越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎(謙信)の年代記 【永禄4年正月~同年5月】

2012-09-02 20:13:51 | 上杉輝虎の年代記

永禄4年(1561)正月閏3月 越後国長尾景虎(弾正少弼)【32歳】


上野国厩橋城(群馬郡)で新年を迎えると、越府留守衆の検見(監察)として残留させていた直江与右兵衛尉実綱(大身の旗本衆)を呼び寄せる。


正月11日、関東遠征に従軍している越後奥郡国衆の本庄繁長(弥次郎)が、被官の飯沼与七郎に証状を与え、このたびの戦陣に付き従い、感心するほど奉仕してくれたので、渡辺三郎四郎持所四百文の地に、石山惣兵衛尉分二百刈の地を加えて宛行うことと、今後ますます忠節を励めば、さらに加増することを申し渡している(『村上市史 資料編1』146号「飯沼与七郎とのへ」宛本庄「繁長」知行宛行状)。

18日、関東遠征に従軍している出頭人の河田長親(九郎左衛門尉。大身の旗本衆)が、越府の蔵田五郎左衛門尉(実名は秀家か。府内代官)へ宛てて朱印状を発し、もしすでに(景虎が)武州へ向かわれて御留守ならば、荷駄隊を厩橋(上野国群馬郡)へ単独で移動するように申し付けられるべきか、直江に同道させるべきか、いずれも其方(蔵田五郎左衛門尉)の判断次第であること、これを恐れ謹んで伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』252号「蔵五 まいる」宛長尾景虎朱印状【印文「封」】奉者「河田長親」)。

2月6日、関東への出立を控えた直江与右兵衛尉実綱が、信濃国奥郡の某所に在陣する高梨源太(客分の信濃衆・高梨刑部大輔政頼の世子。信濃国飯山城主か)の年寄中へ宛てて書状を発し、めでたく喜ばしい改年の御慶賀は、いつまでも尽きないであろうこと、関東の経略については、日を追うごとに景虎の思い通りに進捗しているので、御安心してほしいこと、このほど拙者(直江実綱)は関東に出陣するように、景虎から命じられたので、近日中に出府すること、これにより、当方には頼みとなる人士が払底しており、御面倒ながら貴殿(高梨源太)には、早々に当府へ御下向されて、留守中の防備を然るべく御差配してほしいこと、御存知の通り、こうした要請は、あらかじめ昨秋に少弼(長尾景虎)から提示されていたこと、昨年に貴殿が信濃に御上国されると、いわれのない讒言を陣中で触れ回る徒輩の存在により、御疑心に苛まれているとの情報が伝わっていること、これによっても、景虎の貴殿に対する心からの信頼は、決して揺らいだりはしないこと、拙者が出陣するからには、支障なく責務を御遂行できるように、諸事万端を整えておくので、御安心してもらいたく、取り急ぎ御下着されるべきこと、詳細については、知恩寺(岌州。景虎との盟約通りに越後国へ下向してきた関白近衛前嗣の同行者)が説明されるので、この書状では要略した事情を御理解してもらいたいこと、これらを恐れ謹んで伝えている。さらに追伸として、祝儀のしるしに鞦一具を進上することを伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』253号「高梨殿 人々御中」宛「直江与右兵衛尉実綱」書状)。


11日、越府の蔵田五郎左衛門尉へ宛てて直書を発し、昨年、町人衆に改善を申し付けた府内の夜警ならびに町中の警戒以下について、未だに改めていないとの情報が寄せられたので、はなはだ不愉快であり、厳重に申し付けるべきこと、町中の防火などを怠ってならず、もしも権門勢家(町人を被官としていた寺社方・給人方)に遠慮して義務を果たさない徒輩がいるならば、誰彼構わず処断するべきこと、ついては、其方(蔵田五郎左衛門尉)の所管内である府内に限らず、非道な振舞いや不当な干渉をする徒輩がいるならば、糾明して事実を直報するべきこと、其方が以上の事柄を町人衆などに厳命するのを怠り、もしも其方以外の者から悪い情報を寄せられるようであれば、帰国後に其方の怠慢を糾明すること、これらを厳しく申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』255号「蔵田五郎左衛門尉(敬称は「とのへ」か)」宛長尾「景虎」朱印状写【花押a3影】)。

17日、奥州会津(会津郡門田荘黒川)の蘆名家に属する陸奥国衆の山内刑部大輔舜通(陸奥国横田城主)へ宛てて返書を発し、陣中見舞いとして、芳書ならびに紅燭(蝋燭)を員数の通り頂戴したこと、遠境にもかかわらず、わざわざ御厚情を示してもらい、感謝してもしきれないこと、諸事については来信を期すること、これらを恐れ謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』256号「山内刑部太輔殿」宛長尾「景虎」書状【花押a3】)。

25日、蔵田五郎左衛門尉へ宛てて直書を発し、府内の防火に努めるべきこと、敵方から放火の工作員が大挙して越府に向かっているとの情報を得ており、よもや警戒を怠って府内が焼かれでもしたら、其方(蔵田五郎左衛門尉)ばがりではなく、町内の頭分達の責任を質すこと、これらを厳しく申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』257号「蔵田五郎左衛門尉とのへ」宛長尾景虎書状【花押a3】)。

27日、これより前に攻略した武蔵国松山城(比企郡)で相模国鎌倉の鶴岡八幡宮寺(鎌倉郡)へ宛てた願文を認め、関東平定の決意を表し、近日中に相府小田原城(西郡)に向けて進軍する意向を示した(『上越市史 上杉氏文書集一』258号「晋(進ヵ)上 鶴岡八幡宮寺」宛長尾「弾正少弼景虎」願文写)。

その後、武蔵国多摩方面に進陣すると、高尾山の小仏谷と椚田谷(多西郡)に制札を掲げ、それぞれの霊域における関東・越後諸軍勢の濫妨狼藉を停止し、違犯した徒輩については、必ず処断することを申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』259・260号 長尾景虎制札【署名はなく、朱印(印文「地帝妙」)のみを据える】)。

同じ頃、相模国比企谷の妙本寺(鎌倉郡)からの要請に応じて制札を掲げ、相州鎌倉比企谷の法華堂寺内坊舎ならびに門前在家以下の地における関東・越後諸軍勢の濫坊狼藉を停止し、違犯した徒輩については、必ず誰人であろうとも処断することを申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』263号 長尾景虎制札写【署名はなく、朱印(印文「地帝妙」)のみを据える】)。


晦日、関東味方中で武蔵国衆の岩付太田資正(美濃守。武蔵国岩付城主)が、武蔵国高尾山の小仏谷と案内谷に制札を掲げ、それぞれの霊域における軍勢の濫妨狼藉を禁じ、違犯した徒輩については、必ず処断することを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』261・262号 太田「資正」制札)。



この間、相州北条氏に擁立された鎌倉公方足利義氏(下総国関宿在城)は、晦日、下野国衆の那須修理大夫資胤(下野国烏山城主)へ宛てて直書を発し、このたびの関東争乱における進退について、諸家中が明言を避けているのは不可解であること、たとえ氏康に対して数多の遺恨があろうとも、那須家累代が尽くしてきた忠節を鑑み、御当家(鎌倉公方足利家)を見放されるべきではないこと、これから長尾景虎が利根川を越えて豆州・相州・武州に侵攻してくるのは明らかであること、彼の長尾家とは二・三代にわたって共闘しており、残念な成り行きであること、氏康は外戚の誼をもって、御当家を推戴しているのであり、万が一にも景虎が御当家を疎略に扱う覚悟であるならば、諸家中の皆々で相談して景虎に意見を加えてもらいたく、この点は妥協するべきではないこと、御当代(足利義氏)においては、いささかも御対応を変えられはしないこと、君臣・父子・兄弟の理非と格別の筋目をもっての太平和平は古今の先例にあること、ましてや御当家に対して遺恨を抱かれるべき題目は一事としてないはずであり、つまりは諸家中が賢明に対応するべきこと、詳しい存分を御聞きになられた上で、改めて深々と申し遣わすこと、これらを恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文 古河公方編』860号「那須修理大夫殿」宛足利「義氏」書状)。


相州北条家が拠る小田原城へ向かっている越後国長尾軍および関東衆の一部と、北条方の拠点(武蔵国江戸・河越・由井・花園・小机、相模国玉縄・三崎など)を攻めている関東衆(『戦国遺文後北条氏編一』702号 北条氏康書状写)の各部隊には、上野国衆の白井長尾孫四郎憲景(上野国白井城主)・惣社長尾能登守(実名は景総か。同惣社城主)・箕輪長野信濃守業正(同箕輪城主)・厩橋長野藤九郎(仮名は彦九郎が正しいらしい)・沼田衆・岩下斎藤越前守(実名は憲広か。同岩下城主)・横瀬雅楽助成繁(同金山城主)・桐生佐野大炊助(実名は直綱か。同桐生城主)、下野国衆の足利長尾但馬守景長(下野国足利城主)・小山弾正大弼秀綱(同祇園城主)・宇都宮弥三郎広綱(同宇都宮城主)・佐野小太郎昌綱(同唐沢山城主)、下総国衆の簗田中務大輔晴助(下総国古河城主)・高城下野守胤吉(同小金城主)、武蔵国衆の成田下総守長泰(武蔵国忍城主)・埼西小田助三郎(成田長泰の弟。同埼西城主)・広田式部大輔直繁(同羽生城主)・河田善右衛門大夫忠朝(広田直繁の弟。同皿尾城主か)・藤田衆・深谷上杉左兵衛佐憲盛(同深谷城主)・市田上杉某(茂竹庵か。深谷上杉氏の一族。同市田城主)・岩付太田美濃守資正(同岩付城主)、三田弾正少弼綱秀(同勝沼城主)、常陸国衆の佐竹右京大夫義昭(常陸国太田城主)・小田太郎氏治(同小田城主)・真壁安芸守久幹(同真壁城主)・多賀谷修理亮政経(同下妻城主)、上総国衆の東金酒井左衛門尉胤敏(上総国東金城主)・山室治部少輔勝清(同飯櫃城主)、そして房州里見一家の里見民部少輔実房(民部大輔)が率いる別働部隊などが参加している(『上越市史 上杉氏文書集一』272号 関東幕注文)。

武蔵国多摩地域を押し通って相模川沿いに南下し、3月3日頃、相州中央部に進出して当麻(東郡)の地に着陣する(『戦国遺文 後北条氏編一』670号 大石源三氏照書状)。



これを受けて相州北条氏康(左京大夫)の三男である大石源三氏照(武蔵国由井城主)は、3月3日、甲州武田家に属する甲斐国衆の加藤駿河守(実名は虎景か。甲斐国上野原城主)へ宛てて書状を発し、このたび敵軍が相州中筋に侵攻すると、当麻の地に陣取ったので、甲府においては、盟約の旨に従って相模国千喜良口(津久井郡)へ御加勢を派遣してほしいこと、そのために信玄へ書状をもって申し入れるので、御取り成し願いたいこと、この御加勢の件については、必ず氏康からも綿密に申し入れられること、これらを恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文 後北条氏編一』670号「加藤駿河守殿 御宿所」宛大石源三氏照書状)。



8日、海路を取った関東味方中の房州里見義弘(太郎)が率いる里見軍の本隊が鎌倉腰越浦に上陸すると、相州北条氏康の一族衆である玉縄北条善九郎康成(玉縄北条左衛門大夫綱成の嫡男。母は北条氏綱の娘で、妻は氏康の娘)の迎撃に遭う。

9日、玉縄衆を撃退して鎌倉に布陣した里見義弘が、比企谷の妙本寺と山内の禅興寺に制札を掲げ、それぞれの寺内における軍勢の濫妨狼藉を停止し、この旨に違犯した徒輩については、罪科に処することを申し渡している(『戦国遺文 房総編二』1036号 里見義弘制札、1037号 里見義弘制札写)。



こうししたなか、相州北条氏康は、9日、玉縄衆の佐枝治部左衛門尉へ宛てて感状を発し、このたび敵船が腰越浦に上陸したところ、真っ先に突入して奮戦し、見事に敵兵を討ち取ったので、その忠節に感悦していること、当軍が勝利したあかつきには、忠賞として一所を宛行うこと、よって、これらを善九郎方(玉縄北条康成)へ申し伝えたことを申し渡している(『戦国遺文 房総編二』1038号「佐枝治部殿」宛北条「氏康」感状写)。



10日、相模国酒匂の地(酒匂川東岸)に布陣して小田原城の相州北条軍と対峙する。


このあと合戦が開始されると、相州北条氏康・同氏政父子が会戦を避け、五百挺ほどの鉄砲を活用した籠城作戦と大藤式部丞秀信ら諸足軽衆を駆使して撹乱作戦を展開する(『戦国遺文後北条氏編一』687号 北条宗哲書状)のに対し、越後・関東衆の軍勢は小田原城下を悉く焼き払っている(『上越市史 上杉氏文書集一』344号 上杉輝虎願文、429号 上杉輝虎書状写 ●『戦国遺文後北条氏編一』742号 北条氏康書状)。


11日、側近の河田長親と直江実綱を奉者として、越後国魚沼郡の上田荘・妻有荘・藪神郷の領民に宛てた朱印状(印文「地帝妙」)を発し、昨年の水害によって上田荘・妻有荘・藪神郷の地下人などの疲弊が著しいため、このたび御徳政掟を発布されること、一、借銭・借米(借財)を徳政(債務の清算)すること、一、銭講・米講(互助組織による積立金)も同様であること、一、借銭・借米のために質入れされた男女の身柄も同様であること、ただし、すでに売買が成立した身柄については除外すること、一、質物に利平(利息)がついた場合の分も徳政するべきこと、一、商品の代物は、すぐには調達できないものであり、ひと月ごとに期日を定めて借銭・借米を取り交わした場合の分も徳政するべきこと、ただし、手形が無い場合には、御法の適用外として厳重に対処するべきこと、よって、御掟の項目以外についての徳政を厳禁すること、これらを(景虎の)御下知として申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』264号 長尾景虎朱印状【印文「地帝妙」】奉者 河田「長親」・直江「実綱」)。

同じ頃、やはり河田長親と直江実綱を奉者として、越後国頸城郡内の各宿場に掲げる制札を発し、頸城郡内における関東への街道を往復する徒輩のうち、あるいは伝馬宿送などの名を騙り、あるいは陣衆の名を騙り、街道沿いの至る所で竹木を伐採し、狼藉の限りを尽くしているそうであり、はなはだ不愉快であること、さしづめ今後は厳重に停止すること、ただし、雑事のうちでも、猿楽ならびに桂斗(芸能者か)の荷物については、たとえ公儀の御用であろうとも、両条の御印判を所持していなければ、宿送してはならないこと、万が一この旨に違犯する徒輩がいれば、その者の属する宿所を割り出し、取りも直さず注意するべきこと、さもなくば、きつく詮議して交名注文をもって上申するべきであり、これらの旨を徹底させるために(景虎が)御判を据えたことを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』268号 長尾景虎朱印状写【印文「地帝妙」】奉者 河田「長親」・直江「実綱」)。

同じく、関東遠征に従軍した年寄衆の斎藤下野守朝信(譜代衆)・下田長尾遠江守藤景(同前)と奉行衆の某大学助・某掃部助が、街道沿いの宿場に掲げる制札を発し、一、御陣中の上下の者共が、あるいは「御くせん」、あるいは「御せんふ」の荷物を称し、ひっきりなしに宿送を利用するため、彼の路次番の地下人などが困り果てているそうであり、はなはだ遺憾であること、さしづめ今後の伝馬・宿送については、奉行の面々による一札を所持しない者の依頼であれば、請け負う必要はないこと、一、御陣中から御急用の事情があり、往来される御使者・飛脚などについては、昼夜を問わず送迎に努めるべきこと、よって、これらの旨を有入不入の者共は遵守するべきであり、もしも違犯する徒輩がいれば、その者を拘束したうえで、当陣へ注進するべきことを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』269号 斎藤「下野守」朝信・長尾「遠江守」藤景・「大学助」・「掃部助」連署制札写)。

この頃から奉書式印判状を採用し、永禄2年の上洛時に召し抱えた寵臣の河田長親(近江国出身)と越府から呼び寄せたばかりの最側近である直江実綱の両名に署判させた。


※ 河田長親と直江実綱の連署による奉書式印判状については、片桐昭彦氏の論集である『戦国期発給文書の研究 ー印判・感状・制札と権力ー』(高志書院)の「第三章 長尾景虎(上杉輝虎)の権力確立と発給文書」を参考にした。



相府小田原城に立て籠もる相州北条氏康(左京大夫。大屋形。すでに家督は世子の新九郎氏政に譲っている)は、12日、三男の大石氏照(武蔵国由井城主)の配下である小田野某(源太左衛門尉周定か)へ宛てて感状を発し、このたび小田野屋敷(武蔵国多西郡)に敵勢が攻めかけてきたところ、堅固に防戦を尽くして敵兵十五名を討ち取り、その首級を相模国津久井城(津久井郡)まで寄越したとのこと、誠に並外れた忠節であること、こうした時節柄ゆえ、今後ますます力の限り奮闘するべきこと、敵軍に勝利したあかつきには、望み通りに褒美を遣わすこと、これらを申し渡している(『戦国遺文 後北条氏編一』680号「小田野とのへ」宛北条氏康感状写)。

14日、相州北条氏康・同氏政父子が越後・関東衆の本隊が布陣している酒匂陣を後方撹乱するために在所からの出撃を命じた、大藤式部丞秀信(相模国田原城主)の率いる諸足軽衆が相模国大槻(中郡波多野荘)の地に布陣していた越後・関東連合軍の部隊を急襲する。

この戦果報告を受けた相州北条氏政は、14日、大藤式部丞秀信へ宛てて感状を発し、今日は大槻の地において敵勢と交戦し、あっさり敵兵六名を討ち取ってくれたので、ひたすら快然であること、これまで何度も忠節を励んでくれており、それは他の追随を許さないほどであること、今後ますます奮励するべきこと、これらを申し渡している(『戦国遺文後北条氏編一』681号「大藤式部丞殿」宛北条氏政感状)。



15日、北条方の支城を攻囲している下野国衆の小山弾正大弼秀綱(下野国祇園城主)へ宛てて返書を発し、なにもかもの慌しさに取り紛れ、久しく無沙汰をしていたこと、そろそろ内々に御音信を通ずる心づもりでいたところ、結果として先に貴方(小山秀綱)の方から御懇書が寄せられたばかりか、料紙を員数の通りに頂戴したこと、この遠来した贈答品を取り分け丁重に秘蔵し、ひたすら恐縮していること、このたびの戦陣については、早々と貴方が御出陣したゆえ、この相模の国情が殆ど一変したこと、ひとえに貴方の御加勢によるものであり、ひたすら本望であること、小田原については、間違いなく落着するので、長きにわたる御陣労は御いたわしいが、ここが正念場であり、その地に今しばらく御張陣して、御采配を振るってもらいたいこと、これらを恐れ謹んで伝えた。さらに追伸として、貴方も御存知の通り、繁忙ゆえに当たり前のように連絡を怠ってしまったが、いささかも意図的に無沙汰していたわけではないことと、なにはともあれ、こちらから御礼を申し述べることを伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』265号「小山 御陣下」宛長尾「景虎」書状【花押a3】)。



ひたすら籠城を続ける相州北条父子は、20日、由井衆(大石氏照の一族・同心・被官集団)の小田野源太左衛門尉周定・同肥後守周重(周定の一族)・同新左衛門尉(同前)へ宛てて朱印状を発し、このたび敵陣を往復する役夫を討ち取り、荷物を絶え間なく追い落としたそうであり、その忠節は目覚しく、度々の奮闘に感悦していること、こうした時節柄ゆえ、今後ますます抜きんでて奮闘するべきであり、そうすれば、どのような願望であっても、望み通りに扶助すること、これらを申し渡している(『戦国遺文 後北条氏編一』684号「小田野源太左衛門殿・同肥後守殿・同新左衛門殿」宛北条家朱印状写)。



22日、岩付太田資正(美濃守)が、鎌倉鶴岡八幡宮に制札を掲げ、社内における当軍勢の濫妨狼藉を上下に関係なく停止し、もしも違犯した徒輩がいれば、罪科に処することを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』266号 太田「資正」制札写)。



同日、越後・関東衆の軍勢と戦いながら小田原城を目指す相州北条軍の足軽部隊が相模国曽我山(西郡)の敵勢と交戦する。

この戦果報告を受けた相州北条氏康(左京大夫)は、24日、大藤式部丞秀信へ宛てて返書を発し、一昨22日に曽我山での合戦において数多の敵兵を討ち取ってくれたこと、こうした何遍もの戦功は、実に誉れ高いこと、敵軍の尖兵に対応しながら水之尾(小田原城水之尾口)の地への着陣を急ぐべきこと、なお、詳細は使者が口上すること、これらを謹んで伝えている(『戦国遺文 後北条氏編一』685号「大藤式部丞殿」宛北条「氏康」書状)。

同じく相州北条氏政(新九郎)は、同日、大藤式部丞秀信へ宛てて返書を発し、このたび注進状を披読したこと、ぬた山(曽我山と同義か)に布陣した足軽衆(大藤隊)に敵勢が攻めかけてきたところ、抗戦して敵兵六名を討ち取り、首帳を寄越してくれたので、実に快然であること、このように奮闘し続けてくれており、衆中の皆々の忠節は並外れていること、本来であれば感状を遣わすべきところ、目下の当方は取り込んでいるため、状況が落ち着いたのちに褒美を遣わすので、皆々には其方から説明しておくべきこと、こうした時節柄なので、いささかも抜かりなく奮闘するべきこと、当方が本意を遂げたあかつきには皆々を引き立てるとの約束に、いささかも偽りはないこと、敵陣に目付を張り付けて、その様子を報告するべきこと、これらを謹んで伝えている。さらに追伸として、膏薬三種を遣わすことと、敵勢が渡河を開始したら、当水之尾口へ早々に来るべきことを伝えている(『戦国遺文 後北条氏編一』686号「大藤式部丞殿」宛北条「氏政」書状)。

相州北条一家の長老である幻庵宗哲(久野北条氏)は、同日、大藤式部丞秀信へ宛てて書状を発し、一昨22日における合戦の首尾を伝えられたこと、まさしく今回の奮闘は非の打ち所がない殊勲であり、父(金谷斎栄永)の勇名を再興したに等しく羨ましい限りであること、その殊勲のほどを、両太守(北条氏康と同氏政)に何遍も語っていること、(北条家が)御本意を遂げられたあかつきには、寄子衆の皆々を相応に引き立てられる旨を、内々に仰せであり、皆々に申し聞かせられて、今後ますます力の限り奮闘されるべきこと、今川殿(駿州今川氏真)は近日中に出馬されること、すでに武田殿(甲州武田信玄)は甲斐国吉田(都留郡)まで進陣され、その数は一万余であり、五日のうちに当国河村(西郡)の地に着陣するとの連絡を寄越されたこと、このため御本意を遂げられるのは間違いないこと、当城については、防備は強固であり、鉄炮五百挺を配備しているので、敵勢を堀端には寄せ付けないこと、さらなる吉報を待っていること、これらを恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文後北条氏編一』687号「大藤式部丞殿」宛北条「宗哲」書状)。


※ 相州北条家の諸足軽衆・大藤式部丞秀信の作戦行動については、高村不期氏のウェブサイト『歴探』における「検証b02:1561(永禄4)年、大藤隊の戦績」を参考にした。



27日、遅れて参陣を表明した下野国衆の那須修理大夫資胤(下野国烏山城主)へ宛てて返書を発し、このたび北条左京大夫(相州北条氏康)の在所である小田原に向かって戦陣を構えたところ、去る21日に御着陣された榎本(下野国衆・小山氏領の下野国都賀郡の榎本か)の地から、小田原陣に急行するとの御札が寄せられたので、今27日に披読したこと、あらかじめ取り交わした約束通りに御出馬を果たしてくれたので、自他共に覚えがめでたく、ひたすら恐縮していること、詳細は味方中の太田美濃守(資正)が申すこと、これらを恐れ謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』267号「那須江」宛長尾「景虎」書状【花押a3】)。

これから間もなくして、関東味方中である常陸国衆の佐竹右京大夫義昭(常陸国太田城主)・同小田中務少輔氏治(同小田城主)・下野国衆の宇都宮三郎広綱(下野国宇都宮城主)らの進言によって小田原からの退陣を決めると、閏3月3日頃までに全軍を鎌倉へ移動させる(『上越市史 上杉氏文書集一』429号 上杉輝虎書状写)。


閏3月3日、房州里見家の宿老である小田喜正木時茂(上総国小田喜城主)が、鎌倉月行寺に禁制を掲げ、寺内における当軍勢の濫妨狼藉を上下に関係なく停止すること、もしも違犯した徒輩がいれば、罪科に処すること、この旨を(里見義弘の)仰せによって申し渡している(『戦国遺文 房総編二』1040号 正木「時茂」奉書禁制)。


4日、将軍足利義輝から御内書が発せられ、小笠原大膳大夫(長時。信濃守護職であったが、甲州武田晴信(信玄)に敗れて没落すると、同族を頼って京都で暮らしている)の信濃帰国について、申し分なく落着するように取り計らってくれれば、ひとえに感心であること、詳細は晴光(奉公衆の大館上総介晴光)が申すこと、これらを申し渡されている(『上越市史 上杉氏文書集一』270号「長尾弾正少弼とのへ」宛足利義輝御内書【署名はなく、花押のみを据える】)。



相州北条軍に加勢を送った駿州今川氏真(上総介)は、同日、加勢衆の小倉内蔵助(実名は資久か)へ宛てて書状を発し、長期にわたる河越籠城で辛労をかけており、その表に在陣している皆々同心の者共へも申し聞かせてほしいこと、よって、相模国酒匂に陣取っていた敵軍は退散したので、その後の情勢を追って知らせること、なお、詳細は随波斎が申されること、これらを恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文 今川氏編三』1666号「小倉内蔵助殿」宛今川「氏真」書状写)。



全軍の鎌倉への移動が完了すると、鶴岡八幡宮に社参したり、鎌倉内外の名所旧跡を見物して過ごしたりするなか、関東味方中から関東管領職の就任を要請されるも、分不相応と若輩であることや、将軍の認可を得ていないことを理由にして謝絶したが、神前での度重なる味方中の要請に覚悟を決め、現職の山内上杉憲政(憲当。五郎。号光哲)の養子となったうえで、関東管領職と山内上杉家の名跡を継承して山内上杉政虎に改名すると、味方中に誓詞を提出させ、改めて皆の総意であることを確認した(『上越市史 上杉氏文書集一』429号 上杉輝虎書状写)。



相府小田原城の相州北条氏康(左京大夫)は、10日、由井衆の小田野源太左衛門尉周定へ宛てて感状を発し、このたび身命をなげうち、幾たびも奮闘し、忠節を励んでくれたこと、よって、太刀一腰を遣わすことと、今後ますます奮闘すれば、望み通りに扶助すること、これらを申し渡している(『戦国遺文 後北条氏編一』690号「小田野源太左衛門尉殿」宛北条「氏康」感状写)。



16日、景虎の関東管領山内上杉家の相続を推進した味方中の簗田中務大輔晴助(下総国古河城主。長尾景虎の越山以前は、心ならずも古河公方足利義氏の家宰を務めていた。もとは下総国関宿城主)に血判を据えた起請文を渡し、この起請文の意趣は、今般の憲当からの名跡与奪については、何から何まで御親身に御取り成して下さり、感謝してもしきれないこと、彼の名代職の継承については、まさに途方もなく憚られたところ、頻りに各々方が御意見を下されたので、とにもかくにも御意見に従ったこと、これにより、各々方から条々を認めた誓詞を給わり、本望満足であること、よって、公方様(鎌倉府足利氏)の御家督については、御前(簗田晴助)に綿密に談合し、いずれの御方であっても御相続の取立てに奮励すること、間違っても愚慮を押し通して取り立てたりはしないこと、関東の世事については、全くの不案内であり、御前が御存知の詳細を包み隠さずに御意見を寄せてほしいこと、御前については、大途として見放したりせず、心の奥底から微塵も疎かにしないこと、これらの三ヶ条を神名に誓った(『上越市史 上杉氏文書集一』271号「簗田中務太輔殿」宛上杉「政虎」起請文【花押a3】)。



相州北条氏康の弟である小机北条左衛門佐氏堯(武蔵国小机城主)は、27日、駿州今川氏が派遣した援将の畑彦十郎へ宛てて証状を渡し、このたび武蔵国河越城(入間郡河越荘)に籠城して奮闘してくれたこと、取り分け去る正月には同国松山領(比企郡)に伏兵を仕込んだ際、敵方が多勢をもって逆襲してきたところ、加勢衆が殿軍を務めてくれたので、大過なかったこと、まさに際立った殊勲であること、(氏堯が)小田原に帰城して方々の勲功を氏政に取り成すため、その証文として判形を発給すること、これらを申し渡している(『戦国遺文 後北条氏編一』693号「畑彦十郎殿」宛北条「左衛門佐氏堯」判物)。



永禄4年(1561)4月5月 山内(越後国)上杉政虎(弾正少弼)【32歳】

鎌倉を離れると、警護として上州衆を上野国倉賀野(群馬郡)の周辺に配置し、草津温泉(吾妻郡)や伊香保温泉(群馬郡)で湯治をする。

4月4日、倉賀野に在陣させている上州衆の検見として派遣した旗本の本田右近允(実名は長定か)へ宛てて書状を発し、このたび患った病を十分に養生するべきこと、心配を抑えられないままに連絡を入れたこと、それから、関東味方中の和田(八郎業繁。上野国和田城主)の弟である倉賀野(左衛門五郎直行。同倉賀野城主)が金五枚を贈ってくれること、相違なく受け取って帯封を付け、こちらの塚本(馬廻衆)の所まで寄越すべきこと、九郎太郎(信濃衆の須田相模守満国の甥か)の所へ確認したうえで、必ず金を持たせて寄越すべきこと、これらを畏んで伝えた。さらに追伸として、返す返すも、十分に体調の快復に努めるべきことと、その地において不審な動きがあれば、丹念に探りを入れて、内密に報告してほしいことを伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』1419号「本田右近丞とのへ」宛上杉謙信書状写 ●〔歴代古案 第五〕1407号上杉謙信輝虎 政虎ヵ消息)。


※ 『上越市史 上杉氏文書集一』が年次未詳としている当文書を永禄4年に置いたのは、〔別本歴代古案〕が1407号の差出を「政虎」としているため、〔歴代古案 第五〕は1407号の発給年次を永禄4年に推定しているからである。


5日、越府の荻原掃部助・蔵田五郎左衛門尉へ宛てて覚書を発し、一、府中の家屋を板葺きに改築させるべきこと、もしも不服を申し立てて改築に応じない者がいれば、誰人の被官であろうとも立ち退かせ、改築に応じた者だけを住まわせるべきこと、一、奥衆(越後奥郡の外様衆)の直の居屋敷(上屋敷か)については、設けた期日までは猶予を与えるべきこと、ただし、奥衆が町屋敷(中・下屋敷か)に被官を住まわせているならば、たとえ一時的な措置であろうとも、居住の実態がある以上、その被官が板葺きへの改築に応じない場合は立ち退かせるべきこと、一、町屋敷に多数の悴者(従者)たむろさせておきながら、居住の実態がないとして板葺きへの改築を拒む場合には、町ごとの人数を書き付けて寄越すべきこと、これらを厳しく申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』124号「荻原掃部助殿・蔵田五郎さえもんとのへ」宛長尾景虎条書【花押b】)。


同日、関東味方中の足利長尾但馬守景長(当長)が、配下(同心か)の有間斎(秋間氏か)へ宛てて証状を発し、このたび野州足利荘野田郷内(下野国足利郡)の十五貫文の地と同介戸郷内(同助戸)の十五貫文の地に、上州渡瀬内(上野国山田郡)の三十五貫文の地を加えて、堪忍分(生計費)として宛行うので、なおいっそう奮励するべきこと、委細は大屋文五郎(譜代衆)が申し述べること、これらを申し渡している(『栃木県史 資料編 中世4』【補遺 栃木県 秋間文書】1号「有間斎 参」宛長尾「但馬守景長」書状写)。



相府小田原城の相州北条氏康・氏政父子は、8日、駿州今川氏から加勢として派遣されてきた小倉内蔵助へ宛てて感状を発し、駿府御加勢として旧冬以来当夏に至るまで河越に籠城し、昼夜にわたる辛労にもかかわらず、力の限り奮励してくれたこと、取り分け何度も敵襲のたびに掛け付け、身命を軽んじて奮闘されたこと、氏真へ詳らかに申し伝えること、景光作の太刀一腰ならびに河越荘網代郷を進ずること、これらを恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文後北条氏編一』697号「小倉内蔵助殿」宛北条「氏康」・同「氏政」連署書状写)。

相州北条氏政は、同日、同じく加勢衆の畑彦十郎へ宛てて感状を発し、左衛門佐(北条氏堯)からの知らせによれば、このたびの河越籠城において、力の限り奮闘してくれたそうであり、ひときわ感悦していること、この趣旨を(今川)氏真へ詳らかに申し伝えること、これらを申し渡している(『戦国遺文 後北条氏編一』696号「畑彦十郎殿」宛北条「氏政」判物)。


信州に在陣する甲州武田信玄(徳栄軒)は、13日、甲斐国衆の小山田弥三郎信有(家老衆。甲斐国谷村城主)へ宛てて返書を発し、このたび由井筋(武蔵国多西郡)の状況について、氏康から寄せられた書状を披読したこと、それ以後の彼の方面が無事であるのかどうか知りたいこと、爰元については無事であること、ただし、草津で湯治中の長尾弾正(景虎)を警護しているためか、上州衆が倉賀野周辺に在陣しているようであること、もしかしたら彼の軍勢が不意に打ち出してくるかもしれず、その際には早飛脚を遣わすので、速やかに参陣してほしいこと、このうえは抜かりなく出陣の準備を整えておくべきこと、これらを恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文武田氏編一』736号「小山田弥三郎殿」宛武田「信玄」書状写)。



伊香保温泉で湯治中に上野国衆の沼田入道(万喜斎、万鬼斎とも。かつては中務大輔顕泰と称したか。もとの上野国沼田城主)からの見舞いを受け、16日、沼田入道へ宛てて返書を発し、このたびの湯治により、音問として酒肴を給わったこと、賞味に預かるばかりであること、十分に養生したので、近日中に出湯すること、これらを恐れ謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』273号「沼田殿」宛上杉「政虎」書状写 ●『謙信公御書集』)。



駿府の今川氏真(上総介)は、22日、家中の畑彦十郎へ宛てて感状を発し、このたびの河越籠城において、力の限り奮闘した事実により、氏政からの感状を披閲したこと、今後ますます戦功を励むべきこと、これらを申し渡している(『戦国遺文 今川氏編三』1690号「畑彦十郎殿」宛今川「氏真」感状)。

25日、同じく小倉内蔵助へ宛てて感状を発し、このたび越国衆が小田原に向かって攻めかかった際、加勢を申し付けたところ、一身の覚悟をもって武州河越に籠城し、何度も力の限り奮闘してくれたこと、取り分け砂窪口(河越郊外の砂久保)における伏兵の折、諸勢に先んじて渡辺と三蔵の両人と馬を乗り入れ、彼の敵勢を押し返し、身命を軽んじて二ヶ所の鑓傷を負ったのは、はなはだ卓越した殊勲であること、更には平方口(足立郡)において真っ先に敵陣へ攻め入り、敵の首級一つを取ったこと、同じく3月18日には高麗郡での一戦においては、味方を鼓舞して滞りなく殿軍を果たしたこと、こうした勲功の数々は氏政の感状に明らかで一点の曇りもなく、まさに子孫の手本になるのではないかと思われること、今後ますます戦功を励むべきこと、これらを申し渡している(『戦国遺文 今川氏編三』1691号「小倉内蔵助殿」宛今川「氏真」感状写)。



その後、鎌倉へ戻ると、27日、側近の河田長親(九郎左衛門尉)と直江実綱(与右兵衛尉)を奉者として、越府の蔵田五郎左衛門尉へ宛てて朱印状を発し、このたび別紙をもって申し伝えること、此方(政虎)には中半大刀(半太刀拵え)が皆無なので、太田(武蔵国衆の岩付太田資正か)から進上された御腰物を寄越すべきこと、さらには倉庫に保管してある桃井右馬助(義孝。一家衆)から進上された大刀(打刀)を一右衛門尉方(長尾氏か)と飯田(ともに蔵方か)の所から受け取り、黒漆塗りで一対に拵えるべきこと、しかるべき髤法人に相応な拵え様を問い合わせて拵えるべきこと、そしてさらには、「上」(将軍足利義輝あるいは関白近衛前嗣か)のために御誂えした文台・筆台・短冊箱(和歌道具)が完成したならば、早急に寄越すべきこと、爰元は万事めでたく順調であり、来月朔日に宝生・金剛の手合能を興行すること、これまた留守居の皆々にも供覧したかったこと、御番衆に府内の御用心、御蔵の御用心、鼠穴などの補修を厳重に努めさせるように、留守居の皆々に周知させるべきこと、この外については言及しないこと、これらを恐れ謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』274号「蔵五 参」宛上杉政虎朱印状【鳳凰型】 奉者「河田長親・直江実綱」)。

5月朔日、鎌倉(あるいは武蔵国松山城か)で宝生・金剛両座の共演能を興行する。

その後、武蔵国に移陣するなかで、越府から上野国厩橋城に移ってきた関白近衛前嗣と書状を取り交わし、6日、近衛前嗣から返書が発せられ、このたび芳札を給わり、めでたく喜ばしいこと、何はともあれ相州については、数年にわたって平穏を享受していたところに馬を寄せられ、なおかつ小田原の地を悉く焼き払ったそうであり、言葉では表せないほどの前代未聞の名誉であること、ついては、彼の地を攻め立てて、この機会に決着をつける心積もりではあったところ、諸家の皆々からの切言により、ともあれ帰陣を決断したのは、まさに賢明な判断であること、昨年以来の長期にわたる戦陣であり、ここは治国と安民のために分別をつけるのが、憚りながら文武両道というものであろうこと、また、諸家の皆々から名乗りと氏を改めるべきとの推挙により、ためらいながらも承諾したようであり、近頃ではめでたく喜ばしいこと、氏名を改めるのは、少しも躊躇する必要はなかったであろうこと、取り分けこの件ついては、一昨年の在京の折に、知恩寺(岌州)を通じて(政虎が)賜った大樹(将軍足利義輝)自筆の文は我等(近衛前嗣)に対せられる文言であるうえに、ましてや関東管領職の件について、公儀が下された時には、どうしてあれこれ非難の的になるであろうか、たとえそれがなかったとしても、これは天命であったに違いないこと、ついては鶴岡若宮に社参したとのこと、紛れもなく武運長久の礎となるものであり、とこしえの喜びを迎えられたのは、めでたく喜ばしいこと、凱旋については、もっと早くに知らせてもらえれば、せめて一日でも早く迎えに出られたところ、だしぬけに知らされたので、途中まで迎えに参ること、なお御対面の折に詳しく申すこと、返す返すも、このたびの関東陣については、掲げていた条々を成し遂げられたのは、並外れた殊勲であること、こうして京都で練り上げた筋書き通りに結果が出たので、ひたすら感嘆していること、これでは氏康が散々に打ちのめされるのも当然であること、(政虎が)旗本に殿軍をさせているにもかかわらず、もはや(氏康は)追撃する気力も失われているそうであり、まさしく必然であること、なお、詳細は知恩寺が演説すること、とにもかくにも、氏を改められたのは、めでたく喜ばしいこと、取り分け藤原氏であるのは、この自分にとっても大きな喜びであること、これらを畏んで伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』278号 近衛前嗣書状 奥ウハ書「上杉殿 前嗣」)。


※ 『上杉家御年譜 一 謙信公』に従って、5月6日の発給文書として引用した。


関東遠征に参陣した越中味方中の椎名右衛門太夫康胤が、8日、先祖を同じくする、下総国衆の椎名神五郎・同神九郎へ宛てて返書を発し、このたび寄せられた尊簡を拝読したこと、仰せの通り、御両所(両椎名)が、昨年からの景虎による小田原陣に御参加するつもりで途中まで進陣されたところ、通路が寸断されているために御参陣が叶わなかったのは、はなはだ残念であること、御両所の御進退について正木大膳亮(小田喜正木時茂)に詳説したところ、正大(正木時茂)から懇ろに返答を得たものの、御知行の安堵を認められるのか、はなはだ御心許なく感じており、幸いにも正木十郎方(時通。時茂の弟である勝浦正木時忠の子)が当地(武蔵国松山城か)に在留しているので、彼方に御存分の通りに要望されるべきであり、拙者においても懇切に対応させてもらうこと、近日中に帰国する予定ではあるが、公用についての御要望が寄せられれば、懇切に対応するので御安心してほしいこと、これらを恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文 房総編二』1052号「椎名神五郎殿・同神九郎殿 御報」宛椎名右衛門大夫康胤書状写)。



◆『謙信公御書集』(臨川書店)
◆『歴代古案 第五 史料纂集 古文書編』(続群書類従完成会)
◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『村上市史 資料編1 古代中世編』(村上市)
◆『栃木県史 資料編 中世4』(栃木県)
◆『戦国遺文 後北条氏編 第一巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 武田氏編 第一巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 今川氏編 第三巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 房総編 第二巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 古河公方編』(東京堂出版)

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