越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

上杉輝虎・謙信期の名字 ・一字書出、名字 ・一字状について

2016-09-16 20:54:33 | 雑考

 ここで上杉輝虎・謙信期に発給された名字・一字書出、名字・一字状について考えてみたい。
       
 
〔上杉輝虎期の名字書出、一字状〕

【史料1】色部顕長宛上杉輝虎名字書出(折紙)
        顕長
   永禄七年十二月十九日
       輝虎(花押a)
        色部弥三郎殿


【史料2】安田顕元宛上杉輝虎一字状(折紙)
今度隠遁之供神妙候、依之、一字望候間、顕出候、当家有謂字之由、仰出候也、仍如件、         
    七月廿三日      輝虎(花押a)
      安田惣八郎殿


〔上杉謙信期の一字書出、名字状〕

【史料3】長尾顕景宛上杉謙信書状〈名字・官途状〉(竪紙)
撰吉日良辰、改名字官途、上椙弾正少弼成之候、彼官途者、先 公方様深忠信之心馳依有之、被仰立被下候条、不安可被思事、目出度候、恐々謹言、
    正月拾一日      謙信(花押a影)
     長尾喜平次殿


【史料4】上杉景勝宛上杉謙信書状〈名字状〉(折紙)
任今日吉日、改名乗、景勝可然候、恐々謹言、
    正月拾一日      謙信(花押a影)
     上椙弾正少弼殿 


【史料5】新保孫六(景之ヵ)宛上杉謙信名字状
依仮名之儀望、孫六成之候、謹言、
    六月十六日      謙信御居判
         新保長松丸殿


【史料6】新保孫六宛上杉謙信一字書出
依一字之儀望、景出之候、可存其旨候、謹言、
    六月十六日      謙信御居判
         新保孫六殿


【史料7】安田能元(初名は元兼らしい)宛上杉謙信名字状(竪紙)
仮名依望、弥九郎出之候、謹言
    正月廿八日      謙信(花押a)
       安田久千代丸殿


【史料8】吉江長資(寺嶋長資)宛上杉謙信一字書出(折紙)
就一字望、長出之候、謹言、
    正月廿八日       謙信(花押a)
        吉江亀千代丸殿
(宛所の書き始めの位置は『上越市史』に従った。『新潟県史』では書き始めは廿の位置から)


【史料9】吉江景泰(中条景泰)宛上杉謙信名字状
吉江杢(木工)助好付而、任望景出之候、仮名者与次可然候、謹言、
(日付・宛所を欠く)


【史料10】荻田長繁宛上杉謙信一字書出
依一字望、長出之候、謹言、
  天正五年丁丑
    弐月十七日      謙信(花押a)
     荻田孫十郎殿


【史料11】本田孫七郎(長信ヵ)宛上杉謙信一字書出(折紙)
依一字望、長出之候、亦仮名者孫七郎尤候、謹言
  天正五年
    五月十二日      謙信(花押a)
        本田弁丸殿


【史料12】嶋倉泰忠宛上杉謙信名字状(折紙)
仮名依望、吉三出候、謹言、
    十二月十三日     謙信(花押a)
     嶋倉次郎丸殿
(原本の写真では宛所の書き始めは二と月の間の位置から)


【参考史料】二宮左衛門大夫(長恒ヵ)宛上杉謙信一字状(竪紙)
一字之義、依望長出之候、其旨可被心得候、恐々謹言、
    三月十二日       謙信(花押a)
        二宮左衛門大夫殿


 まずは上杉輝虎・謙信が一族・家臣に与えた名字・一字書出、名字・一字状を、輝虎期と謙信期では書式が異なるため、二期に分けて家柄が高い順に挙げたので、これから検討を進める。

 【史料1】の色部弥三郎顕長は、外様衆(越後奥郡国衆)・色部修理進勝長の嫡男である。永正10年に山内上杉憲房が、色部顕長の祖父にあたる色部弥三郎憲長(遠江守)に与えた名字書出と同じ形式である。こうした名字書出の形式はよくみられるものであり、顕長が元服した際のものと考えられている。そして、永禄9年に顕長自身が実弟の色部惣七郎長実(のち長真)に「長」の一字を付与した際の名字書出も同じような形式(書下年号ではなくて付年号であるが干支が付く)である。

 輝虎期の永禄5年頃に発給されたと考えられる【史料2】の安田毛利惣八郎顕元は、譜代衆(越後中郡国衆)・安田毛利越中守景元の次男であったが、兄(弥九郎・和泉守景広と伝わる)の廃嫡に伴って安田毛利氏を継いだとされる。よくみられるような元服時のものではなく、輝虎が隠遁を図った際、これに随従した安田顕元の忠節に報いたものである。ここに挙げた【史料】の中で唯一、書止文言が「仍如件」である。こうした形式は、天正3年に謙信側近の吉江織部佑景資が、謙信譜代の上野中務丞家成の一族である上野彦九郎に「資」の一字を付与した際の名字状(発給者の「景資」は中条氏に比定されているが、花押形は吉江景資のものである)にもみられる。

 謙信期の天正3年に発給された【史料3・4】の上田長尾喜平次顕景・上杉弾正少弼景勝は、永禄7年に横死した譜代衆・上田長尾越前守政景と謙信の姉(仙洞院)との間に生まれた次男の卯松丸で、謙信にとっては甥にあたる。長尾政景在世時から嫡男として扱われていた時宗丸がいるにもかかわらず、政景の没後には次男の卯松丸(長尾顕景)が上田長尾家を継いだ。そして、天正3年に謙信の養子として迎えられた長尾顕景は上杉景勝を名乗る。この書状(名字・官途状)の書止文言は「恐々謹言」であるが、現存する長尾顕景・上杉景勝宛謙信書状(写しを含む)の書止文言は基本的に「謹言」なので、この名字・官途状が写し取られた際に「恐々謹言」と書き替えられた可能性がある。

 元亀2年から天正3年の間にかけて発給された【史料5・6】の新保孫六は、譜代衆(越後中郡、或いは奥郡の国衆)に属していた。名字状によって新保孫六が元服した際のものと分かる。実名の一字(偏諱)だけではなく、仮名(輩行名)も付与されている。

 元亀2年から天正元年の間にかけて発給されたであろう【史料7】の安田毛利弥九郎能元は、譜代衆(越後中郡国衆)・安田毛利惣八郎顕元の弟であり、名字状によって元服した際のものであることが分かる。もしかしたら、本来は新保孫六のように名字状と一字書出がセットで与えられていたのかもしれないので、一字書出の方は失われてしまった可能性がある。但し、安田能元の初名は元兼と伝わっており、その場合は「元」の一字は毛利安田氏の通字なので、謙信が「元」の一字を付与したものとは考え難い。

 同じく【史料8】の吉江六三長資(寺嶋長資)は、旗本衆・吉江織部佑景資(初名は長資。どちらの実名も長尾景虎(上杉輝虎・謙信)から一字を付与された)の長男であり、のちに越中味方中の神保惣右衛門尉長職(号宗昌)の重臣である寺嶋氏に入嗣したとされる。宛所から吉江長資が元服した際のものであることが分かる。やはり、本来は新保孫六のように名字状と一字書出がセットで与えられていたのかもしれないので、安田能元とは逆に名字状が失われてしまった可能性がある。但し、一字書出の宛所が「吉江六三殿」と書かれていないのが気になる。

 天正元年から同2年の前半までの間に発給されたと考えられる【史料9】の吉江与次景泰(中条景泰)は、旗本衆・吉江織部佑景資の次男であり、外様衆(越後国郡国衆)・中条家に入嗣した。兄の吉江長資と同じく吉江景泰が元服した際のものであることが分かる。但し、天正2年に中条氏を継ぐことを仰せ付けられた文書があるので、この時点では吉江氏であったろう。そして、これまでみてきたものとは異なり、名字状と一字書出が一紙にまとめられている。

 【史料10】の荻田長繁は、旗本衆・荻田与三左衛門尉の次男であり、謙信没後に起こった御館の乱の最中、天正7年2月に上杉景虎方の最有力者である北条毛利丹後守景広に致命傷を与えた際の年齢が17歳であったと伝わっているから、この一字書出を賜ったのは元服時である可能性が高い。やはり名字状が失われたのかもしれない。

 【史料11】の本田孫七郎は、旗本衆・本田右近允(実名は長定か)の嫡男である。中条景泰と同じく名字状と一字書出が一紙にまとめられており、本田孫七郎が元服した際のものであることが分かる。

 天正5年に発給されたであろう【史料12】の嶋倉吉三泰忠は、旗本衆・嶋倉孫左衛門尉泰明(能州畠山家の旧臣とされる)の嫡男である。宛所から嶋倉泰忠が元服した際のものであることが分かる。やはり安田能元と同じように一字書出が失われた可能性がある。但し、「泰」の一字は嶋倉氏の通字のようなので、やはり謙信が嶋倉泰忠に「泰」の一字を付与したものとは考え難い。

 天正元年頃に発給されたと考えられる【参考史料】の二宮左衛門大夫は、越中味方中の神保惣右衛門尉長職(号宗昌)に従属する越中国衆なので、この一字状の書き止め文言は恐々謹言である。謙信は複数の他国衆に偏諱を付与しているとみられるが、これが現存する唯一のものである。


 以上、それぞれの名字・一字書出、名字・一字状について検討してみた。これらは、何れも判物であり、丁重な書式といえるだろう。輝虎期のもの二点については、かなり書式が異なる。これは元服時と忠賞時の違いだろうか。輝虎期から大きく変容した謙信期のものについては、家柄によって文言と用紙の形態に格差が認められる。受給者のうちの安田兄弟、吉江兄弟、荻田、本田、嶋倉は謙信の近習であったと思われ、そのうちでも名字状と一字書出が一紙にまとめられたものを与えられた者とそうではない者がいる。残念ながら、どうして両方に違いがあるのかは分からない。それから、実名(諱)に加えて仮名(輩行名)も付与された者がいるのは特徴的であり、もしも安田能元と嶋倉泰忠が仮名(輩行名)のみを付与されたのであれば、珍しい事例となる。最後に、まだ輝虎・謙信期ほど強大な権力を有していなかったとはいえ、長尾景虎期にも吉江兄弟の父である吉江景資などの近臣が偏諱を与えられているにもかかわらず、その名字・一字書出、名字・一字状が現存していないのが気になる。これは、たまたま全てが散逸してしまったのかもしれないが、他家では家臣に官途名が口頭で付与されている事例があったというから、もしも偏諱が口頭で付与される場合もあったのならば、それほど家柄の高い越後国衆に偏諱を付与する機会はなかったであろう景虎期には、ほとんどの場合が近臣に口頭で与えていたからではないだろうか。


※ 謙信の後継者の地位を勝ち取った上杉景勝(越後時代)は、おおむね謙信期の書式に則って一字書出、名字状を発給している。謙信が発給したものとの違いといえば、景勝のものには全て付年号が記されていることである。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』445号 上杉輝虎名字書出、996号 上杉輝虎一字状、1211号 上杉謙信軍役状、1241・1242号 上杉謙信書状(写)、1243号 中条景資名字状、1321・1334・1398号 上杉謙信一字書出(影写)、1399号 上杉謙信名字状、1433号 上杉謙信名字状、1434号 上杉謙信一字書出、1464・1470号 上杉謙信名字状 ◆『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2142号 上杉景勝名字状、2253号 上杉景勝一字書出(影写)、2253・2963・2964・3273号 上杉景勝一字書出(写) ◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』別冊 ◆『新潟県史 資料編3 中世一』890・891号上杉謙信書状写 ◆『新潟県史 資料編4 中世二』2041号 上杉憲房名字状写、2052号 色部顕長名字状写 ◆『中世のなかに生まれた近世』(山室恭子 講談社学術文庫)◆『武田信玄と勝頼 -文書にみる戦国大名の実像』(鴨川辰夫 岩波新書)◆『真実の戦国時代』(渡邊大門[編] 柏書房)
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