越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

上田長尾家の御曹司・長尾時宗の境遇と行方について(前)

2017-12-02 01:39:14 | 雑考

 越後国上杉輝虎の姉婿である上田長尾政景の長男と思われる長尾時宗(丸)の謎めいた境遇、忽然と姿を消したあとの行方について考えてみたい。


【史料1】南雲治部左衛門尉宛長尾景虎感状
今度於信州上野原一戦、動無比類次第候、向後弥挊之事、肝心候、謹言、
    八月廿九日       景虎
     南雲治部左衛門尉とのへ


【史料2】大橋弥次郎宛長尾政景感状
於今度信州上野原一戦、動無比類次第候、向後弥可相挊事、簡心候、謹言、
    八月廿九日       政景
       大橋弥次郎殿


【史料3】下平弥七郎宛長尾政景感状
於信州上野原、対晴信遂合戦、得勝利候刻、神妙之動無比類候、向後弥可被稼事専要候、謹言、
  弘治二年戊午(ママ)    
    九月廿日       政景
    下平弥七郎殿


 いずれの史料も、弘治3年秋に信濃国飯山城近郊の上野原の地において、上田長尾政景を初めとする飯山城在陣衆が甲州武田軍と交戦したあと、越後国長尾景虎と長尾政景が戦功者(上田長尾氏の被官たち)に与えた感状であり、断絶した越後守護上杉家に成り代った越後国長尾家の当主である景虎と、その同名・姉婿でありながらも一家衆ではなくて譜代衆の家格に甘んじている政景のそれでは、文言はほぼ同じであっても、書式は薄礼と厚礼に区別されていることを、まず確認しておきたい。

※ 上田長尾政景が越後国長尾家の一家衆に列せられなかったのは、守護代長尾家を相続した長尾景虎に対し、かつて反抗したことが影響したと考えられている。


【史料4】長尾時宗宛上杉輝虎感状
  黒金〇〇兵衛尉
  登坂弥八郎
  大平源三被疵
  田村与左衛門尉
  登坂新七郎
  小河源左衛門尉
  同 新四郎
  甘糟惣七郎被疵
  笠原源次郎
  熊木弥介
  三本又四郎
  同 彦次郎
  尾山市介
  樋口又三郎
  浅間将監
  内田文三
  甘糟新五郎
  桐沢惣次郎
  上村玄蕃亮
  中条玄蕃允
  椿 喜介
  浅間次郎三郎
  大平木工助
  中野神左衛門尉
  諸橋孫九郎
  蔵田十右衛門尉
  星 神介
  大平雅楽助
  大橋与三左衛門尉
  丸山与五郎
  土橋三介被疵
  下平弥七郎
  登坂弥七郎
  同 与七郎
  同 彦五郎
  吉田弥兵衛尉
  西片半七郎被疵
  豊野又三郎被疵
  樋口帯刀左衛門尉被疵
  目崎又三郎被疵
  登坂半介弟被疵
  千喜良彦次郎被疵
 長尾伊勢守被官

  高橋惣右衛門尉被疵
 甘糟被官

  市場小六郎被疵
 古藤中間

  新三郎
 黒金新兵衛尉被官
  玉田弥七被疵
  丸山弥五郎討死
  篠尾与一
  佐藤弥左衛門尉
  宮島惣三
今度佐野之地攻破之刻、各如此之動、神妙之至候、於越後各通皆々可感之候、向後弥相嗜為加世義簡心候者也、
  永禄七
    二月十七日      輝虎(花押a)
      長尾時宗殿


【史料5】栗林次郎左衛門尉宛上杉輝虎感状
今度佐野之地攻破刻、加世義之段、神妙之至候、向後弥可相嗜者也、
  永禄七           (上杉輝虎)
    二月十七日      (花押a)
      栗林次郎左衛門とのへ


【史料6】宮嶋惣三宛上杉輝虎感状
今度佐野攻破刻、頸一取之動候段、神妙之至候、向後被相嗜可挊者也、
  永禄七           (上杉輝虎)
    二月十七日      御居判 
         宮嶋惣三とのへ

【史料7】下平弥七郎宛長尾時宗感状
二月十七日佐野扇城被為破候刻、能々成加世儀由、神妙之至候、向後猶以可相嗜事、 専要候、謹言、
    四月三日       時宗
     下平弥七郎殿


【史料8】内田長吉宛長尾時宗感状
二月十七日佐野扇城被為破候刻、能々成加世義由、神妙之至候、向後猶以可相嗜事、専要候、謹言、
    四月三日       時宗
     内田文三殿


【史料9】広居忠家宛長尾顕景感状
今度臼井之地被為攻候処、最前責入相動之段、粉骨無比類候、向後弥可相稼事、簡要候、謹言、
    四月廿日       顕景(花押a)
      広居又五郎殿


【史料10】下平右近允宛長尾顕景感状
今度臼井之地被為攻候時分、最前責入之由、無比類候、負疵之段、粉骨無是非候、向後弥可相稼事、専要候、謹言、
    四月廿日       顕景
     下平右近允殿


【史料11】下平右近允宛長尾顕景感状
於本庄村上地、正月九日、夜中敵取懸候処取合、無比類動、誠以神妙之至候、向後弥可相嗜事、専一候、謹言、
    六月七日       顕景御居判
     下平右近亮殿


【史料12】佐藤縫殿助宛長尾顕景感状
於本庄村上之地、正月九日、夜中敵取懸候処取合、無比類働、誠以神妙之至候、向後弥可相嗜事、専一候、謹言、
    六月七日       顕景
     佐藤縫殿助殿


 長尾時宗とは、片桐昭彦氏が「長尾景虎(上杉輝虎)の感状とその展開」(『戦国期発給文書の研究 -印判・感状・制札と権力-』)のなかで、上田長尾政景の長男に比定されている人物であり、上杉輝虎による永禄7年2月17日の下野国佐野の唐沢山城攻めで戦功を挙げた上田衆の代表として輝虎から賜った感状【史料4】が初見にあたる。時宗は永禄6年冬から同7年夏にかけての輝虎による関東遠征は未成年のままで従軍し、永禄7年2月中旬の下野国唐沢山城攻めに参加したが、父の長尾政景は輝虎の指示により、越府防衛の増援として、上田衆を二分して途中帰国したらしく、唐沢山城攻め自体には参加していなかった。

 この時宗が、輝虎による下野国唐沢山城攻めの後から上野国和田城攻めを前にした4月3日、唐沢山城攻めにおける上田衆の戦功者を個別に忠賞して与えた感状【史料7・8】は、唐沢山城を攻めた直後の2月17日に輝虎が、同じく上田衆の戦功者を個別に忠賞して与えた感状【史料5・6】とは、当然ながら書札礼の厚薄が異なっており、最初で示したように、弘治3年秋の信濃国上野原陣における戦功を忠賞して上田衆に感状を発給した越後国長尾景虎と上田長尾政景の関係性が思い起こされる。そして、時宗が発給した感状は、永禄7年7月5日に長尾政景が横死してしまうと、その名跡を継いだ次男の卯松(丸)改め喜平次顕景が、やはり輝虎による同9年3月の下総国臼井城攻め、同12年正月の越後国村上城攻めにおける上田衆の戦功者を個別に忠賞して与えた感状【史料9~12】と同じ書札礼であるから、長尾政景が横死するまでは、時宗が上田長尾氏の家督継承者の最有力であったことは確かであろう。


【史料13】下平右近允宛上杉輝虎感状
於下野国佐野飯守、戦功神妙也、
  永禄十三年庚午     (上杉輝虎)
    二月二日      御朱印
     下平右近亮とのへ


【史料14】広居忠家宛長尾顕景感状
佐野於飯守山、別相稼、敵討捕候事、神妙之至候、謹言、
    二月二日      顕景(花押a)
     広居善右衛門尉殿


【史料15】小山弥兵衛尉宛上杉輝虎感状
佐野之飯守被為取候、抽粉骨御(ママ)走廻、神妙之至候、恐々謹言(ママ)、
    二月二日      顕景御居判
       小山弥兵衛殿


【史料16】下平右近允宛長尾顕景感状
佐野於飯守山、別相稼、敵打捕候事、神妙之至候、謹言、
    二月二日      顕景御居判
      下平右近亮殿


【史料17】内田長吉宛長尾時宗感状
於下野佐野飯守山、戦功神妙也、
   永禄十三年庚午
    二月二日       時宗
       内田


【史料18】下平右近允宛長尾時宗感状
於下野佐野飯守山、戦功神妙也、
  永禄十三年庚午
    二月二日       時宗
        下平右近亮殿


 これらの感状は、上杉輝虎が永禄12年秋から冬にかけて越中国で東西に分立する椎名・神保らとそれぞれ戦ったのち、そのまま関東へ進んで越年すると、正月早々から下野国佐野の唐沢山城を攻めた際のものであり、上田長尾顕景もその兄であろう時宗も、輝虎と同時に感状を発給しているので、この遠征に従軍していたことになる。取り分け、ここに至るまでの長尾顕景は若年のため、輝虎の戦陣中は常に越後国上杉家の本拠地である春日山城で留守居しており、これまで発給した感状は全て上田衆が帰還した後のものであったのに対し、ここでは陣中において発給したことが分かるので、この連続して挙行された越中陣か関東陣が長尾顕景の初陣だと思われる。
 
 ここで気になるのは、上田長尾氏の家督を継げなかった影響によるものなのか、長尾時宗は未だに幼名のままであり、長尾顕景の上田長尾家相続には複雑な事情があったことは想像に難くない。そして、当主でもない時宗が感状を発給し、それが長尾顕景の書式よりも薄礼であるばかりか、最初で示したように、時宗の父であろう上田長尾政景と越後国長尾景虎の間ですら書札礼の厚薄が異なっていたにもかかわらず、たとえ顕景への対抗心からであったとしても、越後国上杉家の当主である輝虎が発給した感状【史料13】と同じ書札礼を用いていることに激しい違和感を覚える。この時宗が発給した二通の感状写【史料17・18】は、近世に米沢藩士の家伝文書の編纂事業に際し、誤写されたか、改竄されたかした文書であるのかもしれない。仮に後者だとしたら、ここで時宗の名を出してきたのは、この人物の存在を印象付けたい何者かの意思が働いたのだろうか。いずれにしても時宗感状は検討を要する文書であり、もしも偽文書であったとしたら、時宗は現れた年の内に姿を消してしまったことになる。

 ともかく永禄7年中か同13年を最後に長尾時宗の名は文書に現れなくなり、その生死すら定かではない。次では時宗の行方について、ひとつの可能性を示してみたい。


※ 上田長尾政景の嫡男であったと思われる長尾時宗が現れたと思ったら、その数ヶ月後に政景が不慮の死を遂げたり、後継者にみえた時宗が上田長尾氏の家督を継げなかったりしていることと、検討を要する文書である【史料17・8】の長尾時宗感状が、いずれも【史料7・8】のそれと同じく下平・内田に宛てられていることは、何やらいわくありげではないか。
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