越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

天正五年上杉家家中名字尽(分国衆交名注文)における越後衆の序列と人事について

2018-03-22 07:06:43 | 雑考

 天正5年12月23日に越後国上杉謙信が自ら筆を執った分国衆交名注文における越後衆の序列と人事について考えてみたい。そこで、分国衆交名注文から、左には分国ごとに越後衆のみを抜き出して羅列し、右では、それを身分ごとに分けて羅列し、その性格について検討を加える。本国衆のみは天正三年上杉家軍役帳と対比する。


   〔関東衆〕         【譜代衆】
  
   北条安芸守         北条安芸守高広
   北条丹後守         北条丹後守景広
   後藤左京亮         上野中務丞家成
   河田伯耆守
   大石惣介          【旗本衆】 
   竹沢山城守
   上野中務丞         後藤左京亮勝元
   小中彦兵衛尉        河田伯耆守重親
                 大石惣介芳綱
                 竹沢山城守
                 小中彦右兵衛尉


 譜代衆のうち、関東代官の北条安芸守高広・同丹後守景広父子は上野国厩橋城に拠った。当時、謙信の意向により、父親の高広は代官と厩橋城代の地位を息子の景広に譲って大胡城に在城していたともいわれるが、大胡領を管掌しながらも、基本的には厩橋城にいて景広を補佐していたようであり、こうして関東衆を率いる立場であった北条父子の最上位は不動であるのだろう。上野中務丞家成は上野国沼田城の城衆の一人であり、身分は沼田城将の河田伯耆守重親よりも高いが、関東衆全体における序列は高い方ではない。沼田城といえば、北条父子が拠る厩橋城に次ぐ、越後国上杉家の重要拠点であるが、城衆の河田重親と上野家成を見て分かるように、北条父子以外の部将たちは、その身分と職責にかかわりなく、序列の変動が目まぐるしい。

 旗本衆のうち、上野国女淵城将の後藤左京亮勝元(『戦国期上杉・武田氏の上野支配』)は、重要拠点の沼田城将を任されている河田伯耆守重親よりも上位につけている。天正2年や同4年に比定されている2月5日付後藤勝元・同新六宛上杉謙信感状(『上越市史』1186号、以下『上越』と略す。『関東戦国史 北条VS上杉55年戦争の真実』204頁)にみられるような戦功を積み重ねた結果であろう。


      〔交名注文〕              〔軍役帳〕

 〔本国衆〕       【一家衆】        【一家衆】

 上杉十郎        上杉十郎         上杉弾正少弼景勝
 山浦源五        山浦源五国清       山浦源五国清
 山本寺伊予守      山本寺伊予守定長     上杉十郎
 琵琶嶋弥七郎      琵琶嶋弥七郎       上条弥五郎政繁
                          琵琶嶋弥七郎
 長尾小四郎                    山本寺伊予守定長
 千坂対馬守
 斎藤下野守       【揚北衆】        【揚北衆】
 安田宗八郎
 五十公野右衛門尉    五十公野右衛門尉重家   中条与次景泰
 菅名源三        竹俣三河守慶綱      黒川四郎次郎平政
 竹俣三河守       荒川弥次郎        色部弥三郎顕長
 荒川弥二郎       色部惣七郎長真      水原能化丸
 色部惣七郎       加地宗七郎        竹俣三河守慶綱
 加地宗七郎       中条与次景泰       新発田尾張守長敦
 柿崎左衛門大夫     安田新太郎堅親      五十公野右衛門尉重家
 本庄清七郎       新発田尾張守長敦     加地宗七郎
 吉江喜四郎       鮎川孫次郎盛長      安田新太郎堅親
 中条与次        大川三郎次郎長秀     下条采女正忠親
 河田勘五郎                    荒川弥次郎
 三条道如斎
 竹俣小太郎       【揚南衆】        【揚北衆】
 山岸隼人佑
 新保孫六        菅名源三         菅名源三
 安田新太郎       平賀左京亮重資
 北条下総守       新津大膳亮
 河田対馬守
 新発田尾張守      【譜代衆】        【譜代衆】
 船見
 松本          長尾小四郎景直      斎藤下野守朝信 
 山吉          千坂対馬守景親      千坂対馬守景親
 鮎川          斎藤下野守朝信      柿崎左衛門大夫
 大川          安田惣八郎顕元      新保孫六
 小国刑部少輔      柿崎左衛門大夫      竹俣小太郎
 堀江駿河守       竹俣小太郎        山岸隼人佑
 和納伊豆守       山岸隼人佑        安田惣八郎顕元
 本田右近允       新保孫六
 村山善左衛門尉     小国刑部少輔
             和納伊豆守
             村山善左衛門尉慶綱

             【旗本衆】        【旗本衆】

             本庄清七郎        船見宮内少輔
             吉江喜四郎資賢      松本鶴松
             河田勘五郎        本庄清七郎
             三条道如斎信宗      吉江佐渡守忠景
             北条下総守高定      山吉孫次郎豊守
             河田対馬守吉久      直江大和守景綱
             船見宮内少輔       吉江喜四郎資賢
             松本鶴松         香取弥平太
             山吉           河田対馬守吉久
             堀江駿河守        北条下総守高定
             本田右近允


 こうして本国衆の交名注文と軍役帳を対比すると、ここでも一家衆は最上層の区分で固定されているが、そのうちであっても、上杉苗字を許されている十郎ですら、席次については固定されたものではなく、例外なく序列の変動が激しい。そして、外様衆のうちで上位の席次を常に得ていた中条・色部に変動がみられるのは、かつて輝虎から本庄繁長の反乱時における忠信を認められて信頼を得ていた中条越前守(『上越』626号)の没後、謙信側近の吉江織部佑景資の子である与次景泰が入嗣するのを受け入れざるを得なかった中条家は、家中が反発していたとはいえ、もはや覆すことのできない人事である以上、景泰に協力を惜しんで中条家が功績を挙げられなければ、こうして序列が下がっていくのは避けられず、いずれ家中は景泰を盛りたてていくほかないであろうし、反乱を起こして失敗した本庄弥次郎繁長の下位に置かれることはない確約を得ていた色部家(『上越』1058号)は、当本人の色部弥三郎顕長が疾病による予定外の家督交替に見舞われてしまい、席次の件は永劫の約束であるとはいえ、新しい当主に代わった以上、本庄繁長という下限はあっても、ほかの越後衆との激しい競争は避けられず、次代の色部惣七郎長真は自力で高い席次を獲得しなければならないのであろう。

 この本国衆の序列において、取り分け気になるのは、越中駐留軍の有力者である長尾小四郎景直が譜代衆のうちで最上位に記載されていることである。長尾景直といえば、永禄5・6年頃に越中国金山の椎名康胤の養子となっている(『上越』412号)が、その居城である越中国松倉城に入った様子は窺えず、永禄11年に椎名康胤が越後国上杉陣営を離反してから、椎名・越中一向一揆と結んだ加賀一向一揆が越中国へ進出してきた元亀3年に至り、ようやく越中国に駐留する部将のひとりとして確認できる(『上越』1102号)。そして、謙信没後は越中代官の河田豊前守長親と共に、越中国で江州織田家の北国衆と戦い(のちには上杉陣営と織田陣営の間を変転とする)、敵方から椎名小四郎と呼称されている(『富山県史 史料編』1910号)ことからすると、元亀4年に滅ぼされた椎名康胤の名跡を長尾苗字ままで継いだ可能性が高い。このように苗字が併用されている例は、山浦上杉氏を継いだ村上源五国清にもみられる(『上越』1819号)。椎名氏の滅亡後、越中国松倉城に拠って金山領を管掌したのは河田長親であり、景直による椎名家の相続は名ばかりではあったが、織田軍との戦いでは河田と並び立っているほどなので、越中駐留軍の有力者であることに間違いはなかろう。つまるところ景直が本国衆登録であるのは、越中衆には東西の代官である河田長親と吉江織部佑景資だけでなく、現能登代官で前越中西郡代官の鯵坂備中守長実までが揃っており、このうえ景直までいては、いたずらに船頭が多くなってしまうのを気にしたのかもしれないし、長年に亘る北陸経略の功労者である寵臣の河田と鯵坂を前面に立てて、越中国平定を広く宣伝したかったのかもしれないが、後述する能登衆の事情に影響された面が大きい人事ではないかと思われる。

 苗字のみの部将は陣代が軍勢を率いるのであろう。揚北の外様衆の鮎川と大川は、かねてより、先年に反乱を起こして失敗した同族の本庄弥次郎繁長(雨順斎全長)が蟄居生活を送る越後国猿沢城の監視役を、謙信旗本の三潴左近大夫らと共に務めていた(『上越』614・1030号・1439号)ので、当主の鮎川孫次郎盛長・大川三郎次郎長秀とそれぞれの家中の一部は在地に残されることになったのであろう。旗本の船見は、天正三年軍役帳でも苗字のみであることからすると、この頃に船見宮内少輔が実家である信濃衆の須田家を継ぎ、何らかの事情により、船見家の当主が決まらないままであったのかもしれない。同じく松本は、当主の鶴松がまだ幼少であるから、同じく山吉は、謙信の最側近のひとりであった山吉孫次郎豊守、続く米房丸と当主の死去が相次いだようで、嫡流が絶えて改易に処されしまい、この時点では豊守の弟である孫五郎景長の家督相続はまだ決まっていなかったからではないだろうか。


   〔越中衆〕          【譜代衆】

   河田豊前守          計見与十郎
   鯵坂備中守
   吉江織部佑          【旗本衆】
   計見与十郎
                  河田豊前守長親
                  鯵坂備中守長実
                  吉江織部佑景資


 この越中衆においても、東郡代官の河田豊前守長親と西郡代官の吉江織部佑景資の序列は不動であり、直臣化した越中味方中がこれを上回ることはないであろう。鯵坂長実については、本来は能登代官として能登国七尾城に拠っていたにもかかわらず、能登衆登録ではないのは、謙信による越中平定の直後から能登代官に任命される直前まで越中の西郡代官を務めていた関係から(それ以前には越中国新庄城将を務めていた)、馴染みの越中衆に配されたことになり、この人事は、次に示す能登衆の構成と関わりがあるのだろう。


   〔能登衆〕          【一家衆】

   上条弥五郎          上条弥五郎政繁
   直江大和守
   平子若狭守          【譜代衆】
   長 与一
                  平子若狭守

                  【旗本衆】

                  直江大和守景綱
                  長 与一景連

 
 本来、この能登衆は、能登国の代官で七尾城代の鯵坂備中守長実が筆頭となるべきであろうが、謙信による能登国平定後に能州畠山家出身の上条弥五郎政繁が七尾城内に置かれたことからすると、謙信は、幼主を戴く年寄衆に牛耳られている能州畠山家から、畠山年寄衆らを除いて上条政繁を名目上の当主に据えるといった大義名分を掲げながら、能登国へ攻め入ったと思われるので、謙信が天正6年春に挙行するはずであった関東大遠征では、大儀を果たした象徴として上条政繁に能登衆を率いさせることでの宣伝効果を期待したのではないだろうか。能登国平定後に上条政繁が七尾城内に置かれるにあたり、謙信から諸々の制約を課せられている(『上越』1358号)のは、いかに政繁が謙信一家に列せられているとはいえ、公約に従って政繁を能登国に還住させるとなれば、実権を与えていなくとも警戒を要する存在となったので、謙信は関東大遠征の陣容を考えるにあたり、腹心の直江大和守景綱を政繁のお目付け役として能登衆に配したのであろう。

 以上、天正五年分国衆交名注文における越後衆の序列と人事についての考えを示した。最後に付け加えると、一家衆の桃井伊豆守義孝、揚北の外様衆の黒川四郎次郎平政、揚南の外様衆の平賀左京亮重資・新津大膳亮、譜代衆の下田長尾一右衛門尉・甘糟近江守長重・石川中務少輔、旗本衆の三潴出羽守長政・神余小次郎親綱(越後国三条城主)・毛利名左衛門尉秀広・村田忠右衛門尉秀頼などの有力部将の名が見えないは、本国や任地に残留するからであろう。そうなると気になるのは、軍役帳に載りながらも交名注文には載らない、謙信養子の上杉弾正少弼景勝と、どちらにも載らない、同じく上杉三郎景虎のことである。これは、天正3年に上杉景勝が謙信の養子となってから、天正5年に至っても陣代の栗林次郎左衛門尉が景勝の同名・同心・被官集団である上田衆を引率し、謙信の指示で関東や北陸を渡り歩いており(『上越』1224・1307・1330号)、景勝が単独で上田衆を率いて各地を往来している様子は窺えないことからすると、景勝は一部の上田衆を供として、謙信の遠征には常に帯同されていたのではないだろうか。上杉景虎については、元亀元年冬に謙信が関東へ出陣した際、越府で信・越国境の警戒にあたらされていたところ、積雪期に入って関東へ呼び寄せられている事例があり(『上越』948号)、陣代が景虎の直臣団を率いた様子は窺えないが、謙信の養子が二人体制になってからは、二人のどちらかが越府で留守居をしている様子はなく、景勝と同様に謙信の遠征には常に帯同されていたのではないだろうか。もし、交名注文に景勝・景虎が記載されたとしたら、どちらが上位になるのかはさておき、軍役帳で一家衆のうち景勝以外の者には「殿」と敬称が付されているのに対し、「御中城様」こと景勝だけが「御・様」の敬称を付されているように、明らかな家格の差がみられる(『上杉謙信の家督継承と家格秩序の創出』)ことからして、二人が次席を下回ることはなかったであったろう。


◆ 上杉景勝は長尾顕景期に、元亀3年秋の謙信による北陸遠征に際し、関東に在陣していた上田衆の主力が越中国富山陣へ呼び寄せられても、謙信旗本の有力部将と共に越府の防衛にあたっていたが、積雪期を迎えてから謙信旗本の山吉豊守と共に越中国富山陣へ呼び寄せられているように、上田衆の主力は一貫して栗林次郎左衛門尉が率いていた(『上越』1114・17・20・21・22・1454・56・57・59・61号)。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』412号 上杉輝虎願文、614号 上杉輝虎書状、626号 上杉輝虎起請文、948号 上杉輝虎(謙信)条書、1102号 長尾景直・鯵坂長実連署状(写)、1030号 上杉謙信書状(写)、1058号 上杉謙信判物、1114・1117・1120号 上杉謙信書状、1121号 上杉謙信書状(写)、1122号 上杉謙信書状、1186号 上杉謙信書状(写)、1224号 上杉謙信書状、1246号 上杉家軍役帳、1307・1330号 上杉謙信書状、1358号 上杉謙信条書(写)、1369号 上杉家家中名字尽手本、1439号 上杉謙信書状(写)、1454・1456・1457・1459・1461号 上杉謙信書状 『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1819号 上杉景勝一字書出 『富山県史 史料編Ⅱ 中世』1910号 織田信長朱印状(写) 『上越市史 通史編2 中世』 片桐昭彦「上杉謙信の家督継承と家格秩序の創設」(『上越市史研究』第10号)  栗原修「上杉氏の勢多地域支配」(『戦国期上杉・武田氏の上野支配 戦国期研究叢書6』岩田書院) 黒田基樹『関東戦国史 北条VS上杉55年戦争の真実』(角川ソフィア文庫)
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天正三年上杉家軍役帳における越後衆の区分と身分について

2018-03-21 23:59:59 | 雑考

天正三年上杉家軍役帳における越後衆の区分と身分について考えてみたい。

 まず、ここでいう越後衆とは、越後守護代長尾晴景の命により、その弟の長尾景虎が越後長尾氏の有力支族である古志長尾氏を継いだのを皮切りに、兄の晴景との対立の末、越後守護代長尾家を継ぎ、その数年後には、越後守護上杉家の断絶に伴い、事実上の越後国主の地位を得ると、さらには関東管領山内上杉憲政の没落に伴い、その養子となって山内上杉家を継いで苗字・実名を改め、上杉政虎、ついで輝虎を名乗り、やがて謙信と号したことから、長尾景虎が成り上がっていくに従い、その家臣団の構成が変容し、越後国長尾景虎は、越後守護上杉家の一家衆の上に立ち、外様衆と守護上杉家の譜代衆を抱え、同側近家臣と守護代長尾家の譜代家臣と古志長尾氏の被官たちを旗本・馬廻として統合し、主にそのうちから政務を担当する者を選び、のちには譜代衆の一部を年寄衆に登用して限定した職務を担わせるような状況を経て、越後国(山内)上杉輝虎は、越後守護上杉家の旧重臣や上・中郡の国衆を統合して譜代と呼び、旗本・馬廻に多くの他国出身者を加えていき、最終的に謙信は、上杉一家衆や外様衆の一部に近しい者を送り込み、外様衆の一部を年寄衆に登用して限定した職務を担わせ、譜代と旗本の有力者に一部の中・小国衆を吸収させるなどして、強大に組織した集団である。

 次に、越後国を大きく三分割した上・中・下郡の呼称とは、当時の越後国は頸城郡・刈羽郡・魚沼郡・山東(西古志)郡・古志(東古志)郡・蒲原郡・瀬波(岩船)郡の七郡からなり、これを分けて上(府)郡・中郡・下(奥)郡と呼ばれていた(『新潟県史 通史編2』)。その内訳は、上郡が頸城郡、中郡が魚沼郡・刈羽郡・山東郡・古志郡・蒲原郡以南、下郡が蒲原以北・瀬波郡である(『戦国大名家臣団事典 東国編』)。ただし、上郡については、関東から清水峠と三国峠を越えてくる通路が合する六日町から、十日町を経て、安塚より国府に至る関東と越後府内を最短距離で結ぶ街道に沿った魚沼郡と頸城郡が上郡と呼ばれたとして、魚沼郡を含む考えもある(『別冊歴史読本 上杉謙信の生涯』)。

 天正三年上杉家軍役帳といえば、よく諸書で用いられている軍役帳の区分表は、藤木久志氏が作成された区分表(『藩制成立史の綜合研究 米沢藩』)であり、よく諸書で引用されている。その区分表では越後衆が、一門、下郡国衆、上郡・中郡国衆、旗本の四つの身分で区分されており、それに沿ったものを左下に示す。しかし実際には、一家衆、揚北と揚南の外様衆、譜代衆(上・中・下郡国衆)、旗本衆の五つに区分されていたのではないかとの考えから、それを右下に示して、これまでの区分と対比する。そこでは実名が判明している部将たちに実名を付するとともに、軍役帳における通称の書き誤りと思われるものを改めた。なお、謙信の発給文書において、越後衆はそれぞれ一家、外様、譜代、旗本と身分表記されているため、これに従った。ちなみに、揚北の外様衆は奥衆・奥郡之者、謙信の旗本衆は身之者共・身之馬廻、馬廻之者、手飼之者などとも書かれている(『上越市史 上杉氏文書集』124・134・413・545・613号・1123・1347・1456・7・9号、以下『上越』と略す)。


 〔一門〕            【一家】

 御中城様            上杉弾正少弼景勝
 山浦殿             山浦(村上)源五国清
 十郎殿             上杉十郎
 上条殿             上条弥五郎政繁
 弥七郎殿            琵琶嶋弥七郎 
 山本寺殿            山本寺伊予守定長

 〔下郡国衆〕          【外様衆(揚北)】

 中条与次            中条与次景泰
 黒川四郎次郎          黒川四郎次郎平政
 色部弥三郎           色部弥三郎顕長
 水原能化丸           水原能化丸
 竹俣三河守           竹俣三河守慶綱
 新発田尾張守          新発田尾張守長敦
 五十公野右衛門尉        五十公野右衛門尉重家
 加地彦次郎           加地彦次郎
 安田新太郎           安田新太郎堅親
 下条采女正           下条采女正忠親
                 荒川弥次郎

 〔上・中郡国衆〕        【外様衆(揚南)】

 荒川弥次郎(上郡)       菅名源三(中郡)
 菅名与三(中郡)        平賀左京亮重資(中郡) 
 平賀左京亮(中郡)       新津大膳亮(中郡)
 新津大膳亮(中郡)
 斎藤下野守(上郡)       【譜代衆(各郡国衆)】
 千坂対馬守(上郡)
 柿崎左衛門大輔(上郡)     斎藤下野守朝信(中郡)
 新保孫六(上郡)        千坂対馬守景親(下郡)
 竹俣小太郎(上郡)       柿崎左衛門大夫(上郡)
 山岸隼人佐(上郡)       新保孫六(下郡)
 安田惣八郎(上郡)       竹俣小太郎(下郡ヵ)
 舟見(上郡)          山岸隼人佑(中郡)
                 安田惣八郎顕元(中郡)

 〔旗本〕            【旗本衆】

 松本鶴松            船見宮内少輔
 本庄清七郎           松本鶴松
 吉江佐渡守           本庄清七郎
 山吉孫次郎           吉江佐渡守忠景
 直江大和守           山吉孫次郎豊守
 吉江喜四郎           直江大和守景綱
 香取弥平太           吉江喜四郎資賢
 河田対馬守           香取弥平太
 北条下総守           河田対馬守吉久
                 北条下総守高定

 〔区分外の部将〕        【譜代衆】

 小国刑部少輔(中郡)      小国刑部少輔(中郡)
 長尾小四郎(一門)       長尾小四郎景直(上郡)


 このように区分を五つに改めたわけであるが、大永6年に越後守護代長尾為景が外様衆の忠信を求めて、揚北衆の中条・黒川・本庄・色部、揚南衆の新津・千田・豊島に起請文を提出させており(『新潟県史 資料編』233・4・5・6・7号、以下『新潟』と略す)、揚北衆と揚南衆を分けず、外様衆で一括りにされていた可能性はある。それでも、阿賀野川南岸、信濃川東岸地域の蒲原郡金津荘・菅名荘という要所に拠った、揚北衆に次ぐ伝統的な国衆である平賀左京亮重資・菅名源三・新津大膳亮たちと、越後守護上杉家の年寄として重責を担った父祖たちから続く譜代的な国衆である斎藤下野守朝信・千坂対馬守景親たちの間で区切り、前者の平賀以下を外様衆、後者の斎藤以下を譜代衆と身分表記することには妥当性があるのではないだろうか。こうして区分を改めたことにより、身分を見直さなければならなかった部将たちがいるので、その理由を次で説明する。

 まず、藤木氏により上郡国衆に区分されている荒川弥次郎は、藤木氏よりも後に作成された杉山博氏による区分表(『日本の歴史 11 戦国大名』)では、その身分が下越国人衆に比定されており、これは、奥州西山の伊達晴宗が父の稙宗と対立した際、味方中の揚北衆中に宛てた天文9年12月7日付けの書状(『新潟』2045号)の宛所に、色部・竹俣・黒川・加地・安田・水原・鮎川・新発田・五十公野・小河と並んで荒川の名がみえることから、杉山氏による比定の方が正しいと考えた。

 続いて、同じく上郡国衆に区分されている船見宮内少輔(のちの須田相模守満親)は、天正4年秋から同5年春にかけての謙信による北陸遠征中、越中・能登国境に位置する能登国石動山城に配備された直江大和守景綱・山吉米房丸・吉江喜四郎資賢・河田対馬守吉久の部将たちと並んで舟見代(陣代の杉原弥左衛門尉盛綱・柳新右衛門尉季顕)が、謙信の軍令に従う旨を誓って天正4年12月24日に起請文(『上越』1315号)を提出しており、直江以下の顔触れはいずれも旗本衆であることから、船見宮内少輔も旗本衆の一員であったと考えた。

 区分外の小国刑部少輔と御屋敷長尾小四郎景直(永禄年間に越中国金山の椎名康胤の養子となった)は、それぞれ中郡国衆と一門で身分表記されているが、小国の本領は信濃川西岸地域の蒲原郡弥彦荘内の要所であるから、中郡国衆であるのは間違いないとはいえ、その地域性からすれば、身分は譜代衆に属するであろうこと。長尾景直は上田長尾喜平次顕景(のちの上杉景勝)と同様に謙信の近親者であり、越後国上杉家において別格の存在であったとはいえ、長尾苗字を名乗っている以上、身分としては譜代衆に属したであろうこと。このように、いずれも譜代衆に属するものと考えたが、どうして区分外に記されているのかは分からない。


◆ 揚北衆は定員が決まっていたようで、天文20年に秩父本庄一党の小河右衛門佐長資が本庄弥次郎繁長に切腹させられる(『新潟』1107・8・8(ママ)・9・10・11・12・1985号)と、それに代わって昇格した大川某(三郎次郎長秀の父)が一党に加わっている。三浦和田一党は中条・黒川、秩父一党は本庄・色部・鮎川・大川、佐々木加地一党は加地・新発田・竹俣・五十公野、大見一党は水原・安田・下条、波多野河村一党の荒川・垂水がそれにあたる。中条における築地(『新潟』築地文書)、竹俣における池原(『新潟』1437号)などの有力者もいたが、あくまで庶族の扱いであった。こうした庶族のうちには、越後守護上杉家時代の中条一族における関沢掃部助顕元(『新潟』1316号)、謙信期の新発田一族における新保孫六のように、惣領家から離れて上杉家の直臣となった者たちがいた。揚北衆のうちでも、長尾景虎期には越後侍衆御太刀之次第における中条・本庄・色部と加地・竹俣・大川・鮎川・安田・水原・下条・荒川(『新潟』832号)の間では、彼らが献上する太刀の拵えには金覆輪と糸巻の格差があり、上杉政虎期の永禄4年9月13日付感状における中条・色部と安田・垂水(『上越』282・3・4・7号)の間では、彼らが拝領した感状の書き止め文言には恐々謹言と謹言の格差があった(『戦国期越後上杉氏の研究』)。しかしそれも、上杉輝虎期に入り、輝虎の権力が強まっていくにつれ、彼らに対する書札礼の格差はみられなくなる。
◆ 長尾景虎が事実上の越後国主となったことから、上杉氏の一家衆に越後長尾一族の古志長尾十郎景信がそれに属するような時期もあったが、上杉輝虎期以降は、こうした変則的な事態は解消されて、越後国(山内)上杉家の一家衆と越後長尾一族は線引きされていた。それからの輝虎は、有力部将の陪臣たちと連絡を取った際、上田長尾顕景の一族である大井田(長尾)藤七郎・長尾伊勢守(『上越』457・8・465号)、古志長尾氏の家中を多く抱える河田長親の配下である長尾紀伊守(『上越』814号)のように、そのなかで長尾苗字の者がいれば、ほかの陪臣よりも厚礼の敬称を用いるなどして、長尾一族に一定の配慮を加えている。謙信期には、外征中に越府で残留させている上田長尾顕景、側近衆の山吉孫次郎豊守・河田対馬守吉久・北条下総守高定・山崎専柳斎秀仙に連絡を取った際(『上越』1121・2号)、甥である顕景だけの宛名を高い位置に書いたり(『直江兼続生誕450年 特別展 上杉家臣団』)、越後衆へ宛てた書状に据えた花押を、家格が高い一家衆・外様衆・譜代衆には太書き、親近の旗本衆には細書きという具合に書き分けたりしているのだが、顕景は譜代衆に属するにもかかわらず、基本的に謙信旗本らと同様に細書きの花押を据えた書状を送っており、これらの対応からみても、謙信にとって長尾苗字の者、取り分け喜平次顕景は別格の縁者であったことが分かる。長尾顕景改め上杉景勝へ謙信が送った書状はほとんど残っておらず、年次未詳正月6日付上杉謙信書状写(『上越』1382号)のように、書き止め文言が顕景期と同じく「謹言」であるから、おそらく花押も親近者仕様のままではないだろうか。長尾景直については、謙信期の受給文書が残っていないために確認ができない。


 以上のように、天正三年上杉家軍役帳における越後衆の区分と身分についての考えを示したみた。本来、この軍役帳には小国刑部少輔と長尾小四郎景直以外にも、何らかの理由により、区分から外れている部将たちの分の続きと、謙信の旗本衆が大身の部将しか記されておらず、謙信には相当な人数に上る中・小級の旗本衆(馬廻衆)がいたので、当然ながら、こうした旗本たちにも軍役が定められており、実際に輝虎期の軍役状(『上越』548・555・588・589号)が数点残っていることから、中・小旗本衆の分の続きがあったのかもしれない。 


 参考として、関東と北陸に駐在するなどの理由から軍役帳に記載されていない越後衆がおり、天正五年上杉家家中名字尽(分国衆交名注文)から分国ごとに越後衆のみを羅列し、一段空けたところからは諸史料から抽出した部将を羅列していく。ただし、天正3年当時における部将たちの所在地や通称を反映するので、交名注文からの部将には一部に移動がある。交名注文から抜き出した部将以外の順列は史料に現れる時期が早い部将から先に挙げていく。


 〔関東衆〕        〔本国衆〕       〔北陸衆〕

              【一家衆】


              桃井伊豆守義孝

              【揚北衆】

              鮎川孫次郎盛長
              大川三郎次郎長秀

              垂水右近允

 【譜代衆】        【譜代衆】

 北条安芸守高広(中郡)  平子若狭守(中郡)
 北条丹後守景広(中郡)  計見与十郎(中郡ヵ)        
 上野中務丞家成(中郡)  村山善左衛門尉慶綱(上郡)
              和納伊豆守(中郡)

              長尾一右衛門尉(中郡)
              甘糟近江守長重(中郡ヵ)
              石川中務少輔(下郡)
              長尾右京亮(上郡ヵ)
              長尾筑後守(上郡ヵ)  
              青海川図書助(上郡)

 【旗本衆】        【旗本衆】        【旗本衆】

 河田伯耆守重親      吉江織部佑景資      河田豊前守長親
 後藤左京亮勝元      本田右近允        鯵坂清介長実 
 大石惣介芳綱       堀江駿河守
 小中彦右兵衛尉      長 与一景連       毛利名左衛門尉秀広
 竹沢山城守        河田勘五郎        村田忠右衛門尉秀頼

 発智右馬允長芳      三潴出羽守長政
 小幡山城守        新保清右衛門尉秀種
              吉江民部少輔
              岩船藤左衛門尉   
              岩井備中守昌能
              諏方左近允          
              開発中務丞
              庄田越中守
              楡井修理亮親忠
              小倉伊勢守
              神余小次郎親綱
              吉益伯耆守
              佐野清左衛門尉


◆ 揚北衆中で一二を争う実力者である本庄弥次郎繁長の名が軍役帳にも交名注文にも見えないのは、反乱を起こして失敗に終わると、法体になり、嫡男を越府へ差し出して恭順の意を表し、本拠地の越後国村上城から領内の猿沢城へ移って蟄居生活を送ることになったので、それ以降に謙信が挙行した外征には参陣を許されず、陣代が本庄衆を率いている(『上越』1149号)ような状態であったからだと思われる。
◆ 謙信旗本の毛利名左衛門尉秀広は、主に越中国で活動していたようであるが、謙信没後に御館の乱が起こると、上杉景勝方として越後国犬伏城に拠っていたりする(『上越』1107・1599号)ので、謙信の最晩年には本国にいたのかもしれない。

『新潟県史 資料編3 中世一』233号 新津景資起請文、234号 千田憲次・豊島資義連署起請文、235号 本庄房長・色部昌長連署起請文、236号 黒川盛重(実)起請文、237号 中条藤資起請文、832号 越後侍衆・馬廻衆・信濃・関東大名衆等祝儀太刀次第之写、839号 上杉家軍役帳、886号 上杉家家中名字尽手本 『新潟県史 資料編4 中世二』1107・1108・1108(ママ)・1109・1110・1111・1112号、1316号 中条秀叟(房資)記録、1437号 長尾為景書状、2045号 伊達晴宗書状案写 『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』124号 長尾宗心条書、134号 長尾宗心願文(写)、282・283・284号 上杉政虎感状、287号 上杉政虎感状(写)、412号 上杉輝虎願文、457・458号 上杉輝虎書状(写)、465・545号 上杉輝虎書状、548号 上杉輝虎ヵ軍役覚(写)、555・588・589号 上杉輝虎朱印状(写)、613号 上杉輝虎書状、814号 上杉輝(旱)虎書状(写)、1107号 寺崎盛永・毛利秀広連署状、1121号 上杉謙信書状(写)、1122・1123号 上杉謙信書状、1149号 上杉謙信書状(写)、1315号 直江景綱等六名連署起請文(写)、1347号 上杉謙信書状、1382号 上杉謙信書状(写)、1456・1457・1459号 上杉謙信書状 『上越市史 別編Ⅱ 上杉氏文書集二』1599号 上杉景勝書状 『新潟県史 資料編3 中世一 文書編Ⅰ 付録』 『新潟県史 資料編4 中世二 文書編Ⅱ 付録』 『新潟県史 資料編5 中世三 文書編Ⅲ 付録』 『上越市史 別編1 上杉氏文書集一 別冊』 阿部洋輔「越佐中世の舞台」(『新潟県史 通史編2 中世一』) 藤木久志「家臣団の編制」(藩制史研究会『藩制成立史の綜合研究 米沢藩』吉川弘文館) 藤木久志「家臣団の編制」(阿部洋輔編『上杉氏の研究 戦国大名論集9』吉川弘文館) 木村康裕「上杉謙信発給文書の分析」(『戦国期越後上杉氏の研究 戦国史研究叢書9』岩田書院) 阿部洋輔「上杉氏家臣団構成」(山本大・小和田哲男編『戦国大名家臣団事典 東国編』新人物往来社)  阿部哲人「景勝権力の展開」(直江兼続生誕450年 特別展 上杉家臣団』米沢市上杉博物館)  杉山博「家臣団と軍事力」(『日本の歴史11 戦国大名』中公文庫)  井上鋭夫「戦国の越後と越後上杉氏のルーツ」(『別冊歴史読本 上杉謙信の生涯』新人物往来社)
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