越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

上杉謙信期の越後衆一覧 【3】

2014-02-15 23:59:39 | 上杉謙信期の越後衆

 旗本衆

 直江大和守景綱(なおえやまとのかみかげつな)
 初名は実綱、次いで政綱を名乗った。仮名は神五郎、官途名は与右兵衛尉を称した。年寄衆。越後国山東(西古志)郡与板城主。一時期、山吉孫次郎豊守・河隅三郎左衛門尉忠清・庄田隼人佑(実名は秀直か)と越中国新川郡宮崎城、山吉米房丸・吉江喜四郎資賢・河田対馬守吉久らと能登国鹿島郡石動山城に在番した。謙信の最晩年、能登衆として関東遠征に従軍する予定であった。謙信死去の直後には養子で娘婿の直江与右兵衛尉信綱(上州惣社長尾氏の出身か)に代わっている。すでに嫡男の直江伊勢松は早世していた(如雪童子)。


 山吉孫次郎豊守(やまよしまごじろうとよもり)
 年寄衆。越後国蒲原郡三条城主。一時期、直江大和守景綱・河隅三郎左衛門尉忠清・庄田隼人佑(秀直か)と越中国新川郡宮崎城に在番した。天正5年6月9日に死去したと伝わる。


 山吉米房丸(やまよし こめふさまる・べいぼうまる)
 山吉孫次郎豊守の嗣子。越後国蒲原郡三条城主。一時期、直江大和守景綱・吉江喜四郎資賢・河田対馬守吉久らと能登国鹿島郡石動山城に在番した。天正5年9月に早世したとみられる。これにより山吉氏は家系が断絶し、居城と半領を没収されてしまうが、山吉孫次郎豊守の弟・山吉孫五郎(のちに景長を名乗ったか)を当主として存続は認められる。謙信の最晩年、越後衆として関東遠征に、陣代が従軍する予定であった。


 河田豊前守長親(かわだぶぜんのかみながちか)
 官途名は九郎左衛門尉を称した。謙信没後は豊前入道禅忠と号する。年寄衆。越中国新川郡魚津城代を経て同松倉城代を務め、越中国平定後は越中東郡代官に任命された。謙信の最晩年、越中衆として関東遠征に従軍する予定であった。嫡男に河田岩鶴丸がいる。


 鰺坂備中守長実(あじさかびっちゅうのかみながざね)
 仮名は清介を称した。年寄衆。越中国新川郡新庄城将を務め、能州平定後は能登代官として能登国七尾城に入った。謙信の最晩年、越中衆として関東遠征に従軍する予定であった。


 吉江織部佑景資(よしえおりべのすけかげすけ)
 初名は長資。仮名は与橘を称したか。謙信没後は常陸入道宗誾と号する。長男の寺嶋六三長資(吉江亀千代丸)は、謙信から越後国長尾家に縁の一字を賜って景資の初名を名乗り、越中西郡の領主であった神保氏の家中・寺嶋氏の名跡を継いだ。次男の中条与次景泰(吉江沙弥法師丸・与次)は、越後奥郡国衆・中条氏の名跡を継いだ。三男の吉江与橘長忠は、謙信没後、暫くして上杉景勝から越後国長尾家に縁の一字を賜った。年寄衆。能州平定後は越中西郡代官として越中国砺波郡増山城に入った。謙信の最晩年、越中衆として関東遠征に従軍する予定であった。


 吉江喜四郎信景(よしえきしろうのぶかげ)
 吉江一族に列した際に資賢を名乗った。吉江佐渡守忠景の名跡を継いだ際に謙信から偏諱を賜ったか。年寄衆。一時期、直江大和守景綱・山吉米房丸・河田対馬守吉久らと能登国鹿島郡石動山城に在番した。謙信の最晩年、越後衆として関東遠征に従軍する予定であった。その花押形は、最側近に相応しく、謙信が用いた花押の影響が見て取れる。嫡男に吉江長満丸がいたと伝わる。


 三条道如斎信宗(さんじょうどうじょさいしんしゅう)
 初めは長沢菅(勘)五郎を名乗っていた。越中国衆・長沢筑後守光国の小姓であったと伝わる。謙信から偏諱を賜った。年寄衆。謙信の最晩年、越後衆として関東遠征に従軍する予定であった。その花押形は、最側近に相応しく、謙信が用いた花押の影響が見て取れる。謙信没後、暫くしてから外様衆の五十公野因幡守重家(義兄とも相婿とも伝わる)が宗家の新発田氏を継いだのに伴い、五十公野氏に入嗣する。


 北条下総守高定(きたじょうしもうさのかみたかさだ)
 仮名は助三郎を称した。年寄衆。譜代衆・北条安芸守高広の弟と伝わる。嫡男の北条助三郎は謙信の小姓を務める。妻は片野将監亮(実名は元忠か。北条毛利氏の一族と伝わる)の娘。謙信の最晩年、越後衆として関東遠征に従軍する予定であった。その花押形は、かつて越後国上杉家の味方中であった上野国衆・由良成繁が用いた花押の影響が見て取れる。


 本庄清七郎(ほんじょうせいしちろう)
 実名は綱秀か。年寄衆。嫡男の本庄新七郎景乃は、謙信から越後国長尾家に縁の一字を賜ったと伝わる。父の本庄美作入道宗緩(実乃)は隠居後も六日に一度ほど出仕しており、年次は分からないが76歳で死去したと伝わる(終見は天正3年)。越後国古志郡栃尾城主。謙信の最晩年、越後衆として関東遠征に従軍する予定であった。


 吉江佐渡守忠景(よしえさどのかみただかげ)
 官途名は中務丞を称した。越後国蒲原郡吉江城主か。一時期、越中国に駐留した。吉江喜四郎資賢(信景)に名跡を譲ったか。


 松本鶴松丸(まつもとつるまつまる)
 父は松本石見守景繁。幼少のために松本氏の重臣である板屋修理亮(実名は光胤か)が陣代を務めた。越後国山東(西古志)郡小木(荻)城主。謙信の最晩年、越後衆として関東遠征に、陣代が従軍する予定であった。謙信没後、暫くしてから松本弥七郎(左馬助房繁)が松本氏を継いでいる。


 河田伯耆守重親(かわだほうきのかみしげちか)
 仮名は新四郎を称したか。河田豊前守長親の叔父。上野国利根郡沼田城将。謙信の最晩年、関東衆として関東遠征に従軍する予定であった。嫡男に新四郎がいた。


 河田勘五郎(かわだかんごろう)
 実名は実親か。謙信没後、暫くしてから軍右兵衛尉、更に摂津守を称するか。河田豊前守長親の末弟か。謙信の最晩年、越後衆として関東遠征に従軍する予定であった。


 船見宮内少輔(ふなみくないのしょう)
 実名は規泰か。初めは須田九郎太郎を名乗った。信濃衆・須田相模守満国の弟である須田右衛門大夫満泰の嫡男で、旗本衆・船見氏の名跡を継いだ。越中国新川郡船見城主か。謙信の最晩年、越後衆として関東遠征に、陣代が従軍する予定であった。謙信没後、暫くしてから宗家を継いで須田相模守満親と名乗る。


 河田窓隣軒喜楽(かわだそうりんけんきらく)
 加賀一向一揆の許への使者を務めた。一時期、嗣子である河田対馬守吉久、譜代衆の村山善左衛門尉慶綱、上田衆(謙信の養子である上杉弾正少弼景勝の同名・同心・被官集団)、黒川衆(外様衆・黒川四郎次郎平政の同名・同心・被官集団)と能登国鹿島郡石動山城に在番した。


 河田対馬守吉久(かわだつしまのかみよしひさ)
 河田窓隣軒喜楽の嗣子。長期間、能登国鹿島郡石動山城に在番した。謙信の最晩年、越後衆として関東遠征に従軍する予定であった。


 香取弥平太(かとりやへいた)
 実名不詳。近江国出身か。


 神余小次郎親綱(かなまりこじろうちかつな)
 父は神余隼人佑。山吉氏の改易後に越後国蒲原郡三条城主となる。


 三潴出羽守長政(みづまでわのかみながまさ)
 越後国蒲原郡中目城主。


 三潴左近大夫(みづまさこんのだいぶ)
 実名は長能か。三潴出羽守長政の嗣子。長期間、越後国瀬波(岩船)郡猿沢城に蟄居中の外様衆・本庄雨順斎全長(繁長)を監視するため、外様衆の鮎川孫次郎盛長と越後国瀬波(岩船)郡庄厳(笹平)城に在番した。


 新保清右衛門尉秀種(しんぼせいえもんのじょうひでたね)

 吉江民部少輔(よしえみんぶのしょう)
 実名は景淳か。信濃衆の赤見小六郎と越後国頸城郡祢知城将を務めた。


 本田右近允(ほんだうこんのじょう)
 実名は長定か。謙信没後に石見守を称する。嫡男の本田弁丸は、謙信の小姓を務めたと伝わり、謙信から仮名の孫七郎と越後長尾家に縁の長の一字を賜っている。信濃国水内郡飯山城衆か。謙信の最晩年、越後衆として関東遠征に従軍する予定であった。


 堀江駿河守(ほりえするがのかみ)
 実名不詳。越後国頸城郡鮫ヶ尾城主か。越前国出身か。謙信の最晩年、越後衆として関東遠征に従軍する予定であった。


 岩船藤左衛門尉(いわふねとうざえもんのじょう)
 実名は忠秀か。謙信没後、暫くしてから藤左衛門入道一策斎と号し、更に丹波を称する。嫡男の岩船彦五郎(実名は長忠か。のちに藤左衛門尉を称する)は謙信の近習を務めたという。


 草間出羽守(くさまでわのかみ)
 実名不詳。


 岩井大和守(いわいやまとのかみ)
 実名は能歳か。天正2年8月24日に死去したといい、嗣子の岩井式部少輔(実名は能成か)が名跡を継いだという。


 岩井備中守昌能(いわいびっちゅうのかみまさよし)
 嫡男の岩井源三信能(のちに民部少輔、備中守を称する)は、謙信の小姓を務めたと伝わり、その偏諱を賜った。


 大瀧新兵衛尉(おおたきしんびょうえのじょう)
 実名は信安か。


 村田忠右衛門尉秀頼(むらたちゅうえもんのじょうひでより)
 謙信没後、暫くしてから大隅守を称する。長尾景虎期の村田次郎右衛門尉は同一人物にあたるか、或いは次郎右衛門尉は父にあたるか。越中国新川郡津毛城将。越中国新川郡太田上郷料所代官。


 毛利名左衛門尉秀広(もうりなざえもんのじょうひでひろ)
 一時期、越中国射水郡願海寺城に在番した。


 大石惣介芳綱(おおいしそうすけよしつな)
 謙信の最晩年、関東衆として関東遠征に従軍する予定であった。


 大石藤右衛門尉(おおいしとうえもんのじょう)
 仮名は与三郎、実名は綱高か。横目を務めた。


 長与一景連(ちょうよいちかげつら)
 謙信(輝虎)から越後国長尾家に縁の一字を賜った。尾(濃)州織田家の許への使者を務めた。能登国珠洲郡正院川尻城の城将を務めた。謙信の最晩年、能登衆として関東遠征に従軍する予定であった。弟の長与次(実名は盛連・弘連などと伝わる)は謙信の近習を務めたという。


 庄田越中守(しょうだえっちゅうのかみ)
 実名は秀定か。官途名は惣左衛門尉を称した。父は庄田惣左衛門尉定賢。河田長親配下の魚津衆から独立した。


 開発中務丞(かいほつなかつかさのじょう)
 実名不詳。仮名は三介を称した。


 楡井修理亮親忠(にれいしゅりのすけちかただ)
 越後国魚沼郡板木城主。


 河隅三郎左衛門尉忠清(かわすみさぶろうざえもんのじょうただきよ)
 謙信没後、暫くしてから越中守を称する。奉行衆。公銭方。一時期、直江大和守景綱・山吉孫次郎豊守・庄田隼人佑(秀直か)と越中国新川郡宮崎城に在番した。


 飯田孫右衛門尉長家(いいだまごえもんのじょうながいえ)
 謙信没後、暫くしてから出羽守を称する。奉行衆。公銭方。


 庄田隼人佑(しょうだはやとのすけ)
 実名は秀直か。奉行衆。一時期、直江大和守景綱・山吉孫次郎豊守・河隅三郎左衛門尉忠清と越中国新川郡宮崎城に在番した。越中国新川郡境料所代官。


 五十嵐 盛惟(いからし・いがらし もりこれ・もりただ)
 官途名は主計助か。奉行衆。公銭方。


 吉益伯耆守(よしますほうきのかみ)
 実名は清定か。もとは古志長尾氏の被官。


 小野主計助(おのかずえのすけ)
 実名不詳。


 林平右衛門尉(はやしへいえもんのじょう)
 実名不詳。越前国朝倉家の許への使者を務めた。


 萩原主膳允(はぎわらしゅぜんのじょう)
 実名不詳。苗字は荻原の可能性がある。奥州黒川の蘆名家、常陸国衆・佐竹氏の許への使者を務めた。


 進藤隼人佑家清(しんどうはやとのすけいえきよ)
 相州北条家の許への使者を務めた。嫡男の進藤孫七郎は謙信の小姓を務めたと伝わる。


 須田弥兵衛尉(すだやびょうえのじょう)
 実名不詳。相州北条家の許への使者を務めた。


 関半五郎(せきはんごろう)
 実名不詳。越前国朝倉家の許への使者を務めた。


 本郷彦七(ほんごうひこしち)
 実名不詳。苗字は本江とも。三(遠)州徳川家の許への使者を務めた。


 大室 某(おおむろ)
 実名、通称は不詳。信濃国出身か。三(遠)州徳川家の許への使者を務めた。


 山下 某(やました)
 実名不詳。仮名は孫次郎か。父は山下修理入道か。一時期、加地衆(外様衆・加地彦次郎(知綱か)の同名・同心・被官集団)や大石(芳綱か)と越後国魚沼郡浅貝寄居城に在番した。


 小嶋 某(こじま)
 実名不詳。天正2年の北陸遠征における「あさひ」城攻めに際し、若武者の中条与次景泰(外様衆。実父は謙信側近の吉江織部佑景資)が無謀にも前線の砲火が飛び交うなかを駆け歩くので、中条景泰を連れ戻すように謙信から頼まれると、引きずり返して拘束した。俗にいう二代目の小嶋弥太郎か。弥太郎には訳あって出奔し、奥州黒川の蘆名家に仕えたという伝承がある。仮に事実だとしたら、帰陣後は親元に預けられることが決まっていた中条景泰を必要以上に庇い立てでもして、謙信の不興を買ったのだろうか。


 高橋又五郎(たかはしまたごろう)
 実名不詳。のちに蔵人佐を称する。証人の管理や山奉行を務めるか。


 芹沢 某(せりざわ)
 仮名は又次郎、実名は信胤か。父は芹沢弥四郎(実名は正信か)。関東遠征を控えた天正2年10月、謙信が着用する武具の目録を蔵奉行から受け取っているので、戦陣において謙信の武具を管理する役職にあったか。


 三好又五郎慶家(みよしまたごろうよしいえ)
 天正4年5月から安田与左衛門尉頼家と作事奉行を務めた。苗字と実名の「慶」の一字からすると、かつて畿内を支配した三好長慶に関係する人物か。


 安田与左衛門尉頼家(やすだよざえもんのじょうよりいえ)
 同じく三好又五郎慶家と作事奉行を務めた。


 後藤左京亮勝元(ごとうさきょうのすけかつもと)
 仮名は新六を称したか。天正6年頃に上野国新田領へ攻め入って勲功を挙げた。その後、関東衆(上野国勢多郡女淵城将)を務めた。謙信の最晩年、関東衆として関東遠征に従軍する予定であった。


 後藤新六(ごとうしんろく)
 実名不詳。後藤左京亮勝元の嫡男。父と共に上野国新田領へ攻め入って勲功を挙げた。


 小幡山城守(おばたやましろのかみ)
 実名は光盛、虎昌などと定まらない。甲州武田家の家臣で、信濃国埴科郡海津城の城衆であったという。一時期、甲州武田家を辞して越後国上杉家に仕え、天正4年頃に上野国新田領へ攻め入って勲功を挙げた。謙信が没する以前には甲州武田家に復帰したとみられる。


 小中彦右兵衛尉(こなかひこびょうえのじょう)
 実名は清職か。小中大蔵丞(実名は光清か)の弟で、兄から家督を継いだ。上野国利根郡沼田城衆。謙信の最晩年、関東衆として関東遠征に従軍する予定であった。


 竹沢山城守(たけざわやましろのかみ)
 実名不詳。もとは下野国衆・佐野小太郎昌綱の一族である天徳寺宝衍に仕えていたという。上野国利根郡沼田城衆。謙信の最晩年、関東衆として関東遠征に従軍する予定であった。


 荻田与三左衛門尉(おぎたよぞうざえもんのじょう)
 実名不詳。父は荻田与三左衛門尉。弟の荻田孫十郎は謙信の小姓を務めたと伝わり、謙信から越後国長尾家に縁の一字を賜って長繁と名乗った。


 小倉伊勢守(おぐらいせのかみ)
 実名は家房か。官途名は将監を称した。山内上杉光徹(憲政)の旧臣。謙信死去の直後には嗣子の小倉将監(実名は定房か。のち伊勢守。号道献)に代わっている。源姓佐々木一族と伝わる。


 若林九郎左衛門尉家吉(わかばやしくろうざえもんのじょういえよし)
 越中国館山城(新川郡立山地域か)に在番したと伝わる。


 嶋倉孫左衛門尉泰明(しまくらまござえもんのじょうやすあき)
 もとは能登国衆。嫡男の嶋倉次郎丸(のちの黒金孫左衛門尉泰忠)は、謙信から吉三の仮名を賜った。弟の嶋倉藤三(実名は俊継か)は上田衆(或いは中郡国衆)の大井田藤七郎(実名は景国か)の娘を娶り、大井田氏の一流を継いだ。


 飯田与三右衛門尉(いいだよぞうえもんのじょう)
 実名不詳。能州畠山家の年寄衆・遊佐氏の旧臣。


 鰐淵主水助(わにぶちもんどのすけ)
 実名不詳。能登国出身。


 戸沢縫殿助(とざわぬいのすけ)
 実名は政保か。父は戸沢縫殿助(政盛か)。越後国頸城郡直峰(嶺)城衆という。


 山田彦右衛門尉(やまだひこえもんのじょう)
 実名不詳。旗本衆・大石氏の一族である大石彦右衛門尉が山田帯刀左衛門尉の名跡を継いだ。越後国頸城郡直峰(嶺)城衆か。


 嶋倉孫太郎(しまくらまごたろう)
 実名不詳。越後由来の嶋倉氏か。越後国頸城郡直峰(嶺)城衆か。


 佐野清左衛門尉(さのせいざえもんのじょう)
 実名不詳。幼名は虎房丸を称した。下野国衆・佐野小太郎昌綱の子で人質として来越した。その後、佐野昌綱が相州北条陣営に属するも、処分されることはなく謙信(輝虎)の旗本衆に加えられたと伝わる。越後国頸城郡旗持(鉢崎)城衆か。


 楠川左京亮将綱(くすがわさきょうのすけまさつな)
 謙信没後、暫くしてから出雲守を称する。


 大石兵部丞綱元(おおいしひょうぶのじょうつなもと)
 謙信没後、暫くしてから播磨守を称する。


 秋山式部丞定綱(あきやましきぶのじょうさだつな)
 謙信没後、暫くしてから伊賀守を称する。


 富所隼人佐(とみどころはやとのすけ)
 実名は定重か。父は富所隼人佐(伯耆守重則か)。謙信没後、暫くしてから伯耆守を称する。弟の富所図書助(実名は光重か)は謙信の近習を務めるという。


 松木内匠助(まつきたくみのすけ)
 実名は秀朝か。謙信没後、暫くしてから石見守を称する。


 石坂左近将監(いしざかさこんのしょうげん)
 実名は忠章か。


 蓼沼藤五郎泰重(たでぬまとうごろうやすしげ)
 謙信没後には掃部助としてみえる。弟に蓼沼藤七郎友重(日向守)がいる。


 狩野新介(かのしんすけ)
 実名は秀治か。越中西郡の領主・神保氏の重臣であった狩野右京入道道州(実名は秀基か)の養子と伝わる。雲州尼子氏の旧臣。同族の狩野氏を頼って越中国に下ったか。謙信没後、暫くしてから彦伯と号し、更に讃岐を称する。


 堀江甚五左衛門尉(ほりえじんござえもんのじょう)
 実名不詳。越前国出身という。堀江駿河守(実名は宗親か)の一族か。


 嵯峨野修理亮(さがのしゅりのすけ)
 実名は景久か。


 一瀬右近允(いちのせうこんのじょう)
 実名不詳。苗字は市瀬とも。


 諏方左近允(すわさこんのじょう)
 実名不詳。


 行方六右衛門尉(なめかたろくえもんのじょう)
 実名は兼刑か。


 羽田六介(はたろくすけ)
 実名不詳。


 大石右馬允(おおいしうまのじょう)
 実名不詳。仮名は源助を称した。


 吉田美濃守(よしだみののかみ)
 実名不詳。上杉輝虎期にみえる美濃入道、或いは美濃入道の子か。


 林部三郎右兵衛尉(はやしべさぶろうびょうえのじょう)
 実名不詳。謙信没後、暫くしてから美濃守を称する。


 太田九右衛門尉(おおたきゅうえもんのじょう)
 実名は信能か。謙信没後に式部少輔を称するか。


 蔵田兵部左衛門尉(くらたひょうぶざえもんのじょう)
 実名は正綱か。


 宇津江若狭守(うつえわかさのかみ)
 実名不詳。官途名は藤右衛門尉を称したという。弟に宇津江九右衛門尉朝清(小三郎)がいる。


 岡田十左衛門尉(おかだじゅうざえもんのじょう)
 実名は重治か。父は上杉政虎期にみえる岡田但馬守(実名は重堯か)という。


 北村孫兵衛尉(きたむらまごびょうえのじょう)
 実名は信繁か。もとは古志長尾氏の被官か。


 平岡甚七郎(ひらおかじんしちろう)
 実名は正久か。謙信没後、暫くしてから隼人佐を称する。父の平岡隼人佐(実名は重政か)は山内上杉光徹(憲政)の旧臣という。


 平岡素右衛門尉(ひらおかそえもんのじょう)
 実名は義重か。平岡甚七郎(正久か)の兄で、かつて父の平岡隼人佐(重政か)に勘当されたという。


 相浦主計助(あいうらかずえのすけ)
 実名不詳。


 小黒 某(こぐろ)
 小黒氏には式部丞(仮名は平次郎、実名は吉次か)と縫殿助がいる。


 増岡甚四郎(ますおかじんしろう)
 実名不詳。父は増岡孫次郎か。


 朝岡弥右衛門尉(あさおかやえもんのじょう)
 実名は政頼か。三河国出身と伝わる。


 鹿嶋蔵人(かしまくろうど)
 実名不詳。父は長尾景虎期にみえる鹿嶋彦九郎か、或いは彦九郎の後身か。


 高梨藤八郎(たかなしとうはちろう)
 実名不詳。父は上杉輝虎期にみえる高梨修理亮か。


 左近司与三(さこんじよぞう)
 実名は政行か。謙信没後、暫くしてから喜左衛門尉を称する。父の左近司治部左衛門尉(政重か)は信濃衆(もとは信濃国衆)・高梨氏の旧臣という。


 土肥太兵衛尉(とひたびょうえのじょう)
 仮名は弥太郎、実名は能平か。父は越中味方中の土肥但馬守親真(謙信の最晩年、能登国羽咋郡末守城将を任せられる)か。太兵衛尉は、弟の土肥善八郎(実名は則平か)と共に謙信の近習を務めたという。謙信没後、暫くしてから伝右衛門尉を称する。妻は、外様衆・本庄越前守繁長の娘と伝わる。


 瀧口源七(たきぐちげんしち)
 実名不詳。


 町田太郎左衛門尉(まちだたろうざえもんんじょう)
 実名は国重か。


 水無瀬甚介(みなせじんすけ)
 実名不詳。


 渡辺左近允(わたなべさこんのじょう)
 実名は義綱か。近親者に渡辺彦七がいる。


 竹俣藤右衛門尉(たけのまたとうえもんのじょう)
 実名は吉次か。竹俣筑後守房綱の三男という。


 歌川新左衛門尉(うたがわしんざえもんのじょう)
 実名不詳。苗字は宇多川とも。


 諸越彦七郎(もろこしひこしちろう)
 実名は盛秀、次いで秀満を名乗るか。謙信没後、暫くしてから喜右衛門尉を称する。


 風巻清左衛門尉(かざまきせいざえもんのじょう)
 実名不詳。


 諏訪部彦五郎(すわべひこごろう)
 実名不詳。


 林殿内(はやしでんない)
 実名不詳。林平右衛門尉とは同根か。


 河村孫六郎(かわむらまごろくろう)
 実名不詳。長尾景虎期の河村孫六の子であろう。


 坂野源五郎(さかのげんごろう)
 実名不詳。


 松倉将監(まつくらしょうげん)
 実名不詳。


 莅戸内匠助(のぞきどたくみのすけ)
 実名は政喬か。前上杉氏時代に信濃国衆・村上氏の一族である入山氏が越後に移って莅戸に改名したという。弟に莅戸九郎兵衛尉(実名は政親か)がいる。


 山村藤三(やまむらとうぞう)
 実名不詳。仮名は藤蔵とも。父は山村右京亮(重信か)であろう。越後国頸城郡青木城主か。


 多羅澤 某(たらざわ)
 実名、通称は不詳。苗字は多良沢とも。


 塚本 某(つかもと)
 実名不詳。官途名は次郎右衛門尉か。


 鋳物師屋 某(いもじや)
 実名、通称は不詳。


 富永清右兵衛尉(とみながせいびょうえのじょう)
 仮名は惣八郎、実名は長綱か。謙信没後、暫くしてから備中守を称する。越後国長尾氏の被官であった斎木氏の出身で、富永備中守の名跡を継いだという。長綱の兄は、上田御前様衆(越後守護代長尾為景が上田長尾政景に嫁ぐ娘に付随させた家臣団)の斎木四郎兵衛尉尚重(実名は元重とも。惣次郎か。土佐守)という。


 富永彦兵衛尉(とみながひこびょうえのじょう)
 実名不詳。謙信没後、暫くしてから治部少輔を称する。富永清右兵衛尉(長綱か)の弟か。


 吉田十左衛門尉(よしだじゅうざえもんのじょう)
 実名不詳。


 野口与三左衛門尉(のぐちよぞうざえもんのじょう)
 実名不詳。


 外山縫殿丞(とやまぬいのじょう)
 実名不詳。苗字は富山とも。


 板倉式部丞(いたくらしきぶのじょう)
 実名不詳。もとは長尾氏か。


 梅津右門(うめづうもん)
 実名不詳。常陸国衆・佐竹氏の旧臣か。


 屋代 某(やしろ)
 実名不詳。官途名は式部丞か。父は屋代式部丞景国か。謙信の近習を務めるという。信濃国衆・村上氏の一族である屋代氏のうち、前上杉氏時代に来越した一族。


 多功勘之丞(たこうかんのじょう)
 実名は清綱か。父は多功播磨守清秀か。謙信の近習を務めるという。謙信没後、暫くしてから一家衆・山浦(村上)国清(景国)の与力に配されたのち、豊後守を称する。清綱と伝わる実名が正しいのであれば、山浦国清から一字を授けられたものか。


 尻高 某(しったか)
 実名不詳。父は山内上杉家の重臣であった尻高左京亮という。謙信没後、十五左衛門尉、次いで左京亮を称する。


 曽根 某(そね)
 実名不詳。官途名は平兵衛尉を称し、是言斎と号したという。父は曽根備中守か。子に曽根源左衛門尉俊理(小太郎)がいたという。謙信の活動期を通じて近習を務めたという。
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上杉謙信期の越後衆一覧 【2】

2014-02-14 00:43:53 | 上杉謙信期の越後衆

 譜代衆

 長尾小四郎景直(ながおこしろうかげなお)
 越後国頸城郡名立城主か。越中国新川郡天神山城将か。元亀3年に加賀・越中一向一揆が越中国の中郡に乱入した際には、旗本衆の鰺坂清介長実が城将を務める越中国新川郡新庄城に移った。中郡の平定後は新川郡小出城将に転出した。謙信の最晩年、越後衆として関東遠征に従軍する予定であった。嫡男に冠者丸がいたと伝わる。


 長尾右京亮(ながおうきょうのすけ)
 実名不詳。古志長尾右京亮景信の名跡を継いだか。越後国頸城郡直峰(嶺)城衆という。


 長尾一右衛門尉(ながおいちえもんのじょう)
 実名は景治か。下田長尾遠江守藤景の弟か。越後国蒲原郡下田(高)城主か。


 長尾孫七(長尾孫七)
 実名不詳。謙信没後、暫くしてから加賀守を称するか。


 長尾筑後守(ながおちくごのかみ)
 実名不詳。仮名は孫八郎を称したか。古志長尾氏の一族。越後国頸城郡直峰(嶺)城衆か。


 柿崎和泉守景家(かきざきいずみのかみかげいえ)
 仮名は弥次郎を称したか。官途名は中務を称した。年寄衆。越後国頸城郡柿崎城主。天正2年11月22日に死去したと伝わる。


 柿崎左衛門大夫(かきざきさえもんのだいぶ)
 仮名は平三郎、実名は晴家か。柿崎和泉守景家の嗣子。越後国頸城郡柿崎城主。謙信の最晩年、越後衆として関東遠征に従軍する予定であった。


 斎藤下野守朝信(さいとうしもつけのかみとものぶ)
 仮名は小三郎を称した。年寄衆。越後国刈羽郡赤田城主。能州平定後に一時期、一家衆の山浦源五国清と能登国羽咋郡末守城に在番した。謙信の最晩年、越後衆として関東遠征に従軍する予定であった。


 北条安芸守高広(きたじょうあきのかみたかひろ)
 仮名は弥五郎、受領名は丹後守を称した。謙信没後は芳林と号する。越・相一和の破談後、関東代官と上野国群馬郡厩橋城代を嗣子の北条弥五郎景広に譲ることになり、同勢多郡大胡城に移った。謙信の最晩年、関東衆として関東遠征に従軍する予定であった。


 北条丹後守景広(きたじょうたんごのかみかげひろ)
 仮名は弥五郎を称した。越後国刈羽郡北条城主。上野国群馬郡厩橋城代。謙信の最晩年、関東衆として関東遠征に従軍する予定であった。


 安田惣八郎顕元(やすだそうはちろうあきもと)
 越後国刈羽郡安田城主。謙信の最晩年、越後衆として関東遠征に従軍する予定であった。弟と伝わる安田久千代丸(のちの上総介能元)は、謙信から弥九郎(実名は元兼か)の仮名を与えられている。


 千坂対馬守景親(ちさかつしまのかみかげちか)
 越後国蒲原郡鉢盛城主。謙信の最晩年、越後衆として関東遠征に従軍する予定であった。


 石川中務少輔(いしかわなかつかさのしょう)
 実名不詳。越後国蒲原郡石川城主か。


 平子若狭守(たいらくわかさのかみ)
 実名は房長、房政などと定まらない。仮名は孫太郎を称した。越後国魚沼郡薭生城主。謙信の最晩年、能登衆として関東遠征に従軍する予定であった。


 上野中務丞家成(うえのなかつかさのじょういえなり)
 仮名は源六を称した。越後国魚沼郡節黒城主。上野国利根郡沼田城衆。謙信の最晩年、関東衆として関東遠征に従軍する予定であった。上野孫五郎は嫡男か。


 新保孫六(しんぼまごろく)
 実名は景之か。幼名は長松丸を称した。謙信から越後国長尾家に縁の一字を賜った。越後国蒲原郡新保城主か。謙信の最晩年、越後衆として関東遠征に従軍する予定であった。


 竹俣小太郎(たけのまたこたろう)
 実名は房綱か。謙信没後、暫くしてから筑後守を称するか。謙信の最晩年、越後衆として関東遠征に従軍する予定であった。


 小国刑部少輔(おぐにぎょうぶのしょう)
 実名は重頼か。謙信没後、暫くしてから石見守を称する。越後国蒲原郡天神山城主。謙信の最晩年、越後衆として関東遠征に従軍する予定であった。


 山岸隼人佑(やまぎしはやとのすけ)
 実名は光重か。謙信没後、暫くしてから隼人入道光祐と号し、更に出雲と称する。越後国蒲原郡黒滝城主。長男の山岸宮内少輔秀能は、越後国蒲原郡弥彦神社の戸内職を兼ねる。謙信の最晩年、越後衆として関東遠征に従軍する予定であった。


 村山善左衛門尉慶綱(むらやまぜんざえもんのじょうよしつな)
 仮名は孫五郎を称した。山岸隼人佑(光重か)の次男。越後国頸城郡徳合城主。一時期、旗本衆の河田窓隣軒喜楽・同対馬守吉久父子、上田衆(謙信の養子である上杉弾正少弼景勝の同名・同心・被官集団)、黒川衆(外様衆・黒川四郎次郎平政の同名・同心・被官集団)と能登国鹿島郡石動山城に在番した。謙信の最晩年、越後衆として関東遠征に従軍する予定であった。謙信没後、暫くしてから安芸守を称する。


 和納伊豆守(わのういずのかみ)
 実名不詳。越後国蒲原郡和納城主。謙信の最晩年、越後衆として関東遠征に従軍する予定であった。


 計見与十郎(けみよじゅうろう)
 実名は幸安か。父は計見出雲守(実名は堯元か)という。越後国刈羽郡畔屋城主か。謙信の最晩年、越中衆として関東遠征に従軍する予定であった。


 青海川図書助(おうみがわずしょのすけ)
 実名不詳。幼名は梅千代を称した。越後国刈羽郡青海川城主。


 青海川右馬丞(おうみがわうまのじょう)
 実名不詳。越後国頸城郡の青海川氏か。


 大崎筑前守(おおさきちくぜんのかみ)
 実名は泰継か。或いは子の九郎左衛門尉か。越後国魚沼郡大崎城主か。


 大関弥七親憲(おおぜきやしちちかのり)
 越後国上杉家を離れて奥州黒川の蘆名家を頼ったという伝承がある。天正2年に謙信旗本の若林九郎左衛門尉家吉に数ヶ所の「大関弥七分」の地が宛行われているので、それ以前に出奔したとみられる。謙信没後に帰参したようで、暫くしてから常陸介を称する。越後国魚沼郡浦佐城主か。


 窪 某(くぼ)
 実名、通称は不詳。天正3年頃に退転した。


 直海新右兵衛尉(のうみしんびょうえのじょう)
 実名は景秀か。


 江口式部丞(えぐちしきぶのじょう)
 仮名は善太郎、実名は親政か。父は江口安芸守(実名は親広、仮名は藤五郎、官途名は式部丞か)か。越後国魚沼郡平地山城主。


 宇佐美平八郎(うさみへいはちろう)
 官途名は民部少輔、実名は実定か。越後国魚沼郡真板平(根小屋)城主か。


 甘糟近江守長重(あまかすおうみのかみながしげ)
 越後国山東(西古志)郡枡形城主か。


 鳥山因幡守(とりやまいなばのかみ)
 実名不詳。官途名は大炊助を称したか。越後国魚沼郡市之沢城主か。
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上杉謙信期の越後衆一覧 【1】

2014-02-13 23:51:28 | 上杉謙信期の越後衆

 一家衆

 上杉三郎景虎(うえすぎさぶろうかげとら)
 相州北条氏康の末男で、久野北条新三郎氏信の遺跡を継ぎ、初めは北条三郎を名乗った。越・相一和に伴って謙信(輝虎)の養子となり、謙信の初名である景虎の名を与えられた。妻は、謙信の姉である仙洞院と上田長尾越前守政景の間に生まれた次女。


 上杉弾正少弼景勝(うえすぎだんじょうのしょうひつかげかつ)
 謙信の姉である仙洞院と上田長尾越前守政景の間に生まれた次男で、上田長尾氏を継ぎ、初めは長尾喜平次顕景を名乗った。天正3年正月に謙信の養子となり、謙信の官途である弾正少弼と景勝の名を与えられた。越後国魚沼郡坂戸城主。


 上杉十郎(うえすぎじゅうろう)
 実名は信虎か。古志長尾右京亮景信の子で、初めは長尾十郎景満を名乗ったらしい。上杉上条家の一族である上杉十郎の名跡を継いだか。謙信の最晩年、越後衆として関東遠征に従軍する予定であった。


 上条弥五郎政繁(じょうじょうやごろうまさしげ)
 能州畠山義続(号悳祐)の末男(幼名は宮王丸を称したか)とされる。上杉上条家の名跡を継いだ。謙信没後、暫くしてから宜順と号する。妻は、謙信の姉である仙洞院と上田長尾越前守政景の間に生まれた長女。越後国刈羽郡上条(黒滝)城主。謙信の最晩年、能登衆として関東遠征に従軍する予定であった。


 山浦源五国清(やまうらげんごくにきよ)
 信濃衆・村上兵部少輔義清の嗣子で、始めは村上源五国清を名乗った。上杉山浦家の名跡を継いだ。妻は越前国朝倉義景の娘(謙信の養女)と伝わる。越後国蒲原郡笹岡城主。長期間、越中国に駐留した。能州平定後に一時期、譜代衆の斎藤下野守朝信と能登国羽咋郡末守城に在番した。謙信の最晩年、越後衆として関東遠征に従軍する予定であった。


 琵琶嶋弥七郎(びわじまやしちろう)
 実名は政勝か。越後国刈羽郡琵琶嶋城主。謙信の最晩年、越後衆として関東遠征に従軍する予定であった。


 山本寺伊予守定長(さんぽうじいよのかみさだなが)
 越後国頸城郡不動山城主。謙信の最晩年、越後衆として関東遠征に従軍する予定であった。嫡男に山本寺松三景長(幼名は宮千代丸を称したか)がいる。


 桃井伊豆守義孝(もものいいずのかみよしたか)
 官途名は右馬助を称した。越後国頸城郡鳥(富)坂城主か。すでに嫡男と思われる桃井宮内少輔に代替わりしていたか。



 奥郡国衆(阿賀北の外様衆)

 中条越前守(なかじょうえちぜんのかみ)
 実名は房資か。仮名は弥三郎を称した。越後国蒲原郡鳥坂城主。天正元年8月22日に死去したと伝わる。


 中条与次景泰(なかじょうよじかげやす)
 旗本衆・吉江織部佑景資の次男で、初めは吉江与次(幼名は沙弥法師丸を称した)を名乗った。謙信の小姓を務めたのち、中条越前守(房資か)の名跡を継いだ。謙信から越後国長尾家に縁の一字を賜った。謙信没後に越前守を称する。越後国蒲原郡鳥坂城主。謙信の最晩年、越後衆として関東遠征に従軍する予定であった。


 黒川四郎次郎平政(くろかわしろうじろうひらまさ)
 幼名は竹福丸を称した。越後国蒲原郡黒川城主。天正3年2月以降に嫡男と思われる源次郎為実(左馬頭。豊前守)に代替わりしたか。


 本庄雨順斎全長(ほんじょううじゅんさいぜんちょう)
 仮名は弥次郎を称し、実名は繁長を名乗った。謙信没後、暫くしてから俗名に復し、更に越前守を称する。嫡男の本庄新六郎顕長は、謙信から山内上杉家に縁の一字を賜った。越後国瀬波(岩船)郡村上城主。


 色部弥三郎顕長(いろべやさぶろうあきなが)
 幼名は虎黒丸を称した。越後国瀬波(岩船)郡平林(加護山)城主。


 色部惣七郎長真(いろべそうしちろうながざね)
 初めは兄の色部弥三郎顕長から偏諱を授かって長実と名乗った。謙信没後、暫くしてから修理大夫を称する。妻は新発田尾張守忠敦の娘か。越後国瀬波(岩船)郡平林(加護山)城主。謙信の最晩年、越後衆として関東遠征に従軍する予定であった。


 鮎川孫次郎盛長(あゆかわまごじろうもりなが)
 幼名は市黒丸を称した。越後国瀬波(岩船)郡大葉沢城主。長期間、越後国瀬波(岩船)郡猿沢城に蟄居中の本庄雨順斎全長(実名は繁長)を監視するため、旗本衆の三潴左近大夫(実名は長能か)と越後国瀬波(岩船)郡庄厳(笹平)城に在番した。謙信の最晩年、越後衆として関東遠征に、陣代が従軍する予定であった。


 大川三郎次郎長秀(おおかわさぶろうじろうながひで)
 越後国瀬波(岩船)郡藤懸(府屋)城主。謙信の最晩年、越後衆として関東遠征に、陣代が従軍する予定であった。


 加地彦次郎(かぢひこじろう)
 実名は知綱か。越後国蒲原郡加地城主。


 加地宗七郎(かぢそうしちろう)
 実名不詳。謙信没後は安芸守を称する。加地彦次郎(知綱か)の弟か。越後国蒲原郡加地城主。謙信の最晩年、越後衆として関東遠征に従軍する予定であった。


 新発田尾張守忠敦(しばたおわりのかみただあつ)
 仮名は源次郎を称した。越後国蒲原郡新発田城主。天正3年2月以前に死去したか、或いは家督を嗣子に譲った。


 新発田尾張守長敦(しばたおわりのかみながあつ)
 仮名は源次郎を称した。中条越前守(房資か)の弟か。天正3年2月以前に新発田尾張守忠敦の名跡を継いだ。年寄衆。謙信(輝虎)から越後国長尾家に縁の一字を賜った。越後国蒲原郡新発田城主。謙信の最晩年、越後衆として関東遠征に従軍する予定であった。


 五十公野右衛門尉重家(いじみのえもんのじょうしげいえ)
 初めは新発田右衛門大夫(実名は綱成か)を名乗っていたが、元亀元年10月から天正3年2月までの間に、新発田庶族の五十公野氏に入嗣した。謙信没後は因幡守を称し、更に新発田尾張守長敦の死去に伴い、宗家を継いで新発田因幡守重家を名乗る。越後国蒲原郡五十公野城主。謙信の最晩年、越後衆として関東遠征に従軍する予定であった。


 竹俣三河守慶綱(たけのまたみかわのかみよしつな)
 官途名は太郎左衛門尉を称したか。年寄衆。越後国蒲原郡竹俣城主。謙信の最晩年、越後衆として関東遠征に従軍する予定であった。


 水原能化丸(すいばらあたかまる)
 謙信の末期か死去した直後に弥四郎(実名不詳)を名乗っているが、暫くしてから水原平七郎満家(弟か)に代わっている。水原蔵人丞(実名は実家か)の子か。越後国蒲原郡水原城主。


 安田新太郎(やすだしんたろう)
 実名は堅親か。謙信没後は治部少輔、更に暫くしてから筑前守を称する。旗本衆・河田豊前守長親の次弟で、中条越前守(房資か)の遺跡を継いだが、中条家中の反発によって破談すると、改めて安田治部少輔の名跡を継いだ。越後国蒲原郡安田城主。謙信の最晩年、越後衆として関東遠征に従軍する予定であった。


 下条采女正(げじょううねめのしょう)
 実名は忠親か。旗本衆・河田豊前守長親の長弟で、下条氏に入嗣した。越後国蒲原郡下条城主。


 荒川弥次郎(あらかわやじろう)
 実名不詳。越後国蒲原郡荒川城主。謙信の最晩年、越後衆として関東遠征に従軍する予定であった。


 垂水源次郎(たるみげんじろう)
 すでに官途名は右近丞を称しているか。越後国蒲原郡垂水城主。



 中郡国衆(阿賀南の外様衆)

 菅名源三(すがなげんぞう)
 実名不詳。越後国蒲原郡菅名城主。謙信の最晩年、越後衆として関東遠征に従軍する予定であった。謙信死去の直後には弟の菅名孫四郎綱輔(のち但馬守)に代わっている。


 村松 某(むらまつ)
 官途名は平右衛門尉(実名不詳)を称したか。上杉輝虎期の村松山城守の後継者。越後国蒲原郡村松城主か。


 平賀左京亮重資(ひらがさきょうのすけしげすけ)
 仮名は助四郎称したか。越後国蒲原郡護摩堂城主。


 丸田伊豆守(まるたいずのかみ)
 実名不詳。弟に丸田掃部助俊次がいる。越後国蒲原郡丸田城主。平賀左京亮重資の同心か。


 新津大膳亮(にいつだいぜんのすけ)
 実名は資相か。謙信没後は丹波守勝資を名乗るか。越後国蒲原郡新津城主。
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越後国上杉輝虎(旱虎)の略譜 【61】

2014-02-09 00:57:15 | 上杉輝虎(謙信)の略譜
元亀元年(1570)5月 上杉輝虎(旱虎。弾正少弼)  【41歳】

朔日、(上杉「輝虎」)、関東味方中の「広田出雲守殿(直繁。武蔵国衆。武蔵国羽生城主)」に宛てて書信を発し、未だに義氏(古河公方足利氏)への御請を果たしていないため、その懸念は尤もであること、早々に御請するべきところ、景虎(相州北条氏康の末男を養子として迎えた)の祝儀を執り行わなければならなかったので、大幅に遅れてしまったが、いささかも他意はないこと、すでに請状は認めてあり、このたび幸便を得たので送り届けること、来秋には(北条)氏政と内々に計画を練り上げた共同の戦陣を催すので、安心してほしいこと、よって、これらを改めて詳報することを伝えた。更に追伸として、このたびの一件は其方名字中(広田氏)の名誉であるため、義氏への請書の添状として、一筆を其方(広田直繁)へ送り届けるので、弁舌が立つ者に託し、必ず申し届けるべきことを伝えた。

9日、越後奥郡国衆の鮎川孫次郎盛長(外様衆。越後国大葉沢城主)から、取次の「山吉孫次郎殿(豊守。大身の旗本衆)」に宛てて書信が発せられ、このたび存分に成果を挙げられて、整然と関東から御帰陣されたのは、慶賀の至りであること、恐れながら祝意を表するために御酒肴を献上したこと、これらを山吉方(豊守)に詳報したとして披露を懇請されている。

12日、相州北条「氏康(相模守)」から返書(「山内殿」)が発せられ、先月25日に息三郎(上杉景虎)のため、御城中に於いて御祝儀を催されたと聞き、まさしく両家の繁栄の基であり、愚老(北条氏康)にとっても本望満足であること、近日中に使者を派遣して御祝意を表するつもりであること、(北条)氏政は敵軍と間近に対陣しており、このたびは返事を出せなかった事情を理解してほしいこと、前述の通り近日中に使者を派遣するので、その際に改めて愚意を示すこと、これらを取り急ぎ伝えられている。

15日、(上杉「輝虎(花押a)」)、奥州黒川(会津郡門田荘)の蘆名家の政僧である「游足庵(淳相)」に宛てて返書を発し、先頃は盛氏父子から二度も音問が寄せられたので、めでたく喜ばしいこと、ここ最近は交信が途絶えて心許なく思い、こちらから使僧を立てるので、相応の取り成しを任せ入ること、相・越一和の落着により、このたび(北条)氏康が盟約の旨に従い、輝虎の養子となる実子の三郎を寄越したので、来秋に機先を制して敵領へ攻め込む計画に合意し、先ずは関東から帰陣して先月18日に着府したこと、相・越両国が一味したからには、関東の統治は万全に整うので、安心してほしいこと、奥州米沢(置賜郡長井荘)の伊達家(輝宗)に波乱が起こり、敗れた中野常陸介父子(伊達家宿老の中野常陸介宗時・牧野弾正忠久仲)が退去したそうなので、彼の口の様子が案じられてならず、状況を詳報してほしいこと、これからますます盛氏父子との連帯を強めたいので、父子を適切に説き勧めてほしいこと、詳細は使者に申し含めたこと、これらを懇ろに伝えた。更に追伸として、赤地の金襴一巻を贈ることを伝えた。

26日、下総国衆の「相左治胤(相馬左近大夫治胤。下総国守谷城主)」が、古河公方足利家の奉公衆である「一源(一色源三郎)・芳春院(周興)御侍者中」に宛てた書信を飛脚に託し、海賊衆が御座(古河御所)の御近辺に出没して火を放っているとの情報が入り、はなはだ上意の身が案じられること、(武田)信玄が豆州に侵攻するも、あっさり退散したそうであること、当然ながら彼の口の状況を続報すること、佐竹筋については、常陸国小田城(筑波郡)の城主に太美(太田美濃入道道誉。三楽斎。資正)が配置されたので、ますます(小田)氏治(常陸国藤沢城主)は苦境に立たされたこと、異変があれば急報すること、これらの披露を求めている。

27日、(上杉「輝虎」)、「鮎川孫次郎殿(盛長)」に宛てて返書を発し、このほど関東から帰馬した祝儀として酒肴を贈ってもらい、めでたく喜ばしいこと、越中・信濃両国は平穏無事であり、安心してほしいこと、大宝寺(出羽国田川郡大泉荘)・伊達の両口に異変があれば、報告を寄越すべきこと、昼夜に関係なく鮎川要害の防備に努めるべきこと、よって、めでたく万事が整ったあかつきに詳報するので、これ以外は申し述べないことを伝えた。


この間、甲州武田「信玄(法性院)」は、7日、濃(尾)州織田信長の取次に対して書信を送り、このたび起きた浅井(江州北郡の浅井長政)の造反は残念であること、近日中には退治されるのであろうこと、いかにも京都を平穏へと導き、無事に士卒を帰陣させたのは、誠にめでたいこと、(織田)信長に巣鷂(鷹)を贈るので、必ず取り成してもらいたいこと、其方のところへ送るので、(信長が)愛玩してもらえたら本望であること、これらを懇ろに伝えている。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 911号 上杉輝虎書状(写)、912号 鮎川盛長書状(写)、913号 北条氏康書状、914号 上杉輝虎書状、1427号 上杉謙信書状(写) 『戦国遺文 古河公方編』 1417号 相馬治胤書状写、 『戦国遺文 武田氏編 第三巻』 1547号 武田信玄書状


元亀元年(1570)6月 上杉輝虎(旱虎。弾正少弼)  【41歳】

11日、越後奥郡国衆の本庄「沙弥全長(雨順斎。繁長。越後国村上城主。同猿沢城に蟄居中)」から、「春日山」の年寄中に宛てて書信(謹上書)が発せられ、このたびの御祝儀(上杉景虎との養子縁組か)について、太刀一腰・大鷹一居・鹿毛馬一疋を献上したこと、限りなくめでたい首尾であり、この旨を御披露してほしいこと、これらを懇ろに伝えられている。

24日、相州北条「氏康(相模守)」が、上野国衆の「富岡清四郎殿(秀親ヵ。上野国小泉城主)」に宛てて返書を発し、ここ暫く音問が途絶えていたところ、このたび寄せてくれた一札を披読し、その旨を理解したこと、取り分け蝋燭一合を贈ってもらい、めでたく喜ばしいこと、(武田)信玄が武州に侵攻するとの情報に接し、(北条)氏政が立ち向かって一戦するつもりであるのは、先頃に使者をもって申し届けた通りであること、年来の交誼に基づいて参陣し、いっそう奮闘してくれれば、大いに喜ばしいこと、詳細は岩本(太郎左衛門尉定次。馬廻衆)が申し伝えること、これらを懇ろに伝えている。

29日、取次の「山吉豊守・河田長親(豊前守。大身の旗本衆。越中国魚津城代)」が、「富岡清四郎殿」に宛てて返書を発し、このたび寄越された書札の別紙も披読したこと、永禄9年(この年に富岡は越後国上杉方から相州北条方に寝返った)から領有している上野国上郷内の五郷の地を巡る相論(邑楽郡佐貫荘。由良成繁の一族である横瀬国広と領有を巡って相論していた)に異存があるようで、相の証文(相州北条家が富岡に与えた証文)を寄越されたこと、そのは明白であり、それに加えて越・相両国の御和睦が成立したからには、何事に於いても永禄7年当時の御下知に準拠するべきこと、詳細は(富岡の)使者に申し含めたこと、これらを懇ろに伝えている。


この間、甲州武田「信玄(法性院)」は、5日、濃(尾)州織田信長の側近である「夕庵(武井爾云。右筆と奉行人を兼ねる)」に対して書信を送り、このたび信長が越前国と近江国を抑えて御帰国したのは、めでたく喜ばしいこと、江北の浅井(江州北郡の浅井備前守長政)が背信を企てたそうであるが、断じて追討するべきであること、4月下旬に使者の市川十郎右衛門尉をもって申し伝えたところ、江北の通路が封鎖されていたゆえ、役目を果たせず信州まで引き返してきたが、そこから再び貴国へ向かわせたので、もうすでに到着したと思われること、市川の胆力が足りず音信が遅れる結果となり、(信長を)侮り軽んじてしまったようで、はなはだ面目を失ったこと、近いうちに巣鷂を贈るつもりなので、その折に改めて詳報すること、これらを懇ろに伝えている。更に追伸として、越中先方衆の椎名(右衛門大夫康胤。越中国松倉城主)を支援を働き掛けるため、賀州衆の案内で大坂(摂津国石山本願寺)へ派遣した使僧の長延寺(実了師慶)が、江北錯乱によって中途での滞留を余儀なくされているらしいので、いぶかしんでおり、はなはだ心許ないため、彼の者の状況を知らせてくれるように求めている。
27日、常陸国衆・佐竹氏の客将である「太田美濃守殿(三楽斎道誉。資正。常陸国小田城主)」に対して書信を送り、ここ暫くは、通路の断絶しているため、思いがけず音問が途絶えていたこと、先月は豆州に攻め入って国中を蹂躙し、十分な成果を得て下旬に帰府したこと、去る5日に別働隊が武蔵国御嶽城(児玉郡)の乗っ取りに成功したので、要害を修築して矢楯と兵糧を搬入し、甲・信両国から千余名の人衆を送り込んだこと、これから直ちに関東へ出陣するつもりなので、いよいよ味方中を滞りなく結集させてほしいこと、これらを懇ろに伝えている。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 915号 本庄全長書状、916号 山吉豊守・河田長親連署状 『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』 1425号 北条氏康書状 『戦国遺文 武田氏編 第三巻』 1550号 武田信玄書状、1561号 武田信玄書状写

◆ 『上越市史』916号の解釈については、黒田基樹氏の論集である『戦国大名と外様国衆』(文献出版)の「第十章 富岡氏の研究」を参考にした。


元亀元年(1570)7月 上杉輝虎(旱虎。弾正少弼)  【41歳】

9日、越中国魚津城(新川郡)の城代である河田「長親」が、被官の「山田平左衛門尉殿」に証状を与え、越中国新川郡小出保下条内の小池分と徳楽分の知行地を宛行っている。
19日、取次の山吉孫次郎豊守が、相州北条方の取次である「藤田新太郎殿(氏邦。氏康の四男。武蔵国鉢形城主)御宿所」に宛てた条書を、相州北条方の使者である篠窪治部に託し、一、越・相両国が御同陣するにあたり、取り急ぎ使者をもって申し入れられること、一、当方では家中の上下に係わりなく、御同陣の是非に気を揉んでいること、一、甲府(甲州武田家)から到来した使僧を成敗すること、一、互いに中途まで交渉人を出向かせて御相談し合い、双方が御納得した上で、定められた日限通りに御手合せされるべきこと、一、当秋に御同陣が実現しなければ、味方中の動揺は計り知れず、御後悔するような事態が起こり得ると考えられていること、この補足として、篠治(篠窪治部)を相府へ帰して詳述されること、こうした条々について説明している。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 919号 河田長親知行宛行状、920号 山吉豊守条書案
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