越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎(謙信)の年代記 【永禄5年6月~同年10月】

2012-09-12 00:03:44 | 上杉輝虎の年代記

永禄5年(1562)6月~7月 山内(越後国)上杉輝虎(弾正少弼)【33歳】


来秋に信濃国へ出馬するにあたり、奥州会津(会津郡門田荘黒川)の蘆名止々斎(修理大夫盛氏)の許へ使者として吉田美濃守(旗本衆)を、関東味方中の河田善右衛門大夫忠朝(武蔵国皿尾城主と伝わる。同羽生城主の広田式部大輔直繁の弟)・倉賀野左衛門五郎直行(上野国倉賀野城主。同箕輪城主の長野左衛門大夫氏業の与力)らの許へは林 平右衛門尉(旗本衆)を派遣し、上野国へ現れるであろう相州北条勢を抑えることを求める。


※ 倉賀野直行(のちに尚行と改める)は、『上越市史 上杉氏文書集一』1419号 上杉謙信(政虎)書状写の「わたおとゝ」からすると、倉賀野同様に箕輪長野氏の与力であった和田右兵衛大夫業繁(上野国和田城主)の実弟で、倉賀野氏に入嗣したとみられる。


6月2日、河田善右衛門尉忠朝から、すでに他所へと向かった林 平右衛門尉へ宛てて書状が発せられ、このたび(輝虎の)御書を拝領し、過分の至りで、恐れ入る思いであること、されば、御条目をもって示された条々は、その意を得られたこと、よって、(来秋の)信州への御戦陣の決定を、仰せ出されたこと、めでたく肝要であると思われること、当口においては、相手に勝利を重ねており、ますます成田(相州北条方の武蔵国衆・成田下総守長泰)を追い詰めるつもりであること、以上の趣旨を御披露に預かりたいこと、これらを恐れ謹んで伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』1429号「林平右衛門尉殿」宛「河田谷善右衛門大夫忠朝」書状)。

14日、倉賀野左衛門五郎直行から、上野国沼田城(利根郡沼田荘)の城代である河田豊前守長親へ宛てられた書状が林 平右衛門尉に託され、このたび御使節を通じて (輝虎の)御書を給わり、謹んで拝読したこと、もとより(来秋の)信州へと御馬を出される決定を、仰せ出されたこと、極めて肝要であると思われること、これについて、御条目をもって示された条々は、つぶさに聞き届けて承知した旨を、恐れながら書付をもって申し上げること、(信州へ)御戦陣を催されるからには、(北条)氏康が上州まで出張してきたら、御味方中と談合し、またとない奮闘をする覚悟であること、委細は林平右衛門尉方を通じて申し上げること、以上の趣旨を御披露に預かりたいこと、これらを恐れ謹んで伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』411号「河田豊前守殿」宛「倉賀野左衛門五郎直行」書状写)。


※ 栗原修氏の論集である『戦国期上杉・武田氏の上野支配』(岩田書院)の「第一編 上杉氏の関東進出とその拠点 第二章 上杉氏の隣国経略と河田長親」によると、上野国沼田城代として河田長親が与力の発智長芳へ沼田城域の土地を宛行っている『上越市史 上杉氏文書集一』341号文書は、花押型の分類によって永禄5年に比定できることから、上杉輝虎の側近である河田が沼田城代に着任したのは、輝虎が関東から帰府した3月から5月の間という。


19日、蘆名家の重臣で、越後国上杉家との間の取次を務める松本伊豆守へ宛てて返書を発し、取り急ぎ使者をもって申し遣わすこと、よって、関東については、あらかた平穏無事の状態であること、信州については、当国の隣国であり、上州の背後に位置しているわけであり、何れにしても来秋には彼の口へ戦陣を催すつもりであること、されば、他にも強く助成を頼んでおり、権勢を誇って弓箭を取るわけではないこと、そちらとは絶え間なく交流を図ってきた間柄であり、昨年に神慮をもって取り交わした筋目に従い、なんやかやこの時を迎えたのであるから、援軍として一勢を送ってもらえれば、自他の覚えもめでたいこと、この一事は方々(松本を初めとする蘆名家の重臣)の尽力にかかっていること、なお、詳細は吉田美濃守が口上すること、これらを恐れ謹んで懇ろに伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』521号「松本伊豆守殿」宛上杉「輝虎」書状【花押a3】)。


この6月中、越中国の東西に分立する椎名右衛門大夫康胤(越中国松倉城主)と神保惣右衛門尉長職(同富山城主)が、またもや争いを始めたので、味方中の椎名康胤を救援するために彼の国へ出馬する。
7月3日、神保勢と戦い、神保方の土肥主税助(越中国において椎名・神保・遊佐と並ぶ勢力の土肥氏の一族で、もとは椎名氏に属していたが、椎名氏と対立して敗れて没落すると、神保氏の重臣である寺嶋氏に扶持されていた)を討ち取るなどして勝利を挙げた(『新潟県史 資料編3』1005号 土肥二郎九郎母訴状 ●『富山県史 通史編Ⅱ 中世』)。

その後、神保長職を赦免すると、7月中に帰府した。



この間、甲州武田信玄(徳栄軒)は、6月18日、このほど調略によって越後国上杉陣営から引き抜いた上野国衆の和田右兵衛大夫業繁へ宛てて初便となる書状を発し、これまで通交はなかったところ、初めて申し上げること、今この時に忠義を励まれれば、どのような御要望であっても応えること、末代までの身上を保障して、我等(武田信玄)においては手厚く報いること、なお、詳細は飯富三郎兵衛尉(実名は昌景。譜代家老衆)が書面で伝えること、これらを恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文 武田氏編一』826号「和田兵衛大夫殿」宛武田「信玄」書状写)。

 
※ 『戦国遺文 武田氏編一』は、826号文書を永禄6年に比定しているが、黒田基樹氏の論集である『戦国大名と外様国衆』(文献出版)の「第三章 和田氏の研究」に従い、永禄5年の発給文書として引用した。



永禄5年(1562)8月 山内(越後国)上杉輝虎(弾正少弼)【33歳】


11日、慰留を振り切って帰洛した関白近衛前久(8月2日に参朝しているので、7月に越後を発ったのか)から、重臣の本庄美作入道宗緩(すでに一線を退いた老臣)・直江大和守実綱(大身の旗本衆)・長尾右京亮景信(古志長尾氏。別格の縁者)・河田豊前守長親(大身の旗本衆))へ宛てて書状が発せられ、着京後、早々に使者を立てて挨拶するべきところ、あれやこれや取り乱れ、不本意な事態となったこと、あまりにも時間が経過してしまったので、このたび脚力をもって音信を通じたこと、在国中の懇待の数々には、誠にもって喜ばしい限りであること、こうした条々をしかるべく輝虎へ伝えてほしいこと、なお、今後も丁寧に申し開きを重ねていくので、これからも交誼を継続できれば、本望であること、これらを申し渡されている(『上越市史 上杉氏文書集一』347号「本庄美作入道とのへ・直江太和守とのへ・長尾右京亮とのへ・河田豊前守とのへ」宛近衛前久書状(署名はなく、花押のみを据える))。

関東の情勢悪化から、この6月に打ち出した方針を改めると、24日、関東味方中の長尾新五郎政長(足利(館林)長尾氏。上野国館林城主。但馬守景長の子)、同じく富岡主税助(同小泉城主。これより以前は相州北条方であった)のそれぞれへ宛てて自筆の書状を発し、このたび改めて筆を馳せたこと、もとより関東の戦乱が際限なく続いていること、味方中は労苦に苛まれ、民衆は安息を奪われており、いずれにしても、今年こそ関東の安寧を取り戻す覚悟であること、もはや当月に余日はないので、来月には必ず関東越山すること、当然ながら甲・相両軍も出張してくるであろうから、総力を結集して迎撃すれば勝利は疑いないので、武・上州の間、いずれの地に陣を構えることになっても、人員を揃えて参陣されるべきこと、今こそ奮闘されるべき時であること、そのために前々から申し届けているわけであること、これらを恐れ謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集』321号「長尾新五郎殿」宛上杉「輝虎」書状写、320号「富岡主税助殿」宛上杉「輝虎」書状【花押a3】)。



この間、相州北条氏康(左京大夫)は、6日、奥州会津(黒川)の蘆名止々斎(修理大夫盛氏)へ宛てて書状を発し、先頃より何度も申し届けているが、このたび幸便を得たので、改めて申し上げること、常陸・下野両国については、小田(常陸国衆の小田太郎氏治。常陸国小田城主)・宇都宮(下野国衆の宇都宮弥三郎広綱。下野国宇都宮城主)両家が当方と格別に相談したうえで、結城(下総国衆の結城左衛門督晴朝。下総国結城城主)・小山(下野国衆の小山弾正大弼秀綱。下野国祇園城主)・大掾(常陸国衆の大掾 貞国。常陸国府中城主)・那須(下野国衆の那須修理大夫資胤。下野国烏山城主)らと小田方(氏治)の一和を取りまとめたこと、こうした機運に乗じて白川方(白河結城左京大夫晴綱。陸奥国白河城主)と協力し合って、敵方の佐竹(常陸国衆の佐竹右京大夫義昭。常陸国太田城主)を攻められるのを念願していること、確かな情報によれば、近日中に(佐竹)義昭は結城(下総国結城郡)の地に再征するそうであること、氏康自身は武田晴信(甲州武田信玄)と連帯して、この五日のうちに武蔵国岩付筋(埼玉郡)へ出馬すること、返す返すも、その方面の経略を頼み込んだからには、しっかりと手立てを講じられるのを念願していること、必ずまた陣中から申し入れること、これらを恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文 後北条氏編 補遺編』4667号「蘆名殿」宛北条「氏康」書状)。


※『戦国遺文 後北条氏編 補遺編』は4667号文書を永禄6年に仮定しているが、黒田基樹氏の論考である「常陸小田氏治の基礎的研究 ―発給文書の検討を中心として―」(『国史学』第166号)に従い、永禄5年の発給文書として引用した。



永禄5年(1562)9月10月 山内(越後国)上杉輝虎(弾正少弼)【33歳】


この7月に越中国の争乱を鎮めて、中部へ追い払ったはずの神保惣右衛門尉長職が東部の富山に再進出したことから、9月5日に東西両軍の間で激戦となり、椎名方の神保民部大輔(神保一族。椎名方に寝返っていた)・土肥二郎九郎(7月に戦死した主税助の長男。今回、土肥氏は椎名方として参戦した)らが戦死する(『新潟県史 資料編3』1005号 土肥二郎九郎母訴状 ●『富山県史 通史編Ⅱ 中世』)。

これを受けて、10月に入り、再び椎名の救援のために越中国へ出馬すると、5日に婦負郡の金屋村で神保軍と一戦した。中旬には敵方の諸城を次々に降し、神保長職が逃げ込んだ中部の増山城に攻めかかり、全ての外郭を焼き払って主郭に追い詰め、このたびは神保を滅ぼすつもりでいたところ、神保が能州畠山義綱(修理大夫)を通じ、降伏を嘆願してきたので、このあとには関東遠征を控えているため、神保を容赦した。

16日、帰国の途に就いた。

27日、関東味方中の岩付太田美濃守資正(武蔵国岩付城主)へ宛てて書状を発し、越中国については、去る7月に出陣して国情を一変させたにもかかわらず、先月5日に彼の口において予期せぬ争乱が起こって味方中が敗北し、神保民部太輔をはじめとする大勢の将兵が戦死してしまい、彼の国の再乱によって苦境に立たされている椎名右衛門大夫(康胤)は、事あるごとに申し届けている通り、当府の裏手に存在するといい、年来ひたすら此方に同調してくれている間柄といい、放って置けるわけもなく、再び越中へ出馬したところ、神保領を席巻して諸要害を降し、凶徒が増山城に立て籠もったので、彼の要害を包囲して周辺を余す所なく火を放ち、主郭ばかりの裸城としたこと、今度という今度は凶徒を殲滅する心づもりでいたところ、神保惣右衛門尉(長職)は能州畠山修理大夫方(義綱)に泣き付いて降伏を懇願してきたので、ちょうど(北条)氏康が武州に在陣している今この時、早速の関東越山を決め、神保の降伏を受け入れて、当月16日に馬を納めたこと、本来なら今夏にはその口(武蔵国)に越山していなければならず、取り分け氏康の出張により、(太田資正から)出馬の要請が繰り返し寄せられていたので、一刻も早く関東へ向かうべきであったが、神保攻略に取り紛れて延引せざるを得なかったわけであり、手をこまねいている間に、相州北条軍の攻勢によって其元が相当の損害を余儀なくされるのは覚悟していたこと、しかし、いつもながらの其方(太田資正)の目覚しい奮戦によって氏康は何ら得るものもなく退散したので、まずまずの結果に終わって意義深い限りであること、神保攻略による将兵の疲労を回復させたのち、必ず関東越山すること、それまでは、いっそう防備を尽くされるべきこと、なお、詳細は河田豊前守(長親。大身の旗本衆。上野国沼田城代)が書いて伝えること、これらを恐れ謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』326号「太田美濃守殿」宛上杉「輝虎」書状写【花押a】)。



この間、相州北条方の下野国衆・那須修理大夫資胤(下野国烏山城主)の族臣である那須弾正左衛門尉資矩が、9月15日、陸奥国白河の郡主である白河結城左京大夫晴綱(陸奥国白河城主)へ宛てて再便となる書状を発し、去る頃に御懇答を給わったばかりか、それからも御書中が何度も寄せられており、いずれの条々も本望満足であること、されば、(結城晴綱と)氏治(常州小田の小田氏治)との交誼を確かなものにするべきであること、このたび愚所(那須資矩)より使者をもって(小田氏治への)返札を認めて送付したこと、今後は折に触れて御通信に及ばれるべきこと、また、武田信玄は上州へ出張し、安中(碓氷郡)の地を手中に収められたこと、氏康父子(相州北条氏康・同氏政)は当月4日に出陣して、石戸(武蔵国足立郡)と川越(同国入間郡河越荘)の両地に馬を立てられると、常・野・両総・武・上州の味方中と相談されて、岩付(武蔵国埼玉郡の岩付城)の地へ陣を進め、すでに越年を決めたそうであること、なお異変があれば、どのような些細な事柄であっても申し届けるつもりであること、そちらの御家中の様子をどうか知らせてほしいこと、これらを恐れ謹んで伝えている。さらに追伸として、下口への御返札を取り急ぎ送り届けることと、日増しに小田(氏治)・結城(晴朝)・小山(秀綱)は交誼を深めており、御安心してほしいことを伝えている(『小山市史 史料編 中世』597号「白川殿 御宿所」宛那須「弾正左衛門尉資矩」書状)。


※ 『小山市史 資料編』は597号文書を永禄7年に比定しているが、黒田基樹氏の論考である「常陸小田氏治の基礎的研究 ー発給文書の検討を中心としてー」(『国史学』第166号)に従い、永禄5年の発給文書として引用した。


甲州武田信玄(徳栄軒)は、9月18日、下野国衆の宇都宮広綱(仮名は弥三郎。下野国宇都宮城主)へ宛てて再便となる書状を発し、先日は申し上げたところ、参着したのかどうか分からないこと、よって、その表で戦勝を重ねられているようで、いつもながらの並ぶものがない御武略を発揮されていること、このたび上州へ戦陣を催し、箕輪(箕輪長野氏領)・惣社(惣社長尾氏領)・倉賀野(箕輪長野氏の与力である倉賀野氏領。何れも群馬郡)の郷村中を散々に荒らし回って、余さず稲穂を刈り取り、まずは馬を納めたこと、来月下旬には(駿州)今川・(相州)北条両家と示し合わせて、必ず利根川を越え、この機会を捉えて関東を平穏に導くつもりであること、さしあたって交誼を深められれば、本望であること、委細は面談を期すること、これらを恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文 武田氏編一』796号「宇都宮殿」宛武田「信玄」書状写)。 



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『新潟県史 資料編3 中世一』(新潟県)
◆『小山市史 史料編 中世』(小山市)
◆『富山県史 通史編Ⅱ 中世』(富山県)
◆『戦国遺文 武田氏編 第一巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 後北条氏編 補遺編』(東京堂出版)

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