越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎の略譜 【36】

2012-11-30 22:28:03 | 上杉輝虎(謙信)の略譜
永禄10年(1567)3月 上杉輝虎(弾正少弼) 【38歳】

7日、(朱印)、毎月十五疋分の荷物を越後国から上・越国境の上野国小川城(利根郡)へ配送するに当たり、受用者の小河荷(可)遊斎(沼田衆。もとは上野国衆・沼田氏の親類衆)に関所・渡し場の通行を許可する過書(印文「梅」)を発給した。

この頃、結局は上野国金山城(新田郡新田荘)を攻めることができないまま、越後衆の色部修理進勝長(外様衆)と荻原伊賀守(大身の旗本衆)を下野国佐野領の唐沢山城(安蘇郡佐野荘)の在番衆に加えるなど、関東に於ける拠点の防備を強化した上で、帰国の途に就いた。

18日、甲州武田軍により、信・越国境の拠点のひとつである信濃国野尻城(水内郡芋河荘)を攻め落とされるも、即日取り返した。

25日、(上杉「輝虎(花押a3)」)、昨年末に相州北条氏・甲州武田氏陣営に寝返った父の厩橋北条丹後守高広と決別し、上野国棚下寄居(勢多郡)に拠って上野国厩橋城と対向している「北条弥五郎殿(景広。譜代衆)」に宛てて書信を発し、棚下衆の軍事活動についての指示を与えるとともに、その成果への期待を寄せた。
26日、(上杉「輝虎(花押a3)」)、前日に発した書信が届くより先に北条弥五郎景広から現状報告が寄せられたので、「北条弥五郎殿(景広)」に宛てて返書を発し、このほど棚下寄居に攻め寄せてきた丹後守(北条高広)を撃退した功績を称え、更なる奮闘に期待を寄せるとともに、棚下寄居の防備に万全を期するように指示を与えた。


この間、信濃奥郡に在陣中の甲州武田「信玄(徳栄軒)」は、6日、上野国白井城(群馬郡)を自落させた信濃先方衆の「一徳斎(号幸隆。真田弾正忠幸綱。上野国岩櫃城代)」と甲斐衆の「甘利郷左衛門尉殿(信康)・金丸筑前守殿(虎義)」に対して書信を送り、このほど一徳斎(真田入道幸隆)の策略が奏功し、わずか数日の間に白井城を自落させたので、すこぶる満足していること、この三日のうちに使者を派遣し、白井統治の方策を示すので、それまでは、上野国箕輪城(群馬郡)に在番させている春日弾正忠(虎綱。譜代衆。信濃国海津城代)と相談して厳重な警戒態勢を敷くべきこと、長尾輝虎の帰国が確認されれば、その翌日に自ら出陣して西上野の支配体制の強化を施すこと、上野国沼田城(利根郡沼田荘)の様子を探り、輝虎帰国の事実を見極めて急報するべきこと、これらを懇ろに伝えている。
8日、「一徳斎(真田入道幸隆)・真田源太左衛門尉殿(信綱)」父子に対して再便を送り、思いがけずも宿願の白井落居が果たされたので、充足した思いは共通であろうこと、この上は箕輪城へ急行し、白井城の修築や知行地の分配について指図するつもりであること、早飛脚をもって沼田城の様子を報告するべきこと、これらを懇ろに伝えている。

このように状況を見極めているなか、18日に信濃国野尻城の攻略を果たすと、その後、奥州黒川(会津郡門田荘)の蘆名家との盟約に基づいて信・越国境付近の越後の郷村を荒らし回るも、会津衆の連動する気配はなかったことから、一部の軍勢を信・越国境に留めた上で、西上野へと向かっている。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 553号 上杉輝虎朱印状、978・979号 上杉輝虎書状 『戦国遺文 武田氏編 第二巻』 1054・1056号 武田信玄書状

◆ 『上越市史』は978・979号文書を年次未詳としているが、栗原修氏の論集である『戦国史研究叢書6 戦国期上杉・武田氏の上野支配』(岩田書院)の「第二編 上杉氏支配の展開と部将の自立化 第二章 厩橋北条氏の存在形態 付論 厩橋北条氏の家督交替をめぐって」に従い、永禄10年の発給文書として引用した。


永禄10年(1567)4月 上杉輝虎(弾正少弼) 【38歳】

朔日、(上杉「輝虎(花押a3)」)、年少の当主である上田長尾喜平次顕景(輝虎の甥にあたる。越後国坂戸城主)に代わって上田衆を統率する「栗林次郎左衛門尉とのへ(実名は房頼か。この頃から単独で陣代を務めている)」に宛てて書信を発し、上・越国境の上野国猿京領(吾妻郡)の地衆の証人を、倉内(上野国沼田城)から其の地(越後国坂戸城)に移したつもりでいたところ、先だって収容を指示したにも係わらず、依然として受け取りに出ていないのは、はなはだ不愉快な事態であり、直ちに受け取りに出て収容し、厳重に監視するべきことを伝えた。更に追伸として、このほど越後と倉内の往還で本庄新左衛門尉(大身の旗本衆。本庄美作入道宗緩の世子。越後国栃尾城主)が不慮の死を遂げたのは残念でならないこと、この不備への対応として越後国浅貝(上田荘塩沢)の地に寄居を築くので、これからも彼の往還を行き来する当軍のためでもあり、つまりは吾分共(上田衆)の奮励に掛かっていること、よって、只今は苦境の最中であり、ひたすら構築作業に取り組むべきことを指示した(この命令は撤回されたようで、浅貝寄居の構築が実現したのは元亀2年である)。

3日、(朱印)、旗本の「蓼沼藤五郎殿(泰重。もとは下野国衆・佐野氏の家臣)」に軍役状を与え、越後国頸城郡西浜の寺島村の地を宛行い、軍役として、本軍役は五丁であった鑓を四丁免除し、鑓一丁に改め、糸毛具足、小旗一本、金色の馬鎧の着用を義務付けた。

6日、(上杉「輝虎」)、上野国沼田城(利根郡沼田荘)の城衆である「松本石見守殿(景繁。大身の旗本衆。これ以前に相州北条氏から解放された)・小中大蔵少輔(丞)殿(実名は光清か。大身の旗本衆)・新発田右衛門大夫殿(実名は綱成か。外様衆・新発田尾張守忠敦の一族)」に宛てて書信を発し、其の地(沼田城)の人手が足りないため、要害の防備に難儀しているとの情報に接したこと、それゆえ上田衆を総動員して派遣するので、皆々で相談し合って防備に努めるべきこと、いかにも奮励して丹後守(北条丹後守高広。上野国厩橋城主。相州北条家に属する他国衆)の陣所に夜襲などを仕掛け、彼の陣所を揺さ振って、敵兵を十人も二十人も討ち取れば、怖気付いた厩橋衆の攻勢も今後は鈍るはずなので、上田衆と協力して奮戦するべきこと、これらを取り急ぎ伝えた(この事態によって浅貝寄居の構築は中止になったのか)。

7日、沼田城衆の発智右馬允長芳(もとは上田長尾氏の与力)に対して、上野国沼田領から同桐生領(山田郡)への要路に当たる根利(利根郡)の地に関所の設置を指示しておいたところ、根利近隣の阿久沢(勢多郡)の国衆である阿久沢左馬助(上野国深沢城主)が関所の設置に反発しているとの報告を受け、取次の「山孫豊守(山吉孫次郎豊守。大身の旗本衆。越後国三条城主)」が、「発右(発智長芳)御報」に宛てた返書を使者に託し、このほど根利の地に関所の設置を申し付けられたところ、阿久沢方が不遜にも拒否しているとは、こちらの苦境に付け込んだ卑怯な振舞いで無念極まりないとの仰せであること、されども岩下(吾妻郡)・白井・厩橋口(ともに群馬郡)の経路は途絶されており、東方を往復する者は根利を通るほかなく、取り分け由刑(相州北条陣営の由良刑部大輔(信濃守)成繁。上野国金山城主)の妨害も想定されるため、もはや彼の地がわずかでも破綻してしまえば、これまで積み重ねてきた(輝虎の)御功績も無に帰するかも知れず、このところを十分に弁えて、彼の地の対応には慎重を期するべきとの仰せであること、根利に危難が迫った際には、繰り返し御注進されるべきこと、万が一にも根利を失陥する事態が起きれば、貴所(発智長芳)の利敵行為を疑わざるを得ないとの御内意であること、よって、これらを使者が詳述することを伝えている。更に追伸として、再び阿久沢から連絡が寄せられた際には、この書簡を土台にして返信されるべきことを伝えている。

今度は会津衆の越後国菅名荘(蒲原郡)侵攻により、雷・神洞の両城が陥落したのを受け、上野国沼田城への増派を予定していた上田衆を始めとする軍勢を菅名荘へ急派し、雷・神洞両城を奪還させると、多大な損失を被った蘆名止々斎(盛氏)が詫びを入れてきたので、28日、(上杉「輝虎(花押a3)」)、上田衆を統率する「栗林次郎左衛門尉とのへ(実名は房頼か)」に宛てて書信を発し、このほど菅名口の凶徒を退治させるために急派したところ、苦労を惜しまず任務を成し遂げたのは殊勝であること、この上は速やかに上田(魚沼郡上田荘坂戸城)へ帰還して人馬を休息させるべきこと、よって、これらを各所が詳報することを伝えた。


この間、相州北条「氏康(相模守)」は、朔日、他国衆の富岡主税助(上野国小泉城主)に対して書信を送り、このほど湯治見舞いとして一札が届いたこと、そればかりか蝋燭一束と鯉二十折を贈ってもらい、その心遣いに感謝していること、取り分け今回の上野国白井城の自落により、ますます景虎(輝虎)は窮地に立たされたので、この上は下野国佐野の唐沢山城も自落するように、ひたすら精励してほしいこと、よって、これらを取次の岩本太郎左衛門尉(定次。馬廻衆)が詳報することを伝えている。

甲州武田「信玄(徳栄軒)」は、上野国箕輪城に着陣したところ、厩橋北条丹後守高広(上野国厩橋城主)が表敬のために使者を寄越してきたので、10日、取次の「甘左信忠(甘利左衛門尉信忠。譜代衆)」が、「北丹(北条丹後守高広)御報」に対して書信を送り、当地(箕輪城)への着城に伴い、再び御使者が到来したので披露に及んだところ、めでたく喜ばしいとして、即座に対面されたこと、よって、これらを彼の使者が詳述することを伝えている。

奥州黒川(会津郡門田荘)の蘆名「止々斎(修理大夫盛氏)」(朱印)は、16日、越後国菅名荘に侵攻した重臣の「小田切弾正忠殿(譜代衆。小田切氏は、蘆名氏の宿老である金上氏(蘆名氏の族臣)から分かれた。会津領越後国蒲原郡小川荘の赤谷城主)」に対して書信(印文「止々斎」)を送り、其許(菅名荘)での在陣は辛労極まりないであろうこと、昨日は敵軍に一戦を仕掛けるというので、人知れず心配していたところ、若干の勝利を挙げたとの連絡を受け、近頃にない快事であること、負傷者などもいるであろうから、よくよく養生させるべきこと、士分から雑兵に至るまで、皆々の辛労をいたわりたいこと、近日中に敵の援軍が到来するとの情報が入っており、当方からも増援を急派するので、その時分に改めて連絡すること、これらを懇ろに伝えている。

再び越後侵攻を企てる武田「信玄」は、17日、会津蘆名家に属する国衆の「山内信濃守殿」に対する返書を使者に託し、このたび珍札を拝読し、快然極まりないこと、関東表は平穏無事なので、速やかに越国へ進攻するつもりであること、すでに黒川(蘆名氏)とは、連動して越国に攻め入る盟約を取り交わしており、この好機を捉えて、貴所も近辺の人衆を催して連動されるべきこと、今後とも途切れなく交流を図りたいこと、よって、これらを使者の城対馬守(直参衆)が詳述することを伝えている。

相州北条氏政(左京大夫)と、その弟の大石源三氏照(武蔵国由井城主)は、17日から18日に掛けて、このほど上杉陣営を離脱した下総国衆の簗田入道道忠(洗心斎。中務大輔晴助)・同八郎持助父子(下総国関宿城主)と起請文を交換し、彼らの進退を保障して自陣に加えると、20日には鎌倉公方足利義氏(母は北条氏綱の娘で、妻は北条氏康の娘)と和解させている。

武田「信玄」は、会津蘆名止々斎から使者が到来すると、20日、取次である「鵜浦左衛門入道殿(九徳斎か。譜代衆)」に対して返書を送り、このほど小田切(弾正忠)が越国へ進陣すると、敵城(神洞城・雷城)を攻め落とし、今なお堅持されているばかりか、援軍として御息(鵜浦入道の子)ならびに金上(宿老の金上兵庫頭盛備。譜代衆。金上氏は蘆名氏から分かれた。会津領越後国津川城主)・松本(右京亮。譜代衆。宿老の松本図書助氏輔の一族で、止々斎の側近)の両手が出陣されたとの知らせを受け、本望満足であること、当方は、去る頃(3月18日)に信濃国野尻城を攻略して城主以下、多数を討ち取ると、越後に乱入して所々の郷村を焼き払いながら、その方面から会津衆が盟約通りに連動されるのを心待ちにしていたこと、しかし遠境ゆえか、一向に様子が伝わってこないため、信・越国境に一部の軍勢を留め置き、自分は西上野に移陣して諸城の修築を差配していたところ、すでに会津衆は着実に作戦を進展させていたこと、この上は越国へ再進攻するので、盛氏(止々斎)の迅速な御出陣を念願していること、よって、これらを彼の使者が詳述することを伝えている。

このあと武田信玄は、上野国惣社城(群馬郡)の攻略を果たし、惣社長尾能登守(実名は景総か)を没落させている。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 506号 上杉輝虎書状、554号 上杉輝虎書状(写)、555号 上杉輝虎朱印状(写)、556号 山吉豊守書状、558・559号 上杉輝虎書状(写)、560号 上杉輝虎書状、603号 芦名止々斎書状、722号 上杉輝虎書状 『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』 940号 北条氏康書状、1015号 北条氏照起請文写、1016・1017号 北条氏政起請文写 『戦国遺文 古河公方編』 898号 足利義氏契状 『戦国遺文 武田氏編 第二巻』 1065号 甘利信忠書状、1076号 武田家朱印状写、1259・1260号 武田信玄書状写、1263号 山県昌景副状写
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越後国上杉輝虎の略譜 【35】

2012-11-21 07:32:29 | 上杉輝虎(謙信)の略譜
永禄10年(1567)正月 上杉輝虎(弾正少弼) 【38歳】

下野国佐野領の唐沢山城(安蘇郡佐野荘)で越年すると、7日、(上杉「輝虎(花押a4)」)、関東味方中の佐竹氏の宿老である「小貫佐渡守殿(頼安。譜代衆)」に宛てて書信を発し、この5日に義重(常陸国衆の佐竹次郎義重。常陸国太田城主)が盟約の通りに出陣してきたのは、ひとえに其方(小貫頼安)の尽力によるものであり、喜び感じ入っていること、とにかく速やかに合流を果たし、このたびの戦陣について、様々な方策を提言するように、適切な口添えをして導くべきこと、出迎えのために開発中務丞(旗本衆)を派遣するので、陣所の位置を知らせてほしいこと、よって、これらを彼の者が詳述するので、書面を略したことを伝えた。更に追伸として、本来であれば、宿老衆の梅紅斎(岡本禅哲。譜代衆)と和田安房守(掃部助昭為。同前)にも書簡を送るべきところ、返信の手間に配慮したとして断りを入れた。
8日、(上杉「輝虎(花押a3)」)、佐野陣と越府の中継地点に在陣する遊軍の「水原蔵人丞殿(実名は実家か。外様衆。越後国水原城主)」・「竹俣三河守殿(慶綱。外様衆。越後国竹俣城主)」・「加地彦次郎殿(実名は知綱か。同前。同加地城主)」、その軍監である「富所隼人佐殿(実名は定重か。旗本衆)・松木内匠助殿(実名は秀朝か。同前)」に宛てて書信を発し、このほど本庄(大身の旗本・本庄新左衛門尉か)を始めとする越府の留守居衆に対して、総勢をもっての参陣を催促したゆえ、一刻も早く本庄の許へ飛脚を派遣して連絡を取り合い、本庄がありったけの増援軍を率いて差し障りなく国境を越えられるように、抜かりなく支援するべきこと、本庄は一千ほどの軍勢を率いて進軍中である様子を、毎日欠かさず連絡を入れてくること、今が正念場であり、各々が精励するべきこと、敵軍が退散したならば、増援軍は即時に帰国させること、これらを取り急ぎ伝えた。更に追伸として、駐留地の保安に留意するように促した。

9日、呼び掛けに応じない下総国衆の結城左衛門督晴朝(下総国結城城主)を武力で威圧することに決し、関東味方中に参陣を募ると、下野国衆の宇都宮弥三郎広綱(下野国宇都宮城主)や、その親類の塩谷左衛門大夫義孝(同川崎城主)らが、10日に合流するべく準備を進めている。

11日、(上杉「輝虎」)、関東味方中の「広田式部太輔殿(直繁。武蔵国羽生城主)」に宛てた書簡を使者に託し、昨冬に佐野唐沢山城が氏政(相州北条氏政)に攻め立てられたところ、城主(唐沢山城に在番する越後衆)が城下の根小屋区域に引き寄せた敵勢を痛撃し、めでたく勝利を挙げたこと、この時宜を捉えて北条氏政と雌雄を決するために味方中を集結させたところ、程なく氏政は一功も挙げずに退散したので、またもや一戦する機会を逸してしまい、これまで重ねてきた戦績が取るに足りないものとなったようで、事情がどうあろうとも慙愧に堪えないこと、このように関東の情勢が悪化するなかで、河南(利根川以南)でひとりになっても相変わらず一心に忠勤を励んでくれており、輝虎一世中こころに留めておくこと、この下旬には越後から呼び寄せた諸勢(増援軍)が国境を越えてくるので、其許に余裕があれば、つとめて参陣を果たし、このたびの戦陣について、色々と献策などしてくれれば、すこぶる喜ばしいこと、羽生周辺の状況を詳しく報告してほしいこと、よって、これらを彼の者が詳述することを伝えた。
このあと上野国沼田城(利根郡沼田荘)へ移ると、28日、(上杉「輝虎」)、この日の朝に佐竹軍が野州河西地域(鬼怒川以西)に着陣しながらも、態度が不鮮明な「佐竹殿(佐竹次郎義重)」に宛てた書簡を使者に託し、今朝28日に河西に着陣したとの情報が伝わってきたこと、政(ママ)綱(下野国衆の佐野小太郎昌綱)は毎年のように変節を繰り返しており、そうしたところに凶徒(相州北条軍)が攻め寄せてきたこと、それについて、使者の梅紅斎(岡本禅哲)を通じて示された条々は、一項目も納得できなかったこと、それでもまだ関東の戦乱の拡大を防ぐ有効な手段があるのならば、直ちに合流して提言するべきこと、貴方(佐竹側)の事情を考慮して自身の合流は免じても構わないので、必ず家来衆を参陣させるべきこと、証人以下については、関東の要衝である倉内(沼田城)に差し置くべきこと、南・甲(相州北条氏・甲州武田氏)両国とは手を切り、関東の秩序を担う側に立って力戦するべきこと、最も許しがたい成繁(由良信濃守成繁)を始めとする背信者達への制裁を忘れてはならないこと、関・越(関東と越後)の連帯はこれまでにないほどの悪状況に陥っているため、世評も芳しくないが、必ず上野国新田荘(新田郡)を席巻し、この形勢を覆すつもりであること、よって、これらを彼の者が詳述することを伝えた。

同日、旗本の楡井治部少輔(実名は光親か。越後国板木城主か)を上野国沼田領内に配置するにあたり、「楡井治部少輔殿」に軍役状を与え、沼田荘内の加増分と越後の本領分を合わせた軍役として、鑓十五丁、腰小旗二本、鉄炮一丁を定め、本人には金色の馬鎧の着用を義務付けるとともに、息子(楡井修理亮親忠)は鑓を装備して金色の馬鎧を着用し、馬廻として在府することを義務付けた(輝虎の旗本衆は金色の馬鎧で統一されている)。


この間、甲州武田信玄(徳栄軒)は、21日、(朱印)、奥州黒川(会津郡門田荘)の蘆名家の重臣である「小田切治部少輔殿・同弾正忠殿(譜代衆。会津領越後国赤谷城主)」に対する条書(印文「晴信」)を使者に託し、一、上州全域は平穏無事であること、一、なおも長尾(輝虎)が上野国沼田城に在陣を続けるならば、相(相州北条氏)・甲が協力して沼田城を取り囲むこと、一、来る四月に予定通り越国(越後国)へ攻め入るので、会津(蘆名氏)の連動が遅れてはならないこと、一、このたびの企てに盛氏(蘆名止々斎)が必ず御同心されるように、精励して取り計らうべきこと、一、会津から手回しされて、越後奥郡国衆に内応を募るべきこと、これらの条々を示している。
22日、取次の「山県三郎右兵衛尉昌景(譜代衆)」が、蘆名家の重臣である「九徳斎(鵜浦入道のことか)御返報」に対して返書を送り、御書中の通り、昨秋に御使者として御越山された際、満足に応接できず、面目を失したこと、盟約通り、両小田切(治部少輔・弾正忠)が計策をもって越国中の内応者に渡りを付けるのは、何よりも重要事案であり、必ず成功させるために策を練り上げたいので、改めて御使者を寄越してほしいこと、上州河西(利根川以西)は悉く信玄が手中に収めたので、どうか御安心してほしいこと、このたびの彼の表に於ける作戦行動も終了し、越国へ攻め入る態勢は整ったこと、但し、積雪の時分は通路が確保できないため、雪解けの四月には必ず越国へ攻め入るので、盛氏(蘆名止々斎)の御同意を得て共働されるべきこと、よって、使者の布施与三兵衛尉を通じて御説明されるので、其許(九徳斎)に御指南を頼み入ること、これらを懇ろに伝えている。

相州北条「氏政(左京大夫)」は、22日、佐竹氏の宿老である「和田掃部助殿(昭為)」に対して返書(上包「和田掃部助殿  従小田原」)を送り、来札を喜んでいること、このたび出陣したところ、盟約通りに(佐竹)義重が下野口に御出張してくれたので、実に本望満足であること、当方は帰陣してしまったので、このたびは対面する機会を得られず、はなはだ遺憾であること、よって、これらを宗誉(佐竹一族の馬場入道宗誉。和泉守篤親)が詳報されることを伝えている。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 376号 上杉輝虎書状(写)、546・547号 上杉輝虎書状(写)、548号 上杉輝虎ヵ軍役覚(写)、639号 上杉輝虎書状 『茨城県史料10 中世編V』 【県外所蔵文書 秋田県 塩谷文書】1号 塩谷義孝書状 『戦国遺文 武田氏編 第二巻』 1232号 武田信玄朱印状、1234号 山県昌景書状 『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』 1005号 北条氏政書状写


永禄10年(1567)2月 上杉輝虎(弾正少弼) 【38歳】

9日、(上杉「輝虎」)、旧冬に離反した厩橋北条丹後守高広とは行動を共にしなかった北条毛利一族の「北条右衛門尉殿(親富。高広の婿である河田長親に係わるか)」に証状を与え、このたびの忠節を称えて所領を宛行い、本領と加増分の課役を収益として認めるとともに、なおいっそう軍役奉公を励むように促した。

24日、越前国金ヶ崎(敦賀郡)に滞在中の左馬頭足利義秋(花押)から御内書(「上杉弾正少弼とのへ」)が発せられ、これまで何度も勧告している三ヶ国(上杉・武田・北条)の和睦については、輝虎に思うところがあるようなので、着実に和睦をまとめ、参洛が実現するならば、すこぶる喜ばしいこと、周辺諸国の情勢を報知するため、智光院(頼慶。輝虎の使僧)を越後に下国させること、よって、これらを藤英(三淵大和守藤英)・信堅(飯河山城守信堅)が詳報することを伝えられている。
同じく、条々(「上杉弾正少弼とのへ」)が示され、一、今更言うまでもないことではあるが、この鬱憤を必ず晴らしたいので、輝虎の参洛を待望していること、この補足として、先ずは一勢を派遣してほしいこと、一、三ヶ国の和睦について、輝虎の存念と進捗状況を詳報してほしいこと、一、このまま互いの主張を譲らずに和睦が進展しないのであれば、一時的にでも停戦するべきこと、一、若州への軍事介入についてのこと、一、万事に於いて窮迫していることから、諸侯が離散、若しくは敵陣営に帰参してしまい、無念極まりないこと、一、今こそ上杉の力添えが必要であり、これが実現すれば至上の喜びであること、一、状況によっては、その国(越後)へ下向するつもりなので、いつでも対応できるように努めるべきこと、これらの条々が示されている。
更には、起請文(「上杉弾正少弼とのへ」)により、将軍家再興のために自身の命運を託すことを誓言されている。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 549号 上杉輝虎宛行状(写)、550号 足利義秋御内書、551号 足利義秋起請文、552号 足利義秋御内書
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越後国上杉輝虎の略譜 【34】

2012-11-04 00:41:02 | 上杉輝虎(謙信)の略譜
永禄9年(1566)11月 上杉輝虎(弾正少弼) 【37歳】

8日、上野国大胡(勢多郡)の地に本陣を敷く。
9日、武・上国境に在陣している相州北条軍を追い払うために利根川を越えたところ、すでに北条軍は退散していたので、上野国高山(緑野郡)から武蔵国深谷(幡羅郡)に掛けての敵地周辺をあまねく焼き払い、五十余名の敵兵を討ち取って無数の人馬を捕獲する戦果を挙げると、大胡の本陣へ戻った。

10日、(上杉「輝虎(花押e2)」)、関東味方中の「富岡主税助殿(上野国小泉城主)」に宛てて書信を発し、一昨8日に大胡の地に着陣したこと、武・上国境に在陣中の南方衆を追い払うため、翌9日に利根川を渡ったところ、すでに南方衆は後退したものか、その姿が見えなかったので、上は高山から下は深谷に掛けての敵地周辺をあまねく焼き払い、五十余名の敵兵を討ち取り、無数の人馬を捕獲すると、大胡の本陣に帰還したこと、間もなく新田(上野国金山城)に攻めかかるので、その時節を見計らって連動するべきこと、よって、これらを取次の河田豊前守(長親。大身の旗本衆。この前後に上野国沼田城代の任を解かれる)が詳報することを伝えた。

下野国佐野領の唐沢山城(安蘇郡佐野荘)への着陣を控えるなか、同足利荘(足利郡)の鑁阿寺の別舎である龍福院から、諸軍勢の濫妨狼藉を停止する制札の発給を懇望されたところ、14日、取次の山吉孫次郎豊守(大身の旗本衆)の重臣である上松弥兵衛尉農次(これ以前に藤益から農次に実名を改めたらしい)が、「龍福院 御尊報」に宛てて返書を発し、尊書を拝読させてもらったこと、御印判の件については、屋形様(輝虎)へ山吉(豊守)が披露されたところ、御法度によって軍勢の規律を徹底させるため、御印判(制札)の発給は必要ないとの仰せであったこと、しかしながら、御気が変わられて、明日のその筋(足利方面)への御進陣に伴い、御印判を整えられるとの仰せであり、御同宿(院僧)をもって、明日でも明後日にでも御受け取りに来られるべきこと、今現在は繁忙ゆえ、早書になってしまったが、いささかも軽んじてはいないので、貴僧の御理解を得たいこと、これらを懇ろに伝えている。更に追伸として、明日にでも当陣へ受け取りの御使僧を寄越されるように、繰り返し伝えている。

15日、越後国上杉家からの離反を決意した北条丹後守高広(譜代衆。上野国厩橋城代)が、上野国赤城山三夜沢大明神(勢多郡)の「三夜沢神主 奈良原紀伊守殿」に証状を与え、このほど立願の旨があるにより、何れも柏倉郷(同前)の内に於いて、深須修理亮分の二貫文、松村左衛門四郎分の三貫五百文(近戸・諏方神社分を除く)、阿久沢源三郎分の三貫文、大崎次郎左衛門尉分の七百文、都合九貫二百文の土地を永代寄進するので、毎月の祈念を励むように通達している。

17日、(上杉「輝虎(花押d)」)、鑁阿寺の別舎である「年行事 千手院」に宛てて返書を発し、このたびの関東出陣に於ける武運を祈願した巻数と、抹茶を贈ってくれたので、すこぶる満足していること、よって、これらを取次の河田豊前守(長親)が詳報することを伝えた。

20日、(上杉「輝虎(花押e2)」)、関東味方中の「富岡主税助殿」に宛てて書信を発し、東方(東・北関東)の味方中に参陣を呼び掛けるため、昨19日に当地佐野(唐沢山城)に移ったこと、近日中に新田(新田郡新田荘)を攻撃するので、その準備を整えておくべきこと、よって、これらを各所(河田豊前守長親・吉江中務丞忠景ら)が詳報することを伝えた。
24日、(上杉「輝虎(花押e2)」)、陣中見舞いとして佐野陣に代官を寄越した「富岡主税助殿」に宛てて書信を発し、東口の味方中に参陣を呼び掛けるために、当地佐野に移ったところ、代官をもって音問してくれたばかりか、太刀一腰と銭を員数の通りに贈ってくれたので、ひたすら満足していること、よって、これらを取次の吉江中務丞(忠景。大身の旗本衆。下野国唐沢山城の城将)が詳報することを伝えた。


この間、相州北条氏康・同氏政父子は、このほど調略によって、上野国衆の富岡主税助を帰服させると、20日、北条「氏康(相模守)」が、富岡主税助に対して書信を送り、このたび先忠に復してくれたので、本望満足であること、ひときは優れて忠節を励めば、恩賞は望みのままであること、万事に於いて近所の横瀬(由良信濃守成繁)と協力し合うべきこと、よって、これらを氏政が詳報することを伝えている。
同日、北条「氏政(左京大夫)」は、富岡主税助に対して証状を送り、このたび先忠に復してくれたのに伴い、上野国館林領(上杉陣営に属する足利(館林)長尾但馬守景長の本領。邑楽郡佐貫荘)の内に於いて、望みの五ヶ所の土地を与えることと、若しも館林も当陣営に加わった際には、下野国榎本領(都賀郡))の内で代替地を与えることを約束している。
その後、公然と越後国上杉氏陣営を離脱した富岡主税助から音問を通じられると、25日、北条「氏康」が、富岡主税助に対して返書を送り、来札の通り、このたび氏政が下野口に於いて存分に成果を挙げ、速やかに帰陣したので、すこぶる満足していること、このほど鶴・鮭・烏賊、酒樽二荷を贈ってくれたので、賞味に預かること、よって、これらを取次の岩本(太郎左衛門尉定次。氏政の側近。馬廻衆)が詳報することを伝えている。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 538号 上杉輝虎書状、539号 北条高広寄進状、540・541号 上杉輝虎書状、1009号 上杉輝虎書状 『栃木県史 史料編 中世1』【安足地区 足利市 鑁阿寺文書】 245号 上松農次書状 『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』 993号 北条氏康書状、994号 北条氏政判物、998号 北条氏康書状


永禄9年(1566)12月 上杉輝虎(弾正少弼) 【37歳】

上野国金山城を攻撃するため、関東味方中の房州里見正五(岱叟院。権七郎義堯)・同義弘(太郎)父子(足利藤氏が消息を絶ったあとは、その弟の藤政を擁する)に繰り返し参陣を要請していたところ、3日、房州里見正五が、上総御所足利藤政の奉公衆である「木戸左近将監大夫殿(氏胤)」に宛てて返書を発し、(藤政の)御書を謹んで拝読したこと、ここ最近の自分(里見入道正五)は普請に取り掛かっているため、久しく参上できなかったが、いささかも軽んじてはいないこと、新田を攻めるという輝虎から参陣を求められたが、敵勢と張り合っている最中であるため、越陣に飛脚を立てて辞退すること、手が空いたあかつきに、必ず参上すること、これらを御披露してくれるように頼んでいる。

同日、下野国佐野領の唐沢山城衆である吉江「忠景」と某「宅広(佐野小太郎昌綱の重臣である大貫左衛門尉か)」が、佐野鍋山衆の代表者である「小曽戸善三殿」に証状を与え、このたび鍋山城(都賀郡)を堅持したので、その際立った殊勲に御感心されたので、御新恩として糟尾郷(安蘇郡)を宛行われること、但し、そのうち六人分の知行と大塚の給分は除外されるが、それ以外の地は全て所務するべきこと、よって、ますます忠節を尽くされ、際立って奮励されれば、必ずまた御恩賞が与えられることを通達している。

甲州武田軍に圧迫されている上野国惣社城(群馬郡)への加勢として、上野国沼田城(利根郡沼田荘)の城将に据えたばかりの松本石見守景繁(大身の旗本衆)を派遣すると、上野国厩橋城(群馬郡)との連携の強化を図る必要から、惣社長尾能登守(実名は景総か)と松本石見守景繁が相談し合い、松本景繁が使者として北条丹後守高広と方策を協議するため、金子某(沼田衆の金子監物丞か)を伴って厩橋城へ赴いたところ、公然と越後国上杉家から離反した厩橋北条高広によって身柄を拘束された上に、相州北条軍へと引き渡されてしまう。

7日、(上杉「輝虎(花押e2)」)、側近の「山吉孫次郎殿(豊守。大身の旗本衆。沼田城に在陣中か)」に宛てて書信を発し、このたび妹尾(長尾か)三河守に沼田の城将を任せるにあたり、松本石見守(景繁)一跡のすべてを宛行い、更には三河守の次男の新二郎、同じく弟の又左衛門尉についても、越後と沼田領の内で都合千貫文の地を宛行い、彼の両人をよくよく引き立てて一手を任せるべきことを、三河守へ伝えるように指示した(ある時期まで松本石見守景繁の不帰は確実視されていたものか)。
この前後、(上杉「輝虎」)、父の北条丹後守高広と決別して厩橋・沼田間の「棚下之寄居(勢多郡)」に移った「北条弥五郎殿(景広。譜代衆)」に宛てて書信を発し、厩橋を退去した譜代(北条家中)の者たちが続々と吾分(北条景広)の許へと合流しているようで、それは吾分(北条景広)の適切な対応ゆえの効果と認識していること、このたびの丹後守(北条高広)の所行について、多大な権限を有する立場であり、弓矢の道に堪能であり、そして分別盛りであるにも係わらず、譜代家臣として施された厚情を顧みることなく、妻子を捨て去ってまでも、南・甲(相州北条氏・甲州武田氏)陣営に帰属するなどとは理解の範疇を越えており、厩橋から退去した者の作り話に思えてならないこと、また、あれほどの戦巧者であるにもかかわらず、その地(棚下)の寡勢に三度も撃退されたとは、どうにも不可解であること、敵方の上野国箕輪城(群馬郡)は、その地に吾分(北条景広)が張陣し、家中の者共も力の限りを尽くしているため、手詰まりであること、とはいえ、晴信(甲州武田信玄)が自ら出張して箕輪に在陣しており、南軍も氏康(実際は北条氏政)が自ら出張し、いつでも利根川を越えられる態勢であるらしく、忠義の奉公を示すためにも、両軍の動向を見定めるまで張陣を続ければ、この輝虎への厚意であること、。
13日、(上杉「輝虎(花押e2)」)、越府の「本庄美作守殿(美作入道宗緩。俗名は実乃。すでに隠居している老臣)」に宛てて書信を発し、別紙をもって知らせること、このほど惣社への加勢として松本石見守(景繁)を派遣したところ、彼の地(惣社)から能登守(惣社長尾能登守)の使者として石見守(松本景繁)に金子が付き添って厩橋に赴いた途端、不届きにも丹後守(北条高広)が彼の身柄を拘束したばかりか、南方陣に引き渡してしまったこと、この途方もない暴挙は、道七(輝虎の亡父である長尾信濃守為景)から輝虎に亘って施された恩情を忘れ、関東代官を任せた信頼を裏切るもので、まさに天魔の如き悪辣な所業であること、ひとえに吾分(本庄宗緩)の妻女(北条高広の身内か)の心中を推し量ると、申し訳が立たない思いであること、これらを取り急ぎ伝えた。

28日、吉江佐渡守忠景が、「千手院 参尊報」に宛てて、初信となる返書を発し、このたびの南方衆(相州北条軍)の野州出陣により、長但(足利(館林)長尾但馬守景長。上野国館林城主)が南方と会談に及んだのは、実に残念な仕儀であり、其許(千手院)の御懸念は御尤もであること、全くもって長但(長尾景長)は、越府より格別な御恩情をかけられてきたにも係わらず、浅はかにも南方に一味してしまったこと、御寺方等については、よろしい方に付属されるべきであり、無理強いはできないばかりか、引き立てる条件をもって御説得もされないこと、こうした越府の御意向を在城衆の面々に申し聞かせ、拙者(吉江忠景)に於いては、いささかも抜かりなく奔走するので、御安心してほしいこと、諸事については来信を期するので、この書面は省略すること、これらを懇ろに伝えている。更に追伸として、このほど受領の佐渡守(これまで中務丞を通称していたが、このたびの唐沢山城防衛戦の勲功によって受領名を賜った)を付与されたので、御不審を抱かれることのないように、くれぐれも注意を促している。



この間、越後国上杉家に反旗を翻すことを決意した厩橋北条丹後守高広から、内々に帰属の打診を受けた甲州武田「信玄(徳栄軒)」は、5日、「北条丹後守殿(高広)」に対して、初信となる返書を送り、先だって示された存意が真実ならば、すこぶる喜ばしく満足極まりないこと、今後は誰人よりも格別な交誼を結びたいので、同意してもらえれば本望であること、よって、これらを取次の甘利左衛門尉(信忠。はじめ昌忠。譜代衆)が詳報することを伝えている。


『戦国遺文 房総編 第二巻』 1230号 里見義堯書状写 『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 272号 関東幕注文、542号 武田信玄書状、543号 上杉輝虎書状、544号 吉江忠景書状、545号 上杉輝虎書状、587号 吉江忠景・某宅広判物、951号 上杉輝虎書状(写)

◆ 北条景広の動向については、栗原修氏の論集である『戦国史研究叢書6 戦国期上杉・武田氏の上野支配』(岩田書院)の「第二編 上杉氏支配の展開と部将の自立化 第二章 厩橋北条氏の存在形態 付論 厩橋北条氏の家督交替をめぐって」を参考にした。
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