越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

『上越市史 上杉氏文書集』に未収録の長尾景虎関連文書【1】

2023-10-06 01:20:54 | 雑考


【史料1】天文18年12月 日付内之御座敷番帳写(『新編会津風土記 巻之三』一柳新三郎所蔵文書)
      定 内之御座敷 番帳

    一番  菅若大膳亮方  芹前源七郎   北村源五右衛門

    二番  庄小三郎方   四宮新次郎   鳥居万次郎

    三番  中里小六郎方  船見宮内少輔  気柄孫九郎

    四番  寺内新八方   河隅藤七    備後孫七郎

    五番  吉水小太郎方  長谷川弥三郎  飯田藤六

    六番  於木次郎四郎方 高野新九郎   鹿嶋彦九郎

    七番  右京亮殿    玉虫貞三    吉田新七郎

 二日二夜厳重可有勤番者也、仍如件、

     天文十八年極月 日



 この番帳には発給者は記されていないが、番衆に庄・船見・河隅・飯田・玉虫・吉田といった名字を見た途端に長尾・上杉氏関連の文書であろうと思い、謙信期以前にほかにも該当する名字がないかを調べてみたところ、北村・備後・長谷川・於木(小木)・高野・鹿嶋も越後衆のうちに確認ができた。
 長尾・上杉氏関連の文書であると確信を持てたのは「船見宮内少輔」と「鹿嶋彦九郎」の存在であり、前者は謙信期に旗本部将として現れる「船見宮内少輔」(『上越市史 上杉氏文書集』1149号)の前代に当たるのであろうし、後者に至っては、高野山清浄心院に供養依頼者として、番帳とほぼ同時期の天文16年正月12日には「クヒキ(頸城)カシマ彦九郎」、同じく20年8月5日には「春日山カシマ彦九良」と記されており(越後過去名簿)、本人そのものであろうことからである。
 年次は天文18年ということで、時代は越後国守護上杉定実(号玄清)・同守護代長尾景虎期となり、船見と鹿嶋のように同じ通称とまではいかないが、輝虎期から見える旗本衆の河隅三郎左衛門尉忠清・飯田孫右衛門尉長家(『上越』409・1128号)と同姓の者が記されていることからして、景虎の旗本衆も複数いたであろう。

※ 明応6年7月5日の古志長尾氏の役銭注文(『新潟県史 資料編3』841号)における古志衆のうちに「北村八郎右衛門方」・「北村兵衛五郎」、享禄3年11月6日に長尾為景に対抗したが敗れて会津方面へ逃れた一派のうちに「寺内長門守」(『新潟県史 資料編5』3756号)、永禄12年(元亀元年であろう)8月13日(『上越』788号)に外様衆の相論に一方の取次として関与した直江大和守景綱の被官で使者を務めた「寺内方」、建武3年2月に北朝方の色部高長・加地景綱らと戦って西古志郡島崎城を攻め落とされた南朝方のうちに「小木」(『新潟県史 資料編4』1051号)、明応年間頃の蒲原郡之内白河庄・金津保・菅名庄・長井保・青海庄・五十嵐保・加茂庄段銭帳(『新潟県史 資料編 補遺』4450号)に「備後方」・「中里式部丞方」・「中里六郎左衛門尉方」、文明年間後期の長尾・飯沼氏等知行検地帳(『新潟県史 資料編3』777号)に越後国守護代長尾能景被官の「河隅弥十郎」、同じく「玉虫新左衛門尉」、古志郡内の小領主の「玉虫与五郎」(「国衙之帳」(『新潟県史 資料編4』1992号)にも「玉むし与五郎殿」が記されている)、永正15年5月11日に高野山清浄心院に供養依頼がされている「コシ(古志)ノ郡タカナミ(高波)ノ内ニシハラ(西原)ハセ川藤左衛門」(越後過去名簿)、吉田に至っては、上杉定実・長尾為景期の奉行人であった「吉田藤三景親」・「吉田孫左衛門尉景重」(『新潟県史 資料編3』533・534号)をはじめとして枚挙に遑がない。

※ 菅若・芹前・気柄という名字は見当たらないので、誤写の可能性があろう。菅若・気柄については思い浮かばないが、芹前は芹沢あるいは花前が正しいと思われる(『新潟県史 資料編5』3483号、『上越』1229・2096号)。

※ 庄は、長尾景虎旗揚げ時からの重臣である本庄新左衛門尉実乃が初期に庄名字も用いており、栃尾本庄系図(『越後入廣瀬村編年史』)によると、栃尾本庄氏は武蔵七党の有道姓庄氏の流れという。

※ 高野といえば、三浦和田黒川氏の族臣であり(『新潟県史 通史編2』)、のちに上杉景勝に殉じた高野孫兵衛尉茂時(「御家中諸士略系譜」)の「茂」の一字は三浦和田氏の通字の一つであるから、黒川高野一族から主家を離れて守護上杉家の直臣となった者の流れなのかもしれない。高野茂時との関連は分からないが、高野山清浄心院には天文6年4月15日に逆修供養を依頼した「カハノサワ(樺沢)高野又六」が記されている(越後過去名簿)。

※ 船見宮内少輔規泰は、甲州武田晴信の信州奥郡侵攻により、長尾景虎を頼って亡命した信濃衆のうち、須田相模守満国の弟である順渡斎(俗名は満泰と伝わる)の息子で、時期は不明であるが、須田氏が越後国に移ったされる天文22年以降に先代の船見宮内少輔が死去すると、その幼若の男子が長じるまでの間、規泰が宮内少輔の娘を娶わせられて婿名跡となり、船見宮内少輔規泰を名乗ることになったという(「須田拓也氏所蔵須田氏系図」●『謙信公御書集』も実名を規泰としている)。船見規泰は元亀4年4月に旗本部将として見えるのが初見であり、元亀3年の謙信による越中国富山表での加賀・越中両国一向一揆との決戦に従軍したことが分かる。遅くとも上杉景勝期の天正8年4月までには須田相模守満親として須田本家を継いでいる(『上越』1941号)。しかし気になるのは、天正3年上杉家軍役帳と同5年越後・分国衆交名注文では船見氏は名字しか載らず(『上越』1246・1247・1369号)、天正4年の謙信による北陸遠征では船見衆を陣代が率いていることである(『上越』1315号)。考えるに、天正2年中に須田本家は当主に後継の男子がいないままで死去したかで、規泰が須田本家を継ぐところとなったが、先代船見宮内少輔の遺児はまだ元服する年齢には達しておらず、船見氏は陣代を立てたような時期だったのかもしれない。



 ところで、【史料1】の番帳は「内之御座敷」の番衆を定めたものであり、この「内之御座敷」とは奥座敷を意味すると思われるので、貴人の生活空間に当たるのであろう。そうなると、守護上杉定実(号玄清)あるいは守護代長尾景虎が起居する部屋の宿直を定めたものとなるのだろうが、越後国の新たな実力者である長尾景虎のために常設の番衆を編成したというよりは、何か臨時の対応に感じられる。
 なぜなら、番衆七番の組頭である「右京亮殿」は、各組頭の敬称が「方」であるのに対し、一人だけそれが「殿」であることと、名字が記されていないことからして、この人物は長尾氏であり、官途名が一致している古志長尾右京亮景信に当たると思われるのだが、その古志長尾氏の当主が常設の番衆を務めるとは考え難く、守護代の宿直を務めるほどには、屋形のそれを務めることには違和感がないためである。
 古志長尾氏の当主である長尾景信が宿直を務めるなどとは、いささか奇妙に思われるかもしれないが、のちに関白近衛前久(前嗣)が景虎の関東経略を支援するために自ら関東へ下向したなかで、下総国古河在城の折に景信が随伴していることからしても(『栃木県史 資料編』132・565号)、この時は宿直を務めたわけではないであろうが、景虎に近しく信頼の置ける景信は、早くから貴人警固にうってつけの人物であったろう。

 そこで気になったのが、次に掲げた文書である。
 

【史料2】天文18年11月15日付上野源六宛大熊備前守朝秀書状(『上越』26号)
今度 屋形様其口御通、千田・犬伏同前、其刷可被成由申入候処、御奏者之方尋御申候処、無用由被申之段、被仰越候間、庄新申理候処、努々さ様之義申たる義無之由、以誓詞被申事候、於此義善悪不被成候叶義候、軍役同前之義候間、急度御調尤存候、於御難渋、何ヶ度可申入候、為其重申入候、恐々謹言、
             大備
    十一月十五日     朝秀(花押)
    上源
      御宿所


 【史料2】は、景虎政権の奉行衆の一人である大熊備前守朝秀が、上杉家の譜代家臣で越後国魚沼郡波多岐荘上野の領主である上野源六家成へ宛てた書状で、【史料1】の前月に発したものとなる。
 この書状によると、先だって守護上杉定実が魚沼郡妻有地域の千田・犬伏、そして上野の地を経由して、どこかへ下向することが決まり、定実に近い大熊朝秀を通じて経路に当たる領主たちへ屋形一行の馳走を申し付けたところ、そのうちの上野家成からは応答がなかったとみえ、大熊が上野へ再通告を発すると、上野は最初の通告を受けてから、やはり奉行衆の一人で上野にとっては景虎との間の奏者で縁戚でもある本庄新左衛門尉実乃に事実確認をしており、本庄実乃から必要なしとの回答を得ているとして、大熊に再通告に対して疑問を呈したことから、驚いた大熊は本庄に問い質すと、本庄は誓詞をもって上野に無用であることを伝えた事実はないと否定したので、大熊は上野へ再々通告を送り、本庄の否認を伝えるとともに、改めて屋形一行の馳走を強く申し付けていることが分かる。
 大熊が上野に対して屋形一行の馳走を「軍役同前」に務めることを指示しているからには、定実が出府するは戦陣ではなく、年末にどこかで長逗留する予定になっていたわけであり、どうも景虎側は定実の下向をあまり望ましくは思っていなかったようにも見えるが、そうと決まって定実の滞在先における番衆を定めたものこそ、【史料1】の番帳ではないだろうか。

 ではなぜ戦陣でもないのに屋形上杉定実が越府を離れたのかといえば、天文18年夏に定実は、相州北条軍の攻勢にさらされている関東管領山内上杉憲政(憲当)から支援を求められ、定実はこの要請に応じて関東へ出馬することに乗り気であったところ(『上越』19号)、前年の守護代長尾晴景・景虎の兄弟抗争において晴景を支持した上田長尾房長・政景父子が、定実の仲介によって景虎が新守護代となることで決着した(『上越』10~12号)のちも、景虎との講和に応じておきながら、講和条件の履行をのらりくらりと先延ばしにして、晴景・景虎兄弟抗争で景虎を支持した魚沼郡堀内地域などの勢力に圧力を加えていたこともあり(『上越』17~20・51号)、定実・景虎が初秋に挙行するつもりでいた関東出馬(『上越』19・82号)を実行に移せなかったようなので、定実は湯治でも兼ねて自ら魚沼郡に赴いて上田長尾父子の懐柔に乗り出したのかもしれないし、天文17年9月に伊達家の親子間の抗争が一応の決着がつき、親の稙宗が退いて子の晴宗に変わったので、十年ほど停滞していた定実が伊達実元を跡継ぎに迎える一件を進展させるため、自ら行動に出たのかもしれない。
 いずれにしても、その後の状況は好転するどころか、一向に上田方が守護代方との講和条件を履行する気配はなく、年末から年明けにかけて、魚沼郡堀内地域の領主の一人である宇佐美駿河守定満が、多功小三郎遺領問題における守護代方の対応への不満からか、上田方へ転じてしまう有様で(『上越市史』42・44・45・96・100号)、ついには実元を越府に迎えることが叶わなかった定実が天文19年2月19日に死去してしまい(「高野山清浄心院 越後過去名簿」)、この腹いせからなのか、翌20年中には伊達と揚北衆の中条弥三郎が申し合わせて、中条の同族で迎養の反対派であった黒川四郎次郎を攻撃している(『上越』83号)。



※ 『上越』51・96・100号の宇佐美定満書状は、天文18年6月に発給された17号の宇佐美定満書状・18号の本庄実乃書状との比較によって、いずれも天文18年に比定できることから、前年の長尾晴景と景虎の兄弟抗争では、小千谷の平子・堀内地域の宇佐美・多功らは景虎に味方したことが分かり、このうち、景虎方の優勢に貢献したであろう平子孫太郎は、景虎一味に宇佐美が誘った多功小三郎は戦死したことから、かつて天文の乱で没収された旧領である多功遺領の押生・田河入の地の回復を求め、これを新守護代の景虎が承認したので、宇佐美は多功遺族のために、景虎と平子に撤回を求め続けるも、全く聞き入れてもらえず、宇佐美は上田長尾氏から圧力を受けていたこともあってか、天文18年暮れから翌19年明けの間に上田方へと転じてしまう。しかし、守護代方が多功遺領問題の解決策を示して帰参を促すようなことでもしたからなのか、もともと上田方に不信感を抱えていた宇佐美は天文20年が明けてから守護代方に復した。という流れになる。



◆『謙信公御書集
東京大学文学部蔵』(臨川書店)
◆ 米澤温故会編『上杉家御年譜 第23巻  上杉氏系図 外姻譜略 御家中諸士略系譜(1)』(原書房)
◆ 新潟県『新潟県史資料編3 中世一 文書編Ⅰ』533号 少林斎顕厳・吉田景親連署段銭預り状、534号 吉田景重書状、777号 長尾・飯沼等知行検地帳、841号 大関政憲外三名連署役銭注文
◆ 新潟県『新潟県史資料編4 中世二 文書編Ⅱ』1051号 色部高長軍忠状案、1992号 国衙之帳
◆ 新潟県『新潟県史資料編5 中世三 文書編Ⅲ』3483号 長尾為景感状、3756号 長尾為景書状写、
◆ 新潟県『新潟県史研究 19』新潟県史 資料編 補遺 4450号 蒲原郡白河庄等段銭帳
◆ 瀧澤健三郎『越後入廣瀬村編年史 中世編』(野島出版)
◆ 上越市史編纂委員会編『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)10号 長尾景虎書状写、11号 本庄実乃書状写、12号 下条茂勝書状、17号 宇佐美定満書状写、18~20号 本庄実乃書状写、42・44・45号 長尾政景書状写、51号 宇佐美定満書状写、83号 黒川実氏(ママ)書状案、96・100号 宇佐美定満書状写、409号 某能信・飯田長家・河隅忠清・五十嵐盛惟連署状、778号 新発田忠敦書状案、1128号 直江大和守景綱・飯田孫右衛門尉長家・河隅三郎左衛門尉忠清連署状、1246・1247号 上杉家軍役帳、1315号 直江景綱等六名連署起請文写、1369号 上杉家家中名字尽手本
◆ 上越市史編纂委員会編『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』(上越市)1941号 上杉景勝制札、2096号 上杉景勝判物写
◆ 栃木県史編纂委員会編『栃木県史 史料編 中世1』(栃木県)【安足地区 足利市 鑁阿寺文書】132号 智(ママ)信書状、565号 景信副状
◆『新潟県立歴史博物館研究紀要 第9号』【史料紹介】山本隆志 高野山清浄心院「越後過去名簿」(写本)
◆ 志村平治著『信濃須田一族 須田相模守満親 信濃に発祥した須田一族、上杉謙信・景勝二代に仕え、豊臣秀吉が認めた須田満親』(歴史研究会出版局)

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