越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎(謙信)の年代記 【永禄6年閏12月~同7年2月】

2012-09-19 16:28:05 | 上杉輝虎の年代記

永禄6年(1563)閏12月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼)【34歳】


ようやく上野国沼田城(利根郡沼田荘)に到着すると、3日、相州北条・甲州武田連合軍の攻撃から居城を守り通した関東味方中の倉賀野左衛門五郎直行(上野国倉賀野城主)の重臣である橋爪若狭守へ宛てて感状を発し、このたび倉賀野左衛門五郎が尽くした忠信は意義深いこと、つまりは其方(橋爪若狭守)が忠功を励んだゆえであること、相・甲連合軍との戦いに決着がついたら、必ず希望通りの所領を宛行って表彰すること、ますます傍輩共(家中衆)が結束して奮闘するように努めるべきこと、左衛門五郎(倉賀野直行)は言うまでもなく、親類・同心の者共に対して、しっかりと適切な進言をするべきこと、これらを畏んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』369号「橋爪若狭守とのへ」宛上杉輝虎感状【署名はなく、花押(a3)のみを据える】)。

5日、甲・相連合軍の攻撃目標である上野国金山城(新田郡新田荘)を救援するため、関東味方中の富岡主税助へ宛てて自筆の書状を発し、取り急ぎ筆を馳せたこと、甲・南両軍が利根川を渡り、金山の地に攻め掛けてくるので、当口(沼田)から金山の救援に向かい、今度こそ凶徒を殲滅するつもりであること、されば、太田美濃守(岩付太田資正。武蔵国岩付城主)と成田左衛門二郎(成田氏長。同忍城主。下総守長泰の子)の両所へ早々に羽生(武蔵国埼玉郡太田荘の羽生城)へ移るように申し遣わしたこと、彼の両衆(太田と成田)を先導して当陣に合流を果たすように努めるべきこと、もしも手落ちがあれば、計画は台無しになってしまうこと、これらを恐れ謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』371号「富岡主税助殿」宛上杉「輝虎」書状【花押a3】)。

関東味方中の横瀬雅楽助成繁(上野国金山城主)から、相・甲連合軍は金山城下の藤阿久陣を引き払い、上野国佐貫(邑楽郡佐貫荘)と下野国足利(足利郡足利荘)の間に布陣しているらしいとの報告を受け、11日、横瀬雅楽助成繁へ宛てて返書を発し、甲・相両軍が藤阿古(久)陣を引き払い、佐貫と足利の間に陣取ったらしく、注進状ならびに条目を基にした使者の口述により、逐一納得できたこと、注進状の通り、館林(上野国邑楽郡佐貫荘の館林城)と足利(下野国足利城)の防備は重要であること、幸いにもその地(金山)は余力が生じたはずであるから、必ず両地の支援に回り、頑強に奮闘するのが第一であること、これまで何度も申し届けた通り、今度こそ甲・相両軍と決戦を遂げる覚悟であること、そういうわけで、軽々に馬を進めはしないこと、この決意を八幡大菩薩の名に掛けて約束すること、なお、詳細は彼の使者が口上すること、これらを恐れ謹んで伝えた。さらに追伸として、来る15日に馬を進めること、それをしっかり心得ておくのが第一であることを伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』372号「横瀬雅楽助殿」宛上杉「輝虎」書状【花押a3】)。

関東味方中の足利(館林)長尾但馬守景長(上野国館林城主)が、野州足利・飯塚に在陣する相・甲連合軍の様子を知らせてきただけで、近年にない大規模な軍事作戦を催すと発令しているにもかかわらず、口内の病を理由に合流してこないため、14日、長尾但馬守景長へ宛てて返書を発し、敵陣ならびに足利・飯塚の様子について、代官をもって注進された報告の内容は、方々から寄せられた情報の内容と一致していること、よって、近頃はひどい口熱によって舌が回らないとの連絡を差し越され、何はさておき心配していること、このたびの儀については、近年になかったほどの大規模な戦陣を催すつもりなので、たとえ乗物などを使ってでも馳せ来たり、短期間であっても爰元にしっかりと在陣してところに、病中で大変ではあっても、ぞんざいにも無沙汰をするのであれば愉快ではないこと、そもそも皆々が憲政(山内上杉氏。輝虎の養父)の御前をしっかりと守り立ててこなかったゆえに、彼の御進退は御牢籠の憂き目に遭われたのであり、それに伴う皆々の滅亡の寸前に、にわかに輝虎が関東越山して皆々の窮状を救うと、どうしたわけか関東を取り仕切る身となったので、今では関東から憂いを取り去ったこと、それでもなお分別を弁えずに参陣しないのであれば、見下げ果てた振舞いであること、万一にも輝虎に対して折り合いのつかないほどの不満があるのならば、きっぱりと陣営から離脱するべきであること、但馬守(長尾景長)については、(景長)自身も分かっている通り、何事にも消極的で頼りにならないこと、左衛門尉(白井長尾憲景。上野国白井城主)は未だに若輩の身であること、(景長の)系譜や経験、そして能力からして、(長尾憲景を)招き寄せて指南するべき立場であること、または、皆々に奮闘してもらうため、ますます手広く参陣を呼び掛けているところに、拒否や怠慢を決込むつもりなのか、はなはだ頼りないこと、佐竹金吾(佐竹右京大夫義昭。常陸国太田城主)は思いもかけない厳しい病に罹りながらも、駕籠に乗って敵中を凌ぎ遠路を進軍しており、やがて到着して奮闘されるであろうこと、太田美濃守(岩付太田資正)は敵領と接する自領の維持に多忙を極めながらも、すでに味方の誼をもって駆けつけ、ひときわ奮励していること、当方(山内上杉家)宿老中としての節義を全うするのか、それとも節義に反するのか、もしも後者を選ぶのであれば、其方(長尾景長)は他者から、たまたま残ったに過ぎない名族であるにもかかわらず、自分では功名を挙げたつもりでいる人物という厳しい評価を受けるのは必至であり、これがひとえに当家滅却の基となるのか、輝虎が不遇の生涯を送るのか、いずれの憂き目に遭うのかは分からないが、このふたつに勝る凶事はないであろうこと、こうした一切合切を弁えて態度を決めるべきこと、これらを謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』373号「長尾但馬守殿」宛上杉「輝虎」書状写)。

19日、関東味方中の房州里見正五(岱叟院。権七郎義堯)・同義弘(太郎)父子らとの盟約を重んじて参陣を待ち続けたが、これ以上は時間を空費できないので、仕方なく現状の人数で甲・相連合軍と一戦するため、上野国沼田城から同厩橋城(群馬郡)へと進み、翌日の夜明けとともに、甲・相連合軍の陣所を強襲する準備を整えていたところ、またもや甲・相連合軍に計画が漏洩しており、相州北条氏康は武蔵国松山城(比企郡)へ、甲州武田信玄は西上野へと、夜中のうちに逃げ去られてしまった。

27日、度重なる参陣の呼び掛けにも応答のない里見入道正五・同太郎義弘父子へ宛てて、最後通告として自筆の書状を発し、旧冬から繰り返し申し上げているにもかかわらず、ついに返事を寄越されなかったこと、心もとない成り行きであること、いったい甲・南両敵の出張により、先月20日に味方中から利根川を渡るように求められたので、とりもなおさず両敵に立ち向かって興廃を決するつもりでいたところ、関東味方中は多忙を極めているとして参陣しないこと、取り分け其元(里見父子)とは遠境に隔たれているとはいえ、旧代から唯一無二の親交を結び、ことさら先年には小田原・鎌倉の地で対面し、格別な盟約を取り交わしており、当口へ御着陣される以前に一戦を遂げてしまっては、不平不満を言い立てられるに違いないとの思いから、ひたすら自制に努めて約束を守ったにもかかわらず、一向に御着陣されないので、もはやこれ以上の猶予はなく、興亡の一戦を遂げるため、去る19日に厩橋の地まで馬を進め、翌日の明け方を期して一戦の準備を進めていたところ、内応者が両敵に通報したようで、その夜中に両敵は退散してしまったこと、申し交わしたはずの筋目を黙殺されてしまったので、虜囚同前の凶徒を取り逃がし、無念極まりないこと、しかしながら両敵は、いかなる輝虎の作戦行動にも対応できるように、氏康(相州北条氏康)は松山(武蔵国比企郡)に在城し、晴信(甲州武田信玄)は西上州に張陣していること、そういうわけで、これから二、三の戦陣を催すつもりなので、昼夜兼行で着陣し、適切な献策をしてほしいこと、これまで何度も申し伝えているように、その口(里見領)がいくら平穏無事であったとしても、関東全体が不安定では破綻に向かうのは避けられないかもしれないので、賢明な判断をしてほしいこと、先年の久留里(上総国望陀郡)での御籠城による難儀の折、自賛ながら輝虎が図らずも関東の沖中まで進撃して、敵中で意を介さずに悠然と越年し、ひたすら敵を叩き破ったので、その口の運も開け、結果として両総州の過半に御静謐をもたらしたこと、もはや此方(輝虎)に余勢はないとの不安を感じているのかも知れないが、遠国に住みながらも関東に平穏をもたらす約束を、一旦引き受けたからには、遠征の労苦を厭わず、戦勝を挙げるために励んでおり、たとえ版図を拡がらないとしても、どうして取り交わされた盟約を反故にしたりするであろうか、ましてや先祖の善行によってもたらされた福運と領国が富饒であるうえに、どのような不足があって、あるいは関東経略の大局を見失い、あるいは氏康に対する年来の御遺恨を忘れ、ひたすら良しとして、南敵(北条軍)を根切にして枝葉を断つのを励むのは、この時に極まること、彼我で関左の安寧を勝ち取る機会を捉えるのが肝心であること、ただし、道理を斟酌せずに、このまま当方の要請にも無関係を装って、里見家の合戦における優れた技量、歴代の輝かしい名誉を、いくらなんでも失ってはならないこと、御心腹が今のままであるのならば、全ての言葉を閉ざし、重ねて染筆には及ばないこと、これらを恐れ謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』375号「里見入道殿・同太郎殿」宛上杉「輝虎」書状写)。

同日、常陸国小田城(筑波郡)の攻略を要請してきた関東味方中の佐竹右京大夫義昭(常陸国太田城主)へ宛てて書状を発し、去る19日に厩橋城へと進陣したので、早速にも小田口へ進陣するべきところ、西上野の味方中から、東方衆との小田攻めの盟約については、彼の衆と連絡を取り合って準備万端を整えられた以上、ほとんど落着したのも同前であるとして、上野国和田城(群馬郡)の攻略を懇望されたことから、まずは27日に和田城を攻めることを申し伝えた
(『群馬県史 資料編7』2214号 佐竹義昭書状写)


※ 結局は常州小田城・野州唐沢山城攻略の後回しにされた可能性がある。


これから間もなくして、房州里見父子が武蔵国青戸の葛西城(葛飾郡)を攻撃すると、相州北条方から離反した江戸太田新六郎康資が合流している(『戦国遺文 後北条氏編一』835号 北条氏康書状写)。



永禄7年(1564)正月2月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼) 【35歳】


正月3日、関東味方中の佐竹義昭が、早くから越軍に合流している味方中の簗田中務大輔晴助(下総国関宿城主)へ宛てて書状を発し、それ以来は取り立てて知らせるような事態が起こらなかったので、思いのほか無沙汰をしてしまったこと、されば、先月19日に輝虎が厩橋(上野国群馬郡)に着城したこと、これにより、早速にも小田口(常陸国筑波郡方面)へ進陣されるようにと、様々に道理を説いたからには、もはや落着したのも同前であること、ただし、(輝虎は)西上野の面々からも頻りに懇願されているので、同じく27日に利根川を渡って和田(上野国群馬郡)の地へ攻め込まれるそうであること、先ずは仕方ない事情であり、受け入れざるを得ないこと、(簗田晴助から輝虎へ)言うまでもなく誓約の筋目に従われ、彼の地(和田城)が落着したあかつきには、早急に小田へ攻め寄せられるように、それとなく念を押してもらうしかないこと、なおいっそう爰元で奮励するつもりであり、(輝虎へ状況を報告するため)重ねて使者として小貫佐渡守(頼安。譜代衆)を(越陣へ)向かわせること、万事については後便を期すること、これらを恐れ謹んで伝えている(『群馬県史 資料編7』2214号「簗田中務大輔殿」宛佐竹「義昭」書状写)。

この佐竹右京大夫義昭との盟約に従い、中旬から下旬にかけて相州北条方の常州小田城攻略戦を開始する。


常・総・野州の味方中は、佐竹軍が常陸国土浦(信太郡信太荘)近辺の真鍋台に陣所を構え、結城(左衛門督晴朝。下総国結城城主)・山川(中務大輔氏重。結城一家。同山川城主)・水谷(兵部大輔政村・弥五郎政久兄弟。結城一家。下野国久下田城主・常陸国下館城主)の軍勢は、小田城の救援に駆けつけた多賀谷(修理亮政経。号祥聯。常陸国下妻城主)に対向し、小山(弾正大弼秀綱。号良舜。下野国祇園城主)・宇都宮(弥三郎広綱。同宇都宮城主)・座禅院(同日光山座禅院。院主は相州北条方の下野国衆・壬生氏から出ている)の軍勢は、同じく壬生(下総守綱雄あるいは息子と思われる彦次郎氏勝か。同壬生城主)・皆川(山城守俊宗。同皆川城主)に対向し、敵方の小田勢は、土浦に菅谷摂津守(摂津入道全久。政貞。常陸国土浦城主)、木田余に信太伊勢守(同木田余城主)、戸崎に菅谷次郎左衛門尉(同戸崎城主)、宍倉に菅谷右馬允(同宍倉城主)、谷田部に岡見弾正忠(治資。同谷田部城主)、東林寺に近藤治部(東林寺城か。岡見治資の配下)、牛久に岡見山城守(常陸国牛久城主)、豊田に菅谷左衛門尉(同豊田城主)、土岐に土岐大膳大夫(治英。同江戸崎城主)が、それぞれ拠点を構えていた(『上越市史 上杉氏文書集一』480号 小田氏治味方地利覚書)。


※ 小田氏治味方地利覚書については、荒川善夫氏の論考である「戦国時代常陸東林寺の動向について」(『栃木県立文書館研究紀要』第11号)を参考にした。


正月21日、陣中において、佩刀備前長船兼光の刀身を三寸詰める(『越佐史料 巻四』上杉神社所蔵上杉輝虎佩刀刻印)。

27日、陣中において、夢想に歌句を得ると、帯同した連歌師の覚翁が脇句を付けている(『上越市史 上杉氏文書集一』377号 御夢想連句写)。

29日、常陸国小田城主の小田太郎氏治が宿老の菅谷摂津入道全久(政貞。譜代衆)の居城である常陸国土浦城へ逃走すると、残党一千余名を討ち取り、その日のうちに小田方の三十余ヶ所の領主が恭順してきたので、それぞれから証人を取って赦免した(『上越市史 上杉氏文書集一』429号 上杉輝虎書状写)。


戦後処理にあたるなか、常陸国黒子(河内郡下妻荘)の千妙寺と同小茎(同郡)の東林寺から制札の発給を懇願されると、2月5日、横瀬雅楽助成繁(上野国金山城主)・北条丹後守高広(譜代衆。同厩橋城代)・河田豊前守長親(大身の旗本衆。同沼田城代)のそれぞれが千妙寺に制札を掲げ、越後・関東の諸軍勢の濫妨狼藉を停止し、もしも違犯する徒輩がいれば、誰彼構わず罪科に処することを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』381号 横瀬「雅楽助成繁」制札、380号 北条「丹後守」高広制札、379号 河田「豊前守」長親制札)。

7日、年寄の柿崎和泉守景家(譜代衆)が、越陣に使者を寄越してきた東林寺へ宛てて返書を発し、尊書を謹んで拝読したこと、このたび屋形(輝虎)が当口(常陸国筑波郡方面)へ進発したところ、(小田)氏治を追い払われ、残党千余人を討ち取られたこと、これにより、近荘の城塞に拠る諸士は降伏を懇望してきたので、それぞれから証人を差し出させて赦免されたこと、従って、先頃に示された貴意については、すぐさま河田豊前守(長親)が御披露に及び、(輝虎が)直報を調えられので、これを託された御使僧は帰られたこと、真から御満足してもらえるであろうこと、もしも上口に相応の御用があれば、快く引き受けさせてもらうので、御遠慮なく申し付けられてほしこと、よろしく尊意を得たいこと、これらを恐れ畏んで伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』382号「東林寺 衣鉢閣下」宛「柿崎和泉守景家」書状)。


8日、東林寺へ宛てて初信となる書状を発し、これまで言達に及ばずにいたところ、尊札、ことさら祝語を給わったこと、拝読して、稀有にめでたく恐れ入り、輝虎美徳の姿勢を褒められ、むしろ戸惑っていること、とにかく当口張陣中に、あれやこれや申し述べること、これらを恐れ畏んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』383号「東林寺 衣鉢閣下」宛上杉「輝虎」書状【花押a3】)。


9日、佐竹義昭、河田豊前守長親のそれぞれが、東林寺に制札を掲げ、越後・関東の諸軍勢の濫妨狼藉を停止し、もしも違犯する徒輩がいれば、誰彼構わず罪科に処することを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』385号 横瀬成繁判物、384号河田「豊前守」長親制札【黒印・印文「調量富」ヵ】)。

同日、横瀬雅楽助成繁が、東林寺へ宛てて証状を発し、御寺領小茎郷に掲げる(佐竹)義昭御制札と(越後国上杉家の)旗本の奉行である河田豊前守(長親)の制札が発給されるので、諸軍勢の違乱がないことを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』385号「東林寺 衣鉢閣下」宛横瀬「雅楽助成繁」判物 端見返しウハ書「 横瀬」)。


この頃、越府の防衛に不安を感じ、姉婿の上田長尾越前守政景(越後国坂戸城主)を帰国させ、政景の長男である長尾時宗丸を残して上田衆を二分した(『上越市史 上杉氏文書集一』336号 関屋政朝書状、396号 上杉輝虎書状)。


その後、下野国佐野の唐沢山城(安蘇郡佐野荘)に攻め寄せると、17日、強攻して険難な要害の外郭を破壊したところで、城主の佐野小太郎昌綱が降伏を嘆願してきたが、しばらく回答を保留する(『上越市史 上杉氏文書集一』429号 上杉輝虎書状写)。


同日、色部修理進勝長(外様衆。越後国瀬波(岩船)郡の平林(加護山)城主)に感状を与え、このたび佐野の地を攻め破った折、其方(色部勝長)の被官のうちに、戦死者と負傷者をいずれも二名づつ出しながらも奮戦したのは、目覚しい殊勲であることと、今後ますます心掛けて奮闘するのが肝心であることを申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』386号「色部修理進殿」宛上杉「輝虎」感状【花押a3】)。

同日、斎藤下野守朝信(譜代衆。越後国刈羽郡の赤田城主)に感状を与え、このたび佐野の地を攻め破った折、(斎藤朝信)被官のうちに、戦死者の吉岡某、負傷者の宇木縫殿右衛門尉・大津藤六・蓮池弥八郎・犬貝源次郎・椎橋某・宇木孫兵衛尉、又被官のうちに、負傷者の中村源五郎・中条源介、中間のうちに、負傷者の二郎五郎を出しながらも奮戦したのは、目覚しい殊勲であることと、今後ますます心掛けて奮闘するのが肝心であることを申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』388号「斎藤下野守殿」宛上杉「輝虎」感状【花押a3】 封紙ウハ書「斎藤下野守殿 輝虎」)。

同日、上田長尾越前守政景の代行者である長尾時宗丸に感状を与え、このたび佐野の地を攻め破った折、上田衆の黒金新右兵衛尉・登坂弥八郎・大平源三(負傷)・田村与左衛門尉・登坂新七郎・小河源左衛門尉・同新四郎・甘糟惣七郎(負傷)・笠原源次郎・熊木弥介・三本又四郎・同彦次郎・尾山市介・樋口又三郎・浅間将監・内田文三・甘糟新五郎・桐沢惣次郎・上村玄蕃亮・中条玄蕃亮(允)・椿喜介・浅間次郎三郎・大平木工助・中野神左衛門尉・諸橋孫九郎・蔵田十右衛門尉・星神介・大平雅楽助・大橋与三左衛門尉・丸山与五郎・土橋三介(負傷)・下平弥七郎・登坂弥七郎・同与七郎・同彦五郎・吉田弥兵衛尉・西片(方)半七郎・(負傷)・豊野又三郎(負傷)・樋口帯刀左衛門尉(負傷)・目崎又三郎(負傷)・登坂半介弟(負傷)・千喜良彦次郎(負傷)、長尾伊勢守被官の高橋惣右衛門尉(負傷)、甘糟被官の市場小六郎、古藤中間の新三郎、黒金新右兵衛尉被官の玉田弥七(負傷)、丸山弥五郎(戦死)・篠尾与一・佐藤弥左衛門尉・宮島惣三、それぞれの奮戦は、目覚ましい殊勲であること、改めて帰府したのち、この通りに各々を褒め称えること、今後ますます心掛けて奮闘するのが肝心であること、これらを申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』389号「長尾時宗」宛上杉「輝虎」感状【花押a3】)。

同日、楠川左京亮将綱(旗本衆)に感状を与え、このたび佐野の地を攻め破った折、奮戦したのは目覚しい殊勲であることと、今後ますます心掛けるべきことを申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』391号「楠川左京亮殿」宛上杉「輝虎」感状写)。

同日、別して上田衆の栗林次郎左衛門尉房頼(上田長尾氏の年寄衆)に感状を与え、このたび佐野の地を攻め破った折、奮戦したのは目覚しい殊勲であることと、今後ますます心掛けるべきことを申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』387号「栗林次郎左衛門尉とのへ」宛上杉輝虎感状【署名はなく、花押a3のみを据える】)。

同日、同じく宮嶋惣三に感状を与え、このたび佐野の地を攻め破った折、奮戦して首級を挙げたのは目覚しい殊勲であること、今後ますます心掛けるべきことを申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』390号「宮嶋惣三とのへ」宛上杉輝虎感状写【署名はなく、花押のみを据える】)。


その後、28日頃に関東味方中の佐竹右京大夫義昭と宇都宮弥三郎広綱の取り成しにより、多数の証人を提出させて佐野小太郎昌綱を赦免した(『上越市史 上杉氏文書集一』429号 上杉輝虎書状写)。



これより前、佐野昌綱は、27日、佐野領内の地衆である鍋山衆の小曽戸長門守泰忠(下野国鍋山城主)へ宛てて書状を発し、このたびその地へ越衆が攻めかかったこと、すぐにも加勢を向かわせるべきであったが、領内に攻め込んできた越衆は大軍であり、手前(同唐沢山城)の防備も固めなければならないばかりか、部隊を往復させる手立てがなかったので、ひたすら心配していたところ、諸口において敵兵を五十余人を討ち取り、負傷者を続出させたこと、まさに並外れた忠信の手柄であること、されば、(佐竹)義昭と(宇都宮)広綱の提案に従い、輝虎と和談するつもりであり、(鍋山衆へ)安倍主計助をもって成り行きを申し伝えること、佐竹・宇都宮両家の催促されているため、明28日には大貫左衛門尉の一勢を彼の陣中へ向かわせること、これらを恐れ謹んで伝えている(『栃木県史 資料編 中世』【島津文書】9号「小曽戸長門守殿」宛佐野「昌綱」書状写)。



こうしたなか、総州に在陣する関東味方中の房州里見父子・太田新六郎康資(江戸太田氏。これ以前は相州北条氏に属していた)の軍勢に、武蔵国岩付城(埼玉郡)から出撃した岩付太田美濃守資正が合流し、一方の武蔵国松山城(比企郡)に在陣中の相州北条氏康が、相府から増援部隊を召集して総州へ出撃すると、正月8日、両軍は下総国国府台(葛飾郡)で激突している。房総・両太田の連合軍は国府台から十五町の内にいたが、相州北条軍の先手衆を率いる遠山丹波守綱景(北条氏の一家に準ずる。武蔵国江戸城代)は敵勢が後退したとの情報を信じて、国府台の坂を上っていたところに、連合軍がまっしぐらに攻めかかってきたので、先手衆は中腹で総崩れとなり、遠山綱景・同隼人佑父子と江戸衆寄親の富永弥四郎康景(烏帽子親は遠山綱景か)のほか、雑兵五十人ほどが討ち取られてしまった。ちょうどそこへ北条氏政の旗本勢が進んできて、残存の先手衆と合わさり、連合軍に逆襲した。一方、北条氏康の本隊は要害にいたことから、こうした状況を知らなかったが、先衆の情報が伝わると、氏康は後軍を呼び寄せて戦陣を整え、決戦する覚悟を決めて国府台から三里ほど下ったところ、連合軍もそれに反応して向かっていったので、酉の刻(午後6時前後)に合戦となったが、連合軍はあっけなく敗れて、里見父子は同名の民部少輔実房・兵部少輔、重臣の小田喜正木平七信茂(上総国小田喜城主)・同弾正左衛門尉・薦野神五郎時盛・加藤、外様の長南・多賀蔵人をはじめとして二千人が打ち取られてしまった。辛くも両太田とも里見軍と房総へ逃れることができたが、太田美濃守資正は自身が深手を負い、同名の下野守・重臣の恒岡・埴谷などを失っている。


※ これまで正月7・8日の二日にわたって行われたとされてきた武蔵国国府台の戦いであったが、黒田基樹氏の著書である2021年に発刊された『戦国関東覇権史 ー北条氏康の家臣団』(角川ソフィア文庫)の「第四章 氏政兄弟衆の台頭 国府台合戦の衝撃」では、「小田原北条氏文書補遺」(『小田原市郷土文化館研究報告』42・50号)所収の131号文書により、8日の一日で決着のついた戦いとして示されたので、こちらを参考にして記事の内容を改めた。ところが、2022年に発刊された滝川恒昭氏の著書である『人物叢書 里見義堯』(吉川弘文館)の「第七 第二次国府台合戦 三 国府台の激闘」によると、同文書について、その内容を詳細に検討する限り、疑問点や不審なところがあり、今の段階では基本史料になるとは断じえない、とのことであるから、合戦は二日にわたって行われ、北条方の遠山綱景父子・富永康景の戦死は7日であった可能性も残る。



◆『越佐史料 巻四』(名著出版)
◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『群馬県史 資料編7 中世3(編年史料2)』(群馬県)
◆『栃木県史 資料編 中世3』【広島県 島津文書】(栃木県)
◆『戦国遺文 後北条氏編 第一巻』(東京堂出版)

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越後国上杉輝虎(謙信)の年代記 【永禄6年7月~同年12月】

2012-09-17 19:06:08 | 上杉輝虎の年代記

永禄6年(1563)7月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼)【34歳】


18日、越後国柏崎(刈羽郡比角荘)の飯塚八幡宮別当の極楽寺や出雲崎(山東(西古志)郡)の高名山薬師寺などの寺社に願文を納め、自身のこれまでの越後・信州・関東における戦績を誇示し、相州北条氏康と甲州武田信玄の関東・信州における神社仏閣の破壊などの放埓を断罪して両人の没身調伏を依頼するとともに、分国中の豊饒と安寧、自身の武運長久を希求した(『上越市史 上杉氏文書集一』344号「八幡 極楽寺一如阿闍梨江 参」宛「藤原輝虎」願文【花押a3】、345号「高名山薬師寺」宛「藤原輝虎」願文写)。


※ 上杉輝虎の願文については、木村康裕氏の論考である「上杉謙信の願文」(『新潟県立歴史博物館研究紀要』第五号)に尽きる。



この間、甲州武田信玄(徳栄軒)は、相州北条氏康との盟約に従って加勢のための出陣を控えるなか、22日、取次の甘利昌忠(左衛門尉。譜代家老衆)が、西上野先方衆の浦野中務少輔(上野国大戸城主)の弟である浦野新八郎へ宛てて返書を発し、仰せの通り先日に初めて御参府された折、御屋形(武田信玄)は寸暇を得られず、十分に御対話できなかったのは、不本意であること、それゆえ当方から内々に音信を通ずるべきところ、忙しさに取り紛れて無沙汰してしまい、ひとえに口惜しいこと、このたび御舎兄(浦野中務少輔)から越国の様子を御注進があり、その的確な情報を残らず聞き届けたこと、なおも情報を収集されて、御精を入れられて御注進に及ばれるべきこと、今川殿(氏真)が駿・遠両国の衆を率いられて、来る26日に氏康への加勢として御出陣されること、御屋形様も近日中に出陣すること、このように当秋は三国が一致して敵に立ち向かうので、本意を達するのは疑いないこと、御注進の詳細については御陣中で承ること、これらを恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文 武田氏編一』829号「浦野新八郎殿 御報」宛「甘利 昌忠」書状写)。



永禄6年(1563)8月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼)【34歳】


3日、このたび直臣の列に加えた、客分の信濃衆・高梨氏の族臣である岩井大和守(実名は能歳か)に朱印状を与え、当国での暮らし向きに必要な堪忍分(生活費)として、下条宮内少輔分と念仏寺領内の知行地を宛行うことを申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』346号「岩井太和守殿」宛上杉輝虎朱印状【署名はなく、朱印(印文「円量」)のみを捺す】。


比叡山延暦寺の別舎である正覚房が、武田晴信(信玄)と伊勢新九郎(北条氏康)の依頼を受けて自分を調伏しているとの情報を知り、比叡山に花蔵院(円誉。越後国分寺の僧侶)を派遣して詰問すると、18日、これに驚愕した正覚房重盛から、越後国上杉家の年寄中へ宛てて弁明のための書状(謹上書)が発せられ、このほど武運長久の御祈祷として、延暦寺根本中堂において七千夜叉(薬師如来の守護神十二神将の眷属)を供に勤行したこと、その巻数と守札ならびに扇と杉原紙を進上すること、今後ますます御祈念に疎意なく励むこと、なお、詳細は河田豊前守(実名は長親)が申し上げられること、これらを恐れ畏んで伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』348号「謹上 上杉殿 人々御中」宛正覚房「重盛」書状)。

同日、正覚房重盛から、年寄衆の直江大和守実綱・河田豊前守長親(上野国沼田城代)へ宛てて書状が発せられ、このたび御使僧の花蔵院をもって、武田晴信(徳栄軒信玄)と伊勢新九郎(北条左京大夫氏康)の依頼を受けた当房が輝虎を調伏しているとの実態を詰問されたので、はなはだ驚いていること、全くの事実無根なので、起請文を提出して潔白を誓うこと、先師空運の代には、(武田)晴信から調伏を依頼されはしたものの、当山では調伏の依頼を受け付けてはいないので謝絶し、彼の願書を捨てて反故にしたこと、先師も貴国をないがしろにした事実はないはずであり、取り分け愚僧は道七(長尾信濃守為景。絞竹庵張恕。輝虎の亡父)以来の貴国との契約により、懈怠なく朝夕の祈念に励んでいること、このたびの疑念については、とても困惑しており、貴国を軽んじていない心根を理解してもらうためにも、(武田)晴信の依頼を謝絶した証拠となる文書を探し出して送付すること、この一件については、信州に存在する当房の末寺が信玄の報復を受ける懸念もあるので、公にはしないでほしいこと、三院各室の重職からの書簡を送付すること、本堂、取り分け当房においては、御屋形(輝虎)の武運長久祈願を懈怠なく勤行すること、以上の趣旨をよしなに御披露してほしいこと、委細は花蔵院が演説すること、これらを恐れ謹んで伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』349号「直江大和守殿・河田豊前守殿」宛正覚房「重盛」書状)。

27日、正覚房重盛から、越後国上杉家の年寄中へ宛てて書状が発せられ、このたび尊書を拝読し、全てをなげうって厳祈に励むべきとの仰せを心得たこと、力の及ぶ限り勤行すること、不断護摩の巻数を進上すること、朝経暮呪の修行を怠りなく励み、御運長久を丹誠込めて御祈念し、決して二心を抱かないこと、なお、詳細は当房法印ならびに花蔵院が申し述べられること、これらを恐れ謹んで伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』350号「謹上 上杉殿 人々御中」宛「山門正覚房 重盛」書状)。

同日、天台座主応胤法親王から、重盛ら三院大衆に対し、関東管領上杉輝虎の武運長久を祈願するように令旨が下されている(『上越市史 上杉氏文書集一』351号「正覚房御房」宛延暦寺座主応胤法親王令旨 奉者庁務「任昭」 封紙ウハ書「正覚房御房 庁務 任昭」)。



この間、相州北条方の常陸国衆である小田氏治(太郎。常陸国小田城主)は、6日、陸奥国白河の白河結城七郎隆綱(結城左京大夫晴綱の世子。陸奥国白河城主)へ宛てて書状を発し、このたび敢えて申し上げること、さて、大関(右衛門佐高増。下野国衆・那須資胤の叔父。上那須衆。下野国白旗城主)がまたしても反逆したのは、どうにもしようがないこと、これにより、(那須修理大夫資胤。下野国烏山城主)に対する御合力のために半途まで打ち出されたのは、すこぶる快然であること、この時機を逃されず彼の口を安定へと導かれるように、(那須)資胤へ御助言を尽くされるべきこと、こうした好機に氏康(相州北条氏康)が荒川を渡られるのは、大きな喜びであること、されば、このたび(北条氏康は)東海道にまで手回しして、今川方(駿州今川氏真)と武田方(甲州武田信玄)の合力を得るところとなり、駿(今川方)と甲(武田方)に越国(越後国上杉陣営)への対処を任せられたうえで、まず氏康父子は荒川を渡って武蔵国岩付(埼玉郡)の地へ攻めかかる手筈を定められ、先月26日に氏康は武蔵国大神(多摩郡)の地まで着陣したところ、増水によって多摩川を渡れず、滞陣を余儀なくされたので、今川方が先月24日に出国し、相府小田原を経て当2日に着陣し、対談しているうちに水が引き、ようやく進陣するそうであること、一方、すでに武田方は西上野へ越山したこと、このように大手(北条氏)の戦陣は万全に整っているからには、貴所(白河結城隆綱)が御本意を達せられるのは疑いないこと、(那須)資胤に対しては、那須上荘内の経略に全力を注ぐように、しっかり御意見を加えられるべきこと、来春はいざ知らず、当年については景虎(輝虎)の関東越山はあり得ないとする見解を、(氏康から)しっかりと聞き届けたので、御安心してほしいこと、これらを恐れ謹んで伝えている(『神奈川県史 資料編3下』7392号「白川殿」宛小田「氏治」書状)。


※『神奈川県史』等は7392号文書を永禄7年に比定しているが、黒田基樹氏の論考である「常陸小田氏の基礎的研究 ―発給文書の検討を中心として―」(『国史学』第166号)に従い、永禄6年の発給文書として引用した。



永禄6年(1563)9月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼)【34歳】


上野国沼田城(利根郡沼田荘)の城代である河田長親(豊前守)が沼田領を整理し、14日、与力の発智右馬允長芳に証状を与え、鹿野村の替地として禅昌寺領内の下大膳亮分と小尾三右衛門尉分を知行するべきことを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』353号「発智右馬允殿」宛河田「長親」宛行状写)。

28日、年寄衆の一員である下田長尾藤景(遠江守。譜代衆。越後国下田(高)城主)が過書を発給して諸領主中に対し、椎名方(越中国味方中の椎名右衛門大夫康胤。越中国松倉城主)より、奥州会津へ馬三疋ならびに十五人を寄越されるので、領国内の諸関・渡し場でわずらわせてはならないことを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』354号「所(諸ヵ)領主中」宛長尾「藤景」過所写)。



永禄6年(1563)10月 上杉輝虎(弾正少弼)【34歳】


11日、京都醍醐寺の僧侶一団が北国下りの途中で越府に立ち寄る。
三週間ほどの滞在中、年寄衆の河田豊前守長親から付けられた長井某の案内で宝積寺や善光寺などに詣でている(『上越市史 資料編3』【第四章】851号 永禄六年北国下り遣足帳)。



永禄6年(1563)11月12月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼)【34歳】


11月8日、年寄の柿崎和泉守景家(譜代衆。越後国頸城郡の柿崎城主)に朱印状を与え、一、山室(刈羽郡柏崎) 長尾土佐守分、一、坂田(同前)の替地として下条治部少輔庶子分、一、内山分、一、源入村(魚沼郡妻有荘)、一、新座村(同前)、この外にも長尾土佐守分があるとはいえども、やむを得ない事情があり、一件落着するまでは、堪えて待っていてほしいこと、取りも直さず土佐守の孫娘に其方(柿崎景家)の息子おひこ丸を申し合わせ、彼の家を相続させるのが肝心であること、これらを申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』356号「柿崎和泉守殿」宛上杉輝虎朱印状【署名はなく、朱印(印文「円量」)のみを捺す】)。


※ 丸島和洋氏の論集である『戦国大名武田氏の権力構造』(思文閣出版)の「第四章 大名間外交と「手筋」ー 越相同盟再考ー 第三節 越相同盟における「手筋と取次」によると、柿崎景家は、越後上杉氏の一門に準じるか、それに近い処遇を受けていた可能性が高いという。



関東味方中の房州里見正五(岱叟院。権七郎義堯)・同義弘(太郎)父子らとの盟約に従い、25日前後に関東へ向けて出馬したが、降雪のために進軍が滞った越後国鯨波(刈羽郡)の地において、先行軍のうちの色部修理進勝長(外様衆。越後国平林城主)と平賀左京亮重資(同前。同護摩堂城主)の間に起こった小旗の使用を巡る相論を裁定することになる。これに伴って輝虎の意を受けた河田豊前守長親が12月中に鯨波の地に制札を掲げ、当地域での諸軍勢による竹木の伐採を堅く禁じている(『新潟県史 資料編5』4387号 上杉氏制札写(奉者河田「豊前守」長親 )●『上越市史 上杉氏文書集一』368号 上杉氏制札写)。

28日、色部勝長(修理進)が、取次の河田豊前守長親へ宛てて書状を発し、あらためて申し達すること、よって、このたびも御用を無心に励むつもりであるとはいえども、嘆願したい諸事情があるので、時節を弁えずに申し上げたこと、昨年に大江方(北条毛利氏か)が拙者(色部勝長)の使用する小旗の紋所の図柄を真似たので、訴訟を起こしたところ、御裁定によって(色部勝長が)勝訴し、面目も権利も保たれたので、ひたすら恐悦していること、そうしたところに、今度は平賀方が小旗紋の図柄を真似たので、先だって貴所(河田長親)に周旋を頼むべく、事情を筋立てて説明したこと、その首尾が整わなかったのは遺憾であること、こうなったからには裁定の場に上程されるように取り計らってもらいたく、つまりは(河田長親の)御力添えに掛かっていること、存分の委細については三潴(出羽守長政。大身の旗本衆。越後国中目城主)が申し分けられるので、要略したこと、これらを恐れ謹んで伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』359号「豊州江」宛色部勝長書状案)。

12月3日、平賀左京亮重資が、河田長親へ宛てて書状を発し、このたび寄せられた御懇札を拝読し、恐縮していること、拙者(平賀重資)が使用している小旗の鷹の羽紋について、色部方が愁訴されたようであり、彼の小旗紋の図柄は、色修(色部勝長)の小旗紋とは似ても似つかないこと、御条理を説かれるのであれば、もれなく謹んで耳を傾けること、しかしながら、すでに拙者の小旗は斎藤殿(年寄の斎藤下野守朝信。譜代衆。越後国赤田城主)に御預けしており、内々に反訴を申し立てる覚悟でいたとはいえども、拙者(平賀)は不肖の身であるため、時節を弁えて是非を唱えるつもりはないこと、御意をもって小旗の使用を止めて下されば、拙者には両方の図柄は似ても似つかないと思えるとはいえども、御意には従わざるを得ないこと、詳細については、改めて詳らかにするつもりはないこと、これらを恐れ謹んで伝えている。さらに追伸として、小旗の鷹の羽紋について、色部方が愁訴されたようであり、こちらからすれば微塵も似ていないとの思いは、本札で申し入れた通りであること、御意をもって拙者(平賀重資)の紋の使用を停止されるのであれば、どのようにでもその時は御意に従うつもりであること、彼の鷹の羽紋については、不肖ながら当家が代々にわたって使用してきた図柄であるため、このようにくどくどしく申し達したこと、およそ拙者(平賀)についても(隣荘の)村松(山城守。外様衆。越後国村松城主か)と同前に御忠節を尽くすつもりなので、今後は彼の者と同様に御用を仰せ付けてもらえれば、畏み入ることを伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』360号 河田長親宛平賀「重資」書状写 礼紙ウハ書「豊州 参御報 平賀左京亮 重資」)。

8日、河田長親が、平賀助四郎(重資は左京亮を通称しているが、あえて仮名書きしたようである)へ宛てて書状を発し、取り急ぎ申し入れること、よって、小旗の一件については、以前に申し伝えたように、色部方の紋は特別な理由により、 屋形様(輝虎)から下された紋であること、しかしながら、貴所(平賀)の御小旗を斎藤方の家中が差し押さえたと承っており、それが事実であれば、兼ねてから説いている条理に従われるべきであること、今この時に色修(色部勝長)と相論するのは好ましくないこと、色部方の御奏者は拙夫(河田長親)が務め、貴所(平賀)には村松山城守方が仲裁人を務められているので、どちらも放ってはおけず申し述べたこと、早速にも小旗の使用を止められるのが尤もであること、この一件については(平賀重資にとっての)悪事は申し入れないので、よくよく分別を弁えられるべきこと、これらを恐れ謹んで伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』361号「平賀助四郎殿 御陣所」宛「河田 長親」書状写)。

9日、三潴長政が、色部勝長へ宛てて書状を発し、平賀方からの返札を御披見のために送付すること、小旗の一件に関する書状なので、爰元にて内見致したところ、(平賀重資は)これまでの主張を変えられてはいないこと、このようであるからにはあらゆる手段を尽くされて、しっかりと条理を説かれるべきであり、貴所(色部勝長)の熱意に掛かっていること、この一件に関与している宗隣軒(河田窓隣軒喜楽。大身の旗本衆。信濃国出身の河田氏であろう)に対しても、これらを(色部勝長から)仰せ届けられてもらえるように伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』362号 三潴長政書状案)。

13日、河田豊前守長親が、色部修理進勝長へ宛てて返書を発し、このたび平賀方へ取り急ぎ使者をもって条理を説いたところ、(平賀重資は)承服されて、小旗の使用を止めるそうであること、(色部勝長の)面目も権利も保たれたので、御本望であろうこと、詳しい内容については、御使者の口才に任せること、早々に申し上げたこと、これらを恐れ謹んで伝えている『上越市史 上杉氏文書集一』363号「色修 御報」宛「河豊 長親」書状写 封紙ウハ書「色修 御報 河豊」)。

同日、河田窓隣軒喜楽が、色部勝長へ宛てて返書を発し、繰り返し仰せ越されたので、豊前守(河田長親)の所より取り急ぎ使者をもって平助(平賀重資)へ条理を説いたところ、(平賀重資は)聞き届けられて、小旗の使用を止められるそうであること、さぞかし御満足であろうこと、詳しい内容については、御使者が筋立てて口述されるので、この紙面は要略したこと、これらを恐れ謹んで伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』364号「色部殿 参御報」宛河田「窓隣軒喜楽」書状写)。

同日、三潴出羽守長政が、色部修理進勝長へ宛てて書状を発し、御小旗の一件について、色々と尽力したこと、河豊(河田長親)の所より悴者をもって、(平賀重資に)条理を説いたところ、(平賀が)小旗の使用を止めるとの意思を伝えてきたので、我々までも満足極まりないこと、これによって河豊が整えた証文を御使者へ渡したこと、さぞかし御満足であろうこと、当陣の様子は新九郎方へ詳報すること、近日中に御馬が進むので、御目に掛かった際に一切合切を申し達するつもりであること、これらを恐れ謹んで伝えている。さらに追伸として、返す返すも、御小旗の一件は(色部勝長の)御希望通りに決着したので、自分にとっても満足極まりないことを伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』365号「色修 参御報」宛「三出 長政」書状写)。


この頃、上野国厩橋城(群馬郡)の城代である北条丹後守高広から、甲州武田軍が同倉賀野城(同前)を攻撃しているとの情報が寄せられ、昼夜を分かたず進軍して上・越国境の越後国浅貝(魚沼郡上田荘)の地に着陣すると、21日、房州里見正五(岱叟院。権七郎義堯)へ宛てて書状を発し、取り急ぎ申し上げること、よって、先般の盟約に従い、先月下旬に急いで出馬したこと、しかしながら、降雪の時分なので中途で滞陣し、大幅に国境を越えるのが遅れていたところ、北条丹後守(実名は高広)から晴信(甲州武田信玄)が西上野の倉賀野城を攻撃するとの急報が届いたこと、幸いにも降雪が止み、すでに半途まで進軍しており、昼夜兼行で当地浅貝に着陣したこと、氏康(相州北条氏康)も武田軍に合流してくるので、今度こそ甲・相両軍と興亡の一戦を遂げて決着をつけるつもりであり、何を差し置いても相応の御人数を引き連れ、太田美濃守(岩付太田資正。武蔵国岩付城主)と合流して武州口から参戦されるのが肝心であること、これらを恐れ謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』366号「里見入道」宛上杉「輝虎」書状【花押a】)。


22日、関東味方中の佐竹右京大夫義昭(常陸国太田城主)の族臣である石神小野崎三郎(又三郎政通のことか。山尾小野崎氏の庶族)へ宛てて自筆の感状を発し、この春の野州小山陣において、結城(左衛門督晴朝。小山秀綱の実弟。下総国結城城主)の家中である多賀谷民部少輔を討ち取られたのは、並外れた殊勲であること、この事実を当時は知らず、その殊勲を称えていなかったところ、このほど伝聞によって知り得たので、遅れ馳せながら一筆を認めたこと、今後ますますの奮闘が肝心であること、これらを恐れ謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』476号「小野崎三郎殿」宛上杉「輝虎」書状写)。


同日、関東味方中の佐竹義昭(常陸国太田城主)が、岱叟院(里見正五。権七郎義堯)へ宛てて書状を発し、このたび貴方に使者をもって、輝虎が関東に出陣して常陸国小田(筑波郡)の地を攻める件についての報告をすること、すでに輝虎は上・越国境の越後国上田荘(魚沼郡)に到達されており、ひたすら本望であること、ようやく上野国厩橋に着城されるであろうこと、また、このたび輝虎に代官をもって、小田口へ急行されるように申し入れたこと、輝虎から一報が寄せられ次第に報告するので、盟約通りに小田へ出向かれて、戦陣の万端についての評議に臨まれて切盛りされるならば、当方においても本望満足であること、当方による下野国那須口の戦陣については、きっと聞き及んでいると思われるが、二度に亘る攻撃で十分な成果を得たこと、数ヶ所の敵城を手に入れた際の様子については、正木左近太夫(勝浦正木時忠。房州里見家の宿老。上総国勝浦城主)から詳説されること、その口の様子が伝わってこないため、詳細を知らせてほしいこと、これらを恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文 房総編二』1116号「岱叟院」宛佐竹「義昭」書状)。


24日、関東味方中の富岡主税助(上野国小泉城主)へ宛てて書状を発し、このたび(越後国上田に)着庄したのに伴い、今後の打ち合わせのため、早々に代官を寄越してくれたばかりか、鰍を贈ってくれたので、喜びもひとしおであること、関東越山を急がなければならないところ、深雪のために遅滞していること、味方中が協力して甲・相両軍を引き付けておくべきこと、詳細は河田豊前守(長親)が紙面で伝えること、これらを恐れ謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』367号「富岡主税助殿」宛上杉「輝虎」書状【花押a】)。



この間、甲州武田信玄(徳栄軒)は、12月5日、上野国箕輪城(群馬郡)に攻め寄せると、翌日までに箕輪長野一族の菩提寺の長純寺を含めた城下を焼き払い、7日、同木部(同前。倉賀野城の至近に位置する)の地へ移陣すると、木部の古城を再構築しながら、間もなく武蔵国御嶽城(児玉郡)に着陣することを連絡してきた相州北条氏康との合流を待っている。

9日、取次の甘利昌忠(左衛門尉。譜代家老衆)が、西上野先方衆の浦野中務少輔(上野国大戸城主)へ宛てて返書を発し、(浦野中務少輔が)取り急ぎ飛脚をもって御申し上げられたこと、ひときわ御祝着であること、すぐさま(信玄が)御返書を認められたこと、よって、去る5日から6日にかけて箕輪を御攻めになられ、長純寺以下の城外を焼き尽くされたのち、一昨7日には当地木部に陣を寄せられ、今9日から当古地の御再興を始められたこと、(当古地は)元から思いのほか頑強な適地だったので、十日のうちには早くも完成するであろうこと、御安心してほしいこと、従って、御普請が完了する頃には、以前に(浦野から)鎌宮(鎌原宮内少輔。上野国鎌原城主)をもって示された御存分を筋目に従って取りまとめるので、御安心してほしいこと、これについては御代官をもって御存分を御申し上げるのが尤もであること、しかしながら、(信玄は)御普請で御多忙を極めているところなので、御使者が放置されないためにも、完成間際を十分に見計らって寄越されるべきこと、一方、つい今し方に氏康からの御使者が到着されて、近日中に御嶽の地に御宿陣するとの連絡が寄せられたこと、恐らく当冬中には彼の軍勢と合流を果たすのは明らかであり、本望の思っていること、(浦野中務少輔も)さぞかし御大慶であろうこと、委細は来信を期すること、これらを恐れ謹んで伝えている。さらに追伸として、御息の御病状が案じられており、御知らせ願いたいことと、御老父と御舎弟にも一書をもって申すべきところ、多忙ゆえに行き届かなかったのは不本意であり、決して軽んじてはいない事情を、何とか御理解してもらえるように取り成してほしいことを伝えている(『戦国遺文 武田氏編一』848号「浦中殿 御報」宛甘利「昌忠」書状写)。

28日、取次の甘利昌忠が、浦野中務少輔の弟である浦野新八郎へ宛てて返書を発し、御札の通り、先だっては御舎兄が御参陣のこと、(浦野新八郎も)御同行されるものと思っていたところ、(上野国大戸城は)敵方との境目の地であるゆえ、御用心のために御残りになられたので、対面できなかったのは遺憾であること、されば、このたび御自訴の件については筋目に従って取りまとめ、(信玄の)御判形を遣わされたところ、御祝着の意を表されたので、自分においても、ひたすら本望であること、今後ますます御忠信を励まれるのが肝心であること、また、御屋形様は格別な御懇切を施されること、一方、景虎(輝虎)は沼田に出張ってきたようであるが、毎度のように大勢への影響はないこと、委細は中書(浦野中務少輔)へ申したので、この紙面は要略させてもらったこと、これらを恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文武田氏編一』815号「浦野新八郎殿」宛「甘利 昌忠」書状写)。


※『戦国遺文 武田氏編』815号文書を鴨川達夫氏の著書である『武田信玄と勝頼 ―文書にみる戦国大名の実像』(岩波新書)の「第一章 信玄・勝頼の文書とは 四 年代の判断」に従い、永禄6年の発給文書として引用した。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『上越市史 資料編3 古代・中世』【第四章 戦国時代】(上越市)
◆『新潟県史 資料編5 中世三』(新潟県)
◆『神奈川県史 資料編3下 古代・中世』(神奈川県)
◆『戦国遺文 武田氏編 第一巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 房総編 第二巻』(東京堂出版)

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越後国上杉輝虎(謙信)の年代記 【永禄6年3月~同年4月】

2012-09-15 21:47:09 | 上杉輝虎の年代記

永禄6年(1563)3月5月 山内(越後国)上杉輝虎(弾正少弼)【34歳】


3月上旬から中旬にかけて、鎌倉公方に奉公衆として仕えてきた小田伊賀守家の累代が拠る武蔵国埼西城(埼西郡)に猛攻を加えて外郭・副郭を陥落させると、埼西小田助三郎(武蔵国衆・成田長泰の弟。官途名は大炊頭か)が当陣営の味方中である岩付太田美濃守資正(武蔵国岩付城主)を頼り、全面降伏を嘆願してきたので、これを容赦したところ、埼西城の救援に積極的ではなかった相州北条氏康を見限った武蔵国衆の成田下総守長泰(同忍城主)と下野国衆の藤岡茂呂因幡守(下野国藤岡城主)も帰参を嘆願してきたので、この両名も容赦した。


※ 埼西小田助三郎については、『戦国人名辞典』(吉川弘文館)を参考にした。


3月中旬から下旬にかけて、野州へ進攻し、北条方に寝返った下野国衆の小山弾正大弼秀綱(下野国祇園城主)の支城である網戸(都賀郡)の地を攻め取ると、宿将の北条丹後守高広(譜代衆。上野国厩橋城代)に保守させる。

その翌日には、小山秀綱の居城である祇園城(都賀郡小山荘)に攻め寄せる。

参戦した関東味方中の佐竹右京大夫義昭(常陸国太田城主)の族臣である石神小野崎三郎(又三郎政通のことか)が、小山方として参戦した下総国衆の結城左衛門督晴朝(小山秀綱の実弟。下総国結城城主)の重臣である多賀谷民部少輔を討ち取っている(『小山市史 資料編 中世』591号 上杉輝虎書状写)。



一方、小山方として参戦した常陸国衆の多賀谷修理亮政経(常陸国下妻城主)が、越後・関東連合軍の陣所のうちで浅間塚北口に敷かれた陣所に夜襲を仕掛け、多賀谷衆の野口・厚木・東郷らが幕際に迫っている(『小山市史 資料編 中世』833号 野口豊前戦功覚書写)。



攻撃を開始してから三日ほどで外郭部を制圧し、主郭へと追い詰めた小山一党を撃滅する寸前に、小山秀綱が降伏を嘆願してきたので、秀綱の出家と、その息子や小山親類・家中のうちから人質を提出させることを条件に、小山方として参戦した下総国衆の結城晴朝(秀綱の実弟)も含めて赦免した。

それから戦後処理を施したのち、佐竹右京大夫義昭・宇都宮弥三郎広綱(妻は佐竹義昭の娘。下野国宇都宮城主)らと相談し、下野国衆の佐野小太郎昌綱の拠る下野国唐沢山城(安蘇郡佐野荘)を攻囲した。


3月24日、野州の戦陣には参加せずに帰国した房州里見正五(岱叟院。権七郎義堯)・同義弘(太郎)父子の宿老である小田喜正木平七信茂(上総国小田喜城主)へ宛てて書状を発し、このたび武州へ向かって馬を進めたところ、相・甲両軍と一戦を遂げられずに歯がゆい思いは残っているものの、速やかに義堯・義弘父子が御着陣されたので、本望であること、さぞかし其方(正木信茂)には陣労を掛けたであろうこと、今回の武州陣について、こちらより申し伝えたところ、ちょうどその時に(里見父子から)示されたので、心地良い思いであったところを、よくよく心得てもらいたいこと、来秋は相州を急襲するつもりなので、御父子を引き立てて参陣されるのが肝心であること、このほど無事に帰城されたそうであり、満足であること、御当口(野州)については、阿地戸(網戸)を即座に攻め落とすと、北条丹後守(北条高広)に保守を任せ、翌日には小山へと進み、強攻して外郭の大半を打ち壊したのち、一気に始末をつけようとしたところ、(小山)秀綱が降伏を嘆願してきたこと、彼の者(小山秀綱)の背信には強い遺恨を抱いていたが、関東経略の大局を見据え、また、嘆願を無碍にはできないため、降伏を許して和議を結ぶと、秀綱は出家して墨染めの衣をまとい、息子ならびに家中のうちから証人を数多く差し出したこと、今後の戦陣については、(佐竹)義昭と(宇都宮)広綱が在陣しているので、両所と談合して決めること、なお、詳細は河田豊前守(実名は長親。大身の旗本衆。上野国沼田城代)が書面で伝えること、これらを恐れ謹んでを伝えた(『戦国遺文 房総編二』1094号「正木平七殿」宛上杉「輝虎」書状【花押a3】)。

野州唐沢山城を攻囲すると、佐野小太郎昌綱は恭順の意を示してきたが、先年に息子(虎房丸)を人質に差し出しているにもかかわらず、態度を変転させるため、その処遇を考えあぐねていたところ、下野佐野氏の同族である上野国衆の佐野大炊助(実名は直綱か。上野国桐生城主)が出頭して服属したことから、取り敢えず佐野昌綱の処分を保留し、4月6日頃に佐野陣を解散した。


4月6日、上野国厩橋城代の北条高広(丹後守)が、一族の北条源八郎親富に証状を与え、このたび弥五郎(景広。高広の嫡男)に差し副えるについて、鷹取黒部新六給分と役銭に加えて本給分の役銭、よな丸分の山を給付すること、今後ますます怠りなく奉公を励むべきことを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』338号「源八郎殿」宛北条「高広」宛行状)。


8日、留守将の長尾越前守政景(譜代衆。越後国魚沼郡の坂戸城主)へ宛てて返書を発し、去る3日の切書が今8日に到着し、披読したこと、信州境ならびに越中国の防備、府内・春日の用心以下を懈怠なく務めてくれているそうであり、意義深いこと、来札の通り、小山(秀綱)は、ひたすら恭順の意を示してきたので、それを受け入れて赦免したこと、続いて降伏を懇願してきた佐野(昌綱)との交渉も半ばに達していること、桐生(佐野大炊助)に至っては投降してきたこと、そういうわけで、一昨日に厩橋(上野国群馬郡の厩橋城)へ馬を納め、今日の夕刻には倉内(同国利根郡沼田荘の沼田城)へ着城したので、明日には本国へ向けて越山すること、安心してほしいこと、なお、詳細は河田豊前守(長親)が書面で伝えること、これらを謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』340号「長尾越前守殿」宛上杉「景(輝)虎」書状写)。


※ この文書の日付や書中の日時は、『謙信公御書集』などでは28日、23・28日となっているが、『越佐史料 巻4』(野島出版)に載録されている当該文書の8日、3・8日に従った。


11日、越後奥郡国衆の鮎川盛長(孫次郎。越後国瀬波(岩船)郡の大葉沢城主)が、被官の大島十右衛門尉に証状を与え、其方(大島十右衛門尉)については、(鮎川盛長が)牢籠中の頃に誰人よりも一身を捧げて奉公してくれたので、加恩として横野外記助遺跡の一円を宛行うこと、今後は越府に駐在して精励するのが肝心であること、これらを申し渡している(『新潟県史 資料編4』1981号 鮎川「盛長」知行宛行状 端見返しウハ書「大島十右衛門尉殿」)。


15日、上野国沼田城から、関東の戦況を心配して連絡を寄越してくれた奥州会津(会津郡門田荘黒川)の蘆名修理大夫盛氏(止々斎)へ宛てて返書を発し、このたび当国(関東)の戦陣について、御心配してもらったので、脚力をもって書状を差し上げたこと、そもそも関東の状況は、先年に進発した時分に、是非をつけて諸口の防備などを強固に整えたので、独力で戦えない北条新九郎(相州北条氏康)は武田大膳大夫(甲州武田信玄)と連れ立って出張し、取り分け去年の初冬頃からは、太田美濃守(岩付太田資正)が年来守り続けている松山城(武蔵国比企郡)に対向すると、甲・相両衆は昼夜の区別なく、彼の要害を攻め立てていること、美濃守(太田資正)の同心と被官の実力者が数千人が籠め置いているとはいえ、武・相国境の地であるがゆえに味方の進退が容易でなく、おまけに(相・甲両軍は)多勢をもって取り詰めているので、松山城衆は苦境に陥り、美濃守(太田資正)は加勢を催促するほかにしようがないこと、密かに一勢を派遣するのが当然であること、武大(武田信玄)と北新(北条氏康)が張陣し、幸い今こそ関東の悪逆人を殲滅するべき好機と見極め、相当の決意をもって、昨年の11月下旬、にわかに出陣したところが、旧冬はいつにも増して雪深く、軍勢の各々が駕輿をもって昼夜を分かたず、越山したこと、雪中の遠路を凌ぐ苦労は、(蘆名止々斎にも)御推察してもらえるであろうこと、されば、去る2月上旬、松山の敵陣に後背から迫るため、(敵陣から)僅か数里の地である石戸(武蔵国足立郡)に陣取るべく、急行していたところ、輝虎越山の報に接すると、いつものように両所(信玄・氏康)は策士であるから、城中へ人を忍び込ませて、案の定、城衆を言葉巧みのたぶらかしてしまい、そうして晴信は証人を城中へ渡されたゆえ、松山籠城の者共はつつがなく出城したこと、ちょうど(輝虎が)石戸に着陣したところ、相・甲両軍に松山城を明け渡した皆共(城衆)と出くわしたこと、(敵軍に)城内への道路・諸口を厳重に封鎖されていたので、(松山城衆は)輝虎の後詰を知り得ず、このような結果に終わってしまったのは仕方がないこと、それでも相・甲両軍と一戦して勝利を挙げてしまえば結構なわけで、敵陣に詰め寄り、連日にわたって攻撃を繰り返すも、(相・甲両軍は)難攻の陣所に籠ったままなので、引っ張り出すための策を講じ、輝虎の陣所を移動させると、囮兵を放って食い付かせようとしたが、囮の二部隊の攻め寄せ方が不自然であったのか、当軍の着陣の頃合いが不適切であったのか、敵軍が誘いに乗らず、ついに会戦には持ち込めなかったこと、もはや難所を越えて敵陣へ攻めかかるほかなく、翌日の一戦を期していたところ、内通者が密告したものか、相・甲両軍は慌てふためいた敗軍の格好で夜中に退散してしまい、陣場が隔たっていたので追撃はままならなかったこと、いずれにしても、このたび興亡の決着をつけられなかったのは無念であること、しかし、武州を離れる道すがらの崎(埼)西の地には、鎌倉公方の奉公衆である小田伊賀守家の累代が在城し、現城主の小田助三郎は、成田下総守(長泰)の弟であること、輝虎に対して直に不平不満をぶつけてはこないが、参陣に応じるわけでもなく、兄の逆心に同調しているようで、彼の城は四方を絶え間ない湿地帯に囲まれた特筆すべき要害であり、まるで攻め込む隙がないとして、年寄共が難色を示すも、氏康・晴信(信玄)と一戦を遂げられなかったのが口惜しく、思い悩んでいたところに、若年の者共が、このまま空しく通り過ぎたのでは闘志を失うと主張したので、崎(埼)西の地へ向かって陣を進め、軍勢を揃え、攻め道具を整え、一気に攻めかかると、立ち所に外郭・副郭を攻め取って主郭のみに追い詰めたこと、たまらず(小田助三郎は)美濃守(太田資正)を頼り、言葉を尽くして降伏を嘆願してきたので、寛大にも容赦したこと、すると、下総守(成田長泰)が当陣営への復帰を嘆願してきたばかりか、藤岡の茂呂因幡守も成田・小田兄弟と同前に帰属を願い出てきたので、この両名も寛宥したこと、それからは野州へ向かって陣を進め、小山弾正大弼(秀綱)の拠る祇園城を取り囲み、ここでも三日ほど猛攻を加えたところ、身命をなげうち出家のなりで降伏を嘆願してきたので、打ち滅ぼすわけにもいかず、小弾(小山秀綱)の息子をはじめとして親類・郎党のうちから多数の人質を受け取り、これも容赦したこと、結城(晴朝)については、小弾正(小山秀綱)の弟であること、これにより、彼の人(結城晴朝)も寛宥するべきとの強い要望が寄せられたので、それも了承したこと、輝虎について、何はともあれ馬を納められるべきとの提言が寄せられるも、次の佐野小太郎(昌綱)は若輩の身であり、家中の専横を許して背信を繰り返すので、小太郎(佐野昌綱)の拠る唐沢山城へ向かって馬を寄せたこと、彼の人も先年に一子を証人として差し出しており、いまなお当方で預かっていること、それにもかかわらず、不埒な家中にたぶらかされて参陣してこなかったこと、そうこうするうちに彼の人(佐野昌綱)が当陣営の味方中を頼って降伏を嘆願してきたが、諸将もあれこれ彼の人の言い分も聞かなくてはならず、無事がまとまるには途方もなく時間がかかりそうなので、余人に対する見せしめとして決着をつけるべきか否か、考えあぐねていたこと、当地の情勢も一変するはずなであること、その状況を見極めて、必要ならば強攻策に出ること、何はともあれ帰府するつもりであること、子細は河田豊前守(長親)が申し届けること、これらを恐れ謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』339号「芦名左京(修理)太夫殿」宛上杉「輝虎」書状写)。


こうしたなか、3月26日、関白近衛前久から、年寄衆の河田豊前守長親・直江大和守実綱へ宛てて書状が発せられ、それ以後は疎遠の極みであること、もとより、在国中における懇待の数々は、いささかも忘れていないこと、されば、上洛した折、輝虎から知らされている通り、様々な慰留にもかかわらず、逗留し難いやむを得ない事情などがあったゆえ、帰洛してしまったところ、立腹したそうであり、それは当然で反論の余地がないこと、さぞかし不愉快な思いをさせてしまったであろうこと、しかしながら、本心より聊かもないがしろにしてはいないこと、この趣旨を両人から輝虎に詳しく申してもらいたいこと、ことさら当時の自分は、まさしく未熟といい、軽率あるいは身勝手ばかり、それは明らかであったこと、一切合切を容赦してもらって、以前通りの厚誼を取り戻せるように、両人には取り成しに奔走してほしいこと、幾重にも懇願する覚悟は浅からず、輝虎へも改めて内状をもって申すので、格別に取り成してもらえれば、祝着であること、これらを申し渡されている(『上越市史 上杉氏文書集一』337号「川田豊前守とのへ・直江太和守とのへ」宛近衛前久書状写【署名はなく、花押のみを据える】)。



この間、相州北条氏康(左京大夫)は、3月17日、他国衆の成田下総守長泰の家老である手嶋美作守高吉へ宛てて書状を発し、(越軍の攻撃を受ける)崎(埼)西城への後詰として、(成田勢は)今朝方に出立したところ、出し抜けに処理しなければならない事案が生じて取り止めたそうで、実に期待はずれで無念極まりないこと、しかしながら、こちらは必ず(越軍へ)興亡の一戦を仕掛けるつもりでおり、状況と地形などについて談合したく、布施弾正(弾正左衛門尉康能。小田原衆)と太平左近大夫(馬廻衆の大草左近大夫康盛か)を(忍城へ)差し越すこと、なお、詳細は両人が口述すること、これらを恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文 後北条氏編一』807号「手島美作守殿」宛北条「氏康」書状写)。


甲州武田信玄(徳栄軒)は、武州退陣後の越後国上杉軍が河東(利根川以東)へ向かったことから、輝虎の野州攻略を予期しておらず、帰路から急遽、信濃奥郡へと向かい、越後国侵攻を企てるも、雪解けによる犀川の増水に阻まれて滞陣を余儀なくされるなか、4月7日、相州北条氏康の三男である大石源三氏照(武蔵国由井城主)へ宛てて書状を発し、このところ音信が途絶えていたのは、はなはだ不本意であったこと、いったい長尾景虎(上杉輝虎)が河東へ退散したので、高をくくっていたところ、(輝虎が)小山の地を取り囲んでしまい、事もあろうに(小山)秀綱が降伏してしまったのは、残念な結果であること、ただし、これは全く景虎の手柄ではなく、関東人の未熟な戦い振りが原因であり、三十日も持ち堪えられないような失態を演じるとは、無念極まりないこと、(武田信玄は)来る12日に必ず出馬し、ひたむきに戦陣を催すので、御安心してほしいこと、次に(輝虎は)佐野の地へ攻め込むようであり、幸いにも御指南(大石氏照は佐野昌綱の取次)を務めているので、敵陣営へ属さないように、調略はひとえに御手前に懸かっていること、これらを恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文 武田氏編一』818号「大石源三殿」宛武田「信玄」書状)。


14日、鎌倉公方足利義氏の奉公衆である河村対馬守定真が、奥州白河の白河結城氏(陸奥国白河城主)の宿老中へ宛てて書状を発し、(白河結城左京大夫晴綱による)昨年(2月)の御誓詞に対する御名札を、先頃に(北条氏康が)松山城(武蔵国比企郡)において調えられたこと、拙者(河村定真)が御届けするところ、急病にかかってしまい、未だに寝込んでいるゆえ、遅延しているのは、(白河晴綱を)決して軽んじているわけではないこと、来る20日のうちに氏康父子は結城(下総国結城城)へ自身御出馬に定めたこと、このたびの(結城左衛門督晴朝)との御手合せ(連合)は、言葉に余るほど喜ばしいこと、(河村定真が)氏治(小田中務少輔氏治。常陸国小田城主)と(結城)晴朝の許へ伺い、氏康の御誓詞ならびに御書中を御届けすること、御条目については、いずれも氏康自身が熟慮されたものであること、(小田氏治・結城晴朝は)大いに喜ばれるであろうこと、(北条氏康からの)御誓詞については、血判が捺されていないため、御不審を抱かれるであろうこと、これは未だにその口(両所)より御証人を寄越してこないからであること、(両所が)彼の御誓詞の趣旨をしっかりと受け取られ、早急に御使者を寄越すのを心待ちにされていること、その御使者の面前で氏康は血判を捺されるつもりであること、一、(北条氏康父子は)武田晴信(信玄)と今川氏真の両将を引き立てられ、武・上両国の防備を頼まれたうえで、氏康父子は来る20日のうちの(利根川)渡河を定め、越国の景虎(輝虎)へ向かって陣を進められること、(輝虎は)必ずや引き返してこられるであろうこと、されば、(氏康父子は)無二の御一戦を仕掛けられるつもりであること、そうはならなかったとしても、佐(佐竹右京大夫義昭。常陸国太田城主)・宮(宇都宮弥三郎広綱。下野国宇都宮城主)の在所にまで、氏康が攻め寄せられるとは、想像もしていないであろうこと、宇都宮は十日以内には方が着くであろうこと、このたびは資胤(那須修理大夫資胤。下野国烏山城主)も最初から最後まで参加するので、この機会に御本意を達せられるのは、疑いないと思われること、(白河晴綱にとっても)佐竹に横領された御本領の全てを奪還されるのは、御間違いないであろうこと、両皆川(宇都宮氏の外様衆。宗家の皆川山城守俊宗と庶家の同駿河守忠宗が並立する。下野国皆川城主)と笠間(孫三郎綱家。宇都宮氏の親類衆。常陸国笠間城主)には話を通されているので、御安心してほしいこと、佐野(小太郎昌綱。下野国唐沢山城)・成田(下総守長泰。武蔵国忍城主)をはじめとした味方に別条はないが、このたびは寄(埼)西(埼西小田助三郎。武蔵国埼西城主)と小山(小山弾正大弼秀綱。下野国祇園城主)だけが景虎に同心したこと、寄(埼)西については、二百騎足らずの寡兵なので、大した影響はないこと、小山方については、また当陣営に復帰されるはずなので、いずれも御安心してほしいこと、一、会津(蘆名氏)と取り交わした御誓詞に対する御返札を添えられたで、必ず御届け願いたく、いずれの御返事も待ち望まれること、当口については、いささかも御疑心を持たれる必要はないこと、拙者の病状も快復しつつあるので、来月の初めには結(結城)・小(小田)へ参って御目に掛かるつもりであること、これらを恐れ畏んで伝えている。さらに追伸として、このような病身ゆえ、憚りながらも願わくば御馬一匹を御所望したく、那弾(那須弾正左衛門尉資矩。下野国衆・那須資胤の一族)の所まで寄越してもらえれば、つつがなく参上できることを伝えている(『神奈川県史 資料編3下』7370号「白川御館人々御中」宛「河対 定真」書状)。


甲州武田信玄(徳栄軒)は、14日、佐野昌綱へ宛てて書状を発し、来意の通り、このたび一旦は河内(利根川以東)へ退散した景虎(上杉輝虎)が野州に侵攻すると、あっさりと(小山)秀綱は降伏してしまったこと、その未熟な戦い振りは残念であること、しかしながら、今度は敵(越後国上杉軍)が佐野へ向かい、唐沢山城の根小屋に攻めかかったところ、足軽戦で勝利を得られたのは、実に見事であること、誓約の旨に従って氏康(相州北条氏康)と同調されているのは、並外れて際立っていること、(佐野においては)信玄が後詰するからには、陣容に抜かりがないように御覚悟あるべきこと、このように伝えておいたにもかかわらず、その地への後詰は利根川の増水によって浅瀬がないため、後詰は別の対応にするしか、どうにもしようがなくなったこと、早速にも越国へ向かって攻め入るべきところ、信濃国奥郡の犀川が雪解けによる増水ゆえ、浅瀬が一切なく、これにより、去る4日から国中の人夫をもって、飯綱山麓に軍道を作らせていたところ、このほどようやく完成したので、すでに去る12日の出馬を定めたところ、景虎(上杉輝虎)が退散した様子を、去る10日に和田(右兵衛大夫業繁。西上野先方衆。上野国和田城主)から注進が寄せられたので、出馬を取り止めたこと、承った通り、来秋の戦陣を真剣に取り組んで、一定の成果を挙げなければ、相・甲両国は滅亡するほかない状況を強く肝に銘じているので、御安心してほしいこと、まずはこの麦秋に西上野へ出馬するので、その折に佐野近辺・関東各所の情勢についての御意見を寄せてほしいこと、これらを恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文 武田氏編一』820号「佐野殿」宛武田「信玄」書状)。


奥州会津(会津郡門田荘黒川)の蘆名止々斎(修理大夫盛氏)は、25日、河村対馬守定真へ宛てて書状を発し、先だって氏康へ誓句を差し上げたところ、このほど彼の回答が寄せられたこと、望み通りで心から喜んでいること、関東中における戦陣の有様について、心中では気掛かりであったところ、条々を示されたので、大いに喜んでいること、取り分け松山の地を手中に収められたのは、自分にとっても満足であること、景虎が後詰として武州へ向かったので、当然ながら勝負を決せられると思っていたところ、戦機を捉えられずに、ついには埼西の地は景虎に一味してしまったそうで、何とも残念な結果であること、よって、(景虎が)佐竹(義昭)・宇都宮(広綱)を伴って小山の地に攻めかかると、彼の地は降伏して景虎の手中に入ってしまったそうで、何としても後詰を全うしなければいけなかったのは明白だったであろうこと、このたび後詰の責務を果たされなかった事態について、(北条氏康は)頼りにならないという印象が、密かに奥州口で取り沙汰されていること、また、近日中に氏康は宇都宮に遠征されるようであり、今最も必要な措置であること、老子(河村定真)とは格別な歓談をしたいこと、奥州口においても、ここかしこで戦陣の止む気配がなく、諸家の仲裁を図るのも容易でないこと、岩城(左京大夫重隆。号明徹。陸奥国大館城主)と田村(安芸守隆顕。同三春城主)さえ誘引できれば、一気に収斂するはずなので、ここに御工夫を凝らすべきであること、このところを十分に結(結城晴朝)と小(小田氏治)にも相談されるべきであること、何はともあれ氏康が御発向の折には申し達すること、改めて関東における戦陣の様子を知らせてくれれば、その理解に努めること、これらを恐れ謹んで伝えている(『神奈川県史 資料編3下』7322号「河村対馬守殿」宛蘆名「止々斎」書状案)。


※『神奈川県史』 7322・7370号文書の年次比定と解釈については、黒田基樹氏の論考である「常陸小田氏治の基礎的研究 ―発給文書の検討を中心として―」(『国史学』第166号)と、同じく黒田氏の著書である『戦国関東の覇権戦争 北条氏VS関東管領・上杉氏55年の戦い』(洋泉社)の「第四章 「国衆」が左右する関東戦国史 」を参考にした。


◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『新潟県史 資料編4 中世二』(新潟県)
◆『小山市史 資料編 中世』(小山市)
◆『神奈川県史 資料編3下 古代・中世』(神奈川県)
◆『戦国遺文 後北条氏編 第一巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 武田氏編 第一巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 房総編 第二巻』(東京堂出版)

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越後国上杉輝虎(謙信)の年代記 【永禄5年11月~同6年2月】

2012-09-13 23:05:36 | 上杉輝虎の年代記

永禄5年(1562)11月12月 山内(越後国)上杉輝虎(弾正少弼)【33歳】


11月9日、関東へ出陣するにあたり、留守中の府内横目(監察)に任じた姉婿の長尾越前守政景(譜代衆。越後国坂戸城主)が、取次の河田豊前守長親(上野国沼田城代。この時は越後在国中で、輝虎の許にいた)へ宛てた起請文に血判を据えて差し出し、一、府内横目を仰せ付けられたからには、いささかも抜かりなく、御掟を断固として遵守させるべきこと、一、非道狼藉・喧嘩口論を仕出かす輩がいれば、たとえ御目前衆に限らず、誰人が召し使う者であっても、即座に成敗するべきこと、また、もしも自分に手に負えない場合は、(輝虎へ)包み隠さず申し上げるべきこと、某自分においても、憶測や悪念をもって、人倫にもとる非道を絶対に犯さず、御掟を遵守すること、一、自分の悪念をもって、虚偽の御申告などは一切しないこと、一、贔屓をもって、非道を犯した者を隠匿せず、偽りを申し上げたりはしないこと、これらを神名に誓っている(『上越市史 上杉氏文書集一』328号「河田豊前守殿」宛「長尾越前守政景」起請文)。


25日、関東へ向けて出馬する直前、奥州会津(会津郡門田荘黒川)の蘆名家から使者が到来したのを受け、蘆名修理大夫盛氏(止々斎)へ宛てて謹上書を発し、何度も使いをもって御懇意を示してもらい、本望極まりないこと、今後ますます特別に談合したい心づもりであること、そういうわけで、今すぐ使者(吉田美濃入道)をもって申し述べること、委細は吉田美濃入道(旗本衆)の口上に付与すること、これらを恐れ謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』329号「謹上 蘆名修理大夫殿」宛「藤原輝虎」書状【花押a3】)。

この直後に出府し、深雪を踏み分けて進軍する。

12月16日、上野国沼田城(利根郡沼田荘)に到着すると、同厩橋城代の北条丹後守高広(譜代衆。越後国北条城主)へ宛てて書状を発し、今16日に当地倉内(沼田城)まで着陣したこと、従って、松山城(武蔵国比企郡)が敵に攻め込まれたところ、城衆が防戦を尽くし、堅持しているそうなので、まずはめでたく有意義であること、爰元(沼田)着城の事実を味方中へ申し届けてほしいこと、なお、詳細は河田豊前守(実名は長親。妻は北条高広の三女と伝わる)が書いて伝えること、これらを恐れ謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集』331号「北条丹後守殿」宛上杉「輝虎」書状写)。

18日、関東味方中の那須修理大夫資胤(下野国烏山城主)へ宛てて書状を発し、本来であれば、密かに初秋の時分に関東へ出馬するつもりでいたところ、越中国へ二度も戦陣を催すはめになり、あのような支障によって大幅に予定がずれたこと、そうしたところに、甲・南両軍が連合し、松山城に向かって張陣したので、深雪とはいえども、越山を遂げたこと、このたびの戦陣で関東の安危を決するつもりなので、興亡の一戦に参加して奮闘されるべきこと、日程などについては、味方中の横瀬雅楽助(実名は成繁。上野国金山城主)ならびに岩付太田美濃守(実名は資正。武蔵国岩付城主)が申し届けること、これらを恐れ謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』332号「那須修理大夫殿」宛上杉「輝虎」書状写【花押a影】)。
 


永禄6年(1563)正月2月 山内(越後国)上杉輝虎(弾正少弼)【34歳】


正月朔日、年明け早々(上野国厩橋城からか)、下総国衆の簗田中務大輔晴助(下総国関宿城主)をはじめとする味方中の参陣を呼び掛ける。

7日、味方中の到着を待つ間の軍事作戦として、相州北条方の武蔵国衆・深谷上杉左兵衛佐憲盛が拠る武蔵国深谷城(幡羅郡)へ進攻し、城際に迫って外縁部を焼き払う。

8日、甲州武田家の勢力圏である上野国高山(緑野郡高山御厨)・同小幡谷(甘楽郡額部荘)一帯になだれ込んだところ、武蔵国松山城の状況が切迫しているとの知らせが届き、予定していた岩付口(武蔵国埼玉郡)からの後詰めを取り止め、上野国西郡から直接、松山城を取り囲む敵陣を強襲することにした。

同日、関東味方中の簗田中務大輔晴助へ宛てて書状を発し、去る朔日に申し上げたこと、恐らくは到着しているであろうこと、(簗田晴助へ)岩付の地へ移るように申し述べたが、松山城は日増しに抵抗する力を失っているようであると聞こえており、岩付口から戦陣を催すつもりであったが、これでは松山の助成が間に合わないので、此方(上野国西郡)より直に敵の後背を衝くつもりであること、昨日は高山の地、小幡谷へ乱入すると、甲・信勢(上州に置かれた軍勢が援軍として現れたということか)が通路の途中で屯しているところに攻め寄せたこと、そういうわけで、早速の御着陣が肝心であること、繰り返し申し合わせてきた手立てを結実させるのは今この時であること、先書で申し上げたように、このたびこそ関東の是非を決するつもりなので、速やかに東口(東・北関東)味方中と連帯して参陣されるのを待ち望んでいること、爰元の決着がついてから各々が着陣したところで、もはや遅きに失すること、これらを恐れ謹んで伝えた(『戦国遺文 房総編二』1092号「簗田中務太輔殿」宛上杉「輝虎」書状)。

依然として味方中の参集を待つなか、20日、側近の河田長親が、輝虎旗本の楡井治部少輔(実名は光親か)に証状を与え、越後国弐之分(頸城郡)の地については、先年に入部されて以来、郡司不入であり、その後に内海ならびに石坂勘介が知行(弐之分の地が両人にも分与されたということか)してからも同前であり、この筋目は昨冬に郡司の柿崎和泉守方(実名は景家。譜代衆。越後国柿崎城主)へも了解を得ているからには、今後においても不変であることを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』334号「楡井治部少輔」宛「河田長親」安堵状写)。


味方中の参陣が遅れているため、相・甲連合軍に数で大きく劣ることから、武蔵国松山城に赴援することができず、やむなく上野国館林城(邑楽郡佐貫荘)へ後退し、改めて味方中の参陣を募ると、27日、進軍中の房州里見正五(岱叟院。権七郎義堯)の許に飛脚を遣わし、これから再び武蔵国岩付城へ向かうので、必ず参陣するように強く促した。


これを受けて、2月朔日、下総国臼井(印旛郡臼井荘)の地まで進んできた岱叟院正五(房州里見義堯)から書状が発せられ、(輝虎が)また岩付へ向けて御越河されるそうであり、脚力をもって御一書を給わったこと、これによって、進軍が遅れている吾等(里見義堯)も岩付へ急行するべきとの仰せを承り、そのところは心得たこと、しかしながら、このたび脚力によってもたらされた(輝虎の)御切紙の御日付は27日申刻(午後四時頃)で、この晦日に受け取り、館林の地から発せられた(輝虎の)御切紙も27日の御日付であり、こちらは、臼井の地に着陣した29日に受け取ったこと(輝虎は館林から大して進んでおらず、里見軍がこのまま進んでも上杉軍は岩付城に到着していない事態が案じられるということか)、先だって香西治部少輔(旗本衆。里見軍を岩付城へ先導するために派遣された)をもって仰せ頂いたので、彼の人(香西治部少輔)に自分の使者を添えて越陣へと向かわせること、御返事次第により、すぐにでも行動に移すこと、吾等(里見義堯)についても市川(下総国葛飾郡)十里内に陣取っているので、御返書の到来を待っていること、これらを恐れ謹んで伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』335号「山内殿 御宿所」宛「岱叟院正五」書状)。


4日、武蔵国松山城に至近の同石戸(足立郡)の地に布陣したところ、相・甲連合軍の強固な情報封鎖によって、援軍の到着を知らない松山城衆(岩付太田美濃守資正と、その一族・同心・被官衆が中核をなす)が、北条氏康と武田信玄の計略に乗せられてしまい、城を明け渡して退去したので、城衆を収容して連合軍と対峙した。

連日、軍勢を繰り出しても相・甲連合軍は陣城に籠ったままなので、11日、岩付城まで後退して利根川端に布陣すると、連合軍を戦場に引っ張り出すため、陣所を移して囮兵で誘い出すことを試みたりするなどの武略を駆使しても効果を得られず、意を決して、難所を踏み越えて敵陣を襲撃しようとしたところ、これを察知した連合軍は夜陰に紛れて松山城へ撤退してしまい、決戦の機会を失った。



この間、相州北条氏康(左京大夫)は、18日、奥州白河の白河結城七郎隆綱(白河結城左京大夫晴綱の世子。陸奥国白河城主)へ宛てて初便となる書状を発し、仰せの通り、これまで音信を通じていなかったところ、このほど御札が寄せられたので、本望満足であること、これからは格別に相談し合いたいこと、共通の敵である義昭(常陸国衆の佐竹右京大夫義昭。常陸国太田城主)が進軍途中にあるそうなので、小田(常陸国衆の小田中務少輔氏治。同小田城主)・烏山(下野国衆の那須修理大夫資胤。下野国烏山城主)と示し合わされて、総力を結集して戦われてほしいこと、当口は遠境ゆえに連絡が取りにくいので、(小田)氏治・晴朝(下総国衆の結城左衛門督晴朝。下総国結城城主)・(那須)資胤とは十分に談合されるべきこと、これらを恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文 後北条氏編一』803号「白川殿」宛北条「氏康」書状)。

21日、白河結城隆綱へ宛てて再便となる書状を発し、先書でも御知らせしたように、去る4日に当松山城を手中に収め、同11日に景虎(上杉輝虎)は岩付陣まで退散したこと、武田信玄と相談し、今なお張陣していること、利根川端に陣取った景虎(輝虎)の陣所は、取り分け険しい地形なので、未だに彼の陣所に攻めかかれないでいるが、このほど入手した情報によれば、近日中に敗走するのは間違いないこと、佐竹義昭が景虎(輝虎)に合力するため、半途まで進軍しているそうなので、その方面の味方中が佐竹と戦うのは、今をおいて他にはなく、各々が協力して佐竹に術策を仕掛けられるべきであり、つまりは貴所(白川隆綱)の尽力に掛かっていること、取り分け旧冬の御誓詞には心から恐悦しており、このたび御連絡したこと、何はともあれ河村対馬守(実名は定真。鎌倉公方足利義氏の奉公衆)が半途まで参って当方の誓詞を届けられるので、改めて参着の有無を御知らせ願いたいこと、これらを恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文 後北条氏編一』805号「白川殿」宛北条「氏康」書状)。

同日、白河隆綱からの起請文を受け取ったので、氏康からも白河へ宛てて起請文を発し、互いに入魂を誓い合った起請文を取り交わしたことになる(『戦国遺文後北条氏編一』804号「白川殿」宛北条「氏康」起請文)。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『戦国遺文 後北条氏編 第一巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 房総編 第二巻』(東京堂出版)

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越後国上杉輝虎(謙信)の年代記 【永禄5年6月~同年10月】

2012-09-12 00:03:44 | 上杉輝虎の年代記

永禄5年(1562)6月~7月 山内(越後国)上杉輝虎(弾正少弼)【33歳】


来秋に信濃国へ出馬するにあたり、奥州会津(会津郡門田荘黒川)の蘆名止々斎(修理大夫盛氏)の許へ使者として吉田美濃守(旗本衆)を、関東味方中の河田善右衛門大夫忠朝(武蔵国皿尾城主と伝わる。同羽生城主の広田式部大輔直繁の弟)・倉賀野左衛門五郎直行(上野国倉賀野城主。同箕輪城主の長野左衛門大夫氏業の与力)らの許へは林 平右衛門尉(旗本衆)を派遣し、上野国へ現れるであろう相州北条勢を抑えることを求める。


※ 倉賀野直行(のちに尚行と改める)は、『上越市史 上杉氏文書集一』1419号 上杉謙信(政虎)書状写の「わたおとゝ」からすると、倉賀野同様に箕輪長野氏の与力であった和田右兵衛大夫業繁(上野国和田城主)の実弟で、倉賀野氏に入嗣したとみられる。


6月2日、河田善右衛門尉忠朝から、すでに他所へと向かった林 平右衛門尉へ宛てて書状が発せられ、このたび(輝虎の)御書を拝領し、過分の至りで、恐れ入る思いであること、されば、御条目をもって示された条々は、その意を得られたこと、よって、(来秋の)信州への御戦陣の決定を、仰せ出されたこと、めでたく肝要であると思われること、当口においては、相手に勝利を重ねており、ますます成田(相州北条方の武蔵国衆・成田下総守長泰)を追い詰めるつもりであること、以上の趣旨を御披露に預かりたいこと、これらを恐れ謹んで伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』1429号「林平右衛門尉殿」宛「河田谷善右衛門大夫忠朝」書状)。

14日、倉賀野左衛門五郎直行から、上野国沼田城(利根郡沼田荘)の城代である河田豊前守長親へ宛てられた書状が林 平右衛門尉に託され、このたび御使節を通じて (輝虎の)御書を給わり、謹んで拝読したこと、もとより(来秋の)信州へと御馬を出される決定を、仰せ出されたこと、極めて肝要であると思われること、これについて、御条目をもって示された条々は、つぶさに聞き届けて承知した旨を、恐れながら書付をもって申し上げること、(信州へ)御戦陣を催されるからには、(北条)氏康が上州まで出張してきたら、御味方中と談合し、またとない奮闘をする覚悟であること、委細は林平右衛門尉方を通じて申し上げること、以上の趣旨を御披露に預かりたいこと、これらを恐れ謹んで伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』411号「河田豊前守殿」宛「倉賀野左衛門五郎直行」書状写)。


※ 栗原修氏の論集である『戦国期上杉・武田氏の上野支配』(岩田書院)の「第一編 上杉氏の関東進出とその拠点 第二章 上杉氏の隣国経略と河田長親」によると、上野国沼田城代として河田長親が与力の発智長芳へ沼田城域の土地を宛行っている『上越市史 上杉氏文書集一』341号文書は、花押型の分類によって永禄5年に比定できることから、上杉輝虎の側近である河田が沼田城代に着任したのは、輝虎が関東から帰府した3月から5月の間という。


19日、蘆名家の重臣で、越後国上杉家との間の取次を務める松本伊豆守へ宛てて返書を発し、取り急ぎ使者をもって申し遣わすこと、よって、関東については、あらかた平穏無事の状態であること、信州については、当国の隣国であり、上州の背後に位置しているわけであり、何れにしても来秋には彼の口へ戦陣を催すつもりであること、されば、他にも強く助成を頼んでおり、権勢を誇って弓箭を取るわけではないこと、そちらとは絶え間なく交流を図ってきた間柄であり、昨年に神慮をもって取り交わした筋目に従い、なんやかやこの時を迎えたのであるから、援軍として一勢を送ってもらえれば、自他の覚えもめでたいこと、この一事は方々(松本を初めとする蘆名家の重臣)の尽力にかかっていること、なお、詳細は吉田美濃守が口上すること、これらを恐れ謹んで懇ろに伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』521号「松本伊豆守殿」宛上杉「輝虎」書状【花押a3】)。


この6月中、越中国の東西に分立する椎名右衛門大夫康胤(越中国松倉城主)と神保惣右衛門尉長職(同富山城主)が、またもや争いを始めたので、味方中の椎名康胤を救援するために彼の国へ出馬する。
7月3日、神保勢と戦い、神保方の土肥主税助(越中国において椎名・神保・遊佐と並ぶ勢力の土肥氏の一族で、もとは椎名氏に属していたが、椎名氏と対立して敗れて没落すると、神保氏の重臣である寺嶋氏に扶持されていた)を討ち取るなどして勝利を挙げた(『新潟県史 資料編3』1005号 土肥二郎九郎母訴状 ●『富山県史 通史編Ⅱ 中世』)。

その後、神保長職を赦免すると、7月中に帰府した。



この間、甲州武田信玄(徳栄軒)は、6月18日、このほど調略によって越後国上杉陣営から引き抜いた上野国衆の和田右兵衛大夫業繁へ宛てて初便となる書状を発し、これまで通交はなかったところ、初めて申し上げること、今この時に忠義を励まれれば、どのような御要望であっても応えること、末代までの身上を保障して、我等(武田信玄)においては手厚く報いること、なお、詳細は飯富三郎兵衛尉(実名は昌景。譜代家老衆)が書面で伝えること、これらを恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文 武田氏編一』826号「和田兵衛大夫殿」宛武田「信玄」書状写)。

 
※ 『戦国遺文 武田氏編一』は、826号文書を永禄6年に比定しているが、黒田基樹氏の論集である『戦国大名と外様国衆』(文献出版)の「第三章 和田氏の研究」に従い、永禄5年の発給文書として引用した。



永禄5年(1562)8月 山内(越後国)上杉輝虎(弾正少弼)【33歳】


11日、慰留を振り切って帰洛した関白近衛前久(8月2日に参朝しているので、7月に越後を発ったのか)から、重臣の本庄美作入道宗緩(すでに一線を退いた老臣)・直江大和守実綱(大身の旗本衆)・長尾右京亮景信(古志長尾氏。別格の縁者)・河田豊前守長親(大身の旗本衆))へ宛てて書状が発せられ、着京後、早々に使者を立てて挨拶するべきところ、あれやこれや取り乱れ、不本意な事態となったこと、あまりにも時間が経過してしまったので、このたび脚力をもって音信を通じたこと、在国中の懇待の数々には、誠にもって喜ばしい限りであること、こうした条々をしかるべく輝虎へ伝えてほしいこと、なお、今後も丁寧に申し開きを重ねていくので、これからも交誼を継続できれば、本望であること、これらを申し渡されている(『上越市史 上杉氏文書集一』347号「本庄美作入道とのへ・直江太和守とのへ・長尾右京亮とのへ・河田豊前守とのへ」宛近衛前久書状(署名はなく、花押のみを据える))。

関東の情勢悪化から、この6月に打ち出した方針を改めると、24日、関東味方中の長尾新五郎政長(足利(館林)長尾氏。上野国館林城主。但馬守景長の子)、同じく富岡主税助(同小泉城主。これより以前は相州北条方であった)のそれぞれへ宛てて自筆の書状を発し、このたび改めて筆を馳せたこと、もとより関東の戦乱が際限なく続いていること、味方中は労苦に苛まれ、民衆は安息を奪われており、いずれにしても、今年こそ関東の安寧を取り戻す覚悟であること、もはや当月に余日はないので、来月には必ず関東越山すること、当然ながら甲・相両軍も出張してくるであろうから、総力を結集して迎撃すれば勝利は疑いないので、武・上州の間、いずれの地に陣を構えることになっても、人員を揃えて参陣されるべきこと、今こそ奮闘されるべき時であること、そのために前々から申し届けているわけであること、これらを恐れ謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集』321号「長尾新五郎殿」宛上杉「輝虎」書状写、320号「富岡主税助殿」宛上杉「輝虎」書状【花押a3】)。



この間、相州北条氏康(左京大夫)は、6日、奥州会津(黒川)の蘆名止々斎(修理大夫盛氏)へ宛てて書状を発し、先頃より何度も申し届けているが、このたび幸便を得たので、改めて申し上げること、常陸・下野両国については、小田(常陸国衆の小田太郎氏治。常陸国小田城主)・宇都宮(下野国衆の宇都宮弥三郎広綱。下野国宇都宮城主)両家が当方と格別に相談したうえで、結城(下総国衆の結城左衛門督晴朝。下総国結城城主)・小山(下野国衆の小山弾正大弼秀綱。下野国祇園城主)・大掾(常陸国衆の大掾 貞国。常陸国府中城主)・那須(下野国衆の那須修理大夫資胤。下野国烏山城主)らと小田方(氏治)の一和を取りまとめたこと、こうした機運に乗じて白川方(白河結城左京大夫晴綱。陸奥国白河城主)と協力し合って、敵方の佐竹(常陸国衆の佐竹右京大夫義昭。常陸国太田城主)を攻められるのを念願していること、確かな情報によれば、近日中に(佐竹)義昭は結城(下総国結城郡)の地に再征するそうであること、氏康自身は武田晴信(甲州武田信玄)と連帯して、この五日のうちに武蔵国岩付筋(埼玉郡)へ出馬すること、返す返すも、その方面の経略を頼み込んだからには、しっかりと手立てを講じられるのを念願していること、必ずまた陣中から申し入れること、これらを恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文 後北条氏編 補遺編』4667号「蘆名殿」宛北条「氏康」書状)。


※『戦国遺文 後北条氏編 補遺編』は4667号文書を永禄6年に仮定しているが、黒田基樹氏の論考である「常陸小田氏治の基礎的研究 ―発給文書の検討を中心として―」(『国史学』第166号)に従い、永禄5年の発給文書として引用した。



永禄5年(1562)9月10月 山内(越後国)上杉輝虎(弾正少弼)【33歳】


この7月に越中国の争乱を鎮めて、中部へ追い払ったはずの神保惣右衛門尉長職が東部の富山に再進出したことから、9月5日に東西両軍の間で激戦となり、椎名方の神保民部大輔(神保一族。椎名方に寝返っていた)・土肥二郎九郎(7月に戦死した主税助の長男。今回、土肥氏は椎名方として参戦した)らが戦死する(『新潟県史 資料編3』1005号 土肥二郎九郎母訴状 ●『富山県史 通史編Ⅱ 中世』)。

これを受けて、10月に入り、再び椎名の救援のために越中国へ出馬すると、5日に婦負郡の金屋村で神保軍と一戦した。中旬には敵方の諸城を次々に降し、神保長職が逃げ込んだ中部の増山城に攻めかかり、全ての外郭を焼き払って主郭に追い詰め、このたびは神保を滅ぼすつもりでいたところ、神保が能州畠山義綱(修理大夫)を通じ、降伏を嘆願してきたので、このあとには関東遠征を控えているため、神保を容赦した。

16日、帰国の途に就いた。

27日、関東味方中の岩付太田美濃守資正(武蔵国岩付城主)へ宛てて書状を発し、越中国については、去る7月に出陣して国情を一変させたにもかかわらず、先月5日に彼の口において予期せぬ争乱が起こって味方中が敗北し、神保民部太輔をはじめとする大勢の将兵が戦死してしまい、彼の国の再乱によって苦境に立たされている椎名右衛門大夫(康胤)は、事あるごとに申し届けている通り、当府の裏手に存在するといい、年来ひたすら此方に同調してくれている間柄といい、放って置けるわけもなく、再び越中へ出馬したところ、神保領を席巻して諸要害を降し、凶徒が増山城に立て籠もったので、彼の要害を包囲して周辺を余す所なく火を放ち、主郭ばかりの裸城としたこと、今度という今度は凶徒を殲滅する心づもりでいたところ、神保惣右衛門尉(長職)は能州畠山修理大夫方(義綱)に泣き付いて降伏を懇願してきたので、ちょうど(北条)氏康が武州に在陣している今この時、早速の関東越山を決め、神保の降伏を受け入れて、当月16日に馬を納めたこと、本来なら今夏にはその口(武蔵国)に越山していなければならず、取り分け氏康の出張により、(太田資正から)出馬の要請が繰り返し寄せられていたので、一刻も早く関東へ向かうべきであったが、神保攻略に取り紛れて延引せざるを得なかったわけであり、手をこまねいている間に、相州北条軍の攻勢によって其元が相当の損害を余儀なくされるのは覚悟していたこと、しかし、いつもながらの其方(太田資正)の目覚しい奮戦によって氏康は何ら得るものもなく退散したので、まずまずの結果に終わって意義深い限りであること、神保攻略による将兵の疲労を回復させたのち、必ず関東越山すること、それまでは、いっそう防備を尽くされるべきこと、なお、詳細は河田豊前守(長親。大身の旗本衆。上野国沼田城代)が書いて伝えること、これらを恐れ謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』326号「太田美濃守殿」宛上杉「輝虎」書状写【花押a】)。



この間、相州北条方の下野国衆・那須修理大夫資胤(下野国烏山城主)の族臣である那須弾正左衛門尉資矩が、9月15日、陸奥国白河の郡主である白河結城左京大夫晴綱(陸奥国白河城主)へ宛てて再便となる書状を発し、去る頃に御懇答を給わったばかりか、それからも御書中が何度も寄せられており、いずれの条々も本望満足であること、されば、(結城晴綱と)氏治(常州小田の小田氏治)との交誼を確かなものにするべきであること、このたび愚所(那須資矩)より使者をもって(小田氏治への)返札を認めて送付したこと、今後は折に触れて御通信に及ばれるべきこと、また、武田信玄は上州へ出張し、安中(碓氷郡)の地を手中に収められたこと、氏康父子(相州北条氏康・同氏政)は当月4日に出陣して、石戸(武蔵国足立郡)と川越(同国入間郡河越荘)の両地に馬を立てられると、常・野・両総・武・上州の味方中と相談されて、岩付(武蔵国埼玉郡の岩付城)の地へ陣を進め、すでに越年を決めたそうであること、なお異変があれば、どのような些細な事柄であっても申し届けるつもりであること、そちらの御家中の様子をどうか知らせてほしいこと、これらを恐れ謹んで伝えている。さらに追伸として、下口への御返札を取り急ぎ送り届けることと、日増しに小田(氏治)・結城(晴朝)・小山(秀綱)は交誼を深めており、御安心してほしいことを伝えている(『小山市史 史料編 中世』597号「白川殿 御宿所」宛那須「弾正左衛門尉資矩」書状)。


※ 『小山市史 資料編』は597号文書を永禄7年に比定しているが、黒田基樹氏の論考である「常陸小田氏治の基礎的研究 ー発給文書の検討を中心としてー」(『国史学』第166号)に従い、永禄5年の発給文書として引用した。


甲州武田信玄(徳栄軒)は、9月18日、下野国衆の宇都宮広綱(仮名は弥三郎。下野国宇都宮城主)へ宛てて再便となる書状を発し、先日は申し上げたところ、参着したのかどうか分からないこと、よって、その表で戦勝を重ねられているようで、いつもながらの並ぶものがない御武略を発揮されていること、このたび上州へ戦陣を催し、箕輪(箕輪長野氏領)・惣社(惣社長尾氏領)・倉賀野(箕輪長野氏の与力である倉賀野氏領。何れも群馬郡)の郷村中を散々に荒らし回って、余さず稲穂を刈り取り、まずは馬を納めたこと、来月下旬には(駿州)今川・(相州)北条両家と示し合わせて、必ず利根川を越え、この機会を捉えて関東を平穏に導くつもりであること、さしあたって交誼を深められれば、本望であること、委細は面談を期すること、これらを恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文 武田氏編一』796号「宇都宮殿」宛武田「信玄」書状写)。 



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『新潟県史 資料編3 中世一』(新潟県)
◆『小山市史 史料編 中世』(小山市)
◆『富山県史 通史編Ⅱ 中世』(富山県)
◆『戦国遺文 武田氏編 第一巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 後北条氏編 補遺編』(東京堂出版)

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