永禄6年(1563)7月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼)【34歳】
〔輝虎、願文を神仏に捧げ、武田晴信・北条氏康の没身、越後・分国の豊饒安全、武運長久を希求する〕
7月18日、越後国柏崎(刈羽郡比角庄)の飯塚八幡宮別当の極楽寺や出雲崎(山東(西古志)郡)の高名山薬師寺などの寺社に願文を納め、それは、卯摩肖の気という話であり、幼稚にして父母の後を弔い、そうはいっても、天の撫育をもって、あろうことか越後・信濃両国において数度の戦場を彷徨い、本国に居ながらにして遠くの敵に計策をもって勝ちを決し、そればかりか、先年は上州に向けて旌旗を発し、敵城の数多が、あるいは攻落、あるいは降参、長年にわたって管領家に対して不義を働いた方々のほとんどが先忠に復し、もとより、去る先代九以来、東国の諸士の覚悟はまちまちにして、上下の法礼に背き、親兄弟を敬うを無視し、濁世であるのは勿論とはいえ、逐年追日、闘諍鉾楯に休みなく、これにより、領地の昿野は残らず狼鹿狸兎の栖となり、万人は零落し、言語に絶し、そうしたところ、輝虎の団扇の威風により、味方に属する輩は、近年は無為の和を設け、人民は安堵の思いに帰り、この時には、すでに百余年も放火を揚げていなかった相州小田原の地を一宇残らず焼き払い、そのうえ鎌倉中に連日旗を立て、北条左京大夫を擒にしたゆえであり、懼れの摩肖の心頭にあらざるであろうか、殊に能(能登)・越(越中)・佐(佐渡)の三箇国は手中にしているも同前であり、なお、ただ今は五壇修行の意趣は、武田晴信・北条氏康という当時の佞者が関・信の両州をほしいままにして、山門を破壊ならびに諸五山末寺々の領などに人を成し給い、これ誠の仏法・王法の敵であり、坂の東において悪逆非道の族は何者か、彼の両人の如きであろうか、つまるところ、晴信・氏康没身調伏の修法を、この壇で行って成就し、庶人の愁いを除き、されば、分国中、とりわけ越後州の豊饒と安全を、この精誠でもたらし、輝虎がますます繁栄して雲上において名を揚げ、武運長久の心中から求めるところは、衆中の願いをすべて満足させるのみであること、よって、状に前記した通りであること、これらを願い求めた(『上越市史 上杉氏文書集一』344号「八幡 極楽寺一如阿闍梨江 参」宛「藤原輝虎」願文【花押a3】、345号「高名山薬師寺」宛「藤原輝虎」願文写)。
※ 上杉輝虎の願文については、木村康裕氏の論集である『戦国期越後上杉氏の研究 戦国期研究叢書9』(岩田書院)の「第二部 上杉謙信の世界 第三章 上杉謙信の願文」の記述を参考にする。
こうしたなか、7月16日、在府している揚北衆の色部修理進勝長が段銭請取日記を差し出し、段銭請け取りの日記、色部遠江守方(憲長。勝長の父)の事、拾六町 加納庄牛屋条、 というわけで、九町九段七拾八束苅 加納庄、以上弐拾五町九段七拾八束苅、このうち七町九段七拾八束苅は、不作・川崩れの御詫言により、拾八町分を当納する、よって、前記した通りであること、 大永五年乙酉十一月五日 (大熊)政秀判、 同名飯岡本持所のうち、古色部の地弐町の所は、子細があり、中頃には鮎川美濃守が保有していたこと、そうしたところに二十余年以来は、彼の地を前々の通りに拙者(色部勝長)が知行したので、合わせて二十町を納める、 瀬波郡荒川保のうち、由緒の地を以前は、 御料所の段銭であったこと、それ以来は加地方が知行致されたこと、その後は中条方が保有されたこと、近年は拙者が保有したとはいえ、不作の地といい、殊に各々の知行分であるといい、田帳の案内を知らないにより、御前帳次第でその旨を考えること、これらの事情を申し分けている(『新潟県史 資料編4 中世二』1067号 色部勝長段銭請取日記)。
この間、敵対関係にある甲州武田陣営では、甲州武田信玄(徳栄軒)が相州北条氏康(左京大夫)との盟約に従って加勢のための出陣を控えるなか、7月22日、信玄側近の甘利昌忠(左衛門尉。御譜代家老衆)が、西上州先方衆の浦野中務少輔(上野国吾妻郡の大戸平城を本拠とする上野国衆)の弟である浦野新八郎へ宛てて返状を発し、仰せの通り先日は、(浦野中務少輔が)初めて御参府したところに、御屋形(武田信玄)は寸暇を得られずにより、しっかりと御物語りできなかったのは、本意に背く思いであったこと、本来であれば、それ以後に(当方から)申し届けるべきところ、取り紛れていたので、音沙汰なく過ごしてしまい、口惜しいこと、よって、御舎兄(浦野中務少輔)から越国の模様を、適切で詳細にわたる御注進があったこと、なおも(様子を)聞き届けられて、御注進するように御心遣いが肝心であること、されば、今川殿(氏真)が駿・遠両国の衆をもって、来る26日に(相州北条)氏康への御加勢として御出張すること、御屋形様も近日中に出馬するにより、かならず当秋は(三国が)一致して敵に立ち向かうので、本意を遂げること、委細は御陣中において申し承ること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編一』829号「浦野新八郎殿 御報」宛「甘利 昌忠」書状写)。
永禄6年(1563)8月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼)【34歳】
〔輝虎、信濃衆の岩井大和守を旗本衆に加える〕
信濃衆の高梨氏の族臣であった岩井大和守(実名は能歳か)を直臣の列に加えるところとなり、8月3日、岩井大和守に朱印状を与え、(越後国での暮らし向きに必要な)堪忍(生活費)を受けるのが肝心であること、そのため、下条宮内少輔分ならびに念仏寺領を出し置くこと、よって、前記した通りであること、これらを申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』346号「岩井太和守殿」宛上杉輝虎朱印状【署名はなく、朱印(印文「円量」)のみを捺す】。
〔比叡山延暦寺の正覚房が輝虎に対し、武田信玄・北条氏康から依頼された輝虎調伏についての弁明をする〕
比叡山延暦寺の別舎である正覚房が、武田晴信(信玄)と伊勢新九郎(北条氏康)の依頼を受けて自分を調伏しているとの情報を知り、比叡山に花蔵院円誉(越府国分寺の僧侶)を派遣して詰問すると、8月18日、これに驚愕した正覚房重盛から、越後国上杉家の年寄中へ宛てて弁明のための書状(謹上書)が発せられ、武運長久の御祈祷として、(延暦寺)根本中堂において七千夜叉(薬師如来の守護神十二神将の眷属)を供にして精誠を励み、巻数と守札ならびに扇と杉原紙を進上すること、今後ますます御祈念の勤行に疎意なく励むこと、なお、(詳細は)河田豊前守(長親。上野国沼田城の城代)が申し上げられること、これらを恐れ畏んで伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』348号「謹上 上杉殿 人々御中」宛正覚房「重盛」書状)。
8月18日、正覚房重盛から、年寄衆の直江大和守実綱・河田豊前守長親へ宛てて書状が発せられ、花蔵院が御使僧として登山したこと、それについて、武田晴信(徳栄軒信玄)と伊勢新九郎(北条左京大夫氏康)に語られ、 輝虎を調伏していると、仰せを蒙ったこと、驚いていること、そのような事実は今まで一度たりともないこと、その趣は起請文をもって申し上げること、それからまた、先師空運の時には、(武田)晴信から願書が到来し、祈念の件を頼み込まれたとはいえ、当山においてはこのような法を修められるのを停止しているので、放置される旨を、彼の国へ申し下されたこと、よって、彼の願書を打ち捨てられたゆえ、反故にしたこと、されば、先師も御国(越後)に対して疎意はないのではないか、ことさらに愚僧は関しては、 道七(長尾信濃守為景。絞竹庵張恕。輝虎の亡父)以来、御祈念を行われる旨を承り及んでいるにより、朝夕の御祈念に行うほかには、いささかも二心はないこと、つまりは、(輝虎からの)御不審には、困惑していること、心底から少しも疎意はないこと、やがて彼の(武田信玄)願書反故などを探し出して送り届けること、御披見になってほしいこと、ただし、(この一件については)外聞しないように頼み入ること、そのゆえは、信州にも当房の末寺などが相当あるにより、隠密にしておきたいこと、(延暦寺)三院各室の重職にも説明し、とりもなおさず、連署ならびに執行代の書状などを、この通り送り届けること、そうなったうえは、当山のあらゆる箇所は(輝虎に)別心はないこと、なかでも当房に関しては、 御屋形(輝虎)の武運長久の旨の祈願を油断なく勤行すること、これらの趣を適切に御披露を願うところであること、委細は花蔵院が演説すること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』349号「直江大和守殿・河田豊前守殿」宛正覚房「重盛」書状)。
8月27日、正覚房重盛から、越後国上杉家の年寄中へ宛てて書状が発せられ、尊書の趣を、拝読致したこと、他事をなげうって厳祈に励むべき旨の仰せを蒙ったこと、漏れなく心得たこと、力の及ぶ限り精誠を励むこと、それについて、不断護摩の巻数を進上すること、なおもって、朝経暮呪の修行を怠りなく励み、御運長久を丹誠込めて御祈念し、二心を抱かないこと、なお、(詳細は)当房法印ならびに花蔵院が申し述べられること、これらを恐れ敬って申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』350号「謹上 上杉殿 人々御中」宛「山門正覚房 重盛」書状)。
8月27日、天台座主応胤法親王から、重盛ら三院大衆へ宛てて令旨が発せられ、先度は月輪寺へ伝達の条々として、入眼により、すでに証判で明白であると、神妙の極みであること、誠にもって、関東管領上杉輝虎は、性質は素直で律儀が根本にあり、邪曲を改め、政道はもっぱら人民のため、その徳は同君子であり、その勢いは古今に秀で、天下において高名を振るっている姿を、視聴に及ぶところ、不甘心ではなく、それは抜黎莠養家苗を農人の耕すこと、正性を修し、悪行を改め、君子を耕すという話であり、誰もこれを感じず、どうして無視を得るのか、よって、三院大衆一同にして、秘法を勤修し、密供を執行し、ますます武運長久の丹祈を励むべきと、老若はそれを心得るものであり、この旨を確かに上杉輝虎へ申し達せられるべきと、座主二品大王の御意向であること、よって、執達は前記した通りであること、これらを申し下されている(『上越市史 上杉氏文書集一』351号「正覚房御房」宛延暦寺座主応胤法親王令旨 奉者庁務「任昭」 封紙ウハ書「正覚房御房 庁務 任昭」)。
この間、敵対関係にある相州北条陣営では、常陸国衆の小田氏治(太郎。常陸国筑波郡の小田城を本拠とする関東八家衆)は、8月6日、陸奥国白河の郡主である白河結城晴綱(左京大夫。陸奥国白河郡の白河城を本拠とする)へ宛てて書状を発し、いささか申し上げること、もとより、大関(右衛門佐高増。下野国那須郡の烏山城を本拠とする那須資胤の叔父。下野国那須郡の白旗城に拠る上那須衆)がまたしても逆心したのは、どうしようもないこと、これにより、(那須資胤への)御合力として半途へ打ち出されたそうであり、心地好いのは言うまでもないこと、この時節を延べられず、彼の口の一途を取り扱われるように、(那須)資胤へそれとなく御忠告の多くの言葉を費やしてほしいこと、この好機に(相州北条)氏康が越河(荒川)するのは、御大慶であること、されば、(北条氏康は)このたびは東海道にまで手回しをし、すでに今川方(駿州今川氏真)・武田方(甲州武田信玄)を自身の合力を得て、まずは(武蔵国埼玉郡)岩付へひと働きあり、越国(越後国上杉家)への対応は、駿(今川方)と甲(武田方)に任せられ、氏康父子は(荒川を)越河して兵談を尽くされ、先月26日に氏康は(武蔵国多摩郡)大神の所まで出陣するも、洪水ゆえ、(多摩川を渡れず)今でも進陣できないこと、今川方は先月24日に出国し、相府小田原へ先月末に着陣し、当月2日に氏康へ(連絡を入れて)対談していると、ようやく水が引いたので、(氏康父子は)進陣するとのこと、(甲州武田)信玄は西上州へ越山しており、大手(北条氏)の戦陣はこの通りであるからには、貴所(結城晴綱)が御本意を遂げるのは疑いないこと、庄内(那須上庄)での戦陣のために必要な人や物を集めておくように、(那須)資胤へ御意見を加えられるべきこと、しっかり御意見を加えられるべきこと、かねてまた、来春はいざ知らず、当年は景虎(輝虎)の関東越山はないであろうと、(氏康から)堅く承ったこと、御安心してほしいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『神奈川県史 資料編3下』7392号「白川殿」宛小田「氏治」書状)。
※ 当文書を、諸史料集は永禄7年に比定しているが、黒田基樹氏の論考である「常陸小田氏の基礎的研究 ー発給文書の検討を中心としてー」(『国史学』第166号)の記述に従い、当年の発給文書として引用した。
永禄6年(1563)9月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼)【34歳】
上野国沼田城(利根郡沼田庄)の城代である河田長親(豊前守)が沼田領の知行を整理し、9月14日、同心(与力)の発智右馬允長芳に証状を与え、(前年に宛行われていた上野国利根郡水上地域の)鹿野村の替地として、禅昌寺領内の下大膳亮分ならびに小尾三右衛門尉分を知行するべきものであること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』353号「発智右馬允殿」宛河田「長親」宛行状写)。
河田長親はこのあとに越府へ一時帰国したようで、11月に輝虎が関東へ向けて出馬した際、先手の軍勢を率いている。
9月28日、年寄衆の一員である下田長尾藤景(遠江守。越後国蒲原郡の下田(高)城を本拠とする譜代衆)が、諸領主中へ過書を発し、椎名方(越中国味方中の椎名右衛門大夫康胤。越中国新川郡の松倉城を本拠とする)から、(陸奥国)会津へ馬三疋ならびに十五人を寄越されること、諸関・渡し場でわずらわせてはならないものであること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』354号「所(諸ヵ)領主中」宛長尾「藤景」過所写)。
永禄6年(1563)10月 上杉輝虎(弾正少弼)【34歳】
10月11日、京都醍醐寺の僧侶一団が北国下りの途中で越府に立ち寄る。
三週間ほどの滞在中、年寄衆の河田豊前守長親(一時帰国している)から付けられた長井 某の案内で宝積寺や善光寺などに詣でている(『上越市史 資料編3』【第四章】851号 永禄六年北国下り遣足帳)。
永禄6年(1563)11月~12月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼)【34歳】
〔輝虎、功臣の柿崎景家の息男を長尾土佐守の孫娘の婿とし、土佐守家を継がせる〕
11月8日、年寄衆の一員である柿崎和泉守景家(越後国頸城郡の柿崎城を本拠とする譜代衆)に朱印状を与え、一、山むろ(刈羽郡柏崎の山室) 長尾土佐守分、一、さか田(同じく坂田)の替地として下条治部少輔庶子分、一、内山分、一、くわんにう村(魚沼郡妻有庄の源入)、一、新座村(同前)、以上、この外にも長尾土佐守分があるとはいっても、やむを得ない事情があるので、一件落着するまでの間は、堪忍するべきであること、とりもなおさず、土佐守の孫娘に其方(柿崎景家)の息男おひこ丸を申し合わせ、彼の家を相続させるのが肝心であること、これらを申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』356号「柿崎和泉守殿」宛上杉輝虎朱印状【署名はなく、朱印(印文「円量」)のみを捺す】)。
※ 丸島和洋氏の論集である『戦国大名武田氏の権力構造』(思文閣出版)の「第四章 大名間外交と「手筋」ー 越相同盟再考ー 第三節 越相同盟における「手筋と取次」によると、柿崎景家は、越後上杉氏の一門に準じるか、それに近い処遇を受けていた可能性が高いという。
〔輝虎、関東へ向けて出馬したが、大雪のために越後国柏崎で進軍が滞る〕
関東味方中の房州里見正五(岱叟院。権七郎義堯)・同義弘(太郎)父子らとの盟約に従い、11月25日前後に関東へ向けて出馬したが、激しく降る雪のために進軍が滞った越後国柏崎一帯において、先手の軍勢のうちの色部修理進勝長(越後国瀬波郡の平林城を本拠とする外様衆)と平賀左京亮重資(助四郎。越後国蒲原郡の護摩堂城を本拠とする外様衆)の間に起こった小旗の使用を巡る相論を裁定する。
11月28日、色部勝長(修理進)が、輝虎の側近で先手の軍勢を率いている河田豊前守長親へ宛てて書状を発し、あらためて申し達すること、よって、御用を重ねる折に、無心の申し立てではあれども、諸辺(色々な事柄)を頼み入りたいので、申し上げたこと、昨年に大江方(北条毛利高広か)が拙者(色部勝長)へ小旗の紋所を手に入れた(図柄を真似たという意味か)ので、様態は筋を通して詳しく説明申し上げたからには、公事の御取り成しをもって(大江は)手を引きなされたこと、面目も権利も保たれたので、感謝していること、そうしたところに、今度は平賀方が彼の紋を重ねて手に入れたこと、貴所(河田長親)に御口出しをしてもらえるように、(色部勝長が)事情を筋を通して詳しく説明申し上げたとはいえ、その首尾は調わなかったこと、このうえの展望を、(河田から色部へ)仰せ届けられて給いたいこと、つまりは(河田の)御手並みに懸かっていること、存分の委細については三潴(出羽守長政。輝虎の近臣。越後国蒲原郡の中目城を本拠とする)が事情を筋を通して詳しく説明申し上げるので、(この紙面は)省略すること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』359号「豊州江」宛色部勝長書状案)。
12月に入って河田豊前守長親が越後国鯨波(刈羽郡柏崎)の妙智寺に制札を掲げ、制札、右、鯨波の妙智寺において、関東へ向かうために在陣中の軍勢が竹木以下を伐り採ったということ、それは困った成り行きであり、つまりところ、今より以後は堅く停止すること、もしこの旨を違犯する輩は、誰人であっても罪科に処せられると、(輝虎が)仰せ出されたものであること、よって、執達は前記した通りであること、これらを申し渡した(『新潟県史 資料編5 中世三』4387号、『上越市史 上杉氏文書集一』368号 上杉家制札写【奉者 河田「豊前守」長親】)。
12月3日、平賀左京亮重資が、河田長親へ宛てて書状を発し、御懇札を披読し、感謝していること、承るには、拙者(平賀重資)の小旗の件について、色部方が詫言(愁訴)を申されたものか、彼の小旗(紋の図柄)は、色修(色部勝長)の小旗紋とは似ても似つかないこと、理非の御判別は、漏れなく聞届けること、そうではあっても、拙者のもん(小旗)は斎藤殿(年寄衆の一員である斎藤下野守朝信)に御手に御座あること、本来であれば、これを御嘆願致したい覚悟であれども、某(平賀)は不肖の身で御座るにより、是非を唱えるつもりはないこと、このような時であるので、拙者(平賀)のもん(小旗)は御意をもって(使用を)止めなされて下されてほしいこと、そのようで御座るならば、(平賀には両方の図柄は)似ても似つかないとの考えではあれども、御意には従うこと、詳細については、重ねて詳らかにはしないこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている。さらに追伸として、小旗の件について、色部方が御詫言(愁訴)を申されたものか、(平賀からすれば)まったく似ても似つかないものであること、しかしながら、本書で申し入れた通り、拙者(平賀)の紋を御意をもって(使用を)止められるのであれば、何分にもそのうえの出方は、御意次第であり、彼の鷹の羽紋については、不肖ではあろうとも、名字中(平賀氏)が代を限らず使用してきた紋であるので、このように申し達したこと、およそ、拙者(平賀)関しても村松(山城守。越後国蒲原郡の村松城を本拠とする外様衆)と同前立ち回るつもりなので、今後においては、彼の者(村松山城守)と同様に御用を仰せ付けてもらえれば、ありがたいこと、これらを申し添えている(『上越市史 上杉氏文書集一』360号 河田豊前守宛平賀「重資」書状写 礼紙ウハ書「豊州 参御報 平賀左京亮 重資」)。
12月8日、河田長親が、平賀助四郎(重資は左京亮を通称しているが、あえて輩行仮名書きしたようである)へ宛てて書状を発し、取り急ぎ申し入れること、よって、小旗の件は、以前に申し届けた通り、色部方に関しては、謂れがあり、 屋形様(輝虎)から下し置かれた紋であること、そして、斎藤方(年寄衆の一員である斎藤朝信)の家風が貴所(平賀)の御小旗を致した(差し押さえたという意味か)と承ったこと、そうであれば、事前に理非を唱えられるのが適切であったこと、今になって色修(色部勝長)と相論されると承ったのでは、不首尾に終わること、色部方に関しては、拙夫(河田長親)御奏者を務めること、貴所(平賀)に関しても、村松山城守方が御仲裁を務められているにより、双方が沈黙し難いにより、申し述べたこと、(平賀は)早速にも小旗(の使用)を止められるのが何よりであること、この件においては、(平賀にとって)悪いようには申し入れないこと、よくよく御分別を弁えられるのが第一であること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』361号「平賀助四郎殿 御陣所」宛「河田 長親」書状写)。
12月9日、三潴出羽守長政が、色部勝長へ宛てて書状を発し、平賀方からの返札を、とりもなおさず、送り届けたこと、小旗の件であるので、爰元にて内見致したところ、(平賀は)以前と変わらない主張であること、このうえの件には、あらゆる御手段を尽くされて、しっかりと理非を唱えられるように、貴所(色部勝長)の手並みに懸かっていること、(この件に関与している)宗隣軒(河田窓隣軒喜楽。輝虎の近臣。信濃国出身の河田氏であろう)へも、このくだりを(色部から)仰せ届けられ給うように、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』362号 三潴長政書状案)。
12月13日、河田豊前守長親が、色部修理進勝長へ宛てて返状を発し、平賀方へ取り急ぎ使者をもって理非を唱えたところ、(平賀は)承知されて、小旗(の使用)を取り止めるとのこと、(色部の)面目も権利も保たれて、御本望であろうこと、様態は御使いの口才にあるにより、早々に申し上げたこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている『上越市史 上杉氏文書集一』363号「色修 御報」宛「河豊 長親」書状写 封紙ウハ書「色修 御報 河豊」)。
同日、河田窓隣軒喜楽が、色部勝長へ宛てて返状を発し、(色部から)重ねて仰せ越されたので、豊前守(河田長親)の所から取り急ぎ使いをもって平助(平賀助四郎重資。左京亮)へ理非を唱えたところ、(平賀は)聞き届けられて、小旗に関しては、(使用を)取り止められるとのこと、きっと御満足であろうこと、様態は御使いが筋を通して詳しく説明申し上げられるので、(この紙面は)省略したこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』364号「色部殿 参御報」宛河田「窓隣軒喜楽」書状写)。
同日、三潴出羽守長政が、色部修理進勝長へ宛てて書状を発し、御小はたの件を、いろいろと努め励んで、河豊(河田長親)の所から悴者をもって、(平賀へ)理非を唱え、(平賀が小旗の使用を)取り止めるそうなので、我々までも満足そのものであること、これについて、河豊が証文を取り扱い、御使者へ渡したこと、さだめて御満足であろうこと、ここもとの様子は新九郎方へ漏れなく申し届けること、近日中に御馬(輝虎本隊)が進むので、御目に掛かり、一切合切を申し達するつもりであること、これらを恐れ謹んで申し伝えている。さらに追伸として、こはたの件は、(色部の)御希望通りに決着し、(三潴にとっても満足そのものであること、これらを申し添えている(『上越市史 上杉氏文書集一』365号「色修 参御報」宛「三出 長政」書状写)。
〔輝虎、上・越国境まで辿り着くと、関東味方中の房州里見義弘に対し、上野国に出陣してきた甲州武田軍に、相州北条軍が合流するであろうから、房州里見軍は武蔵国へ進んでもらい、岩付太田資正と協力して相州北条軍に立ち向かうことを求める〕
この頃、上野国厩橋城(群馬郡)の城代である北条丹後守高広から、甲州武田軍が上野国倉賀野城(同前)を攻撃しているとの情報が寄せられ、昼夜を分かたず進軍して上・越国境の越後国浅貝(魚沼郡上田庄)の地に着陣すると、12月21日、房州里見正五(岱叟院。権七郎義堯)へ宛てて書状を発し、取り急ぎ申し上げること、よって、かねてからの盟約の筋目をもって、先月下旬にすかさず出馬を遂げ、そうではあっても、雪中の時分であるので、中途で時日を送り、越山(国境越え)が遅滞していたところに、北条丹後守(高広)から晴信(甲州武田信玄)が西上州へ出張し、倉賀野の地を取り詰めるそうであるので、幸いの時機といい、(激しい降雪がおさまり)半途まで見通せるようになった折柄といい、昼夜兼行で当地浅貝に至って着陣を遂げ、とりもなおさず、迅速に沼田へ打ち着くつもりであること、とりわけ、(相州北条)氏康に関しても(信玄と)手を合わせるわけであるにより、今般こそ(甲・相両軍と)無二無三の興亡を決し、甲・相を平らげる覚悟であるので、何もかも差し置かれても相当の御人数を引き連れられ、武州まで御着陣し、太田美濃守(資正。武蔵国埼玉郡の岩付城を本拠とする武蔵国衆)とよく話し合い、打ち出されるのが肝心であること、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』366号「里見入道」宛上杉「輝虎」書状【花押a】)。
12月22日、東口味方中の佐竹右京大夫義昭(常陸国久慈郡の太田城を本拠とする関東八家衆の系譜)の族臣である石神小野崎三郎政通(又三郎。山尾小野崎氏の庶族)へ宛てて、自筆の感状を発し、この春の(下野国都賀郡)小山在陣の折に、結城(左衛門督晴朝。小山秀綱の実弟。下総国結城郡の結城城を本拠とする関東八家衆)の家中人である多賀谷民部少輔を討ち取られたのは、類い稀な働きであったこと、その時分には(その戦功を)知らなかったので、称名(功績を褒め称える)に及ばず、このほど伝聞により、筆を馳せたこと、ますますの精励が肝心であること、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』476号、『戦国遺文 下野編一』730号「小野崎三郎殿」宛上杉「輝虎」書状写)。
12月22日、東口味方中の佐竹義昭が、岱叟院(里見正五。権七郎義堯)へ宛てて書状を発し、取り急ぎ申し届けること、よって、輝虎が越山して、(常陸国筑波郡)小田を取り詰められる件を、(佐竹義昭から里見正五へ)使者をもって申し越すこと、今般すでに(輝虎は上・越国境の越後国魚沼郡)上田の庄へ御出馬していること、ひとえに本望であること、ようやく(上野国群馬郡)厩橋へ着城されるとの思いであること、彼の口(小田)へ急速に取り越されてほしいとの要望を、(輝虎へ佐竹が)代官をもって申し上げたにより、彼(輝虎から)の一報が届き次第、(里見へ佐竹が)申し届けるので、(里見が)御兼約通りに小田へ打ち越され、万端を相談されて御取り扱いに至ったならば、(佐竹にとっても)本望であること、されば、(佐竹の下野国)那須口の戦陣は、おそらく聞き及んでいるのではないかと、両度にわたって手立てに及び、残らず存分の通りにしたこと、取り懸かった数ヶ所の敵城を手に入れたこと、その様態においては、正木左近太夫(勝浦正木時忠。房州里見家の宿老。上総国夷隅郡の勝浦城を本拠とする上総国衆)が演説すること、それからまた、その口の様子が聞こえてこないこと、詳細の回報を承りたいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 房総編二』1116号「岱叟院」宛佐竹「義昭」書状)。
12月24日、関東味方中の富岡主税助(上野国邑楽郡の小泉城を本拠とする上野国衆)へ宛てて書状を発し、(輝虎が越後国上田に)着庄したのに伴い、早速に代官が鰍を携えて到来し、喜びもひとしおであること、越山を急ぐところ、深雪ゆえに遅滞していること、味方中が示し合わせ、(甲・相)両陣を逃さないように手立てを講ずるべきであること、詳細は河田豊前守(長親)が申し遣わすこと、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』367号「富岡主税助殿」宛上杉「輝虎」書状【花押a】)。
この間、敵対関係にある甲州武田陣営では、12月5日、甲州武田信玄自ら率いる軍勢が上野国箕輪城(群馬郡)に攻め寄せると、翌日までに箕輪長野一族の菩提寺の長純寺を含めた城下を焼き払う。
12月7日、木部(群馬郡の倉賀野城の至近に位置する)の地へ移陣すると、木部の古城を再構築しながら、間もなく武蔵国御嶽城(児玉郡)に着陣することを連絡してきた相州北条氏康との合流を待っている。
12月9日、信玄側近の甘利昌忠(左衛門尉。御譜代家老衆)が、西上州先方衆の浦野中務少輔(上野国吾妻郡の大戸平城を本拠とする上野国衆)へ宛てて返状を発し、(浦野中務少輔が)取り急ぎ飛脚をもって御申し上げられたこと、ひときわ御祝着であること、とりもなおさず(信玄が)御書を書き記されたこと、よって、去る5日から6日にかけて箕輪に向かって御手立てに及ばれ、城外をはじめとして長純寺を焼き尽くされると、一昨7日には当地木部に至って陣を寄せられ、当古地を今9日から御再興に取り掛かり、十日のうちに完成するように急いでいること、御安心してほしいこと、従って、その頃に鎌宮(鎌原宮内少輔。上野国吾妻郡の鎌原城を本拠とする上野国衆)をもって仰せ下さったこと、筋目は右の形に調ったにより、御安心してほしいこと、この件については、御代官をもって御存分を御申し上げられるのが御最善であること、そうではあっても、(信玄は)御普請で御取り紛れているにより、ほとんど(普請が)完成した折に、御使者を差し越されれば、後回しにするような事態とはならないこと、かねてまた、近日中に(相州北条)氏康が御嶽の地に向かって御宿陣すると、つい今しがた御使者が着陣致されたこと、おそらく当冬中に合流するつもりであるとのこと、本望に思っていること、(浦野中務少輔も)さぞかし御大慶であろうこと、委細は来信を期すること、これらを恐れ謹んで申し伝えている。さらに追伸として、御息男の御病状はいかがであるのか、承りたい所存であること、また、御老父・御舎弟へも一書をもって申し届けるべきであれども、取り紛れていたにより、御理解を頼み入ること、疎意にはしていないこと、これらを申し添えている(『戦国遺文 武田氏編一』848号「浦中殿 御報」宛甘利「昌忠」書状写)。
12月28日、甘利昌忠が、浦野中務少輔の弟である浦野新八郎へ宛てて返状を発し、御札の通り、先頃は御舎兄が御参陣したこと、(浦野新八郎も)御同行するものと思っていたところに、(上野国大戸平城は敵方との)境目の地であるゆえ、御用心のために御残りになられたわけで、(このたびは)面上は叶わなかったこと、されば、御自訴の件を調え、(信玄の)御判形を遣わされたにより、御祝着の次第を承ったこと、(甘利昌忠においても)本望の極みであること、今後はいよいよもって御忠信を励まれるのが肝心であること、また、御屋形様(信玄)は格別な御懇切に及ぶこと、かねてまた、景虎(輝虎)は沼田に向かって出張してきたのであろうか、いつものように大した事態とはならないであろうこと、委細は中書(浦野中務少輔)へ申し届けたので、(この紙面は)省略すること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文武田氏編一』815号「浦野新八郎殿」宛「甘利 昌忠」書状写)。
※『戦国遺文 武田氏編』815号文書を鴨川達夫氏の著書である『武田信玄と勝頼 ー文書にみる戦国大名の実像』(岩波新書)の「第一章 信玄・勝頼の文書とは (四) 年代の判断」の記述に従い、当年の発給文書として引用した。
◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『新潟県史 資料編5 中世三』(新潟県)
◆『神奈川県史 資料編3下 古代・中世』(神奈川県)
◆『戦国遺文 武田氏編 第一巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 房総編 第二巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文下野編 第一巻』(東京堂出版)