越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

会津蘆名氏四代(盛舜・盛氏・盛興・盛隆)の重臣である鵜浦左衛門尉と佐瀬大和守・同中務丞について

2017-06-21 15:07:08 | 雑考

 このたび、会津蘆名氏について造詣が深い三浦介さんとネット上でやり取りしていたところ、三浦介さんが、伊佐早謙校注の『奥羽編年史料』に載録されている蘆名盛舜・同盛氏期の天文21年5月9日付白川晴綱宛「左衛門尉盛起」書状写には、この文書を発給した蘆名氏の関係者である「左衛門尉盛起」の苗字が「鵜浦」と補記されており、蘆名盛氏・同盛興期の永禄11年4月20日付「鵜浦左衛門入道」宛武田信玄書状(『戦国遺文 武田氏編』)を受給した「鵜浦左衛門入道」の俗名は「盛起」の可能性があること、それから、『遠藤家文書』に載録されている蘆名盛隆期の天正10年4月13日付遠藤山城守基信宛「佐 中 氏常」書状を発給した蘆名氏の関係者である「佐 中 氏常」の氏名・通称が「佐瀬中務丞氏常」と注記されており、盛氏・盛隆期の天正6年9月14日付「佐瀬中務丞」宛上杉景虎書状(『上越市史 別編』)を受給した「佐瀬中務丞」とは、その年次の近さから、同一人物の可能性があること、さらに、この「佐瀬中務丞氏常」の花押形は、蘆名盛氏・盛興期の永禄5年2月3日付「佐 大 常藤・佐 平 氏意」連署寄進状(『会津高田町史 資料編』)と同時期の永禄9年正月10日付中野宗時・牧野久仲・浜田宗景宛松本氏輔・富田滋実・「佐瀬常藤」・平田実範連署血判起請文(『福島県史 資料編』)の署判者のひとりである「佐瀬(大和守)常藤」のものと酷似しており、両者は親子か兄弟の可能性があること、以上の事柄に気が付かれました。

 このように、越後国上杉家と友好関係にある会津蘆名家の側の取次を務める佐瀬中務丞のような人物の実名が判明したりすることは、大変ありがたいものでした。そこで、僭越ながら、三浦介さんにお願いしまして、これらを代わりに述べさせてもらいました。

※『白河市史 第五巻 資料編2 古代・中世』によると、「左衛門尉盛起」書状の原本の上包みには「会津盛起状」と記されているらしい。

※『遠藤家文書』が「佐 中 氏常」書状の年次を天正10年に比定したのは、『伊達治家記録』の天正10年4月13日条と関連記事があることによる。

※「佐 中 氏常」書状と「佐 大 常藤・佐 平 氏意」連署寄進状は、それぞれ『遠藤家文書』と『会津高田町史』に鮮明な写真が掲載されているが、「佐瀬常藤」ほか三名連署血判起請文については、『会津若松市史 歴史編3 中世2 会津葦名氏の時代 -戦乱、合戦とその興亡-』(会津若松市史編纂室編)に掲載されている写真が鮮明とのこと。


『奥羽編年史料 三十一』33冊目14コマ(市立米沢図書館デジタルライブラリー)◆『戦国遺文 武田氏編 第二巻』1263号 武田信玄書状写 ◆『伊達氏重臣 遠藤家文書・中島家文書 ~戦国編~』遠藤家文書3号 佐瀬氏常書状(白石市教育委員会編)◆『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1657号 上杉景虎書状 ◆『会津高田町史 2巻 資料編1』仁王寺文書2号 某連署寄進状 ◆『福島県史 第七巻 資料編2 古代・中世資料』99-102号 富田滋実等四人連署起請文
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上杉謙信(輝虎)期における越後衆の仮名事情

2017-06-13 20:45:02 | 雑考

 上杉謙信(輝虎)期の越後衆には仮名で通した大身の者たちが少なからず存在しており、これらは類別できることから、こうした一群がそれぞれ仮名で通すに至った事情を考えてみたい。

 先ず、謙信の一家衆といえば、上杉三郎景虎・上杉弾正少弼景勝・上杉十郎(実名は信虎か)・山浦源五国清・上条弥五郎政繁・琵琶嶋弥七郎(実名は政勝か)・山本寺伊予守定長であり、仮名で通した人物たちが目立つ。

 これら仮名で通した人物のうち、上杉三郎景虎は、相州北条氏康の末男であり、越・相同盟が成立したのに伴い、輝虎の養子として迎えられた。上杉十郎は、輝虎にとって別格の縁者である古志長尾右京亮景信の世子であり、越後国長尾景虎が山内上杉家の名跡を継いで上杉政虎(輝虎)となったのち、当時は空席であったらしい上条上杉十郎家の名跡を与えられた。山浦源五国清は、甲州武田信玄によって本領を逐われて越後国に亡命した信濃国衆・村上義清の世子であり、同じく空席であったらしい山浦上杉家の名跡を与えられた。ただし、村上苗字を名乗っていた頃から源五を称している。上条弥五郎政繁は、年寄衆によって領国を逐われて近江国へ逃れた能州畠山義綱(老父(義続。号徳祐)は共に追放され、若年の嫡男(義慶)は年寄衆に推戴された)の末男であり、ひとりだけ越後国に亡命したのち、やはり空席であったらしい上条上杉弥五郎家の名跡を与えられた。琵琶嶋弥七郎は、相州北条氏康・同氏政父子によって本領を逐われて越後国に亡命した上野国衆・白井長尾憲景の一族と伝わり、越後国衆・琵琶嶋柏崎弥七郎(実名は広員か)の遺跡をもって、輝虎が新設した琵琶嶋上杉家(かつて琵琶嶋には八条上杉氏がおり、名家を再興したともいえるか)の当主に充てられた。それから、上杉一族の血筋を唯一繋いでいる山本寺伊予守定長の嫡男である山本寺松三景長がおり、この仮名・実名は謙信から与えられた可能性が高い。

 謙信は敢えて他家から入嗣した者ばかりの一家衆に由緒ある仮名で通させることにより、彼らにあくまでも越後国上杉家の一員であるとの意識付けと、彼らとそれぞれの家中が馴染みやすくするための標章化を図ったのではないだろうか。それから、謙信の養子であり、他家から入嗣した者のなかで、ひとりだけ官途名を称しており、しかも謙信が称していた弾正少弼を与えられている上杉景勝(上田長尾喜平次顕景。母は謙信の姉)は、天正三年の上杉家軍役帳にひとりだけ「御中城様」と尊称されていることからも別格の縁者であり、ほかの一家衆と後継者候補である弾正少弼景勝との差別化を図る意味もあったか。ただし、越・相同盟の締結により、輝虎の養子として関東管領山内上杉家の名跡を継ぐことが内定していた上杉景虎(妻は謙信の姪)については、関東管領山内上杉家十代目の四郎顕定(号可諄。越後守護上杉房定(号常泰)の末男)からは、四郎顕実(古河公方足利成氏の次男。顕定の養子)、五郎憲房(山内上杉憲実の三男である僧周清の子。顕定の養子)、四郎憲寛(古河公方足利高基の次男。憲房の養子)、五郎憲政(号光徹。憲房の実子。輝虎の養父)のように仮名で通しており、これは、将軍から鎌倉公方の補佐役に任命された関東管領山内上杉氏(当初は犬懸上杉氏と交代で務めていたりしたが、犬懸上杉氏は主家に背いて滅亡した)が主家と対立するようになり、永享の乱による鎌倉公方の滅亡と再興、享徳の乱による鎌倉の地を失陥した公方の古河の地への定着を経て、将軍から古河公方討伐のための軍事指揮権を与えられ、天皇から綸旨による関東管領職補任と御旗の下賜を受け、関東の「副将軍」・「天子之旗本」という政治的立場が世間に認められたことから、職名が官途名と同等の意味を持つようになったので、もはや山内上杉家の当主は官途名を称する必要がなかったことと、景虎の名が軍役帳に記載されていない立場であることを重視し、三郎景虎もまた別格の縁者であり、後継者候補のひとりであったという考えがある。


※ 長尾一族ではあるが、謙信譜代の長尾小四郎景直(謙信実父である長尾為景の弟と娘の間に生まれた子らしい。越中国東郡の椎名康胤の養子となった)も仮名で通しており、謙信は越後国上杉家の一家衆と同じように、敢えて近親者の長尾景直に由緒ある御屋敷長尾小四郎の仮名で通させたのであろう。

※ 謙信(上杉輝虎)も関東管領山内上杉家の名跡を継いだのち、長尾景虎期に得た弾正少弼以上の官途・受領名を自ら率先して得ようとはしなかったと考えられている。

※ 謙信没後の家督を巡る内乱で上杉景勝に味方し、その勝利に貢献した山浦源五国清・上条弥五郎政繁・山本寺松三景長らは、謙信期に引き続き景勝期も仮名で通している。


 続いて、越後奥郡国衆のうち、本庄弥次郎繁長(雨順斎全長)・色部弥三郎顕長(虎黒丸)・鮎川孫次郎盛長(市黒丸)・大川三郎次郎長秀の秩父一族が揃って仮名で通しているのも際立つ。

 彼らの親である本庄大和守房長(対馬守)・色部修理進勝長(弥三郎)・鮎川摂津守清長(岳椿斎元張)は、いずれも官途・受領名を称している(大川長秀の先代は駿河守忠秀を名乗ったと伝わっているが確証はない)。これは本庄繁長の反乱以前に色部顕長が上杉輝虎から山内上杉家にゆかりの「顕」の一字を付与されていることからすると、官途・受領名を称するには年若だったり、それらを与えられるには軍功が足りなかったりしたというよりも、秩父一族の不安定な状況と本庄繁長の反乱による混迷が理由ではないだろうか。本庄繁長は言うまでもなく、色部顕長は越後国上杉家の分国内における支城での在番中に失火したり、鮎川盛長は本庄と不仲で乱以前も乱後も争い続け、特に乱後には無用な手出しをしており、さらには後年、越府へ差し出した証人が密通騒動を起こしたり、大川長秀は本庄の乱が起こると、繁長に味方した弟たちに居城を奪われたり、やはり後年、謙信が総力を結して北陸で一向一揆と戦おうとしていた矢先に、あろうことか隣国出羽へ攻め込んでしまったり、といった具合に謙信を困らせ続けていたので、こうした彼らの通称について、わざわざ謙信の方から配慮を示すようなことはなかったのではないだろうか。一方、彼らの側としても、自称するのも、通称の授与を求めるのも憚られたのかもしれない。気の毒なのは、父である色部勝長の代から、むしろ功績の方が多かった色部顕長であり、父が本庄の乱で陣没したのち、修理進の官途名を継承しても良さそうなものだが、そうはなっておらず、連帯責任でとばっちりにあったような感さえある。また、本庄繁長の嫡男である新六郎顕長は、実名こそ色部顕長と同様に謙信から「顕」の一字を付与されたものの、本庄氏の歴代が称したであろう弥次郎の仮名を称することはできなかった。

 同じく三浦和田一族の黒川四郎次郎平政(竹福丸)も仮名で通している。先代の黒川下野守(実名は平実か。四郎次郎)は、長尾景虎期に同族の中条越前守(実名は房資か。弥三郎)との領界相論における景虎の調停結果に不満を募らせていたからか、越後国長尾家の年寄衆の大熊備前守朝秀が甲州武田信玄と通じて起こした反乱への与同が不調に終わると、当主の座から降ろされてしまったらしく、幼年の竹福丸が当主の座に就いていたこと、本庄の乱では家中から本庄方への内通者を出してしまったこと、四郎次郎平政もまた中条越前守と領界相論をしたこと、こうした事情が影響したのかもしれない。


※ 本庄繁長(雨順斎全長)は、御館の乱における功績が多大であったことから、上杉景勝から越前守の受領名を与えられたようであり、これを機会として俗名に復したのち、さらに義兄弟(繁長の妻は古志長尾景信の娘と伝わる)の上杉十郎の席次と名跡を与えられている。この越前守は、景勝の実父である上田長尾政景が称した受領名を選んで与えられたものか、それとも、揚北衆における最有力者の中条氏が称していた受領名(中条越前守景泰の戦死により、揚北衆中に越前守を称する者は当時いなかった)を与えられたことにより、繁長が揚北衆の最有力者に位置付けられたということか。色部顕長は謙信晩年に弟の惣七郎長真(初めは長実を名乗った)に家督を譲り、その長真は景勝期に修理大夫を称している。

※ 謙信没後の内乱では上杉景虎に味方し、のちには新発田重家の乱でも上杉景勝に敵対した鮎川盛長は、最後まで官途・受領名を称することはなかった。新発田の乱後には当主の座から降ろされてしまい、与五郎秀定なる秩父一族らしからぬ実名を持つ者に代えられている。大川長秀も最後まで官途・受領名を称することはなかったが、景勝期の動向はほとんど知れない。


 そして最後は、謙信の譜代衆、旗本衆の安田惣八郎顕元、山吉孫次郎豊守・本庄清七郎(実名は綱秀か)である。彼らはいずれも次男(長尾景虎の近習を務めていたらしい)であり、本来はそれぞれの家名を継ぐ立場にはなかった。

 彼らの親である、安田越中守景元(百丸。弥八郎)、山吉丹波守政久(孫四郎。恕称軒政応)・本庄新左衛門尉実乃(新左衛門入道宗緩。美作入道)は、いずれも謙信の実父であった越後守護代長尾為景の戦いに味方し、その忠功を認められた人物たちであり、長尾景虎期の功臣でもあった。それらの嫡男である、安田和泉守景広(この受領名・実名は系図以外では確認されていない。松若丸。仮名は弥九郎か)、山吉孫四郎(実名は景久か)・本庄新左衛門尉(玖介)は、安田が出奔、山吉・本庄が早世してしまい、いずれも後継者たる男子を残さなかったので、それぞれの家が改易に処されてもおかしくなかったところ、先代の功績を鑑み、次男たちが家名を継ぐことが認められたのであろう。しかしながら、これは特例であり、安田顕元のように忠功を認められれば「顕」の一字を与えられたりはしたものの、彼らにはけじめとして官途・受領名が与えられることはなかったのではないだろうか。

 また、これらとは逆に、古志長尾氏を継いでいたこともある長尾景虎にとって別格の縁者であった古志長尾右京亮景信(古志長尾豊前守房景の子。仮名は十郎か)と謙信の譜代衆である柿崎左衛門大夫(長尾景虎期からの功臣である柿崎和泉守景家の子で、実名は晴家と伝わるが確証はない。仮名は平三郎か)は、やはり兄たちが後継者たる男子を残さずに早世したらしく、彼らがそれぞれの家名を継ぎ、官途名を称するのは許されているが、仮にも一時は古志長尾氏の当主であった長尾景信が最後まで実名に「景」の一字を冠していたように、輝虎から偏諱を付与されることはなかったような事例もある。

 それから、仮名で通した旗本衆のなかには、その事情を判断するのが難しい者たちもいる。謙信晩年の最側近である吉江喜四郎信景(資賢。初めは苗字不詳の孫八郎)は、越後国上杉家の越中国東郡代官の河田豊前守長親(九郎左衛門尉)や能登国代官の鰺坂備中守長実(清介)らと同じく近江国出身の中途採用者であり、謙信(長尾景虎)側近である吉江織部佑景資(長資)の一族に列し、景資から一字を付与されて喜四郎資賢を名乗った。正確性に欠ける吉江氏系図によると、景資の叔父である佐渡守信清の名跡を継いでいるが、佐渡守といえば、吉江氏の本流にあたる佐渡守忠景(中務丞)であり、謙信最晩年に忠景は所見されなくなるので、資賢改め信景は後継者たる男子がいなかった忠景の名跡を継いだと考えられており、安田・山吉・本庄と同じく特例の部類に入るのかもしれない。ただし、文禄三年定納員数目録に「吉江中書(中務丞)」が載っており、この人物が吉江忠景の後継者であるとしたら、吉江信景は吉江景資の一族のままなので、謙信晩年の最側近であるばかりか、「信景」という最上級の実名を与えられているわけであり、謙信が他者とのバランスを考慮した結果、仮名で通させることにした可能性もあるだろうか。よく使者を務めた大石惣介芳綱は、大石氏系図によると、武蔵国出身の大石氏二流のうち、藤右衛門尉家の三男であり、長男(源三郎綱頼か)が早世し、次男(与三郎綱高か)が藤右衛門尉を称しているので、この次男が藤右衛門尉家の名跡を継いだように見える。しかしながら、四人兄弟のうち、ひとり綱の字を下に置いている三男の惣介芳綱が藤右衛門尉家の当主のように見えなくもないので、もしも後者である場合は、やはり特例の部類に入るのかもしれない。同じく使者を務めた長与一景連は、弟の与次(実名は盛連・弘連と定まらない)がいたことは確かであるが、弟の系譜以外は分からなかった。


※ 山吉豊守の後継者である米房丸(元服前ではあるが、重病であった豊守に代わり、家名を継ぐことを認められたらしい)は急逝したようであり、当然ながら後継者たる男子はおらず、豊守の弟である孫五郎(実名は景長か)が家名を継ぐことは認められるも、居城の三条城を没収されたうえ、所領も半減されている。それから、山吉豊守の実名については、山吉氏の通字のひとつは「盛」であり、上杉輝虎(長尾景虎)が敢えて「豊」と「守」の字を選んで名付けたのではないだろうか。

※ 謙信没後の家督を巡る内乱で上杉景勝に味方し、その勝利に貢献した安田顕元・吉江信景・大石芳綱・長景連は、謙信期に引き続き景勝期も仮名で通している。


 こうして示したように、越後国上杉家の一家衆・外様衆・譜代衆・旗本衆、すべての階層のなかに仮名で通した者たちが少なからず存在しており、それには、謙信による、一家衆のうちで他家から入嗣した者たちへの縁引きと足かせ、外様衆のうちで不祥事を起こした者たちへの戒め、譜代・旗本衆のうちで正統が絶えても、それぞれの先代たちの忠功を鑑み、特例によって家名の継承を認めた者たちへのけじめ、といったような、おおよそ三つの事情があったのではないだろうか。


『上杉家御年譜 謙信公』◆『上杉家御年譜 二十三 外姻譜略 御家中諸士略系譜一』◆『上杉家御年譜 二十四 御家中諸士略系譜ニ』◆『越佐史料 巻六』◆『新潟県史 通史編2 中世』◆『新潟県史 資料編3 中世一』◆『新潟県史 資料編4 中世二』◆『新潟県史 資料編5 中世三』◆『新潟県史 別編3 人物編』◆『三条市史 資料編第二巻 古代中世編』◆『上越市史 通史編2 中世』◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』◆『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』◆ 関 久『越後毛利氏の研究』(上越郷土研究会)◆ 阿部洋輔(編)『上杉氏の研究 戦国大名論集9』(吉川弘文館)◆ 池 享・矢田俊文(編) ◆『定本 上杉謙信』(高志書院)◆ 栗原修「上杉氏の領国支配機構と奏者 ―吉江喜四郎信景の態様を通して―」(駒澤大学『史学論集』26号)◆ 片桐昭彦「上杉謙信の家督継承と家格秩序の創出」(『上越市史研究』第10号)◆ 木下聡「山内上杉氏における官途と関東管領の問題」(『日本歴史』685号)◆ 山本隆志「高野山清浄心院 越後過去名簿(写本)」(『新潟県立歴史博物館研究紀要』第9巻)◆『戦国人名辞典』(吉川弘文館)
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