越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎(謙信)の年代記 【元亀2年正月〜同年2月】

2024-01-29 23:56:04 | 上杉輝虎の年代記

元亀2年(1571)正月2月 越後国(山内)上杉謙信(不識庵)【42歳】


正月20日、同盟関係にある相州北条氏政(左京大夫)から(謙信と上杉三郎景虎へ宛てて)書状が発せられ、正月5日の御状を、今20日に駿州御厨(駿東郡)の地において披読し、まさに本望であること、されば、深沢の事態により、内々に御越山を待ち受け、(謙信と)申し合わせて後詰めに及びたいと思っていたところ、要害は地盤が悪く、三十余日も昼夜にわたって攻め込まれ、一曲輪だけにされており、(城衆を)助けなくてはならないとの思いから、後詰めとして、去る10日に小田原を出立し、敵陣五里のうちに詰め寄せたところ、敵が金鑿衆を入れ、本城外張まで穿ち崩すと、城主(北条左衛門大夫綱成)は後詰めを待たずに、我慢が足らず、独断をもって、去る16日に城を出て後退してしまったこと、氏政の考えによる処置では決してないこと、偽りにおいては、八幡大菩薩・愛宕大権現・三嶋大明神の御罰をたちまちに蒙られるべきこと、とりわけ、敵は(深沢)要害を再興するつもりでいるのか、今だに深沢の地に在陣しており、来る日も来る日も双方へ備えを出し、爰元へは遠物見を差し向けて動静を探っていること、(武田軍が要害を再興するとの予想にも)一理はあろうこと、このような事情を踏まえたうえで、早々の御越山を願うところであること、誠に深雪で馬足が捗らないところ、その事情を深く弁えたうえで、(越山以外に)選択される余地はないと思われること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』1018号「山内殿・三郎」宛北条「氏政」書状)。



相州北条軍の駿河国駿東郡における二大拠点の深沢城(北部)と興国寺城(南部)は、昨年末から甲州武田軍の再度となる攻撃を受けていた。


23日、友好関係にある濃(尾)州織田信長(弾正忠)から書状(謹上書)が発せられ、昨年の秋以来、音問が遠ざかっていたこと、心外の極みであること、よって、陸奥へ鷹を尋ね求めるため、鷹師両人を差し下すこと、過書、同じく路次番などの頼み事に、結構な御言葉を加えてもらえれば、本望であること、従って、豹皮二枚を差し上げること、所有してもらいたいこと、なお、追って申し述べるつもりであること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』646号「謹上 上杉弾正少弼殿」宛織田「弾正忠信長」書状)。


謙信と信長が直書を取り交わしているなかで、どういう事情によるものか、当文書と、永禄12年もしくは元亀元年と推定される10月22日付謙信宛信長書状(『上越市史 上杉氏文書集一』では永禄12年に置かれている819号)だけは謹上書である。この前後に見える謙信宛信長書状は通常通り、署名は官途を書かずに「信長」と実名のみで、宛名は「上杉弾正少弼殿 進覧之候(進之候)」と脇付けが書かれている。

※ 当文書を『上越市史 上杉氏文書集一』は永禄12年に置いているが、奥野高広『増訂 織田信長文書の研究 上巻』(吉川弘文館)における信長の花押形による年次比定に従い、当年の発給文書として引用した。そして、10月22日付謙信宛信長書状の年次比定が、永禄12年もしくは元亀元年に推定される、と記されているのは、木村康裕氏の論集『戦国期越後上杉氏の研究 戦国史研究叢書9』(岩田書院)における「第二章 上杉・織田氏間の交渉」であり、論考に付された上杉・織田氏間交渉の関係史料目録では、元亀元年ヵとされている。



これより前、敵対する甲州武田信玄(法性院)は、深沢城攻略中の3日、深沢城衆の主将である北条左衛門大夫綱成へ宛てて矢文を放ち、このたび信玄はこの表へ向かって出張し、当深沢の地を取り詰められたのは、むりやりに当城の所有を争い望むものではなく、自らの保衛のうちであること、要害を取り巻いたので、おそらく氏政は後詰めの手立てに及ばれるのではないかと思われ、そうであれば、雌雄を決し、競望を尽くすのを欲するにより、爰許に在陣していること、もとより甲・相が骨肉の好を結んでいた事実は、隣邦には多年にわたり、広くれ渡っていたこと、これにより、先年(永禄4年)に東八州の士卒は残らず景虎の鞭影に従い、小田原へ襲来すると、氏康父子籠城の時節には、随分と加勢に及び、ことさら半途まで信玄は出馬し、これらの才略のゆえか、凶徒は退散したこと、翌年(永禄5年)に長尾は上州の鳴溝に馳せ向かって戦場を張り、大いに威風を雄々しく振るったとはいえ、重ねて氏政に合力して厩橋へ向かって攻めかかり、去年(永禄4年)に小田原へ寄せられた時の鬱懐を散ぜられたこと、そればかりか、武州松山の城へ向かい、甲・信の猛勢は両年(永禄5・6年)に及んで張陣し、士卒は逃げずに真っ向から、粉骨を尽くし、籌策を廻らせたので、ついに氏康は本意を達せられ、ならびに関東を掌握に納められたのは、信玄の助けがなければ、どうなっていたのか、そうしているうちに、北条名代は子々孫々に至るまで、甲州に対し、永久に疎意を企てたりしないとの趣を、数通の起請文をもって契約したのであり、縁家といい、誓諾といい、どちらにしても、氏政に対し、余すところなく心の底から頼もしく思われていたのは、深く確かであったこと、しかるに今川氏真と信玄は骨肉の因縁が浅からぬところ、氏真は若輩ゆえか、またはあのように滅亡するべき前兆であったのか、信玄に対し、日を追って、交わりを断ち、好を忘れ、おまけに甲陽の旧敵である長尾景虎に同心を実行し、武田を傾かせるために弓箭を目論んだのは度々であったこと、それでも信玄は武力を行使する願望を抑えて堪忍していたところ、ともすれば虎狼の心を差し挟み、呉越の思いを含まれるので、我慢の限界を超えてしまい、はからずも駿国へ乱入すると、氏真は一防戦にも及ばずに敗北、彼の国を残らず撃砕し、累年の遺恨を瞬く間に散じられたこと、この氏真の行状を伝え聞くには、天道を恐れず、仁義を専らにせず、文もなく、武もなく、ただひたすら酒宴遊興に耽り、士民の悲歎を知らず、諸人の嘲りを恥じず、ほしいままに我意を押し通すにより、何をもって国家人を保つつもりであったのか、いささかも信玄に氏真を滅ぼし倒すつもりはなく、しかしながら、天罰と冥慮に背き、自らを滅却するものであり、氏真を救済する意図が、むしろ氏康は「見迦」にあらざること、されば、上野在留の折、小田原から使節をもって条々を示し預かったこと、縁属の好の間柄であるのに黙ったままでいるわけにもいかず、氏政の所望通りに応諾し、とりわけ誓詞をもって相談されたこと、そうしたところに非常識にも薩埵山によじ登り、信玄を滅ぼすべき手立てを打ったこと、誠に回避し難いとはいえ、私なきにより、虎口の死を逃れ、すでに神慮と仁義の誓いを軽蔑し、あのような謀計を巡らせるとは、士たる者の本意なんぞではあってはならないのではないか、この恨みは蒼海に反して浅く、須弥山に反して低くに似ており、一戦をもって鬱憤を散じるため、一昨年(永禄12年)の秋に数日を敵国で凌ぎ、小田原へ向かって攻め寄せたが、一向に出てこないので、蓮池まで放火して馬を帰すと同時に、(氏康・氏政父子により)源三・新太郎方(大石氏照・藤田氏邦兄弟)が送り出されたので、傍若無人ながら戦場の常であり、そうするよりほかに仕様がなく、三増峠において大略を討ち取ったこと、彼の兄弟衆は前代未聞の見苦しい敗軍の体たらくであり、北条の不名誉な行いは諸軍の嘲りを受けるだけであったこと、(氏政は)かならずや加勢してくると思われ、備えを返したところ、今だに追いかけてこないまま、氏政は敗北したので、不甲斐ないと思いながら帰陣したこと、また、昨年5月の沼津(駿河国駿東郡)に在陣した折、氏政は山中まで出張したので、願ってもない幸運と思い、幕前へ向かうと、再三にわたって乗り詰められたとはいえ、塁を高くし、溝を深くし、干戈をたわませ、門戸も閉ざしたので、やむを得ず、豆州の郷にある韮山近辺を残す所なく放火したこと、およそ氏政は自力をもって甲兵に対し難いため、多年の古敵である景虎に対し、眉に皺よせ、口をひそめ、面を和らげ、手を束ね、様々な手段を用い、降参して一和を遂げると、信国へ乱入するとの風説が流れてきたので、どう考えても例を見ない手立てを講じてくると察せられたので、昨年に河中島へ出馬し、北敵を待たれていたところ、越軍はまったく現れる気配がなかったので、そのまま関東へ発向し、沼田(上野国利根郡)・厩橋(同群馬郡)・深谷(武蔵国幡羅郡)・藤田(同榛沢郡)などの領内の民屋以下を一宇残らず焼き払ったのちに帰陣したこと、とりわけ、一昨年の冬に蒲原(駿河国庵原郡)へ向かって馬を進められたところ、四郎・左馬助(諏方勝頼・武田信豊)の軍兵を遣わすと、自身で塀を乗り越え、半時ほどで乗り崩し、同名新三郎方(久野北条氏信)をはじめとして、狩野・清水そのほか一人も残らず誅殺し、士卒は凱歌を唱えたこと、よって、この威風で(北条軍は)薩埵山から自落、ならびに岡部次郎右衛門(正綱。今川家の重臣)が拠っている氏真屋敷(駿河国安倍郡の駿府館)へ陣を寄せたところ、様々に(岡部正綱は赦免を)懇望してきたので、赦免して召し出されたこと、とりもなおさず大原肥前(資良)が立て籠もる花沢の城(駿河国益津郡)へ駆け向かい、稲麻竹葦のように幾重にも取り巻き、瞬く間に乗っ取ったこと、大肥(大原資良)は元来、他国の者であり、刎首などはせずに命を助けて追放したこと、毎度このような大勝を得られたのも、あるいは武勇が甚だしいわけでもなく、あるいは武略が盛りであるわけでもなく、ただ天の冥感によるものであり、よくよくこれを案ずるに、駿国をはじめとして八ヶ国を、天道により信玄に与えられるところ、どうして氏康はおよそ障碍の企みを巡らせるであろうか、この条々を詳しく御存知の通りとはいえ、ついでをもって申し入れること、よって、甲・相の楯鉾については、相互に軍勢の労兵が気の毒なので、早く安否を決せられるためにも、一戦するのが当然ではないかと思われ、その地(深沢城)には随一の衆が御籠城しており、絶対に見捨て難いのであれば、(氏政の)後詰めの備えがあるかと思われ、城中から(後詰めの)ひたすらの御催促は適当であろうこと、飛脚を差し遣わされるならば、路次中は支障なく、小田原まで送り届けるつもりであること、委細は回札を待ち入ること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編三』1639号「北条左衛門大夫殿」宛武田「信玄」書状写)。


※ この矢文とされる文書の真偽は明らかでないとのこと。



対して相州北条氏政は、駿州深沢城に後詰めをするため、諸将に動員をかけたり、駿東郡に着陣したのちは、武田軍別動
隊に攻撃されている興国寺城の城代から、城内に侵入した敵勢を撃退したとの報告を受け、城代以下を忠賞したりしている。

正月6日、仁木弾正右衛門尉(相州北条家の客将か)へ宛てて証状を発し、先般に通告した通り、このたびの一戦は唯一無二のものと思い詰めているので、人数を調え、ひたすらに粉骨を尽くして奮闘されるべきこと、本意を遂げたあかつきには、立身は御望みに任せること、家中人においては、このたび身命をなげうって奮闘するべきこと、いずれも戦功次第で引き立てるつもりであること、偽りなきところは八幡大菩薩が照覧あること、よって、(後日のために)状に前記した通りであること、これらを申し渡している(『戦国遺文 後北条氏編』1455号「仁木弾正右殿 御宿所」宛北条「氏政」判物写)。

同日、鎌倉公方足利家の御一家であり、相州北条家の統制下に置かれている「蒔田殿」こと世田谷吉良氏朝(左兵衛佐。妻は相州北条家の長老である幻庵宗哲の娘で、氏康の養女と考えられている)の重臣である江戸刑部少輔(頼忠。この江戸氏は武蔵国江戸の地から出た)へ宛てて証状を発し、先段にも通告したとはいえ、このたびの一戦は唯一無二のものと思い詰めているので、重ねて通告すること、人衆を調え、ひたすら粉骨を尽くして奮闘されるべきこと、本意を遂げたあかつきには、恩賞は望みに任せること、家中人においては、このたび身命をなげうって奮闘するべきこと、いずれも戦功次第で引き立てるつもりであること、偽りなきところは八幡大菩薩が照覧あること、よって、(後日のために)状に前記した通りであること、これらを申し渡している(『戦国遺文 後北条氏編二』1454号「江戸刑部少輔殿」宛北条「氏政」判物 ●『戦国人名辞典』吉良氏朝・江戸頼忠の項)。

7日、諸足軽衆の有力な寄親の一人である荒川善左衛門尉へ宛てて証状を発し、このたびの一戦においては、当方の安危にかかわるので、着到のほかに、何としても人衆を用意し、またとないほどに奮闘するべきこと、本意を遂げるにおいては、恩賞は戦功次第で望みに任せること、同心・被官においても、今この時であるので、身命を軽んじて奮闘するべきこと、進退については、力を尽くして引き立てるつもりであること、偽りなきところは八幡大菩薩が照覧あること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『戦国遺文 後北条氏編二』1456号「荒川善左衛門尉殿」宛北条「氏政」判物写 ●『戦国人名辞典』荒川善左衛門尉の項)。

同日、今川氏旧臣の小倉内蔵助へ宛てて証状を発し、このたびまたとない一戦をするつもりであり、身命をなげうって奮闘されるべきこと、本意を遂げるにおいては、恩賞は戦功次第で望みに任せること、偽りなきところは八幡大菩薩が照覧あること、よって、(後日のために)状に前記した通りであること、これらを申し渡している(『戦国遺文 後北条氏編二』1457号「小倉内蔵助殿」宛北条「氏政」判物写 ●『戦国人名辞典』小倉内蔵助の項)。

11日、三嶋神社(伊豆国田方郡)へ宛てて証状を発し、このたびの深沢後詰めの一戦に、勝利を得るにおいては、当社の先規の通り、当年中にすべてが成就するように、建立するつもりであること、よって、(後日のために)状に前記した通りであること、これらを申し渡している(『戦国遺文 後北条氏編二』1458号)。

12日、興国寺城の城代である垪和伊予守氏続(武州松山衆を率いる)へ宛てて感状を発し、このたび興国寺へ敵が忍び入り、数百人が本城へ取り入ったところ、其方自身(垪和氏続)が太刀打ちし、敵を仕庭において五十余人を討ち取られ、城内を堅持したのは、前代未聞の結果で、類い稀な戦功であり、誠に感じ入るばかりであること、ここで本意(深沢後詰めの成功)を遂げたならば、進退を引き立てるつもりであること、よって、久しく所持していた秋廣の刀一振を与えること、(後日のために)差し上げた状に前記した通りであること、これらを申し渡している(『戦国遺文 後北条氏編二』1459号「垪和伊予守殿」宛北条「氏政」感状写)。

同日、垪和氏続の一族である垪和善次郎へ宛てて感状を発し、このたび興国寺へ敵が忍び入ったところ、粉骨を尽くし、敵一人を討ち取ったこと、類い稀な高名であること、相当の扶持を約束すること、よって、(後日のために)状に前記した通りであること、これらを申し渡している(『戦国遺文 後北条氏編二』1460号「垪和善次郎殿」宛北条「氏政」感状写 ●『戦国人名辞典』垪和善次郎の項)。



昨年の4月から対抗している将軍足利義昭・濃(尾)州織田信長と越前国朝倉義景・江北の浅井長政の間で、8月中旬に江北表で動きがあった途端、織田軍は、阿波国から進んできた三好三人衆に対応しなければならなくなり、摂津国野田・福嶋(西成郡)へ向かうと、9月に入り、朝倉・浅井・三好三人衆と友好関係にある大坂本願寺・一向一揆が蜂起して参戦し、その間、朝倉・浅井連合軍は江北を経て京都まで進んだが、やがて9月下旬には織田軍と朝倉・浅井連合軍は舞台を江北に移して争うところとなり、そこから12月中旬まで、織田軍と朝倉・浅井連合軍・比叡山延暦寺との間で展開された攻防(近江国志賀の陣)の情報を得るため、織田信長とは友好関係にあり、朝倉義景とは長年の同盟関係にあるなか、まずは朝倉義景の許へ使者の関半五郎(謙信旗本)を派遣すると、22日、朝倉義景の側近である山崎長門守吉家(内衆)から返書が発せられ、(朝倉義景が)旧年に江州坂本(志賀郡)へ御出馬されたのに伴う、(織田)信長との対陣の様子を、御心配されているそうであり、 上椙殿から拙者(山崎吉家)まで、御書を携えた御使者の関半五郎方を海津(近江国高嶋郡)へ寄越されたこと、その趣を(義景へ)申し上げたところ、(義景は)御入魂による御快然の旨を、川豊(河田豊前守長親)まで、御直書をもって仰せられたこと、彼の表の始末を、こちらから申し入れるべきであったとはいえ、手前(山崎)は取り乱れていて、それが無理であったこと、信長が8月中旬頃に江北表へ出張してきたので、浅井方への御合力のため、方々に加えて我等(山崎)のような軽輩も差し向けられたこと、そうしたところに、信長は南方辺(摂津国)へ進発してしまっており、また、当手衆も江北から同じく西路を経て達したところ、森三左衛門尉(可成。織田家の重臣)が志賀要害(志賀郡)を打って出られ、下坂本を保持しようとしたので、拙者は先勢として向かい、9月20日に彼の口を攻め崩し、森三(森 可成)・信長舎弟の織田九郎(信治)をはじめ、数多を討ち取り、即日、落居させたこと、されば、三好三人衆との堅い約束の旨に任せ、同24日に京表へ達し、青山・勝軍山(山城国愛宕郡)において、此方(朝倉軍)が合図の狼煙を挙げた半ば、信長は南方表を引き払い、志賀へ打って出たので、南方衆は青山・局笠山・叡山・同じく上坂本(いずれも近江国志賀郡)を維持し続け、変わりなく確保していること、これにより、(義景は)10月中旬の時分に上坂本へ向かって御進発され、式部太輔殿(同名衆の朝倉景鏡)、そのほか馬廻衆も同前であること、その後、何度も御合戦に及ばれ、数輩を討ち取られたこと、この形勢により、敵は様々に調略を仕掛けてきたこと、11月25日未明に信長は人数千余を堅田浦(近江国志賀郡)へ差し入れ、越州(越前国)路の遮断を企んだところ、翌26日早朝に式太(朝倉景鏡)・前波(藤右衛門尉景当。内衆。年寄衆の筆頭)を差し向けられ、敵の人数を一人残らず、堅田地下人のうちで(織田軍に)同調した者も、かれこれ千五百ばかりを討ち取られ、御大勝されたこと、彼の表における前藤(前波景当)の討死は、類い稀な奮戦であったのは言うまでもないこと、そうしたわけで、 公方様(足利義昭)が三井寺(近江国志賀郡の長等山園城寺)まで御座を移され、(朝倉と織田の)一和をしきりに仰せ出されたのを受け、(義景は)12月15日に御馬を納められたこと、信長からは様々な誓詞を受け取ったこと、以上の趣は、いずれの折りに、直和(直江大和守景綱)まで御伝達されるのが肝心であること、なお、様子においては、関半(関半五郎)が演説されるので、(この紙面は)省略すること、必ず必ず当春の御慶賀などは、追って申し入れるつもりであること、これらを恐れ畏んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』1019号「山崎長門守吉家」書状写)。


元亀4年3月19日付長 与一宛上杉謙信書状写(『上越市史 上杉氏文書集一』1141号)によれば、南方表(摂津国)で三好・本願寺勢と対決していた足利義昭・織田信長が、朝倉・浅井勢の江南・京都進攻によって、9月下旬に南方表から引き上げざるを得なくなると、京都に戻った義昭は丹後国への移座をも進めるなか(信長は江南へ向かった)、謙信の許へ使者を下し、謙信に見放されたら、京都に御座を保てないとして、早急な上洛を求めていた。


越後国上杉家と越前国朝倉家の通交において、上杉側の取次を担当したのは、当文書や永禄8年6月16日付直江大和守景綱宛山崎長門守吉家・朝倉玄蕃允景連連署状(『上越市史 上杉氏文書集一』459号)からして、直江景綱であったとされているわけだが、今回は何らかの事情により、謙信の「御書」のみが、朝倉側の取次である山崎吉家へ送られたようである。一方で、朝倉義景の「御直書」が河田豊前守長親へ送られており、ただ単に、越中在国の河田長親を経由しただけなのか、あるいは、いずれかの年に河田も上杉側の取次に加わっていたのかもしれないが、どうにも上杉・朝倉間のやり取りはちぐはぐな印象を受ける。これは、長尾家時代から同盟関係にある朝倉家、永禄7年から友好関係にある織田家、どちらの取次も直江景綱が務めていることから起こった事情であろうか。



2月6日、昨年の秋に同盟を結んだ遠(三)州徳川家康(三河守)から書状が発せられ、新暦の御吉兆を表すには時が経ってしまったとはいえ、今さらでも済ませないわけにはいかないこと、よって、守家の刀一腰を進覧すること、御秘蔵してもらえれば、恐れ入りつつも喜ばしいこと、委細は権現堂(叶坊光幡)に申し含めており、口上あるべきこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』1022号「上杉殿」宛徳川「家康」書状)。


※ 2月4日付村上源五宛本多忠勝書状写(『上越市史 上杉氏文書集一』1020号)は、徳川側から発せられた文書であるにもかかわらず、上杉側から発せられた元亀元年8月30日付松平左近允宛河田長親書状写(同前935号)とほぼ同文であるため、引用はしなかった。よって、本多忠勝は上杉家と徳川家の通交における徳川側の取次一団のうちではないことになる。



駿河国御厨地域で甲州武田軍と対峙している相州北条氏政は、2月13日に敵陣へ夜襲を仕掛けると、15日、戦功を挙げた今川氏旧臣の紅林八兵衛尉へ宛てて感状を発し、去る13日の夜に敵陣へ忍び入り、陣際において敵一人を松長左大夫(駿東郡松長の地から出た武士か)と協力して討ち取り、高名を挙げたのは感心であること、よって、太刀一腰を遣わすこと、なお、戦功を励むべきこと、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『戦国遺文 後北条氏編二』1463号「紅林八兵衛(尉)殿」宛北条氏政感状【花押のみを据える】●『戦国人名辞典』紅林八兵衛の項)。


紅林八兵衛尉は、こうした戦功を重ねることにより、のちに北条氏照の家臣団に編入される(『戦国人名辞典』紅林八兵衛の項)。



16日、越中国代官を任せている河田長親(豊前守。越中国魚津城の城代)が、配下の小越与十郎(長親の側近である小越平左衛門尉の息子であろう)へ宛てて証状を発し、石坂藤五郎分の内で渋木五郎右衛門尉分、如意輪寺の内で下条源助分、片貝の内で五貫文所、棹山分、以上(いずれも越後国古志郡内の地)を出し置くこと、軍役等を必ずや心掛けるべきこと、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』1023号「小越与拾郎」宛河田「長親」判物写)。


甲州武田軍が上野国の上杉領へ侵攻したとの情報を受け、甥の上田長尾喜平次顕景の配下である上田衆や、側近の直江大和守景綱、旗本部将の大石惣介芳綱たちを越後国上田の坂戸城を経て上野国沼田の沼田(倉内)城へ向かわせると、27日、長尾顕景の陣代を務める栗林次郎左衛門尉房頼へ宛てて書状を発し、取り急ぎ申し遣わすこと、一刻も片時も急いで喜平次者共(上田衆)を早々に召し連れ、まず先衆として(沼田城へ)打ち着くべきであり、この直書(謙信が北条氏康へ宛てた書状)を鉢形(武蔵国男衾郡。相州北条氏政の兄弟衆である藤田氏邦の居城)まで、上田の者に持たせて差し向けるのが肝心であること、このような状況であるので、いずれも頼りにしていること、面々共に申し聞かせるのが適当であること、このほかは書き記さないこと、以上、これらを申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』1027号「栗林二郎左衛門尉とのへ」宛上杉「謙信」書状【花押a4】)。

同日、上田衆の栗林次郎左衛門尉房頼へ宛てて書状を発し、21日にその地(坂戸城)へ打ち着いたそうであり、いつもながらとはいえ、早々の越山は骨折りで言葉もないこと、各々(上田衆)と直江(景綱)をはじめ、(沼田城へ)差し向けた者共で相談し合い、適切に奔走するのが肝心であること、万事めでたく調ったのちには、敵の様子を重ねて知らせて寄越すべきこと、これらを謹んで申し伝えた。さらに追伸として、この二通の書中を、大石惣介(芳綱)と直江かたへ早々に届けるべきこと、以上、これを申し添えた(『上越市史 上杉氏文書集一』1026号「栗林次郎左衛門尉殿」宛上杉「謙信」書状【花押a4】)。

28日、栗林次郎左衛門尉房頼へ宛てて書状を発し、昨日の書中には、喜平次者(上田衆)は沼田へ移るように申し付けたが、丹後守(関東代官の北条丹後守高広)からの注進の内容によれば、敵は退散したそうなので、その地の者共を、早々に召し連れて当府へ馳せ上るべきこと、越中へ出馬するので、一騎一人も欠けないように傍輩共を召し連れるべきこと、また、関東行の人留を厳重に申し付けるべきこと、昨日、差し向けた氏康(相州北条氏康)への書中をば、手数をかけるが、喜平次の所から飛脚を立たせて、(前日には鉢形へ送ることを申し付けていた)小田原まで届けるべきこと、吾分(栗林房頼)の所から遠左方(遠山左衛門尉康光。相州北条氏康の側近)への書中の書き様は、「長尾喜平次代として、沼田へ罷り移り候処、北条丹後守申し越す分は、敵退散の由申し候間、打ち返し申し候、其のため実城(謙信)よりの氏康への直札を差し越し候、然るべき様に御取り成し簡心に候由、」とすること、吾分も遠左方へ添文を調えて届けるべきこと、このほかは書き記さないこと、これらを畏んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』号「栗林二郎左衛門尉とのへ」宛上杉「謙信」書状【花押a4】)。


上田長尾顕景は、上田衆や直江景綱たちが上野国沼田城へ派遣された以前に、何らかの事情により、越府から本拠の坂戸城へ出向いていたようである。それから、越中国へ出馬する謙信から越府へ上るように指示された上田衆(おそらく直江景綱も)に対し、大石芳綱は、そのまま沼田城へ向かい、この機会に城衆の一員に加えられた可能性がある(『上越市史 上杉氏文書集一』1047・1369号)。


謙信は、前年の12月13日の時点で、当年の2・3月に越中国へ出馬する考えであった(『上越市史 上杉氏文書集一』953号)。


同日、相州北条氏政から書状が発せられ、玉龍坊(乗与。北条氏政の使僧)が一昨26日に(小田原城に)帰着したので、報告をうけたところ、もとより必ず御越山されるそうなので、本当に大きな喜びであること、ようやく沼田に御到着されたのかどうか、即刻、藤田新太郎(氏邦)に遠山左衛門尉(康光)を差し添え、愚意を申し述べるつもりであること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている。さらに追伸として、敵は退散してしまい、(氏政も)去る23日に帰陣したこと、以上、これを申し添えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』886・1029号「山内殿」宛北条「氏政」書状写)。


※ 当文書は、『上越市史 上杉氏文書集一』では886号(某古書店目録)と1029号(伊佐早文書)が重複しており、それぞれ永禄13年(元亀元年)と元亀2年に置かれているが、前者では、当該期の輝虎(謙信)は昨年の11月に関東越山し、年明けの下野国唐沢山城攻めなどを経て、上野国厩橋城へ戻り、謙信の新たな養子に決まった北条三郎の受け渡し手順について、相州北条方と協議中であり、北条氏政の書状に記されているような、越山して沼田城へ到着したかどうか、という状況にはなく、それは翌元亀2年であるため、当年の発給文書として引用した。


今回、甲州武田軍が厩橋・沼田を攻撃する可能性がなくなったので、関東越山を取り止め、越中国へ出馬するという矢先に、かつて叛乱を起こしたが失敗に終わって蟄居させている外様衆(揚北衆)の本庄弥次郎繁長(雨順斎全長)と、その監視役である外様衆の鮎川孫次郎盛長(越後国瀬波(岩船)郡の大場沢城主。本庄氏とは同族関係にある)・謙信旗本の三潴左近大夫(実名は長能か。同蒲原郡の長目城主である三潴出羽守長政の世子)との間で小競り合いが起こる。

29日、越後国瀬波(岩船)郡の猿沢城で蟄居中の本庄繁長や、越後国と境を接する出羽国を監視させるために、繁長の本拠である村上城と猿沢城とは至近の庄厳城に置いている鮎川盛長・三潴左近大夫から、本庄がまた逆心したという知らせが入り、両人へ宛てて、午刻(正午前後)に返書を発し、早飛脚をもって寄越した子細を聞き届けたこと、そうは言っても、弥二郎(本庄繁長)は息子のほか、家中の者共の証人まで(越府に)差し置いているからには、どうして弥二郎かたより逆心を重ねて引き起こしたりするであろうか、万が一にも猿沢から退去してくる(本庄の)者がいたとしたら、その地(庄厳城)に置いてはならず、表立てずに手厚く世話をして、しだい浜あるいはさヽき(蒲原郡加地荘の次第浜と佐々木の地)辺りの鮎川知行の地に、何はともあれ扶持として差し置くべきこと、そしてまた、氏政は、信玄とはずみの一戦を遂げ、甲・信の者共の数多を討ち取ったこと、南方(相州北条軍)は殊のほか大利を得られたこと、この人数を召し連れ、愚老(謙信)は越中へ進発すること、返す返すも、(鮎川・三潴が)軽はずみに本庄(繁長)へ向かって手出しをしたのは、自分勝手な振る舞いであり、失望していること、このほかは書き記さないこと、これらを謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』1030号「鮎川孫二郎殿・三潴左近大夫殿」宛上杉「謙信」書状写)。


謙信は、本庄繁長の逆心を信じるどころか、鮎川・三潴が勝手に手出ししたことに怒りをあらわにしているほどで、その後、表明した通りに越中国へ出馬したことからしても、再乱の事実はなかったわけである。


※ 当文書の末尾でもう一度、本庄繁長を巡る騒動に言及した「返々聊爾向本庄手出、曾而口惜候」の「曾而」を「勝手」の当て字と考えたのは、そうでなくては意味が通らないことに加え、永禄13年4月9日付上杉輝虎書状(『上越市史 上杉氏文書集一』904号)でも「自分而相計義、曽而無用候」とあり、同様の事例があることによる。



この間、駿河国御厨陣を終えて遠江国へ向かうつもりでいた甲州武田信玄(法性院)は、予定を変更して武蔵国へと進む。

2月23日、下条讃岐守(甲州武田家の親類衆か)へ宛てて覚書を発し、一、氏政は御厨へ後詰めをしたが、成果もなく退散したこと、されば、にわかに遠州へ出馬すること、一、昨年以来、申し届けている筋目を通すのは、今この時であり、早速にも合流するべきこと、この補足として、両筋についてのこと、一、小山(遠江国榛原郡)へ向かい、彼の塁砦を排除するつもりであること、これらを申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編三』1654号「下条讃岐守殿」宛武田信玄覚書写)。

26日、武蔵国羽生領の源長寺に高札を掲げ、当手甲乙の軍勢、彼の寺中における濫暴狼藉は一切を禁じられること、もしこの旨に背く輩がいれば、厳科に処せられること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『戦国遺文武田氏編三』1660号 武田信玄高札【竜朱印を据える】)。

27日、同じく鉢形領の石間谷へ攻め込んだ(『戦国遺文 後北条氏編三』号)。


このあとすぐに武田信玄は帰陣している。


武蔵国埼玉郡の羽生領は、越後国上杉家に属する広田出雲守直繁・木戸伊豆守忠朝兄弟の領域で、同男衾郡の鉢形領は、相州北条氏政の兄弟衆である藤田新太郎氏邦が管轄している。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 武田氏編 第三巻』(東京堂出版)
◆『戦国人名辞典』(吉川弘文館)

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