越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎(旱虎)の略譜 【51】

2013-07-29 11:39:29 | 上杉輝虎(謙信)の略譜
永禄12年(1569)6月 上杉輝虎(旱虎。弾正少弼) 【40歳】

2日、(上杉「輝虎」)、先月に誓詞を受け取るために来越した相州北条家の使僧である天用院に宛てて書信を発し、先頃は遠路を越されたにも係わらず、図らずも要務に取り紛れて懇親できなかったのは、意外であること、盟約の条項については、各々を通じて父子(相州北条氏康・同氏政)に申し渡したので、すぐさま取りまとめるように、父子へ働き掛けてほしいこと、父子の誓詞を受け取りに相府へ向かった使僧の広泰寺(昌派)の指南を任せ入ること、後音を期していること、これらを懇ろに伝えた。
7日、甥の上田長尾「顕景(喜平次。越後国坂戸城主)」が、被官衆の「下平右近允殿」・「佐藤縫殿助殿」に感状を与え、去る正月9日の本庄村上(越後国瀬波郡小泉荘)の地に於ける敵方の夜襲に際して応戦した際、めざましい奮闘をみせたとして褒め称えるとともに、なおいっそう武功を励むように期待を寄せている。

相州北条氏康・同氏政父子とその一族から、越・相一和締結への祝意が15日以降にまとめて発せられる。
9日、相州北条「氏政(左京大夫)」が返書(「山内殿」)を整え、このたび寄せられた芳翰を披読したので、本望であること、取り分け血判を据えた誓詞を給わり、まさにすこぶる喜ばしいこと、氏政父子も血判を据えた誓詞を広泰寺に手渡すこと、詳細は来信を期していること、これらを懇ろに伝えている。
同日、相州北条「氏康(相模守)・氏政」父子が返書(「山内殿」)を整え、このたび御養子として、氏政の次男である国増丸が定められたこと、先約の旨に従って熟慮の末に受諾したこと、これにより、越・相両国の御交誼がいっそう深まるので、歓喜満足しており、御両使(寺僧の広泰寺昌派と旗本の進藤隼人佑家清)に申し含めたこと、これらを懇ろに伝えている。
同日、氏政兄弟衆の北条「平 氏照(源三。氏康の三男。武蔵国滝山城主と下総国栗橋城主を兼務する)」が、「越府」の年寄中に宛てて返書(謹上書)を整え、このたびの御一儀に伴って刀一口を賜る栄誉に浴し、まさにひたすら本望であること、是非とも御意にかないたいとして、太刀一腰を進覧すること、御祝儀を表するばかりであること、是非とも御意にかないたいこと、これらを懇ろに伝えている。
同日、相州北条家の一族衆である玉縄北条「平 康成(彦九郎。相州玉縄城主・玉縄北条左衛門大夫綱成の嫡男)」が、越府の年寄中に宛てて返書(謹上書)を整え、このたび貴札を披読したので、ひたすら本望であること、越・相御一和が成就したので、めでたく珍重であること、これにより、御検使の広泰寺を寄越されたので、御意向に任せられ、氏政父子・拙父子(綱成・康成)が御誓詞血判を呈されたので、いよいよ越・相両国が連動する重要な局面を迎えたので、御意にかないたいこと、これらを懇ろに伝えている。
同日、北条「氏照」が、取次の「山吉孫次郎殿(豊守。大身の旗本衆)」に宛てた返書を整え、このたび広泰寺と進藤方を寄越され、輝虎からの糊付の御状を頂戴したので、まさしく本望であること、あらゆる場に於いても御両使(広泰寺昌派・進藤家清)への配慮を欠かさないように気を配っていること、今後とも用命があれば、仰せ付けてほしいので、御取り成しを任せ入ること、詳細については進藤方が口述すること、これらを懇ろに伝えている。
同じく北条「氏照」が、「山吉孫次郎殿」に宛てた返書を整え、越・相御一和について、天用院をもって申し送られたところ、すぐさま輝虎から特別に血判を据えた御誓詞を寄越されたので、めでたく珍重であること、これにより、氏康父子の血判誓詞を御所望されたのを受け、広泰寺と進藤方の眼前に於いて、(輝虎の)御意向の通りに血判を据えた誓詞を差し上げられるからには、早速にも信州御出張されるべきこと、愚拙(北条氏照)の誓詞については、先頃に沼田衆を通じて御内々に申し越されたので、差し上げたところ、このたびは血判を御所望されたので、(輝虎の)御意向の通り、広泰寺・進藤方の眼前に於いて、血判を据えて差し上げたこと、今後ますます越・相両国の御交誼のため、一心に取り計らうこと、こうした趣旨を御取り成してもらいたいこと、これらを懇ろに伝えている。
10日、相州北条「氏康」が返書(「山内殿」)を整え、このたび芳翰を披読したので、ひたすら本望であること、先頃に父子(相州北条氏康・同氏政)の真意を、誓詞をもって申し入れたのに伴い、(輝虎の)御血判を所望したところ、早々に頂戴したので、すこぶる満悦したこと、このたび広泰寺が持参された御案文の趣旨に従い、血判を差し上げること、こうした趣旨を氏政が詳報すること、これらを懇ろに伝えている。
同日、相州北条「氏康」が返書を整え、このたび御音信として、昆布一合・鱈一合・干鮭十尺・樽酒三荷を頂戴し、何れも当口では稀少な一品で賞味に預かったこと、取り分け銘酒を堪能したこと、詳細は御両使(広泰寺昌派・進藤家清)に申し含めたこと、これらを懇ろに伝えている。
11日、氏政兄弟衆の藤田新太郎氏邦(氏康の四男。武蔵国鉢形城主)が、取次の「山吉孫次郎殿(豊守)御宿所」に宛てた返書を整え、先月下旬に天用院が帰府したのち、御両使が程なく到来したので、御血判を拝見した氏康父子は満悦していること、拙子(藤田氏邦)に於いても、めでたく珍重であること、氏康父子も宝印を翻し、御案書の通りに血判を差し上げられるので、このように越・相両国が御交誼を結ばれる時を迎え、両国の士民にとっても、すこぶる喜ばしい限りであること、いよいよ信州へ御出陣されるのを待つばかりであること、此方(藤田氏邦)からも使者を差し添えて申し入れること、詳細は御両使(広泰寺昌派・進藤家清)が口述されること、これらを懇ろに伝えている。

16日、越府へ帰還する途中の広泰寺昌派と進藤隼人佑家清が、「山吉孫次郎殿(豊守)参御宿所」に宛てて返書を発し、このたび寄せられた御書を謹んで拝読し、恐縮していること、相府の次第について、すぐにも注進するべきところ、落着が遅れたので、心ならずも無沙汰してしまい、当惑したこと、10日に事情を申し上げたので、今頃は到達したであろうこと、この御飛脚については、路中で事故に遭わないように慎重を期し、由信(上野国衆の由良信濃守成繁。上野国金山城主)が留め置かれていること、昨15日の午後に新田の地(上野国金山城)に到着してから、(輝虎の)御指示を聞き届けたこと、本日は当地に逗留するので、先ずは取り急ぎ申し上げること、何はともあれ、必ず無事に参上し、今般の仕儀を詳しく説明すること、しかるべく御取り成し願いたいこと、これらを懇ろに伝えている。

同日、相州北条「氏康」から書信(「山内殿」)が発せられ、このたび敵軍が現れた事実を知らせるため、氏政が飛脚をもって申し届けるにあたり、一翰に及んだこと、信玄が信・甲の人数を数多く動員して、今16日に駿河国御厨郡の古(深)沢新地へ襲来したが、しっかりと防備を固めさせているので、どうか御安心してもらいたいこと、直近の情報によれば、敵軍は彼の郡内に新地を築くようなので、氏政が立ち向かうべきところ、難所であるために、おのずから対陣となるのは明らかであり、こうした機会を捉えて信州へ御出陣されるべきこと、状況については逐一注進に及ぶこと、これらを懇ろに伝えられている。
同日、相州北条「氏政」から書信(「山内殿」)が発せられ、このたび取り急ぎ申し上げること、信・甲の人衆(甲州武田軍)が大挙して、今16日に駿河国古沢新地に攻め寄せてきたが、当手の人衆を配置して防備を万全に整えたので、どうか御安心してもらいたいこと、敵軍の動向については随時申し入れること、つまるところ、至急に信州へ御出陣されるべきこと、これらを懇ろに伝えられている。更に追伸として、信玄の許に参陣した上・信両国の人数が出払っている今を捉え、由良(成繁)・長尾方(足利長尾但馬守景長。上野国館林城主)に加勢の重要性を説いたので、いよいよ両名へ(輝虎の)御指図を仰ぎたいことを伝えられている。
同日、相州北条「氏政」が、「由良信濃守殿(成繁)」に宛てて書信を発し、このたび取り急ぎ申し上げること、今16日に信・甲両国の人衆が深沢新地へ攻め寄せてくるも、左衛門大夫(玉縄北条綱成)・松田(憲秀。一家に準ずる一族の家格を与えられた譜代の重臣。小田原衆)らを配備したので別条はないこと、この時期に出陣してきた(甲州武田信玄)の意図は詳らかでないが、何れにしても今明の敵軍の動向を見届け、改めて注進に及ぶこと、敵方の小幡(上総介信真。上野国国嶺(峰)城主)を始めとする上野国衆が駿州へ出陣しているので、新太郎(藤田氏邦)に西上野への進攻を申し付けたこと、是非とも父子(由良信濃守成繁・同六郎国繁)のうちのどちらかが出陣し、新太郎(藤田氏邦)と協力して方策を練ってくれれば、進攻作戦は思うがままであること、若しも敵方に横撃されるようであれば、相当数の人衆を加勢として送り込むこと、作戦行動が遅れては意味を成さないので、何としても20日か21日には始動されるべきこと、詳細は新太郎(藤田氏邦)が申し伝えること、これらを懇ろに伝えている。更に追伸として、越府にも飛脚を立てるので、留意して対応されるべきことを頼んでいる。
18日、由良信濃守成繁から、「越府」の年寄中に宛てて書信が発せられ、このたび取り急ぎ申し達すること、相府小田原から早飛脚をもって申されること、信玄自身が信・甲両国の人衆を召し連れ、一昨16日に駿河国御厨郡の古沢新地へ襲来されたので、信州への後詰めの御出陣について、申し達せられること、詳細は河豊(河田豊前守長親)・直大(直江大和守景綱)・山孫(山吉孫次郎豊守)へ申し伝えるので、必ず御披露を遂げられるべきこと、これらを懇ろに伝えられている。

23日、取次の「山孫豊守(山吉孫次郎豊守)」が、相州北条方の取次である「遠左(遠山左衛門尉康光。氏康の側近。小田原衆)」に宛てた条書を使者に託し、越・相両国間の不一致を払拭する相当な御覚悟のようなので、当方も存念を申し述べるための覚え、一、武蔵国松山領(比企郡)の引き渡しが御落着するように、御調整を急がれるべきこと、一、当方が房・総両国の人衆を引率するので、この旨を弁えてもらいたいこと、一、明24日の信州出馬が決定されていたところ、貴所(遠山康光)の御到来が遅れているのに伴い、延引をやむなくされたが、26日には必ず門を出られ、これ以上は越山を先延ばしにはされないこと、一、越・相御対談により、それぞれ両軍がどの方面から信・甲(甲州武田領)に攻め入るべきか、小田原御父子(相州北条氏康・同氏政)の御存念を聞き届けたいこと、一、当方の御陣中に於いて、貴所(遠山康光)が御気遣いなく振舞えるように、輝虎が内々に周知を図っていること、一、このたびの越・相御一和については、ひたすら(武田)信玄に御遺恨を晴らされる目的で結ばれたわけであり、今秋中に信玄は滅亡を免れないものと、我々は見極めており、きっと貴所も同じ御認識であろうこと、一、当方の年寄共は一致して、貴所との御対面に臨むつもりであること、御父子から寄せられた御糊付(大事の書簡)については、輝虎の御返答を相府小田原へ送ったのでは、御返事が遅れてしまうので、先ずは当府で貴所に御返事されるそうであること、これらの条々について説明している。

25日、上野国沼田城(利根郡沼田荘)の城将である「松石景繁(松本石見守景繁。大身の旗本衆)」が、年寄衆の「直大(直江大和守景綱)・河豊(河田豊前守長親)参御報」に宛てて返書を発し、このたび御両衆(直江景綱・河田長親)からの御切紙を披読して愕然としたこと、すでに御当地(沼田城)については、山吉殿に御奏者を懇請したこと、当春に越後国村上(瀬波郡小泉荘)の御陣中に於いて、(山吉豊守と)神血をもってを申し交わしたからには、契約関係をゆるがせにはしなかったこと、若しも御取次の方々が添状の次第を違えて、それぞれが仰せ出されたのでは、どうしてこのような事態になったのか、山吉殿へ残らず尋ねないわけにはいかないのではないかと思われ、これから参府するからには、各々方と面談して事情を問い質したいこと、先ずは申し達すること、これらを懇ろに伝えている。更には追伸はないことを伝えている。

27日、「遠左康光(遠山左衛門尉康光)」が、「信濃守殿(由良成繁)参御宿所」に宛てて書信を発し、取り急ぎ申し達すること、明28日に当地(相府小田原)を罷り立ったので、来朔日にはその地(上野国金山城)へ参着すること、屋形様(北条氏康)から(由良成繁)へ御状が進ぜられること、(小川)夏昌斎にも御書を整えられたこと、このほど拙者が越(越後)へ差し越されるので、夏昌斎を差し添えてもらいたいとの仰せであること、夏昌斎にとっては、まさに老足といい、取り分け炎天といい、山路遠境といい、かれこれ大変な御難儀を伴うところ、ひとつには越・相両国の御繁栄のため、ひとつにはこの拙者自分のため、何れにしても、(由良成繁が)御意を加えられ、同道されるように願いたいこと、取り分け此方(相州北条家)からは拙者ひとりが越府行を仰せ付けられたので、拙者ばかりの責任が重いと負担を感じ、当初は辞退を申し出たところ、この屋形様の御脅威に際し、強いては申し上げられなかったので、仕方なく越へ罷り越すこと、此方からは伝馬五十疋を下されるが、御造作ではあるも、御領分(金山)から沼田までに於いては、仰せ付けられて下されたいこと、朔日にその地(金山)へ参着したら、翌日には越へ向けて罷り立つこと、こうした趣旨を御理解してもらいたいこと、これらを懇ろに伝えている。
28日、相州北条「氏康」から、「山吉孫次郎殿(豊守)」に宛てて書信が発せられ、先頃に使節として派遣されてきた広泰寺・進藤方の帰路に際し、遠山左衛門尉(康光)を同行させるつもりでいたところ、(武田)信玄が駿河国御厨郡に出張り、今なお在陣中であるために延引したこと、このたび左衛門尉(遠山康光)を立て参らせること、いよいよ御指南を頼み入ること、これらを懇ろに伝えられている。
同日、相州北条「氏康」から、「進藤隼人佐殿(家清)」に宛てて書信が発せられ、先頃は使者として罷り越すにより、面談を遂げたので、本望であること、遠山左衛門尉(康光)を使いを申し付けたところ、不慮の事態が発生したので延引をやむなくされたこと、漸く本日に出立させる運びとなったので、しかるべく御指南してほしいこと、詳細は彼の者(遠山康光)が口述すること、これらを懇ろに伝えられている。

同日、北条「源三氏照」が、他国衆の「右馬助殿(野田景範。下総国鴻巣城主)御宿所」に宛てて書信を発し、ここ暫くは西口(駿州方面)の任務や諸般の要務を仰せ付けられて小田原に在府中のため、不本意ながら無沙汰してしまったこと、越国の模様を御心配されているので、あらましを申し入れること、一、越・相一和は落着し、互いに血判誓詞を取り交わしたこと、一、来る軍事作戦の模様は、輝虎は放生会(8月15日)以前に信州口へ向けて出張り、甲州へ攻め入るそうであること、当方は駿州口から甲州へ攻め入られること、この段取りをつけられるため、三日前(ママ)に遠山左衛門尉(康光)を越国へ差し越されたこと、関東中の帰属については、輝虎から様々な要求があり、上州については、上杉本国との主張に従い、一国を引き渡されたこと、下総国古河・栗橋(ともに葛飾郡)についても、何かと干渉してくる面々が多かったこと、そうではあったが、貴殿(野田景範)の御本地(栗橋)を、この氏照が預かっていると知りながら、もはや干渉してくる者はいないのではないかと思われ、何としても貴殿に御本地返還する決意をもって、当方(相州北条家)は様々に手を尽くしていること、氏照も同様の思いであること、その口(古河・栗橋)の体制がくまなく維持されるように、当方が熱心に取り組まれている事実を決して忘却されず、いよいよ御信任してほしいこと、一、この25日に駿河国富士屋敷地(富士郡の大宮城)が甲衆(甲州武田軍)の攻撃を受け、宿城が打ち破られて五百余名の負傷者を出したとの知らせを寄越してきたこと、また(武田)信玄は中途に馬を立てられているそうであること、詳細は浅見左京亮に言い含めたこと、これらを懇ろに伝えている。


この間、甲州武田「信玄(徳栄軒)」は、9日、房州里見家の宿老である小田喜「正木弥九郎殿(憲時。上総国小田喜城主)」に対して直筆の書簡を送り、未だに存分の筋道のほどを述べずにいたところ、このたび一筆を染めること、そもそも信玄と氏政(相州北条氏政)は深い厚誼で結ばれており、これゆえに随分と助言を与え、関東過半の指揮できる方法を教えて委任したにも係わらず、その厚恩を忘れて敵対したので、やむを得ない仕儀となったこと、こうなったからには義弘父子と格別に申し合わせ、小田原(相州北条家)の退治に専心してばかりであること、詳細は彼の使者が口述すること、これらを懇ろに伝えている。
10日、西上野先方衆の「高田大和守殿(繁頼。上野国高田城主)」に対して書信を送り、このほど逆心を企てた三河守(小幡信尚。同鷹巣城主)を退治するために人衆を差し向けたところ、これに協力していつもながらの見事な御奮闘をされたそうであり、めでたく喜ばしいこと、取り分け短期間に追伐されたので、すこぶる喜ばしいこと、更なる凶徒が反乱を起こす恐れがあり、一報が寄せられ次第に人衆を派遣する手筈を整えておくため、信玄自身の駿州出陣を延期したこと、来信を期していること、これらを懇ろに伝えている。
12日、常陸国衆の佐竹氏の客将である「梶原源太殿(政景。常陸国片野城主・太田道誉(三楽斎。資正)の子)」に対して自筆の書簡を送り、先日は回報ながら申し上げたこと、参着したのかどうか気になっていること、来秋に相模国小田原(西郡)への大規模な軍事行動を催すこと、この趣旨について(里見)義弘と談合するため、このまま玄東斎(日向入道宗立。直参衆)を上総国佐貫城(天羽郡)へ派遣するので、その路次番等の指南を頼み入ること、計画内容については彼の者が詳述するので、ここで筆を擱くこと、これらを懇ろに伝えている。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 712号 山吉豊守条書案、752号 上杉輝虎書状(写)、753・754号 長尾顕景感状(写)、755号 北条氏康・氏政連署状、756号 北条氏政書状、757号 北条氏照書状、758号 北条康成書状(写)、759・760号 北条氏照書状(写)、761・762号 北条氏康書状、763号 藤田氏邦書状、764号 広泰寺昌派・進藤家清連署状、765号 北条氏康書状、766・767号 北条氏政書状、768号 由良成繁書状、769号 松本景繁書状、770号 遠山康光書状、771号 北条氏康書状(写) 『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』 1268号 北条氏康書状、1270号 北条氏照書状写 『戦国遺文 武田氏編 第二巻』 1418号 武田信玄書状写、1419号 武田信玄書状 『戦国遺文 武田氏編 第六巻』4219号 武田信玄書状
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越後国上杉輝虎(旱虎)の略譜 【50】

2013-07-01 16:13:55 | 上杉輝虎(謙信)の略譜
永禄12年(1569)閏5月 上杉輝虎(旱虎。弾正少弼) 【40歳】

3日、(上杉「輝虎(花押a)」)、相州北条方の取次である「北条源三殿(氏照。氏康の三男。武蔵国滝山城主と下総国栗橋城主を兼務する)」へ宛てて書信を発し、このたび一和について、氏康父子から使僧(天用院)が寄越されたこと、輝虎の思いのたけを天用院へ申し渡したこと、すでに神名血判をもって申し合わせたからには、いささかも連帯する決意に変わりはないこと、これからは、適宜に取り成しを任せ入ること、これからの甲(甲州武田領)への出馬については、承知していること、これらを懇ろに伝えた。

4日、相州北条「氏康(相模守)」から、天用院の越府行に同道した上野国沼田城(利根郡沼田荘)の城将である「松本石見守殿(景繁(大身の旗本衆)」へ宛てた書信が今川氏真の使僧・東泉院に託され、このたび(今川)氏真から越府へ使僧(東泉院)をもって申し届けられること、懸川(遠江国佐野郡)出城の様子のこと、すでに本意(越・駿同盟)を達せられたからこそ、その国(越後国上杉家)に支援を頼み込まれたのであり、この筋目を適切に御取り計らってほしいこと、詳細は東泉院が口述すること、未だに天用院が帰路に就いたとの知らせがないので心配していること、現在も氏政は豆州に馬を立てており、(輝虎が)御出陣されるのを、ひたすら待ちわびていること、これらを懇ろに伝えられている。
同日、相州北条氏康の側近である「遠左康光(遠山左衛門尉康光。小田原衆)」から、「松石(松本石見守景繁)御宿所」へ宛てた副状が東泉院に託され、先月18日付の越後国塩沢(魚沼郡上田荘)から発せられた御書中を、晦日に当地小田原に於いて拝読したこと、天用院の御参府に御同道されたのは御太儀であったこと、其許(越府)に於いて、いよいよ適切な御取り成しは御手前にかかっていること、これにより、(今川)氏真が使僧をもって府中(輝虎)へ申し達せられたので、氏康も添状を寄越されること、氏真と松平(徳川家康)の間で一和がまとまり、先月15日に氏真の懸川出城が滞りなく落着し、今現在は氏政による伊豆国三嶋陣(田方郡)の近所である駿河国沼津(駿東郡)の地に馬を立てられて、氏政と熟議して同薩埵山陣・蒲原城(ともに庵原郡)を始めとする国中の要地の維持運営に強化を施されたこと、氏真が本懐を遂げるのは、ひとえに屋形様(輝虎)の御采配にかかっていること、詳細は来信を期すること、これらを懇ろに伝えられている。更に追伸として、氏真の使僧である富士五社別当の東泉院が一切を口述することを伝えられている。
同日、相州北条「氏康」が、他国衆の「由良信濃守殿(成繁。上野国金山城主)」へ宛てて書信を発し、(今川)氏真が越国(越後)へ使僧の富士東泉院を寄越されるので、その道程に於ける配慮を、念入りに申し付けられてほしいこと、その地(金山城)までは市川半右衛門尉(家老の石巻勘解由左衛門尉康保の弟である同左馬允康敬(御馬廻衆)の同心)が同行すること、よって、これらを遠山左衛門尉(康光)が詳報することを伝えている。

5日、関東味方中の簗田「中務入道晴助(ママ)」・同「八郎持助父子(下総国関宿城主)」から、年寄衆の「山吉孫次郎殿(豊守。大身の旗本衆)・直江大和守殿(景綱。同前)」へ宛てて書信が発せられ、このほど寄越された貴書を精読したこと、紙面の通り、相州北条家から迎えられる養子の件を御知らせのため、使者として大石右馬允(旗本衆)を遣わされたこと、越・相一和の成就に伴い、彼方(相州北条家)が偽りのない証として履行するべき下総国山王山城(葛飾郡下河辺荘)の取り壊しが昨4日の午後に実行されたこと、こうして真っ先に当方の苦境への対処が施されたので、ひたすら本望であり、恐悦していること、何はともあれ、このたび越府へ派遣した使者の真雪斎が帰着したのち、改めて代官をもって申し達すること、適宜の御取り成しを任せ入ること、詳細は彼の者(真雪斎)が演説すること、これらを懇ろに伝えられている。更に追伸として、(簗田)晴助が判形を据えていないのは、体調を崩しているためであり、無沙汰したわけではないことを伝えられている。

同日、これより前に出羽国の味方中である土佐林能登入道禅棟(杖林斎。出羽国の郡主である大宝寺氏の重臣。出羽国藤島城主)の許へ使僧の広泰寺昌派らを派遣したところ、土佐林禅棟の子である土佐林「宮内少輔氏慶(氏頼)」から、取次の「河田豊前守殿(長親。大身の旗本衆)」に宛てて返書(進上書)が発せられ、尊書と段子一巻を下されたので、拝受したこと、過分な御厚意であること、このたび越後国村上山の御本意を達せられ、速やかに御馬を納められたので、陪臣の我等(土佐林氏慶)に於いても、めでたく喜ばしいこと、このほど広泰寺を差し越され、(輝虎の)御意を示されたので、杖林(禅棟)もひたすら恐縮しており、何はともあれ、こちらから申し上げること、こうした趣旨を適切に御披露してもらいたいこと、これらを懇ろに伝えられている。

6日、(上杉「輝虎(花押a)」)、関東味方中の「広田式部太輔殿(直繁。武蔵国衆。武蔵国羽生城主)」へ宛てて返書を発し、越・相一和について、このたび飛脚が到来したので、喜びもひとしおであること、輝虎の真意を相(相州北条家)へ申し届けたたところ、氏康父子が共に意見を一致させた上で、使僧の天用院を差し越されたゆえ、条件をすり合わせて着実に一和を取りまとめたこと、とにかく安心してほしいこと、関東の様子を事細かに申し越されたので、しっかりと状況を把握できたこと、近年は味方中の南(相州北条方)への従属が相次いでいたなか、其方(広田直繁)は忠義を一心に貫いてくれたので、格別に感じ入っており、なおいっそうの勲功を励んでほしいこと、これらを懇ろに伝えた。

同日、沼田城衆の「河伯重親(河田伯耆守重親。大身の旗本衆)」が、越府に滞在中の沼田城将である「石州(松本石見守景繁。同前)へ参人々御中」へ宛てて書信を発し、これまで繰り返し書中をもって申し届けているにも係わらず、未着のためなのか、一向に応答がないので心配していること、先だって房州(房州里見家)へ向かうように仰せ付けられた「原佐」の飛脚が運んだ御書に対する返書は、由信(上野国衆の由良信濃守成繁)の許から届けられたのかどうか、すでに御返札などが到着しているのであれば、差し越すべきとの指示通りに届けること、其許(越府)で彼の御書札を御披読してほしいこと、其許での御首尾がどのようになられているのか、一向に伝わってこないこと、北信濃や越中を御堅持されているのかどうか、併せて御知らせ願いたいこと、めでたく万事が整い次第、改めて連絡すること、これらを懇ろに伝えている。更に追伸として、当表の国境地帯は何れも平穏無事なので、安心してほしいことを伝えている。

同日、土佐林家中の竹井「太和守時友」から、取次の「河田豊前守殿(長親)」へ宛てて返書(進上書)が発せられ、このたび寄せられた御書を謹んで拝読し、恐縮していること、昨冬に(輝虎から)杖林斎(土佐林禅棟)に対し、越後国藤懸城(瀬波郡小泉荘)を本庄方から奪還するための御助勢を仰せ付けられたので、同名掃部助(土佐林時助)に小勢を添えて赴援させたところ、間もなくして彼の地が自落したので、(輝虎は)御本意を達せられたこと、それに御満悦されたので、広泰寺をもって野拙(竹井時友)のような陪臣にまで御音信を仰せ下されたこと、そればかりか御脇差を拝領したので、過分な御厚意であること、何はなくとも、あれこれ御礼を申し上げるので、よろしく御披露してもらいたいこと、これらを懇ろに伝えられている。

7日、相州北条方の取次である北条源三氏照から、「越府」の年寄中へ宛てて返書が発せられ、越・相御一和について、沼田衆との内談の旨に任せ、このたび氏康父子が下総国山王山城を破却する意向を申し達したところ、御満悦の意を綴られた御状が寄せられたので、(北条氏照も)本望満足であること、今後なおいっそう越・相両国間の連携に努めるので、この趣旨を(輝虎に)御理解願いたいこと、これらを懇ろに伝えている。

同日、土佐林「杖林斎禅棟」から、年寄衆の「柿崎和泉守殿(景家。譜代衆)・山吉孫次郎殿(豊守)・直江太和守殿(景綱)」へ宛てて返書が発せられ、仰せの通り、このたび本庄(越後国村上城)へ向かって御屋形御自身(輝虎)が御馬を進められたので、内々にすかさず御加勢に及ぶべきところ、最上山形勢への対策のために出羽国内の清水・鮭延(ともに最上郡)を始めとする拠点に番手の人数を割く必要から、少々の御助勢に留まったにも係わらず、広泰寺をもって御一札を下されたこと、これにより、名誉も実益も得られたので、ひたすら恐縮していること、そればかりか御具足を拝領したので、恐悦していること、こうした趣旨をよろしく御取り成してもらえれば、めでたく喜ばしいこと、何はなくとも、御軍旗を納められた御祝意を、こちらから申し上げること、その際には(輝虎の)御理解を仰ぎたいこと、これらを懇ろに伝えられている。
同日、土佐林(禅棟)から、先だって使節として羽州に下向した「広泰寺昌派・高橋様(越後国一宮・弥彦神社の宮司か)参御侍者中」へ宛てて書信が発せられ、先頃は長々と御在陣してくれたにも係わらず、忙しさに取り紛れて満足な応接ができなかったのは、心外であること、大川殿(三郎次郎長秀。外様衆。越後国藤懸城主)と対立して他所に拠る大川舎弟両名について、愚入(土佐林禅棟)が意見して還住させるように仰せ付けられたので、色々と両名に働き掛けたところ、真っ先に貴僧らが奥郡へ御下向された影響もあって、兄の孫太郎方は素直に説得に応じたが、弟の藤七郎方は自分の主張が通らなければ承服できないとして、説得に応じないでいること、このため不首尾の要因が当方の手抜かりにあるとして、御奉行衆(年寄衆)に疑念を持たれる事態を憂慮しており、諏訪上下大明神・八幡大菩薩に誓って結果を出すべく奔走していること、幸いにも御両所(広泰寺昌派・高橋某)が御逗留中に、某(土佐林禅棟)の奔走している様子をつぶさに見聞されたはずなので、どうか十分に御口添えしてほしいこと、取り分け彼の両人(大川孫太郎・同藤七郎)の今後の身の振り方について、貴府では両名が他家への奉公を望んでいると、いぶかしんでいるようであるが、そのような事実はなく、某が爰許(大川)で仲介にあたっている間は、勝手はさせないので、どうか御安心してほしいこと、長年に亘って培ってきた御交誼を疎かにするはずがなく、この真情を御理解してもらいたいこと、御両所とは格別に申し交わしていきたいので、御同意してもらえれば、本望満足であること、これらを懇ろに伝えられている。更に追伸として、野拙(土佐林禅棟)が交誼を疎かにしていない事実を、越府の要人への御口添えしてもらいたく、頼み入るばかりであることを伝えられている。

8日、関東味方中の佐竹「義重(次郎。常陸国衆。常陸国太田城主)」から、取次の「河田豊前守殿(長親)」へ宛てて書信が発せられ、取り急ぎ脚力をもって申し入れること、先頃に使者として小貫佐渡守(頼安)・川井玄蕃允(河井堅忠)を差し越したところ、輝虎から取り分け御懇切に応接された旨を知らせてきたので、まさに本望であること、つまりは各々(越後国上杉家の要職)の取り計らいによるものならば、太悦もひとしおであること南方(相州北条家)と御一所を取りまとめられるそうであり、何れにしても(輝虎が)思いのままに関東中を御平定されるのであれば、異存はないこと、このところを御熟慮されるべきであり、各々の取り計いにかかっていること、これらを懇ろに伝えられている。

9日、羽州米沢(置賜郡長井荘)の伊達家の老臣である「元斎万止」から、「上杉殿」の年寄中へ宛てて書信が発せられ、先般の本庄弥次郎方(繁長。雨順斎全長。外様衆。越後国猿沢城に蟄居中)の不忠に際し、(伊達)輝宗が調停に及ばれた本庄の御赦免を御承諾されたので、ひときわめでたく喜ばしいこと、これからますます当家と御交誼が深めてもらえれば、すこぶる喜ばしい思いであること、当口で適う御用命など仰せ越されれば、すでに一線を退いた身ながら力の及ぶ限り奔走すること、進献した一種(副食物一式)を興じてもらえれば、晴れがましい限りであること、こうした趣旨を、よろしく御理解願いたいこと、これらを懇ろに伝えられている。

10日、佐竹次郎義重から派遣された使節の河井玄蕃允堅忠と小貫佐渡守頼安が帰国するのに伴って条書(朱印状)を託し、一、越・相一和について、義重の御意見に配慮し、南(相州北条家)との交渉に臨んだこと、この補足として、証拠となる文書の写を添えること、一、今後は甲(甲州武田家)の使者を一切受け入れられてはならないこと、この補足として、これは相へ示すべき信義であること、一、越・相一和の締結に伴い、これまでの(義重との)盟約で見直すべき事柄について誓句を取り交わしたいこと、一、相・越両国の無事が締結すれば、例によって関東の諸士のなかでは、(佐竹)義重と輝虎の間を阻害する不埒者が現れるのは必至であり、こうした悪意に惑わされず、毅然とした態度で臨んでほしいこと、この補足として、相による関東諸士に強圧な振舞いに及ぶなどの背信行為を申し届けてきた場合には、別の問題として対応するべきであろうこと、一、近いうちに輝虎が関東出陣を挙行するので、その際には義重自身に御出馬してもらいたく、同陣してあれこれ談合したいこと、これらの条々について説明した。

16日、旗本の進藤隼人佑家清に伴われて相府へ派遣された使僧の広泰寺昌派が、昨15日に到着した上野国沼田城から、懇意にしている「本庄美作入道殿(号宗緩。実乃。すでに隠居した老臣)御宿所」へ宛てた書信を、折りよく沼田から越府に戻る、直江大和守景綱が雇った飛脚に託し、直和(直江景綱)の飛脚をもって一書を進ずること、昨15日に沼田の地まで苦労もなく罷り着いたので、御安心してほしいこと、取り分け一段と体調も優れ、耳も良く聞こえるので、御悦喜してほしいこと、ありがたくも屋形様(輝虎)の御威光が皆々に浸透しているがゆえ、柿崎(越後国頸城郡佐味荘)を始めとする要地の各員が、こぞって接待を申し出られるため、事前に屋形様から路銭を過分に頂戴しているので、そのつど御無用と固辞したにも係わらず、柿崎では鶴久尾を、北条(同刈羽郡佐橋荘)では樽酒二荷と馬の飼料を頂いたので、在府の五郎殿(譜代衆の北条弥五郎景広)に御礼を御伝えしてほしいこと、次いで上田(同魚沼郡上田荘)では栗林方(輝虎の甥である上田長尾喜平次顕景の陣代を務める栗林次郎左衛門尉房頼)から鶴久尾一双を手渡され、同地に滞在していた蔵田兵部方(旗本衆の蔵田兵部左衛門尉)は、白布一端・両金一懸・蘇合円(丸薬)三貝を沼田に送り届けてくれたので、両人についても御礼を頼み入ること、当地沼田に於いても各々に対し、河伯(大身の旗本衆・河田伯耆守重親)・光清(同じく小中大蔵丞を指すか)・石見方(大身の旗本衆・松本石見守景繁)は言うまでもなく、皆々から懇ろに歓待を受けており、このように固辞しきれなかったこと、御役目柄とはいえども進隼方(進藤隼人佑家清)はいっそう懇切にしてくれているので、御安心してほしいこと、こうした趣旨を年寄衆の山吉殿(大身の旗本衆・山吉孫次郎豊守)・直江殿(同じく直江大和守景綱)・鯵清(同じく鰺坂清介長実)の各々へ御雑談を頼み入ること、くれぐれも御失念しないでもらいたいこと、一、南方(相州北条家)からは、(北条)氏政が今もって在陣中であるとの知らせが寄せられており、いよいよの時を迎えているので、明日には相府へ向けて出立すること、めでたく大役を果たして帰寺の折に再会を期すること、これらを懇ろに伝えている。

17日、帰国の途に就いた、佐竹次郎義重の使節である「河玄堅忠(河井玄蕃允堅忠)・小佐頼安(小貫佐渡守頼安)」から、途中の越後国村松(蒲原郡菅名荘)の地から、取次の「河豊(河田豊前守殿長親)御宿所」へ宛てて書信が発せられ、このたびの滞在中に於ける御懇待の数々について、まさに言葉で表せないくらい感謝していること、取り分け出立に際しては、態々府城の春日山城から府内まで一緒に下ってもらい、ひときわ面目を施せたので、ひたすら恐縮していること、帰着した折には、熱心に御接待してくれた様子を、(佐竹)義重に申し聞かせること、付き添わせてくれた案内人の辛労は一方ならぬものだったので、痛ましい限りであること、当地村松に於いて、義重の催した飛脚と出会い、自分たちに宛てられた書中を披見したところ、取り立てて異変はないこと、この書中も彼の飛脚に託すので、よろしく御披露してほしいこと、貴殿(河田長親)にも(義重の)一札をもって申されること、梅江斎(岡本禅哲。義重の側近)から愚所(河井堅忠・小貫頼安)に寄越された切紙も御一覧のために進ずること、何よりも先ず下総国山王山城破却が重要であること、今後とも更なる御取り成しに努めてもらいたいこと、改めて全てを申し達すること、これらを懇ろに伝えられている。

20日、国内の諸領主中へ宛てて朱印状(印文「地帝妙」)を発し、伊勢大神宮遷宮のため、当国越後に於いても棟別三銭の徴収することと、信心が深ければ率先して上積みするべきことを通達した。

某日、(上杉「輝虎(花押a)」)、濃(尾)州織田信長の取次である「林次郎左衛門尉殿」へ宛てて書信を発し、上意(将軍足利義昭)の御入洛の御祝儀として、使僧を差し上せること、これにより、信長にも申し届けること、よしなに取り成してもらえれば、優れて喜ばしいこと、当国瀬波産の青鷹(雌鷹)・兄鷹(雄鷹)を一連づつを遣わすこと、これらを懇ろに伝えた。


この間、甲州武田「信玄(徳栄軒)」は、16日、西上野先方衆の「浦野宮内左衛門尉殿(上野国大戸城主)」に対して朱印状(印文「晴信」)を送り、やにわに駿州表へ軍勢を出したので、武州筋を牽制するため、浅利右馬助(信種。譜代衆。上野国箕輪城代)を箕輪(群馬郡)に向かわせること、自領の防備はもとより、信玄に対せられる忠義でもあるため、箕輪に駆けつけて浅利の指示に従い、ひたすら戦功を励めば、本望であること、これらを懇ろに伝えている。更に追伸として、掌中のできものにより、印判を用いたことに断りを入れている。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 730号 上杉輝虎書状、731号 北条氏康書状(写)、732号 遠山康光書状(写)、733号 北条氏康書状(写)、734号 簗田晴助・持助連署状(写)、735号 土佐林氏慶書状、736号 上杉輝虎書状、737号 河田重親書状(写)、738号 竹井時友書状(写)、739号 北条氏照書状、740・741号 土佐林禅棟書状(写)、742号 佐竹義重書状、743号 元斎万止書状、744号 上杉輝虎条書(写)、746号 広泰寺昌派書状、747号 河井堅忠・小貫頼安連署状、748号 上杉輝虎朱印状、751号 上杉輝虎書状(写) ◆『戦国遺文 武田氏編 第二巻』 1413号 武田信玄書状 ◆『能代市史 資料編 古代・中世一』

※ 相州北条氏の使者である市川半右衛門尉については、下山治久氏の編著である『後北条氏家臣団人名辞典』(東京堂出版)を参考にした。
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