永禄6年(1563)7月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼)【34歳】
18日、越後国柏崎(刈羽郡比角荘)の飯塚八幡宮別当の極楽寺や出雲崎(山東(西古志)郡)の高名山薬師寺などの寺社に願文を納め、自身のこれまでの越後・信州・関東における戦績を誇示し、相州北条氏康と甲州武田信玄の関東・信州における神社仏閣の破壊などの放埓を断罪して両人の没身調伏を依頼するとともに、分国中の豊饒と安寧、自身の武運長久を希求した(『上越市史 上杉氏文書集一』344号「八幡 極楽寺一如阿闍梨江 参」宛「藤原輝虎」願文【花押a3】、345号「高名山薬師寺」宛「藤原輝虎」願文写)。
※ 上杉輝虎の願文については、木村康裕氏の論考である「上杉謙信の願文」(『新潟県立歴史博物館研究紀要』第五号)に尽きる。
この間、甲州武田信玄(徳栄軒)は、相州北条氏康との盟約に従って加勢のための出陣を控えるなか、22日、取次の甘利昌忠(左衛門尉。譜代家老衆)が、西上野先方衆の浦野中務少輔(上野国大戸城主)の弟である浦野新八郎へ宛てて返書を発し、仰せの通り先日に初めて御参府された折、御屋形(武田信玄)は寸暇を得られず、十分に御対話できなかったのは、不本意であること、それゆえ当方から内々に音信を通ずるべきところ、忙しさに取り紛れて無沙汰してしまい、ひとえに口惜しいこと、このたび御舎兄(浦野中務少輔)から越国の様子を御注進があり、その的確な情報を残らず聞き届けたこと、なおも情報を収集されて、御精を入れられて御注進に及ばれるべきこと、今川殿(氏真)が駿・遠両国の衆を率いられて、来る26日に氏康への加勢として御出陣されること、御屋形様も近日中に出陣すること、このように当秋は三国が一致して敵に立ち向かうので、本意を達するのは疑いないこと、御注進の詳細については御陣中で承ること、これらを恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文 武田氏編一』829号「浦野新八郎殿 御報」宛「甘利 昌忠」書状写)。
永禄6年(1563)8月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼)【34歳】
3日、このたび直臣の列に加えた、客分の信濃衆・高梨氏の族臣である岩井大和守(実名は能歳か)に朱印状を与え、当国での暮らし向きに必要な堪忍分(生活費)として、下条宮内少輔分と念仏寺領内の知行地を宛行うことを申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』346号「岩井太和守殿」宛上杉輝虎朱印状【署名はなく、朱印(印文「円量」)のみを捺す】。
比叡山延暦寺の別舎である正覚房が、武田晴信(信玄)と伊勢新九郎(北条氏康)の依頼を受けて自分を調伏しているとの情報を知り、比叡山に花蔵院(円誉。越後国分寺の僧侶)を派遣して詰問すると、18日、これに驚愕した正覚房重盛から、越後国上杉家の年寄中へ宛てて弁明のための書状(謹上書)が発せられ、このほど武運長久の御祈祷として、延暦寺根本中堂において七千夜叉(薬師如来の守護神十二神将の眷属)を供に勤行したこと、その巻数と守札ならびに扇と杉原紙を進上すること、今後ますます御祈念に疎意なく励むこと、なお、詳細は河田豊前守(実名は長親)が申し上げられること、これらを恐れ畏んで伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』348号「謹上 上杉殿 人々御中」宛正覚房「重盛」書状)。
同日、正覚房重盛から、年寄衆の直江大和守実綱・河田豊前守長親(上野国沼田城代)へ宛てて書状が発せられ、このたび御使僧の花蔵院をもって、武田晴信(徳栄軒信玄)と伊勢新九郎(北条左京大夫氏康)の依頼を受けた当房が輝虎を調伏しているとの実態を詰問されたので、はなはだ驚いていること、全くの事実無根なので、起請文を提出して潔白を誓うこと、先師空運の代には、(武田)晴信から調伏を依頼されはしたものの、当山では調伏の依頼を受け付けてはいないので謝絶し、彼の願書を捨てて反故にしたこと、先師も貴国をないがしろにした事実はないはずであり、取り分け愚僧は道七(長尾信濃守為景。絞竹庵張恕。輝虎の亡父)以来の貴国との契約により、懈怠なく朝夕の祈念に励んでいること、このたびの疑念については、とても困惑しており、貴国を軽んじていない心根を理解してもらうためにも、(武田)晴信の依頼を謝絶した証拠となる文書を探し出して送付すること、この一件については、信州に存在する当房の末寺が信玄の報復を受ける懸念もあるので、公にはしないでほしいこと、三院各室の重職からの書簡を送付すること、本堂、取り分け当房においては、御屋形(輝虎)の武運長久祈願を懈怠なく勤行すること、以上の趣旨をよしなに御披露してほしいこと、委細は花蔵院が演説すること、これらを恐れ謹んで伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』349号「直江大和守殿・河田豊前守殿」宛正覚房「重盛」書状)。
27日、正覚房重盛から、越後国上杉家の年寄中へ宛てて書状が発せられ、このたび尊書を拝読し、全てをなげうって厳祈に励むべきとの仰せを心得たこと、力の及ぶ限り勤行すること、不断護摩の巻数を進上すること、朝経暮呪の修行を怠りなく励み、御運長久を丹誠込めて御祈念し、決して二心を抱かないこと、なお、詳細は当房法印ならびに花蔵院が申し述べられること、これらを恐れ謹んで伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』350号「謹上 上杉殿 人々御中」宛「山門正覚房 重盛」書状)。
同日、天台座主応胤法親王から、重盛ら三院大衆に対し、関東管領上杉輝虎の武運長久を祈願するように令旨が下されている(『上越市史 上杉氏文書集一』351号「正覚房御房」宛延暦寺座主応胤法親王令旨 奉者庁務「任昭」 封紙ウハ書「正覚房御房 庁務 任昭」)。
この間、相州北条方の常陸国衆である小田氏治(太郎。常陸国小田城主)は、6日、陸奥国白河の白河結城七郎隆綱(結城左京大夫晴綱の世子。陸奥国白河城主)へ宛てて書状を発し、このたび敢えて申し上げること、さて、大関(右衛門佐高増。下野国衆・那須資胤の叔父。上那須衆。下野国白旗城主)がまたしても反逆したのは、どうにもしようがないこと、これにより、(那須修理大夫資胤。下野国烏山城主)に対する御合力のために半途まで打ち出されたのは、すこぶる快然であること、この時機を逃されず彼の口を安定へと導かれるように、(那須)資胤へ御助言を尽くされるべきこと、こうした好機に氏康(相州北条氏康)が荒川を渡られるのは、大きな喜びであること、されば、このたび(北条氏康は)東海道にまで手回しして、今川方(駿州今川氏真)と武田方(甲州武田信玄)の合力を得るところとなり、駿(今川方)と甲(武田方)に越国(越後国上杉陣営)への対処を任せられたうえで、まず氏康父子は荒川を渡って武蔵国岩付(埼玉郡)の地へ攻めかかる手筈を定められ、先月26日に氏康は武蔵国大神(多摩郡)の地まで着陣したところ、増水によって多摩川を渡れず、滞陣を余儀なくされたので、今川方が先月24日に出国し、相府小田原を経て当2日に着陣し、対談しているうちに水が引き、ようやく進陣するそうであること、一方、すでに武田方は西上野へ越山したこと、このように大手(北条氏)の戦陣は万全に整っているからには、貴所(白河結城隆綱)が御本意を達せられるのは疑いないこと、(那須)資胤に対しては、那須上荘内の経略に全力を注ぐように、しっかり御意見を加えられるべきこと、来春はいざ知らず、当年については景虎(輝虎)の関東越山はあり得ないとする見解を、(氏康から)しっかりと聞き届けたので、御安心してほしいこと、これらを恐れ謹んで伝えている(『神奈川県史 資料編3下』7392号「白川殿」宛小田「氏治」書状)。
※『神奈川県史』等は7392号文書を永禄7年に比定しているが、黒田基樹氏の論考である「常陸小田氏の基礎的研究 ―発給文書の検討を中心として―」(『国史学』第166号)に従い、永禄6年の発給文書として引用した。
永禄6年(1563)9月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼)【34歳】
上野国沼田城(利根郡沼田荘)の城代である河田長親(豊前守)が沼田領を整理し、14日、与力の発智右馬允長芳に証状を与え、鹿野村の替地として禅昌寺領内の下大膳亮分と小尾三右衛門尉分を知行するべきことを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』353号「発智右馬允殿」宛河田「長親」宛行状写)。
28日、年寄衆の一員である下田長尾藤景(遠江守。譜代衆。越後国下田(高)城主)が過書を発給して諸領主中に対し、椎名方(越中国味方中の椎名右衛門大夫康胤。越中国松倉城主)より、奥州会津へ馬三疋ならびに十五人を寄越されるので、領国内の諸関・渡し場でわずらわせてはならないことを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』354号「所(諸ヵ)領主中」宛長尾「藤景」過所写)。
永禄6年(1563)10月 上杉輝虎(弾正少弼)【34歳】
11日、京都醍醐寺の僧侶一団が北国下りの途中で越府に立ち寄る。
三週間ほどの滞在中、年寄衆の河田豊前守長親から付けられた長井某の案内で宝積寺や善光寺などに詣でている(『上越市史 資料編3』【第四章】851号 永禄六年北国下り遣足帳)。
永禄6年(1563)11月~12月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼)【34歳】
11月8日、年寄の柿崎和泉守景家(譜代衆。越後国頸城郡の柿崎城主)に朱印状を与え、一、山室(刈羽郡柏崎) 長尾土佐守分、一、坂田(同前)の替地として下条治部少輔庶子分、一、内山分、一、源入村(魚沼郡妻有荘)、一、新座村(同前)、この外にも長尾土佐守分があるとはいえども、やむを得ない事情があり、一件落着するまでは、堪えて待っていてほしいこと、取りも直さず土佐守の孫娘に其方(柿崎景家)の息子おひこ丸を申し合わせ、彼の家を相続させるのが肝心であること、これらを申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』356号「柿崎和泉守殿」宛上杉輝虎朱印状【署名はなく、朱印(印文「円量」)のみを捺す】)。
※ 丸島和洋氏の論集である『戦国大名武田氏の権力構造』(思文閣出版)の「第四章 大名間外交と「手筋」ー 越相同盟再考ー 第三節 越相同盟における「手筋と取次」によると、柿崎景家は、越後上杉氏の一門に準じるか、それに近い処遇を受けていた可能性が高いという。
関東味方中の房州里見正五(岱叟院。権七郎義堯)・同義弘(太郎)父子らとの盟約に従い、25日前後に関東へ向けて出馬したが、降雪のために進軍が滞った越後国鯨波(刈羽郡)の地において、先行軍のうちの色部修理進勝長(外様衆。越後国平林城主)と平賀左京亮重資(同前。同護摩堂城主)の間に起こった小旗の使用を巡る相論を裁定することになる。これに伴って輝虎の意を受けた河田豊前守長親が12月中に鯨波の地に制札を掲げ、当地域での諸軍勢による竹木の伐採を堅く禁じている(『新潟県史 資料編5』4387号 上杉氏制札写(奉者河田「豊前守」長親 )●『上越市史 上杉氏文書集一』368号 上杉氏制札写)。
28日、色部勝長(修理進)が、取次の河田豊前守長親へ宛てて書状を発し、あらためて申し達すること、よって、このたびも御用を無心に励むつもりであるとはいえども、嘆願したい諸事情があるので、時節を弁えずに申し上げたこと、昨年に大江方(北条毛利氏か)が拙者(色部勝長)の使用する小旗の紋所の図柄を真似たので、訴訟を起こしたところ、御裁定によって(色部勝長が)勝訴し、面目も権利も保たれたので、ひたすら恐悦していること、そうしたところに、今度は平賀方が小旗紋の図柄を真似たので、先だって貴所(河田長親)に周旋を頼むべく、事情を筋立てて説明したこと、その首尾が整わなかったのは遺憾であること、こうなったからには裁定の場に上程されるように取り計らってもらいたく、つまりは(河田長親の)御力添えに掛かっていること、存分の委細については三潴(出羽守長政。大身の旗本衆。越後国中目城主)が申し分けられるので、要略したこと、これらを恐れ謹んで伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』359号「豊州江」宛色部勝長書状案)。
12月3日、平賀左京亮重資が、河田長親へ宛てて書状を発し、このたび寄せられた御懇札を拝読し、恐縮していること、拙者(平賀重資)が使用している小旗の鷹の羽紋について、色部方が愁訴されたようであり、彼の小旗紋の図柄は、色修(色部勝長)の小旗紋とは似ても似つかないこと、御条理を説かれるのであれば、もれなく謹んで耳を傾けること、しかしながら、すでに拙者の小旗は斎藤殿(年寄の斎藤下野守朝信。譜代衆。越後国赤田城主)に御預けしており、内々に反訴を申し立てる覚悟でいたとはいえども、拙者(平賀)は不肖の身であるため、時節を弁えて是非を唱えるつもりはないこと、御意をもって小旗の使用を止めて下されば、拙者には両方の図柄は似ても似つかないと思えるとはいえども、御意には従わざるを得ないこと、詳細については、改めて詳らかにするつもりはないこと、これらを恐れ謹んで伝えている。さらに追伸として、小旗の鷹の羽紋について、色部方が愁訴されたようであり、こちらからすれば微塵も似ていないとの思いは、本札で申し入れた通りであること、御意をもって拙者(平賀重資)の紋の使用を停止されるのであれば、どのようにでもその時は御意に従うつもりであること、彼の鷹の羽紋については、不肖ながら当家が代々にわたって使用してきた図柄であるため、このようにくどくどしく申し達したこと、およそ拙者(平賀)についても(隣荘の)村松(山城守。外様衆。越後国村松城主か)と同前に御忠節を尽くすつもりなので、今後は彼の者と同様に御用を仰せ付けてもらえれば、畏み入ることを伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』360号 河田長親宛平賀「重資」書状写 礼紙ウハ書「豊州 参御報 平賀左京亮 重資」)。
8日、河田長親が、平賀助四郎(重資は左京亮を通称しているが、あえて仮名書きしたようである)へ宛てて書状を発し、取り急ぎ申し入れること、よって、小旗の一件については、以前に申し伝えたように、色部方の紋は特別な理由により、 屋形様(輝虎)から下された紋であること、しかしながら、貴所(平賀)の御小旗を斎藤方の家中が差し押さえたと承っており、それが事実であれば、兼ねてから説いている条理に従われるべきであること、今この時に色修(色部勝長)と相論するのは好ましくないこと、色部方の御奏者は拙夫(河田長親)が務め、貴所(平賀)には村松山城守方が仲裁人を務められているので、どちらも放ってはおけず申し述べたこと、早速にも小旗の使用を止められるのが尤もであること、この一件については(平賀重資にとっての)悪事は申し入れないので、よくよく分別を弁えられるべきこと、これらを恐れ謹んで伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』361号「平賀助四郎殿 御陣所」宛「河田 長親」書状写)。
9日、三潴長政が、色部勝長へ宛てて書状を発し、平賀方からの返札を御披見のために送付すること、小旗の一件に関する書状なので、爰元にて内見致したところ、(平賀重資は)これまでの主張を変えられてはいないこと、このようであるからにはあらゆる手段を尽くされて、しっかりと条理を説かれるべきであり、貴所(色部勝長)の熱意に掛かっていること、この一件に関与している宗隣軒(河田窓隣軒喜楽。大身の旗本衆。信濃国出身の河田氏であろう)に対しても、これらを(色部勝長から)仰せ届けられてもらえるように伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』362号 三潴長政書状案)。
13日、河田豊前守長親が、色部修理進勝長へ宛てて返書を発し、このたび平賀方へ取り急ぎ使者をもって条理を説いたところ、(平賀重資は)承服されて、小旗の使用を止めるそうであること、(色部勝長の)面目も権利も保たれたので、御本望であろうこと、詳しい内容については、御使者の口才に任せること、早々に申し上げたこと、これらを恐れ謹んで伝えている『上越市史 上杉氏文書集一』363号「色修 御報」宛「河豊 長親」書状写 封紙ウハ書「色修 御報 河豊」)。
同日、河田窓隣軒喜楽が、色部勝長へ宛てて返書を発し、繰り返し仰せ越されたので、豊前守(河田長親)の所より取り急ぎ使者をもって平助(平賀重資)へ条理を説いたところ、(平賀重資は)聞き届けられて、小旗の使用を止められるそうであること、さぞかし御満足であろうこと、詳しい内容については、御使者が筋立てて口述されるので、この紙面は要略したこと、これらを恐れ謹んで伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』364号「色部殿 参御報」宛河田「窓隣軒喜楽」書状写)。
同日、三潴出羽守長政が、色部修理進勝長へ宛てて書状を発し、御小旗の一件について、色々と尽力したこと、河豊(河田長親)の所より悴者をもって、(平賀重資に)条理を説いたところ、(平賀が)小旗の使用を止めるとの意思を伝えてきたので、我々までも満足極まりないこと、これによって河豊が整えた証文を御使者へ渡したこと、さぞかし御満足であろうこと、当陣の様子は新九郎方へ詳報すること、近日中に御馬が進むので、御目に掛かった際に一切合切を申し達するつもりであること、これらを恐れ謹んで伝えている。さらに追伸として、返す返すも、御小旗の一件は(色部勝長の)御希望通りに決着したので、自分にとっても満足極まりないことを伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』365号「色修 参御報」宛「三出 長政」書状写)。
この頃、上野国厩橋城(群馬郡)の城代である北条丹後守高広から、甲州武田軍が同倉賀野城(同前)を攻撃しているとの情報が寄せられ、昼夜を分かたず進軍して上・越国境の越後国浅貝(魚沼郡上田荘)の地に着陣すると、21日、房州里見正五(岱叟院。権七郎義堯)へ宛てて書状を発し、取り急ぎ申し上げること、よって、先般の盟約に従い、先月下旬に急いで出馬したこと、しかしながら、降雪の時分なので中途で滞陣し、大幅に国境を越えるのが遅れていたところ、北条丹後守(実名は高広)から晴信(甲州武田信玄)が西上野の倉賀野城を攻撃するとの急報が届いたこと、幸いにも降雪が止み、すでに半途まで進軍しており、昼夜兼行で当地浅貝に着陣したこと、氏康(相州北条氏康)も武田軍に合流してくるので、今度こそ甲・相両軍と興亡の一戦を遂げて決着をつけるつもりであり、何を差し置いても相応の御人数を引き連れ、太田美濃守(岩付太田資正。武蔵国岩付城主)と合流して武州口から参戦されるのが肝心であること、これらを恐れ謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』366号「里見入道」宛上杉「輝虎」書状【花押a】)。
22日、関東味方中の佐竹右京大夫義昭(常陸国太田城主)の族臣である石神小野崎三郎(又三郎政通のことか。山尾小野崎氏の庶族)へ宛てて自筆の感状を発し、この春の野州小山陣において、結城(左衛門督晴朝。小山秀綱の実弟。下総国結城城主)の家中である多賀谷民部少輔を討ち取られたのは、並外れた殊勲であること、この事実を当時は知らず、その殊勲を称えていなかったところ、このほど伝聞によって知り得たので、遅れ馳せながら一筆を認めたこと、今後ますますの奮闘が肝心であること、これらを恐れ謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』476号「小野崎三郎殿」宛上杉「輝虎」書状写)。
同日、関東味方中の佐竹義昭(常陸国太田城主)が、岱叟院(里見正五。権七郎義堯)へ宛てて書状を発し、このたび貴方に使者をもって、輝虎が関東に出陣して常陸国小田(筑波郡)の地を攻める件についての報告をすること、すでに輝虎は上・越国境の越後国上田荘(魚沼郡)に到達されており、ひたすら本望であること、ようやく上野国厩橋に着城されるであろうこと、また、このたび輝虎に代官をもって、小田口へ急行されるように申し入れたこと、輝虎から一報が寄せられ次第に報告するので、盟約通りに小田へ出向かれて、戦陣の万端についての評議に臨まれて切盛りされるならば、当方においても本望満足であること、当方による下野国那須口の戦陣については、きっと聞き及んでいると思われるが、二度に亘る攻撃で十分な成果を得たこと、数ヶ所の敵城を手に入れた際の様子については、正木左近太夫(勝浦正木時忠。房州里見家の宿老。上総国勝浦城主)から詳説されること、その口の様子が伝わってこないため、詳細を知らせてほしいこと、これらを恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文 房総編二』1116号「岱叟院」宛佐竹「義昭」書状)。
24日、関東味方中の富岡主税助(上野国小泉城主)へ宛てて書状を発し、このたび(越後国上田に)着庄したのに伴い、今後の打ち合わせのため、早々に代官を寄越してくれたばかりか、鰍を贈ってくれたので、喜びもひとしおであること、関東越山を急がなければならないところ、深雪のために遅滞していること、味方中が協力して甲・相両軍を引き付けておくべきこと、詳細は河田豊前守(長親)が紙面で伝えること、これらを恐れ謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』367号「富岡主税助殿」宛上杉「輝虎」書状【花押a】)。
この間、甲州武田信玄(徳栄軒)は、12月5日、上野国箕輪城(群馬郡)に攻め寄せると、翌日までに箕輪長野一族の菩提寺の長純寺を含めた城下を焼き払い、7日、同木部(同前。倉賀野城の至近に位置する)の地へ移陣すると、木部の古城を再構築しながら、間もなく武蔵国御嶽城(児玉郡)に着陣することを連絡してきた相州北条氏康との合流を待っている。
9日、取次の甘利昌忠(左衛門尉。譜代家老衆)が、西上野先方衆の浦野中務少輔(上野国大戸城主)へ宛てて返書を発し、(浦野中務少輔が)取り急ぎ飛脚をもって御申し上げられたこと、ひときわ御祝着であること、すぐさま(信玄が)御返書を認められたこと、よって、去る5日から6日にかけて箕輪を御攻めになられ、長純寺以下の城外を焼き尽くされたのち、一昨7日には当地木部に陣を寄せられ、今9日から当古地の御再興を始められたこと、(当古地は)元から思いのほか頑強な適地だったので、十日のうちには早くも完成するであろうこと、御安心してほしいこと、従って、御普請が完了する頃には、以前に(浦野から)鎌宮(鎌原宮内少輔。上野国鎌原城主)をもって示された御存分を筋目に従って取りまとめるので、御安心してほしいこと、これについては御代官をもって御存分を御申し上げるのが尤もであること、しかしながら、(信玄は)御普請で御多忙を極めているところなので、御使者が放置されないためにも、完成間際を十分に見計らって寄越されるべきこと、一方、つい今し方に氏康からの御使者が到着されて、近日中に御嶽の地に御宿陣するとの連絡が寄せられたこと、恐らく当冬中には彼の軍勢と合流を果たすのは明らかであり、本望の思っていること、(浦野中務少輔も)さぞかし御大慶であろうこと、委細は来信を期すること、これらを恐れ謹んで伝えている。さらに追伸として、御息の御病状が案じられており、御知らせ願いたいことと、御老父と御舎弟にも一書をもって申すべきところ、多忙ゆえに行き届かなかったのは不本意であり、決して軽んじてはいない事情を、何とか御理解してもらえるように取り成してほしいことを伝えている(『戦国遺文 武田氏編一』848号「浦中殿 御報」宛甘利「昌忠」書状写)。
28日、取次の甘利昌忠が、浦野中務少輔の弟である浦野新八郎へ宛てて返書を発し、御札の通り、先だっては御舎兄が御参陣のこと、(浦野新八郎も)御同行されるものと思っていたところ、(上野国大戸城は)敵方との境目の地であるゆえ、御用心のために御残りになられたので、対面できなかったのは遺憾であること、されば、このたび御自訴の件については筋目に従って取りまとめ、(信玄の)御判形を遣わされたところ、御祝着の意を表されたので、自分においても、ひたすら本望であること、今後ますます御忠信を励まれるのが肝心であること、また、御屋形様は格別な御懇切を施されること、一方、景虎(輝虎)は沼田に出張ってきたようであるが、毎度のように大勢への影響はないこと、委細は中書(浦野中務少輔)へ申したので、この紙面は要略させてもらったこと、これらを恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文武田氏編一』815号「浦野新八郎殿」宛「甘利 昌忠」書状写)。
※『戦国遺文 武田氏編』815号文書を鴨川達夫氏の著書である『武田信玄と勝頼 ―文書にみる戦国大名の実像』(岩波新書)の「第一章 信玄・勝頼の文書とは 四 年代の判断」に従い、永禄6年の発給文書として引用した。
◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『上越市史 資料編3 古代・中世』【第四章 戦国時代】(上越市)
◆『新潟県史 資料編5 中世三』(新潟県)
◆『神奈川県史 資料編3下 古代・中世』(神奈川県)
◆『戦国遺文 武田氏編 第一巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 房総編 第二巻』(東京堂出版)