越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎(旱虎)の略譜 【62・下】

2014-04-22 01:17:44 | 上杉輝虎(謙信)の略譜
元亀元年(1570)8月 上杉輝虎(旱虎。弾正少弼)  【41歳】

17日、側近の山吉孫次郎豊守(大身の旗本衆。越後国三条城主)らを伴って鷹狩りを催す。

同日、年寄の直江「景綱(大身の旗本衆。越後国与板城主)」が、在府中である越後奥郡国衆の中条越前守(房資ヵ。外様衆。越後国鳥坂城主)の許に返書(礼紙ウワ書「越州 参御報  大和守 景綱」)を送り届け、御書中で示された通り、ここ暫くは多忙を極めていたゆえ、交流の機会を得られなかったのは遺憾であること、黒川方(四郎次郎平政。外様衆。越後国黒川城主)との境界地相論について、内々に何度か説明に及んだところ、納得し難いとして御披露を望まれたが、すでに彼の地については、先年(天文24年)に信濃国塚原(更級郡)から帰陣された直後、長慶寺(天室光育。輝虎の師)の仲立ちによって無事に落着した一件であり、今また新たな主張を申し立てて蒸し返されるのは、思慮に欠けた行為であること、上様(輝虎)も無事に方が付いたと認識されており、またこのたびも同様に受け止められているので、速やかに彼の地を黒川方に返還するべきであろうこと、このように述べたからと言って、黒川方に肩入れしているわけではなく、そのところを誤解されないでほしいこと、これらを懇ろに伝えている。更に追伸として、返す返すも、このたびの御相論は黒川方の申し立てによるものであり、彼方の取次を務める拙夫(直江景綱)が御披露を頼まれたこと、上様に黒川方の主張を披露したところ、その言い分をたちまちに理解されたこと、こうした結果を十分に弁えてほしいこと、上様の御内意により、御同輩の新発田忠敦(越後国新発田城主)が仲裁人を仰せつかったので、彼方の意見によく耳を傾けてほしいこと、よって、これらを山孫(山吉豊守)からも詳報が寄せられることを伝えている。
18日、中条方の取次である山吉「豊守」が、中条越前守の許に返書(礼紙ウワ書「越州 参御報  山孫 豊守」)を送り届け、昨晩に御書が到来したので、すぐにでも御返答に及ぶべきところ、使者が見聞された通り、差し障りがあって準備が整わず、それゆえ返答できなかっただけで、いささかも貴殿(中条越前守)を軽んじたつもりはないこと、このたびの黒河方との御相論について、これまで何度も拙者(山吉豊守)を頼みとされたゆえ、このたびもすぐさま御披露に及んで、その結果をを伝えるべきところ、色々と慎重にならざるを得ず、やむなく見送ったこと、これでは頼み甲斐がないと思われるかもしれないが、すでに二度も貴殿の御存分を漏れなく披露していること、それにも係わらず、先年の鳥坂(越後国蒲原郡奥山荘)への御帰城時に於ける不満を事細かに申し立てられたばかりか、またもや黒河方との御相論に於ける異議を申し立てられたのは不可解であること、自分は貴殿から聞かされた以外の事情に通じていないため、従来通りの上様の御意向を御使者に詳説したこと、これらを懇ろに伝えている。更に追伸として、この一件に限らず、いささかも貴殿の御立場を侮り軽んじるつもりはなく、御存分が成就されるように念願していること、しかしながら、改めて上様が示される御意向には、たとえどのような結果であっても受け入れられるべきであること、よって、これらを御両使に詳説したことを伝えている。
同日、山吉「豊守」が、中条越前守の許に返書(礼紙ウワ書「越州 参貴報  山孫 豊守」)を送り届け、このほど寄せられた二通りの御書を拝読したこと、前々から依頼されている黒川殿との御相論の御存分を早々に披露するべきところ、やむを得ず先送りしたわけは、これまで何度も御返答しているように、第一は、急いで取り次ぐべき事案とは知らなかったこと、次には、先年に本美(本庄美作入道宗緩。実乃。当時は奉行人)の調停によって解決した事案と聞いており、自分は黒川殿の言い分を聞いていないために前回の経緯を知らず、こうした準備不足のまま軽々しく御披露しては、上様の思索を混乱させてしまうかも知れないと考えたこと、幸いにも本美は入庵(中条越前守の前代にあたる中条弾正忠か)の時から御奏者を務められており、彼方にも協力を仰ぐべきであること、とりもなおさず、しっかりと事情を把握しないまま軽はずみに御披露しても、黒河方の存分に通じている取次の方が様々に論説されれば、そのまま不利な状況で審理が進んでしまうため、心ならずも先送りしたこと、それでもなお、こうした不十分な状態でも審理に臨むべきであると要望されるならば、すぐにでも御披露に及ぶのは容易いこと、よって、これらを御使者に詳説したことを伝えている。更に追伸として、前日に御書を携えた御使者が到来したにも係わらず、御返事できなかったので、はなはだ遺憾であることと、昨日は鷹狩りの御供をして留守中の状況を知らず、今朝方に留守居の者に尋ねたところ、到来した御使者は御書を持ち帰られた事実を知らされたことを伝えている。
同日、在府中である越後奥郡国衆の新発田忠敦が、中条越前守の許に返書(礼紙ウワ書「越州 御報  尾張守」)を送り届け、このほど寄せられた二通りの御書を拝読したこと、今のところ先頃に御使者を通じて説明した状況に変わりはないこと、この上は何事にも御意の通りに従い、いささかも見苦しい反論などするべきではないこと、山孫(山吉豊守)に提出した証文を紛失などされないように、彼方には取り扱いの注意を促しておくべきであること、山孫からは老拙(新発田忠敦)のところに何の音沙汰もないこと、よって、このたびの御書は、山孫の返答を得てから寄越されたものなのかどうなのか、正確に知らせてほしいことを伝えている。更に追伸として、とにかく御書の文意を読み取れず、はなはだ心許ないので、再び上様の御意を得られた上での御返事なのかどうなのか、正確な事情を知らせてくれるように求めている。
20日、山吉「豊守」が、「越州(中条越前守)参御報」の許に返書を送り届け、仰せの通り、昨日は上様の御意向を伝えたところ、(中条から)改めて御証文が届いたので、確かに拝見したこと、御存分の根拠となる大事な御証文なので、自分が保管している間に過誤があってはならず、どうにも持て余していたところ、幸いにも御証文の返却を求められたので、とりもなおさず返却すること、よって、これらを御使者に詳説したことを伝えている。更に追伸として、確かに三通の御証文を返却することを伝えている。
21日、山吉「豊守」が、新発田忠敦の許に返書(端裏ウワ書「尾州 御報  孫次郎 豊守」)を送り届け、仰せの通り、近日は対面の機会がなく、とても気がかりであったこと、越州(中条越前守)から証文が差し越されるも、大事な家伝文書であるため、写しを取って返却したこと、貴殿(新発田忠敦)と協力して彼の写しを有効に活用し、改めて(輝虎の)御意を得たいところ、昨今は差し障りが多いゆえに延引せざるを得ず、はなはだ残念であること、よって、只今は出仕中のために詳報できないゆえ、のちのち掃部助(山吉豊守の一族か)をもって、これらを詳しく説明させてもらうことに理解を求めている。更に追伸として、このほど頂戴した鷹狩りの獲物である鴫三羽を、ありがたく御賞味に預かることを伝えている。
同日、新発田忠敦が、中条越前守の許に書簡(封紙ウワ書「越州 御宿所  尾張守 より」)を送り届け、このほど改めて拙夫(新発田忠敦)が山孫(山吉豊守)に御披露を催促したところ、彼方からは、いささかも野拙(山吉豊守)は(中条越前守を)見放すつもりはないこと、しかしながら、屋形様(輝虎)の機嫌を損ねるのは避けたく、無分別に御披露はできないため、のちのち掃部助をもって、心底から中条殿を微塵もないがしろにしていない旨を説明すること、このように返答が寄せられたので、彼の使者が到来した折に連絡することを伝えている。更に追伸として、返す返すも(山吉は)真実いささかも(中条越前守を)疎略に扱うつもりはない旨を伝えてきており、これらについては、改めて諸々を詳報することを伝えている。
同日、新発田忠敦が、中条越前守の許に返書(端裏ウワ書「越州 御報  尾張守」)を送り届け、御書を拝読したこと、昨今の山孫(山吉豊守)は多忙を極めており、(輝虎の)御機嫌を見計らって披露に及ばれるつもりなので、まだ時間を要すること、それゆえ明日は出仕されないそうなので、先ずは(山吉豊守へ)御使者を派遣されるべきこと、ただし今はもう夜分なので明日にされるべきこと、よって、これらを御使者に詳説したことを伝えている。更に追伸として、何とか我等(新発田忠敦)が力を尽くし、(中条越前守の)御存分が理解されるようにしたいところ、若しもこのように立ち回っている様子が、(輝虎の)御耳に入るところとなれば、かえって事態を悪化させてしまうと思いあぐね、御身(中条越前守)を気にかけてくれているであろう本美(本庄宗緩)に協力を仰ぐため、御存分を正確に伝達したので、これについても御使者が詳述されることを伝えている。

22日、(上杉「輝虎(花押a)」)、遠(三)州徳川家の宿老である「酒井左衛門尉殿(忠次。三河国吉田城主)」に宛てて、直筆の初信を発し、このたび(徳川)家康が態々使僧(権現堂光播)を寄越してくれたので、心から歓喜しており、これから(徳川家と)無二の交誼を深めていく心積もりなので、よしなに取り成してほしいことと、見立てに自信はないものの、兄鷹(雄の鷹)を送るので末永く珍重してもらえれば、ひとしお満足であることを伝えた。
同日、(上杉「輝虎」)、同じく「松平左近允殿(大給松平督左衛門尉真乗の弟)」に宛てて、直筆の初信を発し、このたび家康が態々使僧を寄越してくれたので、心から歓喜していること、これから(徳川家と)無二の交誼を深めていく心積もりなので、よろしく取り成してほしいこと、よって、これらを彼の使僧が詳述することを伝えた。更に追伸として、真羽(真鳥羽。矢羽をつくる鷲の尾)二十尾を贈ることを伝えた。
同日、ここに至るまでの徳川家との交渉に関与していなかった直江大和守景綱(大身の旗本衆)が、これまで携わってきた河田豊前守長親(大身の旗本衆。越中国魚津城代)の代理として、遠(三)州徳川家の宿老である「石川日向守殿(家成。遠江国懸川城代)」に宛てた条書を使僧(権現堂光播)に託し、ここ暫く交信が途絶えていたので、心許なく思っていたところ、家康が使僧を寄越されたので、ひときわ喜んでいること、権現堂光播(叶房。三河国秋葉寺の別当)を通じて示された趣旨は、誠に頼もしい限りであること、この補足として、(織田)信長と(朝倉)義景の一和を取りまとめたく、家康と内談したい考えであること、裏表のある(武田)信玄は、親子の情愛も知らず、家臣の忠心も知らず、そして誓詞血判の重みも知らないこと、多くの言葉を尽くして越・相一和を成就させたからには、必ず信玄を討ち果たすつもりであること、権現堂から示された趣旨と同様に信長の真意通りに計画が進めるのが重要であり、よくよく斟酌された上で信玄への対策を講じてほしいこと、それからまた、誓詞を取り交わすべきであろうこと、この補足として、本来の取次である河田豊前守(長親)は越中在国のため、愚拙(直江景綱)が代理を務めたこと、これらの条々を説明している。

同日、老臣の本庄「宗緩(美作入道。実乃。大身の旗本衆・本庄清七郎(綱秀ヵ)の父)」が、中条越前守の許に返書(礼紙ウワ書「越州 参御報  本庄入道 宗緩」)を送り届け、仰せの通り、ここ数日は交信が途絶えていたので、早く連絡を取りたいと思いながらもままならず、ひどくもどかしかったこと、それは愚入(本庄宗緩)が老齢ゆえに体調を崩しがちなので、気に留めながらも無理であったこと、このたび(中条越前守が)懇望された一件について山孫(山吉豊守)の身勝手を許してはならず、各々方から彼方に談じ込むべきであること、吾等(本庄宗緩)も孫次郎を問い質すつもりなので、御安心してほしいこと、間違いなく彼の者に道理を説きつけるつもりであり、微塵もないがしろにしないこと、たびたびの御懇書に恐縮しており、何はともあれ病状が快復したら、万全な状態で御存分の一切を承るつもりであること、これらを懇ろに伝えている。更に追伸として、返す返すも病状が快復したら、万全な状態で御存分の一切を承ることを伝えている。

23日、再び鷹狩りを催す。

24日、新発田「忠敦」が、中条越前守の許に書簡(端裏ウワ書「越州 御宿所  尾張守 忠敦」)を送り届け、昨日は留守中に御使者を寄越してくれたので、ひたすら恐縮していること、昨日は鷹狩りに参上したところ、山孫(山吉豊守)から目立たないように、以前とは状況が変わりつつある旨を知らされたので、手ごたえを感じられたこと、ただし山孫の所から未だに掃部助は到来していないこと、すでに(山吉豊守は)御存分を(輝虎へ)御披露されたのは必定であること、そうでなければ内々にあのような応対はされなかったはずであること、まだ雲雀は早過ぎるので鴫二羽を贈ること、必ず面談して一切を説明するので、詳細については略したこと、これらを懇ろに伝えている。更に追伸として、返す返すも以前に比べて状況が良くなったと感じており、きっと同意してもらえるはずなので、必ず面談して一切を説明することを伝えている。

30日、河田「長親」が、「松平左近允殿 御宿所」に宛てて初信を発し、長年培ってきた(徳川)家康と輝虎の格別な交誼について、このたび権現堂(光播。徳川家康の使僧)を通じ、懇ろに厚情を示されたので、(輝虎は)ひときわめでたく喜ばしい旨を返報したこと、これにより、貴所(松平左近允)にも直書をもって申し届けられたゆえ、なおいっそう両家が無二の懇親を図れるように、よろしく取り成してほしいこと、自分も若輩ながら御取次を務めるからには、両家の連帯のため、何事もこだわりなく相談に乗り、決して疎かにしないこと、よって、これらを彼の使僧が詳述されることを伝えている。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 790・791号 新発田忠敦書状、793号 直江景綱書状、794・795・796・797号 山吉豊守書状、798号 本庄宗緩書状、800・801号 新発田忠敦書状、 931号 上杉輝虎書状、932号 上杉輝虎書状(写)、933号 直江景綱条書(写)、935号 河田長親書状(写)

◆ 徳川氏との外交については、栗原修氏の論考である「上杉氏の外交と奏者 ―対徳川氏交渉を中心として―」(『戦国史研究』32号)を参考にした。以下、越・三(遠)同盟については同論考を参考にする。
◆ 徳川家中の松平左近允と徳川家の使僧である権現堂光播については、『戦国人名辞典』(吉川弘文館)を参考にした。
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元亀3年9月22日付北条高広・同景広宛上杉謙信書状

2014-04-07 19:40:41 | 雑考

【史料1】北条高広・同景広宛上杉謙信書状
(前欠)もの候間、人被為見間敷候、今一人飛脚爰元見合、一功之上返可申候、万吉重謹言、
、信玄甲府候歟、又何方候哉、聞届可申越候、又申候、十七日大手口ニ人数見え候とて注進申候間、身之馬廻春日山返候得如何ニ無事候間、案間布候、以上、又申候、三人之飛脚書中可渡由申候得、馬廻之者共□□時いれ候より府帰候□□□□へ飛脚越候、十七日府内さわき□□□馬廻之者、返候時分以外□□□帰とて、陣之上下驚候間、左様之義、先々越候飛脚可申候、少不思議(後欠)
  九月廿二日      謙信(花押a)
     北条弥五郎殿
     北条丹後守殿


 この元亀3年に比定される書状(長岡市立中央図書館所蔵)は、見ての通り本文の殆どを欠き、越中国富山に在陣中の上杉謙信が、上州厩橋城の城代である北条高広・同景広父子に対して、一体何を人に見せてはいけないと注意を促しているのか、全く分からないのでもどかしさを感じる一方、あらかた残っている追而書のおかげで、謙信が、9月17日に甲州武田軍が越後国の府城である春日山城の大手口方面に姿を現したとの急報に接し、慌てて自分の馬廻衆を春日山城に帰還させたことが分かる。


【史料2】長尾顕景宛上杉謙信書状
  追、此書中大和守所届可給候、以上、
懇比申越候、入心候、心馳難申尽候、山吉はしめ身之案候、一度飛脚不越候、両度誠喜悦候、其元留守中簡要候間、返々各其元差置、同事備可申付候、爰許之義者案間敷候、以上、
    九月廿七日      謙信(花押a)
      長尾喜平次殿


【史料3】上杉謙信書状
  猶々一左右可申候、其時分待入候、身之者共、其元差越、無人候間、其方者共、陣之番申付、昼夜辛労申候、如何様見参之折節、礼を可申候、以上、
細々入心人給候、心馳喜入候、殊従余方増人数、多差越候、人目申肝要候、如何様其口聞合、可及一左右候、其時分身之者共召連、着陣可為目出候、以上、
    十月三日       謙信(花押a)
  〇宛所欠


【史料4】長尾顕景宛上杉謙信書状
入心細々音信喜入候、随爰元さへ雪断降候間、信州境定可為深雪候条、身之馬廻召連、早々可被越候、爰元弥可然候、此義老母可申候、以上、
    十月十日       謙信(花押a)
     喜平次殿


【史料5】長尾顕景宛上杉謙信書状
其許雪降候由註進、細々入心大慶候、爰許雪降申候、依之馬廻之者召連可被越由、先書申候、定此飛脚道ニ而相候得共、返事申候、被越候、被越候飛脚を可被越候、迎を可出候、万吉令期面候、謹言、
  追申候、爰元ニ而も上鷹しい入させ申候、おほ鷹もしゝをかけ申候、被越候、かし可申候、以上、
    十月十二日      謙信(花押a)
      喜平次殿


【史料6】長尾顕景・山吉豊守宛上杉謙信書状(封紙ウハ書「喜平次殿・山吉孫二郎殿 謙信」)
今日てんきあしく候間、無用候、明日てんきやわせ可越申候、以上、
    十月廿二日
     孫二郎殿
    喜平次殿


 そして、こうした事情が分かることにより、富山陣での越年を決めた謙信が、越府に残留させた甥の長尾顕景(のちの上杉景勝)に対し、府城の状況を心配しているにも係わらず、同じく越府に残留させた側近衆が一度も連絡を寄越さないなか、心のこもった連絡を二度も寄越してくれたので、ひときわ喜んでいること、積雪期を迎えて甲州武田軍は信・越国境を越えられないため、先だって春日山城に帰還させた馬廻衆を引き連れて当陣へ到来するべきこと、馬廻衆の代わりを上田衆(長尾顕景の家臣団)に務めさせているので、対面の折に謝意を表すること、いずれ当地に於いて鷹狩りを催すつもりなので、その折には鷹を貸し与えること、このように謙信が甥に寄せた慈愛のほどを伝える五点の年次未詳文書(上杉家文書)を元亀3年に比定できたわけで、実にありがたい代物です。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』1123・1454・1456・1457・1459・1461号 上杉謙信書状
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