越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

上杉輝虎(長尾景虎。号謙信)の偏諱付与

2015-01-07 18:42:06 | 雑考

 
 ここで上杉輝虎から偏諱を付与されたであろう人物を挙げてみたい。


〔山内上杉家に縁の「顕」の一字を付与されたであろう人物〕

足利長尾:新五郎。関東味方中・足利長尾但馬守景長の養嗣子。実父は同じく関東味方中の由良(横瀬)信濃守成繁(熊寿丸。新六郎。雅楽助。刑部大輔)で、実兄に由良六郎国繁(国寿丸。刑部大輔。信濃守)がいる。但し、永禄9年に足利長尾氏・由良氏は共に、越後国上杉陣営から離反して相州北条家の従属国衆となっている。

那波:次郎。駿河守。関東衆。父である上野国衆の那波刑部大輔宗俊(一説に宗俊は祖父で、父は対馬守宗元という)は、越後国長尾景虎の第一次関東遠征に際し、相州北条方として抵抗を続けたことから、本拠地の那波要害を攻め落とされて没落した。その際、兄の那波無理之助宗安は甲州武田家を頼り、顕宗は越府に引き取られたという。天正2年には生地の上野国那波郡今村城に拠った。妻は譜代衆・北条丹後守高広(弥五郎。安芸守。号芳林)の妹という(実際は妹か)。

色部:虎黒丸。弥三郎。越後奥郡国衆・色部修理進勝長(弥三郎)の世子。

本庄:千代丸。新六郎。豊後守。越後奥郡国衆・本庄弥次郎繁長(雨順斎全長。越前守)の嫡男。母は古志長尾右京亮景信(十郎)の娘と伝わる。

上田長尾:卯松丸。喜平次。のちの上杉弾正少弼景勝。譜代衆・上田長尾越前守政景(六郎)の次男で、母は輝虎の姉である。永禄7年に政景が横死すると、兄の時宗丸(のちの七郎か)を差し置いて上田長尾家の当主となった。

毛利安田:惣八郎。譜代衆・毛利安田越中守景元(百丸。弥八郎)の次男で、出奔した兄の安田和泉守景広(松若丸。弥九郎か)に代わって家督を継いだという。


〔越後国長尾家に縁の「長」の一字を付与されたであろう人物〕

新発田:源次郎。尾張守。越後奥郡国衆・新発田尾張守忠敦(源次郎)の後継者で、同じく越後奥郡国衆の中条越前守の弟らしい。

大熊:新左衛門尉。長尾景虎初政における三奉行の一人であった大熊備前守朝秀(彦次郎。前上杉氏の譜代衆の系譜)の嫡男で、弘治3年に父が景虎と対立し、甲州武田晴信と通じて反乱を起こすも敗れると、父に従って甲州武田家の臣下となった。

甘糟:近江守。譜代衆。

吉江:与橘か。のちの吉江織部佑景資(常陸入道宗)。旗本衆。古志長尾家の被官から越後国長尾景虎の出頭人となった吉江木工助茂高の世子。

新保:八郎四郎。旗本衆。前上杉氏の譜代衆・新保勘解由左衛門尉景重(初め吉田孫左衛門尉か)の世子であろう。

山田:修理亮。旗本衆。古志長尾家の被官から越後国長尾景虎の直臣となった。更には古志長尾家の名跡を継いだ河田豊前守長親の年寄衆に転出した。

三潴:出羽守。旗本衆。

本田:右近允。石見守。旗本衆。実名は文書では確認できない。

河田:岩鶴丸か。九郎左衛門尉。豊前守。旗本衆。江州佐々木六角氏の譜代家臣である河田伊豆守(実名は憲親、元親などと定まらない。法体となって実清軒を号したか)の世子。永禄2年に越後国長尾景虎が上洛した際に見込まれて臣下となった。

鰺坂:清介。備中守。旗本衆。河田長親と同じ経緯で臣下となった。旗本衆・鰺坂氏の名跡を継いだか。

三潴:左近大夫。旗本衆。三潴出羽守長政の嫡男。実名は文書では確認できない。

飯田:孫右衛門尉。旗本衆。

寺嶋:吉江亀千代丸。六三。旗本衆・吉江織部佑景資の長男。越後国上杉謙信が天正元年に滅ぼした越中国金山(松倉)の椎名康胤の重臣である寺嶋氏(もとは越中国増山の神保長職の重臣)に入嗣したか。

荻田:孫十郎。旗本衆・荻田与三左衛門尉の次男で、越後国上杉謙信の小姓を務めたという。

本田:実名は長信か。弁丸。孫七郎。源右衛門尉。旗本衆・本田右近允(実名は長定か)の嫡男で、越後国上杉謙信の小姓を務めたという。

富永:惣八郎。清右兵衛尉。備中守。旗本衆。越後国長尾氏の被官であった斎木氏の出身で、富永備中守の名跡を継いだという。上田御前様衆(越後国守護代長尾為景が上田長尾政景に嫁ぐ娘に付随させた家臣団)・斎木四郎兵衛尉尚重(惣次郎か。土佐守)の弟という。実名は文書では確認できない。

岩船:彦五郎。藤左衛門尉。旗本衆・岩船藤左衛門尉(実名は忠秀か。藤左衛門入道。丹波入道。一策斎)の嫡男で、謙信の小姓を務めたか。実名は文書では確認できない。

二宮:実名は長恒か。余五郎。左衛門大夫。越中衆。越中国増山の神保長職の従属国衆であったが、長職が元亀3年に越後国上杉陣営から離反しても、そのまま陣営に留まった。


〔越後国長尾家に縁の「景」の一字を付与されたであろう人物〕

上杉:三郎。相州北条氏康の末子で、越・相同盟の成立に伴って越後国上杉輝虎の養子となり、その初名を付与された。

上杉:弾正少弼。卯松丸。上田長尾喜平次顕景。叔父である越後国上杉謙信の養子となり、弾正少弼の官途を譲られた。

足利長尾:当長。新五郎。但馬守。号禅昌。関東味方中。永禄9年に越後国上杉陣営から離反して相州北条家の従属国衆となっている。

山本寺:松三。一家衆の山本寺伊予守定長の嫡男。

遊佐:幼名は登松丸か。孫太郎。能登衆。能州畠山家の年寄衆・遊佐四郎右衛門尉盛光(孫太郎)の嗣子。越後国上杉謙信によって天正5年に主家が滅ぼされると、祖父の遊佐美作守続光・父の盛光と共に越後国上杉家に従属した。実名は文書では確認できない。

中条:弥三郎。越前守。初めの実名は房資か。越後奥郡国衆・中条弾正忠の世子。実名は文書では確認できない。

中条:吉江沙弥法師丸。与次。越前守。旗本衆・吉江織部佑景資の次男で、越後奥郡国衆・中条越前守(実名は房資、次いで景資か)の名跡を継いだ。

北条:弥五郎。丹後守。譜代衆・北条安芸守高広の世子。

千坂:対馬守。譜代衆。実名は文書では確認できない。

新保:実名は景之か。長松丸。孫六。駿河守。譜代衆。

吉江:織部佑。仮名は与橘か。長資。旗本衆。越後国長尾景虎から二度に亘って偏諱を付与された。

松本:石見守。旗本衆・松本河内守の後継者で、初め松本大学助忠繁と名乗ったか。あるいは長尾氏の出身か。

直江:実綱。政綱。神五郎。与右兵衛尉。大和守。旗本衆。

長 :与一。旗本衆。

本庄:新七郎。宮内丞。旗本衆・本庄清七郎(実名は綱秀か)の嫡男。実名は文書では確認できない。

安中:七郎三郎。左近大夫。上野国衆。甲州武田家に従属した。

野田:右馬助。下総国衆(古河公方足利家の奉公衆)。相州北条家に従属した。


〔上杉謙信の「信」の一字を付与されたであろう人物〕

上杉:十郎。一家衆。古志長尾右京亮景信の長男で、初めは長尾十郎景満(実名は満景とも)と名乗ったといい、のちに上杉名字を許された。実名は文書では確認できない。

吉江:喜四郎。永禄2年に越後国長尾景虎が上洛した際に見込まれて臣下となり、旗本衆・吉江織部佑景資の一族に列して吉江喜四郎資賢と名乗った。更には、同じく旗本衆の吉江佐渡守忠景(前上杉氏の譜代衆の系譜)の名跡を継いだらしく、その際に偏諱を付与された。

三条:道如斎。長沢菅(勘)五郎。旗本衆。上杉景勝期に越後奥郡国衆・五十公野氏を継ぐ。初めは越中国衆の長沢筑前守光国の小姓であったという。

直江:与右兵衛尉。関東味方中・惣社長尾氏の出身で、旗本衆・直江大和守景綱の養嗣子となり、その娘の「おせん(船)」を娶った。

岩井:源三。民部少輔。備中守。旗本衆。信濃国衆・高梨氏の族臣であった岩井備中守昌能の嗣子。越後国上杉謙信の小姓を務めたという。


 以上のように、上杉輝虎(長尾景虎。号謙信)は諸士に「顕・長・景・信」の字を付与している。但し、一家衆の上条政繁(弥五郎。号宜順。能州畠山義続の次男)・上杉政勝(琵琶嶋弥七郎か)、旗本衆の直江大和守政綱(景綱)のように、常識的には輝虎の養父である山内上杉憲政(号光徹)から偏諱を付与されたと考えるべきであろうが、憲政の名跡を継いで政虎と名乗った輝虎が将軍足利義輝から偏諱を付与されるまでの期間に、政虎から偏諱を付与された可能性のある人物がいるかも知れない。

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上杉輝虎の隠遁

2015-01-01 23:57:13 | 雑考

【史料】安田顕元宛上杉輝虎一字状
今度隠遁之供神妙候、依之、一字望候間、顕出候、当家有謂字之由、仰出候也、仍如件、
    七月廿三日      輝虎(花押a)
      安田惣八郎殿



 この年次未詳文書は、上杉輝虎が何らかの理由によって隠遁を図るも、思い直して復帰したのち、隠遁の供をした譜代家臣の毛利安田惣八郎を忠賞して、山内上杉家に縁の「顕」の一字を付与した際のものである。

 上杉輝虎の隠遁と言えば、長尾景虎当時の天文23年と弘治2年の隠遁騒動が思い起こされる。それゆえに当文書を、大きな騒動となった弘治2年に比定している編纂物もある。しかしながら、山内上杉家に縁の一字を安田顕元に与えている以上、上杉輝虎期の永禄4年末から元亀元年9月の間に発給された文書に他ならない。そこで当該期に於ける隠遁の動機を探ってみたところ、思い当たったのは、盟友の関白近衛前久との決別である。

 永禄5年の7月初め頃、輝虎は近衛前久が盟約を破って帰洛したことにより、ひどく面目を失って三度目の隠遁を思い立ったけれども、とても関東・信州経略を投げ出せる状況になく、今また隣国越中で椎名と神保の東西領主の間で抗争が起こり、心ならずも隠遁を思い止まる他なかったのではないだろうか。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』115号 上野家成書状、134号 長尾宗心書状写、136号 長尾景虎書状、996号 上杉輝虎書状
 
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