越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

上杉謙信期の越後衆一覧 【3】

2014-02-15 23:59:39 | 上杉謙信期の越後衆

 旗本衆

 直江大和守景綱(なおえやまとのかみかげつな)
 初名は実綱、次いで政綱を名乗った。仮名は神五郎、官途名は与右兵衛尉を称した。年寄衆。謙信の最側近として足利義昭や織田信長などの諸勢力との取次を務める。越後国山東(西古志)郡の与板城主。元亀4年5月に山吉孫次郎豊守・河隅三郎左衛門尉忠清・庄田隼人佑と共に越中国新川郡の宮崎城、天正4年末から翌5年初春にかけては山吉米房丸・吉江喜四郎資賢・河田対馬守吉久・船見衆らと共に能登国鹿島郡の石動山城に在番した(『上越市史 上杉氏文書集』1315号)。天正6年3月に謙信が、従えたばかりの能登・越中両国の諸士や加賀・越中両国の一向一揆までも動員する関東大遠征に、能登衆として上条弥五郎政繁に次ぐ立場で従軍する予定であった。謙信死去の直後には養子で娘婿の直江与右兵衛尉信綱(関東三長尾氏の惣社長尾氏の出身か)に代わっている。すでに嫡男であった直江伊勢松は早世してしまっており、法名は如雪童子と伝わっている(林泉寺文書)。


 山吉孫次郎豊守(やまよしまごじろうとよもり)
 年寄衆。越後国蒲原郡の三条城主。越・相一和の破談後も謙信の最側近として越後衆や関東味方中との取次を務める。元亀4年5月には、珍しく謙信の許を離れて、一時的ではあるが、直江大和守景綱・河隅三郎左衛門尉忠清・庄田隼人佑と共に越中国新川郡の宮崎(境)城に在番している(『上越市史 上杉氏文書集』1158号)。天正5年6月9日に死去したと伝わる(越後三条山吉家伝記之写)。


 山吉米房丸(やまよし こめふさまる・こめぼうまる・べいぼうまる)
 山吉孫次郎豊守の嗣子。越後国蒲原郡の三条城主。天正4年末から翌5年初春にかけて、元服前の身ながら、直江大和守景綱・吉江喜四郎資賢・河田対馬守吉久・船見衆らと共に能登国鹿島郡の石動山城に在番した(『上越市史 上杉氏文書集』1315号)。天正5年9月に早世したとみられる。これにより山吉氏は家系が断絶し、居城と半領を没収されてしまうが、山吉孫次郎豊守の弟・山吉孫五郎景長(この時点で景長を名乗っていたのかは分からない)を当主として存続は認められる。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、陣代が率いる山吉家中は越後衆の一員として従軍する予定であった。


 河田豊前守長親(かわだぶぜんのかみながちか)
 官途名は九郎左衛門尉を称した。謙信没後は豊前入道禅忠と号する。年寄衆。謙信が元亀4年春に越中国金山(松倉)の椎名康胤を滅ぼすと、越中国新川郡の魚津城から、椎名の本拠であった松倉城に移り、冬には太田下郷料所代官を任された(上郷は村田忠右衛門尉秀頼)。さらに謙信が越中国を平定すると、越中国東郡代官に任命された(西郡は吉江織部佑景資)。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、越中衆の筆頭として従軍する予定であった。嫡男に河田岩鶴丸がいる。


 鰺坂備中守長実(あじさかびっちゅうのかみながざね)
 仮名は清介を称した。年寄衆。謙信による北陸経略が進むなかで、越中国新川郡の新庄城将を任され、能州平定後は能登国代官として鹿島郡の七尾城に入った。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、越中衆として河田豊前守長親・吉江織部佑景資と並ぶ立場で従軍する予定であった。


 吉江織部佑景資(よしえおりべのすけかげすけ)
 初名は長資。仮名は与橘を称したか。謙信没後は常陸入道宗誾と号する。年寄衆。謙信の能州平定後は越中国西郡の代官として砺波郡の増山城に入った。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、越中衆として河田豊前守長親・鯵坂備中守長実と並ぶ立場で従軍する予定であった。長男の寺嶋六三長資(吉江亀千代丸)は、謙信から越後国長尾家に縁の一字を賜って景資の初名を名乗り、越中国中部の領主であった神保氏の重臣・寺嶋氏の名跡を継いだ。次男の中条与次景泰(吉江沙弥法師丸・与次)は、外様衆・中条氏の名跡を継いだ。三男の吉江与橘長照(長忠)は、謙信没後、暫くして上杉景勝から越後国長尾家に縁の一字を賜った。


 吉江喜四郎信景(よしえきしろうのぶかげ)
 吉江景資の一族に列した際に実名を資賢と名乗った。それ以前の名字・実名は伝わらない。天正5年11月には信景の実名で見え、謙信から「信」の一字を賜ったであろう。系図では別系の吉江佐渡守忠景の名跡を継いだとされているが、上杉景勝期に吉江忠景が称した中務丞を称している吉江氏がおり、忠景の実子という可能性があるので、信景が忠景の後継者であるのかは定かではない。年寄衆。天正4年末から翌5年初春にかけては直江大和守景綱・山吉米房丸・河田対馬守吉久・船見衆らと能登国鹿島郡石動山城に在番した。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、越後衆の一員として従軍する予定であった。その花押形は、最側近に相応しく、謙信が用いた花押の影響が見て取れる。妻は越中国増山の神保氏の重臣である益木中務丞職泰の娘で、嫡男に吉江長満丸がいたと伝わる。


 三条道如斎信宗(さんじょうどうじょさいしんしゅう)
 初めは長沢菅(勘)五郎を名乗っていた。越中国衆・長沢筑後守光国の小姓であったと伝わる。謙信から「信」の一字を賜った。年寄衆。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、越後衆の一員として従軍する予定であった。その花押形は、最側近に相応しく、謙信が用いた花押の影響が見て取れる。謙信没後、暫くしてから外様衆の五十公野因幡守重家(義兄とも相婿とも伝わる)が宗家の新発田氏を継いだのに伴い、五十公野氏に入嗣する。


 北条下総守高定(きたじょうしもうさのかみたかさだ)
 仮名は助三郎を称した。年寄衆。譜代衆・北条安芸守高広の弟と伝わる。嫡男の北条助三郎は謙信の小姓を務める。妻は片野将監亮(実名は元忠か。北条毛利氏の一族と伝わる)の娘。嫡男の北条助三郎は謙信の小姓を務めている。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、越後衆の一員として従軍する予定であった。その花押形は、かつて越後国上杉家の味方中であった上野国衆・由良成繁が用いた花押の影響が見て取れる。


 本庄清七郎(ほんじょうせいしちろう)
 実名は綱秀と伝わる。年寄衆。越後国古志郡の栃尾城主。父の本庄美作入道宗緩(実乃)は隠居後も五・六日に一度は謙信の許へ出仕しており、年次は不明であるが76歳で死去したと伝わり、天正3年8月までは見える。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、越後衆の一員として従軍する予定であった。嫡男は新七郎景乃(宮内丞)を名乗ったと伝わる。


 吉江佐渡守忠景(よしえさどのかみただかげ)
 官途名は中務丞を称した。越後国蒲原郡の吉江城主か。謙信が北陸経略を進めるなかで、元亀3年5月には河田豊前守長親の許で越中国の前線にいた。天正3年以降は所見できない。吉江喜四郎資賢(信景)に名跡を譲ったとも伝わるが、上杉景勝期に中務丞を称している吉江氏がおり、実子がいた可能性もある。


 松本鶴松丸(まつもとつるまつまる)
 父は松本石見守景繁。幼少のために松本氏の重臣である板屋修理亮(実名は光胤と伝わる)が陣代を務めた。越後国山東(西古志)郡の小木(荻)城主。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、陣代が率いる松本家中は越後衆の一員として従軍する予定であった。謙信没後の内乱の最中、上杉景勝から「松本一跡」が松本弥七郎(左馬助房繁)に与えられており、鶴松は何らかの理由によって姿を消している。


 河田伯耆守重親(かわだほうきのかみしげちか)
 仮名は新四郎を称したか。河田豊前守長親の叔父に当たる。上野国利根郡の沼田城将。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、関東衆の一員として従軍する予定であった。嫡男に新四郎がいた。


 河田勘五郎(かわだかんごろう)
 実名は実親か。謙信没後、暫くしてから軍右兵衛尉、更に摂津守を称するか。もしそうであれば、河田豊前守長親の末弟となる。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、越後衆の一員として従軍する予定であった。


 船見宮内少輔(ふなみくないのしょう)
 実名は規泰と伝わる。初めは須田九郎太郎を名乗った。信濃衆・須田相模守満国の弟である須田右衛門大夫満泰の嫡男で、旗本衆・船見氏の名跡を継いだ。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、陣代が率いる船見家中は越後衆の一員として従軍する予定であった。謙信没後、暫くしてから宗家を継いで須田相模守満親と名乗る。


 河田窓隣軒喜楽(かわだそうりんけんきらく)
 加賀国一向一揆の許への使者を務めた。天正5年の春から夏にかけて、世子である河田対馬守吉久、譜代衆の村山善左衛門尉慶綱、上田衆(謙信の養子である上杉弾正少弼景勝の同名・同心・被官集団)、黒川衆(外様衆・黒川四郎次郎平政の同名・同心・被官集団)と共に能登国鹿島郡の石動山城に在番した。


 河田対馬守吉久(かわだつしまのかみよしひさ)
 父は河田窓隣軒喜楽。天正4年末から翌5年初春にかけては直江大和守景綱・山吉米房丸・吉江喜四郎資賢・船見衆らと、天正5年の春から夏にかけては父の河田窓隣軒喜楽、譜代衆の村山善左衛門尉慶綱、外様衆の黒川衆と共に能登国鹿島郡の石動山城に在番した。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、越後衆の一員として従軍する予定であった。嫡男に善三郎がいた。


 香取弥平太(かとりやへいた)
 実名不詳。近江国出身か。


 神余小次郎親綱(かなまりこじろうちかつな)
 父は神余隼人佑。山吉氏の改易後に越後国蒲原郡の三条城主となる。


 三潴出羽守長政(みづまでわのかみながまさ)
 越後国蒲原郡の中目城主。


 三潴左近大夫(みづまさこんのだいぶ)
 実名は長能と伝わる。父は三潴出羽守長政。上杉輝虎期に反乱を起こすも失敗した外様衆の本庄雨順斎全長(繁長)が蟄居している越後国瀬波(岩船)郡の猿沢城を監視するため、外様衆で本庄とは同族の鮎川孫次郎盛長と共に越後国瀬波(岩船)郡の庄厳(笹平)城に在番している。


 新保清右衛門尉秀種(しんぼせいえもんのじょうひでたね)
 使者をよく務めているが、本庄清七郎や河田対馬守吉久たちと並んで一手を率いる旗本部将である(『上越市史 上杉氏文書集』1224号)。


 吉江民部少輔(よしえみんぶのしょう)
 実名は景淳と伝わる(御家中諸士略系譜)。信濃衆の赤見小六郎と共に越後国頸城郡の祢知城将を務めている。


 本田右近允(ほんだうこんのじょう)
 実名は『謙信公御書集』では長定、〔御家中諸士略系譜〕では重政と定まらない。謙信の最晩年か没後に石見守を称する。越後国頸城郡の鳥坂城将とも、信濃国水内郡の飯山城衆の一員とも伝わる。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、越後衆の一員として従軍する予定であった。嫡男の本田弁丸は、謙信の小姓を務めたと伝わり、謙信から仮名の孫七郎と越後国長尾家に縁の「長」の一字を賜っている。


 堀江駿河守(ほりえするがのかみ)
 実名は宗親と伝わる。越後国頸城郡の鮫ヶ尾城主と伝わる。越前国出身か。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、越後衆の一員として従軍する予定であった。


 岩船藤左衛門尉(いわふねとうざえもんのじょう)
 実名は忠秀と伝わる(御家中諸士略系譜)。謙信没後、暫くしてから藤左衛門入道一策斎と号し、更に丹波を称する。嫡男の岩船彦五郎(実名は長忠と伝わる。のちに藤左衛門尉を称する)は謙信の近習を務めたという(御家中諸士略系譜)。


 草間出羽守(くさまでわのかみ)
 実名不詳。


 岩井大和守(いわいやまとのかみ)
 〔御家中諸士略系譜〕によれば、実名は能歳、天正2年8月24日に死去したといい、嗣子の岩井式部少輔能成が名跡を継いだという。


 岩井備中守昌能(いわいびっちゅうのかみまさよし)
 嫡男の岩井源三信能(のちに民部少輔、備中守を称する)は、謙信の小姓を務めたと伝わり、謙信から「信」の一字を賜った。


 大瀧新兵衛尉(おおたきしんびょうえのじょう)
 実名は信安と伝わる(御家中諸士略系譜)。


 村田忠右衛門尉秀頼(むらたちゅうえもんのじょうひでより)
 謙信没後、暫くしてから大隅守を称する。嫡男に与十郎がおり、村田氏の系図によれば、江戸期の村田氏の歴代に次郎右衛門や与十郎を称した者がいるが、長尾景虎期の村田次郎右衛門尉と秀頼の関係は不明。越中国新川郡の津毛城将。越中国新川郡太田上郷料所代官。任地から、立山の松、三原の刀、仏舎利などの名物を越府へ送っては、謙信を喜ばせている。


 毛利名左衛門尉秀広(もうりなざえもんのじょうひでひろ)
 主に北陸で活動していたようで、元亀3年には越中国増山の神保氏の家中である寺崎民部左衛門尉盛永と共に越中国射水郡の願海寺城に在番している(『上越市史 上杉氏文書集』1107号)。


 大石惣介芳綱(おおいしそうすけよしつな)
 元亀2年頃から、上野国利根郡の沼田城衆の一員であり(『上越市史 上杉氏文書集』1047号)、天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、関東衆の一員として従軍する予定であった。


 大石藤右衛門尉(おおいしとうえもんのじょう)
 仮名は与三郎、実名は綱高か(御家中諸士略系譜)。元亀3年8月に北陸へ向けて出馬する謙信が、上・越国境の越後国上田の坂戸城に配備している上田衆(謙信の甥である長尾喜平次顕景の同名・同心・被官集団)に関東の警戒任務を命じると、横目役(監察)を仰せ付けられた(『上越市史上杉氏文書集』1114号)。


 長与一景連(ちょうよいちかげつら)
 謙信(輝虎)から越後国長尾家に縁の「景」の一字を賜った。元亀3年冬に謙信が濃(尾)州織田信長と対武田の軍事同盟を結んだ際、信長の許へ使者として派遣され、信長から血判誓詞を受け取った。謙信が能州経略を進めるなかで能登国珠洲郡の正院川尻城将を任されたと伝わる。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、能登衆の一員として従軍する予定であった。弟の長与次(実名は盛連・弘連などと伝わる)は謙信の近習を務めたという。


 庄田越中守(しょうだえっちゅうのかみ)
 実名は秀定と伝わる。官途名は惣左衛門尉を称した。父は庄田惣左衛門尉定賢。越中国魚津城代の河田長親(古志長尾氏の地盤を引き継いだ)の許に配属されていたが、元亀3年秋までに謙信旗本に転属した。


 開発中務丞(かいほつなかつかさのじょう)
 実名不詳。仮名は三介を称した。


 楡井修理亮親忠(にれいしゅりのすけちかただ)
 越後国魚沼郡の桐沢城主か。天正年間には謙信から同郡の板木城主を任されたとも伝わる。


 河隅三郎左衛門尉忠清(かわすみさぶろうざえもんのじょうただきよ)
 謙信没後、暫くしてから越中守を称する。奉行衆。公銭方。吏僚としての活動が目立つが、元亀4年5月に直江大和守景綱・山吉孫次郎豊守・庄田隼人佑と共に越中国新川郡の宮崎(境)城に在番するようなこともあった。


 飯田孫右衛門尉長家(いいだまごえもんのじょうながいえ)
 謙信没後、暫くしてから出羽守を称する。奉行衆。公銭方。


 庄田隼人佑(しょうだはやとのすけ)
 実名は秀直と伝わる。元亀4年5月に直江大和守景綱・山吉孫次郎豊守・河隅三郎左衛門尉忠清と共に越中国新川郡の宮崎(境)城に在番し(『上越市史 上杉氏文書集』1158号)、のちに越中国新川郡境料所代官を務めていたことが確認できるから、城将を任されたのであろう。


 五十嵐 盛惟(いからし・いがらし もりこれ・もりただ)
 官途名は主計助か。奉行衆。公銭方。吏僚としての活動が目立つが、元亀3年から翌4年にかけての謙信による越中国富山陣に従っている。


 吉益伯耆守(よしますほうきのかみ)
 実名は清定か。元亀3年3月22日に謙信から、戦陣に召し連れて膝下に差し置くにあたり、知行地を不入とされている(『上越市史 上杉氏文書集』1092号)。もとは古志長尾氏の被官。


 小野主計助(おのかずえのすけ)
 実名不詳。


 林平右衛門尉(はやしへいえもんのじょう)
 実名不詳。元亀4年春中に越前国朝倉義景の許へ使者として派遣され、甲州武田信玄の織田・徳川に対する軍事行動について、謙信の意向を義景へ伝えた(『上越市史 上杉氏文書集』1141・1142号)。


 萩原主膳允(はぎわらしゅぜんのじょう)
 実名不詳。名字は荻原の可能性がある。奥州会津の蘆名家、常陸国太田の佐竹家の許への使者を務めた。


 進藤隼人佑家清(しんどうはやとのすけいえきよ)
 越・相一和の交渉時から相州北条家の許への使者を務めた一人で、一和成立後も両国の主張する同陣の形式を巡って往来した。嫡男の進藤孫七郎は謙信の小姓を務めたと伝わる(『上杉家御年譜 謙信公』)。


 須田弥兵衛尉(すだやびょうえのじょう)
 実名不詳。越・相一和成立後に相州北条家の許への使者を務めた一人。


 関半五郎(せきはんごろう)
 実名不詳。越前国朝倉家の許への使者を務めた(『上越市史 上杉氏文書集』1019号)。


 本郷彦七(ほんごうひこしち)
 実名不詳。名字は本江とも。相州北条家の許への使者を務めた(『上越市史 上杉氏文書集』1039号)。


 大室 某(おおむろ)
 『謙信公御書集』によれば、通称・実名は左衛門尉光清。名字からして信濃国出身か。三(遠)州徳川家の許への使者を務めた(『上越市史 上杉氏文書集』1217号)。


 山下 某(やました)
 実名不詳。仮名は孫次郎か。父は山下修理入道か。元亀3年7月、加地衆(外様衆・加地彦次郎(知綱か)の同名・同心・被官集団)や大石某(謙信旗本の大石氏は、越後由来の右馬允、関東出身の右衛門尉・惣介芳綱・藤右衛門尉がいる)と共に信濃国水内郡の「市川寄居」に在番した(『上越市史 上杉氏文書集』1052号、元亀2年に置かれているが、越後国魚沼郡浅貝寄居は攻められる状況ではないので、同3年に新造された市川寄居であろう
)。

 小嶋 某(こじま)
 実名不詳。天正2年の北陸遠征における「あさひ」城攻めに際し、若武者の中条与次景泰(外様衆。実父は謙信側近の吉江織部佑景資)が無謀にも前線の砲火が飛び交うなかを駆け歩くので、中条景泰を連れ戻すように謙信から頼まれると、引きずり返して拘束した(『上越市史 上杉氏文書集』1168号 ◆『謙信公御書集』)。俗にいう二代目の小嶋弥太郎か。弥太郎には訳あって出奔し、奥州黒川の蘆名家に仕えたという伝承がある。仮に事実だとしたら、帰陣後は親元に預けられることが決まっていた中条景泰を必要以上に庇い立てでもして、謙信の不興を買ったのだろうか。


 高橋又五郎(たかはしまたごろう)
 実名不詳。のちに蔵人佐を称する。証人の管理や山奉行を務めるか。


 芹沢 某(せりざわ)
 『御家中諸士略系譜』によれば、仮名は又次郎、実名は信胤、父は芹沢弥四郎正信という。謙信が関東へ向けて出馬する直前の天正2年10月、謙信の着用する武具の目録を蔵奉行から受け取っているので、戦陣において謙信の武具を管理する役職にあったか(『上越市史 上杉氏文書集』1229号)。


 三好又五郎慶家(みよしまたごろうよしいえ)
 天正4年5月から安田与左衛門尉頼家と作事奉行を務めた(『上越市史 上杉氏文書集』1286号)。名字と実名の「慶」の一字からすると、かつて畿内を支配した三好長慶に関係する人物か。


 安田与左衛門尉頼家(やすだよざえもんのじょうよりいえ)
 同じく三好又五郎慶家と作事奉行を務めた(『上越市史 上杉氏文書集』1286号)。


 後藤左京亮勝元(ごとうさきょうのすけかつもと)
 仮名は新六を称したか。関東衆の一員として上野国勢多郡の女淵城将を務めた。天正6年正月頃に上野国新田領へ攻め入って勲功を挙げ、謙信に忠賞された(『上越市史 上杉氏文書集』1186号)。同年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、関東衆の一員として従軍する予定であった。


 後藤新六(ごとうしんろく)
 実名不詳。父は後藤左京亮勝元。父と共に上野国新田領へ攻め入って勲功を挙げ、謙信に忠賞された(『上越市史 上杉氏文書集』1186号)。


 小幡山城守(おばたやましろのかみ)
 実名は光盛、虎昌などと定まらない。甲州武田家の家臣で、信濃国埴科郡の海津城衆であったという。何らかの理由により、武田家を辞して越後国上杉家に仕えたらしい。天正4年3月頃に上野国新田領へ攻め入って勲功を挙げ、謙信に忠賞された(『上越市史 上杉氏文書集』1192号)。謙信が没する以前には甲州武田家に復帰したとみられる。


 小中彦右兵衛尉(こなかひこびょうえのじょう)
 実名は清職か(『戦国遺文 後北条氏編』2167号)。小中大蔵丞(実名は光清か)の弟で、病身の兄から家督を譲られた。上野国利根郡の沼田城衆。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、関東衆の一員として従軍する予定であった。


 竹沢山城守(たけざわやましろのかみ)
 実名不詳。もとは下野国衆・佐野小太郎昌綱の一族である天徳寺宝衍に仕えていたという。上野国利根郡の沼田城衆。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、関東衆の一員として従軍する予定であった。


 荻田与三左衛門尉(おぎたよぞう(よそう)ざえもんのじょう)
 実名不詳。父は荻田与三左衛門尉。弟の荻田孫十郎は謙信の小姓を務めたと伝わり、謙信から越後国長尾家に縁の一字を賜って長繁と名乗った。


 小倉伊勢守(おぐらいせのかみ)
 実名は家房と伝わる。官途名は将監を称した。山内上杉光徹(憲政)の旧臣。謙信死去の直後には嗣子の小倉将監(実名は定房、定景と定まらない。のち伊勢守。号道献)に代わっている。源姓佐々木一族と伝わる。


 若林九郎左衛門尉家吉(わかばやしくろうざえもんのじょういえよし)
 越中国館山城(西郡域の城砦か)に置かれたと伝わる(『謙信公御書集』)、天正2年秋の謙信による北陸陣で軍功を挙げたようで、同年10月10日、以前に加増された「大関弥七分」(三ヶ所の闕所地)に課せられた軍役のうち、鑓5挺が1挺に減免されている(『謙信公御書集』◆『上越市史 上杉氏文書集』1227号 )。


 嶋倉孫左衛門尉泰明(しまくらまござえもんのじょうやすあき)
 もとは能登国衆。嫡男の嶋倉次郎丸(のちの黒金孫左衛門尉泰忠)は、謙信から吉三の仮名を賜った。弟の嶋倉藤三(実名は俊継か)は上田衆の大井田藤七郎(実名は景国か)の娘を娶り、大井田氏の一流を継いだ。


 飯田与三右衛門尉(いいだよぞう(よそう)えもんのじょう)
 実名不詳。能州畠山家の年寄衆・遊佐氏の旧臣。


 鰐淵主水助(わにぶちもんどのすけ)
 実名不詳。能登国出身。


 戸沢縫殿助(とざわぬいのすけ)
 実名は政保と伝わる。越後国頸城郡の直峰(嶺)城衆という。父は戸沢縫殿助(実名は政盛と伝わる)。


 山田彦右衛門尉(やまだひこえもんのじょう)
 実名不詳。旗本衆・大石氏の一族である大石彦右衛門尉が山田帯刀左衛門尉の名跡を継いだもの。越後国頸城郡の直峰(嶺)城衆か。


 嶋倉孫太郎(しまくらまごたろう)
 実名不詳。越後由来の嶋倉氏か。越後国頸城郡の直峰(嶺)城衆か。


 佐野清左衛門尉(さのせいざえもんのじょう)
 実名不詳。幼名は虎房丸を称した。下野国衆・佐野小太郎昌綱の子で人質として来越した。その後、佐野昌綱が相州北条陣営に属するも、処断されることはなく謙信(輝虎)の旗本衆に加えられた。越後国頸城郡の旗持(鉢崎)城衆か。


 楠川左京亮将綱(くすがわさきょうのすけまさつな)
 謙信没後、暫くしてから出雲守を称する。


 大石兵部丞綱元(おおいしひょうぶのじょうつなもと)
 謙信没後、暫くしてから播磨守を称する。


 秋山式部丞定綱(あきやましきぶのじょうさだつな)
 謙信没後、暫くしてから伊賀守を称する。


 富所隼人佐(とみどころはやとのすけ)
 実名は定重と伝わる。父は富所隼人佐(伯耆守重則と伝わる)。謙信没後、暫くしてから伯耆守を称する。弟の富所図書助(実名は光重と伝わる)は謙信の近習を務めるという。


 松木内匠助(まつきたくみのすけ)
 実名は秀朝と伝わる。上杉景勝の後期には石見守を称し、実名は貞吉と見える。


 石坂左近将監(いしざかさこんのしょうげん)
 実名は忠章と伝わる。


 蓼沼藤五郎泰重(たでぬまとうごろうやすしげ)
 謙信没後には掃部助として見える。弟に蓼沼藤七郎友重(日向守)がいる。


 狩野新介(かのしんすけ)
 実名は秀治と伝わる。雲州尼子氏の旧臣であり、同族を頼って越中国へ下ったらしい。越中国中部の領主・神保氏の重臣であった狩野右京入道道州(実名は秀基と伝わる)の養子と伝わるが、上杉景勝期に見える新介の世子は中務丞を称しており、むしろ越中国氷見地域の飯久保城に拠った狩野中務丞親信と関わるのではないか。謙信没後、暫くしてから彦伯と号し、更に讃岐を称する。


 堀江甚五左衛門尉(ほりえじんござえもんのじょう)
 実名不詳。越前国出身という。堀江駿河守(実名は宗親か)の一族か。


 嵯峨野修理亮(さがのしゅりのすけ)
 実名は景久か。


 一瀬右近允(いちのせうこんのじょう)
 実名不詳。名字は市瀬とも。


 諏方左近允(すわさこんのじょう)
 実名不詳。


 行方六右衛門尉(なめかたろくえもんのじょう)
 実名は兼刑と伝わる。


 羽田六介(はたろくすけ)
 実名不詳。


 大石右馬允(おおいしうまのじょう)
 実名不詳。仮名は源助を称した。


 吉田美濃守(よしだみののかみ)
 実名不詳。上杉輝虎期に見える美濃入道、或いは美濃入道の子か。


 林部三郎右兵衛尉(はやしべさぶろうびょうえのじょう)
 実名不詳。謙信没後、暫くしてから美濃守を称する。


 太田九右衛門尉(おおたきゅうえもんのじょう)
 実名は信能と伝わる。謙信没後に式部少輔を称するか。


 蔵田兵部左衛門尉(くらたひょうぶざえもんのじょう)
 実名は正綱と伝わる。


 宇津江若狭守(うつえわかさのかみ)
 実名不詳。官途名は藤右衛門尉を称したという。春日山・府内の町奉行を務めた(先祖由緒帳)。子に藤右衛門尉長賢(小次郎。実名の「長」の一字は、謙信あるいは景勝から頂戴したと思われる)、弟に小三郎朝清(九右衛門尉)、広清(仮名不詳。内膳。上杉景勝期に上野九兵衛尉の名跡を継ぐ)がいる。

 東条佐渡守(ひがしじょうさどのかみ)
 実名は利満、利長と定まらない。府内の町奉行を務めた。信濃国衆であった村上氏の旧臣。長男の惣介は、謙信の最晩年に越後国三条城の城将を任された神余小次郎親綱の下に配されたらしい。次男は上杉景勝期に加賀右衛門尉と称している。


 岡田十左衛門尉(おかだじゅうざえもんのじょう)
 〔御家中諸士略系譜〕によれば、実名は重治、父は岡田但馬守重堯という。


 北村孫兵衛尉(きたむらまごびょうえのじょう)
 実名は信繁と伝わる(御家中諸士略系譜)。もとは古志長尾氏の被官か。


 平岡甚七郎(ひらおかじんしちろう)
 実名は正久と伝わる。謙信没後、暫くしてから隼人佐を称する。父の平岡隼人佐(実名は重政と伝わる)は山内上杉光徹(憲政)の旧臣という。


 平岡素右衛門尉(ひらおかそえもんのじょう)
 実名は義重と伝わる。平岡甚七郎(正久か)の兄で、かつて父の平岡隼人佐(重政か)に勘当されたという。


 相浦主計助(あいうらかずえのすけ)
 実名不詳。


 小黒 某(こぐろ)
 小黒氏には式部丞(仮名は平次郎、実名は吉次か)と縫殿助がいる。


 増岡甚四郎(ますおかじんしろう)
 実名不詳。父は増岡孫次郎か。


 朝岡弥右衛門尉(あさおかやえもんのじょう)
 実名は政頼、三河国出身と伝わる。


 鹿嶋蔵人(かしまくらんど・くろうど)
 実名不詳。父は長尾景虎期に見える鹿嶋彦九郎の後身か。


 高梨藤八郎(たかなしとうはちろう)
 実名不詳。父は上杉輝虎期に見える高梨修理亮か。


 左近司与三(さこんじよぞう)
 実名は政行と伝わる。謙信没後、暫くしてから喜左衛門尉を称する。父の左近司治部左衛門尉(実名は政重と伝わる)は、信濃国衆であった高梨氏の旧臣という。


 土肥太兵衛尉(とひたびょうえのじょう)
 仮名は弥太郎、実名は能平と伝わる。父は越中味方中の土肥但馬守親真(謙信の能州平定後、能登国羽咋郡の末守城将を任せられる)か。太兵衛尉は、弟の土肥善八郎(実名は則平と伝わる)と共に謙信の近習を務めたという。謙信没後、暫くしてから伝右衛門尉を称する。妻は外様衆・本庄越前守繁長の娘と伝わる。


 瀧口源七(たきぐちげんしち)
 実名不詳。


 町田太郎左衛門尉(まちだたろうざえもんんじょう)
 実名は国重と伝わる。


 水無瀬甚介(みなせじんすけ)
 実名不詳。


 渡辺左近允(わたなべさこんのじょう)
 実名は義綱と伝わる。上野国沼田城の城衆であったらしい。男子がいなかったので、富永備中守(清右兵衛尉)の弟である彦七を養子に迎えたと伝わる。


 竹俣藤右衛門尉(たけのまたとうえもんのじょう)
 実名は吉次と伝わる。竹俣筑後守房綱の三男という。


 歌川新左衛門尉(うたがわしんざえもんのじょう)
 実名不詳。名字は宇多川とも。


 諸越彦七郎(もろこしひこしちろう)
 実名は盛秀、次いで秀満と伝わる。謙信没後、暫くしてから喜右衛門尉を称する。


 風巻清左衛門尉(かざまきせいざえもんのじょう)
 実名不詳。


 諏訪部彦五郎(すわべひこごろう)
 実名不詳。


 林殿内(はやしでんない)
 実名不詳。林平右衛門尉とは同根か。


 河村孫六郎(かわむらまごろくろう)
 実名不詳。長尾景虎期の河村孫六の子であろう。


 坂野源五郎(さかのげんごろう)
 実名不詳。


 松倉将監(まつくらしょうげん)
 実名不詳。


 莅戸内匠助(のぞきどたくみのすけ)
 実名は政喬と伝わる。前上杉氏時代に信濃国衆・村上氏の一族である入山氏が越後に移って莅戸に改名したという。弟に莅戸九郎兵衛尉(実名は政親と伝わる)がいる。


 山村藤三(やまむらとうぞう)
 実名不詳。父は山村右京亮(実名は重信・繁信と伝わる)
。祖父の若狭守と父の右京亮も仮名は藤三を称した。山村氏歴代は刀匠を兼ね、越後国頸城郡金谷村の青木城に拠ったと伝わる。

 多羅澤 某(たらざわ)
 実名、通称は不詳。名字は多良沢とも。


 塚本 某(つかもと)
 実名不詳。官途名は次郎右衛門尉か。


 鋳物師屋 某(いもじや)
 実名、通称は不詳。


 富永清右兵衛尉(とみながせいびょうえのじょう)
 仮名は惣八郎、実名は長綱と伝わる。謙信没後、暫くしてから備中守を称する。越後国長尾氏の被官であった斎木氏の出身で、富永備中守の名跡を継いだという。清右兵衛尉の兄は、上田御前様衆(越後守護代長尾為景が上田長尾政景に嫁ぐ娘に付随させた家臣団)の斎木四郎兵衛尉元重(実名は尚重とも。惣次郎か。土佐守)という。


 富永彦兵衛尉(とみながひこびょうえのじょう)
 実名不詳。謙信没後、暫くしてから治部少輔を称する。富永清右兵衛尉(長綱か)の弟か。


 吉田十左衛門尉(よしだじゅうざえもんのじょう)
 実名不詳。


 野口与三左衛門尉(のぐちよぞう(よそう)ざえもんのじょう)
 実名不詳。


 外山縫殿丞(とやまぬいのじょう)
 実名不詳。名字は富山とも。


 板倉式部丞(いたくらしきぶのじょう)
 実名不詳。もとは長尾氏か。


 梅津右門(うめづうもん)
 実名不詳。常陸国衆・佐竹氏の旧臣か。

 宇野民部少輔(うのみんぶのしょう)
 実名不詳。上杉景勝期の文禄年間の初め頃に見える宇野与四郎は次代に当たるであろう。軍記物で活躍する播磨国出身で軍配者の宇野左馬助(与四郎。紅松軒政広)の養嗣子と伝わるが、左馬助・民部少輔の軍配者としての活動は確認できない。永禄年間の初め頃に栃尾本庄玖介を補佐役として見える宇野左馬允がおり、この人物に仮託したのだとしても、長尾景虎旗揚げ時から謙信の功臣である栃尾本庄氏の補佐役を任されるほどであるから、もとより左馬允は一廉の人物であったのであろう。

 屋代 某(やしろ)
 実名不詳。官途名は式部丞か。謙信の近習を務めるという。父は屋代式部丞景国か。信濃国衆・村上氏の一族である屋代氏のうち、前上杉氏時代に来越した一族に当たる。


 多功勘之丞(たこうかんのじょう)
 実名は清綱と伝わる。謙信の近習を務めるという
。父は多功播磨守清秀と伝わる。謙信没後、暫くしてから一家衆・山浦(村上)国清(景国)の与力に配されたのち、豊後守を称する。実名の清綱が正しいのであれば、山浦国清から一字を授けられたものか。

 尻高 某(しったか)
 実名不詳。父は山内上杉家の重臣であった尻高左京亮という。謙信没後、十五左衛門尉、次いで左京亮を称する。


 曽根 某(そね)
 実名不詳。官途名は平兵衛尉を称し、是言斎と号したといい、謙信の活動期を通じて近習を務めたという。父は曽根備中守、子に曽根源左衛門尉俊理(小太郎)がいたと伝わる。

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上杉謙信期の越後衆一覧 【2】

2014-02-14 00:43:53 | 上杉謙信期の越後衆


 譜代衆

 長尾小四郎景直(ながおこしろうかげなお)
 越後国頸城郡西浜地域の名立の地を領有し、生母の墓地も同地の寺にあることからして、名立城主であったか。謙信の北陸経略において、越中国新川郡の天神山城将を任されていたらしい。元亀3年に加賀・越中一向一揆が越中国の中郡に乱入した際には、旗本衆の鰺坂清介長実が城将を務める越中国新川郡の新庄城に移った。中郡の平定後は新川郡の小出城将に転出した。天正6年3月に謙信が従えたばかりの能登・越中両国の諸士や加賀・越中両国の一向一揆までも動員する関東大遠征に、越後衆の一員として従軍する予定であった。嫡男に冠者丸がいたと伝わる。


 長尾右京亮(ながおうきょうのすけ)
 実名不詳。古志長尾右京亮景信の名跡を継いだか。越後国頸城郡の直峰(嶺)城衆という。


 長尾一右衛門尉(ながおいちえもんのじょう)
 市右衛門尉と宛名書きされていたりもする。実名は景治と伝わる。下田長尾遠江守藤景の弟と伝わる。越後国蒲原郡の下田(高)城主か。


 長尾孫七(ながおまごしち)
 実名不詳。謙信没後、暫くしてから加賀守を称するか。


 長尾筑後守(ながおちくごのかみ)
 実名不詳。長尾景虎期の筑後守と同一人物なのか、次代なのかは分からない。越後国頸城郡の直峰(嶺)城衆か。


 柿崎和泉守景家(かきざきいずみのかみかげいえ)
 仮名は弥次郎を称したか。官途名は中務を称した。年寄衆。越後国頸城郡の柿崎城主。元亀3年秋から同4年夏にかけての謙信による北陸遠征に従軍したのを最後に見えなくなる。柿崎家の菩提寺である楞厳寺の寺伝によれば、天正2年11月22日に死去し、法名は籌山曇忠居士、楞厳寺開山龍室元光禅師の師である林泉寺開山曇英慧応禅師から一字を取ったという
(室岡博『柿崎景家 ー川中島先陣ー』楞厳寺住職石黒良平 特別寄稿 楞厳寺について )。米沢柿崎氏家譜では本心院殿転誉守邦居士としている。

 柿崎左衛門大夫(かきざきさえもんのだいぶ)
 仮名は平三郎、実名は晴家か。柿崎和泉守景家の世子。越後国頸城郡の柿崎城主。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、越後衆の一員として従軍する予定であった。


 斎藤下野守朝信(さいとうしもつけのかみとものぶ)
 仮名は小三郎を称した。年寄衆。越後国刈羽郡の赤田城主。能州平定後に一時期、一家衆の山浦源五国清と能登国羽咋郡の末守城に在番した。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、越後衆の一員として従軍する予定であった。


 北条安芸守高広(きたじょうあきのかみたかひろ)
 仮名は弥五郎、受領名は丹後守を称した。謙信没後は芳林と号する。越・相一和の破談後、関東代官と上野国群馬郡の厩橋城代を嗣子の北条弥五郎景広に譲ることになり、同国勢多郡の大胡城に移った。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、関東衆の筆頭として従軍する予定であった。


 北条丹後守景広(きたじょうたんごのかみかげひろ)
 仮名は弥五郎を称した。越後国刈羽郡の北条城主。上野国群馬郡の厩橋城主。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、関東衆の筆頭として従軍する予定であった。


 北条長門守親富(きたじょうながとのかみちかとみ)
 源八郎、右衛門尉を称した。北条高広・景広父子の一族。実名の「親」の一字は、高広の娘婿である河田豊前守長親から付与されたものか。謙信没後に代替わりした世子(実名は高政か)も右衛門尉、長門守を称する。孫の右近(実名は高能か。右衛門尉)の妻は小中大蔵丞の娘と伝わる。


 安田惣八郎顕元(やすだそうはちろうあきもと)
 越後国刈羽郡の安田城主。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、越後衆の一員として従軍する予定であった。弟と伝わる安田久千代丸(のちの上総介能元)は、謙信から弥九郎(実名は元兼か)の仮名を与えられている。


 千坂対馬守(ちさかつしまのかみ)
 はじめは朝儀を名乗り、謙信の次代である上杉景勝期に景親を名乗った可能性がある。越後国蒲原郡の鉢盛城主と伝わる。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、越後衆の一員として従軍する予定であった。


 石川中務少輔(いしかわなかつかさのしょう)
 実名は重次と伝わる。元亀3年秋から翌4年夏にかけて謙信が挙行した北陸遠征に従軍している。越後国蒲原郡の石川城主と伝わる。


 平子若狭守(たいらくわかさのかみ)
 実名は房長、房政などと定まらない。仮名は孫太郎を称した。越後国魚沼郡の薭生城主。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、能登衆の一員として従軍する予定であった。


 上野中務丞家成(うえのなかつかさのじょういえなり)
 仮名は源六を称した。越後国魚沼郡の節黒城主。上野国利根郡の沼田城衆。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、関東衆の一員として従軍する予定であった。上杉景勝期にみえる上野源五郎は嫡男と伝わる。


 新保孫六(しんぼまごろく)
 実名は景之か。幼名は長松丸を称した。謙信から越後国長尾家に縁の一字を賜った。越後国蒲原郡の新保城主か。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、越後衆の一員として従軍する予定であった。


 竹俣小太郎(たけのまたこたろう)
 上杉景勝期に見える竹俣筑後守房綱の前身か。もしそうであれば、上杉定実・長尾晴景期に揚北衆の竹俣氏の当主は式部丞・筑後守系から三河守系に変わったと考えられるから、長尾景虎期に式部丞・筑後守系の竹俣氏が譜代化したことになる。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、越後衆の一員として従軍する予定であった。


 小国刑部少輔(おぐにぎょうぶのしょう)
 実名は重頼か。謙信没後、暫くしてから石見守を称する。越後国蒲原郡の天神山城主。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、越後衆の一員として従軍する予定であった。


 山岸隼人佑(やまぎしはやとのすけ)
 実名は光重か。謙信没後、暫くしてから隼人入道光祐と号し、更に出雲と称する。越後国蒲原郡の黒滝城主。長男の山岸宮内少輔秀能は、越後国蒲原郡の弥彦神社の戸内職を兼ねる。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、越後衆の一員として従軍する予定であった。


 村山善左衛門尉慶綱(むらやまぜんざえもんのじょうよしつな)
 仮名は孫五郎を称した。謙信没後、暫くしてから安芸守を称する。山岸隼人佑(光重か)の次男。越後国頸城郡の徳合城主。謙信の能州経略が進行中の天正5年3月、旗本衆の河田窓隣軒喜楽・同対馬守吉久父子、上田衆(謙信の養子である上杉弾正少弼景勝の同名・同心・被官集団)、黒川衆(外様衆・黒川四郎次郎平政の同名・同心・被官集団)と能登国鹿島郡の石動山城に在番した。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、越後衆の一員として従軍する予定であった。


 和納伊豆守(わのういずのかみ)
 実名不詳。越後国蒲原郡の和納城主。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、越後衆の一員として従軍する予定であった。


 計見与十郎(けみよじゅうろう)
 実名は幸安か。父は計見出雲守(実名は堯元か)という。越後国刈羽郡の畔屋城主と伝わる。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、越中衆の一員として従軍する予定であった。


 青海川図書助(おうみがわずしょのすけ)
 実名不詳。幼名は梅千代を称した。越後国刈羽郡の青海川城主。


 青海川右馬丞(おうみがわうまのじょう)
 実名不詳。越後国頸城郡の青海川氏か。


 大崎筑前守(おおさきちくぜんのかみ)
 長尾景虎期に見える大崎筑前守(実名が泰継と伝わる)というよりは、次代とされる九郎左衛門尉の後身に当たるか。越後国魚沼郡の大崎城主と伝わる。


 大関弥七親憲(おおぜきやしちちかのり)
 越後国上杉家を離れて奥州会津の蘆名家を頼ったという伝承がある。天正2年に謙信旗本の若林九郎左衛門尉家吉に数ヶ所の「大関弥七分」の地が宛行われているので、それ以前に出奔したとみられる。謙信が没した直後に帰参したようで、御館の乱では上杉景勝方として活躍し、のちに常陸介を称する。越後国魚沼郡の浦佐城主と伝わる。


 窪 某(くぼ)
 実名、通称は不詳。天正3年頃に退転した。


 直海新右兵衛尉(のうみしんびょうえのじょう)
 実名は景秀と伝わる。


 江口式部丞(えぐちしきぶのじょう)
 仮名は善太郎、実名は親政、父は江口安芸守(実名は親広、仮名は藤五郎、官途名は式部丞と伝わる)と伝わる。越後国魚沼郡の平地山城主。


 宇佐美平八郎(うさみへいはちろう)
 官途名は民部少輔か。民部少輔の実名は実定と伝わる。越後国魚沼郡の真板平(根小屋)城主と伝わる。


 甘糟近江守長重(あまかすおうみのかみながしげ)
 越後国山東(西古志)郡の枡形城主と伝わる。


 鳥山因幡守(とりやまいなばのかみ)
 実名不詳。官途名は大炊助を称したか。越後国魚沼郡の市之沢城主と伝わる。

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上杉謙信期の越後衆一覧 【1】

2014-02-13 23:51:28 | 上杉謙信期の越後衆


 一家衆

 上杉三郎景虎(うえすぎさぶろうかげとら)
 相州北条氏康の末男で、久野北条新三郎氏信の遺跡を継ぎ、初めは北条三郎を名乗った。越・相一和に伴って謙信(輝虎)の養子となり、謙信の初名である景虎の名を与えられた。妻は、謙信の姉である仙洞院と上田長尾越前守政景の間に生まれた次女。


 上杉弾正少弼景勝(うえすぎだんじょうのしょうひつかげかつ)
 謙信の姉である仙洞院と上田長尾越前守政景の間に生まれた次男で、上田長尾氏を継ぎ、初めは長尾喜平次顕景を名乗った。天正3年正月に謙信の養子となり、謙信の官途である弾正少弼と景勝の名を与えられた。越後国魚沼郡の坂戸城主。


 上杉十郎(うえすぎじゅうろう)
 実名は信虎と伝わる。古志長尾右京亮景信の子で、初めは長尾十郎景満を名乗ったらしい。上杉上条家の一つである十郎家の名跡を継いだと考えられている。そうであったとしても、あくまで上杉名字を名乗っているので、もはや新しい上杉氏であろう。天正6年3月に謙信が、従えたばかりの能登・越中両国の諸士や加賀・越中両国の一向一揆までも動員する関東大遠征に、越後衆の一員として従軍する予定であった。


 上条弥五郎政繁(じょうじょうやごろうまさしげ)
 能州畠山義続(号悳祐)の末男とされる。上杉上条家の一つである弥五郎・播磨守家の名跡を継いだ。謙信没後、暫くしてから宜順と号する。妻は、謙信の姉である仙洞院と上田長尾越前守政景の間に生まれた長女。越後国刈羽郡の上条(黒滝)城主。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、能登衆の筆頭として従軍する予定であった。


 山浦源五国清(やまうらげんごくにきよ)
 信濃衆・村上兵部少輔義清の世子で、始めは村上源五国清を名乗った。謙信の肝煎りで、天正3年2月までに上杉山浦家の名跡を継いだ。妻は越前国朝倉義景の娘(謙信の養女)と伝わる。越後国蒲原郡の笹岡城主。長期間、越中国に駐留した。能州平定後に一時期、譜代衆の斎藤下野守朝信と能登国羽咋郡の末守城に在番した。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、越後衆の一員として従軍する予定であった。


 琵琶嶋弥七郎(びわじまやしちろう)
 実名は政勝か。越後国刈羽郡の琵琶嶋城主。謙信の最晩年、越後衆として関東遠征に従軍する予定であった。


 山本寺伊予守定長(さんぽうじいよのかみさだなが)
 越後国頸城郡の不動山城主。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、越後衆の一員として従軍する予定であった。嫡男に山本寺松三景長(幼名は宮千代丸を称したと伝わる)がいる。


 桃井伊豆守(もものいいずのかみ)
 実名は先代の伊豆守義孝と同じく義孝か。官途名は右馬助を称した。越後国頸城郡の鳥(富)坂城主と伝わる。謙信期にはすでに嫡男と思われる桃井宮内少輔に代替わりしていた可能性がある。



 奥郡国衆(阿賀北の外様衆)

 中条越前守(なかじょうえちぜんのかみ)
 実名は房資、次いで景資であろう。謙信から越後国長尾家に縁の「景」の一字を賜ったと伝わる。仮名は弥三郎を称した。越後国蒲原郡の鳥坂城主。天正元年8月22日に死去したと伝わる。


 中条与次景泰(なかじょうよじかげやす)
 旗本衆・吉江織部佑景資の次男で、初めは吉江与次(幼名は沙弥法師丸を称した)を名乗った。謙信の小姓を務めたのち、中条越前守の名跡を継いだ。謙信から越後国長尾家に縁の「景」の一字を賜った。謙信没後に越前守を称する。越後国蒲原郡の鳥坂城主。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、越後衆の一員として関東遠征に従軍する予定であった。


 黒川四郎次郎平政(くろかわしろうじろうひらまさ)
 幼名は竹福丸を称した。越後国蒲原郡の黒川城主。天正3年2月以降に嫡男と思われる源次郎為実(左馬頭。豊前守)に代替わりしたか。


 本庄雨順斎全長(ほんじょううじゅんさいぜんちょう)
 仮名は弥次郎を称し、実名は繁長を名乗った。謙信没後、暫くしてから俗名に復し、更に越前守を称する。越後国瀬波(岩船)郡の村上城主。嫡男の本庄新六郎顕長は、謙信から山内上杉家に縁の「顕」の一字を賜った。


 色部弥三郎顕長(いろべやさぶろうあきなが)
 幼名は虎黒丸を称した。越後国瀬波(岩船)郡の平林(加護山)城主。病身のため、天正4年2月以前に弟の惣七郎長真に家督を譲った。


 色部惣七郎長真(いろべそうしちろうながざね)
 初めは兄の色部弥三郎顕長から偏諱を授かって長真と名乗った。謙信没後、暫くしてから修理大夫を称する。妻は新発田尾張守忠敦の娘か。越後国瀬波(岩船)郡の平林(加護山)城主。天正4年2月に北陸在陣中の越後衆として見え、これまでに兄から家督を譲られた。同6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、越後衆の一員として従軍する予定であった。


 鮎川孫次郎盛長(あゆかわまごじろうもりなが)
 幼名は市黒丸を称した。越後国瀬波(岩船)郡の大葉沢城主。長期間、越後国瀬波(岩船)郡の猿沢城に蟄居中の本庄雨順斎全長(俗名は繁長)を監視するため、旗本衆の三潴左近大夫(実名は長能と伝わる)と越後国瀬波(岩船)郡の庄厳(笹平)城に在番した。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、陣代が率いる家中が越後衆の一員として従軍する予定であった。


 大川三郎次郎長秀(おおかわさぶろうじろうながひで)
 越後国瀬波(岩船)郡の藤懸(府屋)城主。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、陣代が率いる家中が越後衆の一員として従軍する予定であった。


 加地彦次郎(かぢひこじろう)
 実名は知綱と伝わる。越後国蒲原郡の加地城主。


 加地宗七郎(かぢそうしちろう)
 実名不詳。謙信没後は安芸守を称する。加地彦次郎の弟か。越後国蒲原郡の加地城主。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、越後衆の一員として従軍する予定であった。


 新発田尾張守忠敦(しばたおわりのかみただあつ)
 仮名は源次郎を称した。越後国蒲原郡の新発田城主。天正3年2月までに次代の尾張守長敦に代わっているから、それ以前に死去した可能性があろう。


 新発田尾張守長敦(しばたおわりのかみながあつ)
 仮名は源次郎を称した。中条越前守(房資、次いで景資か)の弟か。天正3年2月以前に新発田尾張守忠敦の名跡を継いだ。妻は中条越前守の一族である築地修理亮(実名は資豊か)の娘と伝わる。年寄衆。謙信(輝虎)から越後国長尾家に縁の一字を賜ったか。越後国蒲原郡の新発田城主。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、越後衆の一員として従軍する予定であった。


 五十公野右衛門尉重家(いじみのえもんのじょうしげいえ)
 初めは新発田右衛門大夫(実名は綱成か)を名乗っていたが、元亀元年10月から天正3年2月までの間に、新発田庶族の五十公野氏に入嗣した。謙信没後は因幡守を称し、更に新発田尾張守長敦の死去に伴い、宗家を継いで新発田因幡守重家を名乗る。越後国蒲原郡の五十公野城主。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、越後衆の一員として従軍する予定であった。


 竹俣三河守慶綱(たけのまたみかわのかみよしつな)
 官途名は太郎左衛門尉を称したか。年寄衆。越後国蒲原郡の竹俣城主。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、越後衆の一員として従軍する予定であった。


 水原能化丸(すいばらあたかまる)
 謙信の末期か死去した直後に弥四郎(実名不詳)を名乗っているが、暫くしてから水原平七郎満家(弟か)に代わっている。水原蔵人丞(実名は実家か)の子か。越後国蒲原郡の水原城主。


 安田新太郎(やすだしんたろう)
 実名は堅親か。謙信没後は治部少輔、更に暫くしてから筑前守を称する。旗本衆・河田豊前守長親の次弟で、中条越前守の遺跡を継いだが、中条家中の反発によって破談すると、改めて安田治部少輔の名跡を継いだ。越後国蒲原郡の安田城主。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、越後衆の一員として従軍する予定であった。


 下条采女正(げじょううねめのしょう)
 実名は忠親か。旗本衆・河田豊前守長親の長弟で、下条氏に入嗣した。越後国蒲原郡の下条城主。


 荒川弥次郎(あらかわやじろう)
 実名不詳。越後国蒲原郡の荒川城主。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、越後衆の一員として従軍する予定であった。


 垂水源次郎(たるみげんじろう)
 すでに官途名は右近丞を称しているか。越後国蒲原郡の垂水城主。



 中郡国衆(阿賀南の外様衆)

 菅名源三(すがなげんぞう)
 実名不詳。越後国蒲原郡の菅名城主。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、越後衆の一員として従軍する予定であった。謙信死去の直後には弟の菅名孫四郎綱輔(のち但馬守)に代わっている。


 村松 某(むらまつ)
 官途名は平右衛門尉(実名不詳)を称したか。上杉輝虎期の村松山城守の後継者。越後国蒲原郡の村松城主か。


 平賀左京亮重資(ひらがさきょうのすけしげすけ)
 仮名は助四郎称したか。越後国蒲原郡の護摩堂城主。


 丸田伊豆守(まるたいずのかみ)
 実名不詳。弟に丸田掃部助俊次がいる。越後国蒲原郡の丸田城主。平賀左京亮重資の同心か。


 新津大膳亮(にいつだいぜんのすけ)
 実名は資相か。謙信没後は丹波守勝資を名乗るか。越後国蒲原郡の新津城主。

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越後国上杉輝虎(旱虎)の年代記 【元亀元年5月〜同年7月】

2014-02-09 00:57:15 | 上杉輝虎の年代記

元亀元年(1570)5月 越後国(山内)上杉輝虎(旱虎。弾正少弼)  【41歳】


朔日、関東味方中の広田出雲守直繁(武蔵国埼玉郡の羽生城を本拠とする武蔵国衆)へ宛てて書状を発し、(輝虎の古河公方足利)義氏への御請けが遅れているため、(広田直繁が)心配しているそうであり、その思いを承知したこと、さっさと御請けするべきところ、景虎(上杉三郎景虎。相州北条氏康の末男を養子として迎えた)の祝儀に取り紛れて延引せざるを得ず、ないがしろにしたわけではないこと、去る頃に請状は認めて置いたこと、幸便を得たので差し越すこと、されば、(相州北条)氏政と内談の子細があるにより、来秋に戦陣をいちずに催すので、安心してほしいこと、委細は重ねて申し遣わすこと、これらを恐れ謹んで申し伝えた。さらに追伸として、其方名字中(広田氏)の名誉であるので、義氏への御請けの添状として、其方(広田直繁)の所へ一筆を申し届けたこと、其元(羽生)から弁舌が立つ者を一人添え、取り急ぎ申し届けるべきこと、以上、これらを申し添えた(『上越市史 上杉氏文書集一』911号「広田出雲守殿」宛上杉「輝虎」書状写)。


9日、揚北衆の鮎川孫次郎盛長(越後国瀬波(岩船)郡の大葉沢城を本拠とする外様衆)から、取次の山吉孫次郎豊守(輝虎の最側近)へ宛てて書状が発せられ、謹んで言上すること、もとより関東で御成果を挙げて、整然と御馬を納められたのは、恐れながら御めでたい限りであること、御音信として御樽、御肴を進上させてもらったこと、なお、委細の事々は山吉方へ申し達したこと、この旨を御披露に預かりたいこと、これらを恐れ畏んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』912号「山吉孫次郎殿」宛「鮎川孫次郎 盛長」書状写)。



12日、同盟関係にある相州北条氏康(相模守)から返状が発せられ、先月25日に息子の三郎(上杉景虎)のために御城中で御祝儀を催されたそうであり、まさしく両家の繁栄の基であり、愚老(北条氏康)においても本望満足で、これに勝るものはないこと、近日中に使者をもって御祝儀を申し届けるつもりであること、氏政は敵陣と間近で対陣を遂げているので、このたびは御返事に及ばなかったこと、無沙汰したわけではないこと、やがて使いをもって申し入れること、愚老(氏康)の心構えを申し達する次第であること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』913号「山内殿」宛北条「氏康」書状)。


15日、同盟関係にある奥州会津(会津郡門田荘黒川)の蘆名止々斎(俗名は盛氏。修理大夫)・同盛興(平四郎)父子の使僧である游足庵淳相へ宛てて返状を発し、去る頃は二度も盛氏父子から音問に預かり、祝着であること、ここしばらくは音沙汰なく、心配しており、(輝虎は)使僧に及んだこと、適切な取り成しを任せ入ること、されば、相・越一和が落着し、(相州北条)氏康が三郎と称する実子を、輝虎の養子として寄越されたにより、(相州北条家が)来秋に(甲州武田家の)機先を制して(越・相両軍で)戦陣を催すというので、これに合意し、一先ず(関東を後にして)去月18日に着府したこと、相・越両国が一味したゆえ、関東の(統治は)思うがままとなるで、安心してほしいこと、従って、伊達(奥州米沢(置賜郡長井荘)の伊達家)に波乱が起こり、中野常陸介父子(伊達家宿老の中野常陸介宗時・牧野弾正忠久仲親子)が退去したそうであり、彼の口の様子が案じられるので、つぶさに承りたいこと、今後も盛氏父子とますます相談し合っていきたいと思っており、(蘆名父子を)適切に説き勧めるのを任せ入ること、なお、(詳細は)彼の(使者)口上に申し含めたこと、これらを恐れ謹んで申し伝えた。さらに追伸として、赤地の金襴一巻を贈ること、以上、これを申し添えた(『上越市史 上杉氏文書集一』914号「游足庵」宛上杉「輝虎」書状【花押a4】)。



この間、5月26日、同盟関係にある相州北条家の従属国衆である相馬左近大夫治胤(下総国相馬郡の守谷城を本拠とする)が、古河公方足利家の奉公衆である芳春院周興・一色源三郎へ宛てた書状を脚力に託し、あらためて脚力をもって申し上げること、海賊が上様の御座の近辺へ放火したそうであると、そう聞こえてきたこと、ひたすら御心配申し上げていること、このところを披露を頼み入ること、そして、信玄は豆州へ攻め入るも、あっさり退散したそうであると、申し届いたこと、彼の口の様子を御知らせするのが適当であること、佐竹筋については、小田の地(常陸国筑波郡の小田城)には太美(太田道誉)が物主を(佐竹義重から)仰せ付けられたこと、ますます(小田)氏治は御苦労を強いられること、御好事に至れば、やがて申し上げること、これらを恐れ敬って申し伝えている(『戦国遺文 房総編二』1362号「芳春院・一源 御侍者中」宛「相左 治胤」書状写)。



同じく、敵対関係にある甲州武田信玄(法性院)は、7日、濃(尾)州織田信長の取次へ宛てて書状を発し、このたびの浅井(江州北郡の浅井長政)の謀叛は、どうしようもない事態であること、恐らく近日中には退治されるのではないかと思われ、何よりもって京都を静謐へと導き、士卒を無事に帰陣させたのは、珍重であること、よって、巣鷂(鷹)を信長へ贈ったこと、取り成しが肝心であること、其方の所へ(鷹を)送ること、(信長に)愛玩してもらえれば、本望であること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編三』1547号 武田「信玄」書状)。



元亀元年(1570)6月 越後国(山内)上杉輝虎(旱虎。弾正少弼)【41歳】


11日、永禄11年春に謀叛を起こし、昨年の春に降伏すると、本拠の村上城から出されて支城の猿沢城で蟄居させられている外様衆(揚北衆)の本庄沙弥全長(雨順斎。弥次郎繁長)から、越後国上杉家の年寄衆へ宛てて書状(謹上書)が発せられ、このたびの御祝儀(輝虎と上杉景虎の養子縁組)として、太刀一腰、若大鷹一居、鹿毛の馬一疋を御覧に供するため、進上したこと、万事が喜ばしく、この旨を御披露願いたいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』915号「謹上 春日山 参人々御中」宛本庄「沙弥全長」書状)。



24日、同盟関係にある相州北条氏康(相模守)が、上野国衆の富岡清四郎(実名は秀親か。上野国邑楽郡の小泉城を本拠とする)へ宛てて返状を発し、ここしばらく音問が途絶えていたところ、(富岡から到来した)一札の旨を披読、殊に蝋燭一合が到来し、祝着であること、よって、(甲州武田)信玄が武州へ向かって戦陣を催すそうであるとの情報が入ったこと、氏政が立ち向かって一戦を遂げることが合議で決まったので、先段に使者をもって申し届けたこと、年来の交誼といい、このたび参陣し、奔走されるにおいては、喜悦であること、詳細は岩本(太郎左衛門尉定次。御馬廻衆)が申し届けること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 後北条氏編二』1425号「富岡清四郎殿」宛北条「氏康」書状)。


29日、越後国上杉家の年寄衆である山吉豊守と河田長親が、富岡清四郎へ宛てて返状を発し、(到来した書状の)別紙も披読、されば、去る寅の歳以来(この永禄9年に富岡は越後国上杉方から相州北条方に寝返った)の知行内五郷について、相論の異議(上野国邑楽郡佐貫荘上郷。由良成繁の一族である横瀬国広と領有を巡って相論していた)があるゆえか、これにより、相からの証文(相州北条家が富岡に与えた証文)を寄越されたこと、(証文の効力は)明白であること、そのうえすでに越・相両国の御和睦が成立したからには、何事においても五ヶ年以前(永禄7年)の御下知に準拠するべきであること、なお、詳細は(富岡の)使いに申し含めたこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』916号「富岡清四郎殿」宛「山吉豊守・河田長親」連署状)。


永禄12年秋から河田長親は越中国代官を任されて、同国新川郡の魚津城に常駐していたが、この頃は一時帰国していたことになろう。


当文書の解釈については、黒田基樹氏の論集である『戦国大名と外様国衆』(文献出版)の「第十章 富岡氏の研究」を参考した。



この間、敵対関係にある甲州武田信玄(法性院)は、6月5日、濃(尾)州織田信長の側近である武井夕庵(爾云。右筆と奉行人を兼ねる)へ宛てて書状を発し、越前ならびに江州の静謐を遂げて、信長が御帰国したのは、珍重であること、浅井(近江国北郡の浅井備前守長政)のことは、一度の不義を企てたとはいえ、追伐を後戻りしてはならないこと、よって、去る4月下旬に市川十郎右衛門尉をもって申し述べた折、江北の通路が封鎖されていたゆえ、(市川は)役目を果たせずに信州まで引き返したそうであり、とりもなおさず折り返し(岐阜へ)向かわせたので、恐らく参着したのではないかと思われること、ただし、(市川)十郎右衛門尉の胆力が足りなかったゆえ、使者が遅れる結果となり、まるで(信長を)侮り軽んじてしまったようで、面目を失したこと、近日中に巣鷂(雌鷹の雛)を贈るつもりなので、その折に詳しく申し届けること、これらを恐れ謹んで申し伝えている。さらに追伸として、長延寺(実了師慶)は江北に滞留しているのかどうか、いぶかしんでいること、越中椎名(右衛門大夫康胤。越中国新川郡の松倉(金山)城を本拠とする)への加勢を働き掛けるため、(長延寺を)賀州衆の案内で大坂(摂津国大坂本願寺)へ上らせたこと、江北錯乱ゆえに半途での遅留を余儀なくされているらしく、はなはだ心配していること、彼の者の落ち着き先を知らせてほしいこと、これらを申し添えている(『戦国遺文 武田氏編三』1550号「夕庵」宛武田「信玄」書状)。


27日、常陸国太田の佐竹義重の客将である太田美濃入道道誉(三楽斎。俗名は資正。佐竹氏から常陸国小田城を任されている)へ宛てて書状を発し、ここしばらくは、通路が断絶していたゆえ、思いがけず音問が途絶えていたこと、よって、先月は豆州へ向かって手立てに及び、国中を蹂躙し、十分な成果を得て下旬頃に帰府したこと、おまけに去る5日に(別働隊が)御嶽城(武蔵児玉郡)の乗っ取りに成功したので、要害を修築して矢楯と兵糧を搬入し、甲・信両国から千余名の人衆を送り込んだこと、そして、関東へ出陣致すつもりであること、いよいよ味方中を滞りなく結集させるよう、調略を頼み入るばかりであること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編三』1561号「太田美濃守殿」宛武田「信玄」書状写)。



元亀元年(1570)7月 越後国(山内)上杉輝虎(旱虎。弾正少弼) 【41歳】


9日、越中国代官を任せている河田長親が、重臣の山田平左衛門尉に証状を与え、小出保下条(越中国新川郡)のうちの小池分ならびに徳楽分の地を、確かに知行するべきものであること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』919号「山田平左衛門尉殿」宛河田「長親」知行宛行状)。


19日、取次の山吉孫次郎豊守が、相州北条方の取次である藤田新太郎氏邦(氏康の四男。武蔵国鉢形城主へ宛てた条書を、相州北条方の使者である篠窪治部に託し、覚、一、(越・相両国の)御同陣について、取り急ぎ使者をもって申し入れられること、一、当方(越後国上杉家)では家中の上下にかかわりなく、(御同陣の是非に)気を揉んでいること、一、甲府(甲州武田家)の使僧を成敗すること、一、半途へ互いが(交渉人を)向かわされ、御相談あって、御落着のうえ、定められた日限通りに御手を合せされるべきこと、一、当秋に御同陣が実現しなければ、味方中の動揺は計り知れず、御後悔するような事態も起こり得ると考えられていること、この補足として、篠治(篠窪治部)を(相府へ)帰して子細を申し述べられること、以上、これらの条々を申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』920号「藤田新太郎殿 御宿所」宛 山吉豊守条書案)。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 武田氏編 第三巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 房総編 第二巻』(東京堂出版)

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