越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

元亀3年9月22日付北条高広・同景広宛上杉謙信書状

2014-04-07 19:40:41 | 雑考

【史料1】北条高広・同景広宛上杉謙信書状
(前欠)もの候間、人被為見間敷候、今一人飛脚爰元見合、一功之上返可申候、万吉重謹言、
、信玄甲府候歟、又何方候哉、聞届可申越候、又申候、十七日大手口ニ人数見え候とて注進申候間、身之馬廻春日山返候得如何ニ無事候間、案間布候、以上、又申候、三人之飛脚書中可渡由申候得、馬廻之者共□□時いれ候より府帰候□□□□へ飛脚越候、十七日府内さわき□□□馬廻之者、返候時分以外□□□帰とて、陣之上下驚候間、左様之義、先々越候飛脚可申候、少不思議(後欠)
  九月廿二日      謙信(花押a)
     北条弥五郎殿
     北条丹後守殿


 この元亀3年に比定される書状(長岡市立中央図書館所蔵)は、見ての通り本文の殆どを欠き、越中国富山に在陣中の上杉謙信が、上州厩橋城の城代である北条高広・同景広父子に対して、一体何を人に見せてはいけないと注意を促しているのか、全く分からないのでもどかしさを感じる一方、あらかた残っている追而書のおかげで、謙信が、9月17日に甲州武田軍が越後国の府城である春日山城の大手口方面に姿を現したとの急報に接し、慌てて自分の馬廻衆を春日山城に帰還させたことが分かる。


【史料2】長尾顕景宛上杉謙信書状
  追、此書中大和守所届可給候、以上、
懇比申越候、入心候、心馳難申尽候、山吉はしめ身之案候、一度飛脚不越候、両度誠喜悦候、其元留守中簡要候間、返々各其元差置、同事備可申付候、爰許之義者案間敷候、以上、
    九月廿七日      謙信(花押a)
      長尾喜平次殿


【史料3】上杉謙信書状
  猶々一左右可申候、其時分待入候、身之者共、其元差越、無人候間、其方者共、陣之番申付、昼夜辛労申候、如何様見参之折節、礼を可申候、以上、
細々入心人給候、心馳喜入候、殊従余方増人数、多差越候、人目申肝要候、如何様其口聞合、可及一左右候、其時分身之者共召連、着陣可為目出候、以上、
    十月三日       謙信(花押a)
  〇宛所欠


【史料4】長尾顕景宛上杉謙信書状
入心細々音信喜入候、随爰元さへ雪断降候間、信州境定可為深雪候条、身之馬廻召連、早々可被越候、爰元弥可然候、此義老母可申候、以上、
    十月十日       謙信(花押a)
     喜平次殿


【史料5】長尾顕景宛上杉謙信書状
其許雪降候由註進、細々入心大慶候、爰許雪降申候、依之馬廻之者召連可被越由、先書申候、定此飛脚道ニ而相候得共、返事申候、被越候、被越候飛脚を可被越候、迎を可出候、万吉令期面候、謹言、
  追申候、爰元ニ而も上鷹しい入させ申候、おほ鷹もしゝをかけ申候、被越候、かし可申候、以上、
    十月十二日      謙信(花押a)
      喜平次殿


【史料6】長尾顕景・山吉豊守宛上杉謙信書状(封紙ウハ書「喜平次殿・山吉孫二郎殿 謙信」)
今日てんきあしく候間、無用候、明日てんきやわせ可越申候、以上、
    十月廿二日
     孫二郎殿
    喜平次殿


 そして、こうした事情が分かることにより、富山陣での越年を決めた謙信が、越府に残留させた甥の長尾顕景(のちの上杉景勝)に対し、府城の状況を心配しているにも係わらず、同じく越府に残留させた側近衆が一度も連絡を寄越さないなか、心のこもった連絡を二度も寄越してくれたので、ひときわ喜んでいること、積雪期を迎えて甲州武田軍は信・越国境を越えられないため、先だって春日山城に帰還させた馬廻衆を引き連れて当陣へ到来するべきこと、馬廻衆の代わりを上田衆(長尾顕景の家臣団)に務めさせているので、対面の折に謝意を表すること、いずれ当地に於いて鷹狩りを催すつもりなので、その折には鷹を貸し与えること、このように謙信が甥に寄せた慈愛のほどを伝える五点の年次未詳文書(上杉家文書)を元亀3年に比定できたわけで、実にありがたい代物です。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』1123・1454・1456・1457・1459・1461号 上杉謙信書状
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越後国上杉輝虎(旱虎)の年代記 【元亀元年8月下旬】

2014-04-06 20:25:06 | 上杉輝虎の年代記

元亀元年(1570)8月 越後国(山内)上杉輝虎(旱虎。弾正少弼)  【41歳】


なおも、外様衆(揚北衆)の中条越前守景資(越後国蒲原郡の鳥坂城を本拠とする)・黒川四郎次郎平政(同じく黒川城を本拠とする)の同族間の所領相論における中条側の輝虎側近への不服の申し立てが続くなか、17日、側近の山吉孫次郎豊守(輝虎の最側近)らを伴って鷹狩りを催す。

同日、黒川側の取次を務める直江大和守景綱(輝虎の最側近)が、在府中の中条越前守景資の屋敷へ返状を届け、御書中の通り、ここしばらくは手が空いていなかったにより、御無沙汰してしまい、もどかしかったこと、よって、黒川方と仰せ結ばれている子細について、内々でもって何度も申し届けたとはいえ、承服できないとのことで、(輝虎の)御耳に立てられたいとのこと、すでに彼の地の件については、先年(天文24年)に塚原(信濃国更級郡)から(当時は長尾景虎の輝虎が)御帰陣の折、長慶寺(天室光育。輝虎の恩師)の御取り扱いをもって時宜落着したところ、今また新しく(主張を)仰せ立てられるのは、今さらながら道理を弁えない行為であること、 上様(輝虎)においても、たしかに前々の出来事で落着したところも御存知であり、またこのたびも(同様に)聞いて御承知された通りであるので、速やかに(黒川へ彼の地を)返し置かれるのが適切ではないかと思われ、このように申し述べたからとて、一方への肩入れをもって言うような、勝手はしないこと、御斟酌に勝るものはないこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている。さらに追伸として、返す返すも、(このたびの御相論は)黒川方が申し立てられたものであること、およそ拙夫(直江)が彼方(黒川)の取次をも致すについて、(輝虎への御披露を)頼まれたので、(輝虎の)御耳へ立てたところ、速やかに聞いて御承知されたので、(中条は)そのように御心得られるのが専一であること、新尾(外様衆の新発田忠敦。忠敦の世子である源次郎長敦は中条景資の実弟の可能性がある。越後国蒲原郡の新発田城を本拠とする)にも(中条へ)意見を致すべきと、(輝虎の)御内儀であるから、かならず詳しくは彼方(新発田)から仰せ届けられること、御斟酌されるのが適当であること、詳細は山孫(山吉豊守)からも申し入れられること、以上、これらを申し添えている(『上越市史 上杉氏文書集一』793号 直江「景綱」書状 封紙ウハ書「越州 参御報 大和守景綱」)。

18日、中条側の取次である山吉孫次郎豊守が、中条越前守景資の屋敷へ返状を届け、昨晩に御書中を預かったこと、すぐにでも御返答に及ぶべきであったとはいえ、御使いが見聞された通り、御差し障りなどがあって準備が整わなかったので、御返答できなかったこと、いささかも(中条を)ぞんざいにつもりはないこと、されば、黒河方との御相論について、繰り返し拙者(山吉)へ御頼みにより、とりもなおさず披露に及び、(その結果を)速やかに御挨拶を申し入れるべきでありながらも、思慮しなければならない点が多いにより、見送ったこと、これでは、(中条が)拙者に御頼みのところ、(山吉の)手落ちのように思われるかもしれないので、以前から二度も貴殿(中条)の御存分の通りを、一旨も漏れなく(輝虎へ)申し上げたこと、そうしたところに、先年のとつさか(越後国蒲原郡奥山荘の鳥坂城)への御帰城時における不満などを事細かに申し立てられ、そのうえ、貴殿はただ今、彼の地(黒川との相論)の件について、御存分(異議)を申し立てられたのは御不審であるとのこと、拙者(山吉)においては、貴殿(中条)から仰せ越された以外の事情に存じていないので、 (輝虎の)御諚の通りを御使いに詳しく申し述べたこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている。さらに追伸として、この一件に限らず、貴殿の御立場をいささかも侮り軽んじる考えはないので、どのようにも御存分を遂げられるように心得ていること、そうではあっても、 上様(輝虎)の御諚を承る時には、(どのような結果であっても受け入れるほか)どうしようもないこと、詳細は御両使に申し達したこと、以上、これらを申し添えている(『上越市史 上杉氏文書集一』794号 山吉「豊守」書状 封紙ウハ書「越州 参御報 山孫 豊守」)。

同日、山吉孫次郎豊守が、中条越前守景資の屋敷へ即刻、返状を届け、二通りの御書中を披読し、よって、黒川殿との御論地の件について、以前から仰せ下さっているので、とりもなおさず披露するべきでありながらも、繰り返し御返答に及んでいる通り、第一は、急いで取り次ぐべき事案とは知らず、また承るところでは、彼の御論地の件については、先年に本美(本庄美作入道宗緩。俗名は実乃。当時は越後国長尾家の奉行人であった)が御取り扱いされて、解決した事案であるそうなので、(山吉は)黒河殿の言い分を承っていないこと、もっとも前回の経緯を知らないまま、軽々しく披露しては、 上様(輝虎)の思索のところを混乱させてしまうことになり、幸いにも本美は入庵(中条越前守の前代にあたる中条弾正忠か)の時から御奏者を務めていたわけであるから、彼方(本庄宗緩)へもしっかりと仰せ届けられるのが適切であること、そのようであれば、御不審のところを(輝虎へ)繰り返して申し上げ、よくよく(相手の)弱みを把握しないまま(輝虎へ)申し上げても、また、 (輝虎の)御前において黒河方の存分をよく存じている方(直江)が、(輝虎へ)色々と申し上げたならば、そのまま、 (輝虎の)御前において不利な状況で審理が進んでしまうので、これはどうかと思い、先送りしたこと、しかしながら、こうした不十分な状態で審理に臨むように御覚悟されているのならば、ただ今でも仰せになられた通りだけは、披露に及ぶのは容易いこと、なお、(詳細は)御使いへ申し述べたこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている。さらに追伸として、前日は御書中を預かったところに、ついに御返事できなかったのは、申し訳ないこと、(山吉は)昨日は御鷹野(鷹狩り)の御供をし、留守中の件はなおさら存ぜられなかったこと、某(山吉)が留守の者に尋ねたところでは、彼の御文を御使いのかたが持ち帰られたと、今朝方に申していたこと、以上、これらを申し添えている(『上越市史 上杉氏文書集一』795号 山吉「豊守」書状 封紙ウハ書「越州 参御報 山孫 豊守」)。

同日、在府中である外様衆(揚北衆)の新発田尾張守忠敦が、中条越前守景資の屋敷へ返状を届け、二通りの御捻を披読したこと、時勢においては以前に御使いへ申し述べた状況に変わりはないこと、このうえのことは、何分にも (輝虎の)御意次第になされるべきこと、いささかも小理屈などを仰せになっては、無意味であると思うこと、ならびに(中条が)証文を山孫(山吉豊守)へ御渡しになったこと、(証文を)ひょっとしたら紛失など致されるような事態があるかもしれないので、其元(中条)からも取り扱いの注意をしっかりと仰せ届けられるべきであること、老拙(新発田)のところへは山孫からは何の連絡も寄越されていないこと、ただ今(中条が寄越された)御ふみの内容については、(山吉の)返事を得てから寄越されたものなのかどうなのか、承りたいこと、これらを畏んで伝えている。さらに追伸として、御ふみの内容を見た限りでは、不安な思いであること、重ねて、 上様(輝虎)へ御意を得られたうえでの御返事なのかどうなのか、承りたいこと、以上、これらを申し添えている(『上越市史 上杉氏文書集一』790号 新発田忠敦書状 端裏ウハ書「越州 御報 尾張守 より」)。

20日、山吉孫次郎豊守が、中条越前守景資の屋敷へ返状を届け、仰せの通り、昨日は、 上様(輝虎)の御挨拶の通りに(中条へ)申し述べたところに、(中条から)重ねて彼の御証文が届けられたこと、披読し、その旨には由緒があること、大事な御証文であるので、(山吉が)内々に一時でも保管しているのは、どうかと思っていたところに、幸いにも(中条から)御返却を求められたので、とりもなおさず返却すること、なお、御使いへ申し達したこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている。さらに追伸として、御証文数、以上三通を返却すること、以上、これを申し添えている(『上越市史 上杉氏文書集一』796号「越州 参御報」宛山吉「豊守」書状)。

21日、山吉孫次郎豊守が、新発田尾張守忠敦の屋敷へ返状を届け、仰せの通り、近日は御目にかかる機会がなかったこと、心配申し上げること、よって、越州(中条)から御証文が寄越されるも、大事な家伝文書であるので、写しを取って本文を返却したこと、これについて、貴殿(新発田)と相談し合って、彼の写しを拠りどころとし、重ねて、 (輝虎の)御意を請けるべきと思われるも、昨今は、(輝虎に)御支障などが多いゆえに延引せざるを得ず、事の次第は、後刻に掃部助(豊守の族臣であろう)をもって申し述べること、只今は出仕しているので、(この紙面は)省略すること、これらを恐れ謹んで申し伝えている。さらに追伸として、御鷹(鷹狩りの獲物)の鴫三羽を頂戴したこと、ひときわ御賞味に預かること、これを申し添えている(『上越市史 上杉氏文書集一』797号 山吉「豊守」書状 端裏ウハ書「尾州 御報 孫次郎 豊守」)。

同日、新発田尾張守忠敦が、中条越前守景資の屋敷へ書状を届け、あらためて申し上げること、よって、山孫へ彼の一件について、拙夫(新発田忠敦)から(御披露を)催促を致したところ、(山吉から)このように返事があったこと、「毛頭も野拙(山吉)は(中条越前守を)見除申す(見放すつもり)には、これなく候、さりながら、 屋形様(輝虎)はかたん気成義など(どちらかに肩入れするなどといったことは)御嫌に候間、(山吉からは)指出(余計な口出し)候而申さず候、心底においては、(中条を)少しも疎略を存じなされず候」というもので、後刻に(使者の山吉)掃部助を(新発田の屋敷へ)寄越すつもりであると申されており、(山吉掃部助が)到来したら、重ねて申し述べること、またぞろ、畏んで申し伝えている。さらに追伸として、返す返すも(山吉は)毛頭も心底において(中条を)疎略に扱う考えなどないこと、かしく、様々については重ねて申し述べるので、(この紙面は)省略すること、これらを申し添えている(『上越市史 上杉氏文書集一』801号 新発田忠敦書状 封紙ウハ書「越州 御宿所 尾張守 より
」)。

同日、新発田尾張守忠敦が、中条越前守景資の屋敷へ返状を届け、御書を披読したこと、よって、山孫もよろず取り込んでいるので、(輝虎の)御機嫌を見計らって披露に及ばれるつもりであり、すぐには難しい状況なので、(山吉は)明日は出仕を致されないこと、先に(山吉へ)御使いを差し向けられるのが適当であると思われること、今夕のことは、夜分に入るため、まずまず御延引された方が良いであろうこと、詳しくは、御使いへ申し述べるにより、(この紙面は)省略すること、これらを畏んで申し伝えている。さらに追伸として、返す返すも、我等(新発田)においてもどうにもし難いこと、(中条の)御存分が(輝虎が)聞いて御承知されるように致したくても、万が一このように立ち回っている様子などが、(輝虎の)御耳へ入っては、かえって事態を悪化させてしまうと思いあぐねていること、本美(本庄宗緩)だけはさおさお御身(中条)を以前と変わらず気にかけてくれていること、(中条の)御存分の通りを(宗緩へ)申し届けたこと、詳しくは御使いが御説明されるであろうこと、以上、これらを申し添えている(『上越市史 上杉氏文書集一』791号 新発田忠敦書状 端裏ウハ書「越州 御報 尾張守」)。

22日、かつて輝虎の長尾景虎期の最側近で現在は一線を退き、五・六日に一度ほど出仕する身ながら、何かと駆り出される老齢の本庄宗緩(美作入道。俗名は実乃)が、中条越前守の屋敷へ返状を届け、仰せの通り、ここ数日は申し承らず、御床しい次第であったこと、よって、愚入(宗緩)の煩いとは老病であるにより、今になってもしっかりとしていないこと、されば、(中条が)御詫言の旨は、決して山孫(山吉豊守)は私情を挟んではならないので、各々方からも彼方(山吉)に御説明されるのが適切であること、吾等(宗緩)も孫次郎(山吉豊守)の所へ様子を問い尋ねるつもりなので、御安心してほしいこと、なおなお、御道理についても、(宗緩が山吉へ)申し届けるつもりであること、(宗緩は中条を)いささかも疎略に扱う考えはないこと、心に迫る御懇書に預かったこと、恐れ多い次第であること、是非にも(体が)達者になったならば、対応させてもらうこと、(中条の存分の)一切を申し承るつもりであること、これらを恐れ謹んで申し伝えている。さらに追伸として、返す返すも、是非にも達者になったならば、対応させてもらうこと、一切を申し承るつもりであること、これらを申し添えている(『上越市史 上杉氏文書集一』798号 本庄「宗緩」書状 礼紙ウハ書「越州 参御報 本庄入道 宗緩」)。


23日、また鷹狩りを催す。


24日、新発田忠敦が、中条越前守の屋敷へ書状を届け、あらためて申し上げること、昨日は(留守中に)御使いを給わったこと、恐れ多く思っていること、(昨日)鷹野へ参上したので、(山吉に)様子をそっと伺ったこと、さりながらも以前とは様子が変わったようであるので、(状況が)良くなるものと考えていること、山孫(山吉)からはまだ掃部(山吉掃部助)は寄越されていないこと、おそらく(山吉は輝虎の)御目へはすでに立てられたのではないかと思われること、そうでなければ、(山吉から)内々に御挨拶もなかったであろうこと、そういうわけで、鷹の鴫(灰鷹・隼)二本を進上すること、雲雀の時期はもはや過ぎてしまったので、(獲物は)御ざらぬこと、是非とも面上をもって、一切を申し述べるので、(この紙面は)省略すること、これらを恐れ謹んで申し伝えている。さらに追伸として、返す返すも、まずまずこれまでよりもよろしい様子であるので、そうなるはずであると考えていること、(中条も)きっと御同意されるであろうこと、是非とも面談をもって申し述べるつもりであること、(この紙面は)省略すること、以上、これらを申し添えている(『上越市史 上杉氏文書集一』800号 新発田「忠敦」書状 端裏ウハ書「越州 御宿所 尾張守 忠敦
」)。



こうしたなか、友好関係にある遠(三)州徳川家康の使僧である権現堂叶坊光幡が到来し、22日、同盟関係とするために、徳川家康へ宛てて返状を調えた。

同日、遠(三)州徳川家の宿老である酒井左衛門尉忠次へ宛ての初信となる自筆の書状を認め、これまで申し遣わしてはいなかったとはいえ、一筆申し上げること、よって、(徳川)家康からわざわざ使僧(権現堂光播)を寄越されたのは、誠に大慶に勝るものはないこと、これからにおいては、(徳川家と)唯一無二に申し合わせていきたい心積もりであること、かくして、取り成しを頼み入ること、されば、見立てに自信はないといえ、兄鷹(雄の鷹)を遣わすこと、末永く繋ぎ置かれるならば、喜悦であること、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』931号「酒井左衛門尉殿」宛上杉「輝虎」書状【花押a4】)。

同日、同じく松平左近允(真乗。大給松平氏)へ宛ての初信となる直筆の書状を発し、これまでは申し遣わしていなかったとはいえ、一筆申し上げること、よって、家康からわざわざ使僧を寄越されたのは、誠に大慶に勝るものはないこと、これからにおいては、唯一無二に申し合わせていきたい心積もりであること、かくして、御取り成しを頼み入ること、なお、委細は彼(権現堂)の口上にあること、これらを恐れ謹んで申し伝えた。さらに追伸として、真羽(真鳥羽。矢羽をつくる鷲の尾)二十尾を、遠方から到来した物を差し遣わすこと、誠にわずかばかりであること、これらを申し添えた(『上越市史 上杉氏文書集一』932号「松平左近允殿」宛上杉「輝虎」書状写)。

同日、ここに至るまでの徳川家との通交に関与していなかった直江大和守景綱(輝虎の最側近)が、これまで携わってきた河田豊前守長親(大身の旗本衆。越中国魚津城代)の代理として、遠(三)州徳川家の宿老である石川日向守家成(遠江国懸川城代)へ宛てた条書を認め、覚、一、ここしばらくは申し承らなかったにより、御心配していたところ、(家康から)わざわざ御使僧が到来し、喜悦であること、一、権現堂(叶房光播。三河国秋葉寺の別当)」の口上の趣は、御頼もしく思っていること、この補足として、信長(濃(尾)州織田信長)と義景(越前国朝倉義景)の御一和について、家康と相談し合いたい内儀であること、一、信玄(甲州武田信玄)の表裏は、親子の情愛も知らず、家臣の忠信も知らず、そして誓詞血判の重みも知らないこと、一、相・越はまず一和をもって、多くの言葉を尽くし、信玄を討ち果たす所存であること、一、彼(権現堂から)の口上、同じく信長の御臆意(の通りとなるのが)が肝心であると思われること、かくして、御斟酌されたうえで(信玄への)御対策を講じてほしいこと、そしてまた、誓詞を互いに取り交わすべきであろうかのこと、この補足として、(本来の取次である)河田豊前守は越中在国であるので、愚拙(直江景綱)が代わりに申し入れたこと、以上、これらの条々を申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』933号「石川日向守殿」宛「直江大和守景綱」条書写)。

30日、遅れて河田長親からも、松平左近允へ宛ての初信となる書状を認め、これまで申し交わしていなかったとはいえ、申し達すること、もとより長年にわたって家康と輝虎が格別に申し合わされてきたについて、このほど権現堂(叶坊光播。徳川家康の使僧)をもって、御懇情を仰せ越されたのは、(輝虎は)ひときわ祝着の旨を、(家康へ)御知らせに及ばれたこと、これにより、貴所(松平左近允)へも直札をもって申し述べられたこと、ますます(両家が)唯一無二の御入魂をように、御取り成しを仰ぐところであること、拙者も若輩ながら、御取次を務めるに過ぎない、自分においても相応の件があれば、御隔心(馴染まない態度)なく承ること、(役目を)疎かにはしないこと、なお、詳しくは彼(権現堂)の口上にあるので、(この紙面は)省略すること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』935号「松平左近允殿 御宿所」宛河田「長親」書状写)。


※ 徳川氏との外交については、栗原修氏の論考である「上杉氏の外交と奏者 ―対徳川氏交渉を中心として―」(『戦国史研究』32号)を参考にした。以下、越・三(遠)同盟については同論考を参考にする。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)

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