越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎(旱虎)の略譜 【54】

2013-08-26 23:31:18 | 上杉輝虎(謙信)の略譜
永禄12年(1569)9月 上杉輝虎(旱虎。弾正少弼)【40歳】

相州北条氏康・同氏政父子に対し、6月に結ばれた越・相一和の盟約に従って、8月下旬には上野国沼田城(利根郡沼田荘)に着陣することを報知していたにも係わらず、8月中旬に越中国へ出陣すると、一向に音沙汰がないことを心配した相州北条氏政が、確認のための飛脚(客僧)を立てるのに伴い、相州北条父子と、取次の藤田新太郎氏邦(氏康の四男。武蔵国鉢形城主)から、10日以降にまとめて書信が発せられている。
7日、相州北条「氏康(相模守)」が書信(「山内殿」)を整え、このたび氏政が客僧をもって申し届けるそうなので、それに伴って申し上げること、先月下旬には沼田に御着馬されるものと承知していたところ、それ以後は是非が伝わってこないため、全てが心許なく思われてならないこと、どうか詳しい様子を御知らせ願いたいこと、寄せられた情報によると、甲府(甲州武田信玄)は、信州口の人数(信濃奥郡の先方衆)までも動員したそうであること、異変があれば直ちに報告すること、これらを懇ろに伝えている。
同日、相州北条「氏政(左京大夫)」が書信(「山内殿」)を整え、取り急ぎ飛脚をもって申し届けること、御兼約の通り、先月下旬には粛然と御出陣されるものと承知していたところ、沼田御着陣の是非が未だに伝わってこないこと、はなはだ御心許ないこと、そのために申し上げたこと、現在のところ駿・甲国境に異変はないが、今しがた寄せられた注進によれば、(甲州武田信玄は)信州・西上州衆を甲府へ召集して戦陣を催すつもりであるとの情報が寄せられたこと、これらを懇ろに伝えている。
同日、相州北条「氏政」が、取次の「山吉孫次郎殿(豊守。大身の旗本衆)」に宛てて書信を整え、沼田御着陣の是非が未だに伝わってこないこと、はなはだ心許なく思われるので、飛脚をもって申し届けること、ひたすら詳報を御待ちしていること、これらを懇ろに伝えている。
同日、取次の「遠左康光(遠山左衛門尉康光。氏康の側近。小田原衆)」が、「山孫(山吉孫次郎豊守)参御宿所」に宛てて副状を整え、取り急ぎ脚力をもって申し入れられること、先月20日頃に沼田へ御着陣されるものと仰せ聞かされていたので、(氏康父子は)そのように承知されており、近日は御吉報を心待ちにされていたところ、依然として伝わってこないので、御心許なく思われていること、其許(越陣)の御様子を詳しく仰せ越されてほしいこと、このたびの貴府に於ける様々な御取り成しには、ひたすら恐悦しており、その御厚意を氏康父子に申し聞かせたこと、何はさておき御吉報が寄せられたあかつきに申し達するので、この書面を略したこと、これらを懇ろに伝えている。
10日、取次の藤田新太郎氏邦が、「山吉孫次郎殿(豊守)」に宛てて書信を整え、このたび(北条)氏政が客僧をもって申し入れられること、武田信玄が西上州へ出張し、昨9日に武蔵国御嶽城(児玉郡)へ攻めかかったところ、御嶽城衆が迎撃して百余名の敵兵を討ち取り、相府小田原へ首級を差し越してきたこと、今10日には当鉢形城(男衾郡)へ攻めかかってきたが、外郭で迎撃して大損害を被らせたので、先ずは御安心してほしいこと、今こそ越・相両軍が共闘して信玄を撃滅する時であり、早急な御越山を願うばかりであること、こうした趣旨を御心得てもらいたいこと、これらを懇ろに伝えている。

20日、(朱印)、これ以前に復帰を認めた上野国厩橋城(群馬郡)の城代である「北条丹後守殿(高広。譜代衆)」に宛てて条書を発し、一、房・相一和について、両国は上総の帰属を巡り、互いに主張を避けて現状維持(里見方の優位)に任せたが、下総国の帰属は互いに主張して譲らなかったこと、一、愚老の意見について、(北条)氏政に対しては、下総を房州(房州里見家)へ引き渡すように提案したこと、一方、(里見)義弘に対しては、千葉方(下総国衆の千葉介胤富。下総国佐倉城主)・原(同じく原十郎胤栄。同生実城主)・両酒井(上総国衆の土気酒井中務丞胤治。上総国土気城主。同じく東金酒井左衛門尉政辰。同東金城主)・高城(下総国衆の高城下野守胤辰。下総国小金城主)などに、そのまま本領を安堵して居城に留め置き、愚老が彼らの証人を預かる提案をしたところ、不同意であるばかりか、以前には問題視されていなかった書札礼に不平を唱え、「里見太郎殿」と名字を書き越したのが、口惜しいそうであること、当家に認められた書札礼に則り、何方に対しても所書しないこと、もっぱらは、あれこれ曖昧に返事をして時間を稼ぎ、その実は(武田)信玄に同心したものと見極めていること、一、房州(房州里見家)と断交するに至れば、義氏様(鎌倉公方足利義氏。この6月28日に下総国古河城へ還座している)の御境遇が案じられること、これらの三ヶ条について説明した。

25日、越中国に在陣を続けるなか、年寄衆の柿崎「和泉守」景家(譜代衆)・山吉「平 豊守」・河田「豊前守」長親(大身の旗本衆)を奉者として、越中国新川郡森尻荘内に制札(印文「地帝妙」)を掲げ、荘内に於ける諸軍勢の濫妨狼藉を停止するとともに、若しも違犯する輩があれば、厳罰に処することを通達した。

27日、相州北条「氏康・氏政」父子から書信が発せられ、このたび9月14日付の御状が今27日に到来したので、ひたすら満足であること、内々にこちらから申し述べるつもりであったところ、不意に(武田)信玄が武蔵国御嶽城へ攻め込んできたばかりか、分別なく相州へ進陣してきており、目前の対応に追われてままならなかったこと、すでに国中まで到達しているからには、勝負の結果にとらわれず、無二の一戦に臨むこと、恐らく五日から七日の間に決着がつくはずであること、これらを懇ろに伝えられている。
晦日、相州北条「氏康」から追信が発せられ、改めて申し入れること、配慮に欠けるとは思いながら、すぐにも椎名(右衛門大夫康胤。越中国松倉城主)の進退を御赦免されて、年内中の御出陣を、一方向に仰せ付けられるについては、信・甲両国の御退治を後戻りするべきではないこと、そうであっても信玄を追い詰める絶好の機会なので、無遠慮ながら申し入れたこと、これらを懇ろに伝えている。


この間、甲州武田「信玄(徳栄軒)」は、9日、武蔵国御嶽城、10日、同鉢形城、その後、同滝山城(多西郡)に一当たりすると、相模国の中央部に進出し、28日、酒匂川の東岸(西郡)に陣取り、相府小田原城に迫っている。

甲州武田陣営の椎名右衛門大夫康胤に属する寺嶋「職定(三郎。越中西郡の領主・神保惣右衛門尉長職の旧臣。越中国池田城主)」は、18日、越中国葦峅村・本宮村(ともに新川郡)の百姓中に対して書状を送り、このたび越後衆が襲来したところ、池田城(新川郡須江荘)に入城して、格別に忠節を尽くしたのは殊勝であること、これにより、今後の三年間に亘って年貢の三分の一を免除するので、ますます奮闘するべきこと、よって、一筆を遣わしたことを伝えている。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 803号 北条氏康書状(写)、804・805号 北条氏政書状、806号 遠山康光副状、807号 藤田氏邦書状、808号 上杉輝虎条書(写)、809号 上杉輝虎制札、810号 北条氏康・氏政連署状(写)、811号 北条氏政書状(写)、820・821号 北条氏照書状 『戦国遺文 古河公方編』 921・922号 足利義氏書状、923・924号 足利義氏書状写、925号 足利義氏書状 『戦国遺文 武田氏編 第四巻』 2898号 諏訪神社棟札銘写 『富山県史 史料編Ⅱ 中世』 1705号 寺嶋職定書状
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越後国上杉輝虎(旱虎)の略譜 【53】

2013-08-20 20:52:54 | 上杉輝虎(謙信)の略譜
永禄12年(1569)8月 上杉輝虎(旱虎。弾正少弼) 【40歳】

5日、相州北条「氏政(左京大夫)」から書信(「山内殿」)が発せられ、このたび武蔵国松山領(比企郡)の一件について、由信(上野国衆の由良信濃守成繁。上野国金山城主)を通じて申し越すこと、去る4月に天用院をもって、詳しく申し入れた通り、元来から現松山城主の上田(宗調(安独斎宗調。武蔵国衆)の本地本領であるため、現状の維持を聞き入れてもらえるように申し述べたこと、去る6月に当府へ到来した広泰寺(昌派。寺僧)・進藤方(家清。旗本衆)に対しても、この筋目を丁寧に説明したこと、それでも、こちらの言い分を聞き入れてもらえないのであれば、やむを得ないので、貴意を受け入れること、これらを懇ろに伝えられている。

6日、関東へ向けて出陣する。

同日、(上杉「輝虎(花押a)」)、関東味方中の「広田式部太輔殿(出雲守直繁。武蔵国羽生城主)」に宛てて返書を発し、来札を披読したこと、其方(広田直繁)が憲盛(武蔵国衆の深谷上杉左兵衛佐憲盛。武蔵国深谷城主)へ意見してくれたので、彼方(上杉憲盛)から使者が寄越されたこと、これに伴い、其方の使者も同行させてくれたので、めでたく喜ばしいこと、ここ数年は彼方(上杉憲盛)とは、思いも寄らず疎遠であったこと、このたび私心を捨てて忠義を尽くす覚悟を示してきたので、これからは格別な交誼を結ぶつもりなので、この内儀を申し届けてもらいたいこと、先だって申し越した通り、越・相和睦を決意したからには、今6日、当府から出馬すること、少しも進軍を滞らせるつもりはないこと、このところを心得て、速やかに参陣するべきこと、深谷も同陣するように、彼方と十分に相談されるべきこと、詳細は彼の使者の口上に申し含めたこと、これらを懇ろに伝えた。

7日、相州北条「氏政」が、上野国衆の「富岡清四郎殿(秀親ヵ。上野国小泉城主)」に宛てて返書を発し、一札を披読したこと、来意の通り、越・相一和を無事に取り成したこと、遠山左衛門尉(康光。氏康の側近。小田原衆)を越府へ遣わすも、未だに帰ってこないこと、極めて順調に運んでいるはずであること、上郷(上野国邑楽郡佐貫荘上郷の五郷。この地を巡って由良信濃守成繁の一族である横瀬新右衛門尉国広との相論していた)については、以前の裁定(横瀬に替地を与える永禄12年までは、両者で年貢を折半すること)を忘れてはいないこと、但し、上州については、すでに支配権を越(越後国上杉家)に委任する協約が結ばれているので、もはや当方は上州の公事への関与を控えなければならないこと、裁定の道理を越(越後国上杉家)へ申し届ければ、その筋目の通りに落着するであろうこと、熊皮二枚が到来したので、めでたく喜ばしいこと、取次の岩本(太郎左衛門尉定次。氏政の側近。馬廻衆)が詳報すること、これらを懇ろに伝えている。

9日、上野国衆の由良信濃守成繁から、「越府」の年寄衆に宛てて返書が発せられ、先月24日付の御書が今月朔日の午後に到着したので、拝読したところ、武蔵国松山領の帰属について、(北条)氏政の対応に異議を唱えられており、とても驚いていること、この旨をすぐさま氏康父子に説明したところ、去る4月に使僧の天用院をもって丹念に説明しており、去る6月には広泰寺(昌派)・進藤隼人佑方(家清)に対しても、この子細を様々に説明したこと、そして、このたび遠山左衛門尉(康光)をもって、この意趣も申し達したこと、それでもなお御理解を得られないようであれば、ともかく御意に従われるそうであり、直札をもって申されること、併せて氏康父子から拙夫へ宛てられた返書も御内覧のために供するので、かくなる上は速やかに御出馬されて、信・甲の御平定を遂げられるべきであること、この趣旨を御披露してもらいたいこと、これらを懇ろに伝えられている。

10日、将軍足利義昭(花押)から御内書(「上杉弾正少弼殿とのへ」)が発せられ、越・甲無事について、以前にも申し含めたこと、このたびこそ成就させるべきこと、輝虎の存念については、必ず反映させるので、期待してほしいこと、若しも上杉が出勢してしまったのならば、軽挙は慎むべきこと、使いとして南星軒を差し下すこと、よって、これらを南星軒が詳述することを伝えられている。

13日、相州北条「氏政」が、上野国衆の「阿久沢殿(左馬助。上野国深沢城主)」に宛てて書信を発し、このたび使僧の天用院を越府へ遣わすので、沼田(上野国利根郡沼田荘の沼田城)までの通行に便宜を図ってほしいこと、これを懇ろに伝えている。

15日、飛州姉小路三木「良頼(中納言)」から、取次の「直江大和守殿(景綱。大身の旗本衆)」に宛てて書信が発せられ、このたび輝虎から再び使者の若林(采女允。客分の信濃衆・村上兵部少輔義清の重臣)が差し上されたので、ことさら御交誼が深まり、本望であること、言うまでもなく良頼に於いても、ますます親身に接するつもりであること、その存念を書付をもって示すので、よしなに取り成してもらえれば、めでたく喜ばしいこと、詳細を使者が申し述べるので、この書面は略すこと、これらを懇ろに伝えられている。

18日、相州北条「氏政」が、他国衆の「千葉殿(下総国衆の千葉介胤富。下総国佐倉城主)」に宛てて書信を発し、越・相和融の成り行きについて、一切の相談をしたいので、適当な人物をひとり寄越してほしいこと、両総(下総・上総国)に於ける郷村の帰属についても聴取したいので、事情に通じた人物も寄越してほしいこと、去る6日に輝虎が盟約通りに出陣したのは確実であること、この五日の内に沼田(上野国沼田城)へ着陣する旨を報知してきたこと、これで越・相無事は間違いなく成就すること、遠左(遠山左衛門尉康光)は新田(上野国金山城)まで帰り着いたこと、但し、一ヶ条(武蔵国松山領の扱い)について、両国の見解に相違があるため、五七日以前(15日以前か)に越府へ使者を立てたので、思い通りに落着すれば、紛れもなく一和が成就すること、詳細は改めて報告すること、これらを懇ろに伝えている。

去る6日に相州北条氏康・同氏政父子との盟約通りに関東へ向けて出陣するも、越後国柏崎(刈羽郡比角荘)に着津したところで、敵対関係にある越中東郡の領主・椎名右衛門大夫康胤(越中国松倉城主)の不穏な動向を示した情報に接し、関東出陣を延期して越中へ転進した。
20日、越中・越後国境の境川を越え、椎名領(すべて新川郡内)の各所を焼き払いながら進み、堀江の地(堀江荘の堀江城とされるが、布施保の堀切城であろう)を攻め落とす。
21日、石田の地(堀切の近辺)で人馬を一日休ませる。
22日、金山城(松倉城の支城か、或いは松倉城を指すか)に攻め寄せて要害際に陣取る。
この日の朝方には、富山方面へ進んだ別働隊が新庄城を乗っ取って確保している。
23日、金山根小屋を焼き尽くし、松倉城を裸城にして追い詰めると、方々の作毛を薙ぎ払った。

同日、(上杉「輝虎」)、留守居の「本庄美作守殿(号宗緩。実乃。すでに隠居した老臣)・直江大和守殿(景綱)」に宛てて直筆の書簡を発し、きっと爰許の様子を案じているであろうから、一筆を申し遣わすこと、20日に境河を越して所々に火を放ち、堀切の地を攻め崩したこと、21日は石田で人馬を休めたこと、22日は金山へ押し寄せ、要害際に陣取ったこと、その一方では、同日の明け方に別働隊が新庄城を乗っ取ったので、此方から更に軍勢を割いて堅持させていること、23日の午後には、金山根小屋を焼き尽くし、余す所なく一変させて、松倉を裸城にしたこと、所々の作毛を薙ぎ払ったので、将来には何をもって成功と呼べるのかというほど、めでたく当国は一変したこと、やがて越後口を防備するための向城を築いた上で納馬するつもりであること、それまでの間、信州口の支配体制の堅持に努めるべきこと、飯山城(水内郡)・市川城(高井郡)・野尻新城(水内郡芋川荘)に目付を派遣して厳重警戒を促すべきこと、若しも異変があれば、直ちに注進するべきこと、越後国祢知(頸城郡)口から信州へ向かう通行者が増えているそうなので、当地に監視体制を強化するように促すべきこと、上郷と祢知平(ともに頸城郡)の地下人に証人を提出させて、彼の者共の統制を強化するべきこと、留守衆の戦力増強を図るために地下鑓を召集するべきこと、外様平衆(信濃国飯山領域の地衆)に戦備を整えさせた上で、飯山へ入城させるべきこと、飯山在城衆の源五方(村上国清。一家衆に準ずる。客分の信濃衆・村上兵部少輔義清の世子)・本田右近允(旗本衆)の許へ、大和守(直江景綱)から検使を遣わし、両者からも外様平衆の飯山移駐を手配させるべきこと、これらを伝えている。更に追伸として、諸方から受け取った証人の監視を怠ってはならないこと、以前にも申し付けた通り、必ず夜警を立てるべきこと、無道狼藉を働く輩が出ないように気を配るべきこと、これらを大和守(直江景綱)に任せることを伝えている。

26日、相州北条「氏政」が、他国衆の「由良信濃守殿(成繁)・同新六殿(国繁)」父子に宛てて書信を発し、越・相和融について、彼の国にへりくだって様々な条件を受け入れ、即座に関東管領職並びに上野一国、武州のうち岩付領を始めとする数ヶ所の引渡しに応じたにも係わらず、なおも輝虎はこちらの弱みに付け込んで無理な要求を突き付け、ひたすらどこまでも氏政を追い詰める仕打ちに、我慢の限度を越えてしまったこと、(由良成繁・国繁父子へ)その怒りのほどを示したところ、氏政と浮沈を共にされるそうであり、このたび御父子から血判誓詞が寄せられたので、感謝に堪えず本望であること、こうなったからには、御望み通りに上野一国を与えること、但し、鳥川(上野国吾妻郡より発し、同佐位郡赤石辺と武蔵国児玉郡本庄辺で利根川に合流する)から南の領域については、すでに藤田(新太郎氏邦。氏政の弟)らに少しばかり付与されていること、やむを得ない事情であるため、この分が除外されるのは御理解してほしいこと、詳細は彼の使者が口述すること、これらを懇ろに伝えている。
同日、相州北条「氏政」が、家老の「垪和伊予守殿(氏続。松山衆)」に宛てて証状を発し、先頃に務めていた駿河国興国寺城(駿東郡)の城将を不足なく務めたので、このたび城主に定め置くこと、ますます粉骨を尽くされるべきこと、在城の支度を急いで整えられるべきこと、これらを通達している。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 781号 北条氏政書状、782号 上杉輝虎書状、785号 由良成繁書状(写)、786号 足利義昭御内書(写)、792号 三木良頼書状(写)、799号 上杉輝虎書状(写)、802号 北条氏政書状(写)、828号 北条氏康書状 『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』 1295号 北条氏政書状写、1299号 北条氏政書状、1303号 北条氏政判物写

◆ 越中国堀切城については、『日本歴史地名大系 第16巻 富山県の地名』(平凡社)を参考にした。
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越後国上杉輝虎(旱虎)の略譜 【52】

2013-08-13 15:03:03 | 上杉輝虎(謙信)の略譜
永禄12年(1569)7月 上杉輝虎(旱虎。弾正少弼) 【40歳】

朔日、相州北条「氏康(相模守)」が、他国衆の「平沢左衛門尉殿(政実。武蔵国御嶽城主)」に宛てて書信を発し、このたび根も葉もない噂話が流布しているそうであり、はなはだ心許ないので、音信を通じたこと、昨年の駿河国薩埵山陣(庵原郡)に際しては、諸口に於いて何度も奮闘して戦功を稼いでくれたので、この紙上には書き尽くせないこと、そればかりか、甲州武田方の小幡三河守(信尚。上野国鷹巣城主)と長根(小河原右馬助重清ヵ。同長根城主)を誘引してくれたので、見上げた忠節であること、しかしながら、こうした忠節には証拠も証文もないと、浄法寺が異議を唱えているようだが、全く取り合うつもりはないこと、いちいち証文の有無で忠節を疑っていたのでは、誰も安心して味方ではいられないであろうこと、取り分け其方(平沢政実)は老母を人質として鉢形(武蔵国鉢形城。氏康の四男・藤田新太郎氏邦の居城)に差し出しているばかりか、此方(相州北条家)の援軍を(御嶽城の)本城と中城に迎え入れたいとの要望を申し出ており、疑念をいささかも抱いてはいないこと、それでもやはり其方が慎重を期したいのであれば、希望通りに新太郎(藤田氏邦)の人衆を本城と中城に迎え入れても構わないこと、浄法寺は確たる証拠が無いにも係わらず、いたずらに人心を惑わしたので、当方から放逐すること、これらを懇ろに伝えている。
同日、相州北条「氏政(左京大夫)」が、下総国栗橋城(葛飾郡)の留守居を任せている他国衆の「野田殿(景範。もとの栗橋城主。下総国鴻巣城主)」に宛てて書信を発し、このたび駿州へ(武田)信玄が出張してきたので、これに対向したこと、そこで、武蔵国由井(多西郡)の留守居として栗橋衆を召し寄せたいので、その間、栗橋城の留守居を頼み入ること、よって、これらを弟の源三(北条氏照。氏康の三男。武蔵国滝山城主と下総国栗橋城主を兼務する)が詳報することを伝えている。
同日、相州北条氏の一族である玉縄北条左衛門大夫綱成(相模国玉縄城主)が、「野田右馬助殿(景範)貴報」に宛てて返書を発し、仰せの通り伝え聞いていたところに御懇書が寄せられたので、まさしく筆舌に尽くし難いほどにめでたく喜ばしいこと、御音信の通り、このたびその地(栗橋城)の番手衆が編成されたのに伴い、拙者の同心である高田左衛門尉が旗頭を申し付けられた加勢の衆が差し越されたところ、御懇切にしてくれているそうであり、彼人(高田左衛門尉)から繰り返し申し越されていること、愚(北条綱成)に於いても本望であること、先日に申し達したところ、詳しい返報を寄せてくれたので、ひたすら恐悦していること、これからは親しく申し合わせる覚悟であること、よって、これらを高田左衛門尉が申し達せられるべきことを伝えている。

2日、(上杉「輝虎(花押a)」)、飛騨国の味方中の江馬四郎輝盛(飛州姉小路三木家の重臣。飛騨国高原諏訪城主)の宿老衆である「河上伊豆守殿・同中務少輔殿(富信)」に宛てて返書を発し、先頃に使者の若林采女允(客分の信濃衆・村上兵部少輔義清の重臣)をもって(江馬)輝盛へ申し届けたところ、毎度のように其方(河上伊豆守・河上中務丞富信)が懇切に取り成してくれたゆえ、ますます交誼が深まったので、ひときわ喜んでいること、今後とも緊密に交流を図るつもりであること、よって、これらを村上源五方(国清。義清の世子で、一家衆に準ずる)が詳報することを伝えた。更に追伸として、織田信長へ音信を通ずるため、(美濃国厚見郡岐阜城へ)使僧を差し遣わすので、通行の便宜を図ってくれるように求めた。

4日、北条「源三氏照」が、「右馬助殿(野田景範)御宿所」に宛てて書信を発し、ここ暫くは申し達していなかったこと、このたび駿河国富士屋敷(大宮城。富士郡)へ(武田)信玄が攻めかけられたこと、防備の弱い屋敷同前の城であるにも係わらず、城衆が防戦を尽くしたので、敵勢は二千人の死傷者を出したこと、これにより、自ら駿州に出陣した氏政は、興亡の一戦を遂げるため、諸方へ配置していた人衆を手元に呼び寄せており、愚(北条氏照)も全ての人衆を引き連れているので、当地(由井城)の留守居を栗橋衆に任せる旨を申し付けられたこと、彼の地については、戦中であっても移られるように、氏政は申されており、御同意してもらいたいこと、詳細は山本が口述すること、これらを懇ろに伝えている。

7日、(上杉「輝虎」)、関東味方中の太田美濃入道道誉(三楽斎。資正。常陸国片野城主)・梶原源太政景父子に宛てた条書を使者に託し、一、当秋に挙行する戦陣と戦後の処置のこと、一、佐(常陸国衆の佐竹次郎義重。同太田城主)・宮(下野国衆の宇都宮弥三郎広綱。下野国宇都宮城主)のこと、一、父子(太田入道道誉・梶原政景)の進退のこと、一、多修(常陸国衆の多賀谷修理入道祥聯。政経。常陸国下妻城主)の存分のこと、一、成左(武蔵国衆の成田左衛門次郎氏長。武蔵国忍城主)を帰属させるための方策のこと、一、是が非でも関東を見捨てないこと、一、駿州を十二分に救済していくこと、これらの条々について説明した。
8日、(上杉「てる虎」)、太田美濃入道道誉の妹である「みとするか内かたへ(三戸駿河守の内方)」に宛てて仮名書き消息を発し、関東の経営が万事立ち行くため、みののかミ(太田入道道誉)が才覚を働かせて方略を施すように、(道誉へ)意見してほしいこと、よって、これを彼の使者が詳説することを伝えた。
同日、取次の河田「ふせんのかミなか親(豊前守長親。大身の旗本衆)」が、「三御内(三戸駿河守御内方)」の年寄中に宛てて仮名書き消息を発し、このたび好便を得たので、(輝虎が)御ふみをもって仰せられること、御父子(太田入道道誉・梶原政景)の御説得に御尽力してもらいたいこと、詳細は御直書に綴られていること、よって、これらを彼の使者が口述されることを伝えている。

11日、藤田「氏邦」が、配下である「出浦左馬助殿」・「多比良将監殿」のそれぞれに宛てて感状を発し、このたび武蔵国三山谷(秩父郡)へ敵(甲州武田軍)が侵攻してきたところ、対戦に及んで功名を挙げたのは、感悦であることと、今後ますます奮励すれば、重ねて扶助することを通達している。
同じく「斎藤右衛門尉五郎殿」に宛てて感状を発し、このたび三山谷へ敵が侵攻してきたところ、人並みすぐれた奮戦をして功名を挙げたのは、傑出していること、取り分け親である新左衛門尉が討ち死にしたのは、気の毒であること、今後ますます奮励すれば、相応に扶助すること、これらを通達している。
同じく「朝見伊勢守殿」に宛てて感状を発し、このたび甲州勢が夜中に土坂に忍び入り、阿熊に駐屯したところ、早朝に物見山からこれを発見し、すぐさま吉田の防塁へ駆け付けて防備を固めたのは、すこぶる感悦であること、これにより、苗字である阿佐美の文字から朝見の文字に改め、その誉れを子孫に残すべきこと、当座の褒美として、太刀一腰を遣わすべきこと、これらを通達している。

15日、武蔵国衆の深谷上杉「藤原憲盛(左兵衛佐。武蔵国深谷城主)」から、「越府」の年寄中に宛てて書信(謹上書)が発せられ、このたび敢えて使者(渋江大炊助)をもって申し入れること、今般の駿州を巡るいきさつにより、小田原(相州北条家)から和睦を申し寄られたところ、御納得されたそうであり、河田豊前守(長親)が申し越されたので、真実めでたいこと、以前のように(輝虎)がその権限に基づいて当国(武蔵)を統治されるべきであること、我等(上杉憲盛)は御筋目を遵守して忠義を疎かにしないこと、御祝儀として金覆輪の太刀一腰・鳥目二百疋を進上すること、詳細は渋江大炊助の口上に申し含めること、これらを懇ろに伝えられている。
同日、深谷上杉「憲盛」から、取次の「河田豊前守殿(長親)」に宛てて返書が発せられ、先頃に木戸伊豆守(忠朝)・広田出雲守(直繁。木戸忠朝の兄。武蔵国羽生城主)が使者をもって申し述べられた際、拙者(上杉憲盛)の進退について、屋形(輝虎)から御内々に御厚情を寄せられたそうであり、彼の地(羽生城の広田・木戸兄弟)が其方(河田長親)から承った旨を申し越されたこと、まさしく感謝に堪えず本懐であること、(輝虎が)憲政(山内上杉光徹)の御家督を御継承されたのに比べ、吾等(上杉憲盛)は当国(武蔵)の御幕(上杉家)を汚し、相(相州北条家)と交誼を結んでしまったので、ひとえに相応な御取り成しを頼み入ること、知行方について、善応寺・渋江大炊助の両使をもって存分を申し入れること、よくよく御聞き届けらてもらい、御披露を任せ入ること、よって、木戸(忠朝)から事情に通じた者(佐藤筑前守)が当方の使節に同行しており、趣旨の詳細にについては、彼方が申し届けられること、これらを懇ろに伝えられている。
同日、関東味方中の木戸伊豆守忠朝から、取次の「河田豊前守殿(長親)」に宛てて書信が発せられ、このたび敢えて使者をもって申し上げること、先日は深谷(上杉憲盛)に対して帰属を呼び掛けるように、(輝虎の)御内命を受けたので、両使を差し越して意見したところ、こと、御意に従われたので、このたび(上杉憲盛が)両使(善応寺・渋江大炊助)をもって仰せ述べられること、これにより、当方からは事情に通じる佐藤筑前守を同行させたこと、深谷はもとより、古河・栗橋(ともに下総国葛飾郡)の様子について、条目をもって申し上げること、こうした趣旨を御披露してもらいたいこと、これらを懇ろに伝えられている。

16日、上野国衆の由良「信濃守成繁(上野国金山城主)」から、上野国沼田城(利根郡沼田荘)の城衆である「松石(松本石見守景繁)・河伯(河田伯耆守重親)・上中(上野中務丞家成)」に宛てて書信が発せられ、取り急ぎ申し上げること、昨15日の午後に但馬守方(足利長尾景長。嫡男の新五郎顕長は由良成繁の三男。上野国館林城主)が死去されたので、拙者(由良成繁)の暗然たる思いを御察ししてもらいたいこと、この件を越府へも御申し上げるので、方々の御取り成しに頼るばかりであること、これらを懇ろに伝えられている。

17日、取次の「村上義清(兵部少輔)」が、飛騨国の味方中の江馬四郎輝盛の取次である「河上式部丞殿 まいる」に宛てて書信を発し、またぞろ濃州(織田信長)に用談があり、若林采女(允)を(岐阜へ)差し越すので、往復の通路について、あらゆる便宜を図ってもらいたこと、御正印(飛州姉小路三木良頼)から輝虎への音信は寄せられておらず、御面倒ならば無用であるが、此方(村上義清)にて御音物を用意するので、御書中だけでも寄せてほしいこと、詳細は若林が口述するので、この書面は略したこと、これらを懇ろに伝えている。

同日、相州北条方の取次である北条源三氏照から、「越府」の年寄中に宛てて返書が発せられ、このたび格別な芳札を給わり、その御懇切のほどは、まさしく本望極まりないこと、越・相御一味の御取次について、弟の氏邦と氏照を起用する件は、去春に氏康が申し述べられたであろう通り、拙者(北条氏照)もその趣旨を理解して役目に精励したつもりであったところ、今般の御両使(広泰寺昌派・進藤隼人佑家清)の御到来に際し、氏邦ひとりが精励したので、御不審に思われたそうであること、その折りは由良(信濃守成繁)の手筋(氏照は北条丹後守高広の手筋)が任用されたゆえであること、氏照も内外に係わらず、先頭に立って両国の御提携を円滑に進めるべく、いささかも疎かにせず精励したこと、こうした事情は広泰寺・進藤方が申し達せられるはずであること、詳細は山吉方(孫次郎豊守。大身の旗本衆)に頼み入るので、御意を得たいこと、これらを懇ろに伝えられている。

21日、関東味方中の白井長尾「憲景(常陸在国か。もと上野国白井城主)」・惣社長尾「長健(同前。もと上野国惣社城主)」から、取次の河田豊前守長親に宛てて返書(礼紙ウワ書「河田豊前守殿  長尾左衛門尉 憲景・同能登入道 長健」)が発せられ、このたび寄せられた御書を謹んで拝読したこと、同名但馬守(足利長尾景長)が死去した事実を、由良方(成繁)からの注進状を披読して知ったこと、やむを得ない結末であること、(輝虎の)仰せの通り、但馬(長尾景長)は(輝虎から)計り知れないほどの御芳恩を受けたにも係わらず、近年は忠義を違えたゆえ、御罰を蒙ったものと理解していること、それでも(輝虎が)御落胆されているので、(長尾景長の)亡魂も浮かばれるであろうこと、この趣旨を御披露してもらいたいこと、これらを懇ろに伝えられている。更に追伸として、御書の趣旨のそれぞれに御賛同するほかないことを伝えられている。

27日、飛州姉小路三木「良頼」から、取次の「河田豊前守殿(長親)」に宛てて返書が発せられ、このたび格別な使者を遣わしてもらい、本望であること、遠路の労苦を厭わず、書中の通り菱喰(雁)・干鯛を贈ってもらい、祝着であること、先だって輝虎へ使者をもって申し述べたところ、路次番以下の便宜を図ってもらい、快然であること、以前に若林采女允を差し上せられて、(輝虎から)要望があれば応じるとの申し出が示されたので、要望をまとめた書付をもって示したところ、その筋から聞こえていた情報によれば却下されたようなので、遺憾ではあるがやむを得ないこと、江州(濃州ヵ)へ差し越される使節団の通行に際し、路次番については、細やかに申し遣わしており、現地が対応を忘れはしないので、安心してほしいこと、いつ何時であろうとも、こうした要請に快く応じること、来信を期していること、これらを懇ろに伝えられている。

29日、(上杉「輝虎(花押a)」)、越後奥郡国衆の「鮎川孫二郎殿(盛長。越後国大葉沢城主)に宛てて返書を発し、このたび飛脚が到来したので、その趣旨を理解したこと、大宝寺(出羽国田川郡大泉荘)の様子を注進してくれたので、詳しく把握できたこと、大川(越・羽国境の越後国瀬波郡小泉荘)の警戒が重要なので、大川(三郎二郎長秀。越後国藤懸(府屋)城主)にも留意するように申し越すべきこと、信州へ向けて出陣しようとしたところ、彼の州(甲州武田家)から子細(和睦)を申し越してきたので、取り敢えず延引したこと、信州口・上口(越中)の状況が気掛かりだとして、関東味方中が軍勢を寄越してきたこと、倉内(上州沼田城)の者共は当府に本日到着したこと、そのほか諸軍勢を参集させて、信・越両口に措置を講じているので、心配しないでほしいこと、よって、これらを山吉孫二郎(豊守)が詳報することを伝えた。


この間、甲州武田「信玄(徳栄軒)」は、2日、信濃先方衆の「玉井石見守殿」に対して書信を送り、こちらから申し越すべきところ、わざわざ音問を寄せてくれたので、めでたく喜ばしいこと、このたび図らずも豆州へ出陣すると、三島(田方郡)とその周辺を壊滅壊させたばかりか、北条(同郡韮山)の地に於いて、当手の先衆が北条助五郎兄弟(氏規。氏康の五男。相模国三崎城主。伊豆国韮山城将。弟は氏康の六男とされる六郎氏忠か。氏忠の実父は氏康の弟である氏堯らしい)と一戦に及び、小田原の主だった者を五百余ばかり討ち取って勝利したこと、このまま相府小田原へ馬を進めようとしたが、足柄・箱根(ともに相模国西郡)の両坂は難所であるため、駿河国富士郡へ移陣したこと、そうしたところ、駿河国大宮城に立て籠もる富士兵部少輔(信忠)が、穴山左衛門大夫(武田信君。親類衆。甲斐国下山城主。駿河国興津城将)を頼み、今明のうちに城を明け渡す旨を表明してきたので、この上は早々に帰国するつもりであること、よって、これらを取次の土屋平八郎(昌続。譜代衆)が詳報することを伝えている。
3日、同じく「大井左馬允入道殿(道海)」に対して直筆の書簡を送り、このたび伊豆国三島から、そのまま駿河国大宮へ向かって出張ると、諸虎口を撃破して追い詰めたところ、城主の富士兵部少輔(信忠)が穴山左衛門太夫(信君)を頼って降伏を懇望してきたので、赦免して城を接収したこと、これで当表については思いのままに本意を達したこと、この上は城内の統治などの指図をしてから、三日のうちに馬を納めるので、安心されてほしいこと、これらを懇ろに伝えている。更には追伸として、陣場で書簡を認めたゆえに混乱しており、花押ではなく印判を据えたことへの理解を求めている。
4日、甲斐国衆の「加藤丹後守殿(景忠。甲斐国上野原城主)」に対して感状を与え、このたびの駿州陣に於いて、先手を申し付けたところ、自ら奮闘して数多の敵を討ち取った忠功を褒め称えるとともに、今後の更なる戦功に期待を寄せている。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 418号 上杉輝虎書状、772・773号 上杉憲盛書状、774号 木戸忠朝書状、775号 由良成繁書状(写)、776号 北条氏照書状、777号 村上義清書状、778号 長尾長健・同憲景連署状、780号 上杉輝虎書状、917号 上杉輝虎書状、918号 河田長親書状 『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』 1271号 北条氏康書状、1272号 北条氏政書状写、1273号 北条綱成書状写、1277号 北条氏照書状写、1283号 北条氏邦感状、1284・1285・1286号 北条氏邦感状写 『戦国遺文 武田氏編 第二巻』 1427号 武田信玄書状、1428号 武田信玄書状写、1429号 武田信玄感状写


◆ (永禄12年)7月7日付上杉輝虎条書は、新井浩文氏の論集である『戦国史研究叢書8 関東の戦国期領主と流通 ― 岩付・幸手・関宿 ―』(岩田書院)の「第一部 岩付太田氏 第五章 岩付太田氏関係文書とその伝来過程」に於ける史料紹介から引用した。
◆ 『上越市史』は917・918号文書を元亀元年に仮定しているが、栗原修氏の論集である『戦国史研究叢書6 戦国期上杉・武田氏の上野支配』(岩田書院)の「第一編 上杉氏の関東進出とその拠点 第二章 上杉氏の隣国経略と河田長親」を参考にし、永禄12年の発給文書として引用した。
◆ 『上越市史』780号文書の解釈については、丸島和洋氏の論考である「甲越和与の発掘と越相同盟」(『戦国遺文 武田氏編 第六巻 月報6』東京堂出版)を参考にした。
◆ 『戦国遺文 後北条氏編』1271号文書の受給者は安保泰通とされていたが、『児玉町史 中世資料編』に従って平沢政実に改めた。
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