越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎の年代記 【永禄7年9月~同年10月】

2012-09-26 19:18:52 | 上杉輝虎の年代記

永禄7年(1564)9月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼)【35歳】


信濃国川中嶋陣(更級郡)から後退して同飯山(水内郡)の地に本陣を移すと、5日、前線の陣城で甲州武田軍の動向を注視させている旗本衆の堀江駿河守(実名は宗親か)と岩船藤左衛門尉(実名は忠秀か)から脚力をもって、二度目の状況報告を受けると、本陣に詰める直江大和守政綱(大身の旗本衆)が、堀江駿河守・岩船藤左衛門尉へ宛てて返書を発し、このたび目付を駆使されて入手した情報を、またもや御注進に及ばれたので、こうして返事を申し上げること、なおいっそう御油断なく目付を駆使して敵筋の様子を探られ、その変化を逃さず御報告されるべきこと、また、彼の脚力の口才によれば、その地の総勢をもって、敵軍の前線拠点である小玉坂(水内郡太田荘)に攻撃を繰り返しているそうであるが、万が一にも敵軍の反撃によって陣城が突破された場合、御当陣(輝虎の本陣)まで危険に曝されるため、連日の総勢をもっての攻撃を止め、目付嚊(忍衆か)を初更に展開し、戦機を見極めた上での大規模な夜襲に戦術を変更されるべきこと、その際には、陣城の防備を十分に固め、足軽部隊のみで夜襲を仕掛けられるべきこと、敵軍がもととり山(髻山。水内郡若槻荘)に小旗五本の小部隊を派遣し、哨戒活動を繰り返している事実については、その実態の把握に努められ、監視の目をかいくぐって物見衆を旭山口(水内郡)へ潜行させ、晴信(甲州武田信玄)の本営を探り出されるべきこと、その物見が帰還したあかつきには、爰元(飯山陣)へ寄越して直に御報告すれば、御感心されるは間違いないとの仰せであること、これらを恐れ謹んで伝えている。さらに追伸として、堀駿(堀江駿河守)へ申すこと、昼夜を分かたぬ辛労をかけてしまっているとの仰せであること、ますます御奮励されるのが肝心であること、以上を取り立てて伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』433号「堀駿・岩藤 御報」宛「直大 政綱」書状写)。

6日、関東味方中の足利(館林)長尾但馬守景長(上野国館林城主)から、取次の河田豊前守長親(大身の旗本衆。同沼田城代)へ宛てて返書が発せられ、取り急ぎ申し上げること、もとより信州へ御進発されて以来、御勝利を挙げ続けているとの知らせが届き、めでたく意義深いこと、このたびの戦陣で御本意を遂げられるのは間違いないであろうこと、其国(越後国上杉家)の戦略の御一環として北条丹後守(実名は高広。譜代衆。同厩橋城代)が西上州へ出向かれるのに伴い、愚拙(長尾景長)も出陣して奮闘するつもりで準備を整えていたところ、にわかに東口(東関東)の情勢が悪化したので、自身は出陣を見合わせ、同名(長尾)隼人佑・大屋右馬允を陣代に定め、自分が率いるはずであった軍勢を任せて参陣させたこと、そうしたところに、突如として氏康(相州北条軍)が関宿(下総国葛飾郡下河辺荘)に攻め寄せると、関宿の城衆に内通者が出て城内に火を放つも、兼ねてより警戒を強めていた城主の簗田中務太輔(実名は晴助)は騒ぎを鎮めて要害を堅守したばかりか、攻城軍を迎撃して数多の将兵を討ち取られたこと、氏康は関宿からの撤退を余儀なくされると、今度は成田筋(武蔵国衆の成田氏領))へ鉾先を変え、昨日からは忍と久下の間の清水(いずれも埼西郡)に陣取ったこと、これについて、別働隊を彼の地へ向かわせる一方、(長尾景長)自身は南河辺(武・総国境付近あるいは埼玉郡南河原のことか)へ軍勢を出して、繰り返し牽制を試みていること、こちらの状況の全てを詳しく丹後守(北条高広)が御注進したこと、以上の趣旨をよろしく御披露してもらいたいこと、これらを恐れ謹んで伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』434号「河田豊前守殿」宛「長尾但馬守景長」書状)。


この間、甲州武田信玄は、西上野先方衆の岩下斎藤弥三郎(上野国岩下城主)へ宛てて書状を発し、わざわざ飛脚を寄越され、めでたく喜ばしいこと、来意の通り、越後衆が当国(信濃国)まで出張してきたので、去年の仕返しのために戦陣を催したのであろうから、まっしぐらに攻め掛けてくるものと思っていたところ、信玄自身が小諸(佐久郡)へ移陣し、先衆(前衛軍)は岡村(小県郡)へと着城させると、こちらの小旗などを視認した越後衆は後退して犀川を渡り、翌日には小荷駄の過半を捨てて逃げ去ったので、大望を達したこと、しかしながら、一戦を遂げられなかったのは無念であること、よって、沼田(上野国沼田城衆)の計略に乗り、その(斎藤)家中のうちで数人が敵に内通し、陰謀を画策しているとの噂が事実であれば、直ちに処断するべきこと、なお、帰府した折に音信を期すること、これらを恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文 武田氏編二』 912号「斎藤弥三郎殿」宛武田「信玄」書状写)。


※ この文書の日付は朔日であるが、『戦国遺文 武田氏編二』では11日の可能性が示されている。



永禄7年(1564)10月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼)【35歳】


朔日、信濃国飯山城(水内郡)の改修を終えて帰国の途に就いた。

2日、前線の陣城に残る堀江駿河守・岩船藤左衛門尉へ宛てて書状を発し、飯山城の改修を完了させたので、昨日、馬を納めこと、これについて、敵陣(甲州武田軍)の動向が気掛かりなので、速やかに目付を遣わして張り付かせ、敵はこのまま退陣するのか、それとも犀川を越えて中野(信濃国高井郡)辺りまで押し下ってくるのか、その見極めが付いたら詳細を注進するべきこと、これらを謹んで伝えた。さらに追伸として、目付からの情報を確認次第、岩船が帰府して報告するように指示を加えた(『上越市史 上杉氏文書集一』436号「堀江駿河守殿・岩船藤左衛門尉殿」宛上杉「輝虎」書状写)。

4日、飛騨国の味方中である江馬四郎輝盛(飛州姉小路三木良頼の重臣。飛騨国高原諏訪城主)の側近を務める河上式部丞へ宛てて初信となる書状を発し、このたび(江馬)輝盛から書中ならびに祝儀として太刀一腰と鉄砲一挺を贈られたこと、めでたく喜ばしいこと、今後ますます厚誼を深めたいとの申し出にも、ひたすら歓喜していること、何かにつけ其方(河上式部丞)を通じるので、そのつど取り成しに奔走してほしいこと、とにかくこちらから申し遣わすこと、また、(江馬家中衆が)其許(江馬家)にあっても当方に忠信を励むとの意思を示したので、こうして家中衆へはじめて一翰に及んだわけであり、その趣旨をしっかりと心得てほしいこと、これらを恐れ謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』437号「河上式部少輔(ママ)殿」宛上杉「輝虎」書状写)。

これから間もなく、関東へ出馬しようとしたが、従軍将兵の参集が芳しくないために遅延していたところ、甲州武田軍が上野国西郡へ進陣したとの情報に接し、やむを得ずに手元の将兵を率いて出馬し、半途(越後国魚沼郡上田荘)まで進んだところ、程なく武田軍は帰陣してしまったので、その場で人馬を休める。

14日、江馬四郎輝盛の重臣である河上左衛門尉へ宛てて自筆の初信となる書状を発し、これまで書通に及んでいなかったところ、其元(河上左衛門尉)が当方(越後国上杉家」のために奔走してくれるそうなので、一筆申し上げること、ますます(江馬)輝盛と厚誼を深められるように、色々と適切に口添えしてくれれば、めでたく喜ばしいこと、なお、詳細は河上式部丞が演説するべきこと、これらを恐れ謹んで伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』438号「河上左衛門尉殿」宛上杉「輝虎」書状写)。

16日、関東味方中の富岡主税助(上野国小泉城主)へ宛てた自筆の書状を飛脚に託し、当秋に先年のような大規模の戦陣を催すため、力を尽くして準備を急ぐも、爰元(輝虎の許)に軍勢が集まらないので、もたついていたところ、晴信(甲州武田信玄)が上州へ出張したとの急報に接し、あらかじめ申し遣わしていた通り、このたびこそ(武田信玄と)決着をつける覚悟であったので、取る物も取り敢えず出馬して半途まで進むも、程なく凶徒は退散してしまったこと、方々からも同様の情報が寄せられたので、さしあたって人馬を休息させたこと、しかしながら、北条丹後守(実名は高広。上野国厩橋城代)から、諸方面の事態が切迫しているため、ともかく至急に手立てを講じるべきとの要請が繰り返し寄せられたこと、もはや猶予はないので、来る20日に必ず(上田を)出庄して進軍を再開すること、当軍が其元(上野国)に着陣するまでの間、相州北条方の攻勢を抑えるべきこと、心得てもらうために、まず筆を馳せたこと、これらを謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』355号「富岡主税助殿」宛上杉「輝虎」書状【花押a3】)。

20日、河上式部丞へ宛てて返書を発し、寄せられた切紙を披読し、めでたく喜ばしいこと、このたびの時盛(江馬左馬助。飛州姉小路三木氏の重臣。もとの高原諏訪城主)が甲州武田信玄に一味して起こした再乱は、はなはだ遺憾であること、しかし、先忠を違わずに輝盛(江馬四郎)を守って越中国境へ抜け出されたのは、実に奇特な忠功であること、これにより、姉小路良頼(三木氏。中納言)と(江馬)輝盛が高原(江馬時盛が拠る飛騨国荒城郡の高原諏訪城)に反撃するに当たって支援を求められたので、とりもなおさず越中衆を飛州へ派遣した直接支援に加え、それだけでは心許ないので、自分が信州河中島(信濃国更級郡)へ出馬して7月から六十日もの間、甲州武田軍の本隊を引き付けた間接支援により、武田軍の支援を満足に受けられなかった(江馬)時盛が和睦を申し入れてきたわけであり、まずここは聞き入れるべきであること、今後ますます(江馬)輝盛へ適切な意見を加えられるのが、尤も重要であること、詳細は村上義清(兵部少輔。客分の信濃衆。もとは信濃国坂木(更級郡)の領主。姉小路三木氏と江馬氏とのつてがあったと思われる)が伝説すること、これらを恐れ謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』439号「河上式部丞殿」宛上杉「輝虎」書状【花押e1】)。

同日、側近の河田長親(豊前守。上野国沼田城代でもある)が、江馬方の取次である河上中務丞富信へ宛てて返書を発し、そちらから寄せられた翰札を披読し、めでたく喜ばしい限りであること、よって、このたび(江馬)時盛が再び国方(飛州姉小路三木家)に逆らい、晴信(甲州武田信玄)に御一味して再乱を企てたのは、はなはだ遺憾であること、そうしたところに、其方(河上富信)が筋目に従って輝盛と御内談して越中国境に抜け出されたのは、極めて殊勝な忠功であること、(三木)良頼と(江馬)輝盛が高原(江馬時盛)に反撃するため、当方へ支援を求められたので、越中衆へ飛州への加勢を申し付け、それだけでは心許ないので、自らは信州へ出馬して河中島に至り、7月から六十日もの間、旗を立て、甲州武田軍を押さえ込んだゆえ、(江馬)時盛は許しを請われて証人を差し出す旨を申し入れてきたわけであり、ここは御一和を受け入れて、(江馬)輝盛は本意を遂げられるべきであること、今後ますます(輝盛へ)適切な御意見を加えられるべきであること、詳細は(輝虎が)御直書で申されるので、要略したこと、これらを恐れ謹んで伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』440号「河上中務丞殿」宛「河田長親」書状写)。

このあと結局、国境を越えることなく越府に引き返し、今次の関東遠征を取り止めた。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『戦国遺文 武田氏編 第二巻』(東京堂出版)

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