越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

上杉輝虎(謙信)と蘆名盛氏(止々斎)が交わした或るひとつの盟約

2014-08-06 18:50:54 | 雑考

【史料】
   尚々、下衆廿九日風雨之きらいなくうちこし申へく候由、いかにも/\きふく可申付候、
今度当方不安弓矢にて候間、下衆こと/\くまかり立へきの由、可申付候、然者小田切左馬助子すいばらの名代つき候とて越後へうちこし候由呼候、当方のもの越後へうちこし候事ハ、謙信代よりきふく申あハせ、たかいにこさす候、せひうちこし候ハヽ、くちおしかるへく候、ゆくゑのためにて候間理候、かしく、



 ここに挙げた書状は、年月日、発給者、受給者が何れも不詳である。しかし、「小田切氏文書」にまとめられて伝来した経緯から考えて、陸奥国の大名である会津蘆名氏(盛氏の養嗣子である盛隆か)が族臣の赤谷小田切氏(会津領越後国赤谷の領主)に宛てたものと考えられる。

 その内容は、会津衆の小田切左馬助(赤谷小田切氏の一族か)の息子に、越後奥郡国衆の水原氏の名代(家督)を相続させることが内定するも、かつて謙信(輝虎)と固く取り交わした約束により、会津と越後の間では養子縁組が禁じられているため、蘆名氏(盛隆か)から異議が唱えられた、というものである。

 よって、このように上杉輝虎(謙信)と蘆名盛氏(止々斎)の代から両家の間では養子縁組を禁じる約束が固く取り交わされていたことが分かる。

 ところで、この水原氏の家督相続については、天正10年に水原平七郎満家が戦死してから、文禄3年に上杉景勝の重臣である大関常陸介親憲が水原氏を継ぐまでの間、水原氏の当主は誰であったのか、はっきりしないため、あのような蘆名氏の異議にも係わらず、小田切左馬助の息子が水原氏に入嗣したのだろうか。

 もし、この通りであれば、上杉輝虎と蘆名盛氏の後継者である上杉景勝と蘆名盛隆の代に入って、越後奥郡国衆の新発田因幡守重家の反乱が勃発し、天正10年9月の上杉景勝による新発田攻略の失敗に伴い、同10月4日の新発田勢による新発田城郊外の法生橋での追撃戦へと移り、景勝に従った水原満家らが戦死すると、新発田重家は、隣荘の水原城を奪取していることから、その後、親しい関係にある赤谷小田切氏から水原氏の後継者を迎え入れようと図ったのであろう。或いは、天正11年(15年とも)5月13日の上杉景勝方による水原城の奪還後に、景勝が赤谷小田切氏に申し入れた可能性もある。


『新潟県史 資料編4 中世二』 1671号 某書状 『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2445号 斎藤朝信等五名連署状(写)、2783号 安国寺建松書状、3582号 上杉景勝朱印状 『新潟県史 通史編2 中世』 『越後入廣瀬村編年史 中世編』 『戦国人名辞典』(吉川弘文館)
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「河野衆」

2014-08-01 15:50:08 | 雑考

【史料】小笠原貞慶宛織田信長朱印状
去秋爰元滞留之由候、御存分委細承候了、勢州河中為退治在陣之砌、取紛、不遂面謁候、意外候、仍新田表謙信出馬候由候、双方備之体、為可承以飛脚申候、可被相達候、河野衆方謙信与和与之儀、可有如何候哉、対一味者尤可然候由、即此方へも可通之旨候条、為自他可令馳走候、第一甲州之儀、可及行之間、其余情旁以可然候、信州も謙信於相談者、即時可為本意候、彼是無事珍重、大坂之儀、寺内一所ニ追入候、如何様不可有幾程候、然者即、駿・甲・信発向利運勿論候、幻庵・北条助五郎・北条左衛門大夫書状遣候、御馳走簡要候、恐々謹言、
    二月十日        信長  朱印 
    小笠原右近大夫殿



 この【史料】は、諸資料が年次未詳としている小笠原貞慶(もと信濃守護職・小笠原長時の子)宛織田信長朱印状写であり、粟野俊之氏は論著の『織豊政権と東国大名』(吉川弘文館)の「第一章 織田政権と東国 第一節 織田政権の東国政策」と「第三章 戦国後期の東国と織田・豊臣政権 第一節 小笠原貞慶考」に於いて、織田信長の伊勢国長島在陣の記事などから天正3年に比定されている。

 ところで、上杉謙信と和与を結んだのち、更に織田信長とも修好を図ろうとしている「河野衆」とは、一体どのような勢力であろうか。

 当時、上杉謙信が和与を模索していた相手といえば、天正2年閏12月の下総国関宿城の救援失敗によって袂を分かった「東方之衆」の佐竹氏・宇都宮氏・太田氏らであり、断交から間もなくして謙信は、宇都宮広綱の妻(佐竹義重の妹)を通じ、彼らとの関係修復を図っている。そして、天正3年11月に織田信長が東国各地に派遣した小笠原貞慶を介し、佐竹義重らと初信を通じているので、「河野衆」とは「東方之衆」を指すのではないだろうか。

 もしこれが正しければ、管見の限り、佐竹氏ら「東方之衆」が「河野衆」と呼称された用例を見出せないので、この朱印状が認められた際の誤記か、もしくは写し取った際の誤写である可能性が高い。


『横須賀市史 資料編 古代・中世Ⅱ』2535号 織田信長朱印状写 『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』1238・1239号 上杉謙信書状(写)
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