越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎の略譜 【33】

2012-10-30 11:43:15 | 上杉輝虎(謙信)の略譜
永禄9年(1566)9月 上杉輝虎 【37歳】

9日、(上杉「輝虎(花押e2)」)、越中味方中の椎名右衛門大夫康胤(越中国松倉城主)の側近である「馬杉兵庫助とのへ・薗新左衛門尉とのへ」に宛てて書信を発し、本国を空けていた間の内政に取り組むため、晩春に帰府したものの、関東の防備が不十分なので、再び出陣して上・越国境の越後国上田荘(魚沼郡)に至ったこと、従前に依頼していた通り、右衛門大夫(椎名康胤)に春日山(越後国春日山城)の留守を任せたいので、次に号令を掛け次第、すぐさま発向するように、右衛門大夫に言い含めておくべきこと、その表の形勢が気になっており、くれぐれも面倒を起こさないように、十分に気を配るべきこと、今更言うまでもなく、河西(神通川以西の神保惣右衛門尉長職)と争ってはならず、ともあれ吾分両人(薗・馬杉)の才覚に掛かっており、適切にを協力し合うべきこと、これらを取り急ぎ伝えた。

結局、8月頃から越後国上田荘に在陣したまま、閏8月には長尾源五(譜代衆)らを派遣して、越後衆が在番する下野国唐沢山城(安蘇郡佐野荘)の敵地を攻撃させたり、陣営から離反した由良信濃守成繁が拠る上野国金山城(新田郡新田荘)を攻囲させたり、由良成繁の与力である上野国衆の善(通称は彦太郎か。上野国善城主)・山上(通称は藤九郎か。同山上城主)を味方に引き入れさせたりするなどしたが、自身は国境を越えることなく、このあと越府に帰還した。

13日、この8日に越前国敦賀郡の金ヶ崎へ御座を移したばかりの左馬頭足利義秋(花押)から御内書(「上杉弾正少弼とのへ」)が発せられ、このたび条書をもって示された趣旨には、その厚志に喜びもひとしおであること、京表については、織田尾張守(尾州織田信長)の参陣が実現しなかったので、ますます三好(左京大夫義継)・松永(弾正少弼久秀)らの圧迫が強まり、江州矢嶋(近江国野洲郡)から離れざるを得なくなってしまい、若州を経て、何とか義景(朝倉左衛門督義景)の尽力で越前国敦賀の地に移ったこと、東国については、北条(相州北条氏)との和平を調停するため、大覚寺門跡(義俊)に御下向してもらうので、是非とも越・相和平をまとめ、ひとえに参陣を果たしてもらいたいこと、条書の趣旨については、改めて使者を下すこと、何かにつけ身上を委ねたいと考えており、あらましは東蔵房に申し含めたこと、よって、これらを大覚寺門跡が詳述することを伝えられている。
同日、左馬頭足利義秋に随伴させている智光院頼慶(輝虎の使僧)から条書が発せられ、一、大覚寺殿が御下向された折には、諸々の便宜を図ってほしいとの仰せであること、一、公方様(足利義秋)は越後へ御下向される決心を固められて、我等方に是非とも御供するようにとの上意が下されるも、このような大事は、何はさておき越後(輝虎)の御内儀を得るべきと考えて、返答を避けたこと、一、公方様はひとえに越後(輝虎)を頼りにされていること、一、越後に求められている御合力のこと、一、尾州(織田信長)が講じる手立てのこと、一、賀(賀州一向一揆)と越(越前国朝倉家)の和睦のこと、一、三好(阿(河)州三好義継)と松永(和州松永久秀)の動向についてのこと、一、越前に御到着されてからの様子のこと、一、この9日に江州で一戦があり、六角佐々木右衛門尉殿(右衛門督義治)は、江南の浅井軍に敗れて重臣の三雲新左衛門尉(賢持)や高瀬兄弟らを失ったこと、これらの条々を使者が詳述することを伝えられている。

27日、(上杉「輝虎(花押a3)」)、つい先頃までは味方中であった佐竹次郎義重(常陸国太田城主)の一家である東(佐竹薩摩守)義喬、準一家の「江戸彦五郎殿(通政。常陸国水戸城主)」、宿老の「和田掃部助殿(昭為)」のそれぞれに宛てて書信(江戸通政と和田昭為には自筆で認めた)」を発し、ここ最近、奸智に長けた輩の妨げにより、(佐竹)義重との交信が途絶えてしまったのは、存外であること、義昭(佐竹入道源真。義重の亡父)が在世していた頃のような親交を取り戻したいので、義重へ口添えしてくれれば、祝着であること、よって、太田美濃守(三楽斎道誉。資正。佐竹氏の客将。この年に義重から常陸国片野城を与えられた)を通じて詳報することを伝えた(江戸通政に対しては、近日中に越山するので、佐竹義重の参陣が実現するように取り計らうことを依頼している)。
同日、(上杉「輝虎」)、江戸彦五郎通政の族臣である「江戸遠江守殿(通朝ヵ)」に宛てて書信を発し、近日中に関東へ出陣するので、その口(東方)で精励してくれれば、祝着であり、このところを同名彦五郎方(江戸通政)と相談し合い、佐竹の参陣が果たされるように、根回しに奔走してくれれば、喜ばしい限りであること、その口の有様を細大漏らさず聞き込み、詳しく報告してほしいこと、これらを取り急ぎ伝えた。

◆ 江戸通政宛上杉輝虎書状写の花押形は不詳。

同日、(上杉「てる虎(花押a3)」)、太田美濃入道道誉の族臣である三戸駿河守の妻女の「としやう(太田道誉の妹)」に宛てて仮名書き消息を発し、このたび敢えて使者を遣わしたこと、先年に見舞われた思いも寄らない事態によって、堪え忍ぶ日々送るところとなり、さぞかし難儀しているであろうこと、「ミのゝかミ(太田美濃守資正。三楽斎道誉)」については、輝虎に対する忠節を重んじ、相州北条方に従うを良しとせず、居城(武蔵国岩付城)を失って零落したのは、実に痛ましいこと、行き場を失った「みのゝかミ(太田道誉)」はいうまでもなく、「てるとら(輝虎)」自身のためにも、また、これまで忠誠を尽くしてきた者に報いるためにも、是が非でも要地を見立てて提供するべきところ、誰もが知っての通り、(太田道誉に)見合った空地は皆無なので、不本意ながら城領を提供できないまま、空しく時が過ぎ去ってしまったこと、それを恨んだとみえて、この頃は消息が途絶えてしまい、途方に暮れていたところであり、これを機に使者を寄越して、其許(太田道誉)の状況を詳しく知らせてくれれば、腹立ちを静めてくれたとの思いから、喜びもひとしおであること、関東については、代官を任せた「きたてうたんこ(北条丹後守高広。上野国厩橋城代)」の勝手な判断や過少な報告などの不手際により、「さたけ(佐竹義重)」や「よこせ(横瀬(由良)成繁)」を始めとする関東味方中の多くが離反してしまい、はなはだ不本意であること、このまま放置しておくわけにはいかないので、「みのゝかミ(太田道誉)」の調整力により、彼の面々との関係改善を図れれば、その忠節といい、その身のためといい、万事これに尽きること、よって、其文字(としよう)の才覚に掛かっていること、近いうちに必ず出陣するので、陣中から後信を送ること、これらを懇ろに伝えた。更に追伸として、関東の厳しい現況は必ず好転させることと、あらゆる事情を後信に於いて説明することを約束した。


この間、相州北条氏康・同氏政父子は、9日、一族の玉縄北条左衛門大夫綱成(相模国玉縄城主)を通じ、奥州黒川(会津郡門田荘)の蘆名家の「御宿老中」に対して書信を送り、その後は、路次断絶によって音問がかなわなかったこと、心の底から微塵も疎かに対応しているつもりはないこと、此方(相州北条氏)の当秋の軍事行動については、すでに駿・甲(駿州今川氏・甲州武田氏)と合同で出陣したものの、7月下旬の利根川の氾濫に阻まれて延引を余儀なくされていたところ、漸く10月中旬に浅瀬が現れる目処が立ったので、必ず駿・甲と合同で利根川を渡ること、その口(奥州)の取り仕切りは、ひとえに頼み入ること、岩城(左京大夫親隆。はじめ宣隆。羽州米沢(置賜郡長井荘)の伊達家の出身。伊達入道道祐(晴宗)の長男。陸奥国大館城主)・田村(安芸守隆顕。陸奥国三春城主)と協力して、貴方と此方にとっての敵対勢力(常陸国衆の佐竹氏)に対し、必ず徹底抗戦されるように、我等(玉縄北条綱成)も念願していること、よって、これらの詳細については、直書(相州北条父子)をもって申し入れられることを伝えている。

甲州武田信玄(徳栄軒)は、29日、念願の上野国箕輪城(群馬郡)攻略を果たし、箕輪長野家を滅亡させている。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 525号 上杉輝虎書状、526号 足利義秋御内書、527号 智光院頼慶条書(写)、528号 上杉輝虎書状、529・530・531号 上杉輝虎書状(写)、583号 上杉輝虎書状 『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』 980号(巻末の追加分) 北条綱成書状写 『戦国遺文 後北条氏編 補遺編』 4899号 由良成繁事書案 『戦国遺文 武田氏編 第六巻』 4208号 長年寺受連覚書 『戦国遺文 佐々木六角氏編』【参考10】智光院頼慶覚書

◆ 佐竹氏の一族・家中については、市村高男氏の論集である『戦国期東国の都市と権力』(思文閣出版)の「第一編 東国領主の権力構造 第三章 戦国期常陸佐竹氏の領域支配とその特質」と、『戦国人名辞典』(吉川弘文館)を参考にした。


永禄9年(1566)10月 上杉輝虎(弾正少弼) 【37歳】

4日、左馬頭足利義秋に随身する杉原「祐阿」から、かつて越後国上杉家の京都雑掌を務めていた「神余隼人佐殿(旗本衆)御宿所」に宛てて書信が発せられ、一昨日、上意様(足利義秋)の御意向を直に伺ったところ、南方(相州北条家)と御当方(越後国上杉家)の御無事について、これまで上意様が勧告されてきた筋目をないがしろにせず、是が非でも取りまとめられるように、ひたすら念願されていること、こうして後顧の憂いを断たれた御当方に、御当家再興への力添えを頼み、これまでの御鬱憤を晴らしたいとの仰せであること、よって、これらを念入りに河豊(河田豊前守長親)と直太(直江大和守政綱)へ御伝達されるべきことを伝えられている。

5日、(上杉「輝虎(花押e2)」)、関東味方中の「小山下野守殿(高朝。号明察。下野国榎本城主)に宛てて書信を発し、これまで何かと厚遇してきた人物(下野国衆の佐野小太郎昌綱)が当陣営から離脱し、相州北条氏康に一味して逆心を繰り返すため、彼の要害(下野国唐沢山城)に向けて派遣した軍勢が、悉く要害周辺を壊滅させたこと、今もなお軍勢に攻囲を続けさせていること、輝虎自身も近日中に国境を越えるので、今後の関東経略の方針を相談する時宜であり、自ら御出陣してくれれば、ひたすら喜ばしいこと、よって、これらを取次の河田豊前守(長親。大身の旗本衆。上野国沼田城代)が詳報することを伝えた。
関東味方中の桐生佐野又次郎(実名は重綱か。上野国衆・桐生佐野氏は下野国衆・佐野氏の庶族)の居城である上野国桐生城(山田郡)に在城させて桐生方面の金山包囲陣を任せた長尾源五(譜代衆)が長陣に倦んで不満を訴えていることを受け、11日、(上杉「輝虎(花押e2)」)、「長尾源五殿」に宛てて書信を発し、その方面の防備が気掛かりなので、今朝方に関東へ向けて出陣したこと、長期に亘る在城の陣労に苛まれているようで、はなはだ遺憾であること、こうして輝虎が関東に向かっているからには、今しばらく辛抱して、その口(桐生)の包囲陣を統括するべきこと、また、佐野(小太郎昌綱。下野国唐沢山城主)に用所があるので、この書簡を早々に回報するべきこと、これらを直報して宥めた。更に追伸として、その地(桐生城)に五十日も滞在していないのに倦労を訴えるとは、いかにも釈然としないことを伝えるとともに、その地(桐生城)の修繕を佐野(昌綱)に施工させるので、この旨を又次郎(桐生佐野又次郎)にも事情を説明しておくことを指示した。
20日、(上杉「輝虎」)、このところ疎遠となっている関東味方中の佐竹次郎義重(常陸国太田城主)の許へ使者を遣わし、一、近頃は邪な人物の妨げによって、はからずも交流が途絶えていたこと、この補足として、これは先頃に各々を通じて示した通りであること、一、関東出陣についてのこと、この補足として、出陣の時期のこと、それに伴う下総国関宿城(葛飾郡下河辺荘)の救援についてのこと、一、敵陣営の小田(常陸国衆の小田中務少輔氏治。常陸国小田城主)のこと、一、同じく那須(下野国衆の那須修理大夫資胤。下野国烏山城主)のこと、一、佐竹領境の局面についてのこと、これらを説いて関係の改善を図った。
22日、(上杉「輝虎(花押影e2)」)、関東味方中の「富岡主税助殿(上野国小泉城主)」に宛てて書信を発し、上・越国境を越えて上野国沼田城(利根郡沼田荘)に到着したので、直ちに連絡を入れたこと、厳しい現状のなかでも相変わらず忠節を尽くしていることを称え、今後の更なる奮闘に期待を寄せるとともに、近日中に上野国金山城を攻めるために進陣するので、すぐさま合流するように指示を与え、これらについては河田豊前守(長親)が詳報することを伝えた。


この間、甲州武田「信玄(徳栄軒)」は、上野国岩櫃城(吾妻郡)の城衆から越後国上杉軍が同沼田城に着陣したとの急報を受け、25日、上野国松井田城(碓氷郡)に在番中の「小山田備中殿(号玄怡。虎満。武田家の譜代衆。信濃国内山城代)・同菅右衛門尉殿(昌成)」父子に対して書信を送り、沼田に着陣したらしい敵(越後国上杉軍)が、若しも西上野に侵攻するようならば、北方衆(信濃国佐久郡北方の武士団。岩村田大井氏の旧臣で構成される)に、その地(松井田城)へ移るように指示したことを伝えるとともに、信濃国佐久郡の同心衆と松井田の地衆を募り、城内・根小屋の防備を固めるように指示を送っている。
29日、信濃先方衆の「室賀山城守殿(信俊。信濃国室賀城主)」に対して書信を送り、越後国上杉軍の上州着陣に対応するため、上野国倉賀野城(群馬郡)に移ることを指示したところ、一も二もなく応じてくれたとして、いつもながらの殊勝な心掛けに満足の意を表するとともに、すぐさま倉賀野城に移り、在番衆の伴野左衛門佐(信是。信濃先方衆。信濃国佐久郡野沢の武士団である野沢衆の旗頭)・小宮山丹後守(虎高。甲州武田家の譜代衆)らと協力して防備を固めるように指示を送っている。

相州北条軍が下野国佐野の唐沢山城を攻囲すると、今秋に越後国上杉陣営に帰属したばかりの善(通称は彦太郎か。上野国善城主)と山上(通称は藤九郎か。同山上城主)が変節し、一軍を率いる藤田新太郎氏邦(武蔵国鉢形城主)の陣所へと駆け込んでいる(翌年の春、由良信濃守成繁は相州北条氏に対し、善・山上両氏を自分の与力として復帰させるように訴えている)。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 532号 水(杉)原祐阿書状、533・534号 上杉輝虎書状(写)、536号 上杉輝虎条書案、537号 上杉輝虎書状(写) 『戦国遺文 武田氏編 第二巻』 1149号 北方衆連署起請文、1185号 伴野信是起請文、1186号 野沢衆起請文 『戦国遺文 後北条氏編 補遺編』 4899号 由良成繁事書案

◆ 黒田基樹氏の論集である『戦国期東国の大名と国衆』(岩田書院)の「第Ⅲ部 第十二章 上杉謙信の関東侵攻と国衆」に従い、長尾源五が在城した「其地」を上野国桐生城とした。
◆ 武田家中と信濃先方衆については、柴辻俊六氏の編著である『新編 武田信玄のすべて』(新人物往来社)から、黒田基樹氏執筆の「信玄の先方衆統制」、平山優氏執筆の「武田信玄家臣団事典」を参考にした。
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越後国上杉輝虎の略譜 【32】

2012-10-23 08:31:35 | 上杉輝虎(謙信)の略譜
永禄9年(1556)6月 上杉輝虎(弾正少弼) 【37歳】

越中西郡に進攻すると、朔日、越中国増山城(砺波郡)に拠る神保惣右衛門尉長職の軍勢と交戦する。

7日、(上杉「輝虎」)、「吉江玄蕃丞殿(実名は景利か。旗本衆)」に感状を与え、去る朔日に神保が立ち向かってきた際、奮闘して敵の首級を挙げたのは、並外れて名高い殊勲であることを褒め称えるとともに、今後の更なる忠功に期待を寄せた。

25日、(花押)、代々に亘る忠節を評価して青海川図書助(譜代衆。越後国青海川城主)に安堵状を与え、代々に亘る御忠節により、前代の証文の通りに名代(名跡)の相続を認めた。

『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 517号 上杉輝虎感状(写)、518号 上杉輝虎判物(写)


永禄9年(1566)7月 上杉輝虎(弾正少弼) 【37歳】

17日、(上杉「輝虎(花押e2)」)、越中陣から、越府の「河田豊前守殿(長親。大身の旗本衆。上野国沼田城代)」に宛てて、昼前に急報を発し、再び丹後守(北条高広。譜代衆。上野国厩橋城主)から急報が届き、このたび侵攻してくる敵軍(甲州武田軍)は厩橋と倉内(沼田城)の両地を攻撃対象に定めているそうであり、取り分け倉内攻略に傾注する公算が高いようである旨を、確かに報告してきたこと、其方(河田長親)は城代としての責務を自覚し、つまらない油断から失態など演じてはならず、昼夜兼行で沼田へ急行するべきこと、よって、この切迫した事態を理解させるために、これらを繰り返し急報していることを伝えた。更に追伸として、判紙(輝虎の花押のみが据えてある白紙)を二十枚送るので、丹後守(北条高広)と相談して東口の味方中への書簡を整え、彼の味方中の参陣を呼び掛けるべきことと、味方中の参陣を募るために、わざわざ其方が派遣されてきた旨を強調して伝えることを指示した。
19日、(上杉「輝虎(花押e2)」)、上田衆(甥である上田長尾喜平次顕景の同名・同心・被官集団)の「太井田藤七郎殿(実名は景国か。上田長尾顕景の叔父と伝わる)・長尾伊勢守殿(実名は景貞か。同じく叔父と伝わる)・栗林次郎左衛門尉とのへ(実名は房頼か。上田長尾氏の年寄衆)」に宛てて、夜分に急報を発し、前回は河田豊前守(長親)と合流して倉内(上野国沼田城)へ移るように指示したが、豊前守の出立は予定より遅れているため、その地(越後国魚沼郡上田荘)の人衆は倉内により近いので、先ずは一刻も早く倉内へ急行するべきこと、必ず総員を引き連れるべきこと、急を要する事態であり、僅かな油断から凶事を招いてはならないこと、これらを取り急ぎ伝えた。

上州に在陣している甲州武田軍への対応として、休まず信州へ出陣することを決めていたが、情勢の変化に伴い、予定を変更して関東へ進軍するのに伴い、越府を経由し、各地に点在していた諸将の参集を募るなか、24日、輝虎が越中陣を撤収したのち、遅れての撤収を指示されていたであろう本庄弥次郎繁長(外様衆。越後国村上城主)・下田長尾遠江守藤景(譜代衆。同下田城主)・柿崎和泉守景家(同前。同柿崎城主)から、留守居をしている老将の「本美州(本庄美作入道宗緩)」に宛てて書信が発せられ、このたび御書を謹んで拝読し、恐悦しきりであること、今もっての「凶徒(甲州武田軍であろう)」は上野国に張陣しているので、(輝虎が)信濃国へ御出陣される旨を、各々(本庄繁長・長尾藤景・柿崎景家よりも後続の部隊)へ厳重に伝達したこと、この「諸軍」が国境付近まで到着した旨を連絡してきたこと、更に早飛脚を遣わして進軍を促すので、近いうちに着府するはずであること、よって、これらをよしなに御披露することを求められている。

28日、(上杉「輝虎(花押影e2)」)関東味方中が大挙して相州北条方へと転じるなか、このほど直属する意思を示した下総国衆の「野田右馬助殿(景範。下総国栗橋城主)」と常陸国衆の「土岐大膳大夫殿(治英。常陸国江戸崎城主)」のそれぞれに宛てて書信を発し、今秋に巻き返しを図るため、去る24日に関東へ向けて出陣し、今28日に越後国小千谷(魚沼郡)の地まで進んだことを伝えるとともに、近日中に倉内(沼田城)へ到着するので、これに合わせて参陣するように指示を送った。それから、指示内容については、河田豊前守(長親。上野国沼田城代)と北条丹後守(高広。同厩橋城代)が詳報することを伝えた。

◆ 土岐治英宛上杉輝虎書状写の花押型は不詳。


この間、相州北条氏政は、常・野州に出陣すると、参陣してきた結城左衛門督晴朝(下総国結城城主)を始めとする東・北関東の国衆らに証人を提出させている。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 424号 長尾藤景等三名連署書状(写)、464・465号 上杉輝虎書状(写)、517・518号 上杉輝虎感状(写)、522・523号 上杉輝虎書状(写)、997号 上杉輝虎書状(写) 『戦国遺文 古河公方編』 896号 足利義氏書状

◆ 『上越市史』等は464・465号文書を永禄8年に仮定、若しくは比定しているが、黒田基樹氏の論集である『戦国期東国の大名と国衆』(岩田書院)の「第Ⅲ部 第十二章 上杉謙信の関東侵攻と国衆」に従い、永禄9年の発給文書として引用した。


永禄9年(1566)8月閏8月 上杉輝虎(弾正少弼) 【37歳】

このたびの従軍将兵の遅参、甲州武田軍の信州出陣、関東味方中の離反などによって、上・越国境の越後国上田荘(魚沼郡)に滞陣を余儀なくされるなか、8月27日、(上杉「輝虎」)、越府の「蔵田五郎左衛門尉殿(実名は秀家か)」に宛てて書信を発し、信濃国飯山城(水内郡)の「城ぬし(主)」である「いつミ弥七郎(信濃外様平衆の泉弥七郎。実名は重歳か)」を支援するため、「城代」として「もゝの井伊豆守(桃井伊豆守義孝。譜代衆。越後国鳥(富)坂城主か)・か地あきのかミ(加地安芸守。実名は春綱か。外様衆。越後国加地城主)を「城下二のくるわ(副郭)」に配備するべきこと、城主の泉弥七郎は、今まで通り実城(主郭)に必ず居住させること、城衆(外様平衆)の「しもおさのかミ(上倉下総守)・三郎左衛門(尾崎三郎左衛門尉。実名は重信、或いは重誉か)・ちくせんのかミ(中曽根筑前守)らも変わりなく在城させるべきこと、飯山城は要地なので、各将が協力して防火や保全を怠らないように徹底させるべきこと、これらについての手配を指示した。
閏8月12日、(上杉「輝虎(花押e2)」)、上田陣に使者を派遣してきた関東味方中の「富岡主税助殿(上野国小泉城主)」に宛てて書信を発し、使者が見聞していった通り、ようやく軍勢が揃ったので、近日中に国境を越えることを報知するとともに、これまで無二の忠節を尽くしてきた吾分(富岡主税助)が危地に陥る事態のないように、対面の折に方策を協議することを約束した。更に追伸として、その方面の状況を丹念に注進してくれていることを、豊前守(上野国沼田城代の河田長親)から知らされており、いつもながらの殊勝な心掛けであるとして称賛した。

この間、甲州武田「信玄(徳栄軒)」は、閏8月3日、信濃国海津城(埴科郡)から同岡村城(小県郡)へと移ると、上野国岩櫃城(吾妻郡)の城衆から、徐々に同沼田城へ着陣し始めた越後衆の攻撃対象が吾妻地域であるとの情報を受け、19日、西上野在陣の「浦野宮内左衛門尉殿(西上野先方衆。上野国大戸城主)・山家薩摩守殿(信濃先方衆)・大井源八郎(昌業。信濃先方衆)・依田又左衛門尉(信盛。信濃先方衆)」に対して自筆の書簡を送り、信玄自らが信州に在陣して信・越国境を窺っているため、越後衆は上州で容易に軍事行動を展開できないと思われるが、油断は禁物なので、祢津(松鷂軒常安。信濃先方衆)・望月(遠江守信雅のことか。同前)らを上野国上野原(吾妻郡)へ派遣するので、こうした状況でも越後衆に攻撃の意思があるならば、どちらかが攻撃を受けるであろう岩櫃城と大戸城(同郡)のうち、対象となった城へ籠るように指示している。
27日、帰属を逡巡している上野国衆の「安中越前入道殿(重繁。上野国松井田城主か)」に対して書信を送り、進退を明らかにしないので、言語を絶していること、改めて信玄の存分をあまねく説明するため、明日までに曽祢掃部助(虎長。譜代衆。安中の指南を務める)を派遣すること、信玄が其方(安中越前入道)を軽んじていないところを理解してほしいこと、これらを懇ろに伝えている。

相州北条氏政の兄弟衆である大石源三「氏照(武蔵国由井城主)」は、閏8月25日、他国衆の勝浦「正木左近大夫殿(時忠。上総国勝浦城主)に対して返書を送り、先月以来の大雨により、渡河できずに出陣が遅延していることを弁明するとともに、先月半ばに越後衆が上・越国境に現れたとの情報が寄せられるも、それ以降の様子が伝わってこないので、確かな情報を入手したならば、速やかに報告することや、これまで敵陣営に属していた下野国衆の宇都宮(弥三郎広綱。下野国宇都宮城主)・両皆川(宗家の皆川山城守俊宗と庶家の同駿河守忠宗が並立する。同皆川城主)、上野国衆の新田(横瀬雅楽助(由良信濃守)成繁。上野国金山城主)、武蔵国衆の成田(氏長。武蔵国忍城主)らが帰属したことなどを伝えている。
その後、相州北条「氏政(左京大夫)」は、越後衆が上野国金山城(新田郡新田荘)を攻めるとの情報を受けると、29日、「源三殿(大石氏照)」に対し、飛脚を立てて書簡を送り、このほど景虎(輝虎)が新田に向かって出陣するようであり、方々から寄せられた注進は、この内容で一致していること、直ちに出陣の準備を進めるべきこと、更に情報を精査した上で、この五日のうちに先衆として出陣するべきこと、これらを取り急ぎ伝えている。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 524号 上杉輝虎書状(写)、615号 上杉輝虎書状(写) 『戦国遺文 武田氏編 第二巻』 1003号 小山田信茂書状、1005号 武田信玄書状写、1016号 武田信玄書状 『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』 977号 北条氏照書状、978号 北条氏政書状 ※ 『信濃史料 第十二巻』【高梨文書】 桃井義孝書状
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越後国上杉輝虎の略譜 【31】

2012-10-18 18:58:41 | 上杉輝虎(謙信)の略譜
永禄9年(1566)4月 上杉輝虎(弾正少弼) 【37歳】

3日、(上杉「輝虎(花押e1)」)、関東味方中の白井「長尾左衛門尉殿(憲景。上野国白井城主)」に宛てて書信を発し、その地(白井城)に武田晴信(甲州武田信玄)が攻め寄せてきたところ、城内の守りが堅く、何の戦果も得られずに退散したそうであり、ひときわ見事な奮闘であることと、一両日中に上野国厩橋城(群馬郡)へ戻り、白井領の経営について指図するので、詳細は省くことを伝えた。

8日、関東味方中の結城左衛門督「晴朝(下総国結城城主)」が、配下の「小塙左近とのへ」に感状を与え、下総国金(葛飾郡風早荘小金)・同臼井(印旛郡臼井荘)の両攻城戦に於ける働きを忠賞している。

9日、(上杉「輝虎(花押a3)」)、関東味方中の「富岡主税助とのへ(上野国小泉城主)」に宛てて書信を発し、来る13日に上野国和田城(群馬郡)を攻めるので、陣容を整えて速やかに参陣し、北条丹後守(高広。譜代衆。上野国厩橋城代)の協力して準備を進めるように指示を与えた。

12日、近江国矢嶋(野洲郡)に滞在中の左馬頭足利義秋に随伴する薬師寺九郎左衛門尉「弼長(管領家細川氏の旧臣)」から、年寄の「川田豊前守殿(河田長親。大身の旗本衆)に宛てて書信が発せられ、遅ればせながら新年の慶賀を表すること、御屋形様(輝虎)に対し、「御門跡(義秋)」が御書が整えられ、畠山殿(江州に在国中の紀州畠山氏。次郎四郎政頼)・遊佐新次郎(信教。政頼の重臣)・同美作守(安見宗房。同前)が一札を書かれたので、しかるべく御取り成してほしい事案を、適切に御披露してもらいたこと、これらを懇ろに伝えられている。

20日、甥である上田長尾喜平次「顕景(越後坂戸城主。常に府城で暮らしている)」が、帰陣した被官衆の「広居又五郎殿(忠家)」に感状を与え、このたびの下総国臼井城攻めに於いて、最も敵中深くに攻め入って戦い、その粉骨砕身の並外れた軍功を称賛するとともに、今後の更なる奮闘に期待を寄せている。
同日、同じく「下平右近允殿」に感状を与え、このたびの臼井城攻めに於いて、最も敵中深くに攻め入って戦ったのは並外れたものであり、そればかりか戦傷を負ったのは、まさに粉骨砕身の軍功であるとして称賛するとともに、今後の更なる奮闘に期待を寄せている。


この間、相州北条「氏政(左京大夫)」は、12日、総州臼井籠城戦に援軍として参加した家老の松田左馬助憲秀(北条一門に準ずる一族の家格を与えられた。小田原衆)の与力である松田孫太郎康郷(憲秀の従兄弟)に感状を与え、このたび長尾輝虎の出張に際し、臼井城に立て籠もり、身を砕くほどに奮闘されたこと、取り分け、去る23日に敵軍が大攻勢に出たところ、防戦に努めてくれたので、敵は五千余名の死傷者を出すと、翌日には敗退したこと、見事に忠節を果たし、優れて名高い殊勲を立てられたゆえ、長光作の太刀一腰を遣わすこと、これらを示して、その殊勲を褒め称えている。
同日、(花押)、同じく「蔭山新四郎殿(氏広。小田原衆)」に感状を与え、このたび臼井城に於いて、身を砕くほどに奮闘し、取り分け負傷しながら敵一名を討ち取った殊勲を褒め称えるとともに、今後の更なる忠節に期待を寄せている。
相州北条方の鎌倉公方足利義氏(花押)は、26日、「相馬内膳亮殿(義氏の奉公衆か)」に対して証状を与え、このたびの臼井城に於ける働きを忠賞して官途を与えている。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 403号 上杉輝虎書状、507号 上杉輝虎書状、509号 長尾顕景感状、510号 長尾顕景感状(写) 『上越市史叢書6 上杉家御書集成Ⅰ』 224号 薬師寺弼長書状写 『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』 943号 北条氏政感状、944号 北条氏政感状写 『戦国遺文 古河公方編』 893号 足利義氏感状写 『戦国遺文 房総編 第二巻』 1207号 結城晴朝感状写、1208号 北条氏政感状、

◆ 北条家中については、黒田基樹氏の論集である『戦国大名領国の支配構造』(岩田書院)の「Ⅰ 北条氏の他国衆統制 第三章 松田憲秀に関する一考察 ―「指南」の具体例として―」を参考にした。


永禄9年(1566)5月 上杉輝虎(弾正少弼) 【37歳】

9日、(「上杉藤原輝虎(花押e1)」)、春日山城内の看経所に願文を納め、一、分国の越後国・上野・下野・安房があらゆる災禍を免れること、取り分け越後・佐野の地(下野国佐野領)・倉内の地(上野国沼田領)・厩橋の地(同厩橋領)の安寧が永続すること、一、輝虎武運については、公衆が瞠目して感嘆するほどの武功を挙げること、日常に於いては、絶頂と低迷の何れの極みにあっても威厳を保ち、世才、調略を修め、短気を抑えて鷹揚に構えられるようになること、何事にも公正を期して高潔と謳われ、戦陣は言うに及ばず、何事に於いても衆人の目に留まる振舞いにより、見事と褒め称えられること、輝虎目前の者(近臣)は勿論、たとえ外様の者であろうとも、輝虎を重んじる者は武運と健勝が永続すること、一、北条氏康と抗争中ではあるが、上意様(足利義秋)の勧告に従い、輝虎が不利益を被らない形で、輝虎と氏康の間で真実の和談を成立させたいこと、一、輝虎神仏の助力を得て、今秋中に信・甲州を席巻し、輝虎は甲府を制圧して武田晴信父子(甲州武田信玄・同義信)を排除すること、一、武田晴信を滅ぼし、氏康と輝虎の間で真実の無事を成立させた上で、天下に上洛を遂げ、筋目を守って将軍家御再興に応じた諸侯と協力して三好(左京大夫義継)・松永(弾正少弼久秀)の一類を討ち滅ぼし、京都公方様・鎌倉公方様の両公方様を支えていくこと、これらの願いが成就すれば、堂社仏塔の建立と寺社神領の寄進を実行し、その上で輝虎は仏法と王法のそれぞれの理に正しく則って保護することを誓約した。

13日、打ち続く荒廃に困窮する越後国柏崎町(刈羽郡比角荘)の百姓中からの懇望を受け、旗本衆の「能信・(飯田)長家・(河隅)忠清」を奉者として、「柏崎御百姓中」に宛てて朱印状を発し、これまで滞納した租税を末代まで免除するとともに、町外で暮らす町人衆にきつく町内での定住を促し、それを妨げる者が現れたならば、どのような身分であっても告発するように指導した。

22日、(上杉「輝虎」)、幼主の上田長尾喜平次顕景(越後国坂戸城主)に代わって上田衆(上田長尾氏の同名・同心・被官集団)を束ねる「長尾伊勢守殿(実名は景貞か。上田長尾顕景の叔父と伝わる)・栗林次郎左衛門尉とのへ(実名は房頼か。上田長尾氏の年寄衆)」に宛てて書信を発し、只今この夕刻に北条丹後守(高広。上野国厩橋城主)から、晴信(甲州武田信玄)が上野国安中口(碓氷郡)へ再侵攻してきたとの急報が届いたので、その地の総員(上田衆)を召集し、次に号令をかけるまで、抜かりなく出陣の準備をして待機するべきこと、いささかも対応に遅延があってはならないこと、これらを取り急ぎ伝えた。更に追伸として、この書中を認めているうちに続報が届いたので、相次ぐ出陣による将兵の陣労は察しているが、ひたすら頼りにしており、太井田藤七郎(景国ヵ。顕景の叔父と伝わる。魚沼郡妻有地域の領主である新田里見氏流大井田氏に入嗣した)と合流した上で、早々に上野国倉内(沼田城。利根郡沼田荘)へと急行し、彼の地に豊前守(河田長親)を配備するからには、彼の者と協力して奮励するべきことと、(輝虎も)近日中に出陣するので、とにかく吾分共は倉内に急行するべきことを伝えた。
25日、(上杉「輝虎」)、上田衆の「長尾伊勢守殿・大井田藤七郎殿・栗林次郎左衛門尉とのへ」に宛てて再便を発し、再び倉内(沼田城代の河田長親は越府に滞在中)から、凶徒(甲州武田軍)が出陣してくる様子は、未だに確認されてないとの連絡がきたので、既報の通り、総員を召集して抜かりなく出陣の用意を進め、実際に敵軍の出陣が確認されたら、倉内へ急行するべきこと、よって、現時点での移動は、取り敢えず無用であることを伝えた。


この間、上・野州方面に出陣した相州北条氏政は、越後国上杉氏陣営の国衆を切り崩し、常陸国衆の小田中務少輔氏治(常陸国小田城主)、下総国衆の結城左衛門督晴朝(下総国結城城主)、下野国衆の小山弾正大弼秀綱(号良舜。下野国祇園城主)・宇都宮弥三郎広綱(同宇都宮城主)から証人を取って服属させている。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 457・458号 上杉輝虎書状(写)、511号 上杉輝虎願文、513号 上杉輝虎朱印状(写) 『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』 948号 北条氏照書状写 『戦国遺文 古河公方編』 893号 足利義氏感状写

◆ 『上越市史』等は457・458号文書を永禄8年に仮定、若しくは比定しているが、黒田基樹氏の論集である『戦国期東国の大名と国衆』(岩田書院)の「第Ⅲ部 第十二章 上杉謙信の関東侵攻と国衆」に従い、永禄9年の発給文書として引用した。
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越後国上杉輝虎の略譜 【30】

2012-10-14 23:12:17 | 上杉輝虎(謙信)の略譜
永禄9年(1566)2月3月 上杉輝虎(弾正少弼) 【37歳】

上野国安中口(碓氷郡)で甲州武田軍を撃破すると、2月朔日、(上杉「輝虎(花押a3)」)、関東味方中の「富岡主税助殿(上野国小泉城主)」に宛てて書信を発し、早々に下野国佐野(安蘇郡佐野荘)へ進陣するべきところ、晴信(甲州武田信玄)が上野国諏訪(碓氷郡松井田城。在城していたと思われる安中越前入道(重繁)は上杉方に通じたのか)の地に攻め寄せてきたので、これを見過ごすのは気掛かりであるため、心ならずも延引したこと、よって、彼の口の安中の地に於いて一戦に及び、多数の敵兵を討ち取って勝利したこと、この上は速やかに取って返し、来る5日には佐野へ着陣する決意なので、其方(富岡主税助)も必ず総員を引き連れて合流を果たすべきこと、いささかも怠慢があってはならないこと、館林(上野国館林城主の足利(館林)長尾但馬守景長)と良好な関係を築いているとの知らせを聞いて、喜びもひとしおであること、これらを意図をもって伝えた。

3日、下野国足利荘(足利郡)の鑁阿寺の別舎である千手院から、このたびの関東出陣に於ける輝虎の武運を祈願した巻数及び、樽肴と抹茶を贈られたことを受け、取次の河田「豊前守長親(大身の旗本衆。上野国沼田城代)」が、「謹上 千手院 貴報」に宛てて返書(封紙ウワ書「謹上 千手院 貴報  河田 豊前守長親」)を発し、このたび御祈念された巻数ならびに樽肴と抹茶を御献上されたので、披露に及んだところ、すこぶる御喜びになられていること、また、拙夫(河田長親)にも員数通りに御樽肴を贈って下さり、言い尽くせないほど感謝していること、よって、この在陣中に改めて御礼を申し述べることを伝えている。

10日、(上杉「輝虎(花押影e1)」)、関東味方中の佐竹次郎義重(常陸国太田城主)が下野国佐野陣に使者を寄越し、同横田(芳賀郡二宮)の地に着陣したことを知らせてきたので、佐竹義重の側近である「梅江斎(岡本禅哲。譜代衆)」に宛てて返書を発し、このほど(佐竹)義重が横田の地まで進陣したのに伴い、使者を寄越してくれたので、こうして祝着の意を表するため、回報に及んだこと、今回は常陸国小田城(筑波郡)を攻め落として決着をつけるつもりでいたところ、氏治(小田中務少輔氏治)が晴朝(結城左衛門督。下総国結城城主)を頼み、居城を永久に破却するとして、一身の助命のみを嘆願してきたゆえに容赦したこと、この首尾については、太田美濃守方(三楽斎道誉。資正)に詳説したので、必ずや申し届けられるであろうこと、これらを懇ろに伝えた。

結局、そのまま小田氏治の小田在城を認める。

その後、佐野の反抗勢力を鎮圧すると、上野国館林城(邑楽郡佐貫荘)に移り、未だ到着しない味方中に総州計略を触れ回って参陣を募るなか、21日、番城制を敷いた下野国佐野領の唐沢山城の在番衆である「吉江中務少輔(丞)殿(忠景。大身の旗本衆)・五十公野玄蕃允殿(外様衆。越後国五十公野城主)・大貫左衛門尉殿(実名は宅広か。佐野小太郎昌綱の重臣)」に宛てて覚書(封紙ウワ書「吉江中務少輔殿」)を発し、これから連絡や指示を送る際に使用する判形・印判を用途別(隠密の時に用いる花押e1、隠密の時に用いる印文「宝在心」、表向きの用所の時に用いる印文「立願 勝軍地蔵 摩利支天 飯綱明神」、所帯方・万事調え方の時に用いる印文「梅」、使用を止める花押e1判)に示した。

それから間もなく、先年の相州小田原・鎌倉陣にも勝る陣容で総州へ進み、相州北条家に属する他国衆・高城下野守胤辰の拠る下総国大谷口城(葛飾郡風早荘小金)に攻め寄せると、城下の平賀法華寺(本土寺)からの懇望に応じ、年寄衆の河田「豊前守」長親(上野国沼田城代)・北条「丹後守」高広(譜代衆。同厩橋城代)・直江「大和守」政綱(大身の旗本衆)を奉者として制札を掲げ、関東・越後の諸軍勢の濫妨狼藉を停止した。
3月に入ると、下総国船橋(葛飾郡)の天照大神宮(意富比神社)にも河田長親を奉者として制札を掲げ、関東・越後諸軍勢の濫妨狼藉を停止した。

3月3日、北条丹後守高広と河田豊前守長親を通じて内々に服属を約束していた、相州北条家に属する他国衆・相馬孫三郎治胤(下総国守谷城主)から、「御旗本」の年寄衆に宛てて書信が発せられ、このほど関東に御出陣されたのに伴い、忠信を尽くす所存であり、繰り返し北条丹後守・河田豊前守方へ内儀を申し入れたこと、このたび総州金(小金)に御近陣されたからには、何はさておき代官の引率する軍勢を派遣したこと、彼の両人(北条・河田)を通じて覚悟の旨を示させてもらうこと、鹿毛の馬一匹を献上すること、何かにつけて来信が待たれること、これらを懇ろに伝えられている。

その後、小金の高城下野守胤辰を押さえ込むと、9日、同じく北条氏の他国衆・原上総介胤貞の拠る下総国臼井城(印旛郡臼井荘)の攻撃を開始した。20日までに、全ての外郭部を制圧すると、遮るのは堀一重のみとなった主郭を昼夜の別なく攻め立てた。

20日、関東味方中の足利長尾「但馬守景長(上野国館林城主)」が、下野国足利荘(足利郡)の鑁阿寺の支院である「千手院 御報」に宛てて書信を発し、このたびの戦陣により、鑁阿寺の衆中が御祈念された巻数と守を給い、とこしえの喜びであること、取り分け貴院は格別に精誠を尽くしてくれたので、これまた喜ばしい限りであること、抹茶一器を贈ってくれたので、ありがたく賞味に預かったこと、臼井の地については、実城を堀一重に追い詰めて諸軍勢が取り囲み、昼夜の隔てなく攻め立てており、落着するのは間もないこと、皆々が取り沙汰する分は、先年の小田原陣にも勝るとも劣らない陣容であろうこと、すでに御存知であろうが、屋形(輝虎)に於いては、貴院に対して尋常ならざる御懇切を示されており、すこぶる御めでたいこと、つまりは御祈念の効験によるものであり、なおいっそう御祈念に御精誠を尽くされるべきこと、よって、あらゆる慶賀については、帰陣の上で表することを伝えている。更に追伸として、旗本へ巻数・抹茶に書中を添えて送り届けたが、万事御取り込み中ゆえ、只今の御返しはされないので、取り敢えずは当方で整えて御返しを送ることと、河豊(河田豊前守長親)へ巻数・抹茶、定隣軒(信楽)と境大学助には抹茶を届けたことを伝えている。

23日、強攻した房総勢(房州里見正五・同義弘父子、土気酒井中務丞胤治ら)が三百余名を失って後退を余儀なくされたので、その夕刻に一部の越後衆を房総勢の去った陣場へと移す。

24日、関東味方中の結城左衛門督晴朝(花押)・(下総国結城城主)が、配下の「宇佐美大蔵丞とのへ」に感状を与え、臼井城攻めに於ける奮闘を称えている。

25日、総州平定を断念して臼井城から撤収した。

今般、上洛して将軍家再興に寄与するため、総州を平定して古河城(葛飾郡)周辺の保安を万全に整え、関東公方の足利藤氏を還座させて関東経略に目処を付ける必要から、決然と総州平定に臨んだが目的を遂げられず、これによって急速に関東味方中の支持を失っていく。


このように総州の攻防が終盤を迎えるなか、相州北条「氏政(左京大夫)」は、25日、「武田殿(甲州武田信玄)」に対して書信を送り、一昨23日に臼井城を攻めていた敵軍は数千人の死傷者を出したこと、その注進状を御披見のために送ったこと、この上は敵軍の敗北は疑いのなく、一日も早く御陣を寄せてもらいたいこと、臼井城中から到来した使者の口上によれば、多数の死傷者を出した房州衆ならびに酒井の総勢は退陣したこと、その日の夕刻には、彼の衆が退いた陣場に小勢の越後衆が移陣してきたそうであること、折角の好機であり、このところを十分に考慮してほしいこと、よって、これらを安伊(安西伊賀守)が詳報することを伝えている。

相州北条方の鎌倉公方足利義氏(花押)は、28日、臼井城に参陣した奉公衆の「豊前山城守殿」に対して書信を送り、このたび凶徒が臼井に張陣した際の様子を知らせてくれたので、ひとしお御感悦であること、去る23日に凶徒は大攻勢に出るも、五千余名の死傷者を出し、25日に敗北したそうで、この喜ばしい首尾に、ひたすら御満足であること、氏康父子は後詰の一戦を遂げるため、その地へ御出陣されるつもりであったが、無為に敵軍は退散してしまったので、はなはだ御無念であること、よって、これらを両人が詳述することを伝えている。


こうしたなか、3月10日、昨年の11月21日に近江国和田城(甲賀郡)を後にして同矢嶋(野洲郡。奉公衆でもある矢嶋越中守定行の城館)に移った一乗院覚慶改め足利義秋から二通の御内書(「上杉弾正少弼とのへ」)が発せられ、相・越に和談を勧告するため、北条(相州北条氏)へも使者を遣わしたので、このたび勧告に従って和談を取りまとめ、当家再興のために忠功を尽くせば、喜びもひとしおであること、更に、先だって上洛を促すために祐阿(奉公衆の杉原入道祐阿)を派遣したところ、事態を重んじて使僧の智光院(頼慶)を寄越し、一書をもって示してくれた覚悟のほどは、他に並ぶ者のいない抜きん出た振舞いであり、感悦極まりなく、ひとえに当家再興の基であること、太刀一腰と黄金百両を贈ってくれたので、歓喜していること、よって、これらを大覚寺門跡(義俊)が詳報することを伝えられている。
同日、左馬頭足利義秋(花押)から条書が発せられ、一、入洛について申し遣わしたところ、たちまち納得してくれたので、喜びもひとしおであること、一、諸方面への調略を油断なく手配していること、一、適当な御座所が見当たらないため、越(越前)か若(若狭)へ移ることを考えていたが、ここより更に京都からほど遠くなるので、当面はこの地に留まること、一、思うように当家の再興がはかどらなくても、このたびの無念は必ず晴らすつもりなので、そのための方策を余すところなく提言してくれれば、喜びもひとしおであること、一、近臣は若輩ばかりなので、何かと気苦労が多いこと、一、還京を焦って失敗すれば、諸国や周辺の面々から見放されてしまうのは明らかなので、慎重を期するつもりではあるが、輝虎の参洛が遅れては、一向に還京の機会は訪れないこと、一、輝虎の近臣の覚悟のほども十分に伝わったこと、一、三好(河州三好左京大夫義継)・松永(和州松永弾正少弼久秀)が妨害工作を巡らせているのは明白であり、疑う余地もないが、そのうちに両者は天の道理に裁かれて自滅すること、一、智光院(頼慶)を当家再興の成就まで随身させるとの格別な厚意には、すこぶる感悦しており、ありがたく用所を申し付けること、これらの条々を示されている。
同日、左馬頭足利義秋(花押)から、甥の「長尾喜平次とのへ(上田長尾顕景。越後国坂戸城主)」、越後奥郡国衆の「色部修理進とのへ(色部勝長。同平林城主)」、年寄衆の「斎藤下野守とのへ(斎藤朝信。同赤田城主)」、信濃衆の「泉弥七郎とのへ(重歳ヵ。信濃国飯山城の城衆)」のそれぞれに宛てて御内書が発せられ、先頃に祐阿(奉公衆の杉原入道祐阿)を遣わし、輝虎が上洛を遂げるための尽力を頼んだところ、相当の覚悟を表したとして称賛されるとともに、越・相無事に伴う上洛の実現に向けて奔走するように、よくよく仰せ付けられている(これらの諸将は今次の関東遠征に於ける留守将であろう)。
同日、大覚寺門跡義俊から条書が発せられ、一、京都の決着がつくまでは、智光院を上意様(足利義秋)に随身させるとして、折に触れて様子を確かめ合えるように取り計らった御忠節は、都鄙に広く知れ渡り、その声望は計り知れないこと、一、相州とは是が非でも和与を結ばれて、参洛されるべきこと、一、山城・摂津・大和・河内・丹波など各国の諸侍のなかには、上意様と三好・松永方の何れにも誼を通じた輩もいるが、そうした輩も上意様が行動を起こした際には、必ず御味方される決意を表明しているので、(輝虎が)参洛されれば、即時に御当家(将軍家)再興も果たされること、一、賀(賀州一向一揆)と越(越前国朝倉氏)の無事についてのこと、一、昨年の11月21日に甲賀より矢嶋に御座を移されたこと、一、江州の情勢について、一、このたびの光源院殿(足利義輝)の御生害ついて、三好方三人衆(三好日向守長逸。同下野入道宗渭(釣竿斎。政生)。石成主税助友通)の言い分は、彼の始末は松永(久秀)の所行であるとして、無実を訴えてきたが、あいまいであるため、再三に亘って無用と断ったにも係わらず、三人衆から誓詞をもって偽りのない旨を示されたこと、そして、天下については、阿州の御仁体(足利義親。のち義栄と改める)と御和睦されなければ、静謐を迎えるのは容易ではなく、それでもなお御入洛されるのであれば、上意様の御覚悟に行く末を委ねる次第であること、このように様々な申し立てをしていること、一、松永(久秀)の言い分は、これもまた関与の一切を否定しており、篠原方(右京進長房。阿波国勝端城の城主である三好阿波守長治の老臣。同上桜城主)が推し進めた計画を食い止められなかったが、いささかも逆心を抱いてはおらず、その証拠に、上意様を南都で殺害するつもりでいた篠原の説得に努め、自分の才覚で上意様の身柄の安全を図った事実があるとして、むしろ大忠を成したのではないかとの異議を申し立てていること、そして更に、この機会を捉えて行動を起こされるのであれば、河(河内)・泉(和泉)・紀(紀伊)に於ける数多の諸侍と協力して忠功を尽くすので、即時に御無念を晴らされるべきであるとの提案を申し立てていること、このように三好方三人衆と松永は切々と訴えてきたが、上意様は一切をはねつけられたこと、一、尾(尾州織田信長)と濃(濃州斎藤龍興)の両名は、上使の仲介によって和睦が調えば、すぐさま参陣する意向を内々に示しており、御上使として細川兵部大輔(藤孝)が両国に下されること、一、取り分け越(越前国朝倉義景)と若(若州武田義統)とは緊密に連絡を取り合われていること、これらの条々を示されている。
20日、智光院「頼慶」が、「色部修理進殿(勝長)御宿所」に宛てた書簡(封紙ウワ書「色部修理進殿御宿所  智光院 頼慶」)を東蔵坊に託し、先頃に面々衆が輝虎様を支えられる覚悟を示したことに感嘆された上意様が、それぞれに御内書と大覚寺門跡(義俊)の副状が発せられたのであり、誠に計り知れない御名誉であること、いよいよ各々方が一致団結して越・相無事の成就に奔走され、御参洛の実現に寄与されれば、本望満足であるとの意趣を申し遣わすように、上意様から愚僧が仰せ付けられたこと、よって、これらを東蔵坊が詳述することを伝えられている。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 306号 上杉輝虎書状(写)、484号 河田長親書状、486号 上杉輝虎書状(写)、487号 上杉輝虎印判覚(写)、488号 小山良舜書状、489号 大仲寺良慶書状、491号 河田長親等三名連署制札、493・494号 足利義秋御内書、495号 足利義秋条書、496号 大覚寺義俊条書(写)、497号 足利義秋御内書、498号 大覚寺義俊副状、499号 足利義秋御内書、500号 大覚寺義俊副状(写)、501・502号 足利義秋御内書(写)、504号 智光院頼慶書状、 505号 河田長親制札(写) 『戦国遺文 房総編 第二巻』 1200号 相馬治胤書状、1201号 長尾景長書状、1202号 結城晴朝感状、1203号 北条氏政書状写、1204号 足利義氏書状 『千葉県史 資料編 中世5(県外文書2 記録典籍)』 734号 海上年代記

◆ 三好三人衆・篠原長房などについては、福島克彦氏の著書である『戦争の日本史11 畿内・近国の戦国合戦』(吉川弘文館)の「Ⅲ 三好長慶の時代 5 松永久秀と三好三人衆」、天野忠幸氏の論集である『戦国期三好政権の研究』(清文堂出版)の「第一部 国人編成と地域支配 補論 三好一族の人名比定について」を参考にした。
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越後国上杉輝虎の略譜 【29】

2012-10-11 21:07:12 | 上杉輝虎(謙信)の略譜
永禄8年(1565)11月 上杉輝虎(弾正少弼) 【36歳】

24日、関東遠征のために出府する。

26日、年寄の直江「大和守政綱(大身の旗本衆。越後国与板城主)」が、出羽国檜山(河北郡)の領主である下国安東秋田城介愛季(出羽国檜山城主)の年寄中に宛てて、陣中から返書(進上書)となる初信を発し、昨年、輝虎方に稀有な御鷹を贈ってくれたので、満悦の思いを口にされていること、すぐにでも御礼を申し伝えるべきところ、相次ぐ関東・信州・甲州での戦陣に取り紛れて先延ばしにしてしまわれたが、いささかも軽んじられたわけではないこと、このほど参府した砂越殿(也足軒。出羽国衆・大宝寺新九郎義増の重臣で、安東愛季の舅。出羽国砂越城主)と厚誼を深められたので、きっとそちらも歓喜されるであろうこと、再び厚かましい申し入れで憚られるも、内々で(砂越)也足軒に仲介を頼んだので、まだ相当な鷹がいれば、是非にも所望されていること、よって、これらを彼の御方(砂越)が詳報してくれるので、御意を得られるように、然るべく取り成すことを求めている。

27日、越後国柏崎(刈羽郡比角荘)の地に着陣する。

同日、河田「豊前守長親(大身の旗本衆。上野国沼田城代)」が、下国安東氏の年寄中に宛てて、越後国柏崎(刈羽郡比角荘)陣から返書となる初信を発し、去る頃に輝虎が黒江修理進(旗本衆)を派遣して鷹を所望されたところ、誠に稀有な御鷹を贈ってもらえたので、こよなく溺愛されていること、直ちに満悦の意を申し伝えるべきところ、諸事に取り紛れていたゆえ、無沙汰のようになってしまったこと、再び厚かましい申し入れで憚られるも、内々に砂越也足軒に仲介を頼み、こうして不躾ながら音信を通じ、相当な御鷹を所望されていること、よって、これらを也足軒に詳報してもらうことを伝えている。そして、関東の統治のために、一昨々24日に出府し、今27日に当地柏崎に着陣したので、思いのままに関東を取り仕切り、やがて帰陣したあかつきに、諸々について連絡することを約束している(柏崎で砂越也足軒と別れ、両書簡を託したか)。

同日、関東味方中の房州里見義弘(太郎)が、輝虎の関東経略に参陣する費用捻出のため、国中から棟別銭を徴収している(妙本寺など一部は免じられる)。


この間、甲州武田軍(上州に駐留する部隊と西上野先方衆によって編成されるか)は、上野国嶽山城(吾妻郡)を攻略している。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 477号 直江政綱書状、478号 河田長親書状 『戦国遺文 房総編 第二巻』 1190号 里見義弘判物 『戦国遺文 武田氏編 第二巻』 985号 武田信玄判物、986・987号 武田信玄判物写 ※ 『能代市史 資料編 古代・中世一』


永禄8年(1565)12月 上杉輝虎(弾正少弼) 【36歳】

上総在国の鎌倉公方足利藤氏から関東経略を命じられたことを受け、房州里見正五(岱叟院。権七郎義堯)の拠る上総国久留里城(望陀郡)に使者を派遣して下命に従う旨を伝えると、3日、上総御所足利藤氏が、下野国衆の「小山弾正大弼殿(秀綱。号良舜。下野国祇園城主)」に宛てて直書を発し、このたび幸便を得たので一筆を遣わすこと、先頃は其方(小山秀綱)へ使僧を遣わしたところ、懇切に言上してくれたこと、取り分け彼の使僧を通じて条々を存分に述べてくれたので、その忠義のほどに、ひたすら感悦していること、関東出陣を決めた輝虎が義堯父子の許へ使者を寄越されたこと、極めて重要な局面であること、輝虎が関東に出陣してくるからには、今こそ年来の忠義を示す時であり、早々に出陣して輝虎の到着を待ち、合流を果たしたのちには直談に及ばれ、下総国古河城(葛飾郡)の奪還に傾注するべきこと、鳥子の料紙二百枚と唐墨(唐(明)製の固形墨)を贈ってくれたので、喜びもひとしおであること、何はともあれ彼の使僧を再派遣するので、その時分に詳細を詰めたいことを伝えている。

半ば頃、上野国沼田城(利根郡沼田荘)に着陣したところ、下野国足利荘(足利郡)の鑁阿寺の別舎である延命院から、このたびの関東出陣に於ける輝虎の武運を祈願した巻数及び、抹茶を贈られると、21日、取次の「平 豊守(山吉孫次郎豊守。大身の旗本衆)」が、「延命院 参御報」に宛てて書信(謹上書)を発し、このたびの屋形(輝虎)の御出陣に伴い、御祈念を励まれると、衆中から御飛脚をもって御巻数と抹茶を御進上されたので、披露に及んだところ、屋形は御喜悦であること、本来ならば早々に御飛脚を帰すべきところ、屋形が御礼状を託すつもりで留められていたが、色々と御多忙ゆえ、昼も夜も今日に至るまでも余裕がなく、先ずは自分の御礼状のみを託して御飛脚を帰すこと、屋形の御礼状が整えられたあかつきに送られること、万事めでたく後便を期すること、これらを懇ろに伝えている。

24日、古河城へと帰座して威光の回復を図る上総御所足利藤氏から直書が発せられ、関東に出陣して経略にあたることを命じられている。
同日、上総御所足利藤氏(花押)から、取次の「河田豊前守殿(長親。上野国沼田城代)」に宛てて直書が発せられ、取り急ぎ申し遣わすこと、このたび輝虎が関東に出陣して一円の統治を施すそうであり、いかにも重要な事柄との思召しであるため、輝虎に御書を認められたこと、輝虎を支えて御威光の回復に精勤すれば、上意(足利藤氏)への忠節の表れであること、よって、これらを義弘父子(義弘の妻は藤氏の妹)と簗田中務太輔(晴助。関東府足利家の宿老衆。下総国関宿城主)が詳報することを伝えられている。
26日、輝虎の倉内(沼田)着陣の報に接した上総御所足利藤氏が、「小山弾正太弼殿(秀綱)」に宛てて直書を発し、このほど輝虎が倉内に着陣したので、これより義堯父子と相談して輝虎の許へ使者を派遣するのに伴い、其方に一筆を遣わすこと、このたびの輝虎の戦陣が総州経略を目的としているからには、(古河への)動座に寄与させるつもりであること、前々から申し遣わしているように、高朝(小山下野守。号明察。秀綱の父。下野国榎本城主)と打ち合わせた上で、速やかに当方へ参陣し、義堯父子と協力して威光の回復に励むべきこと、よって、これらを彼の使僧が詳述することを伝えている。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 1012号 山吉豊守書状 『戦国遺文 房総編 第二巻』 1191号 足利藤氏書状写、1193号 足利藤氏書状、1194号 足利藤氏書状写


永禄9年(1566)正月 上杉輝虎(弾正少弼) 【37歳】

6日、(上杉「輝虎(花押a3)」)、関東味方中の「富岡主税助とのへ(上野国小泉城主)」に宛てて書信を発し、このたび横瀬雅楽助(由良信濃守成繁。上野国衆。上野国金山城主)が、相州北条方に圧迫されている上野国館林城(邑楽郡佐貫荘)の救援に向かうので、其方(富岡主税助)協力して奮励するべきこと、わずかでも油断があっては不首尾を招くこと、よって、取次の河田(豊前守長親)が詳報することを伝えた。

下野国足利荘(足利郡)の鑁阿寺の別舎である金剛乗院から新年の慶賀が寄せられるも、甲州武田軍が上州に出陣してきたとの情報に接し、その対応に追われ、取次の山吉孫次郎豊守も多忙を極めているため、21日、その側近である上松弥兵衛尉藤益が、「金剛乗院 参御尊報」に宛てて返書を発し、このたび過分にも御尊書を給わり、ひたすら恐縮していること、新年の御慶賀として、屋形様(輝虎)へ御祈念された御巻数ならびに抹茶を御進上により、すぐさま山吉が披露に及んだところ、めでたくも御喜悦されたこと、内々に御礼のための御直書を整えたいとの御意向であったが、爰許(上州)に晴信(甲州武田信玄)が現れたので、夜毎に軍勢を繰り出しては、迎撃態勢を整えられているために繁忙を極められており、先ずは某(上松)をもって御返事に及ばれたこと、御直書が整ったあかつきには、今明であろうとも某の中間に持たせて届けること、また、山吉が御茶と御書を、某が下緒一筋を給わり、何れも恐縮していること、近日中に使者をもって詳述するので、この書面は略したこと、これらを懇ろに伝えている。

24日、(上杉「輝虎」)、「富岡主税助とのへ」に宛てて再便を発し、来る26日に下野国佐野(安蘇郡佐野荘)の地へ進陣するので、必ず日限通りに陣容を整えて合流を果たすべきこと、館林(足利(館林)長尾但馬守景長。上野国館林城主)からの情報によれば、佐野の天徳寺(宝衍。下野国衆・佐野小太郎昌綱の親族)が南方(相州北条氏)に内通しているようなので、当方も近日中に佐野へ帰還するゆえ、可能な限り急いで、その実否を質出立し、佐野の様子を窺うべきこと、館林と良好な関係を築いている様子を、双方から寄せられたので、ひたすら感じ入っていること、これらを改めてを伝えた。

この頃、今次の関東経略に参加を募った関東味方中の動員人数を定めている。

結城(左衛門督晴朝。小山高朝の子で秀綱の弟。下総国結城城主)二百騎
小山(弾正大弼秀綱。号良舜。小山高朝の子で結城晴朝の兄。下野国祇園城主)百騎
榎本(小山下野守高朝。号明察。小山秀綱と結城晴朝の父。同榎本城主)三十騎
以上の三氏は、常陸国小田城攻略を条件として参陣に応じた。
佐野(小太郎昌綱。下野国唐沢山城主)代官 二百騎
横瀬(由良信濃守成繁。上野国金山城主)三百騎
「長尾但馬守」(景長。同館林城主)百騎
成田(左衛門次郎氏長。武蔵国忍城主)二百騎
広田(式部大輔直繁。同羽生城主)五十騎
木戸(伊豆守忠朝。広田直繁の弟)五十騎
簗田(洗心斎道忠。中務大輔晴助。下総国関宿城主)百騎
「富岡主税助」(上野国小泉城主)三十騎
「北条丹後守」(高広。同厩橋城代)
沼田衆
房州衆(岱叟院正五(里見権七郎義堯)・同太郎義弘父子。上総国久留里城主)五百騎
里見氏は、下総国小金城(大谷口城)の攻略など、総州に於ける軍事行動を担う。
「酒井中務丞」(胤治。上総国土気城主)百騎
太田(三楽斎道誉。美濃守資正。もと武蔵国岩付城主。下野国衆宇都宮氏の許で仮寓中)百騎
野田(右馬助景範。下総国栗橋城主)五十騎
宇都宮(弥三郎広綱。下野国宇都宮城主)代官 二百騎
佐竹(次郎義重。父の義昭は永禄8年11月に病没したとされる。常陸国太田城主)同心・代官 二百騎

このうちで、山内(越後国)上杉家に直臣化した国衆の名は、官途・受領まで記載されている。それから、名簿に記載のない白井長尾左衛門尉憲景(上野国白井城主)・惣社長尾能登守(実名は景総か。同惣社城主)・箕輪長野左衛門大夫氏業(同箕輪城主)などは、甲州武田軍を抑制するため、上州に残留したようである。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 483号 上杉輝虎書状(写)、958号 上杉輝虎書状 『栃木県史 史料編 中世1』【安足地区 足利市 鑁阿寺文書】 290号 上松藤益書状 『戦国遺文 房総編 第二巻』 1198号 関東衆軍役書立写
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