても、父子とは年来の格別な間柄であり、何とか謙信御越山の実現に尽力してもらいたく、もしどうにもならない場合は、当春夏の間に必ず謙信の出馬があるかのように、その方面で振舞ってもらえれば、風聞に接した北条氏政は当表への戦陣を見合わせるであろうことや、2月末には里見義弘が上杉家年寄衆を通じて謙信に対し、加賀・越中・能登まで本意を遂げられたと伝わってきており、旧冬に氏政が上総国東西を攻め回った挙句、有木の地利を取り立て、土気・東金の両酒井も北条方に転じてしまったので、当春に謙信が御越山して氏政を引き付けてもらえれば、有木と両酒井を押し詰め、本意を遂げたいことなどを、どうにか伝えようとしていた(『上越』1322・1323号)。
 北陸遠征中の謙信が春夏に越山してくることはなく、北陸経略が大詰めを迎えていて、いったん夏に帰府しても(この時に体調を崩してはいた)、秋には越山してくるどころか、また北陸へ向かったので、北条軍の上総国での攻勢は止まらず、9月末に房州海賊衆が敗れて佐貫浜に上陸を許し(『戦国遺文 後北条氏編』4025号)、ついに里見義弘は天正5年冬(11
月15日以前)に抵抗を諦めて北条氏政と講和を結んでしまった(『戦国遺文 後北条氏編』4476号、『戦国遺文 房総編』1626・1627号)。
 太田道誉・梶原政景父子は、天正3年12月に下野国小山の小山弾正大弼秀綱(号孝山)が相州北条軍に敗れて没落したのち、翌4年に入って佐竹軍が小山領内の榎本城を奪取すると、佐竹氏から城主を任された。そこは小山氏の本拠であった祇園城を奪還するための拠点とはいえ、周囲は敵だらけであり、幾度となく北条陣営が攻め寄せてきたであろうが、当時の文書からはあまり情報は得られない。
 確かなのは常州
下妻の多賀谷氏の攻撃を受けており、これには多賀谷氏にとっては格上の同盟者である総州結城の結城氏も主力として榎本城攻めに参加したと思われる(『小山市史 史料編 中世』833号)。時期としては、結城氏は天正5年5月から6月にかけての頃に北条陣営から上杉陣営に転じているので、それ以前であろう。
 同年5・6月には謙信の関東出馬があり、由良氏の上野国新田・桐生・赤石領と足利長尾氏の上野国館林・下野国足利領を荒らし回って損害を与えたこともあり(『上越』1290号)、北条方の榎本城攻略はなかなか達せず、翌5年2月に北条氏政は、兄弟衆の北条陸奥守氏照に小山城の強化に当たらせるとともに、由良父子による赤石領の伊勢前城の強化を支援したので、一気に窮迫した太田・梶原父子は越府へ脚力や使者・使僧を派遣して、繰り返し謙信へ越山を求めたが(『上越』1331号)、通路の断絶により、なかなか連絡がつかなかったうえに、北陸経略が大詰めを迎えていた謙信は、この年の関東出馬を断念していたようで、いったん北陸から帰府しても越山はしなかった(自身の体調不良が原因であったのかもしれない)。
 そうしたなかでの6月に、常州太田の佐竹常陸介義重と和睦した総州結城の結城左衛門督晴朝(小山秀綱の実弟)が相州北条陣営を離れて越後国上杉陣営に加わると、北条軍の北関東への攻勢が一段と強まり、閏7月上旬に北条軍が野州宇都宮表や総州結城城に攻め寄せたので、佐竹義重は加勢として宇都宮に在陣し、結城晴朝と連携して防戦を尽くした(『戦国遺文 下野編』1151号、『戦国遺文 後北条氏編』1926号)。この時、宇都宮広綱(弥三郎。官途名か受領名を称していたであろうが、当時の文書では確認できない)は北条氏政と講和を結び
、結城衆は三百余人が討ち取られたと、北条陣営に属する常州木田余の小田太郎氏治は奥州三春の田村大膳大夫清顕に伝えている(『戦国遺文 下野編』1152号)。ただし、宇都宮の「南方一味」は北条軍の鋭鋒を避けるための一時的なものであったらしく、冬には反北条陣営に復帰して、広綱・国綱父子は結城晴朝と新たな同盟を結ぶことになるし(『戦国遺文 下野編』1171号 この頃の広綱は30代前半であるが、長患いの身で花押も据えられないことが多く、幼少の国綱(伊勢寿丸。弥三郎)の名で発給されている)、結城衆が三百余人の犠牲者を出したというのも、敵方の情報であることからして、実態はよく分からない。
 どうもこの間に太田父子は榎本城を失ったようで、9月下旬には佐竹・江戸・下妻多賀谷氏ら「東方之衆」が反撃に転じ、小山城と榎本城(北条氏照の重臣が城主となっている)を攻撃している(『戦国遺文 後北条氏編』1157・1161~1164・1942号)。ちなみに、太田父子は遅くとも同年11月には、佐竹氏の属城である常陸国小田城の城主に復帰している(『戦国遺文 下野編』1172号)。
 こうした状況からすると、謙信が太田父子と連絡を取り合って里見夫妻の許へ使僧を遣わすことができたのは、北条軍が両総・野・総州で攻勢を強める以前、太田父子が榎本城を保持していた天正4年7月と考えるのが妥当ではないか。

 あのようにして房州里見家は、天正5年12月に相州北条軍の攻勢に屈し、北条氏政と講和を結んだとはいえ、この直後に太田道誉が、江(尾)州織田信長の客分として織田家の外交に携わっている小笠原貞慶(かつての信濃国守護小笠原長時の世子)へ宛てた書状(『戦国遺文 房総編』1635号)によれば、里見家が北条家と同盟を結んだとはいっても、里見家の北条家に対する遺恨は根深く、情勢の変化で一転すると考えており、それを裏付けるように、
『上越市史 上杉氏文書集』に未収録の謙信関連文書【14】 - 越後長尾・上杉氏雑考でも取り上げた天正6年2月16日付越後国上杉家宛梶原政景書状(『上越市史 上杉氏文書集』1320号)において、謙信が従えたばかりの北陸衆も動員して天正6年春に挙行する予定の関東大遠征を今か今かと心待ちにしている梶原政景は「義弘拙者へ之書中」と記しており、里見義弘と太田・梶原父子は内々に連絡を取り合っていたことが分かる。
 なお、この書状を『大日本史料』や『越佐史料』などは、天正5年の発給文書としているが、佐竹氏と結城氏が同盟を結んだのは天正5年5月中であるから(『戦国遺文 下野編』1144号、『上越』1339・1340号)、それ以前の2月に佐竹・宇都宮・結城の三者が共同で謙信の許へ使者を派遣することはできないため、『戦国遺文 下野編』などの通り、天正6年の発給文書となる。

【史料3】天正5年3月28日付河田豊前守・柿崎和泉守・長尾遠江守・竹俣三河守・桐沢但馬守・神余隼人佑・吉江喜四郎・水原弥四郎・安田治部少輔宛梶原源太政景書状写(歴代古案巻二所収)
其以往不申承候、去時分以脚力申入候、参着如何末罷帰候、抑新田手詰付、伊勢崎之地従南方近日普請被申付候、兵粮以下差越由候、北源小山物主落着、去月以来在城、是普請専候、我等父子劬労可為御察候、御越山可為何比候哉、当春夏之間御調儀至于御遅延、伊勢崎之儀従南方入念候条、近年之御功作不可有其曲候、何篇新田・桐生手詰不及是非由候、千言万句当春夏之間御越山相極候、  御屋形雖可申達候、片便之間、無其儀候、仍此客僧愛宕有立願、毎年相立候、路次無相違様被加御詞任入候、諸余期来音候、恐々謹言、
            梶原源太
    三月廿八日      政景

     河田豊前守殿
     柿崎和泉守殿
     長尾遠江守殿
     竹俣三河守殿
     桐沢但馬守殿
     神余隼人殿
     吉江喜四郎殿
     水原弥四郎殿
     安田治部少殿


【史料4】天正5年5月14日付梶原源太宛上杉謙信書状(個人蔵文書)
其以来其元之様子無其聞得候、無心元候、仍秀綱祇園出城、古内へ被相移候処、義重色々懇意之由、秀綱被露紙面候、於愚老大慶候、彼本意之内、弥義重入魂候様取成任入候、細々可及使者処、旧冬已来北路静謐、万端取籠故、無沙汰意外候、然処、賀州・能州・越前如存分属手、上口心安候間、一者秀綱口之首尾、一者義重連々申合意趣ニ候間、麦秋之為調儀令越山候、明々之内新田・足利表へ可揚放火候、此節ニ候条、壬生・皆川筋へ義重取合、火先候様可被相心得事専一候、扨亦、上口隙明候儀、定不可有其隠候歟、此上関左之弓箭外聞可入精候条、可心安候、如何様近日以荻(萩)原主膳亮可申届候間、其節可申越候、恐々謹言、
    五月十四日    謙信(花押)
     梶原源太殿


 【史料3・4】の年次比定は、史料集によって異なっており、主に天正4年か翌5年に置かれている。
 【史料3】は、当時、下野国榎本城に拠っていた梶原政景が越後国上杉家の諸将を通じ、それ以来は申し承っていないこと、去る時分に脚力をもって申し入れたこと、脚力は越府に参着したのかどうか、未だに帰着していないこと、新田(由良氏の新田領)をきつく攻め立てて追い詰められたので、相州北条方が近日中に伊勢前の地(由良氏の赤石領における城地で、上杉陣営に属する那波氏の領域との境目に位置し、由良氏の重臣が守っている)の普請を申し付けるという情報を得たこと、さらには兵粮以下も搬入するとのこと、北条氏照が下野国小山城の物主に決まり、先月から在城していること、これも普請に精を出していること、我等父子(太田道誉・梶原政景)の苦労をお察ししてもらいたいこと、御越山はいつ頃になるのかを知りたく、当春夏の間の御戦陣を遅延されるようであれば、北条方が伊勢前城の防備を入念に整えてしまい、近年に挙げられた御成果も無駄となってしまわれること、何としても新田・桐生を追い詰めるしかないこと、言葉を費やして申し上げるもので、当春夏の間の御越山に極まっていること、御屋形(謙信)へ申し達したにもかかわらず、脚力が戻ってこないので、御返事を得られていないこと、使節のひとりである客僧には愛宕総本社での例年の代願を頼んでおり、通行に差し障りがないように各所へ口添えしてもらいたいこと、そのほかの事柄についても来信を待ち望んでいること、これらを謙信へ懇ろに伝えたものである。
 謙信が里見軍の後詰めと称して越山し、新田領を攻めて回った天正3年晩秋から初冬にかけては、敵方によって下野国の通路が遮断されていたことから、10月に佐竹義重が越陣へ向かわせた使者の中田駿河守は途中での滞留を余儀なくされる(『上越』1230・1231号)という状況であったが(謙信が遣わした使僧は義重の許に到着したので連絡はついた)、翌4年春には、義重が越府へ向かわせた使者は無事に通行できて、謙信とは連絡がついており(『戦国遺文 下野編』1107号)、その一方、天正5年春には上総国の里見義弘ではあるが、越府と連絡がつかない状況に困っていること、天正3年秋冬と翌4年夏の謙信の越山で新田・赤石(伊勢前)・桐生領などが打撃を受けていたこと、北条氏照の小山在城の痕跡は4年よりも5年に見られること(『戦国遺文 下野編』1139・1140・1143号)、こうした状況からすると、『上越市史 上杉氏文書集』の通り、発給年次は天正5年となろう。
 ところで【史料3】の宛所には9人もの越後衆が名を連ねているが、これには強い疑問を感じる。
 柿崎和泉守景家、長尾遠江守藤景、神余隼人佑、安田治部少輔のそれぞれは、当時すでに柿崎左衛門大夫、長尾一右衛門尉、神余小次郎親綱、安田新太郎堅親に代替わりしていることと、桐沢但馬守且繁(左馬允)といえば、謙信養子の上杉景勝の同名・同心・被官集団である上田衆の一員だが、こうした場合に上田衆を代表するのは栗林次郎左衛門尉房頼であることによる(桐沢且繁が但馬守を称するのは景勝期であるため、誤写の可能性が考えられる)。
 そもそも越後国上杉家側で謙信と太田父子の間の取次といえば、山吉孫次郎豊守(輝虎期には河田長親と二人体制であったが、河田の越中国代官就任以降は単独となった)であるから、本来であれば、「山吉孫次郎殿」・「山孫」・「越府人々御中」・「越府貴報人々」というようなものになるはずで、山吉豊守は天正4年2月以降は活動が見られなくなるため、「越府云々」の宛所であったと思われるが、何らかの理由により、書写された段階で別の書状の宛所が用いられたのではないだろうか。
 【史料4】の謙信が梶原政景へ宛てた書状には、天正3年12月に相州北条軍の攻勢に屈して没落した野州小山の小山秀綱(号孝山)が謙信に対して、本拠の祇園城から落ち延び、常州太田の佐竹義重を頼ったところ、古内に居住地を与えられるなど、義重から色々と懇意にしてもらっているといった境遇を伝える書状を受け取ったことが記されているので、この点が決め手となって天正4年に比定されたのであろうし、その一方で、謙信は現況を詳しく伝えるための使者を義重の許へ遣わすべきところ、「旧冬已来北路静謐」のために万事が立て込んでいて、それが叶わなかったと弁明しており、謙信は3年冬には関東、4年冬には北陸に在陣していたことから、この北陸遠征の事実が決め手となって天正5年に比定されたのであろう。
 どちらも尤もな理由であり、よく検討してところ、謙信は「旧冬已来北路静謐」のために「万端取籠故」とは記しているが、自ら北陸へ出馬したとは記しておらず、謙信は天正3年のうちに関東から帰府すると、色部惣七郎長真をはじめとする越後衆を北陸に在陣させたりして(『上越』1281号)、北陸の形勢を安定させておくために様々な処置を施したのだと考えられることと、謙信がこれから新田・足利表へ進んで放火を揚げるので、佐竹軍も壬生・皆川筋へ進んで火先を揚げるように求めているのは、天正3年8月18日付の佐竹義重宛謙信覚書(『上越』1265号)において、謙信の当秋の越山に合わせ、佐竹軍が当表まで長駆するのが困難であるならば、せめて北条陣営の壬生・皆川領へ打ち出すように求めていたのと重なり、これが天正3・4年頃の謙信・佐竹・宇都宮と北条方の形勢であることからして、こちらは『戦国遺文 下野編
』などの通り、発給年次は天正4年となるのだろう。

 
◆ 勝浦市史編纂委員会編『勝浦市史 資料編 中世』(勝浦市)200号 上杉謙信書状〔注〕、210号 正木憲時書状〔注〕
◆ 小山市史編纂委員会編『小山市史 史料編 中世』(小山市)833号 野口豊前守戦覚書写
◆ 黒田基樹・佐藤博信・滝川恒昭・盛本昌広編『戦国遺文 房総編 第三巻』(東京堂出版)1639号 上杉謙信書状写、1626・1627号 足利義氏書状写
◆ 黒田基樹・佐藤博信・滝川恒昭・盛本昌広編『戦国遺文 房総編 第四巻』(東京堂出版)2363号 上杉謙信書状写
◆ 荒川善夫・新井敦史・佐々木倫朗編『戦国遺文 下野編 第二巻』(東京堂出版)1107号 上杉謙信書状、1139号 北条氏照宛行状写、1140号 北条氏照朱印状写、1143号 北条氏照朱印状、1144号 結城晴朝書状、1157号 伊勢千代丸(小山政種)寄進状、1161~1164号 江戸重通官途状写、1171号 宇都宮国綱書状写、1172号 大田原綱清書状、1186号 梶原政景書状
◆ 杉山博・下山治久編『戦国遺文 後北条氏編 第三巻』(東京堂出版)1926号 北条氏政書状写
◆ 杉山博・下山治久編『戦国遺文 後北条氏編 第五巻』(東京堂出版)4025号 北条氏規書状、4476号 足利義氏書状案
◆ 黒田基樹著『戦国期関東動乱と大名・国衆 戎光祥研究叢書 第18巻』(戎光祥出版) 第四部 下野国衆の研究 第一章 下野国衆と小田原北条氏

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『上越市史 上杉氏文書集』に未収録の謙信関連文書【16】

2023-05-30 20:51:37 | 雑考


【史料1】天正3年12月24日付正木大膳亮宛佐竹賢哲書状(上野家文書)
幸便之間申届候、其以来者無差義故、絶音問候、覚外之至候、然者、向万喜地利被取立之由、於御本意者不可有程之由存候、殊更如前々房越被仰談由、従謙信被仰越候、於当方肝要被存候、度々如申届候、御当方・当方別而御入魂之義、其方御馳走可相極候、当口之義、於我等不可存如在候、巨細期来音之時候、恐々謹言、
   十二月廿四日      賢哲(花押)
   正大
      参


【史料2】天正3年12月24日付太田新六郎宛佐竹賢哲書状(上野家文書)
其以来者絶音問候間、御当国之義、無御心元候処、示預候、向万喜正大地利被取立之由、如此之上者、於御本意者不可有程候、然者、房越如前々被仰談之由、従謙信被仰越候、当方被申合間、肝要被存候、義広(ママ)尚以義重御入魂候様、正大馳走之義、御取成尤候、巨細者三楽斎父子申越候間、不能重意候、恐々謹言、
   十二月廿四日      賢哲(花押)
   太田新六郎殿(参ヵ)
         ▢
  (奥上追而書)
  追而、正大へ一札御届頼入候、以上、


【史料3】天正3年10月9日付太田新六郎宛北条下総守高定書状(個人蔵文書)
就義弘・氏政御対陣、態御飛脚、則達 上聞候処、一段御喜悦由候、被成 御直書候、仍其国之為御後詰被遂御越山、向新田御近陣候間、定敵可為退散候、向後、如前々可有御入魂由、無二被思召請候条、弥於其元可然様御稼専一候、万吉重可申承候間、不能一二候、恐々謹言、
  追而、巨細いた方可被申候、一人之出家煩候間、府内差置候、如何ニも可被加療治由、せうれん寺(青蓮寺)助言申候間、定而不可有如在候条、可御心安候、以上、
              北下
    拾月九日       高定(花押)
    太新
      参 御報


 【史料1・2】は、天正3年も末に常州太田の佐竹次郎義重が、しばらく通交の途絶えていた房州里見義弘(上総国佐貫城に拠る)から、やはり里見家とは通交が途絶えていた越後国上杉家との旧交を再開させたという知らせを受け、族臣の佐竹賢哲(佐竹北家の当主。左衛門督。俗名は義斯)をもって、里見家の家宰である小田喜正木大膳亮憲時(上総国小田喜城主)、同じく客将である太田新六郎康資のそれぞれに対し、房・越の旧交再開は謙信からも知らされたことと、義重自身も通交が途絶えていた謙信と再び連帯することなどを伝えたもの(『勝浦市史 資料編 中世』171・179・182・184~186・189・198・199号〔注〕)。
 なお、江戸太田氏の康資は、永禄6年12月に相州北条家から離反して下総国市川の地に進軍してきた房州里見軍と合流し、年が明けた正月8日に房州里見勢と江戸・岩付の両太田勢からなる連合軍が国府台の地で北条軍に敗れると、里見領に逃れてからは、上総国久留里城に拠る里見家隠居の義堯(岱叟院正五)の許に身を寄せていたが、元亀3年中に、義堯(岱叟院正五)と現当主の義弘と鼎立する勢力でもある正木憲時の招聘を受けて小田喜城に移り、憲時と共に里見家の外
交を担った(『勝浦市史 資料編 中世』156・184・189号〔注〕)。


※ 正木大膳亮憲時(房王丸。弥九郎)は、房州里見義堯の家宰として名を馳せた正木大膳亮時茂(弥九郎)の弟たちである正木弾正左衛門尉(実名は弘季と伝わる)・勝浦正木左近大夫時忠(上総国勝浦城主)のどちらかの子で、叔父の養子となり、養父の死去に伴って小田喜正木氏を継いだとされてきた。しかし、だいぶ前から研究が進んでいて、実際のところは正木時茂の次男に当たり、時茂に先んじて嫡男の弥九郎時泰が病没し、永禄4年4月に時茂も病没すると、時茂の末弟である平七信茂が小田喜正木氏を継いだが、同7年正月8日に房州里見軍が相州北条軍との間で行われた下総国国府台の戦いに大敗し、信茂が戦死してしまったので、若年の憲時が小田喜正木氏を継いだことが明らかにされている(滝川恒昭『人物叢書 里見義堯』)。


 謙信と佐竹義重の通交は、天正2年冬に謙信が挙行した関東遠征において、義重が謙信からの同陣要請に応じなかったことで途絶えたが(『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』1238・1239号 以下は『上越』と略す)、味方中の下野国小山の小山秀綱(号孝山)が相州北条陣営からの攻勢にされされているなかでは、義重としても謙信を頼むしかなかったようで、翌3年8月中旬には両者の通交が再開し、北陸在陣中の謙信は当秋に必ず関東へ出馬することを伝えている(『上越』1265・1268号)。
 そして、【史料3】の通り、越後国上杉家と房州里見家が再び通交するに至ったのは、天正3年8月に相州北条氏政が上総国に出陣し、里見陣営の各所を攻め立てたので(『勝浦市史 資料編 中世』191~195号〔注〕)、その軍勢に立ち向かっている
房州里見義弘から、謙信の関東出馬を求める書状が発せられ、これを謙信は北陸陣を終えて関東へ直行している最中に受けた取ったようで、里見軍の後詰めと称して越山し(【史料3】『上越』1270号)、9月中旬から下旬にかけて、相州北条陣営の上野国衆である由良信濃守成繁・同刑部大輔国繁父子の新田領内に迫ったところ(『上越』1224号)、北条軍が上総陣を撤収したからである。


※ 『上越』16251・268号によれば、天正3年7月初旬から8月中旬にかけて謙信が挙行した北陸遠征に際し、佐竹義重から返礼の使者が北陸陣に到来しているが、里見義弘の飛脚と後発の使者「いた」と使僧「せうれん寺」(青蓮寺)と使僧某の場合は、上総国における房・相対陣の直前に派遣されたとしても、時間的に北陸陣に到着するのは無理であろうから、先発の飛脚は謙信が関東へ向かっている途中で出くわし、すぐに取って返したが、そのあとで謙信と出くわした使者・使僧たちは、何らかの理由により、取って返すことなく越府へ向かったものと思われる。


【史料4】(天正2年ヵ)9月11日付本庄清七郎・河田対馬守・新保清右衛門尉・栗林二郎左衛門尉・松本代宛上杉謙信書状(東京大学史料編纂所所蔵文書)
五日之以註進、自倉内申来以来、従而註進無之候、無心元候、雖然、爰元出馬候間、明日塩沢可打着候、早々旁々急候、倉内打着可然候、関左為懸助候差置候処、一騎壱丁人数不足候者、其曲有間布候、若黒川打入凶徒退散候、浅貝成共、猿京成共相待、一度可供候、又于今差▢候者、倉内可打着候、例式心得候而者、不可有曲候、相替義(ママ)候ハヽ註進待入候、謹言、
   九月十一日申刻     謙信(花押)
        河田対馬守殿
        新保清右衛門尉殿
        栗林二郎左衛門尉殿
        本庄清七郎殿
            松本代


『上越』1224号は天正2年に仮定されているが、この年の後半に謙信が関東へ出馬したのは10月19日以降であり(『上越』1229号)、状況が一致するのは「越中悉一変、賀国迄放火」したのち、8月21日に春日山城に納馬し、そのまま軍勢を解散することなく、関東へ直行して新田領に攻め寄せた天正3年である(『上越』1266・1267・1268号)。
 天正3年の謙信による関東遠征の流れは、9月に入って相州北条陣営の由良成繁・同国繁父子の軍勢が「去五日黒河谷寄居二ヶ所打散」じた(『戦国遺文 古河公方編』969号)ことから、関東へ向かっている途中の謙信は上野国沼田城将の河田伯耆守重親から、沼田管区内にある黒川地域(勢多郡黒川郷)の城砦が由良勢の攻撃を受けたという「五日之註進」を受け取り、進軍を急ぐなか、先遣部隊である旗本部将の本庄清七郎(実名は綱秀か)・同じく新保清右衛門尉秀種・同じく松本氏の陣代・上田衆の栗林次郎左衛門尉房頼に対し、「倉内」(沼田)から「五日之註進」以降は連絡がなく、心配ではあるが、ここまで進んできており、明日(12日)は塩沢(越後国魚沼郡上田庄)の地に到着することを伝えるとともに、皆々は先の指示通りに沼田城へ急行するべきこと、関東各所の味方中を支援するために、皆々を沼田城に配備するのだから、一騎一丁も人数が欠けてはならないこと、黒川谷へ攻め入った「凶徒」が退散するようであれば、浅貝あるいは猿ヶ京で待機し、どちらかの地で本隊と合流するべきこと、敵勢が退散しなかった場合は、予定通りに倉内へ向かうべきこと、いつも通りの心構えで臨み、つまらない失態を演じてはならないこと、異変があれば、連絡を寄越すべきことなどを命じた。
 しかし、この間に沼田の河田重親は黒川衆の救援に動き、由良家中が守っている黒川地域の五覧田城を攻めたが、五覧田衆と同地域における由良方の三ヶ所ほどの寄居衆の連携による反撃を受けていた(『戦国遺文 古河公方編』969・970・1421号によれば、沼田衆は三百余人の犠牲者を出したとされるが、由良側だけの情報なので実際のところはよく分からない)。
 やがて謙信は関東に到着し、9月下旬辺りから由良氏の新田領に進攻して各所を荒らし回ったのち、10月13日、やはり沼田管区内の仁田山城(山田郡仁田山郷)に対する由良方の向城である仁田山城砦群(谷山・皿窪城)を強襲し、同15日に陥落させると、勢多郡の赤堀城域(味方中の赤堀上野介が拠る)へ進み、さらなる軍事行動を検討したが諦めて、年内に厩橋城・沼田城を経て帰国の途に就いた(『上越』1228・1230・1231号、『戦国遺文 古河公方編』949・971号 これらの文書は諸史料集において、天正2年に置かれていたが、黒田基樹氏は『関東戦国史 北条vs上杉55年戦争の真実』において、同3年の文書として用いられている)。


◆ 勝浦市史編纂委員会編『勝浦市史 資料編 中世』(勝浦市)156号 「海上八幡宮年代記」抄、171号 正木憲時条書、176号 太田道誉(資正)書状写、179号 武田信玄書状写、182号 奉正木憲時禁制写、184号 土屋昌続書状、185号 奉正木憲時制札、186号 大山寺縁起・御堂造営誌写、189号 江戸通朝書状写、191・192号 北条家朱印状写、193号 北条氏政書状写、194号 芳春院周興副状、195号 北条高定書状、198・199号 佐竹賢哲(義斯)書状写
◆ 佐藤博信編『戦国遺文 古河公方編』(東京堂出版)949号 足利義氏書状、969号 足利義氏書状写、970・971号 足利義氏書状、1421号 芳春院周興副状
◆ 滝川恒昭『人物叢書 里見義堯』(吉川弘文館)
◆ 黒田基樹『関東戦国史 北条vs上杉55年戦争の真実』(角川ソフィア文庫)

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