越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉氏における家中序列の一例

2015-12-29 18:33:39 | 雑考

【史料】本庄宗緩宛広泰寺昌派書状
直和飛脚一書進之候、仍昨十五、沼田之地迄路次中無煩罷着候、可御心安候、殊一段達者耳も聞得申候条、可有御悦喜候、随、 屋形様御威光有難奉存之候、其故、従柿崎始、各々賄以下可申由、頻被申候得共、従 屋形様路銭過分被下候間、努々賄之儀、御無用之由申払候、雖然、柿崎ニ而鶴久尾、北条ニ而二か、馬之飼料給候間、五郎殿忝由、被仰可給候、上田ニ而栗林方鶴久尾一双、持参候、蔵田兵部方白布一端、両金一懸、蘇合圓三貝、沼田之地ニ而請取申候、是御礼頼入候、当地沼田ニ而、各河伯光清石見方之儀不及申、何懇意馳走、不及是非候、将亦、進隼方 御諚乍申、弥々懇切候、可御心安候、如此趣、山吉殿直江殿鯵清、各々御雑談頼入候、御失念有間敷候、一、南方之儀、氏政于今在陣之由申来候、愈勝事、明日爰元を罷立可申候間、帰寺之上、目出可申承候、恐々謹言、
            広泰寺
    閏五月十六日     昌派(花押)
    本庄美作入道殿
           御宿所


 この書状は、永禄12年閏5月16日に、越後国上杉輝虎から使僧として重用された広泰寺昌派が、輝虎の老臣である本庄宗緩(実乃。新左衛門尉。新左衛門入道。美作入道。輝虎(当時は長尾景虎)が旗揚げした頃からの功臣)に宛てたもので、文中に記された上杉家中の重要人物たちの序列が書き分けられていることから、それを示してみたい。

 まず、最も序列が高いのは、紫字五郎殿(北条景広。弥五郎。丹後守。越後国北条城主)と直江殿(直江景綱。実綱。政綱。神五郎。与右兵衛尉。大和守。同与板城主)・山吉殿(山吉豊守。孫次郎。同三条城主)の三名で、いずれも殿の敬称が付され、城持ち衆でありながらも、その身分は譜代衆(国衆)と旗本衆の差がある。
 輩行名書きされた北条弥五郎景広は、越後国上杉氏譜代の重臣である北条丹後守高広(弥五郎。安芸守。謙信没後に芳林と号する)の嫡男だが、当時、父の北条高広は関東代官として上野国厩橋城代を任されていたにもかかわらず、越後国上杉氏から離反して相州北条氏に従っていた。
 苗字書きされた直江大和守景綱は、もとは越後守護上杉氏の譜代衆であったが、後継者を立てられなかった上杉定実(号玄清)の死去によって越後守護上杉氏が断絶し、越後守護代長尾景虎(のちの上杉輝虎)が事実上の越後国主になると、その直臣に転じた。越後国長尾氏の奉行衆を経て越後国上杉氏の年寄衆に列した。
 同じく山吉孫次郎豊守は、もとは越後守護代長尾氏譜代の重臣であり、越後守護上杉氏の蒲原郡司代官(守護代長尾氏の前身である三条長尾氏から引き継いだという)を務めた山吉氏の系譜に連なる。輝虎の小姓を経て年寄衆に列した。直江・山吉は越後の由緒ある家柄ゆえ、旗本衆のうちで最も勢力を誇り、輝虎が最も頼みとした。

 次いで序列が高いのは、青字石見方(松本景繁。石見守。越後国小木(荻)城主)、栗林方(栗林房頼。次郎左衛門尉。上田長尾氏の重臣。越後国樺沢城主か)、蔵田兵部方(兵部左衛門尉)、進隼方(進藤家清。隼人佑)の四名で、いずれも方の敬称が付されており、その身分は栗林を除いて輝虎の旗本衆に属するが、それぞれの身代には差がある。
 官途書きされた松本石見守景繁は、もとは越後守護長尾氏譜代の重臣である。直江景綱や山吉豊守のように政務を担った形跡は、松本景繁には認められないが、輝虎から上野国沼田城将に任じられるほどである。
 苗字書きされた栗林次郎左衛門尉房頼は、上田長尾氏譜代の重臣であり、当時、輝虎の甥である上田長尾喜平次顕景(卯松丸。のちの上杉弾正少弼景勝)が若年なので、その陣代を務めていた。
 苗字、官途書きされた蔵田兵部左衛門尉は、越後国府内町の代官を務めた蔵田五郎左衛門尉(秀家か。もとは伊勢神宮の御師で、越後守護上杉氏の御用商人を務めた。府城における蔵の管理、青苧座の統轄なども任された)の一族であり、旗本衆に属している。
 略称された進藤隼人佑家清は、他国の出身者かも知れない。旗本衆に属し、他国への使者をよく務める。

 ここからは、敬称の付されない赤字鯵清(鰺坂長実。清介。備中守)と河伯(河田重親。伯耆守)の二名で、いずれも略称されており、その身分は旗本衆である。
 江州六角佐々木氏の旧臣と伝わる鯵坂清介長実は、輝虎の最側近となる河田豊前守長親や吉江喜四郎資と共に、永禄2年の長尾景虎上洛時に召し出されて越後国に下ると、鰺坂氏の名跡を与えられた。吉江資賢と同様に前姓は伝わらない。やがて年寄衆の列に加えられた。その時期は、河田長親より遅く吉江資賢より早い。
 同じく河田伯耆守重親は、河田長親の叔父であり、甥の長親を頼って輝虎に仕えたといい、長親や鰺坂長実のように輝虎の側近としての活動は認められないが、松本景繁を主将とする上野国沼田城衆の一員に加えられ、のちに松本の後任となる、。

 そして最後は、緑字光清は実名書きである。
 これは輝虎旗本の小中大蔵丞と思われる。小中氏は上野国勢多郡小中の地衆と伝わり、大蔵丞が関東に進出した輝虎に仕えたという。これから間もなくして病に倒れ、弟の彦右兵衛尉(実名は清職であろう)が名跡を継いでいる。

 このように、越後由来の家柄を持つ者と、上杉輝虎の近臣といえども新参者では、当然ながら峻別されていたことが分かる。


※ 広泰寺昌派の花押形は、上杉輝虎のそれと似ている。

※ 高齢の本庄美作入道宗緩は、当時、すでに一線を退いているが、五日か六日に一度ほど出仕していた。

※ 当時、松本景繁・河田重親と共に沼田三人衆と呼び称された上野中務丞家成(源六。譜代衆(国衆)。越後国節黒城主)の名が記されていない理由は不明である。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』746号 広泰寺昌派書状、783号 本庄宗緩書状 ◆『新潟県史 資料編3 中世一 文書編Ⅰ 付録』◆『新修七尾市史14 通史編1 原始・古代・中世』◆『永原慶二著作選集 第六巻 戦国期の政治経済構造 戦国大名と都市』(吉川弘文館)
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