越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎の年代記 【永禄7年7月~同年8月】

2012-09-24 20:23:16 | 上杉輝虎の年代記

永禄7年(1564)7月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼)【35歳】


2日、関東味方中の佐竹源真(右京大夫義昭。常陸国太田城主)から、越後国上杉家の取次である北条丹後守高広(譜代衆。上野国厩橋城代)へ宛てた書状が使者に託され、去春に輝虎が催された小田口(常陸国筑波郡)への戦陣について、(北条高広が)実現に努められたのは本望であること、これにより、沼崎郷・前野郷・佐村・山木の地(旧小田領)を進ずるので、速やかに知行するのが尤もであること、詳細については馬見塚大炊介が口上するので、繰り返しの説明は避けること、これらを恐れ謹んで伝えられている。さらに追伸として、彼の者(馬見塚)が当口(常陸国)の模様についても詳述するので、この書面を略したことを伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』419号「北条丹後守殿」宛佐竹「源真」書状写)。

5日、姉婿の上田長尾越前守政景(譜代衆。越後国坂戸城主)が急逝する。これにより、来る8日に予定していた信州出馬の日程変更を余儀なくされた。


※ 長尾政景の死去については、永禄4年以降の上杉輝虎の権威上昇に伴う組織の再編により、上田長尾氏の与力に配されたであろう越後国魚沼郡妻有地域(妻有・波多岐荘)の国衆である下平修理亮(実名は吉長か。波多岐荘の千手城主)との確執が刃傷沙汰に発展して共倒れとなったようである(『越後入廣瀬村編年史 中世編』)。

※ こうした組織の再編では、大身者に吸収される中小の国衆が多数に上り、下平修理亮と同じく妻有地域の国衆であった中条玄蕃允(波多岐荘の大井田城主か)などは、上田長尾氏の被官化している(『上越市史 上杉氏文書集一』389号)。


6日、北条丹後守高広が、関東味方中の佐竹氏の宿老中へ宛てた書状を使僧に託し、改めて申し達すること、よって、(輝虎は)当月中に関東へ進発される予定であったが、なかなか人衆が集まらず、ままならなかったところに、思いがけずも信州口で好機を得たので、来る8日に彼の口への出馬を決定されたこと、これにより、事情を詳しく説明するため、(佐竹義昭へ)使者をもって申し入れること、されば、(輝虎の信州在陣中に)氏康(相州北条氏康)が隙を突いて当陣営の領域に侵攻してくるのは必至であり、御自身(佐竹入道源真)が上州まで御出陣を遂げられて、南方衆(相州北条軍)の侵攻を抑止してもらいたいとの(輝虎の)仰せであること、御苦労であっても、早々に御出陣されるのが御肝要であること、詳細は(輝虎が)直達されるので、要略したこと、詳細は拙者(北条高広)の使僧が口上によって申し達するので、御理解を得たいこと、これらを恐れ謹んで伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』421号「当(常ヵ)府江 参人々御中」宛「北条丹後守高広」書状写)。


この中旬から下旬にかけて、飛州姉小路三木良頼(中納言を私称する)の重臣である江馬左馬助時盛(飛騨国高原諏訪城主)が甲州武田信玄に一味して再乱を起こし、敗れた三木良頼と、その支持者である江馬四郎輝盛(系図類は時盛の子と伝えているが、疑わしいようである)は、やむなく越中国境まで後退すると、そこから態勢を整えて高原(荒城郡)への反転攻勢を企図し、輝虎に支援を求めてきたことから、まずは援軍として越中衆を派遣した(『上越市史 上杉氏文書集一』439号 上杉輝虎書状、440号 河田長親書状写)。


※ 江馬時盛・同輝盛の関係については、岡村守彦氏の著書である『飛騨史考 中世編』の「三  武田・上杉の干渉【江馬系図の問題】」による。


23日、関東味方中の富岡主税助(上野国小泉城主)へ宛てて書状を発し、取り急ぎ申し遣わすこと、明日の24日には信州へ必ず乱入し、即時に彼の国の上郡へ押し進むこと、あらかじめ何度も申し伝えている通り、厩橋(上野国群馬郡の厩橋城)へ急行し、北条丹後守(高広)や西上州の味方中と協力して小幡谷(同国甘楽郡額部荘)・安中口(碓氷郡)の奥深くまで進撃するのが肝心であること、彼の筋の人衆(甲州武田家の先方衆の小幡・安中)は悉く信州へ向かうはずなので、諸要害が手薄であるのは間違いなく、このたびの敵城攻略の務めに専心するべきこと、今こそ何時もながらの奮戦をするべきであること、これらを謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』423号「富岡主税助殿」宛上杉「輝虎」書状【花押a3】)。

24日、出府する最中か進軍中に、越府代官の蔵田五郎左衛門尉(実名は秀家か)へ宛てて書状を発し、このたび越中(越中味方中であろう)へ文などを差し越すので、早々に同名兵部左衛門尉(旗本衆の蔵田氏)の所へ届けるべきこと(兵部左衛門尉はすでに越中国へ向かっているか)、越中国からやって来る人数(軍勢)は寺家(越中・越後国境の越後国頸城郡西浜地域)の周辺に着陣させるように先導してくるべき旨を、(兵部左衛門尉へ)しっかりと申し伝えるべきこと、これらを謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』997号「蔵田五郎左衛門尉殿」宛上杉「輝虎」書状写【花押e1影】)。

29日、富岡主税助へ宛てて再便を発し、このたび岩付(武蔵国衆の岩付太田美濃守資正)が見舞われた災難(相州北条氏に内通した長男の太田源五郎氏資(号道也。大膳大夫)によって放逐された)について、北条丹後守(高広)の所から注進状が到来したので披読したこと、彼の所行は言語道断のほどであること、しかしながら、美濃守(太田資正)の身柄は無事であり、取り分け彼の書中の意趣によれば、これまで以上に(輝虎へ)忠誠を尽くす覚悟を示していること、当口については、今29日に信州国河中島(更級郡)の地まで進陣すること、彼の口の状況次第によって、すぐに臼井(碓氷)峠から、その口(上野国西郡)へ打ち通りたいこと、武州味方中と協力して陣容を整えておくように、奔走するのが肝心であること、なお、詳細は河田豊前守(実名は長親。上野国沼田城代)が書面で伝えること、これらを謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』426号「富岡主税助殿」宛上杉「輝虎」書状写【花押a影】、429号 上杉輝虎書状写)。



永禄7年(1564)8月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼)【35歳】


朔日、信州更級八幡宮に願文を納め、甲州武田信玄の非道を訴えるとともに、甲州武田軍を打倒して小笠原・村上・井上・高梨・須田・嶋津ら信濃衆を故国に還住させる決意を表し、さらには、武運長久と子孫繁栄、朝廷・幕府への覚えもめでたい功績を挙げられるように祈願した(『上越市史 上杉氏文書集一』427号「藤原輝虎」願文写)。


3日、犀川を渡って信州川中嶋の地に着陣する。


将軍足利義輝から、相州北条氏康との和睦を勧告する御内書が届いたのを受け、4日、将軍家の奉公衆である大館陸奥守晴光へ宛てて返書(謹上書)を発し、北条左京大夫氏康との和睦について、  御内書を謹んで頂戴したこと、誠にもって過分極まりないこと、おおよそ、東国は元より坂の東は、  古河様(鎌倉公方)に御統治が委ねられ、それから(上杉が)東副将(関東管領)を仰せ付けられたこと、取り分け上杉は、  宝筐院殿様(第二代将軍足利義詮)から稀有の、  御感を得て一紙五ヶ国の御判形を拝領したこと、これによって当家が御歴代に対し奉り、都鄙において御忠節を違わなかったところ、彼の左京大夫(北条氏康)が関左で傍若無人に振舞い、つまりは憲政(山内上杉光徹。輝虎の養父)の旗本に策謀を弄して家中を引き裂き、当家が立ち行かなくなったこと、ひとまず(憲政は)越国(越後国)に移られたので、関・越については、歴代の厚誼が深く、また、憲政を見捨てるわけにはいかず、先年に国境を越えて上州へ進撃し、那波要害(那波郡)を初めとする要所を攻め落として筋目を示したところ、かつての味方中も再起を遂げ、先忠に復してきたので、その諸軍勢を引き連れて相へ押し寄せたこと、百年ほど無事に過ごしてきた小田原(東郡)の地や各所の家屋を焼き払い、敵の根城を攻略するつもりでいたところ、佐竹(号源真。右京大夫義昭。常陸太田城主)・小田(中務少輔氏治。常陸国小田城主)・宇都宮(弥三郎広綱。下野国宇都宮城主)を初めとする味方中から、ここで凱旋するべきとの意見が繰り返し寄せられたので、その総意に従ったこと、公私共に本来であれば鎌倉に出入りするべきではないところ、恐れながら我等は余勢をもって(上杉)憲政と共に鶴岡八幡宮に社参し、長々と鎌倉に滞在するなか、数百里内外の旧跡を巡見して瞠目したこと、されども(上杉)憲政は病身であるため、代わって愚拙(長尾景虎)が名代職(管領職)を相続するように、諸家一揆が同心して、しきりに受諾を請うてきたこと、しかしながら、身分不相応であり、若輩であり、取り分け、  上意(足利義輝)の御信任を得ておらず、自分勝手に納得するわけにはいかないこと、この旨を数日にわたって説明するも、八幡宮の神前に寄り合った各々から、この重要な戦陣の最中、無為に時日を送り、もし仮に横槍でも入れば、無益に終わってしまうなどと、様々に談じ込まれたので、深く名跡について斟酌したところ、いずれにしても関東で奮闘するからには、(上杉)憲政が本復するまでの間、御旗を預かるとの妥協案で納得してもらい、昨年以来の諸家の労兵に休息を与えなければならず、要地の防備を十分に整えた上で、取り敢えず凱旋したこと、こうして関東の過半を静謐へと導いたところ、左京大夫(北条氏康)は正攻法では勢力を維持できなくなり、例によって策略を弄し、弱者共を引き抜いたので、関東の端々で見苦しい状況に陥っていること、常州の内の小田氏治については、先年に北条の攻勢によって本拠から追いやられると、憲政が支援のための戦陣を催し、彼の者が十余年も牢籠した間に、二度も在所に還住させたこと、その厚恩を未来永劫に亘って忘れない旨を誓い、数通の血判起請文を差し出したにもかかわらず、あっさりと(北条)氏康に与同して、彼の周辺の味方中に乱行を繰り返すため、遠境ながらも、当春に小田の地へ長駆して、彼の要害旧地を取り囲んだこと、彼の地は年月を掛けて要害に強化を施しているため、各々からは、慎重に攻めるべきとの提言が寄せられるも省みず、ひたすら強攻すると、二千余名の主だった者を討ち取り、一気に決着がついたこと、また、残党は堀溝で溺死するか焼死するかして、その数を把握できないほどであり、小田与党の三十余ヶ所は、その日のうちに証人を差し出して降伏したこと、野州の内の佐野小太郎(昌綱。下野国唐沢山城主)については、一旦は味方に復していたが、あっさりと北条に寝返ったので、小田からの帰途に立ち寄ったこと、佐野の地は険難の要害ではあったが、様々な工夫を凝らして攻めかかり、外郭を押し破ったところ、(佐野昌綱が)降伏を嘆願してきたので、主要な証人を数多く差し出させ、(昌綱の)処断は容赦したこと、さては氏康については、すでに、 晴氏様・藤氏様御父子を豆州奥郡に押し籠めたばかりか、御生害に及んだこと、不義を恥ともしない言語道断の輩なので、およそ和談するなどとは、思いも寄らない題目ではあるところ、御下知に背くわけにはいかず、 上意に応ずるべく御請状を捧げること、このたび上使が御下向され、速やかに関東味方中は(北条)氏康と停戦するようにと、きつく申し付けられたので、皆々が緊張を解いたところ、一体どのように(北条)氏康へ御下知されたものか、先月23日に南方(相州北条方)が武州の太田美濃守(太田資正)の居城を乗っ取ったばかりか、日増しに様々な乱行を募らせており、はなはだ口惜しい思いをしていること、それでも、 上意を無視するわけにはいかず、このうえは使者を上洛させること、御上使の大館兵部少輔方(藤安。奉公衆)に愚意を余す所なく申し伝えたこと、決して上意を軽んじない旨を、詳しく上奏に達するので、よろしく御披露願いたいこと、これらを恐れ謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』429号「謹上 大館陸奥守殿」宛「藤原輝虎」書状写)。


同日、関東味方中の佐竹右京大夫義昭(号源真)へ宛てて書状を発し、取り急ぎ申し伝えること、昨3日に信州犀川を渡って河中嶋の地に馬を立てたこと、武田大膳大夫(信玄)と対向したならば、一戦するつもりであり、色々と(信玄を)引き摺りだすために策を講じているが、未だに(甲州武田軍の)本営の所在地すら不明であること、たとえ(信玄が)当国(信濃国)のいずれの地に陣城を構えて堅く守ったとしても、強攻して興亡の一戦を遂げるつもりであること、それでもなお(信玄が)一戦を避けるのであれば、佐久郡へ進出して国中から武田方を一掃する覚悟であること、あらかじめ約束していたように、速やかに御自身(佐竹義昭)が武・上国境に陣取られて、甲州武田軍と連動する南方(相州北条軍)の抑止に努められるべきこと、この時宜に例の如く御油断されては、悔やんでも悔やみきれないこと、なお、詳細は北条丹後守(高広)の所へ申し遣わしたこと、これらを恐れ謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』428号「佐竹右京大夫殿」宛上杉「輝虎」書状【花押e1】)。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『越後入廣瀬村編年史 中世編』

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