越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

長尾景虎(号宗心)期の戦歴

2015-04-13 23:34:01 | 長尾景虎(宗心)期の戦歴


 【1】 越後守護代長尾晴景の弟である長尾景虎、天文12年秋から同16年秋までの間、越後国中郡の敵勢と戦う。

 兄の指示により、天文12年秋、越後長尾一族の古志長尾家から古志郡司代官を引継ぎ、越後国古志郡の栃尾城を拠点として、周辺の反抗勢力の掃討にあたると、同16年秋まで越後国中郡の鎮撫に努めた。

 【2】 古志長尾景虎、天文16年秋から冬、反乱を起こした黒田和泉守秀忠と戦う。

 天文16年秋、越後国守護代長尾晴景に反抗し続けている黒田和泉守秀忠(越後国上杉家の譜代衆)を討伐するために上郡し、頸城郡の有力者たちの賛同を得たところ、戦意を失った黒田秀忠が法体となって越後国からの退去を申し出て、越後国魚沼郡妻有荘の拠点に蟄居したことから、それを見届けるために越後国魚沼郡波多岐(妻有)荘の節黒城(越後国上杉家の譜代衆・上野家成の居城)に入ったが、再び挙兵したので、越後守護上杉定実(号玄清)の許可を得ると、決着をつけるために戦う。


 【3】 古志長尾景虎、天文17年春、再び反乱を起こした黒田一族を滅ぼす。

 天文17年2月中、昨年の冬以来の戦いに決着をつけて黒田一族を滅ぼした。


 【4】 古志長尾景虎、天文17年秋から同年冬の間、対立する兄の長尾晴景らと戦う。

 天文17年秋、越後国守護代長尾晴景、それを支持する越後国魚沼郡上田荘の領主である上田長尾房長・同政景父子(越後長尾一族でありながら、関東管領山内上杉家の家領の代官でもある。越後国魚沼郡坂戸城主)と反目し、越後国妻有地域で戦った。その後、越後守護上杉定実(号玄清)の調停によって兄の長尾晴景と和解が成立すると、兄の養嗣子となって越後守護代長尾家の名跡を継ぎ、12月晦日に守護代長尾家の居城である春日山(鉢峰)城に入った。


 【5】 越後国長尾景虎(天文19年2月に上杉定実は後継者を立てられないままに死去し、越後国上杉家は断絶した)、天文19年秋、反乱を起こした一族の上田長尾政景と戦う。

 天文19年9月、上田長尾政景(妻は景虎の姉)が反乱を起こすと、それを支持する古志郡の反抗勢力と戦った。その間、越後国妻有・堀内・藪神地域の諸士が上田勢と対峙している。


 【6】 越後国長尾景虎、天文20年正月下旬、上田長尾方の越後国村松城を攻め落とす。

 古志郡で年明けを迎えると、下旬までに村松城を攻略した。その後、上田長尾政景が和睦を求めてきたので、停戦に応じ、2月下旬までに府城の春日山城に帰還すると、上田勢を抑えた越後国妻有地域の上野中務丞家成・中条玄蕃允(越後国魚沼郡大井田城主か)らを忠賞した。更には、上田長尾家側が一向に和睦成就の交渉に応じてこないため、同年7月末に総攻撃を通告すると、上田長尾政景は戦うことなく降伏している。


 【7】 越後国長尾景虎、天文22年8月下旬、信濃国布施の地で甲州武田晴信と戦う。

 天文22年8月中旬、甲州武田晴信に圧迫される信濃国衆を救援するため、信濃国更級郡の川中嶋へ出馬すると、下旬に布施で甲州武田軍前衛部隊と戦った。


 【8】 越後国長尾景虎、天文22年9月中、信濃国更級・筑摩郡で甲州武田晴信と駆け引きする。

 天文22年9月朔日、信濃国更級郡の八幡で甲州武田軍前衛部隊と戦ったのち、甲州武田晴信本隊と戦うべく信濃国筑摩郡へ進出するも、一戦には至らず9月20日に帰陣した。


 【9】 越後国長尾宗心(天文22年冬に上洛した際、京都大徳寺の前住持である徹岫宗九から法号を授かった)、天文24年正月下旬から同年2月上旬に掛けて、紛争地の越後国北条城を攻め降す。

 越後国刈羽郡佐橋荘北条の領主である北条毛利高広(越後国刈羽郡北条城主)が隣郷の善根の地を武力で占拠したことにより、越後国刈羽郡鵜河荘安田の領主である通報者の安田毛利越中守景元(越後国刈羽郡安田城主)、近隣領主の上条上杉氏(越後国刈羽郡上条城主)・琵琶嶋氏(同琵琶嶋城主)・柿崎氏(越後国頸城郡柿崎城主)などに北条軍の封じ込めを依頼したのち、自ら出馬して北条高広を降した。


 【10】 越後国長尾宗心、天文24年7月中旬から同年閏10月中旬の間、信濃国川中嶋の地で甲州武田晴信と駆け引きする。

 信濃川中嶋地域へ出馬すると、7月19日に甲州武田晴信と戦うも勝敗は決せず、長期に亘って対陣したのち、甲州武田晴信の要請を受けた駿州今川義元の調停によって和睦が成立すると、閏10月15日に帰陣した。


 【11】 越後国長尾景虎(弘治2年6月に越後国主からの引退を宣言して国外に出奔したが、奉行衆の大熊備前守朝秀が甲州武田晴信に内通して反乱を起こすと、姉婿の上田長尾政景らの説得に応じて国主に復帰して俗名に戻した)、弘治2年8月23日、反乱を起こした大熊朝秀を攻め破る。

 弘治2年8月中旬、甲州武田晴信と共謀して越中口から越後を侵攻を図る大熊備前守朝秀と戦うため、引退を撤回して出馬すると、8月23日に越後国頸城郡の駒帰の地に於いて大熊軍を撃破した。大熊朝秀は甲斐国に逃れて甲州武田晴信の家臣になっている。この間、甲州武田晴信と通謀する隣国奥州蘆名家の族臣である小田切安芸守(会津領越後国蒲原郡石間城主)と蘆名家の従属国衆である山内舜通(陸奥国会津郡横田城主)らが越後国境で策動するも、事なきを得た。


 【12】 越後国長尾景虎、弘治年4月中、信濃国川中嶋の地で甲州武田晴信と駆け引きする。

 甲州武田晴信が和睦を反故にして信濃国衆への圧迫を再開したことから、弘治3年4月18日、信州へ向けて出馬する。21日、信濃国水内郡の善光寺の地に着陣すると、早くも高井郡の山田要害・福嶋城が自落した。25日、数ヶ所の敵部隊の陣所や敵要害の根小屋を焼き払い、信濃国水内郡の旭山要害を再興して拠点と定め、甲州武田軍との一戦を望むなか、甲州武田晴信が和睦を働き掛けてきたので、事の推移を見極めるため、ひとまず信濃国水内郡の飯山城まで後退した。


 【13】 越後国長尾景虎、弘治3年5月12日、甲州武田方の信濃国香坂領を焼き払う。

 甲州武田晴信との和睦は進展しなかったので、弘治3年5月12日、信濃国飯山城を出撃すると、犀川を渡って埴科郡の香坂(海津)一帯に放火した。


 【14】 越後国長尾景虎、弘治3年5月13日、甲州武田方の信濃国坂木・岩鼻領を荒らし回る。

 甲州武田軍を戦場に引きずり出すため、信濃国埴科郡の坂木・岩鼻の両地を蹂躙したところ、甲州武田軍が現れたので、一斉に攻めかかろうとしたが、あえなく逃げ去られた。


 【15】 越後国長尾景虎、弘治3年5月下旬から同6月11日に掛けて、甲州武田方の信濃国野沢城を攻める。

 弘治3年5月下旬、甲州武田陣営に属する信濃国衆・市川藤若丸が拠る信濃国水内郡の野沢要害を攻囲すると、信濃味方中の高梨政頼をもって帰属を呼び掛けるも失敗に終わり、6月11日に飯山城に戻った。その後、7月5日に甲州武田軍の別働隊によって信・越国境の信濃国安曇郡の小谷(平倉)城を攻め落とされたことから、急遽、越後国に後退すると、別働隊を派遣して越後西浜口に侵入した甲州武田軍の別働隊を迎撃させる。その後、8月中旬には飯山城に残した上田長尾越前守政景(越後国魚沼郡坂戸城主)らが飯山地域の上野原において甲州武田軍を撃退している。8月29日に上田衆(上田長尾政景の同名・同心・被官集団)の南雲治部左衛門尉らの戦功を称えて、長尾政景とは別で感状を与えた。


 【16】 越後国長尾景虎、永禄3年3月下旬から同年4月下旬に掛けて、越中中郡・西郡で神保長職を攻め破る。

 越中国の東西に分立する椎名康胤(越中国新川郡松倉城主)と神保長職(同富山城主)が再び衝突(先の抗争は前年に景虎が和睦を取りまとめた)したことから、取り分け誼の深い椎名康胤を救援し、甲州武田晴信と通謀している神保長職を討つため、越中国へ出馬すると、3月晦日に神保長職は戦わずして越中国新川郡の富山城を放棄し、より険難な越中国砺波郡の増山城へ逃げ込んだので、そこに攻め寄せたところ、またしても神保長職は増山城を放棄し、今度は行方をくらましたので、神保方への肩入れが疑われる能州畠山義綱に矛先を向けたところ、これを彼方が否定したので、戦後処理を施したのち、帰国の途に就いた。


 【17】 越後国長尾景虎、永禄3年9月上旬、相州北条方の上野国沼田領・吾妻領に攻め込む。

 永禄3年8月下旬、相州北条氏康・同氏政父子の圧迫により、没落して来越した関東管領山内上杉憲政(号光徹)の関東復帰と苦境に立たされる関東国衆の救援を、山内上杉家の家宰を務めた足利長尾当長(号禅昌。下野国衆。下野国足利城主)と協力して主導するため、越府に留守将として桃井右馬助義孝(一家衆)・御屋敷長尾小四郎景直(譜代衆)・黒川竹福丸(外様衆)・柿崎和泉守景家(譜代衆)・長尾源五(同前)、留守将の監察として荻原掃部助・直江与右兵衛尉実綱・吉江織部佑景資(いずれも旗本衆)を残し、関東へ向けて出馬すると、9月5日に上野国利根郡沼田荘に乱入し、相州北条方の上野国吾妻郡の明間城・岩下城を降した。


 【18】 越後国長尾景虎、永禄3年9月中旬、上野国沼田城を攻め落とす。

 永禄3年9月中旬、上野国利根郡沼田荘の沼田城に攻め寄せると、数百名の城兵を討ち取って奪還した。城主の沼田北条康元(相州北条家の一族衆)は上野国緑野郡高山御厨の高山城に逃れた。その後、相州北条陣営に属する上野国衆・横瀬成繁(上野国新田郡新田荘金山城主)の本領である新田郡新田荘に越後衆の一軍を進攻させた。こうしたなか、同じく白井長尾憲景(上野国群馬郡白井城主)、惣社長尾能登守(実名は景総か。同惣社城主)、箕輪長野業正(同箕輪城主)、さらに厩橋長野道賢(弾正少弼入道。同厩橋城主)が帰属を申し入れてきたので、これを認めた。


 【19】 越後国長尾景虎、永禄3年10月から同年12月に掛けて、相州北条方の上野国那波城を攻め落とす。

 永禄3月10月初め、相州北条陣営に属する上野国衆・横瀬成繁(上野国新田郡新田荘金山城主)が帰属してくると、足利長尾当長(号禅昌)と合流して相州北条陣営に属する上野国衆・那波宗俊が拠る上野国那波郡の那波城を攻め、12月には陥落させた。


 【20】 越後国長尾景虎、永禄3年正月から2月に掛けて、相州北条方の武蔵国松山城を攻め落とす。

 永禄4年正月、武蔵国へ進攻すると、比企郡の松山城で防衛線を張っていた相州北条氏康が本拠地である相模国西郡の小田原城に後退したので、2月27日までに松山城を攻略した。それと同時に、参集した関東国衆の軍勢をもって相州北条方の各要所を封じ込める。


 【21】 越後国長尾景虎、永禄4年3月中旬から同下旬に掛けて、相模国小田原城を攻める。

 永禄4年2月下旬(27日以降)、武蔵国松山城から出撃すると、自身は越後衆の主力と関東国衆の佐竹義昭(常陸国久慈郡太田城主)・小田氏治(同筑波郡小田城主)・宇都宮広綱(下野国河内郡宇都宮城主)・岩付太田資正(武蔵国埼玉郡岩付城主)らを率いて武蔵多摩地域を押し通り、相模川に沿いに南下して相模中央部に進出し、3月10日には房州里見義弘の軍勢を加え、相模国西郡の酒匂の地に布陣して相府小田原城に立て籠もる相州北条氏康・同氏政父子と対峙した。その後、小田原城下を焼き尽くすと3月下旬には相模国東郡の鎌倉の地に移って居座った。

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