越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

長尾為景(桃渓庵宗弘。絞竹庵張恕)の偏諱付与

2015-10-23 19:46:31 | 雑考

 ここで越後守護代長尾為景(六郎。弾正左衛門尉。信濃守。上杉輝虎の父)から偏諱を付与されたであろう人物を挙げてみたい。


〔越後国長尾一族に縁の「景」の一字を付与されたであろう人物〕

五十公野:弥三郎。越後奥郡国衆(阿賀北)・加地新発田氏の一族。五十公野輔親の子か。

新津:上総介。越後奥郡国衆(阿賀南)・平賀金津氏の一族。

石川:新九郎。長尾為景が越後永正の乱において没落させた、越後守護上杉家の譜代衆・石川新五郎(越後守護上杉家の譜代衆・斎藤下野守昌信の子で、石川駿河守(駿河入道)の養子)の名跡を、自身に近しい人物に継がせたものか。

千坂:藤右衛門尉。長尾為景が越後永正の乱において没落させた、越後守護上杉家の譜代衆・千坂氏(対馬守能高か)の名跡を、自身に近しい人物に継がせたものか。

安田:百丸。弥八郎。越中守。越後守護上杉家の譜代衆・北条毛利氏と安田毛利氏の家督を兼ねた毛利五郎広春(北条丹後守)から安田毛利氏の名跡を継いだ。

安田:松若丸。弥九郎(弥八郎か)。和泉守。安田毛利景元の長男。越後国長尾景虎(上杉輝虎)期に故あって出奔したという。

柿崎:弥次郎か。越後国守護上杉家の譜代衆・柿崎氏の一族。越後天文の乱における頸城郡三分一原の戦いに際し、上杉一族の上条播磨守定憲(初名は憲定。弥五郎。兵部)方から長尾為景方に寝返り、為景方の勝利に貢献したので、為景から柿崎宗家の地位を与えられたと伝わる。越後国長尾景虎(上杉輝虎)期には、中務、和泉守を称している。

吉田:孫左衛門尉。吉田氏は越後守護上杉家の譜代衆と思われるが、景重は長尾為景の側近を務めている。のちに新保勘解由左衛門尉景重と改めている。

吉田:藤三。吉田景重が新保苗字を名乗ったのに伴って吉田氏を継いだか。越後上杉家の譜代衆・大熊備前守政秀の許で段銭所の役人を務めた。

屋代:式部丞。越後守護上杉家の譜代衆。信濃国衆村上氏の一族である屋代氏から分立した。越後守護上杉房能・同守護代長尾能景(為景の父)の時代に活動していた屋代近江守頼国の子か孫か。

山吉:孫四郎。越後守護代長尾氏の譜代衆・山吉丹波守政久(孫四郎。恕称軒政応)の嫡男。

山吉:孫右衛門尉。山吉政久の一族。景盛の父と考えられる山吉孫左衛門尉能盛は、長尾為景の父である長尾信濃守能景(弾正左衛門尉)から偏諱を付与されている。

城 :織部佑。越後奥郡国衆(阿賀南)か。越後国長尾景虎(上杉輝虎)期に勘当されて甲州武田氏に仕えたらしい。武田氏に仕えてから和泉守を称し、意庵と号した。

松郷:大隅守。越後中郡国衆か。


〔越後国長尾一族に縁の「長」の一字を付与されたであろう人物〕

椎名:弾正左衛門尉。越中国衆。長尾為景が、越中国の守護を兼任する河州畠山卜山(尚順。尚慶。尚長。次郎。尾張守)の要請を受けて、尚順に反抗する越中国婦負・射水郡の守護代神保越前守慶宗(慶良。道五郎。宗右衛門尉)を討伐した功績によって越中国新川郡の守護代職を得ると、もとの新川郡の守護代椎名新七郎慶胤(神保慶宗に味方した)の一族である椎名長常を又守護代に任命した。

安田:実秀。弥太郎。治部少輔。越後奥郡国衆(阿賀北)・大見安田但馬守の子か。上田長尾越前守房長(新六)の娘(年代的にみて妹か)を妻に迎えたというので、長尾房長からの可能性もあるか。

神余:与三郎か。三郎右衛門尉。越後守護上杉家の京都雑掌を務める神余越前守昌綱(隼人佑)の子で、隼人佑実綱(隼人入道)の弟と考えられる。


〔長尾為景の法号である張恕の一字を付与されたであろう人物〕

山吉称軒:号政応。政久。孫四郎。丹波守。


※ 長尾為景の弟といわれる長尾新八郎為重(新次郎とも)、越後奥郡国衆(阿賀北)の竹俣三河守為綱、同じく(阿賀南)の平賀左京進為資なども為景から偏諱を付与されたのかも知れないが、いずれも系図類や社伝でしか所見されない人物である。
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扇谷上杉氏の旧臣・太田資正が戴いた「屋形」について

2015-10-22 22:41:11 | 雑考

【史料1】三戸駿河守宛太田資正書状
御自訴之儀、度々蒙仰候、御屋形申候之処、拙者相計可申之段、被仰出候、如御望之、瀬田谷御一跡可被仰付候、然、静謐之上、屋形御料所一向無之候之条、可然地一所、上御申肝要候、猶、野右舎人孫四郎可申入候、恐々謹言、
               太田美濃守
   五月十四日          資正(花押)
   三戸駿河守殿


【史料2】三戸伊勢寿丸宛太田資正書状
御知行分不入之事、勿論不可存無沙汰候、猶以御進退引立可申候、千言万句、屋形可有御忠信義、簡要候、恐々謹言、
  永禄六癸亥            美濃守
   閏十二月三日          資正(花押)
 伊勢寿丸殿      
      御宿所


 ここに挙げた二通の書状は、越後国上杉輝虎の関東味方中である太田美濃守資正(三楽斎道誉。当時は武蔵国岩付城主)が、族臣の三戸駿河守と、その嫡男である伊勢寿丸に宛てたもので、駿河守には、要望通りに「屋形」の認可を得たので、世田谷(吉良頼康)一跡を継承するべきことと、直轄領を全く所有していない「屋形」に適当な土地を進上するべきことを、伊勢寿丸には、知行地の不入権が認められるので、「屋形」に忠信を尽くすべきことを伝えたものである。よって、天文15年4月の武蔵国河越の戦いにおいて主人の扇谷上杉朝定を失い、一時期は主人の仇である相州北条氏に従属していた太田資正が、永禄3年から同4年にかけて上杉輝虎(長尾景虎)の関東進出が始まり、それに従った以降、新たな「屋形」を戴いていたことが分かる。

 諸資料によると、太田資正が新たに戴いた「屋形」は、関東管領山内上杉家の名跡を継いだ上杉輝虎である。しかし、永禄5年に比定される【史料1】の通り、この「屋形」は直轄領を所有していないことから、太田資正が主人のために善処しているが、上杉輝虎は、永禄7年6月24日に自身が認めた願文のなかで「何之国においても料所一ヶ所まつハらす」と述べて、越後以外の分国で直轄地を得ることに執着しない意志を掲げており、こうした輝虎よりも、ほかに適当な人物がいるのではないだろうか。

 それでは、この「屋形」は誰なのかといえば、一次史料では該当する人物は見当たらないが、様々な軍記物に登場する、相州北条氏に滅ぼされた扇谷上杉氏の生き残りで、関東に進出した上杉輝虎(長尾景虎)から武蔵国松山城の城主に据えられた上杉憲勝(蔵人。新蔵人。左衛門大夫)である。この上杉憲勝は、実名が朝定・友貞など、父親についても扇谷上杉朝興・同朝定、山内上杉憲房、庁鼻和上杉憲武などと定まらず、扇谷上杉氏滅亡後は七沢七郎と名乗って奥州で流浪していたといい、上杉輝虎(長尾景虎)の関東進出後、その養父である山内上杉憲政の猶子になったといわれる。そして、永禄6年2月に松山城が相州北条・甲州武田連合軍によって攻略されたあと、越後に移ったとも、相州北条氏に扶持されたとも伝わっている。

 もし、ここで太田資正が戴いた「屋形」を憲勝に比定したことが誤りでなければ、【史料2】は永禄6年閏12月に発給された文書であることから、永禄6年2月に資正が松山城を失陥したあと、相州北条氏に通じた長男の太田源五郎氏資によって居城である武蔵国岩付城から追放された永禄7年7月まで間、憲勝は岩付城で資正に庇護されていたものと考えられる。なお、永禄12年に越後国上杉氏と相州北条氏の間で同盟が結ばれるなかで、同盟に反対する太田資正(当時は、変転の末に常陸国衆・佐竹氏の客将となっていた)の本領復帰が同盟締結の条件のひとつに挙がり、それに加えて扇谷上杉氏の再興も検討されているようなので、この対象とされていた人物は上杉憲勝のことかも知れない。


『新編埼玉県史 資料編6 中世2 古文書2』344・387号 太田資正書状 『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』412号 上杉輝虎願文、413号 上杉輝虎願文(写)、706号 北条氏政ヵ条書(写) 『越佐史料 巻四』【永禄6年2月4日条】(高橋義彦 編) 『上杉史料集(上)』〔北越軍談〕(井上鋭夫 校注 新人物往来社) 『小田原北条記(下)原本現代訳 24』(岸正尚 訳 ニュートンプレス) 『関八州古戦録(上)原本現代訳 28』(霜川遠志 訳 ニュートンプレス) 『川中島合戦記 原本現代訳 30』(榊山潤 訳 ニュートンプレス)
  
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