越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎(謙信)の年代記 【永禄5年11月~同6年2月】

2012-09-13 23:05:36 | 上杉輝虎の年代記

永禄5年(1562)11月12月 山内(越後国)上杉輝虎(弾正少弼)【33歳】


11月9日、関東へ出陣するにあたり、留守中の府内横目(監察)に任じた姉婿の長尾越前守政景(譜代衆。越後国坂戸城主)が、取次の河田豊前守長親(上野国沼田城代。この時は越後在国中で、輝虎の許にいた)へ宛てた起請文に血判を据えて差し出し、一、府内横目を仰せ付けられたからには、いささかも抜かりなく、御掟を断固として遵守させるべきこと、一、非道狼藉・喧嘩口論を仕出かす輩がいれば、たとえ御目前衆に限らず、誰人が召し使う者であっても、即座に成敗するべきこと、また、もしも自分に手に負えない場合は、(輝虎へ)包み隠さず申し上げるべきこと、某自分においても、憶測や悪念をもって、人倫にもとる非道を絶対に犯さず、御掟を遵守すること、一、自分の悪念をもって、虚偽の御申告などは一切しないこと、一、贔屓をもって、非道を犯した者を隠匿せず、偽りを申し上げたりはしないこと、これらを神名に誓っている(『上越市史 上杉氏文書集一』328号「河田豊前守殿」宛「長尾越前守政景」起請文)。


25日、関東へ向けて出馬する直前、奥州会津(会津郡門田荘黒川)の蘆名家から使者が到来したのを受け、蘆名修理大夫盛氏(止々斎)へ宛てて謹上書を発し、何度も使いをもって御懇意を示してもらい、本望極まりないこと、今後ますます特別に談合したい心づもりであること、そういうわけで、今すぐ使者(吉田美濃入道)をもって申し述べること、委細は吉田美濃入道(旗本衆)の口上に付与すること、これらを恐れ謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』329号「謹上 蘆名修理大夫殿」宛「藤原輝虎」書状【花押a3】)。

この直後に出府し、深雪を踏み分けて進軍する。

12月16日、上野国沼田城(利根郡沼田荘)に到着すると、同厩橋城代の北条丹後守高広(譜代衆。越後国北条城主)へ宛てて書状を発し、今16日に当地倉内(沼田城)まで着陣したこと、従って、松山城(武蔵国比企郡)が敵に攻め込まれたところ、城衆が防戦を尽くし、堅持しているそうなので、まずはめでたく有意義であること、爰元(沼田)着城の事実を味方中へ申し届けてほしいこと、なお、詳細は河田豊前守(実名は長親。妻は北条高広の三女と伝わる)が書いて伝えること、これらを恐れ謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集』331号「北条丹後守殿」宛上杉「輝虎」書状写)。

18日、関東味方中の那須修理大夫資胤(下野国烏山城主)へ宛てて書状を発し、本来であれば、密かに初秋の時分に関東へ出馬するつもりでいたところ、越中国へ二度も戦陣を催すはめになり、あのような支障によって大幅に予定がずれたこと、そうしたところに、甲・南両軍が連合し、松山城に向かって張陣したので、深雪とはいえども、越山を遂げたこと、このたびの戦陣で関東の安危を決するつもりなので、興亡の一戦に参加して奮闘されるべきこと、日程などについては、味方中の横瀬雅楽助(実名は成繁。上野国金山城主)ならびに岩付太田美濃守(実名は資正。武蔵国岩付城主)が申し届けること、これらを恐れ謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』332号「那須修理大夫殿」宛上杉「輝虎」書状写【花押a影】)。
 


永禄6年(1563)正月2月 山内(越後国)上杉輝虎(弾正少弼)【34歳】


正月朔日、年明け早々(上野国厩橋城からか)、下総国衆の簗田中務大輔晴助(下総国関宿城主)をはじめとする味方中の参陣を呼び掛ける。

7日、味方中の到着を待つ間の軍事作戦として、相州北条方の武蔵国衆・深谷上杉左兵衛佐憲盛が拠る武蔵国深谷城(幡羅郡)へ進攻し、城際に迫って外縁部を焼き払う。

8日、甲州武田家の勢力圏である上野国高山(緑野郡高山御厨)・同小幡谷(甘楽郡額部荘)一帯になだれ込んだところ、武蔵国松山城の状況が切迫しているとの知らせが届き、予定していた岩付口(武蔵国埼玉郡)からの後詰めを取り止め、上野国西郡から直接、松山城を取り囲む敵陣を強襲することにした。

同日、関東味方中の簗田中務大輔晴助へ宛てて書状を発し、去る朔日に申し上げたこと、恐らくは到着しているであろうこと、(簗田晴助へ)岩付の地へ移るように申し述べたが、松山城は日増しに抵抗する力を失っているようであると聞こえており、岩付口から戦陣を催すつもりであったが、これでは松山の助成が間に合わないので、此方(上野国西郡)より直に敵の後背を衝くつもりであること、昨日は高山の地、小幡谷へ乱入すると、甲・信勢(上州に置かれた軍勢が援軍として現れたということか)が通路の途中で屯しているところに攻め寄せたこと、そういうわけで、早速の御着陣が肝心であること、繰り返し申し合わせてきた手立てを結実させるのは今この時であること、先書で申し上げたように、このたびこそ関東の是非を決するつもりなので、速やかに東口(東・北関東)味方中と連帯して参陣されるのを待ち望んでいること、爰元の決着がついてから各々が着陣したところで、もはや遅きに失すること、これらを恐れ謹んで伝えた(『戦国遺文 房総編二』1092号「簗田中務太輔殿」宛上杉「輝虎」書状)。

依然として味方中の参集を待つなか、20日、側近の河田長親が、輝虎旗本の楡井治部少輔(実名は光親か)に証状を与え、越後国弐之分(頸城郡)の地については、先年に入部されて以来、郡司不入であり、その後に内海ならびに石坂勘介が知行(弐之分の地が両人にも分与されたということか)してからも同前であり、この筋目は昨冬に郡司の柿崎和泉守方(実名は景家。譜代衆。越後国柿崎城主)へも了解を得ているからには、今後においても不変であることを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』334号「楡井治部少輔」宛「河田長親」安堵状写)。


味方中の参陣が遅れているため、相・甲連合軍に数で大きく劣ることから、武蔵国松山城に赴援することができず、やむなく上野国館林城(邑楽郡佐貫荘)へ後退し、改めて味方中の参陣を募ると、27日、進軍中の房州里見正五(岱叟院。権七郎義堯)の許に飛脚を遣わし、これから再び武蔵国岩付城へ向かうので、必ず参陣するように強く促した。


これを受けて、2月朔日、下総国臼井(印旛郡臼井荘)の地まで進んできた岱叟院正五(房州里見義堯)から書状が発せられ、(輝虎が)また岩付へ向けて御越河されるそうであり、脚力をもって御一書を給わったこと、これによって、進軍が遅れている吾等(里見義堯)も岩付へ急行するべきとの仰せを承り、そのところは心得たこと、しかしながら、このたび脚力によってもたらされた(輝虎の)御切紙の御日付は27日申刻(午後四時頃)で、この晦日に受け取り、館林の地から発せられた(輝虎の)御切紙も27日の御日付であり、こちらは、臼井の地に着陣した29日に受け取ったこと(輝虎は館林から大して進んでおらず、里見軍がこのまま進んでも上杉軍は岩付城に到着していない事態が案じられるということか)、先だって香西治部少輔(旗本衆。里見軍を岩付城へ先導するために派遣された)をもって仰せ頂いたので、彼の人(香西治部少輔)に自分の使者を添えて越陣へと向かわせること、御返事次第により、すぐにでも行動に移すこと、吾等(里見義堯)についても市川(下総国葛飾郡)十里内に陣取っているので、御返書の到来を待っていること、これらを恐れ謹んで伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』335号「山内殿 御宿所」宛「岱叟院正五」書状)。


4日、武蔵国松山城に至近の同石戸(足立郡)の地に布陣したところ、相・甲連合軍の強固な情報封鎖によって、援軍の到着を知らない松山城衆(岩付太田美濃守資正と、その一族・同心・被官衆が中核をなす)が、北条氏康と武田信玄の計略に乗せられてしまい、城を明け渡して退去したので、城衆を収容して連合軍と対峙した。

連日、軍勢を繰り出しても相・甲連合軍は陣城に籠ったままなので、11日、岩付城まで後退して利根川端に布陣すると、連合軍を戦場に引っ張り出すため、陣所を移して囮兵で誘い出すことを試みたりするなどの武略を駆使しても効果を得られず、意を決して、難所を踏み越えて敵陣を襲撃しようとしたところ、これを察知した連合軍は夜陰に紛れて松山城へ撤退してしまい、決戦の機会を失った。



この間、相州北条氏康(左京大夫)は、18日、奥州白河の白河結城七郎隆綱(白河結城左京大夫晴綱の世子。陸奥国白河城主)へ宛てて初便となる書状を発し、仰せの通り、これまで音信を通じていなかったところ、このほど御札が寄せられたので、本望満足であること、これからは格別に相談し合いたいこと、共通の敵である義昭(常陸国衆の佐竹右京大夫義昭。常陸国太田城主)が進軍途中にあるそうなので、小田(常陸国衆の小田中務少輔氏治。同小田城主)・烏山(下野国衆の那須修理大夫資胤。下野国烏山城主)と示し合わされて、総力を結集して戦われてほしいこと、当口は遠境ゆえに連絡が取りにくいので、(小田)氏治・晴朝(下総国衆の結城左衛門督晴朝。下総国結城城主)・(那須)資胤とは十分に談合されるべきこと、これらを恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文 後北条氏編一』803号「白川殿」宛北条「氏康」書状)。

21日、白河結城隆綱へ宛てて再便となる書状を発し、先書でも御知らせしたように、去る4日に当松山城を手中に収め、同11日に景虎(上杉輝虎)は岩付陣まで退散したこと、武田信玄と相談し、今なお張陣していること、利根川端に陣取った景虎(輝虎)の陣所は、取り分け険しい地形なので、未だに彼の陣所に攻めかかれないでいるが、このほど入手した情報によれば、近日中に敗走するのは間違いないこと、佐竹義昭が景虎(輝虎)に合力するため、半途まで進軍しているそうなので、その方面の味方中が佐竹と戦うのは、今をおいて他にはなく、各々が協力して佐竹に術策を仕掛けられるべきであり、つまりは貴所(白川隆綱)の尽力に掛かっていること、取り分け旧冬の御誓詞には心から恐悦しており、このたび御連絡したこと、何はともあれ河村対馬守(実名は定真。鎌倉公方足利義氏の奉公衆)が半途まで参って当方の誓詞を届けられるので、改めて参着の有無を御知らせ願いたいこと、これらを恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文 後北条氏編一』805号「白川殿」宛北条「氏康」書状)。

同日、白河隆綱からの起請文を受け取ったので、氏康からも白河へ宛てて起請文を発し、互いに入魂を誓い合った起請文を取り交わしたことになる(『戦国遺文後北条氏編一』804号「白川殿」宛北条「氏康」起請文)。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『戦国遺文 後北条氏編 第一巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 房総編 第二巻』(東京堂出版)

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