越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

林泉寺過去帳(林泉寺文書)にみえる越後衆

2014-11-14 08:45:01 | 雑考

 剣室雄公禅定門「かぢ えつゆにておひはらきりされたかた」
 加地某:越後奥郡国衆の加地氏か。

 楽翁源栄居士「かぢあきのかみ」
 加地安芸守:享禄年間に見える加地安芸守春綱か。越後奥郡国衆。越後国蒲原郡加地城主。春綱の妻は越後守護代長尾為景の娘であったとか(為景の娘たちが記載されている別紙の林泉寺過去帳に該当者はいない)、為景の三男である景虎を養子に迎える予定であったとか伝わるも、実際のところは分からない。

 悦叟道喜禅定門「くりはやしゆきへ」
 栗林靭負:上田長尾氏の被官か。上田長尾氏の執政に栗林長門守経重・同次郎左衛門尉房頼がいた。上田長尾氏の有力被官に上村氏がおり、長尾為景の被官にも上村小五郎がいるから、同じように守護代長尾家の被官である栗林氏がいたものか。

 不識光珎禅定門「しんほ八郎四郎」
 新保八郎四郎:新保長重。越後守護上杉氏の断絶に伴って越後国長尾景虎(上杉輝虎)の直臣に転身すると、その奉行衆に列したらしい。

 圓窓昌仲大姉「つかもとろうほ」
 塚本老母:塚本氏は、越後国上杉家の旗本衆に列した。

 日山道慧禅定門「おぎたよ三さへもん」
 荻田与三左衛門:荻田氏は、近江国(江北)の出身と伝わり、越後国長尾家の旗本衆として荻田掃部助が初見される。与三左衛門尉の名跡は、やはり与三左衛門尉を名乗って長男が継承したものと考えられ、越後国上杉謙信(長尾景虎・上杉輝虎)の小姓を務めた荻田孫十郎長繁は次男と伝わる。

 華翁道雪禅定門「ふなみ」
 船見某:越後長尾家以来の旗本衆。船見氏は、越中国新川郡船見の地から出たらしい。

 匠山道宗禅定門「なかおのえつぜんのかみ」
 長尾越前守:上田長尾政景。越後国上杉輝虎の姉婿。越後国魚沼郡坂戸城主。永禄7年7月5日に横死した。

 洞源道仙禅定門
 俗名の記載なし

 笑山常喜禅定門「おおいしうまのてう」
 大石右馬允:越後国長尾家の旗本衆。永禄2年(12月8日か)に死去すると、嫡男の源助が名跡を継いだ。源助は、のちに右馬允を名乗り、越後国上杉家の旗本衆に列し、よく使者を務めた。

 智光宗圓禅定門「うめすそう三」
 梅津宗三:梅津氏は、越後国長尾家の旗本衆に列した。

 覚阿弥陀仏「もくのすけ」
 木工助:吉江木工助茂高であろう。吉江茂高は、もとは古志長尾氏の被官で、出頭人として越後国長尾景虎の初政に参画した。

 如雪童子「なおへいせまつ」
 直江伊勢松:父の直江大和守景綱(実綱。政綱)は、越後国上杉謙信のほぼ一世中に亘り、側近として仕えた。

 在忠宗存禅定門
 俗名の記載なし

 月窓妙心禅定尼「御つほ子」
 御局:越後国長尾家の一家衆に列した上杉上条氏の妻である明院月窓と同一人か。


 このように、越後国長尾家の菩提寺である林泉寺の過去帳に記載された人物を挙げてみたが、その殆どは、上杉輝虎との関係が密接な上に、輝虎よりも先に亡くなっていることから、輝虎が彼らの早い死を悼んだ様子が窺える。


※ 当ブログに於いて、新保長重は、その花押形が直江実綱(景綱)と同形であることから、直江実綱の前身である可能性を示してきましたが、林泉寺過去帳の通り、新保苗字のまま早世しているので、両名は別人でありました。


〔東京大学史料編纂所データーベース〕【伊佐早謙採集文書】 林泉寺文書 ◆『新潟県立歴史博物館研究紀要 第9号』高野山清浄心院 越後過去名簿 (写本) ◆『上杉家御年譜 一 謙信公』(原書房)◆『上越市史 通史編2 中世』◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』◆『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』◆『上越市史叢書6 上杉家御書集成Ⅰ』◆『日本城郭大系7 新潟・富山・石川』(新人物往来社)◆ ウェブログ「目を覚ませとよぶ声が聞こえ… 」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする