越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎の略譜 【25】

2012-09-29 17:52:00 | 上杉輝虎の年代記

永禄7年(1564)11月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼) 【35歳】

尾州織田信長(尾張守)の申し入れにより、盟約を結んで連携関係を進展させると、7日、織田信長から、取次の直江大和守政綱(大身の旗本衆。越後国山東(西古志)郡の与板城主)へ宛てて返書が発せられ、このたび使者をもって連携を申し入れたところ、とりもなおさず御同意してもらえたばかりか、様々な御厚情をかけてもらったおかげで、すこぶる本懐を遂げられたこと、従って、大鷹を五連も贈ってもらったこと、未だかつてないほどに過分極まりないこと、格別に(鷹を)こよなく寵愛していること、以上の趣旨の御取り成しを願うところであること、これらを恐れ謹んで伝えられている。さらに別紙の追伸として、もとより御誓談の条々については、感謝にたえないこと、取り分け 御養子として愚息を迎え入れてもらえるのは、誠にこのうえない栄誉であること、通過国との調整が付いたならば、いつでも送り出すこと、今後とも 御指南にあずかり、ますます連携を図っていきたいこと、以上の趣旨を御披露してもらえれば、本望であること、これらを恐れ謹んでを伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』441号「直江大和守殿」宛織田「信長」書状、442号「直江大和守殿」宛織田「信長」書状 封紙ウハ書「直江大和守殿 信長」)。

結局のところ、この養子縁組は実現しなかった。


この年の7月に没落した太田三楽斎道誉(俗名は資正)が味方中の宇都宮弥三郎広綱(下野国宇都宮城主)の許へ身を寄せていることから、その在所へ使者を派遣すると、27日、太田美濃入道道誉から、取次の河田豊前守長親(「河田豊前守殿(大身の旗本衆。上野国沼田城代)」)へ宛てて返書が発せられ、御書札を拝読したこと、仰せの通り、思い掛けない境遇によって、今は宮(宇都宮城)に滞在していること、これにより、御両使を寄越されて一々を尋ねて下さり、誠に過分の極みであること、一、賄い料として黄金百両を供与されたので、ひたすら恐悦していること、一、こうした境遇ならびに愚息の源太(梶原政景)の思い掛けない事情によって当口へ罷り移った意趣と、御味方中の様子を、先頃に両使に託した書付を進上させてもらったところ、御返書がこなかったこと、どうにも不安を感じていたこと、一、これまでに拙夫(太田道誉)が励んできた忠功を忘れずに評価されているそうであり、誠に過分の極みであること、こうなったからには、源太(梶原政景)を御引き立て願いたいこと、某(太田道誉)については、老齢であり、閑居の身になるほかないと決意していること、詳細は河田豊前守方(実名は長親)が申し上げられること、以上の趣旨を御披露に預かりたいこと、これらを恐れ謹んで伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』442号「河田豊前守殿」宛「太田美濃入道 道誉」書状)。

28日、梶原源太政景から、越府の年寄中へ宛てて返書が発せられ、御貴札を拝読し、恐れ多い思いであること、思いも寄らない巡り合わせにより、当口(宇都宮)へ移らされた事情について、使者をもって申し達したところ、御返札はこなかったので、心許ない思いをしていたところ、このたび御両使をもって一々を仰せ越せられたので、面目も冥利も尽くされたので、恐悦の極みであること、取り分け青大鷹一連を贈ってもらったこと、その御厚情は計り知れないこと、なお、詳述は御両使に頼んだので、書面を略したこと、これらを恐れ謹んで伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』444号「越府 人々御中」宛「梶原源太 政景」書状写)。

※ 2013年に発刊された黒田基樹氏の編著である『岩付太田氏 論集戦国大名と国衆12』(岩田書院)の「総論 岩付太田氏の系譜と動向」によると、この太田道誉・梶原政景それぞれの書状は永禄8年の発給文書である可能性が高いとされている。永禄7年7月23日に太田美濃守資正と次男の梶原源太政景は、相州北条家に内通した資正嫡男の太田源五郎氏資によって岩付城から追放されると、娘婿である武州忍の成田左衛門次郎氏長を頼り、岩付城奪還の機会を窺った。翌8年5月には、上州新田の横瀬雅楽助成繁の支援と岩付城衆に内応者を得て、岩付近郊の渋江宿まで迫ったが、内応者の一部が裏切り、作戦は失敗に終わってしまい、太田下野守・小宮山某をはじめとする城を出た内応者たちを引き連れて忍城へ後退すると、下総国栗橋の野田右馬助景範の許へと逃れ、9月には成田氏や上州館林の足利長尾但馬守景長の許を転々としたのち、冬には下野国宇都宮の宇都宮弥三郎広綱を許へ身を寄せた。そしてついには、永禄9年2月に常州太田の佐竹次郎義重の許に落ち着いた、という流れが考えられるとのこと。



永禄7年(1564)12月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼) 【35歳】

19日、越後奥郡国衆の色部修理進勝長(越後国瀬波(岩船)郡の平林城主)の嫡男である色部弥三郎顕長に一字状を与え、山内上杉家に縁のある「顕」(初代の上杉憲顕に由来する)の一字を付与して顕長と名乗らせた(『上越市史 上杉氏文書集一』445号「色部弥三郎殿」宛上杉「輝虎」名字書出【花押a3型とe1型が合わさったもの】)。


この夏から秋にかけて飛州姉小路三木良頼(中納言)に反抗するも、輝虎の支援を受けた良頼とその支持者である江馬四郎輝盛に敗れ、輝虎に誓詞を差し出して恭順した江馬左馬助時盛の許へ使者の草間出羽守(旗本衆。信濃衆高梨氏の旧臣)を派遣し、改めて誓約の趣旨を示すと、23日、江馬時盛から、山内(越後国)上杉家の年寄中へ宛てて返書が発せられ、貴札を拝読し、本懐極まりないこと、仰せの通り、去秋に誓詞をもって恭順を申し入れたのに伴い、ただ今、御使者に預かり、分けても黒毛馬を贈ってもらったこと、ひたすら恐悦していること、従って、仰せを受けた条々の旨に、いささかも異心のないこと、その趣旨に従って血判起請文を差し出すこと、今後は格別な御厚誼を結んでもらえれば、満足であること、なお、草間出羽守が帰路の折、申し上げてくれるので、要略したこと、これらを恐れ畏んで伝えられている(『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』446号「山内殿 人々御中 貴報」宛江馬「時盛」書状写)。



永禄8年(1565)正月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼) 【36歳】

28日、関東味方中の富岡主税助(上野国小泉城主)へ宛てて返書を発し、新年の祝儀として太刀一腰と鳥目(銭)百疋を到来し、稀有にめでたく快悦の至りであること、これらを謹んで伝えた。さらに追伸として、判形(花押型)を変更することと、今後はこれ以外は用いないので、不審に思わないでほしいことを伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』378号「富岡主税助殿」宛上杉「輝虎」書状【花押e2とあるがe1の誤記である】)。


※『上越市史』などは378号文書を永禄7年に仮定しているが、黒田基樹氏の論集である『戦国大名と外様国衆』(文献出版)の「第十章 富岡氏の研究」に従い、永禄8年の発給文書として引用した。



永禄8年(1565)2月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼) 【36歳】

18日、関東味方中の酒井中務丞胤治(上総国衆の土気酒井氏。上総国土気城主)から、取次の河田長親へ宛てて返書が発せられ、旧冬は北村内記助をもって当国の状況を申し上げたところ、御丁寧に御披露してもらえたので、ひたすら恐悦していること、去る12日に氏政(相州北条氏政)が当城(土気城)に攻め寄せてきたこと、先陣として宿城に攻め込んできた臼井衆(相州北条氏に他国衆として属する上総国臼井城主の原胤貞)の原弥太郎・渡辺孫八郎・大網半九郎・大厩藤太郎・鈴木など五十余名を討ち取ったこと、翌13日には東金衆(相州北条氏に他国衆として属する上総国東金城主の酒井左衛門尉政辰。土気酒井氏とは同根である)が金谷口から攻め掛けてきたので、愚息の左衛門次郎(政茂)が人衆を引き連れて迎え撃ち、河嶋新左衛門尉・市藤弥八郎・早野某・宮田など百余名を討ち取ったこと、同日に善勝寺口においても打って出て十余名を討ち取ったこと、連戦連勝していること、御安心してもらいたいこと、こうしたなかで取り分け、房州(里見家)は御手並みが難儀であるゆえに、当城へ一騎の援軍も寄越さないこと、拙者(酒井胤治)の敗亡は義堯(岱叟院正五)・義広(里見太郎義弘)の御進退に直結すること、爰元(土気城)は長期戦の様相を呈しており、一刻も早く当方面へ御進発されるように、(輝虎へ)御進言してもらいたいこと、これまで我等(酒井胤治)は氏康・氏政父子の許で、ひたむきに奮闘を続け、永禄3年の御越山(関東遠征)による氏康・氏政父子の苦境に際しても、両総で忠信を励んだにもかかわらず、昨年における国府台(下総国葛飾郡)合戦の間際、不忠の人物に肩入れし、忠信者の某(酒井胤治)を蔑ろにしたのは、全く我慢がならなかったので、彼の興亡の一戦を前に相州北条陣営から離脱して引き籠ったこと、房州の一味である太美(太田資正)が国府台合戦で滅亡の危機にさらされたのを助けて岩付(武蔵国埼玉郡の岩付城)へ送り届けた事実でも分かるように、たとえ関東中の諸士が氏康・氏政父子に降っても、拙者(酒井胤治)だけは義堯父子(里見義堯・義弘)の前衛を務める決意を、弓矢と護国の神名に掛けて誓うこと、我等家中(土気酒井氏)は、氏康父子の傘下に入るまで、十年以上も大乱の渦中にあったがゆえに疲弊困憊しており、(輝虎においては)早々に金(下総国葛飾郡風早荘の小金城)へ御馬を寄せられ、相州北条方の圧迫を取り払ってもらいたく、頼み入るばかりであること、貴面(河田長親)をもって万事を承るのを念願していること、これらを恐れ謹んで伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』451号「河田殿 参御宿所」宛「酒井中務丞胤治」書状)。

23日、関東味方中の横瀬雅楽助成繁(上野国金山城主)が上野国堀口(那波郡)へ出陣し、同国三宮(群馬郡)に布陣して惣社城を窺う甲州武田軍を牽制している(『群馬県史 資料編5』)。


本来であれば、この上旬に越前国朝倉義景(左衛門督)との盟約に基づいて加賀国へ出馬するはずであったが、関東味方中からの出馬要請が相次ぎ、やむを得ず関東出馬に予定を変更し、24日に出府することを決めた。

24日、関東味方中の成田左衛門次郎氏長(武蔵国衆。武蔵忍城主)や小山下野守高朝(号明察。下野国衆。下野国榎本城主)へ宛てた書状を使者の山岸隼人佑(実名は光重か。譜代衆)と草間出羽守(旗本衆)に託し、取り急ぎ両使をもって申し届けること、繰り返し伝わっているであろうこと、越前国(朝倉家)とは長年にわたって連携を図ってきた間柄であり、昨年に否応なく当方(越後国上杉家)まで証人を寄越されたこと、朝倉左衛門督(実名は義景)は賀州へ出張すると、すでに輝虎自身が出馬してくるのを今か今かと心待ちにされていたこと、盟約の成り行き上、やむを得ないので、国境の積雪といい、その国(加賀国)の寒風の季節といい、ようやく時宜を得たので、今月上旬に賀州へ向かって進発する計画であったところ、早々に武・上(武蔵国・上野国)戦線の防備に手立てを講じるべきとの緊急要請が方々から寄せられたので、これまで積み重ねてきた功績を捨て去るわけにはいかないので、北陸の万事をなげうち、関東越山する結論に達したこと、今24日に出府するので、ここまできたからには、こちらが越山以前に厩橋(上野国群馬郡)の地へ速やかに着陣され、結束して戦略を練り上げ、関東平定の達成に専心するべきこと、それぞれが長年の遺恨などを持ち出したりすれば、御着陣が遅れてしまうこと、これまでの御忠信を貶めてはつまらないこと、委細は山岸隼人佑・草間出羽守が口上すること、これらを恐れ謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』452号「成田左衛門次郎殿」宛上杉「輝虎」書状写、453号「小山下野守殿」宛上杉「輝虎」書状写)。



この間、甲州武田信玄(徳栄軒)は、7日、上野国へ出陣するにあたり、信濃国諏訪上宮大明神と同新海大明神に願文を納め、十日を経ずしての上野国箕輪城(群馬郡)の攻略と、同じく惣社(同)・白井(同)・嶽山(吾妻郡)・尻高(群馬郡)の四ヶ所の制圧を希求している(『戦国遺文 武田氏編二』928号 武田信玄願文、929号 武田信玄願文写)。

それから間もなく出陣した甲州武田軍は、上州北部を脅かしたあと、20日前後に三宮(群馬郡)へ布陣して惣社城に圧力を加えている。

25日、三宮陣を引き払って惣社口へと進んだが、末日の前後には引き上げている。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』
◆『戦国遺文 武田氏編 第二巻』
◆『群馬県史 資料編5 中世一』【記録】長楽寺永禄日記

コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 越後国上杉輝虎の略譜 【24】 | トップ | 越後国上杉輝虎の略譜 【26】 »

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (つか)
2012-09-30 21:41:48
 信長の息子が、謙信の養子になるとの話が挙がっていたとは知りませんでした。確かに信玄に対しては、養女を勝頼に嫁がせるくらいですから、実施の居ない謙信には養子を送り込むくらいの事を考えたかもしれません。途中で立ち消えになったとは言えども、誰が養子候補になっていたかが気になります。
 また「顕」の時が山内上杉家の物だったとは知りませんでした。景勝の前名の顕景が、誰からとったから判らなかったので、勉強になりました。
返信する
Unknown (こまつ)
2012-10-01 20:22:55
 私も、誰が養子候補だったのか、とても気になってました。永禄7年までに生まれている信長の息子は、信忠・信雄・信孝の三人のようですから、このうちの誰かだとは思うのですが。実現していたら、一体どうなっていたんでしょうね。
 どんな本だったか、思い出せないのですが、謙信は、自分には信玄の信の字を下に付けて、景勝には勝頼の勝の字を下に付けたのではないか、と仰っていた方がいたように記憶しています。
 私は、上杉が嫌いな訳ではないのですが、とくに長尾が好きなので、出来れば、謙信も景勝も長尾のままでいてほしかったです。
返信する

コメントを投稿

上杉輝虎の年代記」カテゴリの最新記事