越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎(旱虎)の年代記 【永禄12年6月】

2013-07-29 11:39:29 | 上杉輝虎の年代記

永禄12年(1569)6月 越後国(山内)上杉輝虎(旱虎。弾正少弼)【40歳】


2日、先月に誓詞を受け取るために来越した相州北条家の使僧である天用院へ宛てて書状を発し、先頃は遠路を越されたところ、要務に取り紛れていたゆえ、懇親できなかったこと、意外であること、ついては(盟約の)条項を、各々をもって(相州北条氏康・同氏政父子)へ申し渡したこと、速やかに取りまとめるように、父子へ働き掛けるのが肝心であること、そしてまた、(父子の誓詞を受け取りに相府へ向かった使僧の)広泰寺(昌派)の指南を任せ入ること、なお、後音を期していること、これらを恐れ敬って申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』752号「天用院」宛上杉「輝虎」書状写)。

7日、甥である上田長尾顕景(喜平次。越後国魚沼郡の坂戸城を本拠とする)が、上田衆の下平右近允殿と佐藤縫殿助のそれぞれに感状を与え、本庄村上の地(越後国瀬波(岩船)郡の村上)において、去る正月9日、夜中に敵が攻め懸けてきたところに出くわして戦い、類い稀な奮闘に及び、誠に殊勲の極みであること、今後ますます武功を励むのが専一であること、これらを謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』753号「下平右近亮(允)殿」宛長尾「顕景」感状写、754号「佐藤縫殿助殿」宛長尾「顕景」感状写)。



同盟関係にある相州北条氏康・同氏政父子とその一族から、越・相一和締結への祝意が15日以降にまとめて発せられる。

6月9日、相州北条氏政(左京大夫)が返状を認め、芳翰を披読し、本望であること、殊に血判を据えた誓詞を給わったこと、誠に大慶であること、氏政父子においても、身血を染めた誓詞を、広泰寺に手渡すこと、委細は来信の時を期していること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』756号「山内殿」宛北条「氏政」書状)。

同日、相州北条氏康(相模守)・同氏政父子が返状を認め、このたび御養子として、氏政の次男である国増丸が定められたこと、先約の旨に従って熟慮の末に受諾したこと、これにより、越・相両国の御交誼がいっそう深まるので、歓喜満足しており、御両使(寺僧の広泰寺昌派と旗本の進藤隼人佑家清)に申し含めたこと、これらを懇ろに伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』755号「山内殿」宛北条「氏康」・北条「氏政」連署状)。

同日、氏政の兄弟衆である北条氏照(源三。氏康の三男。武蔵国多西郡を中心とした由井領を管轄する。同滝山城主と下総国栗橋城主を兼務する)が、越後国上杉家の年寄中へ宛てて返状(謹上書)を認め、御一儀として、刀一口を賜ったこと、誠に本望の極みで、珍重の思いであること、よって、太刀一腰を進覧し、御祝儀を表するばかりであること、是非とも御意にかないたいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』757号「謹上 越府江」宛「平 氏照」書状 封紙ウハ書「越府江 従相州本城」)。

同日、相州北条家の一族衆である玉縄北条康成(彦九郎。相模国東郡の玉縄領を管轄する玉縄北条左衛門大夫綱成の嫡男)が、越府の年寄中へ宛てて返書(謹上書)を認め、貴札を披読し、本望の極みであること、もとより越・相が御一和を遂げられたので、めでたく珍重であること、これにより、御検使として広泰寺を寄越されたこと、(輝虎の)御意向に任せられ、氏政父子・拙父子(綱成・康成)が今般に御誓詞血判を呈されたので、いよいよ(越・相両国の)御入魂が簡要至極であること、御意にかないたいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』758号「謹上 越府 貴報人々御中」宛「平 康成」書状写)。

同日、氏政の兄弟衆である北条氏照が、越後国上杉家側の取次である山吉孫次郎豊守へ宛てた返状を認め、広泰寺と進藤方を寄越されたについて、輝虎からの糊付の御状を給わったこと、誠にもって本望に思っていること、御両使(広泰寺昌派・進藤家清)に対し、あらゆる場において、いささかも配慮を欠かさないように、力の限り気を配っていること、(輝虎が氏照に)今後とも用命があれば、仰せ下さるように、(山吉豊守に)御取り成しを任せ入ること、委細は進藤方が口上に頼み入ること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』759号「山吉孫次郎殿」宛北条「氏照」書状写)。

同じく北条氏照が、山吉孫次郎豊守へ宛てた返状を認め、越・相御一和を遂げるについて、天用院をもって申し送られたところ、速やかに輝虎が御誓詞を、特に御身血を付けられて寄越されたこと、めでたく珍重の思いであること、これにより、氏康父子の誓詞血判を御所望であるとのこと、広泰寺ならびに進藤方の眼前において、(輝虎の)御意向の通り、身血を染めた誓詞を進め置かれること、かくなるうえは、(輝虎の)早速の信州へ向かっての御出張が肝心との思いであること、次に愚拙(北条氏照)の誓詞については、先頃に沼田衆から御内儀があるとして申し越されたので、進め置いたところ、このたびは(誓詞に)身血を染めるべきとの旨であり、(輝虎の)御意向の通り、広泰寺・進藤方の眼前において、身血を付けて手渡したこと、今後はいよいよ越・相両国の御入魂のため、一心に取り計らうこと、この趣を御取り成しに預りたいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』760号「山吉孫次郎殿」宛北条「氏照」書状写)。

10日、相州北条氏康が返状を認め、芳翰を披読し、本望の極みであること、先頃に父子(相州北条氏康・同氏政)の心底の趣は、誓詞をもって申し入れたので、(輝虎の)御身血を(染めた誓詞を)所望したところ、速やかに寄越されたこと、大慶満足であること、このたび広泰寺が持参された御案文の趣に従い、身血を(染めた誓詞を)進め入ること、委細は氏政が(紙面にて)申し述べること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』761号「山内殿」宛北条「氏康」書状)。

同日、相州北条氏康が返状を認め、御音信として、昆布一合・鱈一合・干鮭十尺・樽酒三荷を送り給わったこと、当口においてはいずれも稀少な一品であり、賞味に預かったこと、銘酒はひとしを堪能したこと、詳細は御両使(広泰寺昌派・進藤家清)に申し含めたこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』782号「山内殿」宛北条「氏康」書状)。


11日、氏政の兄弟衆である藤田新太郎氏邦(氏康の五男。武蔵国男衾郡を中心とした鉢形領を管轄する)が、取次の山吉孫次郎豊守へ宛てた返状を認め、天用院が先月下旬に帰路致したこと、御両使(広泰寺昌派・進藤家清)が程なく到来したこと、もとより御血判を拝見した氏康父子は満足歓喜されていること、拙子(藤田氏邦)においても、めでたく珍重の思いであること、氏康父子も宝印を翻し、御案書の通りに身血を放ち(誓詞を)進め置かれたこと、この通り(越・相両国が)御入魂を遂げたのは、両国士民の大慶は尽きないこと、このうえは信州に向かって御出陣されるのを待ち奉るばかりであること、そのため、此方(氏邦)からも使者を差し添えて申し入れること、委細は(広泰寺昌派・進藤家清)の口上に任せること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』763号「山吉孫次郎殿 御宿所」宛「藤田新太郎氏邦」書状写)。



15日、越府へ帰還する途中の両使の広泰寺昌派・進藤隼人佑家清は、越・相一和の交渉に関与している上野国衆の由良信濃守成繁が拠る上野国新田郡の金山城に入る。

16日、広泰寺昌派と進藤隼人佑家清が、山吉孫次郎豊守へ宛てて返状を発し、御書を謹んで拝読し、恐れ多い次第であること、よって、相府での首尾を、迅速に注進するべきところ、(一和の)落着が遅れ、(注進を)怠ったかのようで悩ましく、困り果てたこと、去る10日に様子は申し上げたこと、(今頃は)おそらく参着したであろうこと、されば、この御飛脚は、路中において間違えがあっては、無益なので、由信(由良成繁)が留め置かれていること、昨15日の申刻(午後四時前後)に新田の地(金山城)に到着してから、 (輝虎の)御諚の旨を聞き届けたこと、今日はこの地(金山城)に逗留仕るので、まずもって早々に申し上げること、何はともあれ、取り急ぎ参上致し、(このたびの首尾を)詳しく説明すること、適切な御取り成しを頼み奉ること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』764号「山吉孫次郎殿 参御宿所」宛「広泰寺昌派・進藤隼人佑家清」連署状)。



そうしたなか、相州北条家の駿河国御厨地域における東部拠点の深沢城に、甲州武田軍が攻め寄せてくる。

同日、相州北条氏康から書状が発せられ、敵(甲州武田軍)が動き出したについて、氏政が飛脚をもって申し届けるにあたり、一翰に及んだこと、今16日に、(信玄が)信・甲の人数を総動員して、今16日に(駿河国)御厨郡の古(深)沢新地へ攻め寄せたこと、堅固に(防備を)申し付けたので、御安心してもらいたいこと、直近の情報によれば、彼の郡内に敵(武田軍)が新地を取り立てるようであること、それが完成してしまったならば、氏政は立ち向かうべきであろうか、難所なので、おのずから対陣となるのは明らかであること、(信濃国への)後詰めの御手立てを任せ入ること、どのような様子かは重ねて注進に及ぶこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』765号「山内殿」宛北条「氏康」書状)。

同日、相州北条氏政から書状が発せられ、取り急ぎ申し上げること、よって、信・甲の人衆(甲州武田軍)が残らず、今16日に駿州内の古沢の新地に攻め寄せてきたこと、当手の人衆を籠め置いているので、力の限り防戦に及ぶので、御安心してもらいたいこと、敵の手立ての様子は重ねて申し入れること、つまるところ、早速にも(信濃国へ)後詰めの御手立てが専一であること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている。さらに追伸として、追って申し上げること、上・信両国の人数が出払って、信玄陣へ馳せ着いたそうなので、由良(成繁)・長尾方(足利長尾但馬守景長。上野国邑楽郡の館林城に拠る)へ加勢の重要性を説いたこと、いよいよ両名(由良成繁・長尾景長)へ(輝虎の)御指図を仰ぐところであること、を伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』766号「山内殿」宛北条「氏政」書状)。

同日、相州北条氏政が、由良信濃守成繁へ宛てて書状を発し、取り急ぎ申し上げること、よって、信・甲の人衆が今16日に駿州内の深沢新地へ攻め寄せてきたこと、左衛門大夫(玉縄北条綱成)・松田(左馬助憲秀。一家に準ずる一族の家格を与えられた譜代の重臣。小田原衆)以下が立て籠もっているので、別条はないこと、ただし、(武田信玄の)今時分の出張は、いかなる子細であろうか、いずれにしても今明の(武田軍の)様子を見届け、重ねて注進に及ぶつもりであること、そして、小幡(上総介信真。上野国甘楽郡の国嶺(峰)城を本拠とする上野国衆)をはじめとして、(武田家の西上野先方衆が)自領の衆を引き連れているそうなので、新太郎(藤田氏邦)に申し付け、西上州へ向かわせ、手立てに及ばせること、是非とも父子(由良信濃守成繁・同六郎国繁)のうちのどちらかが出陣し、万端を新太郎(藤田氏邦)と相談されるについては、作戦は思うがままであること、もしも敵方に横撃されるようであれば、適当な人衆を数多加勢として送り込むこと、かならずかならず遅れては、無意味であるので、何としても20日か21日にはするのが専一であること、委細は新太郎(藤田氏邦)が申し届けること、これらを恐れ謹んで申し伝えている。さらに追伸として、越国へも飛脚を立てるので、心得たうえで申し入れられるのを、任せ入ること、これらを申し添えている(『上越市史 上杉氏文書集一』767号「由良信濃守殿」宛北条「氏政」書状)。

18日、由良信濃守成繁から、越後国上杉家
の年寄中へ宛てて書状が発せられ、取り急ぎ申し達し、相府小田原から早飛脚をもって申し届けられること、信玄自身が信・甲両国の人衆を召し連れ、一昨16日に御厨郡内の古沢新地へ攻め寄せてきたこと、これにより、信州へ向かって後詰めの御手立てについて、申し達せられること、委細は河豊(河田豊前守長親)・直大(直江大和守景綱)・山孫(山吉孫次郎豊守)へ申し届けるので、かならずや御披露を遂げられるべきこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』768号「越府 人々御中」宛「由良信濃守成繁」書状)。



23日、取次の山吉孫次郎豊守が、相州北条方の取次である遠山左衛門尉康光(氏康の側近。小田原衆)へ宛てた条書を使者に託し、相当に(越・相両国間の不一致を)払拭する御覚悟があるようなので、(輝虎の)存分の通りを申し述べるための覚え、一、松山領(武蔵国比企郡)の引き渡しが御落着するように、御調儀(調整)を急がれるべきこと、一、房・総(房州里見家)は両彼の国の人衆を召し連れるそうであり、その旨を弁えてもらいたいこと、一、明24日の(信濃国)出馬が合議で決まっていたところ、貴所(遠山康光)の御越しは遅延しており、しかしながら、26日には間違いなく門を出られ、越山の延引はないこと、一、越・相御対談により、(越・相両軍はぞれぞれ)どの口から信・甲(甲州武田領)へ攻め込まれるべきか、小田原御父子(相州北条氏康・同氏政)の御心腹を聞き届けたいこと、一、御陣中において、(遠山)が御気遣いなく振舞えるようにとの、輝虎の内意であること、一、このたびの(越・相)御一和は、もっぱら(武田)信玄に御遺恨があるために結ばれたわけであり、今秋中に信玄は滅亡を免れないものと、我々は見極めており、きっと(相州北条家)も同じ御認識ではないかと思われること、一、(越後国上杉家の)年寄共は一致して、(遠山と)御目に懸かるそうであること、御父子(北条氏康・氏政)から寄せられた御糊付(大事の書状)に対し、(輝虎の)御返答を相府小田原へ送ったのでは、御返事が遅延してしまうので、当府にてまず(遠山)へ御返事に及ばれるそうであること、以上、これらの条々について申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』712号「遠左 御旅宿」宛「山孫 豊守」条書案)。


当文書は、4月に置かれているが、相州北条氏康の側近である遠山康英の来越が遅れている記事からして、当月の発給文書となり、輝虎は6月26日に信州への出馬を予定していたことが分かる。


25日、上野国沼田城(利根郡沼田荘)の城将である松本石見守景繁(大身の旗本衆)が、年寄衆の直江大和守景綱・河田豊前守長親へ宛てて返状を発し、御両衆(直江景綱・河田長親)からの御切紙を披読し、愕然としたこと、すでに御当地(沼田城)の連絡体制については、山吉殿を御奏者に頼み入ったからには、当春に村上(越後国瀬波(岩船)郡の村上城)の御陣中において、(山吉豊守と)神血をもってを申し合わせたからには、なおさらいっそう(松本景繁自身は契約関係を)ゆるがせにはしなかったこと、もしも御取次の方が添状の次第を、それぞれに仰せ出されたのでは、どうして一筋に山吉殿へ申し伝えないなど、あってはならないかと思われ、(松本が)参府致すからには、(直江・河田と)面上をもって申し談じたいこと、まずは申し達すること、これらを恐れ謹んで申し伝えている。さらには追伸はないこと、以上、これを申し添えている(『上越市史 上杉氏文書集一』769号「直大・河豊 参御報」宛「松石 景繁」書状)。


6月18日付越後国上杉家年寄衆宛由良成繁書状に見えるように、すでに越・相一和の交渉における取次の任から外れている直江景綱と河田長親にも連絡が入ってしまった一方、山吉豊守には何らかの理由によって届かず、取次契約のない直江・河田の両人が沼田城衆へ副状を送ったことから、このような騒動になったのではないか。松本景繁は越府春日山に戻ると、そのまま城将の任から外れている。



27日、遠山左衛門尉康光が、由良信濃守成繁へ宛てて書状を発し、取り急ぎ申し達すること、明28日に当地(相府小田原)を罷り立つので、来たる朔日にはその地(上野国金山城)へ参着致すこと、よって、 屋形様(北条氏康)から(由良成繁)へ御状が送られること、ならびに(小川)夏昌斎へも御書を整えられたこと、このほど拙者(遠山康光)が越(越後国上杉家)へ差し越されるので、夏昌斎を差し添えられようにとの仰せであること、夏昌斎にとっては、誠に老足といい、殊に炎天といい、山路遠境といい、かれこれ大変な御難儀ではあっても、一方では御公儀(相州北条家)のため、一方ではこの拙者自身(遠山)のため、何れにしても、(由良成繁が)御意を加えられ、同道されるように頼み奉ること、ことさら此方(相州北条家)からは誰も同道しないこと、拙者一人(遠山)が(越府行を)仰せ付けられたこと、様々に拙者(遠)ばかりの負担が重いと感じ、辞退を申し出るも、折しも屋形様(氏康)の御恐怖の時であり、強いては申し上げられないまま、仕方がなく越へ罷り越すこと、従って、(由良へ)伝馬五十疋ばかりを此方(相州北条家)から下されること、御造作ではあっても、御領分(金山)から沼田まで(伝馬を)仰せ付けられて下されたいこと、朔日にその地(金山)へ参着したら、翌日には(越後国へ向けて)罷り立つこと、御心得として申し届けておくこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』770号「信濃守殿 参御宿所」宛「遠左 康光」書状)。


28日、相州北条氏康から、山吉孫次郎豊守へ宛てて書状が発せられ、先頃に広泰寺・進藤方が帰路した折、遠山左衛門尉(康光)に(同行を)申し付けるつもりでいたところに、(甲州武田)信玄が駿州御厨郡に向かって出張し、今なお在陣中であること、これにより、(遠山の派遣を)延引したこと、このたび左衛門尉(遠山康光)を出立させること、いよいよ御指南を頼み入ること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『戦国遺文 後北条氏編二』1268号「山吉孫次郎殿」宛北条「氏康」書状)。

同日、相州北条氏康から、進藤隼人佑家清へ宛てて書状が発せられ、このたび御使いとして入り来るについて、面談を遂げたのは本望であること、よって、遠山左衛門尉(康光)に、とりもなおさず(使いを)申し付けたところ、不慮の横鑓が入ったゆえに延引したこと、今日にも出立させること、適切に御指南に預かりたいこと、委細は彼の(遠山康光)口上にあるべきこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』771号「進藤隼人佐殿」宛北条「氏康」書状写)。



同日、氏政の兄弟衆である北条源三氏照が、他国衆の野田右馬助景範(下総国葛飾郡の鴻巣城を本拠とする)へ宛てて書状を発し、西口(駿河国方面)の統治、そのほか万端の所用を申し付けられるについて、長々と小田原に在府、これにより、(野田景範と)しばらく申し交わしていなかったこと、本意ではなかったこと、よって、越国の模様を、きっと御心配されているであろうから、あらましを申し入れること、一、越・相一和は落着し、互いに血判誓詞を取り交わしたこと、一、来る軍事作戦の模様は、輝虎は放生会(8月15日)以前に信州口へ向けて出張し、甲州へ攻め入るそうであること、当方は駿州口から甲州へ攻め入られること、この段取りをつけられるため、三日前(ママ)に遠山左衛門尉(康光)を越国へ差し越されたこと、関東中の帰属については、輝虎から様々な要求があり、上州については、上杉本国との主張に従い、一国を引き渡されたこと、下総国古河・栗橋(ともに葛飾郡)についても、何かと干渉してくる面々が多かったこと、そうではあったが、貴殿(野田景範)の御本地(栗橋)を、この氏照が預かっていると知りながら、もはや干渉してくる者はいないのではないかと思われ、何としても貴殿(野田)に御本地返還する決意をもって、当方(相州北条家)は様々に手を尽くしていること、氏照も同様の思いであること、その口(古河・栗橋)の体制がくまなく維持されるように、当方が熱心に取り組まれている事実を決して忘却されず、いよいよ御信任してほしいこと、一、この25日に駿河国富士屋敷地(富士郡の大宮城)が甲衆(甲州武田軍)の攻撃を受け、宿城が打ち破られて五百余名の負傷者を出したとの知らせを寄越してきたこと、また(武田)信玄は中途に馬を立てられているそうであること、委細は浅見左京亮に言い含めたこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 後北条氏編二』1270号「右馬助殿 御宿所」宛北条「源三氏照」書状)。



この間、敵対関係にある甲州武田信玄(徳栄軒)は、6月9日、房州里見家の宿老である小田喜正木弥九郎憲時(上総国夷隅郡の小田喜領を管轄する)へ宛てて、直筆の書状を発し、未だに心緒(心中で思っていること)を述べずにいたとはいえ、一筆を染めること、もとより信玄と(相州北条)氏政は深い交誼で結ばれていたこと、このゆえをもって随分と助言したこと、関東中過半の指揮できる方法を教えて委任したところ、その厚恩を忘れて甲・相両国の間で抗争が起こったのは、やむを得ない次第であること、こうなったからには無二無三に義弘御父子と申し合わせ、小田原(相州北条家)を退治するべき考え以外にはないこと、委細は彼の(使者)口上にあること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編』1418号「正木弥九郎殿」宛武田「信玄」書状写)。

10日、西上野先方衆の高田大和守繁頼(上野国甘楽郡の高田城を本拠とする上野国衆)へ宛てて書状を発し、このたび三河守(小幡信尚。同鷹巣城を本拠とする上野国衆)が逆心を企てたので、退治するために人衆を遣わしたところ、(これに協力して)いつもながらの子細とはいえ、格別な御奮闘をされたそうであり、祝着であること、殊にたちまちの追伐は大慶であること、このうえも謀叛の族が出てきたならば、一報が寄せられ次第に人衆を遣わす手筈を整えておくため、信玄自身の駿州出陣を延引したこと、なお、来信を期していること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編』1419号「高田大和守殿」宛武田「信玄」書状)。

12日、常陸国太田の佐竹氏の客将である梶原源太政景(太田三楽斎道誉の世子)へ宛てて、自筆の書状を発し、先日は回報ながら、申し上げたこと、参着したのかどうか気になっていること、よって、来秋に小田原(相模国西郡)へのまたとない戦陣を催すこと、この趣を相談し合うため、(房州里見)義弘へ玄東斎(日向入道宗立。直参衆)をもって申し述べること、(上総国天羽郡の佐貫城へ至る)路次番等の指南を頼み入る所存であること、手立てなどの模様は、彼の者(玄東斎)の口上に附与するので、ここで筆を擱くこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編六』4219号「梶原源太殿」宛武田「信玄」書状)。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 武田氏編 第二巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 武田氏編 第六巻』4219号 武田信玄書状

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越後国上杉輝虎(旱虎)の年代記 【永禄12年閏5月】

2013-07-01 16:13:55 | 上杉輝虎の年代記

永禄12年(1569)閏5月 越後国(山内)上杉輝虎(旱虎。弾正少弼)【40歳】


〔越・相一和の成立に向けて〕

3日、同盟交渉中の相州北条方の取次の一人で、下総国栗橋に在城中の北条源三氏照(氏康の三男。武蔵国滝山城主と下総国栗橋城主を兼務する)へ宛てて書状を発し、(越・相)一和の件について、(相州北条)氏康父子から使僧(天用院)に預かり、輝虎の本心の通りを、天用院へ申し渡したこと、すでに神名血判をもって申し合わせたからには、いささかも変心はしないこと、今後は、適切な取り成しを任せ入ること、そしてまた、今後の甲(甲州武田領)への出馬については、それを承知したこと、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』530号「北条源三殿」宛上杉「輝虎」書状【花押a4】)。


5日、関東味方中の簗田中務入道道忠・同八郎持助(下総国葛飾郡の関宿城を本拠とする下総国衆)父子から、年寄衆の山吉孫次郎豊守・直江大和守景綱へ宛てて書状が発せられ、(山吉・直江からの)貴書を繰り返し披読したこと、紙面の通り、去る頃は大石右馬允(輝虎旗本)を、(輝虎が相州北条家から迎える)養子の件を御知らせのために遣わされたこと、彼(越・相の盟約)の偽りのない証として、(相州北条家は)まずまず山王山城(下総国葛飾郡下河辺荘。関宿城に対する相州北条家の付城)の取り除かれたこと、昨4日の未刻(午後三時前後)に破却したこと、このような(輝虎からの簗田父子に対する)御報酬は、誠にもって本望の極みであり、恐悦至極であること、何としても、真雪斎(簗田父子の使者)が帰着したうえで、代官をもって申し達すること、適切な御取り成しを任せ入ること、なお、彼の者(真雪斎)の演説のうちに詳細はあること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている。さらに追伸として、晴助(簗田道忠)はちょうど病に伏しているゆえ、判形を据えられなかったこと、無沙汰したわけではないこと、以上、これらを申し添えている(『上越市史 上杉氏文書集一』734号「山吉孫次郎殿・直江大和守殿」宛簗田「中務入道晴助(ママ)」・簗田「八郎持助」書状写)。


6日、関東味方中の広田式部大輔直繁(武蔵国埼玉郡の羽生城を本拠とする武蔵国衆)へ宛てて返状を発し、越・相一和の件について、(広田直繁から)飛脚が到来したので、喜びもひとしおであること、輝虎の心中の通りを相(相州北条家)へ申し届けたところ、氏康父子が共に意見を一致させたうえで、天用院と号する使僧を差し越されたにより、条件をすり合わせて手堅く落着させたこと、とにかく安心してほしいこと、されば、(広田が)関東の様子を逐一申し越されたこと、委細を把握できたこと、あるいはまた、近年は味方中のいずれもが南(相州北条家)へ付き従っていたところ、其方(広田直繁)は忠信を励まれたのは、類い稀な行いであること、ますます勲功の心懸けが肝心であること、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』736号「広田式部太輔殿」宛上杉「輝虎」書状【花押a4】)。


同日、沼田城衆の河田伯耆守重親(輝虎旗本)が、越府に滞在中である沼田城将の松本石見守景繁(同前)へ宛てて書状を発し、ここまでの間、繰り返し書中をもって申し届けているところ、未着のためなのか、(一向に応答がないので)心配していること、よって、先だって房州(房州里見家)へ向かうように仰せ付けられた原佐(某佐渡守)の飛脚が運んだ御書に対する返書は、由信(由良信濃守成繁)の許から届けられたのかどうか、御返札などが(由良の所に)到着したならば、(越府まで)差し越すようにと言われていたこと、其元(越府)で彼の御書札を御披読するのが適当であること、我々(沼田)の所へ由信(由良)から届いた切書なども(越府へ)差し越し申し上げること、あるいはまた、其元(越府)での御首尾がどのような御様子であるのか、一向にそれが伝わってこないこと、北信濃・越中表はどちらも御堅固であるのかどうか、併せて御知らせ願いたいこと、めでたく万事が整い次第、重ねて申し届けること、これらを恐れ謹んで申し伝えている。さらに追伸として、諸境目はいずれも平穏無事なので、安心してほしいこと、以上、これらを申し添えて伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』737号「石州へ 参人々御中」宛「河伯 重親」書状写)。


16日、出羽国の味方中である大宝寺氏の許から帰国してすぐに、輝虎旗本の進藤隼人佑家清と共に相府小田原へ派遣された使僧の広泰寺昌派が、昨15日に到着した上野国沼田(倉内)城から、越府の本庄美作入道宗緩(俗名は実乃。すでに一線を退いた老臣。広泰寺昌派とは親しい間柄にある)へ宛てた書状を、ちょうど越府へ戻る、輝虎側近の直江大和守景綱が雇った飛脚に託し、直和(直江景綱)の飛脚に一書を託したこと、よって、昨15日に沼田の地まで路次中を労せずして罷り着いたこと、御安心してほしいこと、殊に一段と体調も優れ、耳もよく聞こえているので、御喜悦してほしいこと、従って、 屋形様(輝虎)の御威光をありがたく存じ申し上げること、そのゆえは、柿崎からはじまり、各々が餞別以下を贈りたいと、しきりに申し出られるも、 屋形様から路銭を過分に頂いているので、ゆめゆめに餞別ついては、御無用であると断ったこと、それでも、柿崎(柿崎景家の本拠)にては鶴久尾(鶴首瓶子に入れられた酒。双瓶か)を給わり、北条(北条高広の本拠)にては樽酒二苛と馬飼料を給わったので、五郎殿(北条高広の世子である弥五郎景広)へありがたいと、仰せになってもらいたいこと、上田(輝虎の甥である上田長尾顕景の本拠)にては、栗林方(上田長尾家執政の栗林次郎左衛門尉房頼)からは鶴久尾一双(双瓶)を持参(越府からか)されたこと、ならびに蔵田兵部方(輝虎旗本の蔵田兵部左衛門尉)からは白布一端、両金一懸、蘇合圓(丸薬)三貝を給わり、これは沼田の地にて受け取ったこと、これも御礼を頼み入ること、当地沼田にては、各々へ河伯(河田伯耆守重親)・光清(小中大蔵丞であろう)・石見方(松本石見守景繁)の重職は言うに及ばず、いずれ(そのほかの沼田城衆)も懇意にもてなしてくれて、断り切れなかったこと、それでまた、進隼方(進藤家清)は、 (輝虎の)御諚とは言いながらも、ますます懇切にしてくれていること、御安心してほしいこと、この通りの趣を、山吉殿(輝虎最側近の山吉孫次郎豊守)・直江殿(同じく直江大和守景綱)・鯵清(輝虎側近の鯵坂清介長実)の各々へ御雑談を頼み入ること、御失念しないでほしいこと、一、南方の様子については、(相州北条)氏政は今なお(駿河国薩埵山に)在陣していると、いよいよの勝事(耳目を集める名誉を迎える時)であり、明日は爰元を罷り立つので、(大役を果たして)帰寺のうえ、めでたく申し承ること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』746号「本庄美作入道殿 御宿所」宛「広泰寺昌派」書状)。


〔本庄繁長の叛乱の鎮定に協力した出羽国の味方中である大宝寺氏との通交〕

5日、これより前に、出羽国大浦の大宝寺氏の重臣である土佐林能登入道禅棟(杖林。出羽国田川郡の藤嶋城を本拠とする)の許へ使僧の広泰寺昌派を派遣したところ、土佐林禅棟の世子である土佐林宮内少輔氏慶から、越後国上杉家側の取次である河田豊前守長親(輝虎の最側近)へ宛てて返状(進上書)が認められ、(河田長親から)尊書ならびに段子一巻を下されたこと、とりもなおさず拝受し、過当至極で畏れ入る思いであること、もとより、このほど村上山(越後国瀬波(岩船)郡小泉荘)の地の本意を遂げられ、速やかに御馬を納められたのは、吾等のような陪臣までも、御めでたく喜ばしい思いであること、されば、広泰寺を差し越しなされたのは、杖林(土佐林禅棟)もひたすら畏れ入ると、語っていること、確かにこちらから申し上げること、これらの趣を適宜に(輝虎へ)御披露に預かりたいこと、これらを恐れ畏んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』735号「進上 河田豊前守殿」宛土佐林「宮内少輔氏慶」書状【封紙ウハ書「進上 河田豊前守殿 土佐林 宮内少輔氏慶」】)。

同日、土佐林家中の竹井大和守時友から、河田豊前守長親へ宛てて返状(進上書)が認められ、(河田長親からの)御書を謹んで拝読、ありがたき次第であること、もとより、このたび(昨冬)藤懸の地へ御助勢の件(村上本庄方から奪還)を、(輝虎から)杖林斎の所へ仰せ付けられたにより、同名掃部助(土佐林時助)に差し添え、小人数を向かわせたこと、間もなくして彼の地(藤懸城)が落居し、(輝虎の)尊慮の下に復帰させて、御喜悦しているそうであり、広泰寺をもって御音信を野拙(竹井時友)のような陪臣にまで仰せ下され、そればかりか御脇差を拝領致し、身に余る栄誉とはこの状態をいうこと、何はなくとも、あれこれ御礼申し上げるので、適宜な御披露に預かりたいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』738号「河田豊前守殿」宛竹井「太和守時友」書状写)。

7日、土佐林杖林斎禅棟から、年寄衆の柿崎和泉守景家・山吉孫次郎豊守・直江大和守景綱へ宛てて返状が認められ、仰せの通り、このたび本庄(越後国村上城)へ向かって御屋形御自身(輝虎)が御馬を進められたので、内々にすかさず御加勢に及ぶべきところ、(最上山形勢への手当てのために出羽国内の)清水・鮭延(ともに最上郡)のほか数ヶ所に番手を差し置き、これにより、余力がなく少々の御助勢に留まったこと、(それでも)御一礼のために広泰寺を差し下されたので、名誉も実益も得られて恐縮しきっていること、わけても御具足を拝領し、ありがたき次第であること、これらのところを適切に御取り成してもらえれば、祝着であること、何はなくとも、御軍旗を納められて御めでたいところを、こちらから申し上げること、その際には、なおもって御理解されたうえでの御披露を仰ぐところであること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』740号「柿崎和泉守殿・山吉孫次郎殿・直江太和守殿」宛土佐林「杖林斎禅禅棟」書状写)。

同日、土佐林禅棟から、先だって使節として出羽国大浦へ下向した高橋某(越後国一宮・弥彦神社の宮司か)・広泰寺昌派へ宛てて返状が認められ、この間は長々と御在陣のところ、とかく忙しさに取り紛れていたゆえ、無沙汰をしたようで、不本意であること、よって、大川殿(揚北衆の大川三郎次郎長秀。越後国瀬波(岩船)郡の藤懸城を本拠とする)の舎弟両人の件については、愚入(土佐林禅棟)の意見をもって(大川領内へ)還住させるようにと、(輝虎から)承ったので、色々と両名に働き掛けると、孫太郎方(大川長秀の長弟)は罷り帰られると(孫太郎一味の)協議で決まったこと、まずもって貴僧(広泰寺)が御下向の相当な成果であるかと思われること、そうしたところ、藤七郎方(同じく次弟)についても、(孫太郎と)同様に(大川領内へ)帰られるべきであるにより、これまた様々に説得を試みたとはいえ、(土佐林禅棟の)説得の内容には異議などがあるとして、納得しないこと、拙子(禅棟)に手落ちがあったゆえに、(説得が)不調に終わったのだと、御奉行衆(年寄衆)に疑念を持たれているのではないかと思い、もしそうであるならば、諏訪上下大明神・八幡大菩薩の御照覧あれ、まったくもって手抜かりはないこと、幸いにも御両所(高橋某・広泰寺昌派)が御逗留中に、某(土佐林禅棟)の精励している様子を、深く御見聞されたはずなので、よくよく御口添えしてほしいこと、殊に彼の両人(大川孫太郎・同藤七郎)の今後の身の振り方について、どこかへ奉公に罷り出ると申されているところを、貴府においてはいぶかしんでいるようであると承ったこと、そのような事実は存じ上げないこと、もしそうであったとしても、(禅棟が)爰許(藤懸城)に在陣中であるからには、(大川両舎弟を)どこへも移らせないので、御安心してほしいこと、連綿と(輝虎から)道理を説かれているにおいては、どうして異議に及ばれるであろうかという思いであること、それを御理解されるのが尤もであること、かねてまた、庄内(大宝寺氏)は格別にほかとは異なり、(越後国上杉家と)話し合っていくつもりなので、御同意してもらえれば本意であること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている。さらに追伸として、野拙(土佐林禅棟)が(越後国上杉家との)交誼を疎かにしていない旨を、各々(越府の要人)へ御説明してもらいたいこと、頼み入るばかりであること、これらを申し添えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』741号「高橋様・公泰寺昌派 参御侍者中」宛土佐林「禅棟」書状写)。


7日以降にまとめて発送されたであろう。


〔本庄繁長の赦免を仲介した出羽国米沢の伊達家との通交〕

9日、羽州米沢(置賜郡長井荘)の伊達家の老臣である元斎万止から、越後国上杉家の年寄中へ宛てて返状が発せられ、本庄弥次郎方の不忠について、(伊達)輝宗が御赦免の件を仲介に及ばれたところ、(輝虎は)その意に任せられたこと、ひとしお祝着であるのは疑いないこと、今後においては、ますます(越後国上杉家と)当方(伊達家)が御甚深の間柄となれば、大慶であると思われること、当口に関して相応の御用などを仰せ越された際には、閑居(一線を退いた)の身ではあっても、力の及ぶ限り奔走するつもりであること、それからまた、簡中の一種(副食物一式)を頂戴したこと、快然の極みであること、これらの旨を適宜に(輝虎の)御理解を得たいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』743号「上杉殿貴報 人々御中」宛「元斎 万止」書状)。



〔越・相一和に反対する関東味方中の佐竹義重との通交〕

8日、常陸国太田の佐竹義重(次郎)から、取次の河田豊前守長親へ宛てて書状が発せられ、取り急ぎ脚力をもって申し届けること、よって、先頃に小貫佐渡守(頼安)・川井玄蕃允(河井堅忠)を使いとして差し越したところ、輝虎から取り分け御懇切にされたと、言って寄越したこと、誠に誠に本望であること、つまりは各々(越後国上杉家の年寄衆)が色々と世話を焼いてくれたゆえかと、ひとしお太悦であること、あるいはまた、南方(相州北条家)と御一所を取りまとめられると、それが聞こえてきたこと、何れにしても(輝虎が)関東中を思いのままに御平定されるについては、適切であること、このところを御熟慮されるように、各々の手並みにかかっていること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』742号「河田豊前守殿」宛佐竹「義重」書状)。

10日、佐竹義重から派遣された使節の河井玄蕃允堅忠と小貫佐渡守頼安が帰国するのに伴って条書(朱印状)を託し、覚、一、(越・相一和については佐竹義重の)御意見に任せ、南(相州北条家)へ返事をしたこと、この補足として、写物(証拠となる文書の写し)を差し越すこと、一、甲(甲州武田家)からの使者を今後は追い払い、許容しないこと、この補足として、これは相(北条家)への証しであること、一、事の次第を申し合わせるため、(義重と)誓句を取り交わしたいこと、一、相・越両国が無事を遂げるにおいては、かならず関東の諸士になかに表裏を弄する者が現れるはずであるにより、義重と輝虎の間を妨げるであろうこと、このところを弁えられて、毅然とした態度で臨むのが肝心であること、この補足として、相(北条家)があまりにも関東諸士に強圧な振舞いに及ぶなどの背信行為を申し届けてきた場合には、別の問題として対応するべきであろうこと、一、輝虎が越山したならば、義重もすぐに御出馬され、同陣してあれこれ相談したいこと、これらの条々を申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』744号 上杉輝虎条書写)。

17日、佐竹義重の使節である河井玄蕃允堅忠・小貫佐渡守頼安佐頼安が帰国の途に就き、途中の越後国村松(蒲原郡菅名荘)の地から、取次の河田豊前守長親へ宛てて書状が発せられ、このたびの滞在中における数々の御懇意は、誠にもって言葉では表せないものであること、殊に(越府を)罷り立つ折には、(府城春日山から)府内まで一緒に御下りあり、面目を施し、恐縮に思うばかりであること、帰着したうえで、御世話になった様子を、(佐竹)義重に申し聞かせること、それから、案内者を付き添わせてくれたこと、(案内人は)尋常ではない辛労に陥られたこと、痛ましく思うこと、あるいはまた、義重の所から飛脚が立てられたこと、当地村松において(飛脚と出くわし、義重から自分たちへ宛てられた)書中を披読したこと、取り立てて異変はないにより、(この書中も)彼方(飛脚)に託して届けること、(輝虎への)御披露を任せ入ること、貴殿(河田長親)へも(義重が)一札をもって申し述べられること、梅江斎(義重の側近である岡本禅哲)から愚所(河井堅忠・小貫頼安)へ寄越された切紙も御一覧のために届けること、山王山の破却がまずもって肝心であること、このうえの、なおもって絶え間ない御取り成しに極まること、一切を重ねて申し達すること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』747号「河豊 御宿所」宛「河玄 堅忠・小佐 頼安」書状)。


〔棟別銭の徴収〕

20日、国内の諸領主中へ宛てて朱印状を発し、伊勢大神宮の御遷宮のため、当国越後においても棟別三銭を、ひとえにこうなったからには、信心が深ければ率先して上積みするべきこと、よって、執達は前記した通りであること、これらを申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』748号「所々領主中」宛上杉輝虎朱印状【印文「地帝妙」】)。


〔将軍足利義昭の許へ使僧を派遣したのに伴う濃(尾)州織田信長との通交〕

某日、濃(尾)州織田信長の取次である林 次郎左衛門尉へ宛てて書状を発し、上意(将軍足利義昭)の御入洛の御祝儀として、使僧を差し上せること、これにより、信長にも申し届けること、適切に取り成してもらえれば、喜悦であること、されば、(越後国)瀬波産の青鷹(雌鷹)・兄鷹(雄鷹)を一連づつを遣わすこと、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』751号「林 次郎左衛門尉殿」宛上杉「輝虎」書状写【花押a】)。



この間、同盟交渉中である相州北条氏康(相模守)は、今川氏真が越府へ使僧の東泉院を派遣するのに伴い、東泉院のための副状を用意し、閏5月4日、氏康父子が越府へ派遣した天用院に案内者として同道した越後国上杉家の上野国沼田(倉内)城の城将である松本石見守景繁(輝虎旗本)へ宛てた書状を認め、(今川)氏真から越府へ使僧をもって申し届けられること、(遠江国佐野郡の)懸川からの出城の様子を伝えるとともに、とりわけ、一度本意を遂げたにおいては、つまるところ、その国(越後国上杉家)を頼み入るものであり、これは筋目であること、適宜な(輝虎への取り成しの)御奔走が肝心であること、委細は東泉院の口上にあること、従って、天用院の帰路が遅れており、心配していること、氏政は今もって豆州に馬を立てていること、(輝虎の)御手立ての是非を待ち入るばかりであること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』731号「松本石見守殿」宛北条「氏康」書状写)。

同日、氏康の側近である遠山左衛門尉康光が、松本石見守景繁へ宛てた副状を認め、去る18日に、(松本景繁が)塩沢(上越国境の越後国魚沼郡上田荘)から寄越された御書中を、晦日に当地小田原において拝読致したこと、天用院に御同道し、御参府は御足労との思いであること、其元(越府)にていよいよの適切な御取り成しは御手前に懸かっていること、よって、氏真が使僧をもって府中(越府)へ申し達せられること、そのため氏康は副状をもって申されること、従って、氏真は松平(三州徳川家)と一和を遂げ、去る15日に懸川出城は、滞りなく落着し、ただ今は三嶋(伊豆国田方郡)の近所にある沼津(駿河国駿東郡)と号する地に馬を立てられていること、大小事を氏政とよく話し合われて、薩埵・蒲原をはじめとした国中の要所の維持運営を堅固に申し付けられたこと、このうえは氏真が本意を遂げるのは、屋形様(輝虎)の御調策に極まること、委細は来信の時を期していること、これらを恐れ謹んで申し伝えている。さらに追伸として、氏真からの使僧は、富士(五社)別当の東泉院という方であること、万端は彼の口上にあること、以上、これを申し添えている(『上越市史 上杉氏文書集一』732号「松石 御宿所」宛「遠左 康光」書状写)。

同日、相州北条氏康は、由良信濃守成繁(上野国新田郡の金山城を本拠とする上野国衆)へ宛てた書状を認め、氏真から越国へ使いとして、富士東泉院を差し越されること、路次中滞りないように、よくよく申し付けられるべきこと、その地(新田金山城)まで市川半右衛門を差し添えること、委細は遠山左衛門尉(康光)が(紙面にて)申し述べること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』735号「由良信濃守殿」宛北条「氏康」書状写)。


北条氏康が東泉院に新田金山城まで付き添わせた市川半右衛門尉は、相州北条家の御馬廻衆に属する石巻左馬允康敬の同心である。石巻康敬は、同じく家老衆の一員である石巻勘解由左衛門尉康保の弟に当たる(『後北条氏家臣団人名辞典』市川半右衛門の項)。


そして、4日に下総国関宿城に対する付城の王山城を破却した北条源三氏照が、7日、越府の年寄中へ宛てて返状を発し、越・相御一和がまとまるに当たり、沼田衆との内儀に任せ、山王山を破却するとの氏康父子の存分を申し達したところ、(輝虎は)満悦されているとの御状に預かり、本望満足であること、今後においては、ますます諸事を懸命に取り組む思いであること、この旨の(輝虎の)御意を得たいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』739号「越府」宛「北条源三氏照」書状)。



同じく、敵対関係にある甲州武田信玄(徳栄軒)が、閏5月16日、西上野先方衆の浦野宮内左衛門尉(上野国吾妻郡の大戸城を本拠とする)へ宛てて朱印状を発し、やにわに駿州表へ人衆を出したこと、されば、武州筋への手立てとして、浅利右馬助(信種。御譜代家老衆。上野国箕輪城の城代)を箕輪(群馬郡)へ遣わすこと、在所自分の備え、または信玄に対せられる忠節でもあるにより、格別に人数を催され、浅利の指図に従い、表裏なく戦功を励めば、本望であること、これらを恐れ謹んで申し伝えている。さらに追伸として、掌中の瘡ができてしまったので、印判を用いたこと、これらを申し添えている(『戦国遺文 武田氏編二』1413号「浦野宮内左衛門尉殿」宛武田「信玄」書状)。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『戦国遺文 武田氏編 第二巻』(東京堂出版)
◆『能代市史 資料編 古代・中世一』(能代市)
◆『後北条氏家臣団人名辞典』(東京堂出版)

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