越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎(謙信)の略譜 【64】

2014-06-23 01:17:00 | 上杉輝虎(謙信)の略譜
元亀元年(1570)10月 上杉謙信(不識庵)  【41歳】

8日、三(遠)州徳川家康から、このたび派遣した使僧の玄正に起請文(「上杉殿」)が託され、先頃に権現堂(叶房光播)をもって、愚拙(徳川家康)の本心を示したところ、御同意してもらえたので、すこぶる満足していること、よって、一、家康は(武田)信玄と断交する意思を深く心に定めており、いささかも偽りのないこと、一、信長と輝虎(謙信)の間で厚誼が結ばれるように、力を尽くして後押しし、また、甲(武田)・尾(織田)の縁談を破棄されるように、努めて忠告すること、これらを固く誓言されている。
同日、徳川「家康」から、取次の「直江大和守殿(景綱。大身の旗本衆)」に宛てて初信が発せられ、このたび御使僧が到来したので、喜び勇んで返書を送ったこと、このほど輝虎から示された御内意については、いずれの条々も逐一納得できたので、ともかく河田豊前守(長親。大身の旗本衆。越中国魚津城代)にも伝達したこと、その河田豊前守の越中在国に伴う貴辺(直江景綱)への取次の交替にも満足しており、いよいよ両家の厚誼を確かなものとするために力の限り奔走してもらいたいこと、貴国から示された条々への返答を御使僧に詳説したので、きっと余す所なく伝達されるはずであること、よって、これらの詳細については再便を期することを伝えられている。
同日、徳川家康の使僧である「権現堂叶(光播)」から、「直江大和守殿(景綱)」に宛てて書信が発せられ、この秋に参上した折は、手厚くもてなしてもらったこと、このたび御使僧が到来されたので、当方は喜びに沸いていること、去秋に当方の宿老である酒井左衛門尉方(忠次。三河国吉田城主)と石川日向守方(家成。遠江国懸川城代)・同伯耆守(数正。家成の甥)をもって、当方の存念を丁寧に申し入れたところ、速やかに取り成してもらえたおかげで、滞りなく御屋形様(謙信)の承諾を得られたこと、いよいよ両家の厚誼を確かなものとするために、よくよく御貴所(直江景綱)に御取り成してもらいたいこと、ともかく(家康は)誓詞を紛れもなく進められたので、諸事については、来春中に愚僧が参上して詳説させてもらうこと、このほど其方(越後国上杉家)から拝領した御馬は遠路をものともしない逸物なので、愚僧にとっても名誉であるため、あちらこちらで言広めていること、よって、これらについての詳述は玄正に頼んだことを伝えられている。更に追伸として、返す返すも上様(謙信)にあらましを御披露してほしいことと、わざわざ手を尽くして御鷹を下されたので、ことのほか(家康も)満悦されており、酒井左衛門尉方(忠次)に下された御鷹も誉れ高いとの評判であることを伝えられている。
同日、酒井「忠次」から、取次の「村上源五殿(国清。一家衆に準じる信濃衆)御報」に宛てて返書が発せられ、仰せの通り、これまで音信を通じていなかったところ、このたび御書を頂戴して、満足しきりであること、輝虎様(謙信)と家康の間で格別な厚誼が結ばれたので、自分のような下輩の者まで歓喜していること、何事に於いても手抜かりなく対応するので、よしなに御取り成し願いたいこと、御直書ばかりか、わざわざ御鷹まで下さり、過分な御厚意に感謝してもしきれないこと、よって、また改めて念入りに連絡することを伝えられている。

10日、(上杉「謙信」)、上野国沼田城(利根郡沼田荘)に着陣した先遣部隊と沼田城衆の「新発田右衛門大夫殿(綱成ヵ。外様衆)・本庄清七郎殿(綱秀ヵ。大身の旗本衆)・河田伯耆守殿(重親。沼田城衆。大身の旗本衆)・小中彦兵衛尉殿(清職ヵ。沼田城衆。旗本衆)・竹沢山城守(沼田城衆。大身の旗本衆。もとは下野国衆・佐野氏の家臣)・発智右馬允殿(長芳。沼田城衆。旗本衆)・栗林次郎左衛門尉殿へ(房頼。甥である上田長尾喜平次顕景の陣代)・板屋修理亮とのへ(光胤ヵ。大身の旗本衆・松本鶴松丸の陣代)に宛てて書信を発し、このたび(武田)信玄が利根川を越えたとの報告を受け、確かに了解したこと、先だって飛脚をもって指示した通り、本隊に合流する軍勢が、上・越国境の越後国河治(魚沼郡上田荘)の地に二、三手が続けざまに着陣してくるので、明日の内には国境を越えるつもりであること、沼田領の至る所から十五歳以下の少年と六十歳以上の老人を徴兵するべきこと、無禄の者は言うまでもないが、たとえ誰人に扶持されている者でも、このたび積極果敢に奮闘したならば、そのまま所属させるように努めるので、皆々によく言聞かせるべきこと、間もなく国境を越えるので、ともあれ安心してほしいこと、これらを今一度伝えた。
24日、(朱印)、上野国厩橋城(群馬郡)の城代である北条丹後守高広(譜代衆)に宛てた条書(印文「摩利支天 月天子 勝軍地蔵」)を使者に託し、一、(武田)信玄の関東出陣に対応して、この20日に国境を越えて上州に進陣したところ、たちまち敵(甲州武田軍)は退散してしまったので、こうなれば相・越両軍が同陣して武田領に攻め込むのみであり、その連絡調整に当たるべきこと、一、奥信濃と越中の警戒に当たらせるため、景虎(謙信の養子である上杉三郎景虎。相州北条氏康の末子)を越府に留め置いていたが、漸く降雪期を迎えたゆえ、このほど関東に出陣させるので、先ずは愚老(謙信)の方から使者をもって相府に伝達すること、一、何はともあれ攻戦については、ひたむきに覚悟を決めていること、これらの条々を伝えた。また、風雪の厳しい時分の出陣になったので、寒風吹きすさぶ露営で筆を執る手が震えるため、やむを得ず花押の代わりに印判を捺したことへの理解を求めた。

これから間もなくして帰国の途に就いた。


この間、甲州武田「信玄(法性院)」は、12日、下野国衆である「佐野殿(昌綱。下野国唐沢山城主)」に対して条書を託した使者を派遣し、一、このほど挙行した関東陣に於ける戦況のこと、この補足として、武蔵国藤田(榛沢郡。鉢形藤田氏領)・秩父(秩父郡。同前)・深谷(幡羅郡。深谷上杉氏領)領域の耕作を薙ぎ払ったこと、一、利根川の増水により、このたびは越河できず、はなはだ心残りであること、この補足として、上野国漆原(上野国群馬郡桃井郷)に陣取り、上野国厩橋領に火を放ったこと、一、越後衆が野州に出陣してきたならば、ためらわずにその方面へ進陣すること、この補足として、若し野州に進陣した場合の戦略のこと、これらの条々を伝えている。
27日、関東衆の「一色殿(房州里見氏に庇護されている足利藤政らに属する一色氏か)」に対して書信を送り、この20日以前にも連絡を入れたが、伝わっているかどうか心許ないこと、先頃に上野国沼田・厩橋の全域を荒らし回って壊滅させ、この19日から昨日の間には、武蔵国秩父郡に在陣して、彼の領域の人民を分断させるような作戦を実施したので、安心してほしいこと、この機会に相模国鎌倉(東郡)の地で参会し、今後の戦略について御意見を求めたいとは考えていたが、十分な戦果を得られたゆえ、ここは一旦帰陣し、来月中旬に出直して相府小田原を攻めるつもりなので、武蔵国江戸(豊島郡)辺りで面談したいこと、よって、これらを使者をもって詳述することを伝えている。

『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 942号 徳川家康起請文、943号 徳川家康書状、944号 権現堂光幡(播)書状、945号 酒井忠次書状、964号 上杉謙信書状(写)、948号 上杉輝虎(謙信)条書 『戦国遺文 武田氏編 第三巻』 1743号 武田家朱印状写、1744号 武田信玄書状

◆ 『戦国遺文 武田氏編』等は1743・1744号文書を元亀2年に比定しているが、柴辻俊六氏の論集である『戦国期武田氏領の形成』(校倉書房)の「第一編 権力編成と地域支配 第七章 越相同盟と武田氏の武蔵侵攻」に従い、元亀元年の発給文書として引用した。
◆ 同じく1743文書の解釈については、鴨川達夫氏の著書である『武田信玄と勝頼 ―文書にみる戦国大名の実像』(岩波新書)の「第二章 文書はこう読め 一 正確な読解 ―小さな不注意から文意が正反対に」を参考にした。


元亀元年(1570)11月 上杉謙信(不識庵)  【41歳】

24日、(上杉「謙信(花押a)」)、越後国坂戸城(魚沼郡上田荘)に戻っている上田衆の「栗林二郎左衛門とのへ(房頼ヵ)」に宛てて書信を発し、倉内(上野国沼田城)へ飛脚を立てるように頼んだところ、直ちに手配してくれたので、すこぶる満足していることと、信・越国境から伝わってきた情報によれば、(武田)信玄が再び上州に出陣してくるようなので、若しも沼田荘内に攻め込んできたら、速やかに来援するべきことを伝えた。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 950号 上杉謙信書状


元亀元年(1570)12月 上杉謙信(不識庵)  【41歳】

10日、越中国魚津城(新川郡)の城代である河田「長親(豊前守。大身の旗本衆)」が、被官の「山田平左衛門尉殿」に証状を与え、越後国古志郡内に於ける知行地の替地として、同頸城郡保倉北方の地を宛行っている。

13日、(上杉「謙信(花押a)」)、府城である春日山城(越後国頸城郡)の「御ほう(宝)前(看経所)」に「看経之次第」を納め、来春の2・3月に越中へ出陣するので、その留守中に越後・関東が何事もなく平穏であることと、越中を思うがまま一挙に平定することが達せられれば、一、阿弥陀如来の真言三百遍・念仏千二百篇・仁王経一巻、一、千手観音の真言千二百篇・仁王経二巻、一、摩利支天の真言千二百篇・摩利支天経二巻・仁王経一巻、一、日天子の真言七百遍・仁王経二巻、一、弁才天の真言七百遍・仁王経二巻、一、愛宕勝軍地蔵の真言七百遍・仁王経二巻、一、十一面観音の真言七百遍・仁王経二巻、一、不動明王の真言七百遍・仁王経二巻、一、愛染明王の真言七百遍・仁王経二巻を、明けて一年間、必ず毎日読誦することを誓った。

同日、河田「長親」が、伊勢神宮に宛てて証状を発し、越中国新川郡上条保飯坂村内の八十俵一斗五升、但し、引物は前々の通り、同保同村内の六十八俵、但し、引物は前々の通り、越中国新川郡小出保高寺村内の三俵、同佐美郷浦山本光院方の内屋敷、同藤保折立村の禅徳寺を寄進している。

18日、相州北条「氏康(相模守)」が、駿・相国境の相模国足柄城(西郡)に在番する「岡部和泉守殿(今川氏の旧臣)・大藤式部少輔(式部丞政信。諸足軽衆。相模国田原城主)に宛てて書信を発し、今18日付の(玉縄北条康成(玉縄北条左衛門大夫綱成の世子)からの)注進状が夕暮れ時に届いたこと、駿河に進攻してきた敵(甲州武田軍)は本陣を構えていた瀧之瀬(駿東郡鮎沢御厨須走の滝之沢)から阿多野原に進陣したので、(氏政は)善九郎・孫二郎兄弟(北条康成・康元)を小足柄(相模国西郡足柄峠)に上らせること、(氏政は)以前から両名を彼の地に留め置く考えであり、萱野の地より後方に下がらせるつもりはないらしいこと、但し、その時々で各人の報告内容が変わるので悩ましいが、善九郎(康成)の見解は筋が通っており、あのような高所に敵が執着するとは思えないので、とにかく五・六百名ほどを増派するのは適切であること、よって、現時点に於いて第一の防衛線は小足柄になったとの理解で臨むべきこと、これらを伝えるとともに、(康成らが)大将陣を構える場所は、峠には適当な陣場がないので、地蔵堂辺りが尤もと考えているが、こちらからは地形が見えないために推測するしかなく、しっかりと彼の本陣を見届けて、すぐさま報告するべきこと、また、必ず大手(氏政)へも速やかに使者を派遣して知らせるべきこと、駿河国深沢城(駿東郡)を後援したいので、坂の中腹に一千・二千名を配備できる地形があるかどうかを知りたいこと、これらを指示している。
24日、相州北条「氏康」が、「岡部和泉守殿」に宛てて書信を発し、敵陣の様子を頻繁に知らせるべきこと、現在の状況を今一度知らせてほしいこと、決して敵方に深沢城の後詰を悟られてはならないこと、よって、これらを城将の四郎(氏光。氏康の弟である左衛門佐氏堯の子で、父の死後、兄の六郎氏忠と共に氏康の養子となったらしい)に言い含めることを指示している。

21日、公銭衆の「飯田長家・河隅忠清・五十嵐盛惟(いずれも旗本衆)」が、越後国頸城郡大貫村に於ける六貫文分の年貢を納めた「色部弥三郎殿(顕長。外様衆。越後国平林(加護山)城主)参」に宛てて請取状を発している。


この間、甲州武田「信玄(法性院)」は、7日、下総国衆の簗田「洗心斎(道忠。中務大輔晴助。下総国関宿城主)」に対して起請文を送り、一、貴辺(簗田入道道忠)の御要望に沿い、相馬(下総国衆の相馬治胤)の遺跡及び要害(下総国守屋城)を領有できるように、(武田信玄が)里見義弘と相談して取り計らい、たとえ一国の内であったとしても、彼の地を誰人にも干渉させずに末代まで任せるので、とにかく房州(里見義弘)との厚誼を確かなものにするべきこと、一、腹黒い人物が貴辺を讒言したとしても、内密に何度でも双方の言い分を聴取すること、一、貴辺からは証人を要求しないこと、一、貴辺が苦境に陥った際には、決して見放さず手厚く援助すること、一、信玄が関東に出陣した際に、洗心斎(簗田入道道忠)も相馬の一件が落着した上で同陣してくれるのならば、戦陣の終了後には即座に帰宅してもらうこと、これらの条々を固く誓言している。

これから暫くして駿河国深沢城を攻めるために出陣し、同御厨地域の瀧之瀬(滝之沢)に本陣を構えると、18日、同阿多野原に進陣している。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 952号 河田長親知行宛行状、953号 上杉謙信願書、954号 河田長親寄進状、955号 飯田長家等三名連署請取状 『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』 1358・1363号 北条氏康書状 『戦国遺文 武田氏編 第三巻』 1630号 武田信玄起請文

◆ 『戦国遺文 後北条氏編』は1358・1363号文書を永禄12年に比定しているが、黒田基樹氏の論集である『戦国期東国の大名と国衆』(岩田書院)の「第Ⅰ部 第四章 北条氏の駿河防衛と諸城」に従い、元亀元年の発給文書として引用した。
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「公方御要害」

2014-06-18 21:40:09 | 雑考
 
【史料1】新津景資起請文
今度雑意前後共、一切不存候処、如此一義出来、 歎ヶ敷奉存候、前々も御後闇事無之候、於向後も争別意可奉存候哉、然者、千田・平賀家風申合、御被官同前可走廻候、万一偽而申上候者、
上梵天・帝尺・四大天王・惣而日本国中大小神祇、別而八幡大菩薩・春日大明神・天満大自在天神・諏方上下大明神、殊当国鎮守関山権現・弥彦・二田大明神蒙御罰、於今生者、請白癩黒癩病、至于来世者、永可令堕罪者也、仍起請文如件、
   大永六      新津上総介
    正月十一日       景資(花押・血判)


 大永6年正月11日、越後守護代の長尾為景から反乱の企てに荷担していることを疑われた越後奥郡国衆の平賀新津上総介景資(越後国新津城主)は、長尾為景に対して起請文を差し出し、このたび糾問された謀議についての一切の関与を否定して、嫌疑をかけられたことへの遺憾の意を表するとともに、いささかも後ろめたい所はなく、今後も反意など抱くことはあり得ないとして、同族の千田・平賀家中と協調して為景の被官同前に奮励することを誓っている。


【史料2】千田憲次・豊島資義連署起請文
就新津別義御尋、忝奉拝候、然而、彼一義毛等不存義候、於向後も、自他国共雑意出来候者、幸公方御要害候間、従府内御人体申請、実城指置申、我等親類共、抽粉骨可走廻候、其外対 殿様申、御後闇事不可存之候、於以後も、非分雑意申懸事可在之候間、飜宝印申上者、
上梵天・帝尺・四大天王・惣而日本国中之、大小神祇、別而八幡大菩薩・春日大明神・天満大自在天神・諏方上下大明神・殊当国鎮守関山権現・弥彦・二田大明神蒙御罰、於今生者、請白癩黒癩病、至于来世者、永可令堕罪者也、仍起請文如件、
   大永六     豊島次郎左衛門尉
    正月十一日         資義(花押・血判)
           千田 蔵 人 佐
                  憲次(花押・血判)


 同日、平賀一族の千田蔵人佐憲次・豊島次郎左衛門尉資義も長尾為景に対して起請文を差し出し、このたび新津景資にかけられた嫌疑については全く関知しておらず、これからも国内外で有事が起こった際には、幸いにして当地は「公方御要害」ゆえ、府内から然るべき指揮官を実城(主郭)に招請した上で、一族結束して忠勤を励むことと、これからは殿様(為景)に疑念をもたれないように注意を払うことを誓っている。

 こうした長尾為景の威圧によって認められた千田憲次・豊島資義の起請文にみえる「公方御要害」とは、平賀氏が拠ったと伝わる越後国蒲原郡金津保の大要害・護摩堂城と考えられ、平賀一族による起請文の内容や、これまでに起こった越後の大乱に於いて、必ずと言って良いほど攻防の地となっていた事実から察するに、同じ蒲原郡内の三条城・黒滝城と並び、越後国守護の上杉氏から有事の城郭に指定されていたようである。

 このように「公方御要害」の護摩堂城は、永正年間に起こった数度の大乱を通じて皮肉にも長尾為景方の一大拠点であり続けたが、享禄・天文の乱では平賀一族が誓詞を反故にして反対勢力を支持したことから、同じく反対勢力に属した揚北衆(阿賀野川以北の越後奥郡国衆)の本庄大和守房長や色部弥三郎勝長らが交替で詰めたのである。

※ 平賀一族の宗家である平賀氏の起請文は残っていないようであるが、平賀氏が揚北衆と共に護摩堂城に拠っていたことは本庄房長の書状によって確認できる。


『日本城郭大系7 新潟・富山・石川』(新人物往来社) 『新潟県史 資料編3 中世一』233号 新津景資起請文、234号 千田憲次・豊島資義連署起請文 『新潟県史 資料編4 中世二』1094号 本庄房長書状

◆ 『新潟県史』1094号は年次未詳であるが、発給者の本庄房長は享禄4年正月に対馬守から大和守に改称していることと、房長は天文8年に死去したことに加え、受給者の色部勝長は文書上の活動始期が天文4年であるため、天文の乱当時に於ける発給文書として引用した。
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新発田駿河守と新保駿河守について 【補足】

2014-06-17 19:49:18 | 雑考
 
 『越佐史料』所収の〔新発田系図〕によると、新発田駿河守の母は、越後奥郡国衆の中条氏の庶族である築地修理亮資豊の娘といい、駿河守は、天正15年7月に甘糟近江守長重・山吉玄蕃允景長の手勢によって討ち取られたとも、同年10月28日に新発田因幡守重家が滅亡した直後に助命されて、同じく越後奥郡国衆の色部修理大夫長真に預けられたともいう。

 このように、新発田駿河守の母が築地修理亮の娘であるというのは、築地修理亮が新発田重家の乱に於いて、一旦は誼ある重家に味方していた事実から、十分に納得できる。

 そして、駿河守が助命されたのちに色部氏の許に預けられたとの一説(【御家中諸士略系譜】の新保氏系図にも記述されている)については、確かに文禄年間の色部氏の同心衆に新保四郎左衛門がいるものの、前項で述べたように、元々から色部氏の被官には新保氏が存在していたし、更には、新保駿河守の子が四郎左衛門を称した形跡はないので、やはり事実とは考えにくい。

※ 色部氏の同心衆とはいっても、その顔ぶれの殆どは色部氏の一族と被官である。


『越佐史料 巻6』 『上杉家御年譜 第23巻 上杉氏系図 外因譜略 御家中諸士略系譜1』 『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2543号 新発田重家書状(写)、2547号 上杉景勝書状
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2014-06-06 00:40:35 | 留書き
 越後国上杉輝虎(長尾景虎。号宗心上杉政虎。号謙信)の略譜 【16】に於いて、『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』1173号 天正元年10月11日付河田豊前守(長親)宛狩野右京入道道州・小嶋六郎左衛門尉職鎮連署状(上杉家文書)を永禄5年の発給文書として引用しましたが、誤りでしたので削除しました。
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新発田駿河守と新保駿河守について

2014-06-05 23:59:15 | 雑考
 
 『上杉家御年譜』の【御家中諸士略系譜】によると、新保駿河守盛喜は、上杉景勝に対して反乱を起こした越後奥郡国衆の新発田因幡守重家の弟であり、天正15年10月25日に兄の新発田重家が敗死したのち、景勝に降って許されると、新発田苗字を憚って母方の新保苗字に改めたという。

 ところが、新発田駿河守は、天正10年5月24日に上杉景勝から、このたび先忠に復した恩賞として、新発田因幡守重家を滅亡させたあかつきには、佐々木加地一族の宗家である加地氏の一跡のうち、先ずは越後国蒲原郡の沼垂と新潟の地を宛行うことと、先代である新発田尾張守長敦の娘に相応しい婿を迎えた上で名跡を立てさせ、その後見に据えることを約束されており、新発田重家が敗死するかなり前から上杉景勝に降っているのである。またそればかりか、【越後三条山吉家伝記之写】所収の慶長8年7月7日付水原常陸介宛山吉景長御奉公書によると、再び兄の重家に味方した新発田駿河守は、山吉勢に新潟・沼垂両城を乗っ取られた際に戦死しており、天正14年7月に新発田攻略の最前線を担う甘糟近江守長重(越後国三条城代)と山吉玄蕃允景長(同木場城将)の攻撃を受けて敗死してしまったことになる。

 その一方では、【覚上公御書集】所収の「御陣営備定覚」によると、新保駿河守が、新発田駿河守の敗死した直後である天正14年8月に上杉景勝の新発田攻略に従軍しているのである。この新保駿河守は【御家中諸士略系譜】の新保氏系図の流れからすると、明らかに、かつて上杉謙信から「景」の一字を付与された譜代衆の新保孫六であり、とても新発田駿河守と新保駿河守が同一人物であるとは思えない。

 これらの通り新発田駿河守と新保駿河守が別人であるならば、【文禄三年定納員数目録】に記載された新保四郎左衛門(色部氏の同心で平林城の在番衆)の注記によると、四郎左衛門は新保駿河守と新発田駿河守の娘の間に生まれた子であるから、こうした事実が誤って伝えられたのではないだろうか。

※ 本来ならば、色部氏には根本被官の新保氏がいたことから考えて、記載から漏れてしまったらしい新保駿河守の子に付されるべき注記であったろう。


『上杉家御年譜 第23巻 上杉氏系図 外姻譜略 御家中諸士略系譜1』 『三条市史 資料編 第二巻 古代中世編』 410号 笹堀御陣営御備定覚(写)、〔参考史料1〕米沢上杉家之藩山吉家伝記之写 『新潟県史 通史編2 中世』 『新潟県史 資料編4 中世二』2026号 色部長倫申状写 『新潟県史 別編3 人物編』 一 文禄三年定納員数目録 『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』1433号 上杉謙信名字状(写)、1434号 上杉謙信一字書出(写) 『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2383号 上杉景勝判物(写)、3122号 上杉景勝書状、3200号 豊臣秀吉直書、3201号 石田三成・増田長盛連署状、3202号 豊臣秀吉朱印状
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