越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国頸城郡五十公郷と柿崎氏

2016-05-14 00:51:02 | 雑考
 
 『米沢柿崎系譜』によると、越後国上杉家の譜代衆(国衆)である柿崎和泉守景家(仮名は弥次郎と伝わる)は、越後天文の乱において、惣領の柿崎三郎左衛門尉に従い、上杉一家衆の上条播磨守定憲(憲定)に味方して越後守護代の長尾信濃守為景と戦っていたが、越後国頸城郡三分一原の戦いの最中、長尾為景方に寝返り、その勝利に貢献したので、為景から柿崎一門の所領と五十公野城を与えられたほか、雷城の守衛を任されたのを契機として、五十公野弥次郎を名乗ったという。

 これは系譜の作成者が、享禄4年正月 日付越後衆連判軍陣壁書の署判者のひとりである越後奥郡国衆の「五十公野弥三郎景家(なぜか花押は据えられていない)」と柿崎弥次郎景家を結び付けたことによるものであり、実際には柿崎景家が五十公野苗字を名乗ったという事実は確認されていない。


【史料1】上野九兵衛尉(仮名・実名は彦九郎・資家か)宛上杉景勝感状写
今度其地乗取事、忠信無比類候、何様爰元本意之上、壱所可感之候、
天正六
  六月十四日
    上野九兵衛とのへ


【史料2】長福寺・正眼院・上野九兵衛尉宛上杉景勝感状
今度皆々以談合、覆先忠、猿毛之地則候事、誠以忠信無比類候、此上猶以各令入魂、其地堅固之備簡要也、
    六月十四日
     正眼院
     上野九兵衛とのへ
     長福院


【史料3】福寿軒宛上杉景勝感状
今度柿崎家来之者共引付、猿毛之地則候事、忠信無比類候、依之、福性寺大宝寺遣之候、仍執達如件、
  天正六                     〇印文
    六月十四日      景勝(朱印影)「阿弥陀
                       日天
        福寿軒            弁財天」



【史料4】柿崎千熊丸宛上杉景勝判物
今度其方家中之者依令忠信、名跡之儀返置候、弥可抽忠功者也、仍執達如件、
  天正六
    八月廿二日      景勝(花押)
      柿崎千熊丸


【史料5】柿崎家中衆宛上杉景勝朱印状
依令侘言、本家柿崎之町屋敷之儀、当給人雖有之、及異見可出置之候、弥可抽忠儀之事、簡用候、仍如件、
  天正六
(朱印)九月廿六日
       上野九兵衛とのへ
       長福寺
       富所大炊助とのへ
       林部三郎左衛門尉とのへ
       此外柿崎家中衆


【史料6】柿崎家中衆宛山浦国清書状
今度以弐位公申届候処、則納得御忠信被申上候事、無比類被思召候、依之、柿崎名跡被返下候、同本家七ヶ所柿崎町屋敷、一同被成之可被下候、其上領中よりなし物御ようしゃ、新地・本地共不入之義、何申理候、各忝可被存候、此上おゐて無二春日山奉守御奉公、弥々簡要候、御本意之上、旁共別可被引立之段、御諚候、頼母敷可被存候、惣躰長々敷方之身躰之義、某可被相任候、為其申入候、恐々謹言、
  尚々、本家之御証判之義、九兵衛方相渡候、無申迄候得共、忝被存無二
  無三守御前、御奉公可被申上事肝要候、又替義候、可被申上候、以上、
    九月廿六日      国清(花押)
     遠藤惣左衛門尉殿
     林部三郎右衛門尉殿
     上野九兵衛殿
     富所大炊助殿
     長福寺

          
【史料7】柿崎家中衆宛上杉景勝印判状写
態申遣候、仍諸越彦七郎知行小黒村令入部之由、彼地之儀諸越四、五代持来候条、柿崎本祖にて、努々有之間敷之由申事候、往古之儀兎角候、近代当知行之間、其分別可返付事、専用候、穴賢/\、
    十月十六日      景勝御朱印
       林部三郎左衛門尉とのへ
       富所大炊助とのへ
       上野九兵衛とのへ
       遠藤宗左衛門尉とのへ
       長福寺


【史料8】遠藤惣左衛門尉・上野九兵衛尉宛泉沢信秀書状写
此間早々掛御目候、然、諸越分之儀御理申候処、無相違被指上可然存候、扨又、此上相残本知・新地共諸役如御印判御用捨可被成候由、御諚に候間、此上之儀たし物以下に於ても、違乱申候ハ者、早々御披露肝要候、為其一筆申達候、恐々謹言、
  猶々、諸越方有御膝下、御奉公申上候に付而、御耳わけ被達候て、被 仰
  出候間、此上御家中御奉公、簡要存候、以上、
            泉澤右近亮
    南呂十三日      信秀
    上野九兵衛殿
    遠藤殿
       


 天正6年3月13日に上杉謙信が急逝し、その遺言により、ふたりの養子(後継者候補)のうち、甥である上杉弾正少弼景勝(謙信の姉を妻とした上田長尾越前守政景の次男)が名跡を継ぐと、もうひとりの養子である上杉三郎景虎(相州北条氏康の末子)と関わりが深かった柿崎左衛門大夫(実名は晴家か。景家の世子)は、同年4月中に上杉景勝と対立し、越後府城の春日山城において敗死したことから、柿崎家は越後国上杉家の譜代家臣としての名跡と春日山城における屋敷(郭)を失った。それから間もなくして、上杉景勝と上杉景虎の間で抗争が始まると、同年6月中旬、柿崎左衛門大夫の遺児・千熊丸を擁する遺臣団は、上杉景勝の意を受けた二位(福寿軒か)の勧誘に応じ、上杉景虎の直臣団が拠る旧柿崎領内の越後国猿毛城(謙信在世時に柿崎領の一部は上杉景虎の基盤として分与されていたらしい)を乗っ取ると、越後上郡における上杉景勝方の重要な戦力として働いた。同年8月22日、上杉景勝は、こうした柿崎家中衆の忠功に報い、柿崎千熊丸に名跡の復活を認めている。

 このようして、ようやく本領が安定した柿崎家は、内乱のどさくさに紛れて越後国頸城郡五十公郷小黒保(村)における諸越彦七郎分の所領を横領した。

 所領を横領された諸越の訴えを受けて上杉景勝は、天正6年10月3日、まず上杉一家衆の山浦(村上)源五国清を通じて柿崎家中衆に対し、「小黒ほんけ(本家)もろこし分」については、柿崎本領の内ではなく、「泉州(柿崎和泉守景家)」の代にも知行していた事実はないはずであるとして、引付・証文の有無を尋ねている。そして、同年10月16日、小黒村は諸越が四・五代に亘って知行しており、決して柿崎の本領ではなく、往古はさて置き、近代は諸越が知行していたことは明白であるため、分別を弁えて返還するように促している。

 それでも小黒村を横領し続けていた柿崎家ではあるが、天正8年頃、諸越が上杉景勝の直臣となって自領を守る手段に出たことから、柿崎家は本・新領における諸役免除の特権と引き換えに妥協せざるを得なかったらしく、諸越へ小黒村を返還したようである。

 謙信の重臣であった柿崎景家が、かつて五十公野弥次郎を称したというのは、こうした柿崎家と越後国頸城郡五十公郷小黒保(村)に関する一連の文書を目にした『米沢柿崎系譜』の作成者が、やはり目にした享禄4年正月 日付越後衆連判軍陣壁書の署判者のひとりである五十公野弥三郎景家と結び付け、柿崎景家の事績を創作したのであろう。


※ 上杉景虎の直臣団は、謙信から分け与えられた柿崎領の一部を基盤として構成されていたようであり、柿崎家の要害であった越後国頸城郡佐味荘の猿毛城や米山寺城には、上杉景虎に従って相模国から来越した篠窪出羽守が置かれたとも、上杉景虎から猿毛城を任された上杉宗四郎憲藤(もと関東管領山内上杉憲政(号光徹。謙信の養父)の家臣である篠宮出羽守が置かれたとも伝わっている。恐らく、篠窪出羽守は越・相同盟の交渉に携わった篠窪治部の後身であり、窪と宮を読み違えられたのではないだろうか。

※ 謙信の権力が強大化したのに伴い、その重臣たちに中・小規模の国衆などが同心や家臣として配されると、柿崎家には中郡国衆(譜代衆)・上野中務丞家成の一族である上野九兵衛尉(資家か)が配されたらしい。また、林部三郎兵衛尉・富所大炊助は、その苗字からして、もとは謙信旗本であったと考えられる。上野九兵衛尉には米山寺城を務めたという伝承があるので、柿崎左衛門大夫の敗死後、その遺臣団は米山寺城に拠り、上杉景勝方に転身すると、そこから猿毛城を乗っ取ったものか。


『新潟県史 資料編3 中世一』269号 越後衆連判軍陣壁書写 ◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』1544・1545号 上杉景勝感状(写)、1551号 山浦国清判物(写)、1552号 山浦国清判書(写)、1615号 上杉景勝判物、1680号 上杉景勝朱印状、1681号 山浦国清書状、1688・1692号 山浦国清書状(写)、1705号 上杉景勝書状(写)、1832号 山崎秀仙書状(写)、2027号 泉澤信秀書状 ◆『越佐史料 巻五』(高橋義彦 編)◆『日本城郭大系7 新潟・富山・石川』(新人物往来社)◆『中世越後の歴史―武将と古城をさぐる―』(花ヶ前盛明 著 新人物往来社)
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