越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎(旱虎)の年代記 【永禄12年11月】

2013-09-24 01:16:11 | 上杉輝虎(謙信)の略譜

永禄12年(1569)11月 越後国(山内)上杉輝虎(旱虎。弾正少弼)【40歳】


5日、越中国代官を任せている河田長親(豊前守。越中国新川郡の魚津城の城代)が、花前孫三郎(越後国一宮居多神社の宮司である花前宮内大輔の息子)に証状を与え、越中国宮津八幡宮(新川郡)の社職を進め置くこと、相続されるのが肝心であること、よって、前述の通りであること、これらを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』825号「花前孫三郎殿」宛河田「長親」判物)。

同日、同じく河田長親が、重臣の小越平左衛門尉(古志長尾氏の被官から輝虎(長尾景虎)の旗本を経て河田に配された)に証状を与え、高野本郷内の長吉村ならびに布施保の石田村(ともに新川郡)の新田における都合九十俵分の地を相違なく知行するべきこと、ただし、雑役分は除くこと、よって、前述の通りであること、これらを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』826号「小越平左衛門尉殿」宛河田「長親」判物写)。


12日、越・相両国の間を取り次ぐ上野国衆の由良信濃守成繁(上野国新田郡の金山城の城主)から、上野国沼田城(利根郡沼田荘)の城衆である河田伯耆守重親・上野中務丞家成へ宛てて書状が発せられ、追って、(輝虎の)御越山が御急速について、(由良成繁が)東口の衆へ申し届けるようにとの御指図を、承ったこと、当然のとはいえ、近年は思慮の旨があり、(東口之衆とは)距離を置いていたこと、しかしながら、拙者(由良)から申し届けるようにと、(輝虎の)御用命であるからには、御直書は言うまでもなく、山孫(山吉孫次郎豊守。輝虎の最側近)の一札を預かったならば、(東口の衆へ)申し届けること、それからまた、去秋に房州(房州里見家)から越国へ(新田金山を)罷り通った使僧が未だに戻ってこられていないこと、心配していること、詳しい御知らせを待ち入ること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』827号「河伯・上中 御宿所」宛由良「信濃守成繁」書状写)。


相州北条氏康・同氏政父子との盟約であった8月の信州出陣を延引して越中へ進攻したことを弁明するため、北条父子からの客僧に添えて使者を相府へ向かわせたところ、北条父子と、新田から戻った取次の遠山左衛門尉康光(氏康の側近。小田原衆)から、14日以降にまとめて返書が発せられる。

13日、相州北条氏康(相模守)が返書を認め、当方(相州北条家)の客僧が帰国するのに伴い、御使いの小林方(通称は土佐守か。輝虎旗本)を差し添えられたこと、御状を隈なく披読したこと、このたびの越中への御出張に、御表裏はない旨の御誓詞を給わったこと、誠に御入魂の極みであり、(北条)氏政においても恐れ多いと思っていること、それ以後は毎朝毎晩、貴国(越後国上杉家)を頼み入る思うところ以外にはないこと、とりわけ、去秋は(盟約通りに関東へ出馬するも)柏崎(越後国刈羽郡比角荘)から彼の国(越中国)へ攻め入られると、それ以後には神保家中(越中国増山の神保惣右衛門尉長職の家臣団)が造反するについて、神通川を渡られ、御静謐を遂げられたとのこと、この御仕置はまったく御相違には残しておくわけにはいかないこと、越中・越後国境の安全がしっかり確保されなていなくては、信州で御長陣できないこと、このところは理解致したので、越中国の御仕置が肝心であると思っていること、もとより只今のような深雪の時節に、信州御出張は本望極まりないこと、愚意については、先だって由信(由良成繁)に頼んで申し届けたこと、御返答のうえ、折り返し使いをもって申し入れること、委細は氏政が申し述べること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』828号「山内殿」宛北条「氏康」書状)。

同日、相州北条氏政(左京大夫)が、由良信濃守成繁へ宛てて書状を認め、輝虎から此方(相州北条家)の客僧の御使いを差し添えられたこと、とりもなおさず(由良成繁へ)御報せに及ぶこと、殊に其方(由良)への(輝虎からの)一札を披読したこと、(輝虎には)雪中であろうとも越山してもらい、なおかつ信州へ攻め入ってもらうのが、肝心の極みであること、委細は先段に其方を頼み入り、愚意を申し届けたにより、彼(輝虎)の御挨拶が寄せられ次第、折り返し使いをもって申し届けること、(愚意の)一部始終を其方が斟酌して、(輝虎へ)申し述べられてほしいこと、委細は来信を期すること、これらを恐れ謹んで申し伝えている。さらに追伸として、(甲州武田軍が)駿州へ攻め入ったとの情報が方々から寄せられているので、その防衛に手を尽くすつもりであること、また、輝虎から其方(由良)への状は返送すること、以上、これらを申し添えている(『上越市史 上杉氏文書集一』829号「由良信濃守殿」宛北条「氏政」書状)。

14日、遠山左衛門尉康光が、越・相の通交における上杉家側の窓口である山吉孫次郎豊守へ宛てて返書を整え、思いがけずも上杉軍が賊徒と戦うために越中国へ転進されたので、心配した氏康父子の指示により、自分が新田(上野国金山城)へと派遣されたこと、そうしたところに、越陣から使者の小林方(旗本衆。通称・実名ともに不詳)が相府に到着し、懇ろな返答を申し述べられたので、氏康父子はすこぶる喜び、雪中を関東に出陣された上での信州進攻を待望していること、信濃奥郡に在陣中の人衆が五十余の敵兵を討ち取ったとの知らせを聞いて、これまた快然の思いに浸っていること、詳細については父子が直に伝達すること、御披露を頼み入ること、これらを恐れ謹んで申し伝えている。さらに追伸として、蜜柑一合を進上することを伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』830号「山吉殿」宛「遠山左衛門尉康光」書状)。

同日、遠山左衛門尉康光が、山吉孫次郎豊守へ宛てて、私信となる書状を整え、氏康父子が越中陣の状況を知るために飛脚を派遣したところ、彼の飛脚に付き添わせてくれた使者の小林方を通じ、懇ろに返答を示されたので、父子もすこぶる喜んでいること、越中を落着させた上で、寒天のなかを関東へ進軍されてくる方々の難儀は想像に難くないこと、先月下旬に自分が新田へと派遣されたので、由良成繁と相談して越陣へ使者を立てた際にも申し上げたように、信州へ出陣されるのを念願していること、詳細については父子が直に伝達すること、別紙をもって貴所(山吉豊守)に対し、当家の房・相一和への存念を示すので、よく検討した上で取り成してほしいこと、屋形様(輝虎)から直書を賜ったので冥加に余り、ますます越・相両国の連帯のために奔走すること、この旨を御披露に預かりたいこと、これらを恐れ畏んで申し伝えている。さらに追伸として、屋形様(輝虎)へ当地(相府)本城(氏康)から蜜柑一合を贈られることを申し添えている(『上越市史 上杉氏文書集一』831号「山孫 御報」宛「遠左 康光」書状)。


上野国沼田城へ向けて進軍するなか、16日、側近の山吉孫次郎豊守へ宛てて書状を発し、松本石見守(景繁。大身の旗本衆)の迎えた結末は、長年にわたり身心をすり減らしながら、境目にあって守り続けてくれたのであり、ひときわ不憫極まりないこと、しかしなながら、息子(鶴松)がいるわけなので、彼の者を家中の者共が守り立てて、前々の通りに奮励させるのが肝心であること、万が一にも牢人・被官が散失しては、元も子もないのであり、家風と同心にしっかりと申し付けるべきこと、これらを謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』949号「山吉孫次郎殿」宛上杉「旱虎」書状【花押a4】)。


当文書は、『上越市史 上杉氏文書集一』では元亀元年に置かれているが、輝虎(旱虎)は同年9月には謙信と号することと、永禄12年6月末に上野国沼田城の城将を任されていた松本景繁が越府側の取次の契約違反を訴え、越府に出向いて話し合いの結果、秋中に沼田城将を退任したことから、当年の発給文書となる。


同日、越中国代官を任せている河田長親(越中国新川郡の魚津城の城代)が、配下の山田平左衛門尉に証状を与え、高野本郷内の舟橋村(越中国新川郡)を、相違なく知行するべきこと、よって、前述の通りであること、これらを申し渡している。また、別紙をもって、給恩として料所から三信郷内の木祢村本光院方竹田与七分、同村香厳院方竹井分を、相違なく知行するべきこと、ただし、雑役分を除くものであること、よって、前述の通りであること、これらを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』832・833号「山田平左衛門尉殿」宛河田「長親」判物)。

同日、同じく河田長親が、配下の庄田惣左衛門尉(実名は秀定か。古志長尾氏の被官から輝虎(長尾景虎)初政の側近となった庄田惣左衛門尉定賢の世子)に証状を与え、給恩として料所から布施保内の蛇田村を、相違なく知行するべきこと、ただし、雑役分を除くものであること、よって、前述の通りであること、これらを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』834号「庄田惣左衛門(尉)殿」宛河田「長親」判物写)。


20日、沼田に着城すると、常陸国太田の佐竹氏の客将である梶原源太政景(太田美濃入道道誉(三楽斎。俗名は資正)の世子)へ宛てて書状を発し、先書で伝達した通り、越中陣を終えてから人馬に休息を取らせずに関東へ向かい、倉内(沼田城)に本日着陣したこと、漸く義重(常陸国衆の佐竹義重。常陸国太田城主)と相談できる時節を迎えたゆえ、急いで合流するように、其方父子(太田道誉・梶原政景)がしっかり促すべきこと、当軍勢は百日の越中陣を経て、途中で休息を取ることなく関東に着陣したのであり、早々に父子も総勢を引き連れて参陣するべきこと、もはや引率した人衆を居城の片野(常陸国北郡)に帰す必要はないので、必ず一度に総勢を引き連れてくるべきこと、準備が整わなかったなどと称して、ここ最近のように不誠実な対応を繰り返すのであれば、いささかも状況は好転しないので、輝虎方にとっても、父子の進退にとっても不利益であること、東方衆が残らず参陣するように呼び掛けるべきこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』835号「梶原源太殿」宛上杉「輝虎」書状写【花押a影】)


同日、相州北条方の取次である藤田新太郎氏邦(氏康の四男。武蔵国男衾郡の鉢形城主)から、山吉孫次郎豊守へ宛てて書状が発せられ、このほど此方(北条氏康父子)より客僧をもって申し述べたところ、彼の者の帰国に伴い、御誓詞を携えた使者の小林方を差し添えて寄越されたこと、その示された趣旨に氏康父子は満悦されていること、先だって寄せられた貴報によれば、(輝虎が)御越山したところ、越中国で反乱が起こったので、彼の国へ御出張し、御仕置のあとに深雪の時期を迎えて御越山に及ばれ、そのまま御越年の心積もりであるとのこと、これが実現すれば、相・越一和の意義が世間に深まる時を迎えられること、いずれにしても貴国を頼るほかないこと、(輝虎から)続報が寄せられ次第、(氏康父子が)使者をもって申し述べると申されていること、(御誓詞で)示された条々を父子にしっかり申し聞かせるつもりである旨を、(輝虎へ)御披露に預かりたいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている。さらに追伸として、信州境に配備された御人衆(越後衆)から到来した書中を披閲し、目出度い思いであること、早々に御越山するとの知らせに満足していること、以上、これらを申し添えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』836号「山吉孫次郎殿」宛「藤田新太郎氏邦」書状写)。

22日、同盟関係にある相州北条氏政が、兄弟衆の藤田新太郎氏邦へ宛てて書状を発し、飛脚を立てて連絡するつもりでいたところ、ちょうど三山(五郎兵衛尉綱定。氏邦の側近)が鉢形城(武蔵国男衾郡)に戻るので伝達させること、垪和氏続(駿河国興国寺城主。松山衆)と笠原助三郎(同城の在番衆。小机衆)から、甲州武田軍が駿河国富士郡に着陣したとの報告が寄せられたので、垪和の注進状を由良(成繁)へ回覧してほしいこと、敵方の動向を見極め次第、越陣へ詳報するので、輝虎が攻撃の手段を提示するように求めてほしいこと、自分も明日か明後日には豆州へ出陣するつもりであること、くれぐれも垪和の注進状を夜通しで由良に届けてほしいこと、こうした緊急の指示を伝えている。さらに追伸として、できるだけ早く上杉軍と連携を計りたいので、輝虎の返事を受け取ったら、すぐさま由良に玄蔵主を走らせるように指示を送ってほしいことと、玄蔵主の帰着を夜通しで待ち続けることを伝えている(『戦国遺文 後北条氏編二』1338号「新太郎殿」宛北条「氏政」書状)。


23日、同盟関係にある相州北条相模守氏康・北条左京大夫氏政父子へ宛てて条書を発し、一、一昨々日に当地倉内(上野国沼田城)に着城したこと、一、これより講ずるべき手立てのこと、一、御父子が何度も同陣についての意見を寄せてくるので、当方の意図と相違しているのはやむを得ないが、藤田氏邦と遠山左衛門(康光)へ当方の意思を伝えるので、よく検討してほしいこと、以上、これらを申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』837号「北条相模守殿・北条左京太夫殿」宛上杉「謙信(ママ)」条書)。


24日、相州北条氏康から、山吉孫次郎豊守へ宛てて書状が発せられ、去る14日の書状が昨23日に到来したこと、上・越国境の越後国塩沢(魚沼郡上田荘)に御着陣したそうで、この深雪の時期にさぞかし難儀されたであろうこと、このほど越陣へ氏政に使者を急派させたこと、よって、これらを使者の鶴木方(旗本衆。通称・実名ともに不詳)が詳述すること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている。さらに追伸として、先書で伝えた通り、息子の助五郎(氏規。四男。相模国三崎城主)並びに六郎(実名は氏忠。氏康の弟である左衛門佐氏堯の子で、実父の没後に氏康の養子になったらしい)を伊豆国韮山城(田方郡)へと配備しているが、このほど遠左(遠山康光)を増援として向かわせたので、遠山の副状がないこと、以上、これらを申し添えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』838号「山吉孫二郎殿宛」宛北条「氏康」書状)。

同日、由良信濃守成繁から、山吉孫次郎豊守へ宛てて返書が発せられ、越府からの御飛脚が携えてきた先月28日付の書簡を今月11日に拝し、氏康父子に副状を届けて伝達したところ、このほど父子から返札が届いたので、(輝虎に)御披見してもらうため、直ちに越陣へ送り届けること、去る20日の倉内御着城を相府へ伝達したので、かならず(北条氏康父子が)使者をもって申し上げられること、委細は代官をもって申し上げるにより、この紙面は要略すること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』839号「山孫 御報」宛由良「信濃守成繁」書状写)。


輝虎の沼田着城の報に接した相州北条父子と取次の藤田新太郎氏邦から、晦日以降にまとめて返書が発せられる。

26日、相州北条氏康が書状を認め、去る20日に倉内まで御着城されたと、由良信濃守(成繁)と息子の新大郎(藤田氏邦)が知らせてきたこと、(寒天のなか)御難儀のほどは筆舌に尽くし難いこと、とりもなおさず使者をもって申し届けるように、氏政へ申し付けたこと、まずは問い合わせてのために客僧を立てること、委細は氏政が申し入れること、これらを恐れ謹んで伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』840号「山内殿」宛北条「氏康」書状写)。

28日、相州北条氏政が、由良信濃守成繁へ宛てて書状を発し、甲州武田信玄が駿州へ出張してきたのは確実であること、昨日までは、本陣を富士(駿河国富士郡)と号する地に敷いていたこと、(今後の武田軍は)おそらく駿・豆両国の村々を押さえて回るか、それでなければ、地利を築かれるつもりであろうこと、この折に輝虎がひたむきに御手立てを講じるのが肝心であろうこと、信州衆は出払っているとの報告が入ってきていること、なお、興国寺城(駿河国駿東郡)からの注進状を、其方(由良成繁)に回報すること、夜通しで倉内(沼田城)へ注進するべきこと、こちらからの飛脚が疲労困憊していたら、(由良が)続飛脚を(倉内へ)走らせるのが専一であること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』841号「由良信濃守殿」宛北条「氏政」書状)。

29日、相州北条氏政が書状を認め、誠に些少ながら、蜜柑一箱ならびに江川酒一苛を進上すること、御賞味を願うところであること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』842号「山内殿」宛北条「氏政」書状)。

同日、藤田新太郎氏邦が、山吉孫次郎豊守へ宛てた書状を認め、取り急ぎ申し上げること、(輝虎が)其地倉内へ御着城のうえは、早々にも参賀致すべき覚悟でいながらも、まずは代官を向かわせ、黒沢右馬助をもって申し上げること、よって、柳(酒)三荷と肴五種を進上する旨を、御取り次ぎに預かりたいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』843号「山吉孫次郎殿」宛「藤田新太郎氏邦」書状写)。

晦日、藤田新太郎氏邦が、山吉孫次郎豊守へ宛てた書状を認め、(両使の)進藤隼人佐方(家清。旗本衆)・須田弥兵衛尉方(旗本衆)方が昨29日に当地鉢形まで参着致されたこと、糊付の貴札(山吉豊守の大事の書状)で仰せの条々を、その意を承ったこと、愚拙(藤田氏邦)が奔走するのでは(輝虎に)大袈裟に捉えられかねず、それはどうかと思えたので、御両使を同道し、今晦日に相府へ向かったこと、この事情をよろしく御理解してもらうほかないこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』844号「山吉孫次郎殿 御宿所」宛「藤田新太郎氏邦」書状写)。

同日、遠山新四郎康英(遠山左衛門尉康光の世子)が、近藤左衛門尉へ宛てて注文書を発し、倉内へ贈る樽肴の注文、一、蜜柑 一合、一、干海鼠 一合、一、干物 一合、柳(酒)三荷、以上、これらを手配させている(『上越市史 上杉氏文書集一』845号「近藤左衛門尉殿 参」宛「遠山新四郎」康英進物注文)。



この間、敵対関係にある甲州武田信玄(法性院)は、9日、諏訪・飯綱両社に願文を納め、敬白起請文、同じくは金銭吉卦を企つ、右の意趣は、一、このたび駿州へ向かって出陣し、蒲原(庵原郡)を落城させ、興国寺も落城同前であり、駿州一円の静謐を遂げ、信玄が本意を達したあかつきには、来る庚午歳(来年)から天台宗の行を学ぶこと、この補足として、己巳十一月(今月)からは肉食を禁ずること、一、越後が戦乱にまみれて、(越後衆が)信・上両国に手出しができなくなり、その間に駿・豆両国を信玄が掌中に納めたあかつきには、諏訪一郡(信濃国)を私なく両社に寄附すること、一、来る庚午歳(来年)に至れば、神約の通り、甲州において飯綱社を勧請すること、この補足として、金銭文の通り、御社領も寄附すること、三ヶ条のことわりを違犯したならば、諸神の御罰を蒙るものであること、これらを誓っている(『戦国遺文 武田氏編三』1471号「法性院信玄」起請文)。

19日、三河国衆の作手奥平美作守定能(三河国設楽郡作手城の城主)へ宛てて返書を発し、相州において一戦を遂げ、勝利を得たことについて、わざわざ使者を寄越してくれて祝着であること、それ以後は三州に異変がないかどうか、承りたいこと、殊に近日は、(三州徳川)家康が一段と当家へ入魂を深めているので、大慶であること、委細は山県三郎兵衛尉(昌景。譜代家老衆)は(紙面にて)申し述べること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編三』1476号「奥平美作守殿」宛武田「信玄」書状写)。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 武田氏編 第二巻』(東京堂出版)

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越後国上杉輝虎(旱虎)の年代記 【永禄12年10月】

2013-09-10 12:18:29 | 上杉輝虎(謙信)の略譜

永禄12年(1569)10月 越後国(山内)上杉輝虎(旱虎。弾正少弼)【40歳】


この8月に、同盟関係にある相州北条家との盟約に従い、関東へ向けて出馬したところ、かつて味方中であった越中国松倉(金山)の椎名康胤が動き出したことから、越後国柏崎の地から反転して越中国へ向かうと、要所をいくつも攻め取り、魚津・新庄両城(新川郡)を拠点化するなか、味方中である越中国増山の神保惣右衛門尉長職の家中に造反者が出たことから、神通川を渡って越中国西部へ進陣した。


6日、拠点化した越中国魚津城(新川郡)の城代を任せたばかりである最側近の河田豊前守長親(神保氏との取次を務める)も伴い、神通川を渡って越中国西部に在陣するなか、河田長親の配下で、魚津城に残留させた長尾紀伊守(実名は景継か。古志長尾氏の系譜)・小越平左衛門尉(古志長尾氏の被官から長尾景虎の旗本となり、さらに河田に附属された)へ宛てて書状を発し、取り急ぎ申し遣わすこと、事情により、一両日の逗留をもって、神通川を取り越したこと、その地(魚津城)へ松倉(椎名康胤)が間違いなく手出ししてくること、よくあるように外張へ出て、一人でも手落ち(敵の反撃を受けて魚津城を危機にさらす)があれば、残りの者共にかならず成敗を加えること、わけても椎名(右衛門大夫康胤)の者共とはじめて刀鑓を交える接戦になるので、豊前守(河田長親)が帰城してから、時機を見計らい、一気に攻め崩し、一度でも勝利するにおいては、(その後は勢いに乗り)どれだけ交戦しようとも、豊前守は勝ちを得ること、また、逆に一度でも手落ち(河田不在の間に外張へ打って出て敵の反撃を受ける)があれば、それからは松倉の者共が有利となり、嵩に懸かって攻め立ててくること、かならずかならずその地(魚津城)に籠り続け、たとえ一・二ヶ村に放火されようとも、迂闊に打って出てはならないこと、何はさておき、両人(長尾紀伊守・小越平左衛門尉)に(留守を)任せたので、豊前守ばかりを侮る気持ちでもあり、凶事(城を失うような事態)を招きでもしたならば、両人の将来は断たれること、あまりにもその地の事情を知るには遠く隔たってしまい、案じられてならないので、あえて申し越したこと、これらを謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』814号「長尾紀伊守殿・小越平左衛門尉とのへ」宛上杉「旱虎」書状写)。


20日、最側近の山吉孫次郎豊守が、常陸国太田の佐竹氏の客将である梶原源太政景へ宛てた返事となる条書を使者に託し、覚、一、(輝虎が)御越山を御支度していたところ(関東へ向かった)、横合いから手出しされたについて、(転じて北陸へ)御馬を出されたこと、かならずや落着させるであろうこと、そのあかつきには、その口(東方)への御出馬を早々に催されるであろうこと、一、その口での御父子(太田道誉・梶原政景)の御精励ゆえ、各々方を取りまとめられたのは、今にはじまった器量ではないとはいえ、並ぶものがないほどに奇特であること、一、(太田・梶原父子の)御進退の件については、条々を承ったこと、一方では、仰せの通り仕方がないと思われ、一方では、筋目を通されて御力強いと思われること、この趣を(輝虎へ)念入りに披露を遂げたところ、いかにも御承知されたこと、御安心してほしいこと、(輝虎が)何としても御越山されて関東の形勢を御一変させられるにおいては、河豊(河田豊前守長親。山吉と共に太田父子の取次を任されている)と相談し合い、(取次を)力の及ぶ限り奔走するつもりであること、この補足として、誓約の旨は当然であること、以上、これらの条々を申し伝えている(「岩付太田氏関係文書」6号)「梶原殿 参」宛「山孫 豊守」書状)。


当文書は、新井浩文氏の論集である『関東の戦国期領主と流通 ー 岩付・幸手・関宿 ー 戦国史研究叢書8』(岩田書院)の「第一部 岩付太田氏 第五章 岩付太田氏関係文書とその伝来過程」に載録されている。

27日、深夜に越府春日山に帰城した。


28日、梶原源太政景へ宛てて書状を発し、(梶原政景から)両度寄越された脚力をすぐにも戻すべきところ、帰陣を見届けさせるために引き伸ばしており、(梶原は)きっと不満を抱えられているであろうこと、昨日の極晩、当地春日山に帰城し、休息は取らないため、明後日に爰元を打ち立つつもりであること、越中口によんどころない事情があり、彼の口へ出馬したとはいえ、信玄に機先を制されたのは、油断のように関東中で取り沙汰されて、面目を失したこと、なんとしても、来月十日のうちに、倉内(沼田)へ打ち着くつもりであること、其方父子も倉内へ越され、片野へ帰る用意は必要ないこと、一度に人数を召し連れ、沖中(関東中央部)への供ならびに岩付・松山の差配をも申し付けるのが最適であること、八十日の当国の諸軍は労兵ではあるが、一日も半途に逗留はしないこと、つまりは(佐竹)義重・宇都宮(広綱)・多賀谷(祥聯)は、その近辺に布陣させたいので、早々に打ち着くように精励するべきこと、新田まで松本石見守(景繁)あるいは開発(中務丞)を差し向けて、味方中を呼び集めるように申し付けるつもりであること、なお、面上の時分に申し述べること、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』822号「梶原源太殿」宛上杉「輝虎」書状写)。


輝虎が、佐竹氏をはじめとする東方の味方中の参集を呼び掛けるために、松本景繁か開発某を上野国新田へ派遣しようとしたのは、松本は、数年にわたって上野国沼田城の城将を務めていたことから、味方中と関わりがあり、開発は、輝虎が下野国佐野陣に東方の味方中を招き寄せる際、先導するために佐竹陣に遣わされたことから、佐竹氏とは顔見知りであり、こうした経験を買われたものであろう。
松本は、11月には何らかの理由より、公の場から姿を消しているので、新田へ派遣されたのであれば、この役目中に何か起こったのかもしれないし、派遣されていないのであれば、この役目の是非を巡って何かが起こったのかもしれない。


同日、同盟関係にある相州相州北条家へ宛てて書状を発し(宛先は遠山康光か)、当月4日の返札を、一昨26日に披読したところでは、(甲州武田)信玄が不時に其元(相府小田原)へ攻め懸けてきたらしいが、所々の城へ人数を割いて籠めていたにより、勝負の決着をつけられなかったそうで、仕方がないこと、これについて、越中へどうしてもそうするしかない事情があって出馬したとはいえ、(北条父子と)数通の誓詞を取り交わして申し合わせた首尾を裏切ったようであり、信玄に先手を打たれた格好であるのは、先書で申し上げた通り、都鄙の評判を裏切り、名字中の恥辱は、どれだけ言い表してもしきれないこと、このうえは休息を取らず、明後日に爰元(越府春日山)を打ち立つつもりであること、昨日極晩に、当地春日山へ帰城し、八十日の張陣により、諸軍は労兵で見苦しい様相を呈していて痛ましいこと、この事実を(相州北条)父子へ適切に取り成すのが専一であること、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』823号 上杉「輝虎」書状写)。


当文書の宛所は、『謙信公御書集』では「由良信濃守殿・同新六郎殿」となっていることから、諸史料集では上野国衆の由良成繁・国繁父子へ宛てられた輝虎書状とされているが、文面からすると、北条家側の取次へ宛てられたものであろう。



この間、同盟関係にある相州北条家は、甲州武田軍に相府小田原まで攻め込まれており、10月4日、相州北条氏政(左京大夫)から書状が発せられ、二度も御状を給わったこと、一度目は御返報に及んだこと、二度目については、敵(甲州武田軍)が手前に攻め懸けてきたので、対応に追われて余裕がなかったゆえ、御知らせが遅延してしまったのであり、御使いを無沙汰したわけではないこと、このたび相府小田原まで敵に放火されてしまったのは、人数を諸城に籠め置いていたゆえ、(各地から軍勢を集めるのに時間を要し)早々には一戦に及ぶことができなかったからで、無念極まりないこと、今日には敵は退散するはずなので、明日は出馬し、武・相の間において、またとない一戦を遂げるつもりであること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』813号「山内殿」宛北条「氏政」書状)。


当文書は、前掲の輝虎書状写(『上越市史 上杉氏文書集一』823号)により、輝虎が北陸遠征を終えて、間もなく越府春日山へ帰城する10月26日に、輝虎の手に渡ったことが分かる。


8日、相州北条氏康(相模守)から書状が発せられ、先使の荻野に委細を申し含めて御知らせに及んだこと、しかしながら、彼の(氏康が輝虎へ宛てた荻野が受け取るはずの)御返札は新田(上野国金山城)へ届けられてしまい、荻野の手に渡らなかったそうであり、今8日に半途から(荻野が)申し届けてきたので、またもや愚札を呈すること、繰り返し申し入れている通り、このたび(甲州武田)信玄が上州から回り込み、当口(相府小田原)まで出張してきたこと、その去り際を急追して、武・相国境の三増峠(相模国中郡)まで進陣したこと、敵(甲州武田軍)は迅速に峠を越え行ったので、当旗本は一日出遅れたゆえ、取り逃してしまったこと、まさに無念極まりないこと、しかしながら、二つとない入魂を仰せ合わされたにもかかわらず、御加勢を一向に得られなかったゆえ、このような事態に至り、はなはだ遺憾であること、委細は氏政が申し入れるので、この紙面は省略したこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』815号「山内殿」宛北条「氏康」書状)。


9日、古河公方足利義氏が、相模国三増峠の戦いで討ち死にした奉公衆の豊前山城守(医術に通じていた)の後家へ宛てて書状を発し、(豊前)山城守が討死し、誠にもって(山城守後家が)御力を落とされ、(義氏は)不憫に思われていること、長年にわたる忠信といい、とにかく残念な事実であり、心中が察せられること、このうえは(豊前氏の)名代をも定められ、格別な御懇慮を加えられるであろうこと、よって、御迎いに努められること(豊前孫四郎に安西隼人佑の女子を迎えるようにということか)、これらを畏んで申し伝えている(『戦国遺文 古河公方編』927号 足利義氏書状写 「山しろのかミ後家 よし氏」)。

また、別紙において、山城守の名代一跡の件について申し上げること、(豊前山城守の)長年にわたる忠信といい、ともかく相続を認めること、殊に孫四郎(山城守の嫡男)に安西隼人佑のむすめを申し合わせるべきであり、両家の親しい付き合いからして、あれこれ最適であること、山城守が励んだ忠信と変わらず奮励するように、(孫四郎へ)意見するのが肝心と思われること、これらを畏んで申し伝えている(『戦国遺文 古河公方編』928号「豊せん山城後家」宛足利「義氏」書状写)。


16日、相州北条氏康から、自筆の書状が発せられ、氏政が申し届けるそうなので、(氏康も)一筆を執って申し上げること、去る4日に甲衆(甲州武田軍)は退散したこと、このたび相州まで攻め入ってきたので、必ず討ち滅ぼすつもりでいたところ、わずかな手違いにより、取り逃してしまったこと、誠に無念千万の思いであること、さて、半途まで御出馬されたそうであり、先だって二度にわたって御報告が寄せられたこと、このうえの御戦陣は、どうか寒天であったとしても、信州へ御出馬してもらえれば、当口からも同前に甲州へ攻め入るので、(速やかな信州出馬を)念願するばかりであること、委細は氏政が申し入れるので、この紙面は省略したこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』816号「山内殿」宛北条「氏康」書状)。

同日、相州北条氏政が、由良信濃守成繁(上野国衆。上野国新田郡金山城の城主)・北条長門守親富(越後国上杉家の譜代衆・北条丹後守高広の一族。金山城に滞在している)へ宛てて条書を発し、一、(相・越)同陣の件について、何度も申し入れている通り、不都合はないこと、駿・豆両国の諸城に同名・家老の者共以下、数千人を立て籠もらせていること、豆・相・甲の国境は山一帯であること、長駆して武州へ長駆して出張するのは、いっそう困難であるところ、輝虎はどのように御分別されているのか、もしかして(北条氏政が)虚偽を伝えたり、はぐらかしたりしているように御認識されているのならば、虚言ではないところを、彼の(輝虎)御望みの通りに血判誓詞を呈すること、そのうえで、信頼する御配下を一騎なりとも寄越され、駿・豆両国の諸城の様子を御見聞させて、真偽のほどを見極めてほしいこと、一、御養子の件について、ただ今の時点で引き渡すことは、最前から懇願している通り、五・六歳の幼い我が子(国増丸)を手元から引き離すというのは、親子の憐憫から猶予を願い出ているだけであり、他意はないこと、このたび越(輝虎)から書き示された御大意は、(国増丸に)場数を多く踏ませて甲冑の上に汗を流させ、大功を立てられたあかつきに、御当家(山内上杉家)に連れ添われ、引き渡してほしいそうであること、爰元(氏政)は深く理解したこと、この一ヶ条をもって老父(氏康)に嘆願する所存であること、其方(由良成繁・北条親富)からも助言してもらいたいこと、一、(相州北条)父子が誓詞を(輝虎へ)呈し、すでに身血を染めたからには、どうして表裏を致すであろうか、ただの一点たりとも、後日に(盟約の旨を)禍根を残さないため、御両使(広泰寺昌派・進藤家清)へ盟約の全項目において相談を重ね、双方が納得ずくで誓言を書き立てたこと、なお、このうえ(修正を求められるのであれば)何分にも貴意に任せるつもりであること、また、寄越して下された御誓詞の趣旨において、胸中に思うところがあるのであれば、望みを申さずして叶わないこと、爰元の過失として責め立てないでほしいこと、以上、右の条々は、なお、遠山左衛門尉(康光。氏康の側近。小田原衆)に口上させること、つまりは、よく考え合わせられて、越国へ申し届けられてほしいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』817号「由良信濃守殿・北条長門守殿」宛北条「氏政」書状)。


24日、相州北条方の取次である北条源三氏照から、取次の山吉孫次郎豊守へ宛てて書状が発せられ、しばらく申し交わしていなかったので、差し迫った事情はないとはいえ、脚力をもって申し上げること、先頃に沈流斎(行韵)をもって申し達したところ、よしなに御取り成ししてもらったのは、何から何まで祝着の思いであること、ついては、条目をもって仰せ下されたこと、とりもなおさず沈流斎を折り返して御返答するつもりであったところ、(武田)信玄が図らずも武・相州に向かって出張してきたこと、(信玄は)碓氷峠(上・信国境の上野国碓氷郡)を越え、すぐさま当城(武蔵国多西郡滝山城)へ攻め寄せてきたこと、信・甲の者共(甲州武田軍)は年来の付き合いから、覚悟のほどを知っている弱敵なので、宿三口へ人衆を差し向け、二日にわたって朝から晩まで戦い続けて勝利を重ね、敵を際限なく討ち取り、負傷者については数え切れないほどであること、(甲州武田軍は)二日間の在陣を経て、三日目の晩には当地(滝山城)から立ち去り、武・相の国境の杉山峠(相模国中郡)と号する山を越えたこと、そのうえ首尾の一理をもって、相州に向かってひと働きしたのち、去る5日に津久井筋(同津久井郡)へ退散したこと、もとより難所を通り抜けるほかなかったので、小荷駄以下を残らず切り落とし、人数ばかりが夜逃げしたこと、6日の早朝、氏政が未だに駆け付けられなかったので、(氏照ら)先衆の四・五手は難所(相模国三増峠)へ攻め懸かり、足軽が敵を突き崩し、宗の者(旗頭)を数多討ち取ったこと、敵の敗走について、備えを乱し、めった
やたらに山の険阻な方へ取り付いた人数は、此方にも押し撫でられたこと、しかしながら、犠牲者は出ていないこと、山家の人数を遣わすも、(山岳戦で)思い通りに動かせなかったにより、(武田)信玄を討ち取れなかったのは、無念千万の思いであること、まずは申し届けたこと、沈流斎をもって、仰せ下された条々を、いずれもその旨を承知したこと、落着したところを御返答に及ぶつもりであること、この御知らせが寄せられ次第、早々に送り届けること、聞くところによれば、越中口の御静謐を取り戻すため、御馬を立てられているそうなので、まずは貴辺(山吉豊守)まで御内儀を申し届けたこと、適切な御取り成しを任せ入るほかないこと、委細な御知らせを待ち入ること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』821号「山吉孫次郎殿 参」宛北条「源三氏照」書状)。

同日、北条源三氏照から、上野国沼田城(利根郡沼田荘)の城将である河田伯耆守重親(大身の旗本衆。これより前に松本石見守景繁の後任に就いた)へ宛てて書状が発せられ、しばらく申し交わしていなかったので、一翰を馳せること、先日に沈流斎が帰路した後、早々に御返答に及ぶべきところ、敵(甲州武田軍)が出張してきたゆえに延引せざるを得ず、ふたたび沈流斎をもって申し入れること、そのつもりでいながらも、聞いたところによれば、越中口の御静謐を取り戻されるため、今なお彼の国に御馬を立てられているそうなので、まずは山吉方まで内儀を申し届けること、この飛脚に案内者を差し添えられ、(越陣まで)滞りなく通してもらいたいこと、万が一、飛脚以下の越山を留められるのであれば、その地(沼田城)から山吉方への一札を届けられ、彼の回報(返事)を早々に給わりたいこと、頼み入ること、もとより、このたび信玄が図らずも武・相に向かって出張してきたこと、碓氷峠を越えると、すぐさま当城(滝山城)へ攻め寄せてきたこと、信・甲の者(甲州武田軍)は、年来の付き合いから、覚悟のほどを知っている弱敵なので、宿三口へ人数を差し向け、二日にわたって朝から晩まで戦い続けて勝利を重ね、敵を際限なく討ち取り、手負いの者は数え切れないほどであること、(甲州武田軍は)二日間の在陣を経て、三日の晩には当地(滝山城)から立ち去り、武・相国境の杉山峠と号する山を越えたこと、そのうえ首尾の一理をもって、相州に向かってひと働きしたのち、去る5日に津久井筋へ退散したこと、もとより難所を通り抜けるほかなかったので、小荷駄以下を切り落とし、人数ばかりが夜逃げしたこと、6日の早朝、氏政は未だに駆け付けられなかったので、(氏照ら)先衆の四・五手のうちで難所(三増峠)へ攻め懸かり、足軽が敵を突き崩し、宗の者の数多を討ち取ったこと、敵が敗走したについて、備えを乱し、めったやたらに山の険阻な方へ取り付いた人数は、此方まで押し撫でられたこと、しかしながら、犠牲者は出ていないこと、山家の人衆を遣わすも、(山岳戦で)思い通りに動かせなかったにより、信玄を討ち取れなかったのは、無念千万であること、なおもって、(氏照からの)彼の飛脚に(河田重親が)案内者を差し添えられてほしいこと、それでなければ、山吉方への一札を速やかに届けられてほしく、(山吉からの)返札を待ち入ること、その地(沼田)で遅滞するといった過ちはあってはならないこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』820号「河田伯耆守殿 参」宛北条「氏照」書状)。


この頃、相州北条父子の指示によって、由良信濃守成繁の居城である上野国金山城へ派遣された遠山左衛門尉康光から、取次の山吉孫次郎豊守へ宛てて返書が発せられ、先日は御懇札を給わり、恐れ入る思いであること、とりもなおさず御知らせするべきところに、(武田)信玄が出張してきたについて、鉢形(武蔵国男衾郡)の近所まで加勢として差し向けられると、そのまま(任務が)続いて手隙なきゆえ、気に留めながらも時が過ぎてしまったこと、よって、越中へ御進発し、彼の国を思い通りに御静謐を遂げたのは、御肝心であると思われること、そのうえで当国(上野国)に向かって御越山するとの(輝虎の)仰せであること、その後の御様子を承りたいとして、図らずも当地新田(金山城)まで拙者(遠山)を差し遣わされたこと、そのため貴国(越後国上杉家)へ使者をもって申し達せられること、其許(山吉豊守)の御指南をもって、(輝虎の)御膝下へ参着できるように頼み入ること、子細を由信(由良成繁)が申し入れられるので、この紙面は省略すること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』824号「山孫(脇付けを欠く)」宛「遠左 康光」書状写 ●『謙信公御書集 巻九』)。



この間、甲州武田信玄(徳栄軒)は、朔日、本陣を敷いた相模国酒匂(西郡)の地から相府小田原城に攻め寄せると、城下を残らず焼き払い、甲斐国衆の加藤丹後守景忠(甲斐国上野原城の城主)らを先陣とする先手衆を小田原城の副郭外周の蓮池区域まで押し入らせたが、その日のうちに酒匂陣に戻っている。

翌日も蓮池の地から攻撃を加えたが、やはりその日のうちに本陣へ戻ると、そのまま二日間、酒匂の地に居座っている。

5日、相模国大神(中郡)に後退する。

6日、武・相国境の相模国三増峠(中郡)で、相州北条方の北条源三氏照・藤田新太郎氏邦(武蔵国鉢形城の城主)兄弟・遠山(同江戸城の城将の遠山右衛門大夫政景か)・大道寺(駿河守資親。同河越城代)らの追撃を退けるも(『戦国遺文 武田氏編四』2898号)、部将の浅利右馬助信種(譜代家老衆。上野国箕輪城の城代)や西上野先方衆の浦野民部左衛門尉(上野国大戸城の城主・浦野宮内左衛門尉の弟)らが戦死する(『戦国遺文 武田氏編三』1519号)。その夜には甲・相国境の相模国津久井(津久井郡)の道志川端で野営している。

7日、甲斐国諏訪(都留郡)の地まで帰着している(以上は、『戦国遺文 武田氏編三』1519号、『戦国遺文 武田氏編四』2898号による)。


15日、美濃国衆の遠山駿河守へ宛てて書状を発し、取り急ぎ飛脚をもって申し届けること、このたび関東へ出張し、数ヶ所の敵城を経て、相府小田原城に攻め懸かり、(北条)氏政の居館をはじめとして、ことごとく放火し、そのほか彼の一類の城郭を残らず打ち壊したこと、そればかりか帰国の折に、氏政舎弟の北条源三(氏照)・同新太郎(氏邦)・助五郎(氏規)が率いる六・七千ほどの人衆が追撃してきたので、一戦を遂げ、新太郎・助五郎以下二千余人を討ち取り、信玄は存分の如く勝利を得たので、御安心してほしいこと、委細は山県三郎兵衛尉(昌景。譜代家老衆)が万端を申されること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編三』1464号「遠山駿河守殿」宛武田「信玄」書状写)。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『戦国遺文 古河公方編』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 武田氏編 第二巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 武田氏編 第三巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 武田氏編 第四巻』(東京堂出版)

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