越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

追加【2】

2018-10-30 17:34:00 | 雑考

 片桐昭彦氏の論考である「春日社越後御師と上杉氏・直江氏 -「大宮家文書」所収文書の紹介-」で取り上げられた永禄2年6月28日付野田宮内大輔宛村山善左衛門尉慶綱書状(史料5)により、越後国上杉謙信の最晩年の天正5年に所見される村山善左衛門尉慶綱(譜代衆・山岸隼人佑の次男)という人物が、越後国長尾景虎による永禄2年夏から秋にかけて挙行された上洛の折に越後国長尾家の重臣として現れるため、すでに長尾景虎期から活動を始めていた人物であることが分かりましたので、当ブログにおける「長尾景虎(号宗心)期の越後衆一覧【2】」に追加します。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』1330号 上杉謙信書状、1369号 上杉家家中名字尽手本 ◆ 片桐昭彦「春日社越後御師と上杉氏・直江氏-「大宮家文書」所収文書の紹介」(『新潟史学 第75号』新潟史学会)


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追加【1】

2018-10-29 16:35:30 | 雑考

 黒田基樹氏の論考である「上野女淵郷と北爪氏」を読む機会に恵まれたところ、当ブログの「上杉謙信の戦歴【上】」に載せなければならなかった合戦がありました。

〔北爪右馬助覚書写〕(『群馬県史 資料編6 中世3 編年史料2』3692号)の一項における「一、ゑんこく(遠国=越後国)よりそうちや(惣社)・いしくら(石倉)おせめ被成候時、此五つめ(後詰)として竹田しんけん様(武田信玄)松井田迄御出候所、御はたらきさきへ物見罷越くひ一取申候、此請人秋本越中(秋元長朝ヵ)かゝい(抱)候福田かけい(勘解由)左衛門尉存候事、此外はちかた(鉢形)へ罷うつり九年之内之事、」により、越後国上杉謙信が元亀3年正月に上野国群馬郡の石倉城を攻撃する前に惣社城を攻撃していることが分かりましたので、これを追加します。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』1072・1078号 菅谷全久書状(写)、1081・1082号 上杉謙信書状 ◆ 黒田基樹「上野女淵郷と北爪氏」(『戦国期領域権力と地域社会』岩田書院)
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訂正【2】

2018-10-27 15:35:02 | 雑考

 続いて、『謙信公御書集』が元亀2年、『越佐史料 巻四』『上越市史 上杉氏文書集』が年次未詳としている7月24日付蔵田五郎左衛門尉宛上杉輝虎書状(997号。以下の文書も上越市史による)を、当ブログにおいては永禄9年に年次比定していますが、やはり影写された画像(『伊佐早謙採集文書 蔵田文書』17齣)を見たところ、上杉輝虎の花押型が、永禄7年から同9年5月初旬頃までの間にa型やd型と併用されていた、いわゆるe1型でありましたので、これまた年次比定を改めなければならなくなりました。


【a型】 【d型】 【e1型】


【史料】蔵田五郎左衛門尉宛上杉輝虎書状写
越中文共差越候、早々同名兵部左衛門尉所可届候、越中ヨリ之人数、寺家辺ニ而打着候様召連可越候由、堅可申越候、謹言、
    七月廿四日      輝虎(花押【e1】
       蔵田五郎左衛門尉殿


 この書状を、永禄9年夏から秋にかけての北陸遠征を終えたと思われる上杉輝虎が、上野国に「凶徒」が在陣していることから、そのまま越府を経由して信濃国川中嶋の地へ向けて進軍するなか(結局は関東情勢の悪化によって上・越国境へ向かうことになる)、しばらく越中国に残留させていたと思われる本庄弥次郎繁長・長尾遠江守藤景・柿崎和泉守景家に対し、越府経由での後追いを指示したようで、この有力部将たちが、越府に留守居する老将の本庄美作入道宗緩へ宛てて、各々(本庄・長尾・柿崎よりも後続の部将たち)に対し、今現在も「凶徒」が上野国に在陣していることから、信濃国へ(輝虎が)御出馬される旨を伝達したこと、各々が国境まで到着した旨を連絡してきたこと、さらに行軍を急ぐように早飛脚をもって連絡したので、近いうちに着府するであろうなどを伝えた書状(424号)と関連付けて永禄9年に比定したわけですが、前述した通り、この書状に据えられていた花押型は、輝虎が同7年から同9年5月初旬頃までの間にa型・d型と併用していたe1型でありますから、7年か8年に年次を比定し直すことになります。
 そこで両年における輝虎の動向を追ってみますと、永禄7年の当該期に輝虎は信濃国川中嶋の地へ出陣(423・426・427・428号)、同8年の当該期に輝虎は在府し、将軍足利義輝が横死した京都の情報を収集中であり(459・460号)、輝虎が軍勢を本国へ移動させるような状況にあったのは7年の方ではないでしょうか。この年の輝虎は、甲州武田信玄と手を組んで飛騨国内で反乱を起こした「高原」の江馬左馬助時盛と戦っている「国方」の飛州姉小路三木良頼・江馬四郎輝盛主従を助けるため、自らは信濃国川中嶋の地へ出陣して間接支援し、「越中衆(越中味方中であろう)」を飛騨国へ向かわせて直接支援しており(439・440号)、信濃国川中嶋の地で甲州武田軍と対戦しようとしている輝虎は、動かせることのできる「越中ヨリ之人数」を越中・越後国境の越後国西浜地域の寺家に在陣させようとしたという解釈が成り立ちますので、ここは7年に年次比定を改めました。

※『上越市史 上杉氏文書集』が永禄7年に年次比定している424号を、『謙信公御書集』は永禄9年、『越佐史料 巻四』は永禄8年に年次比定している。当ブログでは、永禄7年の当該期に甲州武田軍と思われる「凶徒」が上野国に在陣している様子はないこと、永禄8年の当該期に輝虎が出馬した様子はないこと、同9年の当該期に輝虎が北陸へ遠征していたようであることなどから、『謙信公御書集』に従った。

※ 上杉輝虎(長尾景虎)は出陣中、しばしば越中国金山の椎名右衛門大夫康胤などの味方中の手を借りている(280・525号 ◆『勝浦市史 資料編』147号)。


東京大学文学部所蔵『謙信公御書集』(臨川書店)巻六 永禄九年七月、巻十一 元亀二年七月 ◆ 高橋義彦(編)『越佐史料 巻四』(名著出版)永禄7年3月10日〔附録〕、永禄8年7月24日 ◆『上越市史 別編 上杉氏文書集一』280号 上杉政虎条書、423号 上杉輝虎書状、424号 本庄繁長等三名連署状(写)、426号 上杉輝虎書状、427号 上杉輝虎願文、428・431・439号 上杉輝虎書状、440号 河田長親書状(写)、459号 山崎吉家・朝倉景連連署状、460号 朝倉景連書状、525号 上杉輝虎書状、997号 上杉輝虎書状(写) ◆『勝浦市史 資料編 中世』147号 ◆『新潟県史 資料編5 中世三 文書編Ⅲ 付録』花押・印章一覧 ◆『伊佐早謙採集文書 蔵田文書』(〔東京大学史料編纂所データベース〕)
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訂正【1】

2018-10-19 21:05:05 | 雑考

 上杉謙信が使用した数種の花押型のうち、『新潟県史 資料編5』が4型、『同通史編2』がE型、『上越市史 上杉氏文書集』がd型と呼称している円形が特徴的な花押の据えられた文書が、輝虎期に5点、謙信期に1点が残っており、その写真や書写された画像を見ていた際、さらに型が二種に分けられることに気が付いたので、それらを整理してみたところ、当ブログにおいて永禄7年に年次比定をした9月18日付斎藤下野守・赤見六郎左衛門尉・小野主計助宛書状写(『上越市史 上杉氏文書集』474号。以下、文書番号だけのものは同集からの引用となる)の比定を改めなければならなくなりました。

※『新潟県史 通史編2 中世』(736頁)では、Eは「真久」という二字の草体を少し形象化したもの、としている。

 この花押型が据えられた輝虎期の文書の内訳は、1.永禄5年2月27日付蔵田五郎左衛門尉宛書状(309号)、2.当ブログで同7年に比定した3月15日付金津新兵衛尉・本田右近允・吉江織部佑・高梨修理亮・小中大蔵丞・吉江民部少輔・岩船藤左衛門尉・吉江中務丞宛書状(313号)、3.同年8月24日付蔵田五郎左衛門尉宛書状(431号)、4.当ブログで永禄7年に比定し、それを改めなければならない9月18日付斎藤・赤見・小野宛書状写、5.当ブログで永禄9年に比定した11月17日付千手院宛書状(1009号)となり、主に近臣たちへ宛てられた書状に据えられていた特例の花押であることが分かります。

※ 関東遠征中の輝虎が3月15日付けで越府留守衆の金津ほか7名へ宛てて、越府の防災などについての指示を送った書状(313号)を永禄7年に比定したのは、永禄4年12月21日付吉江忠景宛行状(301号)や年月日未詳計見出雲守・吉江中務丞宛上杉輝虎書状(『武家手鑑 解題』目録30頁)からすると、輝虎旗本の吉江中務丞忠景は永禄5年3月には関東に駐在していたようであり、金津以下は当時の越府留守衆ではなく、輝虎が永禄7年3月13日に留守衆の重鎮である本庄美作入道宗緩・金津新右兵衛尉・吉江中務丞へ宛てた書状(395号)からして、永禄6年冬から同7年夏にかけて挙行された関東遠征時に編成された越府留守衆ではないかと考えたからである。

※ やはり関東遠征中の輝虎が11月17日付けで下野国足利の鑁阿寺の子院である千手院へ宛てて、越後国上杉軍の在陣中における輝虎の武運を祈念してくれたことへの謝意を伝えた書状(1009号)を永禄9年に比定したのは、その書状で取次を務めている河田豊前守長親は、越後国上杉軍が下野国佐野の唐沢山城に在陣中の同年2月3日に千手院へ書状(484号)を送っており、それは河田長親の花押型から永禄8・9年に期間が限定される( 栗原修『戦国期上杉・武田氏の上野支配』67~78頁)ので、8年の方では11月17日は関東出陣の直前であり、輝虎が足利を経て佐野に在陣したのは9年の冬にも認められるからである。



 【ァ】 【ァ】
 【ィ】 【ィ】


 上に示した画像を見て分かるように、この花押のァ型(『上越市史 上杉氏文書集 別冊』33頁 ◆『新潟県史 資料編4 付録』98頁)とィ型(『上越市史 同別冊』82頁 ◆『越佐史料 巻五』443頁)では、花押主部の円形の左側に添えられた「久」とされる部分の三画目の払いから線が伸び、これが途切れずに跳ね上がっているかいないか、その跳ね上がった線が円形部の下に強く引かれた横線を跨いで上部に段だらを描き、これがはっきり書かれているかいないかの違いがあります。このように二種に分けられる花押形をそれぞれの文書に当てはめますと、1から3までの書状に据えられた花押がァ型、4と5の書状に据えられた花押がィ型となることから、絶対にないとは言い切れませんが、永禄7年秋から冬にかけて挙行された信濃国川中嶋陣の期間中に輝虎がいきなり花押をァ型からィ型に変えたとは考えにくいので、3と4の書状は切り離した方が妥当であると考えました。

※ ここには画像を載せていないが、1の書状である永禄5年2月27日付蔵田五郎左衛門尉宛書状のァ型花押は二つ目(1009号)の方に近い(『伊佐早謙採集文書 蔵田文書』15齣)。

※ 厳密にはァ型の両花押も、横線の長短と微かな段だらの有無といった違いがあるので、二種に分けるべきなのかもしれない。


【史料】斎藤下野守朝信・赤見六郎左衛門尉・小野主計助宛上杉輝虎書状写
▢(信ヵ)州口目付差越、敵陣所行之量見届、急度注進祝着候、従爰許遣候目付▢▢▢覚同前候、自関東申越分、尾州・濃州有▢統、甲府被及調義、断彼口動揺之由候、▢▢(定而ヵ)可為実義歟校量候、重目付▢(然ヵ)付▢(置ヵ)、甲・信之様躰越中口之事、節々註進専▢▢(一候ヵ)、雖無申迄候、其地普請用心以下油断有間▢▢(敷候)、謹言、
    九月十八日      輝虎(花押【ィ】
      赤見六郎左衛門尉殿
      小野主計助殿
      斎藤下野守殿

 この書状を当ブログの「上杉輝虎の略譜【24】」において、「信・越国境の越後国祢知城(頸城郡)の城衆である「斎藤下野守(朝信。譜代衆。越後国赤田城主)・赤見六郎左衛門尉殿(信濃衆)・小野主計助殿」に宛てて書信を発し、祢知城衆の目付がもたらした甲州武田軍の陣容は、当陣の目付が得た情報と一致しており、尾州(織田信長)と濃州(斎藤龍興)の間で一統が成立し、両軍が甲府へ侵攻するといった噂が流れ、彼の表では動揺が拡がっているとの情報についても、関東から寄せられた情報と一致しているので、恐らく事実であろうとの見解を示すとともに、今後も目付を活用して甲・信州及び、越中口の様子を注視し、要害の維持管理を徹底するように指示を与えた」というような解釈を記しました。
 これは「尾州・濃州有▢統」の欠けた部分は「一」の字に他ならないと考え、永禄7年当時、甲州武田信玄が、濃州斎藤龍興とその族臣の長井隼人佑が対立していて、その長井隼人佑と甲州武田信玄が提携している時期であり(『戦国遺文 武田氏編』899・913号)、もう一方の斎藤龍興が尾州織田信長と和睦して甲府へ侵攻するといった噂が流れてもおかしくないことや、輝虎が目付を駆使して「敵陣所」の動向を探っている状況が、9月5日付堀江駿河守・岩船藤左衛門尉宛直江大和守政綱書状写と10月2日堀江・岩船宛上杉輝虎書状写においても確認されることなどから、この年に比定しました。
 しかし、花押形の違いによって同年に比定できないとなると、「一統」には、いくつかの国が一つにまとまる(一統に和睦する)という意味のほかに、分裂していた国を一つに統べる(諸国が統一される)といった意味もあるので、織田信長が永禄10年に美濃国を平定していることから、この年に比定を改めます。


『越佐史料 巻五』〔北越華押叢〕上杉輝虎 天寧寺文書(丹波)年次未詳9月18日 ◆『新潟県史 資料編5 中世三』4237号 上杉輝虎書状写 ◆『新潟県史 資料編4 中世二 文書編Ⅱ 付録』2116号 上杉輝虎書状 ◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』300号 上杉輝虎書状(影写)、301号 吉江忠景宛行状(影写)、309・313号 上杉輝虎書状、395号 上杉輝虎書状(写)、431号 上杉輝虎書状、433号 直江政綱書状(写)、436・474号 上杉輝虎書状(写)、484号 河田長親書状、1009号 上杉輝虎書状、1463号 上杉謙信書状(影写) ◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一 別冊』313・431・1009号 上杉輝虎書状、『戦国遺文 武田氏編』(東京堂出版)899・913号 武田信玄書状 ◆ 太田晶二郎『武家手鑑 解題』(前田育徳会尊経閣文庫)◆ 中野豈任「上杉家の花押と印章(花押と花押判)」(『新潟県史 通史編2 中世』)◆ 栗原修「上杉氏の隣国経略と河田長親(長親発給関係文書について)」(『戦国期上杉・武田氏の上野支配』岩田書院)◆ 室町時代語辞典編修委員会(編)『時代別国語大辞典 室町時代一(あ~お)』(三省堂)◆『伊佐早謙採集文書 蔵田文書』(〔東京大学史料編纂所データベース〕)
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