越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎(旱虎)の年代記 【永禄12年9月】

2013-08-26 23:31:18 | 上杉輝虎の年代記

永禄12年(1569)9月 越後国(山内)上杉輝虎(旱虎。弾正少弼)【40歳】


14日、越中陣から、同盟関係にある相州北条氏康・同氏政父子へ書状を発した。北条父子の許には27日に到着することになる(『上越市史 上杉氏文書集一』810号)。


20日、同じく越中陣から、関東代官を任せている北条丹後守高広(上野国群馬郡厩橋城の城代)へ宛てて条書を発し、覚、一、(房・相一和については)上総の儀(帰属)については、一向に(房・相)どちらも言及されていないこと、下総については互いに主張して譲る気はないこと、一、愚老(輝虎)の意見は、下総を(房州里見家)に渡すべきであると、(相州北条)氏政へ意見したこと、千葉方・原・両酒井・高城以下は、そのまま城々に差し置かれ、下総の証人は愚老が預かり置くとして、(房州里見父子へ意見し、)一和を取り持ったところ、(里見義弘は)こうした意見には取り合わず、以前には言っていなかったことである、書札礼における愚老の書様が悪いと、申されてきたこと、これは、「里見太郎殿」と名字を書き越しているのが、口惜しいそうであること、当家(山内上杉家)の書礼については、都鄙の上意(京都と関東の公方)の手本に則り、いずれの方へも所書は記さないこと、もっぱらは事を左右にして、(甲州武田)信玄へ同心するのものと見聞したこと、一、房州と手切れにおいては、(鎌倉公方足利)義氏様の御身上はどうなるのかと思われること、以上、これらの条々を申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』808号「北条丹後守殿」宛上杉「謙信(ママ)」書状写)。


千葉方は、下総国佐倉の千葉介胤富で、佐倉城に拠る。原は、千葉氏の重臣である原 十郎胤栄で、下総国生実城に拠る。両酒井は、ともに上総国衆で、土気城に拠る酒井中務丞胤治と東金城に拠る酒井左衛門尉政辰。高城は、下総国衆で、小金城に拠る高城下野守胤辰。


鎌倉公方足利義氏は、この6月28日に下総国古河城の還座している(『戦国遺文 古河公方編』921号)。



25日、越後国上杉家の年寄衆である柿崎和泉守景家(輝虎一家に準ずる重臣)・山吉孫次郎豊守(輝虎の最側近)・河田豊前守長親(輝虎の寵臣で越中国代官を任されている)をもって、越中国森尻荘内に制札を掲げ、制札、森尻の庄内における諸軍勢の濫妨狼藉を停止すること、もしも違犯する輩がいれば、注進のうえで罪科に処すると、仰せになり、御印判を据えられたものであること、よって、前述の通りであること、これらを申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』809号 上杉輝虎制札 【朱印】印文「地帝妙」 【奉者】柿崎「和泉守」景家・山吉「平 豊守」・河田「豊前守」長親)。



この間、同盟関係にある相州北条氏康・同氏政父子は、6月に結ばれた越・相一和の盟約に従って、輝虎が8月下旬には上野国沼田城(利根郡沼田荘)に着陣することを報知していたにもかかわらず、8月中旬に越中国へ転進してしまっており、一向に音沙汰がないことを心配し、氏政兄弟衆で越・相の通交における取次の藤田新太郎氏邦(氏康の五男。武蔵国鉢形領を管轄する)と併せて、10日以降にまとめて書状を発している。

9月7日、相州北条氏康(相模守)が書状を認め、氏政が客僧をもって申し届けるそうなので、(氏康も)申し上げること、先月下旬には、沼田に御着馬されるものと承知していたところ、それ以後は是非が伝わってこないため、一切が心許なく思えてならないこと、様子の委細を御知らせ願いたいこと、寄せられた情報によると、甲府(甲州武田信玄)は、信州口の人数(信濃奥郡の先方衆)までも動員したそうであると、伝わってきていること、異変があるにおいては、さらに申し述べること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』803号「山内殿」宛北条「氏康」書状写)。

同日、相州北条氏政(左京大夫)が書状を認め、取り急ぎ飛脚をもって申し届けること、粛然と先月下旬に至れば、御兼約の通り、御出陣されるものと承知していたところ、沼田まで御着陣の是非が未だに伝わってこないこと、はなはだ御心配であること、そのために申し上げたこと、あるいはまた、駿・甲国境はその後に異変はないこと、そうではあっても、今しがた寄せられた注進によれば、(甲州武田信玄は)信州・西上州衆を甲府へ召集して戦陣を催すとの情報が入ってきたこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』804号「山内殿」宛北条「氏政」書状)。

同日、相州北条氏政が、取次の山吉孫次郎豊守へ宛てた書状を認め、沼田まで御着陣の是非が未だに伝わってこないこと、はなはだ心配に思っているので、飛脚をもって申し届けること、委細の御知らせを待ち入ること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』805号「山吉孫次郎殿」宛北条「氏政」書状)。

同日、取次の遠山左衛門尉康光(氏康の側近。小田原衆)が、山吉孫次郎豊守へ宛てて副状を認め、取り急ぎ脚力をもって申し入れられること、先月20日頃に沼田へ、 (輝虎が)御着陣されるものと仰せ聞かされていたので、(氏康父子は)その旨を承知されており、近日は御吉報を心待ちにされていたところ、依然として伝わってこないので、御心許なく思われていること、其元(越陣)の御様子を詳しく仰せ越されてほしいこと、もとより、このたびの(山吉豊守の)貴府における様々な御取り成しには、ひたすら恐悦していること、その御懇意のほどは、氏康父子に申し聞かせたこと、しかと御越山の折に申し達するので、この紙面は省略すること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』806号「山孫 参御宿所」宛「遠左 康光」副状写)。

10日、取次の藤田新太郎氏邦が、山吉孫次郎豊守へ宛てた書状を認め、(北条)氏政から客僧をもって申し入れられること、よって、武田信玄が西上州へ出張し、昨9日に御嶽城(武蔵国児玉郡)へ攻め懸けたところ、(御嶽衆が)敵百余人を討ち取ったこと、首級を小田原へ差し越してきたこと、されば、今10日には当地鉢形城(男衾郡)へ攻め寄せてきたところ、外曲輪において仕合に及び、死傷者は際限ないこと、まずもって御安心に思われてしてほしいこと、今この時であるので、早々の御越山を仰ぐところの旨を、御理解に預かりたいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』807号「山吉孫次郎殿」宛「藤田新太郎氏邦」書状)。



越中陣から輝虎が14日に発した書状が相府小田原へ届くと、9月27日、相州北条氏康・氏政父子から返状が発せられ、9月14日付の御状が今27日に到来したので、本望そのものであること、内々にこちらから申し述べるつもりであったとはいえ、(武田)信玄が出し抜けに御嶽城へ攻め込まれ、彼の地から分別なく相州に向かって陣を寄せられたこと、目前の対応に追われて取り乱し、(連絡が)叶わなかったこと、すでにこの通り、(武田軍は)国中まで攻め入っているからには、仕方がないので、勝負の結果にとらわれず、無二の一戦に臨むこと、恐らく五日から七日の間に決着がつくはずであること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』810号「山内殿」宛北条「氏康」・北条「氏政」連署状写)。

晦日、相州北条氏康から追伸となる返状が発せられ、重ねて申し入れること、配慮に欠けるとは思いながらも、椎名(越中国松倉(金山)の椎名右衛門大夫康胤)の進退を早速にも御赦免あり、年内中の御戦陣を、一方向に仰せ付けられるについては、信・甲両国の御退治を後戻りするべきではないこと、それにしても信玄をかならずや追い詰められるべきであろうと思えるので、無遠慮ながら申し入れたこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』811号「山内殿」宛北条「氏康」書状写)。



この間、敵対関係にある甲州武田信玄(徳栄軒)は、9月9日、武蔵国御嶽城、10日、同鉢形城、その後、同滝山城(多西郡)に一当たりすると、相模国の中央部に進出し、28日、酒匂川の東岸(西郡)に陣取り、相府小田原城に迫っている(『上越市史 上杉氏文書集一』807号 ●『戦国遺文 武田氏編四』2898号)。


甲州武田陣営に属する椎名右衛門大夫康胤の重臣である寺嶋職定(三郎。もとは越中国増山の神保惣右衛門尉長職の重臣。越中国新川郡の池田城に拠る)は、越後国上杉軍の進攻に対応するなか、18日、越中国葦峅村・本宮村(ともに新川郡)の百姓中へ宛ててて書状を発し、越後から乱入について、池田城(新川郡須江荘)に入り、格別に忠節を尽くしたのは殊勝であること、これにより、今後の三年間にわたって年貢の三分の一を免除するので、ますます奮闘するべきこと、そのために一筆を遣わしたこと、これらを謹んで申し伝えている(『富山県史 史料編Ⅱ1705号「葦峅・本宮 百姓中」宛寺嶋「職定」書状)。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『戦国遺文 古河公方編』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 武田氏編 第四巻』(東京堂出版)
◆『富山県史 史料編Ⅱ 中世』(富山県)

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越後国上杉輝虎(旱虎)の年代記 【永禄12年8月】

2013-08-20 20:52:54 | 上杉輝虎の年代記

永禄12年(1569)8月 越後国(山内)上杉輝虎(旱虎。弾正少弼)【40歳】


6日、相州北条家との盟約に従い、関東へ向けて出馬する。6月から7月にかけての頃、越中国で一揆が蜂起(越中国東部の椎名康胤の動きか)に伴い、越中国西部の神保長職父子の間の抗争が勃発したことと、7月の中頃に甲州武田信玄からの申し入れにより、内々に越・甲和与を結んでいたことからして、関東へ出馬する気はなく、当初から後顧の憂いを断つために越中国へ向かうつもりであったのかもしれない。


同日、関東味方中の広田式部大輔直繁(当時はすでに出雲守を称している。武蔵国埼玉郡の羽生城を本拠とする)へ宛てて返状を発し、来札を披読したこと、憲盛(武蔵国衆の深谷上杉左兵衛佐憲盛。武蔵国榛沢郡の深谷城を本拠とする)への其方(広田直繁)の意見をもって、(上杉憲盛が越府春日山へ)使者を寄越されたこと、これにより、(広田が)使いを添えられたのは、ありがたく祝着であること、彼方(憲盛)とは数年、思いも寄らず疎遠であったこと、私心を捨てて従う覚悟を示してきたので、これからは格別な交誼を結ぶつもりであること、なおもって内儀の件を届けられるのが当然であること、先だって申し越した通り、越・相和睦を決意したからには、今6日、当府から出馬すること、路次を少しも遅らせるつもりはないこと、このところを心得て、速やかに参陣するのが当然であること、深谷も同陣するように、彼方(深谷)と相談されるべきであるのは、千言万句に極まること、なお、(使者の)口上に申し含めたこと、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』782号「広田式部太輔殿」宛上杉「輝虎」書状【花押a4】)。



関東へ向かうなか、10日、将軍足利義昭から御内書が発せられ、越・甲無事について、以前にも申し含めたこと、このたびこそ、(成就させるのが)適切であること、輝虎の存分を、(足利義昭へ)取り急ぎ申し上げてくれれば、喜ばしいこと、万が一にも上杉が(甲・信へ)出勢においては、好ましくないので気遣いが肝心であること、南星軒を差し下すこと、委細を(南星軒が)申し述べること、これらを申し渡されている(『上越市史 上杉氏文書集一』786号「上杉弾正少弼とのへ」宛足利義昭御内書写【署名はなく、花押のみを据える】)


同じく、15日、飛州姉小路三木良頼(中納言)から、取次の直江大和守景綱(輝虎の最側近)へ宛てて返状が発せられ、輝虎から重ねて若林(采女允。客分の信濃衆である村上兵部少輔義清・同源五国清父子の重臣)を差し上せられ、格別に御入魂が深まり、本望であること、言うまでもなく良頼においても、ますます御親身に接するつもりであること、適切に取り成してもらえれば、祝着であること、なお、(詳細は)使者が申し述べるので、(この紙面は)省略すること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』792号「直江大和守殿」宛三木「良頼」書状写)。


この頃、甲州武田陣営の越中国松倉(金山)の椎名康胤(右衛門大夫)の不穏な動きを見せているとの情報により、柏崎(刈羽郡比角荘)の地から転進して越中国へ向かう。

20日、越中・越後国境の境川を渡り、椎名領(新川郡)の各所を焼き払いながら進み、堀江の地を攻め崩す(堀江荘の堀江城とされるが、『日本歴史地名大系 第十六巻 富山県の地名』(平凡社)では、この地より、国境に近い布施保の堀切城と考えられている)。

21日、石田の地(堀切の近辺)で人馬を一日休める。

22日、金山城(松倉城の支城あるいは松倉城そのものか)に攻め寄せると、要害際に陣取る。この日の朝方には、富山方面へ進んだ別働隊が新庄城を乗っとる。

23日、金山根小屋を焼き尽くし、松倉城を実城ばかりの裸城にして追い詰めると、方々の作毛を薙ぎ払う。


同日、松倉陣から越府春日山の留守将である本庄美作入道宗緩(俗名は実乃。すでに隠居した老臣)・直江大和守景綱(輝虎の最側近)へ宛てて、直筆の書状を発し、爰元(越中陣)の様子を、きっと案じているであろうから、一筆申し遣わすこと、20日に境河を越し、所々を放火して進み、堀切の地を攻め崩し、21日は石田の地で人馬を休め、22日に金山へ押し寄せ、要害際に陣取り、(その一方で)同日の明け方に(別働隊が)新庄を乗っ取ると、此方(松倉陣)から(軍勢を向かわせて)堅持させ、23日の申刻(午後四時前後)に金山根小屋をすべて放火したにより、残す所なく一変させて、ひとえに(椎名康胤は)松倉を巣城ばかりにて維持していること、所々の作毛を打ち散じたので、何をもって将来に功を成すべきであろうか、いずれにしても当国は一変し、珍重であること、やがて越後口に向地利を築かれたうえで納馬するつもりであること、それまでの間は信州口に堅固の処置を施すのが肝心であること、飯山(水内郡)・市川(高井郡)・野尻新地(水内郡芋川荘)の用心のために目付を遣わし、油断してはならないこと、信州口に異変があれば、早々に注進に及ぶのが適当であること、祢知口(越後国頸城郡西浜地域)から信州へ向かう通行者が増えているそうであること、このような事態にも(警戒を)堅く申し付けるべきこと、上郷(越後国頸城郡)の地下人の証人をも取られるために、祢知平の地下人の証人をも取らせ、いかにも処置が肝心であること、留守中の人数として、地下鑓をも集めるのが適切であること、また、外様平(信濃国飯山領域の地衆)に支度をさせ、飯山へ入城させるべきであり、大和守(直江景綱)の所から(外様平衆の許へ)検使を遣わし、(飯山城で在番中の)源五方(信濃衆の村上国清。妻は輝虎の養女と伝わる)・本田右近允(輝虎旗本)と同所に(入るように)申し付けるべきこと、これらを恐れ謹んで申し伝えた。さらに追伸として、所々から受け取った証人の用心が肝要であること、(これは)以前に申し付けたこと、夜の当番を堅く申し付け、そのほか無道狼藉を働く輩が出ないように、大和守へ任せること、以上、これらを申し添えた(『上越市史 上杉氏文書集一』799号「本庄美作守殿・直江大和守殿」宛上杉「輝虎」書状写)。



この間、同盟関係にある相州北条家が、輝虎の関東越山を待っているなか、武蔵国松山領の帰属を巡り、越・相両国間で認識の違いが明らかとなったので、8月5日、同盟関係にある相州北条氏政(左京大夫)から書状が発せられ、松山領(武蔵国比企郡)の一件について、由信(上野国衆の由良信濃守成繁。上野国新田郡の金山城に拠る)の所から申し越すこと、去る4月に天用院をもって、委細を申し入れた通り、元来から城主の上田(安独斎宗調。武蔵国衆)の本地本領なので、(現状維持を)聞き入れられてもらえるように申し述べたこと、この筋目は、このたび(去る6月に相府へ到来した)広泰寺(昌派。使僧)・進藤方(輝虎旗本の進藤隼人佑家清)へも念入りに説明したこと、そうではあっても、聞き入れられてもらえないのであれば、どうしようもないので、(輝虎)貴意に任せること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』781号「山内殿」宛北条「氏政」書状)。

7日、相州北条氏政が、上野国衆の富岡清四郎(実名は秀親か。上野国邑楽郡の小泉城を本拠とする)へ宛てて返状を発し、一札を披読したこと、来意の通り、越・相無事に取り成したこと、遠山左衛門尉(康光。北条氏康の側近で、小田原衆に属する)を(越府春日山へ)遣わしたこと、未だに帰ってこないこと、おそらく異常はないであろうこと、されば、上郷の件(富岡は、上野国邑楽郡佐貫荘上郷の五郷を巡り由良成繁の族臣である横瀬新右衛門尉国広と相論していた)については、以前の裁定(横瀬国広に替地を与える永禄12年までは、両者で年貢を折半すること)は失念していないこと、ただし、上州については、越(上杉家)へ任せることを申し合わせたので、ただ今は上州の公事の沙汰を、当方は注意を払って控えなければならないこと、道理に至るところを、越へ申し届けられれば、おそらく異議はないのではないかと思われること、従って、熊皮二枚が到来し、祝着であること、なお、(詳細は)岩本(太郎左衛門尉定次。氏政の側近で、馬廻衆に属する)が申し届けること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 後北条氏編二』1295号「富岡清四郎殿」宛北条「氏政」書状写)。

9日、上野国衆の由良信濃守成繁から、越後国上杉家の年寄衆へ宛てて返状が発せられ、先月24日付の(輝虎の)御書が今月朔日の午後に到着し、拝読したところ、松山の一儀について、氏政の処置には行き違いがあるのを、御書で明らかにされたこと、(由良成繁は)驚き入り、即刻に氏康父子へ説明したところ、去る4月に天用院をもって委細を申し達し、そのうえ(去る6月)広泰寺(昌派)・進藤隼人佑(家清)方へも子細を様々に説明したこと、このたび遠山左衛門尉(康光)をもっても、先頃の意趣を申し達したところ、(それでも輝虎の)御意に適わないのかどうか、このうえは、とにもかくにも御意に任せれるそうであり、(北条父子は)直札をもって申し述べられること、ならびに氏康父子から拙者(由良成繁)への返状も、御内見のために進覧奉ること、かくなるうえは、早速にも御出馬あり、信・甲御静謐を遂げられるのが適切であると存じ奉ること、この旨を御披露に預かりたいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』785号「越府 貴報人々御中」宛由良「成繁」書状写)。


13日、相州北条氏政が、上野国衆の阿久沢左馬助(上野国勢多郡の深沢城を本拠とする)へ宛てて書状を発し、天用院を越府へ遣わすこと、沼田(上野国利根郡沼田荘の沼田城)への路次中の馳走を任せ入ること、これを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 後北条氏編二』1297号「阿久澤殿」宛北条「氏政」書状写)。

18日、相州北条氏政が、他国衆の千葉胤富(下総国佐倉城主)へ宛てて書状を発し、越・相和融の成り行きについて、一切の相談し合いたいので、誰でも一人を寄越してほしいこと、両総(下総・上総両国)における郷村の帰属についても知っておきたいため、事情に通じた人物も寄越してほしいこと、なおまた、輝虎が去る6日に(盟約通りに)越府から出張したのは必定であること、この五日のうちに沼田(上野国沼田城)へ着陣する旨を言って寄越したこと、越・相無事は、いよいよ相違なく調うこと、遠左(遠山左衛門尉康光)は新田(上野国金山城)まで帰り着いたこと、ただし、このうえ一ヶ条(武蔵国松山領の扱い)について、両国の見解に相違があるため、五七日以前(15日以前か)に越府へ使者を立てたこと、思い通りに決着したならば、なおさらに一和は紛れもないこと、委細は重ねて申し届けること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 後北条氏編二』1299号「千葉殿」宛北条「氏政」書状)。


26日、相州北条氏政が、他国衆の由良信濃守成繁・同新六国繁父子へ宛てて書状を発し、越・相和融については、当国(相州北条家)に対して(輝虎が)様々に懇望したので、とりもなおさず関東管領職ならびに上野一国を、武州の所々と岩付まで渡し置いたとはいえ、輝虎はなおもほしいままに御道理で詰め、ひたすらどこまでも氏政を追い詰められるべき仕打ちに、どうにもならない趣により、(由良成繁・国繁父子へ)申し届けたところ、氏政と浮沈を共にされるそうであり、(由良)御父子がこのたび血判誓詞が寄せられたこと、感謝に堪えず本望であること、こうなったからには、御望みに任せ、上野一国を進め置くこと、従って、鳥川(上野国吾妻郡より発し、同佐位郡赤石辺と武蔵国児玉郡本庄辺で利根川に合流する)から南の領域については、藤田(新太郎氏邦。氏政の兄弟衆)らに少しばかり先判により、付与されていること、やむを得ない事情であるため、この分を除かれるのは理解してほしいこと、委細は使者の口上で申し述べること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 後北条氏編二』1304号「由良信濃守殿・同六郎殿」宛北条「氏政」書状写)。

同日、相州北条氏政が、家老の垪和伊予守氏続(武蔵国松山領を管轄する)へ宛てて証状を発し、先頃に興国寺城(駿河国駿東郡)の城将を不足なく務められたので、興国寺城主に定め置くこと、ますます粉骨を尽くされるべきこと、なお、在城の支度を取り急ぎ致されるべきこと、よって、前述の通りであること、これらを申し渡している(『戦国遺文 後北条氏編二』1303号「垪和伊予守殿」宛北条「氏政」判物写)。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』(東京堂出版)

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越後国上杉輝虎(旱虎)の年代記 【永禄12年7月】

2013-08-13 15:03:03 | 上杉輝虎の年代記

永禄12年(1569)7月 越後国(山内)上杉輝虎(旱虎。弾正少弼)【40歳】


2日、飛騨国味方中の江馬輝盛(四郎。飛州姉小路三木家の重臣。飛騨国吉城郡の高原諏訪城を本拠とする)の宿老衆である河上伊豆守・同中務丞富信へ宛てて書状を発し、以前に若林采女允(客分の信濃衆である村上兵部少輔義清・同源五国清父子の重臣)をもって(江馬)輝盛へ申し届けたところ、はじめての事ではないとはいえ、其方(両河上)の取り成しゆえ、ますます入魂の旨は喜悦であること、今後のついても唯一無二に相談し合っていく心中であること、つまりは、村上源五方が演説すること、これらを恐れ謹んで申し伝えた。さらに追伸として、(濃(尾)州)織田信長へ音信として、使僧を差し遣わすこと、路次中滞りがないように馳走を頼み入ること、以上、これらを申し添えた(『上越市史 上杉氏文書集一』418号「河上伊豆守殿・同中務少輔(丞)殿」宛上杉「輝虎」書状【花押a4】)。


6日、友好関係にある濃(尾)州織田信長へ宛てた書状を認める。この以前に越中国で一揆が蜂起し、それが基で越中国増山の神保長職父子の間で抗争が起こっていた。当日か、その数日以内に、この書状を携えた使僧は出立したはずなので、2日付けで江馬輝盛へ宛てた書状は飛脚に託され、先行したのであろう。



常陸国太田の佐竹氏の客将である太田美濃入道道誉(三楽斎。俗名は資正。佐竹義重から常陸国片野城を与えられた)・梶原源太政景に、関東における諸将の取りまとめを頼むとともに、太田父子の今後における処遇を示すため、使者を派遣した。

7日、太田父子へ宛てて条書を認め、覚、一、当秋の戦陣および仕置のこと、この補足として、口上、一、佐・宮(佐竹・宇都宮)のこと、この補足として、口上、一、(太田)父子の進退のこと、この補足として、条々口上、一、多修(多賀谷祥聯)の存分のこと、一、成左(成田氏長)へ計策を仕掛けるべきこと、一、関東を二心なく見捨てはしないこと、一、駿州には深く応対すること、以上、これらの条々を申し伝えた(「岩付太田氏関係文書」5号上杉「輝虎」条書【花押a4】)。

8日、太田道誉の妹である三戸駿河守の妻(としょう)へ宛てて仮名書き消息を認め、(関東の経営が立ち行くため)良いように美濃守(太田道誉)が工夫して、計策を施すように、(道誉へ)意見するべきこと、なお、彼の使いへ申し分けたこと、これらを畏んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』917号上杉「てる虎」書状 奥ウハ書「みとのするか うち方 てる虎」)。

同日、最側近の河田豊前守長親が、三戸駿河守の妻の家中へ宛てて仮名書き消息を認め、好便を得たので(輝虎が)御文(御消息)をして仰せ出されたこと、なおもって(太田)御父子へも御忠言を御精励するように御尤もであるとのこと、詳しくは(輝虎が)御直書に見えていること、なお、彼の(使者の)口上にあること、どうか成り行きを任せること、早々めでたく(調ったのちに重ねて申し届けること)、これらを畏んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』918号「三 御内人々 申給」宛河田「ふせんのかミなか親」書状)。


※ 『上越市史 上杉氏文書集一』917・918号文書は、元亀元年に仮定されているが、栗原修氏の論集である『戦国期上杉・武田氏の上野支配』(岩田書院)の「第一編 上杉氏の関東進出とその拠点 第二章 上杉氏の隣国経略と河田長親」により、永禄12年の発給文書として引用した。



越・相同盟の成立により、相州北条陣営に属していた武蔵国深谷の上杉憲盛(通称は左兵衛佐と伝わる。武蔵国榛沢郡の深谷城を本拠とする)を自陣営に復帰させるため、関東味方中の広田出雲守直繁・木戸伊豆守忠朝兄弟(武蔵国埼玉郡の羽生城を本拠とする)に上杉憲盛へ働き掛けるように頼んだところ、15日、深谷上杉憲盛から書状(謹上書)が発せられ、あらためて使いをもって申し入れること、このたび駿州の巡り合わせについて、小田原(相州北条家)から和睦の懇望が申し寄られたからか、御納得されたそうであり、河田豊前守(長親)が言って寄越されたこと、誠にもってこの吉事であること、前々の通り、当国(武蔵国)の分を仰せ定められたそうであり、肝心であること、我等(上杉憲盛)については、御筋目を守り、無沙汰を存ぜず、奔走するつもりであること、よって、御祝儀として、金覆輪の太刀一腰・鳥目弐百疋を進覧すること、詳細は渋江大炊助の口上に申し含めたこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』772号「謹上 越府 御宿所」宛「藤原憲盛」書状)。

同日、深谷上杉憲盛から、河田豊前守長親へ宛てて書状が発せられ、去る頃に木戸伊豆守(忠朝)・広田出雲守(直繁)が使いをもって申し述べられた折、拙者(憲盛)の進退について、屋形(輝虎)が御内意を御懇切に示されたそうであり、彼の地(羽生城)へ其方(河田長親)から承った旨を言って寄越されたこと、誠にもってありがたく本懐であること、(輝虎が)憲政(山内上杉光徹)の御家督を与奪したのに比べ、吾等(憲盛)については、当国の御幕(上杉家の家名)を穢したので、相(州北条家)への聞こえもあるにより、ひときわ優れた御取り成しをひとえに頼み入ること、知行方の事については、存分の通りを、善応寺・渋江大炊助の両使をもって申し述べること、よくよく聞き届けられて、(輝虎へ)御披露を任せ入ること、木戸(忠朝)が差し添えられた案内者(佐藤筑前守)がいるので、かならずや彼方からこれらの趣を申し届けられること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』773号「河田豊前守殿」宛上杉「憲盛」書状)。

同日、関東味方中の木戸伊豆守忠朝から、河田豊前守長親へ宛てて書状を発せられ、あらためて使いをもって申し上げること、もとより先日は深谷の件について、(越後国上杉陣営へ)引き付けるようにとの(輝虎の)内意があったからには、両使を(深谷へ)差し越し、意見致したところに、その意見に従われ、このたび両使(善応寺・渋江大炊助)をもって申し述べられること、これにより、(木戸忠朝から)佐藤筑前守を案内者として差し添えること、深谷の件のほか、特に古河(下総国葛飾郡の古河城。鎌倉公方足利義氏の御座所)・栗橋(古河城の支城。北条氏照が城主を兼任している)の様子も、条目をもって申し上げること、これらの旨を御披露に預かりたいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』775号「河田豊前守殿」宛「木戸伊豆守忠朝」書状)。



同日、下野国足利の長尾但馬景長(初名は当長。一時期、入道して禅昌と号した。永禄5年に輝虎から与えられた上野国館林城に拠っている)が死去する。

16日、上野国金山の由良信濃守成繁から、上野国沼田(倉内)城の城衆である松本石見守景繁・河田伯耆守重親・上野中務丞家成へ宛てて書状が発せられ、取り急ぎ申し上げること、但馬守方(足利長尾景長)が、昨15日申刻(午後四時前後)に死去致されたこと、拙者(由良成繁)の暗然とした様子を御察ししてほしいこと、この事実を越府へも御申し上げるのは、方々(沼田三人衆)の御手前に任せること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』775号「松石・河伯・上中 御宿所」宛由良「信濃守成繁」書状写)。



再度、織田信長に音信を通ずるところとなり、17日、村上義清が、飛騨国高原の江馬輝盛の重臣である河上式部丞へ宛てて書状を発し、またぞろ濃州(尾州織田家)に用事があるについて、若林采女(允)を差し越すこと、路次中往復における便宜の一切を頼み入るまでであること、従っては、御正印(姉小路三木良頼)からは輝虎へ仰せにはならないこと、されば、御面倒であるならば、御無用であること、(三木良頼の)御書中だけ寄越してもらえれば、御音物などは此方(村上義清)にて用意すること、詳しくは、若林が申し述べるにより、(この紙面は)省略すること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』777号「河上式部丞殿 まいる」宛「村上 義清」書状)。


村上義清父子は、織田家に対する越後国上杉家側の取次ではないが、飛州姉小路三木に対する取次を任されており、この時の輝虎は、美濃国への通り道に当たる飛騨国へ何度も派遣されていた村上家中の若林采女允に書状を託すのが適当であったのであろう。



21日、上野国惣社の長尾能登入道長健(俗名は景総あるいは景綱か。永禄10年に本拠の白井城を甲州武田軍に奪われ、各地を転々としたらしいが、この当時は何処にいるのかは分からない)・白井の長尾左衛門尉憲景(孫四郎。やはり同年に本拠の惣社城を奪われ、実の兄弟である白井長尾憲景と行動を共にしていた)から、河田豊前守長親へ宛てて返状が発せられ、(輝虎の)御書を謹んで拝読したこと、よって、同名但馬守(足利長尾景長)死去の事実を知らせる由良方の注進状も披読したこと、仕方がない結末であること、 (輝虎の)仰せの通り、但馬守については、(輝虎からの)御報恩を深く受けていたにもかかわらず、近年は道を誤ったゆえ、御罸を蒙ったものと思われること、それでも、(輝虎は)御力を落としているとの仰せであり、(景長の)忘魂においても恐縮しきっているであろうこと、このを御披露に預かりたいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』778号長尾「長健」・長尾「憲景」連署状 礼紙ウハ書「河田豊前守殿 長尾左衛門尉 憲景・同能登入道 長健」)。


27日、飛州姉小路三木良頼から、河田豊前守長親へ宛てて返状が発せられ、わざわざ使者に預かり、本望であること、殊に菱喰(カモ科の水鳥)ならびに干鯛が書中の通りに到来し、遠路の骨折り、祝着であること、よって、先だって輝虎へ使者をもって申し述べたところ、路次番以下の(便宜を図ってもらえた)懇意は、快然であること、それ以前に、(三木良頼に)存分があるにおいては、申してほしいとのことで、若林(采女允)を差し上せられたにより、一部始終を書き付けて申し述べたこと、そうはいっても、その筋から御存分には応じられなかったように聞こえてきたこと、仕方がないこと、従って、江州(濃州か)へ差し越される衆への路次番については、懇ろに申し遣わしたので、亡失してはいないこと、安心してほしいこと、いつ何時であっても、こうした頼みについては、ないがしろにはしないこと、なお、来信を期していること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』425号「河田豊前守殿」宛三木「良頼」書状)。


29日、揚北衆の鮎川孫次郎盛長(越後国瀬波(岩船)郡大場沢城を本拠とする外様衆)へ宛てて返状を発し、飛脚が到来し、その趣旨を理解したこと、よって、大宝寺(出羽国田川郡大宝寺領)の様子を注進、委細を心得たこと、これについても、大川(越・羽国境の越後国瀬波(岩船)郡大川領)の警戒も肝心であり、申し付けること、されば、信州へ向かって戦陣を催すつもりでいたところ、彼の州(甲州武田家)から子細(和与)を申し越してきたので、とりあえず(出馬を)延引したこと、信州・上(北陸)の様子が心配であるとして、関東味方中が人数を寄越してきたこと、倉内の者共(沼田城衆)は今日、当府へ打ち着いたこと、そのほか諸軍(越後衆)は膝下に集め置いているので、信・越(信濃・越中)両口共に措置を講じており、心配しないでほしいこと、なお、(詳細は)山吉孫二郎(豊守)が申し届けること、これらを謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』780号「鮎川孫二郎殿」宛上杉「輝虎」書状【花押a4】)。


※ 甲州武田信玄から申し入れがあった和与については、丸島和洋氏の論考である「甲越和与の発掘と越相同盟」(『戦国遺文 武田氏編 第六巻 月報6』東京堂出版)」による。



この29日か、それより前の数日内に、当月6日付の書状を託した使僧が濃(尾)州織田信長の許に到着すると、
織田信長から返状が発せられ、去る6日付の芳問を給わり、拝謁を遂げたこと、畿内ならびにこの表の様子が、其元(輝虎)には錯綜した情報が流れているそうで、(輝虎から)尋ねられたこと、御懇情であること、そこで、一部始終をそのまま記した一書をもって申し述べること、いささかも手落ちはないので、(輝虎の)賢意を安んじられてほしいこと、よって、条々による御入魂を深めるための趣は、快然の極みであること、誠にここしばらくは疎遠であったこと、思ってもみなかったこと、甲州(武田家)と此方(織田家)の間については、公方様(足利義昭)の御上洛に供奉していたので、隣国からの妨げを排除するため、(武田家と)一和を申し合わせたこと、それ以来は、駿・遠両国も自他の契約の子細があること、これにより、(当国に)手出しできないていたらくであること、そうではあっても、貴辺(輝虎)に対しては前々から相談する間柄であり、別条なきにおいて、度々言い古している通り、越・甲の間が無事を遂げ、互いに意趣を捨てられて、天下のために御奔走されるのを願うところであること、それからまた、越中表で一揆が蜂起し、其方(越後国上杉家)の御手並みによるものであるのかどうか、(越中国増山の)神保父子の間で(その対応を巡って)抗争が起こったとのこと、どのような様子であるのか懸念しており、彼の父子については、信長においても手厚く遇しているので、困り入るばかりであること、従って、紅の唐糸五斤・豹皮一枚を進上すること、なお、重ねて申し述べること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』610号「上杉弾正少弼殿 進覧之候」宛織田「信長」書状)。



この間、同盟関係にある相州北条氏政は、
駿河国富士城(富士郡)が甲州武田軍の攻撃を受けているとの報に接し、留守中の防衛態勢を整え、7月朔日、下総国栗橋城(葛飾郡)の留守居を任せている他国衆の野田右馬助景範(もとの栗橋城主で、下総国葛飾郡の鴻巣城へ移されていた)へ宛てて書状を発し、駿州へ(甲州武田)信玄が出張してきたについて、乗り向かったこと、そういうわけで、由井領(武蔵国多西郡)の留守居として栗橋衆を召し寄せたいこと、彼の衆が任務に当たっている間、(野田景範に)栗橋の留守居を頼み入ること、委細は源三(北条氏照。氏康の三男。武蔵国滝山城主と下総国栗橋城主を兼務する)が申し届けること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 後北条氏編二』1272号「野田殿」宛北条「氏政」書状写)。

同日、相州北条氏の一族である玉縄北条左衛門大夫綱成(相模国東郡の玉縄領を管轄する)が、野田右馬助景範へ宛てて返状を発し、仰せの通り、伝え聞いていたところに、(野田景範からの)御懇書に預かったこと、まことにもって筆舌に尽くし難く、祝着の思いであること、御音問の通り、このたびその地(栗橋城)の番手として、拙者(北条綱成)の同心である高田左衛門尉が物主を申し付けられ、合流の衆が差し越されたこと、そうしたところに高田左衛門尉に御懇切にしてくれているそうであり、彼人(高田左衛門尉)から繰り返し申し越されているので、愚(北条綱成)においても本望の思いであること、されば、先日に申し達したところに、これまた詳しい返報を寄せてくれたので、恐悦の極みであること、自今以後においては、親しく申し合わせる覚悟までであること、なお、委細は高田左衛門尉が申し達せられるべきこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 後北条氏編二』1273号「野田右馬助殿 貴報」宛「北条左衛門大夫綱成」書状写)。

4日、氏政の兄弟衆であり、武蔵国滝山城(多西郡)に居る北条源三氏照(武蔵国多西郡を中心とした由井領を管轄する)が、野田右馬助景範へ宛てて書状を発し、その以後は、しばらく申し達していなかったこと、されば、駿州内の富士屋敷(富士郡の大宮城)へ(甲州武田)信玄が取り懸かり攻められたこと、悪地で実に屋敷同前の所であるとはいえ、城衆が堅固に抱え、敵は二千人の死傷者を出したこと、これにより、氏政自身が出馬し、(信玄と)またとない一戦を遂げるべく軍を催したこと、そういうわけで、(氏政は)方々に差し置かれていた人数を、手元へ残らず呼び寄せられたこと、愚拙(北条氏照)の人衆についても、総勢を引き連れること、栗橋衆をもって、当地(由井領)の留守居を申し付けるべき旨を、(氏政から氏照が)申し付けられたこと、彼の地(由井)の留守居については、(栗橋衆は)戦中であっても(由井領へ)御移りするように、氏政は申されていること、御同意が肝心であること、委細は山本の口上に申し含めたこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 後北条氏編二』1277号「右馬助殿 御宿所」宛北条「源三氏照」書状写)。


11日、氏政の兄弟衆である藤田氏邦(武蔵国男衾郡を中心とした鉢形領を管轄する)が、鉢形衆の出浦左馬助・多比良将監のそれぞれへ宛てて感状を発し、三山谷(武蔵国秩父郡)へ敵(甲州武田軍)が攻め込んできたところ、対戦に及んで高名を挙げたのは、感悦であることと、今後ますます奮励すれば、重ねて扶助するものであること、よって、前述の通りであること、これらを申し渡している(『戦国遺文 後北条氏編二』1283号「出浦左馬助殿」宛藤田「氏邦」感状、1284号「多比良将監殿」宛藤田「氏邦」感状写)。

同じく斎藤右衛門五郎へ宛てて感状を発し、三山谷へ敵が攻め込んできたところ、人並みすぐれた奮戦をして高名を挙げたのは、傑出していること、殊に親である新左衛門尉が討ち死を遂げたのは、気の毒であること、今後ますます奮励すれば、相応に扶助するものであること、よって、前述の通りであること、これらを申し渡している(『戦国遺文 後北条氏編二』1286号「斎藤右衛門五郎殿」宛藤田「氏邦」感状写)。

同じく朝見伊勢守へ宛てて感状を発し、甲州勢が夜中に土坂(以下秩父郡)へ忍び入り、阿熊に駐屯したところを、物見山から早朝にこれを発見し、即刻に吉田の防塁へ駆け付け、防備を固めたので、感悦の極みであること、これにより、苗字の阿佐美の文字を、今後は朝見の文字に書き替え、その誉れを子孫に残すべきこと、当座の褒美として、太刀一腰を遣わすものであること、よって、前述の通りであること、これらを申し渡している(『戦国遺文 後北条氏編二』1286号「朝見伊勢守殿」宛藤田「氏邦」感状写)。


同日、相州北条方の取次である北条源三氏照から、越後国上杉家の年寄中へ宛てて返状が発せられ、わざわざ芳札を給わったこと、御懇切のほどは、本望極まりないこと、よって、越・相御一味の御取次について、弟である氏邦ならびに氏照が奔走するというのは、去春に氏康が申し述べられたであろうか、拙者(北条氏照)においてもその旨を理解していること、ところが、このたび両使(広泰寺昌派・進藤隼人佑家清)の御到来に際し、氏邦ひとりが精励したのは、御不審に思われたそうであること、その折りは由良(信濃守成繁)の手筋(氏照は北条丹後守高広の手筋)が任用されたゆえであること、氏照においても内外で、先頭に立って御首尾を、いささかも怠けずに精励したこと、かならずや広泰寺・進藤方が申し達せられること、委細は山吉方(孫次郎豊守。輝虎の最側近)に頼み入るものであり、(輝虎の)御意を得たいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『戦国遺文 後北条氏編二』1287号「越府 江 御報」宛「北条源三氏照」書状)。



先月以来、敵対関係にある甲州武田信玄(徳栄軒)は、伊豆・駿河両国へ出馬しており、7月2日、信濃先方衆の玉井豊前守へ宛てて書状を発し、こちらから申し越すべきところ、わざわざ音問を寄せてくれたのは、祝着であること、もとよりこのたび豆州へ向かい、図らずも出陣すると、三島(田方郡)とその周辺を壊滅させ、そればかりか北条(同郡韮山)と号する地において、当手の先衆が北条助五郎(氏規)兄弟(氏規は氏康の四男。相模国三浦郡の三崎領を管轄する。伊豆国韮山城の城将)と一戦に及び、味方は勝利を得て、小田原の主だった者を五百余人を討ち取ったこと、とりもなおさず小田原へ馬を進めようとしたとはいえ、足柄・箱根(ともに相模国西郡)の両坂は難所であるにより、駿州富士郡へ陣を移したこと、されば、大宮の城主である富士兵部少輔(信忠)が、穴山左衛門大夫(武田信君。一家衆。甲斐国下山城主。駿河国興津城将)を頼み、今明のうちに城を明け渡す旨を、合議して決めたと言って寄越したので、このうえは早速にも帰国するつもりであること、なお、土屋平八郎(昌続。信玄の側近)が申し届けること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編二』1427号「玉井石見守殿」宛武田「信玄」書状)。

3日、同じく大井左馬允入道道海へ宛てて、直筆の書状を発し、三島(伊豆国田方郡)からそのまま大宮(駿河国富士郡)へ向かって出張し、諸虎口を打ち壊して詰め寄せたところ、城主の富士兵部少輔(信忠)が穴山左衛門太夫(信君)を頼り、城主の富士兵部少輔(信忠)が降伏を懇望してきたので、赦免して城を接収し、当表は残らず本意を達したこと、このうえは城内の統治などの指図をしてから、三日のうちに馬を納めること、安心に思われてほしいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている。さらに追伸として、陣場から一筆を遣わすので、取り乱しており、(花押ではなく)印判を据えたことを申し添えている。

4日、甲斐国衆の加藤丹後守景忠(甲斐国都留郡の上野原城を本拠とする)に感状を与え、このたびの駿州陣において、先手を申し付けたところ、自身が手を砕いて粉骨を尽くし、敵を数多く討ち取った忠功に、感悦していること、ますます戦功を励むべきものであること、これらを申し渡している(『戦国遺文 武田氏編二』1429号)。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 武田氏編 第二巻』(東京堂出版)

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