越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

『上越市史 上杉氏文書集』に未収録の謙信関連文書【17】

2023-06-12 23:41:13 | 雑考


【史料1】年次未詳7月25日付太田新六郎宛上杉謙信書状写(神保誠家文書)
凌遠境入心細々飛脚到来、祝着候、仍義弘正木間之儀、使僧遣候、其表可為不知案内之条、可然様指南任入候、猶委細彼使僧可有口上候、恐々謹言、
   七月廿五日       謙信(花押)
          太田新六郎殿


【史料2】年次未詳7月25日付太田美濃守宛上杉謙信書状写(太田文書 ◆『上越市 史別編Ⅰ 上杉氏文書集一』1443号  以下は『上越』と略す)
以別紙申候、任意見、義弘・大かた及使僧候、其元ニ而、能々被申含、被差越頼入候、路次中之義、被添詞任入候、恐々謹言、
   七月廿五日      謙信御同判
     太田美濃守殿


 【史料1】は、在府中の謙信が、房州里見家の客将である太田新六郎康資から、当主の里見義弘(上総国佐貫城に拠る)とその家宰である小田喜正木大膳亮憲時(同国小田喜城主)の仲が悪いとの知らせを受け、両者の間を取り持つために使僧を遣わしたもので、
『上越市史 上杉氏文書集』に未収録の謙信関連文書【16】 - 越後長尾・上杉氏雑考でも触れたように、太田康資は小田喜城の正木憲時の許で里見家の外交に携わっているわけであるから、正木側が主君との関係改善に動き、謙信へ事情を伝えて仲裁を頼んだことになろう。
 【史料2】は、謙信が、常州太田の佐竹氏の客将である太田三楽斎道誉から寄せられた意見に従い、義弘とその妻女の許へ使僧を遣わしたもので、【史料1】と同日付であるから、両書は同時期に発せられたものとなり、里見主従間の不和の仲裁を請け負った謙信が道誉の意見に従い、使僧を里見夫妻の許へ向かわせたことになる。
 謙信が道誉の意見を踏まえたうえで使僧を上総国佐貫城へ向かわせたということは、まず康資が道誉に相談してから、両人でもって謙信に仲裁を頼んだのか、まず康資が謙信に仲裁を頼んだところ、謙信が道誉に相談を持ち掛けたのか、どちらかになるのだろう。
 『勝浦市史 資料編 中世』は【史料1】の発給年次を、越後国上杉家と房州里見家の通交が復活したのちの天正3~5年としている。
 そうなると、越・房の通交が再開したのは、天正3年8月から同年9月にかけての頃であるから、発給年次は同4・5年のどちらかになるのであろうし、謙信が里見主従の間を取り持つために、太田道誉と意見交換をして、義弘夫妻の許へ使僧を派遣するところとなり、道誉に対して使僧が滞りなく上総国佐貫城へ向かえるように配慮を頼むことが可能であった時期となろうから、両年の里見家と太田美濃入道道誉・梶原源太政景父子の状況を追ってみる。
 里見家は、天正4年9月から北条軍の攻勢が強まって、そこからは通路の断絶により、上杉家と連絡を取るのに苦労するなかで、天正5年正月末には、正木憲時が上杉家の関東代官である北条安芸守高広・同丹後守景広父子に対し、当春の謙信御越山が難儀な状況であるとしても、父子とは年来の格別な間柄であり、何とか謙信御越山の実現に尽力してもらいたく、もしどうにもならない場合は、当春夏の間に必ず謙信の出馬があるかのように、その方面で振舞ってもらえれば、風聞に接した北条氏政は当表への戦陣を見合わせるであろうことや、2月末には里見義弘が上杉家年寄衆を通じて謙信に対し、加賀・越中・能登まで本意を遂げられたと伝わってきており、旧冬に氏政が上総国東西を攻め回った挙句、有木の地利を取り立て、土気・東金の両酒井も北条方に転じてしまったので、当春に謙信が御越山して氏政を引き付けてもらえれば、有木と両酒井を押し詰め、本意を遂げたいことなどを、どうにか伝えようとしていた(『上越』1322・1323号)。
 北陸遠征中の謙信が春夏に越山してくることはなく、北陸経略が大詰めを迎えていて、いったん夏に帰府しても(この時に体調を崩してはいた)、秋には越山してくるどころか、また北陸へ向かったので、北条軍の上総国での攻勢は止まらず、9月末に房州海賊衆が敗れて佐貫浜に上陸を許し(『戦国遺文 後北条氏編』4025号)、ついに里見義弘は天正5年冬(11
月15日以前)に抵抗を諦めて北条氏政と講和を結んでしまった(『戦国遺文 後北条氏編』4476号、『戦国遺文 房総編』1626・1627号)。
 太田道誉・梶原政景父子は、天正3年12月に下野国小山の小山弾正大弼秀綱(号孝山)が相州北条軍に敗れて没落したのち、翌4年に入って佐竹軍が小山領内の榎本城を奪取すると、佐竹氏から城主を任された。そこは小山氏の本拠であった祇園城を奪還するための拠点とはいえ、周囲は敵だらけであり、幾度となく北条陣営が攻め寄せてきたであろうが、当時の文書からはあまり情報は得られない。
 確かなのは常州
下妻の多賀谷氏の攻撃を受けており、これには多賀谷氏にとっては格上の同盟者である総州結城の結城氏も主力として榎本城攻めに参加したと思われる(『小山市史 史料編 中世』833号)。時期としては、結城氏は天正5年5月から6月にかけての頃に北条陣営から上杉陣営に転じているので、それ以前であろう。
 同年5・6月には謙信の関東出馬があり、由良氏の上野国新田・桐生・赤石領と足利長尾氏の上野国館林・下野国足利領を荒らし回って損害を与えたこともあり(『上越』1290号)、北条方の榎本城攻略はなかなか達せず、翌5年2月に北条氏政は、兄弟衆の北条陸奥守氏照に小山城の強化に当たらせるとともに、由良父子による赤石領の伊勢前城の強化を支援したので、一気に窮迫した太田・梶原父子は越府へ脚力や使者・使僧を派遣して、繰り返し謙信へ越山を求めたが(『上越』1331号)、通路の断絶により、なかなか連絡がつかなかったうえに、北陸経略が大詰めを迎えていた謙信は、この年の関東出馬を断念していたようで、いったん北陸から帰府しても越山はしなかった(自身の体調不良が原因であったのかもしれない)。
 そうしたなかでの6月に、常州太田の佐竹常陸介義重と和睦した総州結城の結城左衛門督晴朝(小山秀綱の実弟)が相州北条陣営を離れて越後国上杉陣営に加わると、北条軍の北関東への攻勢が一段と強まり、閏7月上旬に北条軍が野州宇都宮表や総州結城城に攻め寄せたので、佐竹義重は加勢として宇都宮に在陣し、結城晴朝と連携して防戦を尽くした(『戦国遺文 下野編』1151号、『戦国遺文 後北条氏編』1926号)。この時、宇都宮広綱(弥三郎。官途名か受領名を称していたであろうが、当時の文書では確認できない)は北条氏政と講和を結び
、結城衆は三百余人が討ち取られたと、北条陣営に属する常州木田余の小田太郎氏治は奥州三春の田村大膳大夫清顕に伝えている(『戦国遺文 下野編』1152号)。ただし、宇都宮の「南方一味」は北条軍の鋭鋒を避けるための一時的なものであったらしく、冬には反北条陣営に復帰して、広綱・国綱父子は結城晴朝と新たな同盟を結ぶことになるし(『戦国遺文 下野編』1171号 この頃の広綱は30代前半であるが、長患いの身で花押も据えられないことが多く、幼少の国綱(伊勢寿丸。弥三郎)の名で発給されている)、結城衆が三百余人の犠牲者を出したというのも、敵方の情報であることからして、実態はよく分からない。
 どうもこの間に太田父子は榎本城を失ったようで、9月下旬には佐竹・江戸・下妻多賀谷氏ら「東方之衆」が反撃に転じ、小山城と榎本城(北条氏照の重臣が城主となっている)を攻撃している(『戦国遺文 後北条氏編』1157・1161~1164・1942号)。ちなみに、太田父子は遅くとも同年11月には、佐竹氏の属城である常陸国小田城の城主に復帰している(『戦国遺文 下野編』1172号)。
 こうした状況からすると、謙信が太田父子と連絡を取り合って里見夫妻の許へ使僧を遣わすことができたのは、北条軍が両総・野・総州で攻勢を強める以前、太田父子が榎本城を保持していた天正4年7月と考えるのが妥当ではないか。

 あのようにして房州里見家は、天正5年12月に相州北条軍の攻勢に屈し、北条氏政と講和を結んだとはいえ、この直後に太田道誉が、江(尾)州織田信長の客分として織田家の外交に携わっている小笠原貞慶(かつての信濃国守護小笠原長時の世子)へ宛てた書状(『戦国遺文 房総編』1635号)によれば、里見家が北条家と同盟を結んだとはいっても、里見家の北条家に対する遺恨は根深く、情勢の変化で一転すると考えており、それを裏付けるように、
『上越市史 上杉氏文書集』に未収録の謙信関連文書【14】 - 越後長尾・上杉氏雑考でも取り上げた天正6年2月16日付越後国上杉家宛梶原政景書状(『上越市史 上杉氏文書集』1320号)において、謙信が従えたばかりの北陸衆も動員して天正6年春に挙行する予定の関東大遠征を今か今かと心待ちにしている梶原政景は「義弘拙者へ之書中」と記しており、里見義弘と太田・梶原父子は内々に連絡を取り合っていたことが分かる。
 なお、この書状を『大日本史料』や『越佐史料』などは、天正5年の発給文書としているが、佐竹氏と結城氏が同盟を結んだのは天正5年5月中であるから(『戦国遺文 下野編』1144号、『上越』1339・1340号)、それ以前の2月に佐竹・宇都宮・結城の三者が共同で謙信の許へ使者を派遣することはできないため、『戦国遺文 下野編』などの通り、天正6年の発給文書となる。

【史料3】天正5年3月28日付河田豊前守・柿崎和泉守・長尾遠江守・竹俣三河守・桐沢但馬守・神余隼人佑・吉江喜四郎・水原弥四郎・安田治部少輔宛梶原源太政景書状写(歴代古案巻二所収)
其以往不申承候、去時分以脚力申入候、参着如何末罷帰候、抑新田手詰付、伊勢崎之地従南方近日普請被申付候、兵粮以下差越由候、北源小山物主落着、去月以来在城、是普請専候、我等父子劬労可為御察候、御越山可為何比候哉、当春夏之間御調儀至于御遅延、伊勢崎之儀従南方入念候条、近年之御功作不可有其曲候、何篇新田・桐生手詰不及是非由候、千言万句当春夏之間御越山相極候、  御屋形雖可申達候、片便之間、無其儀候、仍此客僧愛宕有立願、毎年相立候、路次無相違様被加御詞任入候、諸余期来音候、恐々謹言、
            梶原源太
    三月廿八日      政景

     河田豊前守殿
     柿崎和泉守殿
     長尾遠江守殿
     竹俣三河守殿
     桐沢但馬守殿
     神余隼人殿
     吉江喜四郎殿
     水原弥四郎殿
     安田治部少殿


【史料4】天正5年5月14日付梶原源太宛上杉謙信書状(個人蔵文書)
其以来其元之様子無其聞得候、無心元候、仍秀綱祇園出城、古内へ被相移候処、義重色々懇意之由、秀綱被露紙面候、於愚老大慶候、彼本意之内、弥義重入魂候様取成任入候、細々可及使者処、旧冬已来北路静謐、万端取籠故、無沙汰意外候、然処、賀州・能州・越前如存分属手、上口心安候間、一者秀綱口之首尾、一者義重連々申合意趣ニ候間、麦秋之為調儀令越山候、明々之内新田・足利表へ可揚放火候、此節ニ候条、壬生・皆川筋へ義重取合、火先候様可被相心得事専一候、扨亦、上口隙明候儀、定不可有其隠候歟、此上関左之弓箭外聞可入精候条、可心安候、如何様近日以荻(萩)原主膳亮可申届候間、其節可申越候、恐々謹言、
    五月十四日    謙信(花押)
     梶原源太殿


 【史料3・4】の年次比定は、史料集によって異なっており、主に天正4年か翌5年に置かれている。
 【史料3】は、当時、下野国榎本城に拠っていた梶原政景が越後国上杉家の諸将を通じ、それ以来は申し承っていないこと、去る時分に脚力をもって申し入れたこと、脚力は越府に参着したのかどうか、未だに帰着していないこと、新田(由良氏の新田領)をきつく攻め立てて追い詰められたので、相州北条方が近日中に伊勢前の地(由良氏の赤石領における城地で、上杉陣営に属する那波氏の領域との境目に位置し、由良氏の重臣が守っている)の普請を申し付けるという情報を得たこと、さらには兵粮以下も搬入するとのこと、北条氏照が下野国小山城の物主に決まり、先月から在城していること、これも普請に精を出していること、我等父子(太田道誉・梶原政景)の苦労をお察ししてもらいたいこと、御越山はいつ頃になるのかを知りたく、当春夏の間の御戦陣を遅延されるようであれば、北条方が伊勢前城の防備を入念に整えてしまい、近年に挙げられた御成果も無駄となってしまわれること、何としても新田・桐生を追い詰めるしかないこと、言葉を費やして申し上げるもので、当春夏の間の御越山に極まっていること、御屋形(謙信)へ申し達したにもかかわらず、脚力が戻ってこないので、御返事を得られていないこと、使節のひとりである客僧には愛宕総本社での例年の代願を頼んでおり、通行に差し障りがないように各所へ口添えしてもらいたいこと、そのほかの事柄についても来信を待ち望んでいること、これらを謙信へ懇ろに伝えたものである。
 謙信が里見軍の後詰めと称して越山し、新田領を攻めて回った天正3年晩秋から初冬にかけては、敵方によって下野国の通路が遮断されていたことから、10月に佐竹義重が越陣へ向かわせた使者の中田駿河守は途中での滞留を余儀なくされる(『上越』1230・1231号)という状況であったが(謙信が遣わした使僧は義重の許に到着したので連絡はついた)、翌4年春には、義重が越府へ向かわせた使者は無事に通行できて、謙信とは連絡がついており(『戦国遺文 下野編』1107号)、その一方、天正5年春には上総国の里見義弘ではあるが、越府と連絡がつかない状況に困っていること、天正3年秋冬と翌4年夏の謙信の越山で新田・赤石(伊勢前)・桐生領などが打撃を受けていたこと、北条氏照の小山在城の痕跡は4年よりも5年に見られること(『戦国遺文 下野編』1139・1140・1143号)、こうした状況からすると、『上越市史 上杉氏文書集』の通り、発給年次は天正5年となろう。
 ところで【史料3】の宛所には9人もの越後衆が名を連ねているが、これには強い疑問を感じる。
 柿崎和泉守景家、長尾遠江守藤景、神余隼人佑、安田治部少輔のそれぞれは、当時すでに柿崎左衛門大夫、長尾一右衛門尉、神余小次郎親綱、安田新太郎堅親に代替わりしていることと、桐沢但馬守且繁(左馬允)といえば、謙信養子の上杉景勝の同名・同心・被官集団である上田衆の一員だが、こうした場合に上田衆を代表するのは栗林次郎左衛門尉房頼であることによる(桐沢且繁が但馬守を称するのは景勝期であるため、誤写の可能性が考えられる)。
 そもそも越後国上杉家側で謙信と太田父子の間の取次といえば、山吉孫次郎豊守(輝虎期には河田長親と二人体制であったが、河田の越中国代官就任以降は単独となった)であるから、本来であれば、「山吉孫次郎殿」・「山孫」・「越府人々御中」・「越府貴報人々」というようなものになるはずで、山吉豊守は天正4年2月以降は活動が見られなくなるため、「越府云々」の宛所であったと思われるが、何らかの理由により、書写された段階で別の書状の宛所が用いられたのではないだろうか。
 【史料4】の謙信が梶原政景へ宛てた書状には、天正3年12月に相州北条軍の攻勢に屈して没落した野州小山の小山秀綱(号孝山)が謙信に対して、本拠の祇園城から落ち延び、常州太田の佐竹義重を頼ったところ、古内に居住地を与えられるなど、義重から色々と懇意にしてもらっているといった境遇を伝える書状を受け取ったことが記されているので、この点が決め手となって天正4年に比定されたのであろうし、その一方で、謙信は現況を詳しく伝えるための使者を義重の許へ遣わすべきところ、「旧冬已来北路静謐」のために万事が立て込んでいて、それが叶わなかったと弁明しており、謙信は3年冬には関東、4年冬には北陸に在陣していたことから、この北陸遠征の事実が決め手となって天正5年に比定されたのであろう。
 どちらも尤もな理由であり、よく検討してところ、謙信は「旧冬已来北路静謐」のために「万端取籠故」とは記しているが、自ら北陸へ出馬したとは記しておらず、謙信は天正3年のうちに関東から帰府すると、色部惣七郎長真をはじめとする越後衆を北陸に在陣させたりして(『上越』1281号)、北陸の形勢を安定させておくために様々な処置を施したのだと考えられることと、謙信がこれから新田・足利表へ進んで放火を揚げるので、佐竹軍も壬生・皆川筋へ進んで火先を揚げるように求めているのは、天正3年8月18日付の佐竹義重宛謙信覚書(『上越』1265号)において、謙信の当秋の越山に合わせ、佐竹軍が当表まで長駆するのが困難であるならば、せめて北条陣営の壬生・皆川領へ打ち出すように求めていたのと重なり、これが天正3・4年頃の謙信・佐竹・宇都宮と北条方の形勢であることからして、こちらは『戦国遺文 下野編
』などの通り、発給年次は天正4年となるのだろう。

 
◆ 勝浦市史編纂委員会編『勝浦市史 資料編 中世』(勝浦市)200号 上杉謙信書状〔注〕、210号 正木憲時書状〔注〕
◆ 小山市史編纂委員会編『小山市史 史料編 中世』(小山市)833号 野口豊前守戦覚書写
◆ 黒田基樹・佐藤博信・滝川恒昭・盛本昌広編『戦国遺文 房総編 第三巻』(東京堂出版)1639号 上杉謙信書状写、1626・1627号 足利義氏書状写
◆ 黒田基樹・佐藤博信・滝川恒昭・盛本昌広編『戦国遺文 房総編 第四巻』(東京堂出版)2363号 上杉謙信書状写
◆ 荒川善夫・新井敦史・佐々木倫朗編『戦国遺文 下野編 第二巻』(東京堂出版)1107号 上杉謙信書状、1139号 北条氏照宛行状写、1140号 北条氏照朱印状写、1143号 北条氏照朱印状、1144号 結城晴朝書状、1157号 伊勢千代丸(小山政種)寄進状、1161~1164号 江戸重通官途状写、1171号 宇都宮国綱書状写、1172号 大田原綱清書状、1186号 梶原政景書状
◆ 杉山博・下山治久編『戦国遺文 後北条氏編 第三巻』(東京堂出版)1926号 北条氏政書状写
◆ 杉山博・下山治久編『戦国遺文 後北条氏編 第五巻』(東京堂出版)4025号 北条氏規書状、4476号 足利義氏書状案
◆ 黒田基樹著『戦国期関東動乱と大名・国衆 戎光祥研究叢書 第18巻』(戎光祥出版) 第四部 下野国衆の研究 第一章 下野国衆と小田原北条氏

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