越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎(謙信)の年代記 【永禄4年10月~同年12月】

2012-09-07 22:24:45 | 上杉輝虎の年代記

永禄4年(1561)10月11月 山内(越後国)上杉政虎(弾正少弼)【32歳】


10月5日、下総国古河城(葛飾郡)に在城する関白近衛前久(これ以前に実名を前嗣から前久に実名を改めた。この8月に上野国厩橋城から古河公方足利藤氏・前関東管領山内上杉光徹(憲政)らの居る古河城へと移ってきた)から書状が発せられ、このたび信州表において晴信(甲州武田信玄)と一戦を遂げ、見事に大勝されて八千余の敵兵を討ち取られたとのこと、稀有に勝れて大いに喜ばしいこと、取り分け珍しい振舞いではないが、自ら太刀打ちに及ばれたのは、類まれなる偉業であり、天下の名誉であること、よって、祝儀として太刀一腰・黒毛の馬一匹を贈ること、また、当表については、氏康(相州北条氏康)が松山口(武蔵国比企郡)に在陣を続けているため、不穏な様相を呈しており、万が一でも対処が遅れるようであれば、大事に至ってしまうので、抜かりなく速やかに関東越山するべきこと、とにかく手前では不穏な流言が飛び交っている状況なので、一刻も早い越山を心待ちにしていること、なお、詳細は西洞院左兵衛督(時秀。この頃に時当と改めるか。近衛家の家礼)が書面で伝えること、これらを恐れ謹んで伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』290号「上杉殿」宛近衛「前久」書状)。

これを受けて慌しく出府すると、13日、留守衆の直江大和守実綱(大身の旗本衆)・荻原伊賀守(掃部助の後身。大身の旗本衆)・蔵田五郎左衛門尉(実名は秀家か。府内代官)へ宛てて条書を発し、一、越前守(上田長尾政景。譜代衆。越後国坂戸城主)に上田領内の没収地を返還するため、現在の給人衆に宛行う代替地(三百貫文分)の目録を蔵田が作成して、こちらへ送付するべきこと、この補足として、善根分及び、不要の闕所地も記載するべきこと、一、上田領の百姓中に年貢の納付をきつく催促するべきこと、一、必ず春日山に在城するべきこと、この補足として、冬期の農作にかからせるべきこと、一、春日山城の要害機能を怠りなく補強するべきこと、一、府内近郊の者でさえ出陣に間に合わず、なおさら直江の者(直江実綱の同名・同心・被官集団の与板衆を分けて従軍させたのか)も姿を見せないのであり、直ちに追行させるべきこと、一、山吉(大身の旗本衆である山吉孫次郎豊守か)を越中国に進駐させるべきこと、この補足として、越中国人質共の監視に留意するべきこと、一、府内・春日町の富裕層、同じく国分寺・至徳寺に手配させて、鉄砲を調達するべきこと、この補足として、春日町についても同前であり、この外については言及しないこと、これらの条々を指示した(『上越市史 上杉氏文書集一』291号「直江大和守殿・萩(荻)原伊賀守殿・蔵田五郎左衛門尉殿」宛上杉政虎条目【署名はなく、花押(a3影))のみを据える】)。


15日、関白近衛前久が、古河公方の宿老である簗田中務大輔晴助(もとは下総国関宿城主。相州北条氏に擁立されて関宿城を御座所としていた古河公方足利義氏は、この年の7月頃に小金城へと移っている)へ宛てて返書を発し、当城(古河城)において、不穏な動きがあるとの風説を、わざわざ注進してくれたので、今置かれている状況を把握したこと、今夜については厳重に警戒すること、明日は当城に参上するそうであり、その心掛けは殊勝で頼もしいこと、これらを謹んで伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』292号「簗中殿」宛近衛「前久」書状 端見返しウハ書「簗中殿 前久」)。

20日、関白近衛前久が、下野国衆の小山弾正大弼秀綱(下野国祇園城主)へ宛てて返書を発し、このたび音信として酒樽以下を贈ってくれたので、ひたすら喜んでいること、なお、詳細は(簗田)晴助が書いて伝えること、これらを謹んで伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』294号「小山弾正大弼殿」宛近衛「前久」書状写)。


11月に入って上州に着陣すると、16日、上野国一宮貫前神社(甘楽郡)の宮司である一宮神太郎氏忠へ宛てて書状を発し、昨晩は真夜中にもかかわらず、殊勝にも社殿において戦勝を祈願してくれたのは、先例に倣っためでたいもので、実にめでたいこと、今後よりいっそう祈念に励むべきこと、これらを恐れ謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』295号「一宮神太郎殿」宛上杉「政虎」書状【花押a】)。

その後、武蔵国松山城(比企郡)の救援のために武州へ進撃し、生山(児玉郡)に布陣した。27日、生山から後退する際、相州北条軍の追撃に遭って利根川端まで追いやられる。



この間、上州へ出陣してきた甲州武田信玄(徳栄軒)は、10月朔日、上野国衆の諏訪氏(上野国諏訪城主)の一族である諏方(下諏方)宰相へ宛てて証状を発し、このたび企てた計策を実行してくれれば、間違いなく先約を果たすこと、もしも謀議が露見して在所から退出せざるを得ない場合には、信州において三百貫文分の地を、必ず給与することを申し渡している(『戦国遺文 武田氏編一』754号「諏方宰相」宛武田「信玄」判物)。

晦日、京都清水寺(愛宕郡)の本願職である成就院へ宛てて書状を発し、恒例の使僧が到来したこと、取り分け本尊像・巻数・扇子・杉原紙ならびに綾織物一端を給わり、めでたく満足であること、よって、このたび越後衆が信州に出張してきたところ、馳せ向かい、一戦を遂げて勝利を収め、敵兵三千余人を討ち取ったこと、まさに当陣営の皆々の鬱憤が一掃されるのも間近であろうこと、よって、当年に寄進させてもらった信濃国伊那郡面木郷に御入部されたのは、めでたく喜ばしいこと、これ以外にも一万疋分の地を寄進するべきところ、まだ越後衆の残党が市川(高井郡)・野尻(水内郡芋河荘)の両城に立て籠もっており、きっと降雪期が終われば退散するであろうから、その折には名所を明示し、改めて寄進するつもりであること、これらを恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文 武田氏編一』759号「成就院」宛武田「信玄」書状写)。

11月2日、信濃国松原諏訪神社(佐久郡)に願文を納め、このたび卜問で最吉を得たにより、当軍勢を率いて上州へ向かうなか、松原上下大明神宝殿に詣でたこと、その意趣は、おおよそ上野国西牧(甘楽郡下仁田)・同高田(同菅野荘)・同諏方(碓氷郡安中)の三城の攻略を二十日を経ずして、あるいは幕下に降すか、あるいは攻め滅ぼすかしたら、ひとえに当社を保護するつもりであること、一、来る三月に三十三人の出家衆を集め、松原宝殿において、三十三部法華妙典を読誦すること、一、太刀一腰・神馬三匹を御奉納すること、このうち一匹は永禄5年2月5日に、残る二匹は諏方城の落着後に御奉納すること、これらの条々を神名に誓っている(『戦国遺文 武田氏編一』760号 武田「信玄」願文)。

9日、西上野先方衆の鎌原宮内少輔(上野国鎌原城主)へ宛てて返書を発し、翰札の趣旨を披読したこと、その地域の諸士への調略が進んでいるかどうかを知りたく、調略の達成が不可欠であること、このたび氏康から合力を急かされたので出馬したこと、今が絶好の機会であり、年を越そうとも調略を施されて、ひたむきに忠信を励むに極まること、なお、詳細は飯富(兵部少輔。譜代衆)・甘利(昌忠。同前)が書面で伝えること、これらを恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文 武田氏編一』808号「鎌原宮内少輔殿」宛武田「信玄」書状写)。

同日、上野国衆の浦野中務少輔(箕輪長野氏の与力。上野国大戸城主)へ宛てて返書を発し、懇ろな返書を披読したので、めでたく満足であること、にわかに氏康への加勢として出馬したこと、互いに申し合わせた計策を、この時節に相違なく実行に移すのを念願していること、なお、委細は甘利(昌忠)の方から書面で伝えること、これらを恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文 武田氏編一』807号「浦野中務少輔殿」宛武田「信玄」書状写)。


※ 807・808号文書については、鴨川達夫氏の著書である『武田信玄と勝頼 ー文書にみる戦国大名の実像』(岩波新書)の「第一章 信玄・勝頼の文書とは 四 年代の判断」に従い、永禄4年の発給文書として引用した。


13日、上野国長年寺(群馬郡)に制札を掲げ、当手の人数については、長年寺の寺中において狼藉を働いてははならず、もしも違犯する輩があれば、厳しく処断することを申し渡している(『戦国遺文 武田氏編一』761号 武田信玄制札写)。

19日、鎌原宮内少輔へ宛てて書状を発し、このほど其許の施した調略が奏功し、諸士が挙行の時機を誤らないようであれば、本望であること、当表の経略は筋書き通りに進捗していること、取り分け高田城(もとは箕輪長野氏の与力であった上野国衆・高田繁頼の本拠地)が降伏したので、今日は人馬を休め、明日からは国嶺(峰)領(上野国衆・小幡三河守の本領。甘楽郡額部荘)を攻めるつもりであること、近日中に当軍勢を分かち、その方面へ派遣するので、いよいよ経略が成就するように、抜かりなく計画を進めるべきこと、これらを恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文 武田氏編一』762号「鎌原宮内少輔殿」宛武田「信玄」書状写)。

25日、上野国一宮貫前神社(甘楽郡)に高札を掲げ、当社における甲・信両国軍勢の乱妨狼藉と社壇の破却を停止し、もしも両条に違犯する徒輩がいれば、罪科に処することを申し渡している(『戦国遺文 武田氏編一』763号 武田家高札)。

その後、越後国上杉軍を武蔵国生山(児玉郡)の地で撃破した相州北条軍と合流し、上杉陣営の上野国倉賀野城(群馬郡)を攻めている。


越後国上杉軍を迎撃した相州北条氏政(新九郎)は、28日、大身の太田豊後守(実名は泰昌か。松山衆)に感状を与え、昨27日に越国衆(越後衆)が武州生山へ備えを挙げたので、旗を進めて敵を敗北させると、激しく押しまくり、利根川端まで追い詰め、力の及ぶ限り奮闘されたとのこと、その戦功は並外れた殊勲であることと、今後ますます忠節を尽くすべきこと、これらを申し渡している(『戦国遺文 後北条氏編一』729号「太田豊後守殿」宛北条「氏政」感状写)。

同日、同じく小畑太郎左衛門尉(実名は泰清か)に感状を与え、昨27日、武州生山において越国衆を追い崩した際、敵一人を討ち取ったのは忠節であること、今後ますます奮励すれば、必ず恩賞を与えること、これらを申し渡している(『戦国遺文 後北条氏編一』728号「小畑太郎左衛門尉」宛北条「氏政」感状写)。

同日、陪臣の小野藤八郎に感状を与え、昨27日、武州生山において越国衆を追い崩した際、数ヶ所の戦傷を被りながらも、本江(本郷か)を討ち取ったのは名高い殊勲であること、はなはだ感悦していること、今後ますます奮励すれば、必ず恩賞を与えること、これらを申し渡している(『戦国遺文 後北条氏編一』726号「小野藤八郎」宛北条「氏政」感状写【署名はなく、花押のみを据える】)。

同日、同じく桜井左近(江戸衆)に感状を与え、昨27日、武州生山において越国衆を追い崩した際、敵一人を討ち取ったのは忠節であること、今後ますます奮励すれば、必ず恩賞を与えること、これらを申し渡している(『戦国遺文 後北条氏編一』725号「桜井左近」宛北条「氏政」感状【署名はなく、花押のみを据える】)。

同日、同じく良知弥次郎に感状を与え、昨27日、武州生山において越国衆を追い崩した際、戦傷を被ったのは忠節であること、今後ますます奮励すれば、必ず恩賞を与えること、これらを申し渡している(『戦国遺文 後北条氏編一』727号「良知弥ニ郎」宛北条「氏政」感状写【署名はなく、花押のみを据える】)。



永禄4年(1561)12月 山内(越後国)上杉政虎(弾正少弼)【32歳】


利根川を渡って態勢を立て直したあと、上野国倉賀野城を攻撃した相州北条・甲州武田連合軍と対峙するなか、7日、相・両甲軍の攻撃を凌いだ倉賀野衆の橋爪若狭守に感状を与え、このたび氏康(相州北条氏康)と晴信(甲州武田信玄)がその地(倉賀野城)を取り詰めたところ、皆々が奮闘して要害を堅持したのは、実に殊勝であること、いよいよ忠節を尽くすべき時であること、この戦陣が思い通りに決着したあかつきには、忠賞として一所を宛行うこと、これらを申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』296号「橋爪若狭守とのへ」宛上杉政虎感状【署名はなく、花押(a3)のみを据える】)。

9日、関白近衛前久・古河公方足利藤氏・前関東管領山内上杉光徹(号成悦・光徹。五郎憲政・憲当)の警護役として古河に在城する長尾右京亮景信(古志長尾景信。別格の縁者。一家衆・上杉十郎の父)へ宛てて返書を発し、 上意の件(このたび寄せられた近衛前久の懸念)は御尤もであり、これ以上は陣容の御不足を感じさせないように手を尽くすこと、当口(西上野)に晴信(甲州武田信玄)と氏康(相州北条氏康)が連合して攻め込んできたが、政虎の堅陣の前に、今日に至るまでなす術なく時日を送っており、間もなく敗走するはずなので、其元(古河城)の情勢も安定に向かうであろうこと、いずれにしても公方様(足利藤氏)の御進退については、簗田(中務大輔晴助)に一任するので、諸人に念入りに申し上げるべきこと、この状況であれば、敵は敗軍するであろうから、政虎は翌日には、(当陣営から離脱した)佐野(下野国衆の佐野小太郎昌綱。下野国唐沢山城主)を攻めるので、途中に古河へ立ち寄って 公方様の御前に伺候すること、このように戦線は改善されるので、いささかも心配いらないこと、これらを謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』297号「長尾右京亮殿」宛上杉「政虎」書状)。


同じ頃、関白近衛前久が、古河公方足利藤氏の家宰である簗田中務大輔晴助へ宛てて誓詞を遣わし、一、威光(足利藤氏)と結び付きを深めるからには、(簗田)晴助父子に対しても、未来永劫にわたって御懇切に接するつもりであること、この補足として、もしも身辺に邪心を抱く徒輩が居れば、速やかに御前から遠ざけられること、一、どのような勢力が奸計を巡らしてきても、御賛同せずに晴助へ包み隠さず通報されること、そのうえで、どのような御隠密の事柄でも、必ず御談合されるつもりであること、一、満南の件(簗田の関係者で何らかの理由により、政虎の怒りを買って追放されたらしい)については、復帰が叶えられるように、(関白が)政虎の説得に尽くされて、たとえ(政虎の)同意を得られなかったとしても、(関白は簗田を)見放したりはしないし、この件をなおざりにもしないこと、これらの三ヶ条を神名に誓っている(『上越市史 上杉氏文書集一』304号「簗田中務太輔殿」宛近衛「前久」起請文)。

10日、近衛前嗣が、上野国衆の横瀬雅楽助成繁(上野国金山城主)へ宛てて返書を発し、このたびの言上の向きは、殊勝な心掛けであること、よって、敵方に寝返る徒輩が増えているなかで、格別な忠信を励み続けているのは、唯一無比であること、当城(古河城)については、内情に気苦労が絶えないこと、委細は西洞院左兵衛督(実名は時秀。この頃に時当と改めるか)が書面で伝えること、これらを謹んで伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』298号「横瀬雅楽助殿」宛近衛「前嗣(ママ)」書状写)。


15日、改めて倉賀野衆の橋爪若狭守に感状を与え、このたび両敵(甲州武田・相州北条連合軍)が倉賀野を攻め囲んだところ、(城主の)左衛門五郎(倉賀野直行。上野国衆・和田業繁の実弟か)に意見具申して、要害の堅持に貢献したのは、並外れて健気な忠信であること、これにより、先般の要望に沿って原孫三郎分の地を宛行うこと、このほど皆々へ配当の判形を下したうちでも、この先に離反者がでれば、その分の知行は其方(橋爪若狭守)へ与えること、今後ますます忠功を励むべきこと、これらを申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』299号「橋爪若狭守とのへ」宛上杉「政虎」感状【花押a3】)。

この15日前後に甲州武田・相州北条連合軍が倉賀野表から退散すると、相州北条方の下野国衆・佐野小太郎昌綱が拠る下野国佐野の唐沢山城(安蘇郡佐野荘)に攻め寄せた。

21日、関東味方中の足利長尾但馬守当長(下野国足利城主)の被官である稲垣新三郎に感状を与え、このたびその地(足利と佐野の境目の城砦か)において格別な忠信を励んだのは、並外れた殊勲であること、とにかく其元(越後衆の計見・吉江と足利衆の一部が守る城砦)が思い通りに決着したら、忠賞として一所を宛行うこと、今後ますます計見(出雲守。譜代衆)・吉江(中務丞忠景。大身の旗本衆)に与力して奮励するべきこと、これらを申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』300号「稲垣新三郎とのへ」宛上杉政虎感状写【署名はなく、花押(a3)のみを据える】)。


同日、吉江忠景が、稲垣新三郎に宛行状を手渡し、このたび数多くの傍輩衆が離反するなか、類を見ないほど籠城に奮励されたので、恩賞として熊野堂(下野国安蘇郡佐野荘か)の猪俣分を宛行うこと、今後ますます忠信を励まれるべきこと、これらを恐れ謹んで伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』301号「稲垣新三郎殿」宛吉江「忠景」宛行状写)。


その後、佐野から退陣し、年越しのために上野国勢多郡の三夜沢神社周辺に宿営する。

この12月中に将軍足利義輝との間で使者の往来があり、足利義輝から一字を付与されて、26日以前に実名を輝虎と改める。


26日、古河在城の上杉光徹(憲政)から、取次の河隅三郎右衛門尉(輝虎側近の河隅三郎左衛門尉忠清であろう)へ宛てて書状が発せられ、このたび初めて(河隅忠清に)取り次ぎを依頼したこと、爰元(古河城)は越年もままならないほどに難儀していること、近辺の要害から三千疋の援助が寄せられるも、世上の悪化によって効果的に活用できなかったこと、明年まで余日幾ばくもないところ、このように訴えなければならない窮状を察してほしく、輝虎と年寄中が談合して対処してもらいたいこと、委細は彼の使者が口上に申し含めたこと、これらを謹んで伝えられている。さらに追伸として、返す返すも、このままでは越年も覚束ないので、ひたすら輝虎の理解を得られるように、皆々で相談し合って取り成してもらいたいことと、使用人は金銭を与えても、哀訴して辞去するといった有り様なので、とにかく爰元(古河城)の苦境を察してほしいことを伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』302号「河角三郎右衛門尉殿」宛上杉「光徹」書状)。


27日、関東陣に従軍した年寄衆の北条丹後守高広(譜代衆)・河田豊前守長親(大身の旗本衆。妻は北条高広の三女と伝わる。上野国厩橋城代)」を奉者として、上野国三夜沢小屋(勢多郡)に制札を掲げ、当地における越後・関東の諸軍勢の濫妨狼藉を停止し、もしも違犯する徒輩がいれば、誰人であっても罪科に処することを申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』303号 北条「丹後守」高広・河田「豊前守」長親連署制札)。


28日、足利長尾但馬守景長(これ以前に輝虎から偏諱を付与されて当長から景長に実名を改めた)が、同心の小野寺中務大輔景綱に感状を渡し、このたび赤塚の高瀬屋敷(下野国安蘇郡佐野荘)を散々に打ち破り、数多の敵勢を討ち取られたこと、間違いなく見事な御奮闘であること、召し使われる者共が、なおいっそう奮励するように仰せ付けられるべきこと、これらを恐れ謹んで伝えている(『栃木県史 資料編 中世1』【足地区 佐野市 小野寺文書】24号「小野寺中務太輔殿」宛長尾「但馬守景長」感状)。

同日、長尾但馬守景長が、小野寺中務大輔景綱に証状を渡し、(長尾景長へ)色々と御懇望される権利があるところ、拙領(足利領)に給与するべき適当な知行地が無いため、今現在は境目の地ではあるが、本意を遂げたあかつきには当国の大窪郷(足利郡足利荘)を任せ置くので、なおいっそう御奮励されるべきことを申し渡している(『栃木県史 資料編 中世1』【安足地区 佐野氏 小野寺文書】23号「小野寺中務太輔殿」宛長尾「但馬守景長」充行状)。


この間、甲州武田信玄(徳栄軒)は、2日、下諏方宰相へ宛てて朱印状を発し、このたびの計策が実現したあかつきには、必ず相当の知行地を宛行うことを申し渡している(『戦国遺文 武田氏編一』764号「下諏方宰相」宛武田家朱印状)。


相州北条氏康(左京大夫)は、5日、配下の越智藤八郎に感状を与え、先月27日に武州生山の地において越国衆の一人を討ち取ったのは、はなはだ殊勝であること、今後ますます忠節を励むべきこと、これらを申し渡している(『戦国遺文 後北条氏編一』731号「越知藤八郎殿」宛北条「氏康」感状写)。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『栃木県史 史料編 中世1』(栃木県)
◆『戦国遺文 武田氏編 第一巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 後北条氏編 第一巻』(東京堂出版)

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