越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

上杉輝虎(政虎)期の戦歴 【下】

2016-01-14 17:30:09 | 上杉輝虎(政虎)期の戦歴


 【28】(49) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄10年3月18日、甲州武田軍に奪われた信濃国野尻城を取り返す。

 永禄10年の年明け早々、昨年の11月から滞在している下野国安蘇郡佐野荘の唐沢山城において、自陣営と相州北条陣営の間にあって態度を明らかにしない常陸国衆・佐竹義重(常陸国久慈郡太田城主)や河南(利根川以南)にあって自陣営に唯一留まる武蔵国衆・広田直繁(武蔵国埼玉郡羽生城主)を初めとした関東味方中の参陣を待つなか、越府から一千人ほどの増援軍を呼び寄せると、下野国佐野陣と越府の間に在陣させている遊軍の水原蔵人丞(実名は実家か。外様衆)・竹俣三河守慶綱(同前)・加地彦次郎(実名は知綱か。同前)、遊軍の軍監である富所隼人佐(実名は重則か。旗本衆)・松木内匠助(実名は秀朝か。同前)に対し、増援軍の進軍を支援するように命じる。9日には参陣の呼び掛けに応じない下総国衆の結城晴朝が拠る下総国結城郡の結城城の攻略を期したところ、下野国衆・宇都宮広綱(下野国河内郡宇都宮城主)とその宿老衆(一族)である塩谷義孝(下野国塩谷郡川崎城主)が参陣の意向を示してくる(結局のところ結城攻めは挙行されなかったようである)。その後、相州北条陣営に属する上野国衆の由良成繁が拠る上野国新田郡新田荘の金山城の攻略を期して上野国利根郡沼田荘の沼田城に移るも、佐竹軍は河西(鬼怒川以西)に滞陣したまま動かなかったので、越後衆の吉江佐渡守忠景(旗本衆)と五十公野玄蕃允(外様衆)からなる唐沢山城衆の増員として色部修理進勝長(外様衆)と荻原伊賀守(旗本衆)を加えたのち、3月初め頃に帰国の途に就く。そこへ輝虎の留守を狙って越府の攻略を期する甲州武田信玄が、3月18日に信・越国境の信濃国水内郡芋河荘の野尻城を攻め落とし、国境を越えて付近の郷村を荒らし回ったので、休む間もなく信・越国境へ向かい、即日、野尻城を取り返した。また、4月上旬から中旬に掛けて、甲州武田軍と連動して越後に攻め入るはずだった奥州会津の蘆名軍(重臣が率いる軍勢)が一月遅れで越後に侵攻すると、越後・陸奥国境の越後国蒲原郡菅名荘の雷城と神洞城を攻め落としたので、上田衆(甥である上田長尾喜平次顕景の同名・同心・被官集団)を初めとする軍勢を派遣し、下旬には蘆名軍の多数を討ち取って追い払うと、慌てて詫びを入れてきた蘆名盛氏(止々斎)・同盛興父子と和解した。


 【29】(50) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄10年の秋中、信濃奥郡に在陣して甲州武田軍と駆け引きする。

 永禄10年7月、信濃国の奥郡に出陣し、甲州武田陣営に属する信濃国衆の市川信房が拠る信濃国水内郡の野沢要害などを威圧したのち、自陣営の拠点である信濃国水内郡の飯山城に改修を施すなどしながら、信濃国のどこかに在陣中の甲州武田軍と駆け引きした。9月中旬には本陣のほか、越後国頸城郡の祢知城衆(譜代衆の斎藤下野守朝信・信濃衆の赤見六郎左衛門尉・旗本衆の小野主計助で編成し、信濃口と越中口を警戒させている)の目付を広く展開して敵の陣容を探るなか、濃州を併合した尾州織田信長が甲府へ攻め込むので、甲州口が激しく動揺しているらしいとの情報を入手し、これが関東表から寄せられた情報とも一致していることから、甲州武田軍の撃破に期待を抱いたが、好機は訪れなかったので、間もなく帰府した。

 【30】(51) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄10年10月27日、下野国唐沢山城下で相州北条軍と戦う。

 永禄10年10月中旬、下野国唐沢山城の主郭に拠る唐沢山城衆(越後衆)と各所からの急報によって、唐沢山城衆が相州北条軍(先遣軍)及び佐野地衆に手引きされて反逆した佐野昌綱(本来の唐沢山城主。当時は副郭に居住していたか)の攻撃を受けて窮迫していることと、相州北条軍(増援軍)が利根川に船橋を渡して上野国邑楽郡佐貫荘の赤岩の地から唐沢山城に向かっていることを知り、直ちに関東へ向けて出馬し、24日には上野国利根郡沼田荘の沼田城に着陣する。翌25日には上野国の中央部に進み、27日までの間に、上野国群馬郡の厩橋城、同じく新田郡新田荘の金山城、下野国足利郡足利荘の足利城を初めとした二十ヶ所の敵地を突っ切り、利根川を渡って赤岩の船橋を切り落とすと、唐沢山城を取り巻く両北条軍に突撃し、本営に肉迫するほどの勢いで敵陣を蹴散らしたところ、両北条軍は総大将の相州北条氏政が在陣する武蔵国埼玉郡の岩付城へ、唐沢山城の主郭を攻め立てていた佐野軍は下野国都賀郡の藤岡城へと、いずれも真夜中に逃げ去った。その後、佐野昌綱を降伏させて戦後処理を行い、佐野は越後から遠隔地であることから、唐沢山城の番城体制を諦め、昌綱の懇願を受け入れて城主に復帰させると、色部・吉江・荻原ら在城衆はもちろん、昌綱の子である虎房丸と佐野家中からも差し出させた三十余名の証人を伴い、11月12日に上野国沼田城へ戻り、21日に帰国の途に就いた。


 【31】(52) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄11年3月中旬、越中国守山(二上山)城を攻める。

 永禄11年3月上旬から中旬に掛けて越中国へ出馬(近江国に流寓中の畠山悳佑(義続)・同義綱父子の能登国への復帰支援といわれる)し、15日に中部まで進陣すると、越中国増山の神保氏一族の神保氏張が拠る越中国射水郡の守山(二上山)城攻略のために放生津に布陣する。その攻囲中、甲州武田信玄と内通していた外様衆の本庄繁長が、輝虎に遺恨の一理があると称して、13日に留守居していた越府から本拠地の越後国瀬波(岩船)郡小泉荘の村上城に戻って挙兵したばかりか、越中国味方中の椎名康胤(越中国新川郡の金山(松倉)城主)も甲州武田信玄と結んで、越後国上杉軍の帰路を断つ形で挙兵したとの凶報を受けると、急遽、25日の未明に放生津陣を撤収した。この本庄繁長の反乱には、外様衆の大川三郎次郎長秀(本庄氏の庶族)の弟である孫太郎・藤七郎兄弟が荷担し、兄の大川長秀を居城(越後国瀬波(岩船)郡小泉荘藤懸(府屋)城)から追い出している。


 【32】(53) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄11年4月中、越中国金山(松倉)城を攻める。

 永禄11年3月25日に越中国放生津陣を引き払ったのち、椎名康胤が立て籠もる越中国金山(松倉)城を取り囲んだが、ひと月ほどして攻略を諦め、5月の初め頃には帰府した。


 【33】(54) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄11年8月中旬、信濃国の奥郡に出陣してきた甲州武田信玄と駆け引きする。

 永禄11年4月の終わりから5月初めに掛けて、越中国松倉陣を引き払って帰府すると、自身は越府防衛のため、まだ越後国の奥郡へは下れないことから、5月4日前後に、譜代衆の柿崎和泉守景家と旗本衆の直江大和守政綱を主将とした軍勢を、本庄繁長が拠る越後国村上城へ派遣する。この間に本庄繁長は、同族の鮎川孫次郎盛長の居城である越後国瀬波(岩船)郡小泉荘の大場沢城を攻め落とす一方、外様衆の同輩である中条越前守らに密書を届けて味方に誘う。しかし、中条越前守は密書の封を切らずに輝虎へ差し出している。その後、柿崎・直江両名を主将とした派遣軍と鮎川盛長をもって、6月中旬までに村上城の向城である下渡嶋城の整備と庄厳城の再興を完了させる。7月中旬、敵領の信濃国水内郡太田荘の長沼境に軍勢を派遣したところ、甲州武田信玄が信濃国の奥郡に出陣してきたが、連雨による増水のために千曲川と犀川を渡れず、滞陣を余儀なくされている。8月中旬、甲州武田軍が長沼に現れたので、自ら出馬して信濃・越後国境まで進むも、敵軍は逃げ去ってしまったので、やむなく後退したところ、敵軍が押し出してきたことから、再び前進するも、またもや敵軍は逃げ去ってしまったので、越府に帰還した。


 【34】(55) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄11年11月7日、越後国村上城を攻める。

 永禄11年8月中旬、越中国金山(松倉)の椎名康胤が攻勢に出てきたことから、越後国村上陣の柿崎和泉守景家・直江大和守政綱に対し、山浦某(一家衆)・色部修理進勝長(外様衆)・北条弥五郎景広(譜代衆)・新発田衆(外様衆・新発田尾張守忠敦の軍勢。新発田忠敦自身は信濃国飯山城の守備に就いている)らを越府に寄越すように指示する。この頃までに、信濃・越後国境の手当てとして、信濃衆(外様平衆)が守る信濃国水内郡の飯山城へ新発田尾張守忠敦・五十公野某(玄蕃允か。外様衆)・吉江佐渡守忠景(旗本衆)と十騎から十五騎の旗本衆(横目)を、信濃衆の須田順渡斎・同左衛門大夫、越後衆の平子若狭守(実名は房政か。譜代衆)・宇佐美平八郎(実名は実定か。同前)・越後国関山宝蔵院の衆徒が守る越後国頸城郡の関山城へ上杉十郎(実名は景満か。一家衆)・山本寺伊予守定長(一家衆)・竹俣三河守慶綱(外様衆)・山岸隼人佑(実名は光重か。譜代衆)・下田衆(譜代衆・下田長尾氏の同名・同心・被官集団)と十騎から十五騎の旗本衆を増援に向かわせ、越中・越後国境の手当てとして、越後国西浜の根知城と不動山城へも多数の旗本衆を派遣する。そのため、自分の手許には河田豊前守長親の率いる軍勢、山吉孫次郎豊守の率いる三条衆と本庄清七郎(実名は綱秀か)の率いる栃尾衆が半数づつしか残らず、地下鑓を召集して軍勢を補い、信濃・越中国境が積雪で閉ざされる時期を待つ。9月中には、本庄繁長の反乱への荷担が疑われる出羽国の味方中の大宝寺義増(出羽国田川郡大泉荘大浦城主)に対し、その嫌疑を晴らすように迫る。同月22日に、村上城の付城である下渡嶋城を城衆が放棄したとの急報を受け、もうひとつの付城である庄厳城を守る鮎川孫次郎盛長(外様衆)と三潴左近大夫(実名は長能か。旗本衆・三潴出羽守長政の嫡男)に城の堅持を命じ、10月上旬には鉄炮の玉薬を補給するとともに、いよいよ来る17日に本庄口に出馬することを伝える。20日以前に出府すると、11月の初めには村上の地に着陣し、7日に督戦を開始した。同月下旬、陣衆の中条越前守から、同族である黒川四郎次郎平政の被官・石塚玄蕃允が敵方に内通しているとの情報を寄せてきたので、石塚を取り調べて不義の事実を自供させると、中条越前守に血判起請文を与えて、その忠節に報いることを約束した。


 【35】(56) 越後国(山内)上杉輝虎(旱虎)、永禄12年正月9日、夜襲を仕掛けてきた本庄繁長を退ける。

 永禄12年正月9日未明に本庄繁長が夜襲を仕掛けてくるも、上田衆らの奮闘によって撃退した。陣衆のうち色部修理進勝長(外様衆。村上本庄氏とは同族)は、この戦いにおける傷がもとで10日に死去したともいわれる。一方、13日に越・羽国境の越後国瀬波(岩船)郡小泉荘の燕倉城に在陣する大川三郎次郎長秀に対し、その大川長秀の許に軍監として派遣した三潴出羽守長政(旗本衆)を通じて藤懸(府屋)城奪還を励ますと、ちょうどその日に大川が大宝寺衆の加勢と内通者を得て奪還作戦を実行に移し、二昼夜に亘って攻め立てるも、城方に内通者が摘発されてしまい、あえなく失敗に終わっている。それでも大川は攻囲を続けるつもりでいたが、軍監の三潴長政らの反対に遭うと、若輩の身であることを弁えて反対意見に従い、16日に燕倉城へと後退している。


 【36】(57) 越後国(山内)上杉輝虎(旱虎)、永禄12年正月中旬、越後国村上城の外郭を焼き払う。

 永禄12年正月中旬、先の本庄繁長による夜襲を受けて、村上城への攻勢を強めようとするも、外様衆を初めとする在陣衆が攻撃に身を入れないため、自ら旗本衆を率いて村上城の外郭を焼き討ちした。2月から3月に掛けて、羽州米沢(置賜郡長井荘)の伊達輝宗と奥州黒川(会津郡門田荘)の蘆名盛氏(止々斎)の仲介により、本庄繁長の赦免に傾く一方、村上城の攻撃に身の入らない在陣衆から証人を徴集する。それから3月下旬までには交渉がまとまり、本庄繁長が僧体となって詫びを入れるとともに、嫡男の千代丸を証人として差し出し、藤懸城も自落して大川三郎次郎長秀が城主に返り咲いたので、本庄繁長の降伏を認めて帰途に就くと、4月2日に着府した。


 【37】(58) 越後国(山内)上杉輝虎(旱虎)、永禄12年8月20日、越中国堀切城を攻め落とす。

 永禄12年6月に同盟が成立した相州北条家と連携するため、7月下旬に信濃国へ出馬しようとしたところ、甲州武田信玄が講和を打診してきたことから、とりあえず信濃国への出馬を延期する。それでも、信濃・越中国境の状況が案じられたので、両口に軍勢を展開するため、関東から味方中や上野国沼田城衆を呼び寄せる。8月に入ると、改めて相州北条家と連携するため、直江大和守景綱に留守を任せ、今度は関東へ向けて出馬したところ、甲州武田氏と連携している越中国金山(松倉)の椎名康胤が攻勢に出てきたことから、柏崎の地から反転して越中国へ向かう。20日に国境を越えると、各所を焼き討ちしながら進み、その日のうちに新川郡布施保の堀切城を攻め崩した。翌日は堀切から程近い石田の地で人馬を休ませた。


 【38】(59) 越後国上杉(山内)輝虎(旱虎)、永禄12年8月23日、越中国金山(松倉)城を攻める。

 永禄12年8月22日、自身は金山(松倉城)に押し寄せて要害際に陣取る一方、別働部隊をもって新川郡太田保の新庄城を乗っ取らせると、それを堅持させている。23日の夕刻には金山根小屋を焼き討ちし、松倉城を丸裸にして椎名康胤を追い詰めた。


 【39】(60) 越後国(山内)上杉輝虎(旱虎)、永禄12年9月中、越中国森尻荘を押さえる。

 永禄12年9月下旬までに、金山(松倉城)に押さえの軍勢を残した上で、自らは新川郡森尻荘に進陣して要所を制圧した。それに伴い、従軍した年寄衆のうち柿崎和泉守景家(譜代衆)・山吉孫次郎豊守(旗本衆)・河田豊前守長親(同前)を奉者として制札を掲げ、森尻荘内における諸軍勢の濫妨狼藉を停止している。


 【40】(61) 越後国(山内)上杉輝虎(旱虎)、永禄12年10月中、神保家中の反乱を鎮める。

 永禄12年10月上旬、越中国味方中である神保長職(これより前に甲州武田陣営から転じていた。越中国砺波郡増山城主)の家中の一部が造反したことを受け、神通川を越えて越中国の中部へ進陣する。この直前に越中国新川郡の魚津城の城代に任命した河田豊前守長親(旗本衆)の家中衆である長尾紀伊守と小越平左衛門尉に対し、越中国の中部に伴った河田長親の不在中、椎名軍が魚津城に攻め寄せてきても、城に籠って取り合わないように厳命している。下旬までに事態を収めると、金山(松倉城)の押さえとして河田長親を残して帰国の途に就いた。


 【41】(62) 越後国(山内)上杉輝虎(旱虎)、永禄13年正月から同年3月の間、下野国唐沢山城を攻める。

 越中陣を終えて永禄12年10月28日に帰府したのもつかの間、ほとんど休むことなく明後日には関東へ向けて進軍する。その進軍中、越・相同盟に反対している味方中の太田道誉(資正。常陸国衆・佐竹氏の客将。常陸国北郡片野城主)を通じて佐竹義重(常陸国久慈郡太田城主)・宇都宮広綱(下野国河内郡宇都宮城主)ら東方衆の参陣を求める。そして、11月20日に上野国利根郡沼田荘の沼田城に到着すると、そこでまた関東味方中に参陣を呼び掛けた。相州北条家との盟約に従って12月24日に西上野へ攻め込むことを表明したにもかかわらず、相州北条家と同盟を結んだ一方で、内密に甲州武田家とも和睦をしていたことから、年明けの永禄13年正月には、参陣に応じない下野国衆の佐野昌綱が拠る下野国唐沢山城を攻め囲んだ。この佐野陣には、味方中の広田直繁(武蔵国羽生城主)がすぐさま参陣してきた。ここでもまた東方衆に参陣を呼び掛けるなか、2月2日に唐沢山城を激しく攻め立てると、甥の上田長尾喜平次顕景の被官である広居善右衛門尉忠家・下平右近允・小山弥兵衛尉らが戦功を挙げたので、甥とは別で彼らに感状を与えた。3月に入ると、上野国沼田城に戻り、相州北条家と同盟を結び直し、甲州武田家との和睦を破棄することや、初秋に共同で大軍事作戦を挙行することなどを約束する一方、ついに参陣しなかった東方衆とは交渉を絶った。4月11日、養子に迎えた、相州北条氏康の末子である三郎(上杉景虎)と沼田城で対面すると、そのまま帰国の途に就き、18日に着府した。

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