越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎(謙信)の年代記 【永禄7年3月~同年4月】

2012-09-21 06:18:06 | 上杉輝虎の年代記

永禄7年(1564)3月4月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼)【35歳】


このたび西上野の味方中との盟約に従い、上野国和田城(群馬郡)を攻めることに決し、3月7日、和田城は小規模ながら、甲州武田信玄が入念に補強を施した堅城なので、攻略は至難と見越して逡巡するも、すでに攻撃を決断したからには、勝敗にとらわれずに迷いを捨てて不退転の覚悟で臨むと、関東国衆(味方中)は戦意に乏しく頼りにならないため、惣社長尾能登守(実名は景総あるいは景綱と伝わる。上野国惣社城主)と白井長尾左衛門尉憲景(上野国白井城主)に先導させ、自ら越後衆を引率して強攻する。別の攻め口を担当する北条丹後守高広(譜代衆。同厩橋城代)・箕輪長野左衛門大夫氏業(同箕輪城主)・横瀬雅楽助成繁(同金山城主)を始めとする国衆勢が戦果を挙げられないのを尻目に、惣社・白井・越後衆で外郭の防塁を手勢に犠牲を出すことなく奪取し、内郭の敵状が視認できるほどに迫った。

その後、佐竹右京大夫義昭(常陸国太田城主)・宇都宮弥三郎広綱(下野国宇都宮城主)・足利(館林)長尾但馬守景長(上野国館林城主)の一群が城を取り巻き、人数では圧倒しているにもかかわらず、堅城ゆえに攻めあぐねて、戦前に予見した通り攻略は行き詰ってしまう。

10日、参戦中の簗田中務大輔晴助(下総国関宿城主)に証状を与え、繰り返し懇望されているので、その意に任せ、相馬一跡(下総国相馬御厨の守谷相馬氏領)を進らせること、ますます忠信を励むのが肝心であること、これらを恐れ謹んで伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』394号「簗田中務太輔殿」宛上杉「輝虎」安堵状写)。

13日、府城に留守居する老臣の本庄美作入道宗緩(すでに家督は嫡子の新左衛門尉に譲っている)・金津新右兵衛尉・吉江中務丞忠景へ宛てて返書を発し、そちらが寄越してくれた飛脚をすぐにでも帰すべきところ、爰元の様子を見届けさせてから帰すために留め置いたこと、されば、爰元の和田は小規模ながらも、晴信(甲州武田信玄)が念入りに手を加えて、まさしく堅固に拵えたものであり、落居の是非はつき難いこと、しかしながら、馬を寄せたからには、あれこれ考えずにためらいを振り払って不退転の覚悟で攻めるべく、当月7日より詰め掛けたところ、例によって関東国衆(味方中)は戦意が欠けており、当てにならないため、自ら越後衆を引き連れて、惣社(長尾能登守)・白井(長尾憲景)を先導として、一日中攻め立てたこと、北条(高広)・箕輪(長野氏業)・横瀬(成繁)をはじめとする国衆勢が一郭も攻め取れないなかで、惣社・白井・越後衆は力の限り奮闘したゆえか、そのまま攻め上って外郭の防塁を奪取したこと、ついには手勢に一人の負傷者も出さなかったこと、内郭との距離は、五間と言いたいところであるが、十間(18メートルほど)のうちまで迫り、直に様子を視認できること、以前の攻め口である志内口より主要部に接近していること、また、人数も味方は大軍であるのに対し、敵城は小規模であっても、侮らずに前は五重に取り巻いたとはいえ、うつの宮(宇都宮広綱)・佐竹(義昭)・あしかゝ(足利長尾景長)の軍勢は間隔を大きく空けて陣取り、こだわらずに配置したので、人数は漏れなく配置したこと、しかしながら(和田城は)優れた地であり、このまま長期戦に入れば、やがて国衆を帰陣させなければならず、兵力が減ってから軽はずみに後詰の一軍を投入したのでは、敵軍に横撃される恐れがあること、若輩ながら一生の大事という状況で、人数はただ今の様子であるとしたら、後詰はどうこうできそうもないと思われ、後詰の投入が早過ぎれば、国衆については佐・宮(佐竹・宇都宮)をはじめとして戦い甲斐をなくす恐れもあり、越後衆だけでは戦線を維持できないこと、(この正月に)房州・太田(房州里見氏と太田康資・太田資正の両太田氏による連合軍)が相州北条軍に敗北した頃よりも、ただ今はいっそう戦局の悪化が進んでいること、とにかくこのたびは生還が危ぶまれ、各々に再会は期し難いのではないかと心細さを感じながらも、早く張り破るため、一昨晩に一番鑓を入れ、彼の者共は塀際までにじり寄って、見隠しを結わい付けたところ、目の前の者共は腹を立てて、気に入らずに叱り飛ばしたこと、これまた仕方ないとはいえ、それでも気を取り直して奮闘する決意であること、詳細は彼の脚力が見聞しており、ここでは省くこと、これらを謹んで伝えた。さらに追伸として、「かいほつ」(旗本衆の開発中務丞であろう)と牢人衆のうちで、それぞれ一名の負傷者を出したが、いずれも軽傷であることを伝えるとともに、とにかく今回はいつにも増して帰心が募り、この弱気が凶事を招いてしまうかもしれないことへの不安な心境を吐露した(『上越市史 上杉氏文書集一』395号「本庄美作守殿・金津新右兵衛尉・吉江中務少輔(丞)殿」宛上杉輝「虎」書状写 ●『戦国遺文 下野編二』743号 上杉輝虎書状写)。

15日、越府留守将の新発田尾張守忠敦(外様衆(揚北衆)。越後国蒲原郡の新発田城主)らに対する目付衆(旗本衆)の吉江中務丞忠景・金津新右兵衛尉・本田右近允(実名は長定か)・吉江織部佑景資・高梨修理亮・小中大蔵丞(実名は光清か)・吉江民部少輔(実名は景淳か)・岩船藤左衛門尉(実名は忠秀か)へ宛てて書状を発し、春日(府城春日山城下の春日町)・府内(越後国府の政庁街)・善光寺門前(府内善光寺の門前町)以下、各要所の防火と警備について、重ねて申し遣わすこと、定時に夜警を巡回させる法令を厳格に遵守するべきこと、およそ日没以降は町人衆も往来を禁ずるべきこと、何が何でも放火犯は捕らえて成敗するべきこと、不審者を目撃したら、こちらに注進する必要はないので、即座に成敗するべきこと、また、町方の者と見受けられたのならば、拘束して取り調べに当たるべきこと、もしまた、悪乗りして面倒をかけるならば、これも即座に成敗するべきこと、わずかな油断による過失から危機を招いてはならないこと、善光寺町には信州からの新規の移住者が多く、これに紛れて敵方の工作員による焼き取りなどの火付けに狙われ易いので、住人が注意を怠り、みすみす放火を見逃した場合には、両隣三軒の住人を成敗するべきこと、これについても取り急ぎ住民たちへ布告して用心させるべきこと、府内の住民にも同様に布告するべきこと、万が一にも大事が起こった際には、先ず如来堂を保護するように、しっかり新発田(忠敦)の所へ申し届けるべきこと、奉公人・牢人であろうとも、不審な態度を取る者は、当然ながら成敗するべきこと、例外なく往来者の素振りを注視するべきこと、この条々を尾張守(新発田忠敦)かたへも認知されるべきこと、このほかは申し遣わさないこと、これらを謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』313号「吉江中務丞殿・金津新兵衛尉殿・本田右近允殿・吉江織部佑殿・高梨修理亮殿・小中大蔵丞殿・吉江民部少輔殿・岩船藤左衛門尉殿」宛上杉「輝虎」書状【花押d】)。

この前後に上州和田陣を撤収した。

23日、越府の代官である蔵田五郎左衛門尉(実名は秀家か)へ宛てて返書を発し、心がこもって行き届いた書状を携えた飛脚を寄越してくれて、喜びもひとしおであること、長尾越前守(上田長尾政景)を帰国させたので、相談し合い、府内の住人らに対し、法令通りに治安を維持させるように、必ず申し付けるべきこと、これらを謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』397号「蔵田五郎左衛門尉殿」宛上杉「輝虎」書状写【花押影a3】)。

24日、関東味方中の富岡主税助(上野国小泉城主))に証状を与え、年来の知行されてきた各所における本領分ならびに昨年から館林(上野国館林城主の足利長尾但馬守景長)と相論している石打郷(邑楽郡佐貫荘)以下の地について、これまで尽くしてくれた様々な忠節に報いるため、このたび落着を遂げたので、永代にわたって領有するべきことを申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』398号「富岡主税助殿」宛上杉「輝虎」判物【花押a3】)。

これを機に富岡主税助を山内(越後国)上杉家の譜代家臣として処遇し、以後は書札礼を薄礼に改める。

このあと帰国の途に就いた。


こうしたなか、輝虎の指示で途中帰国した上田長尾越前守政景(譜代衆。越後国魚沼郡の坂戸城主)が着府すると、12日、信・越国境の拠点を守る信濃味方中の関屋民部少輔政朝(高梨氏の旧臣か。飯山領域の水内郡関屋を出自である)から、長尾越前守政景へ宛てた書状が使者に託され、あらためて申し上げること、留守中の防備のために、御帰国を命じられたとの知らせを受けたので、御音信として、すぐさま申し上げる心づもりでいたにもかかわらず、万事に取り紛れていたので、遅参してしまい、戸惑いを感じていたこと、内々に参上して御挨拶に及びたいと考えていたところ、敵軍襲来の情報が流れてきたので、同名(一族)の者をもって申し上げること、このたびの御着府は、何よりも心強い思いであること、されば、晴信(甲州武田信玄)がこの口(水内郡の飯山口か)へ出張するとの情報が流れるなか、武田方の信濃駐留軍が兵船の用意を進めており、方々の御談合をもって、しっかりと御人数を派遣して下されば、感謝に堪えないこと、万が一にも御来援がなければ、とても持ち堪えられないこと、詳細は直大(直江大和守政綱。大身の旗本衆。越後国山東(西古志)郡の与板城主。春日山城の留守将であろう)へも申し入れるので、必ずや御賢明な手立てを講じられるべきこと、万事について重て申し述べるので、ここでは要略こと、これらを恐れ謹んで伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』336号「越前守殿 参御宿所」宛「関屋民部少輔政朝」書状)。


※ 直江政綱は、恐らく永禄5年頃に実名を実綱から政綱に改めたと思われるが、文書によって確認されるのは、この年からなので、ここより政綱と表記する。

※ 関屋政朝は、正確な時期は不明であるが、のちには武田家に従ったようである。この関屋氏の出自については、山本隆志氏による史料紹介の高野山清浄心院「越後過去名簿」を参考にした。


4月3日、上田長尾越前守政景の代行者である長男の長尾時宗丸が、関東からの帰陣後に、改めて上田衆の下平弥七郎(越後国魚沼郡波多岐荘の国衆である下平氏からはやくに分派した)と内田文三に感状を与え、去る2月17日に佐野扇城(下野国安蘇郡佐野荘。唐沢山城)を(輝虎が)攻め破りなされた折、よくよく奮闘したそうであり、殊勝の極みであること、今後なおいっそう励むのが肝心であること、これらを謹んで伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』401号「下平弥七郎殿」宛長尾「時宗」感状写、403号「内田文三殿」宛長尾「時宗」感状)。

このほど関東味方中の富岡主税助から、深谷上杉左兵衛佐憲盛(上杉・北条両陣営の間を変転とする。武蔵国深谷城主)の支援を受け、相州北条方の軍勢を迎撃して多数の敵兵を討ち取り、残党を利根川に追い落とした戦勝報告が寄せられると、10日、富岡主税助へ宛てて書状を発し、深谷からその地(上野国小泉城)に対して助勢が成されたところ、凶徒を誘い込んで一撃し、数百名を討ち取り、残党を利根川に追い落としたそうであり、そのような勝報を耳にして心地好い思いであること、いつもながらの並外れた戦功であること、今後ますます奮闘するのが肝心であること、なお、河田豊前守(大身の旗本衆。上野国沼田城代)が申し遣わすこと、これらを謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』508号「富岡主税助殿」宛上杉「輝虎」書状【花押a3】)。

20日、荒廃の著しい港湾都市の越後国柏崎町(刈羽郡比角荘)に制札を掲げ、一、当町へ諸商売のために出入りする業者の牛馬荷物等については、町の周囲に関所を設けたりして、新役を取り立ててはならないこと、一、青苧役については、必ず従来通りに完納するべきこと、一、当町については、先年に復興を遂げたにもかかわらず、再興以前から先住している町民が、もっぱら好き勝手な場所に住居を構えて、未だに居住するべき宿に戻っていないそうであり、はなはだ不愉快な状況であること、このうえは当宿への帰住を急がせるべきこと、ただし、町民が現住する場所の領主が引き留めて帰住が遅れているのならば、その領主の名を列記した書付を寄越すべきこと、一、盗賊や放火犯等の存在を察知して告発した者には、計画によっても効果を得られなかったので、いっそうの褒美を遣わすべきこと、一、当町中において無道狼藉を働く徒輩がいれば、現行犯は勿論、どのような身分の者であろうとも、その名を列記した書付を寄越すべきこと、もしその場で捕縛するか、成敗するかしたとしても、町民の過失を問わないこと、一、当町再興を図った際の休年記の条項に対しての証判は別紙に書いたこと、よって、柏崎町中においては、これらの条々を厳守するべきであり、もしも違犯する徒輩がいれば、誰人手あろうとも罪科に処するべきこと、ただし、往古に定められた規定に異議を唱え、この制札を口実にして詭弁を弄し、町民に無理強いする者がいれば、重罪に他ならないこと、これらを申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』404号上杉輝虎制札写【署名はなく、印判のみを据える】)。

同日、信濃国飯山城(水内郡)の城衆(外様平衆)である上倉下総守・奈良沢民部少輔・上堺彦六・泉 弥七郎(実名は重歳か)・尾崎三郎左衛門尉(実名は重信あるいは重誉か)・中曽根筑前守・今清水源花丸へ宛てて書状を発し、飯山口の防備を強化するため、安田惣八郎(実名は顕元。譜代衆。越後国安田城主)の手勢に岩井備中守(実名は昌能。信濃衆。もとは高梨氏の同名衆)を添えて派遣すること、聞くところによれば、今回もまた、それぞれが在所に戻っていたので、不甲斐なくも甲州武田軍の来襲に即応できず、飯山領が甚大な被害を受けたのは、はなはだ遺憾であること、今後は二度とこのような失態を繰り返さないように、必ず全員が在陣して抜かりなく飯山領の統治に当たるべきこと、陣所については、其許で相談して相応しい場所を選定するべきこと、なお、子細は備中守(岩井昌能)が口説すること、これらを謹んで伝えた。さらに追伸として、近日中に安田の軍勢は出立するので、何としても飯山領を堅持するように、皆で力を合わせるべきことを厳命した(『上越市史 上杉氏文書集一』604号「上倉下総守殿・奈良沢民部少輔殿・上堺彦六殿・泉 弥七郎殿・尾崎三郎左衛門尉殿・中曽根筑前守殿・今清水源花丸殿」宛上杉「輝虎」書状写【花押a3影】)。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『新潟県立歴史博物館研究紀要』第9号高野山清浄心院「越後過去名簿」
◆『戦国遺文 下野編 第二巻』(東京堂出版)

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